松田青子,2013,スタッキング可能,河出書房新社.(8.28.24)
松田青子さんの作品は、「フェミ文学」と言う枠に収まりきれない魅力に満ち溢れている。
松田さんは、ポップでクールな文体で、思いっきりシュールな世界を垣間見せてくれる希有な作家だ。
それでも、醜悪なオヤジ社会を痛烈に皮肉る、その感性にとても惹かれてしまう。
学生時代の夏合宿の夜、『わたし』がオセロで勝つと、負けず嫌いだなあと言った同じサークルに属していた男。どうして普通にオセロをしていただけで、そしておまえに勝っただけで、負けず嫌いになるのか。おまえがオセロ弱いだけだろ。お好み焼き屋で、『わたし』が率先して取り分けないと、えっ女のくせに取り分けないなんてびっくりしたと言った、同じゼミに属していた男。論外。そいつの一言に普通に意見を言おうとしただけなのに、まあまあ、怒らない、ムキにならないとなだめてこようとしたバイト先の男。女が言い返すとは、自分と違う意見を返そうとするとはつゆとも想定したことがない男。そういう女が全員怒っているように見える男。それでむしろムキになってるのはそっちだろとツッコミたくなるほどつっかかってくる男。妙にボディタッチが多く接近度が高い男。どこにでもいた。似たようなのがどこにでも。
(p.16-17)
そうですかそうですか、男っぽくないですか。自分たちと一緒になって女の話をしない男は皆ゲイですか。女が好きでも、女の話をしない男がいたらおかしいですか。自分たちにやさしくない女は皆レズビアンですか。ふざけんな。ふざけんな。
B山はいつも腹が立っていた。こいつらはなんでいつも何の疑問もなく自分たちが普通だと、自分たちがデフォルトだと信じ込めているのか。ただの脈々と続いてきた空気でしかないものを分厚い百科事典でもあるかのように鵜呑みにしていられるのか。ありもしない辞書を信じていられるのか。しかし自分たちが世界標準だと思っているやつに何を言っても無駄なことは火を見るより明らかで、それがさらに嫌になった。この世界、居心地が悪すぎる。馬鹿みたいにつるんで女の話をしたくないのは、人の噂をしたくないのは、それはB山のただの性格だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。だけど彼らはほっておいてくれない。だからB山はいつも祈っていた。ほっといてくれ。俺のことをほっといてくれ。ほっておいてほしい人たちをほっといてくれ。
しかし彼らは意図が不明なほどほっといてくれないのだ。B山がいくら年をとっても、どこに行っても。彼らから見て道をはずれている、おかしい、と感じた人を見つけると、彼らは黙ってはいられない。そのだらしないお口を閉じていられない。
(p.44)
初期の作品ゆえ、直近の作品のような、緻密に計算された完成度はない。
それでも、だれしも、だれにも真似できない、この独特なワンダーランドに引き込まれてしまうだろう。