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本と音楽とねこと

この顔と生きるということ

岩井建樹,2019,この顔と生きるということ,朝日新聞出版.(9.4.24)

僕の息子は、顔がゆがんで生まれた──。顔の変形やアザ、マヒなど特徴的な外見のため、学校や恋愛、就職で困難に直面した人々を描くルポ。筆者の長男も、顔の筋肉が少なく、笑顔をうまくつくれない。悩める記者が見つめた、当事者の未来。

外見の悩みとどう向き合う?どんな顔でも幸福な人生をおくるために。見た目の悩みに直面した人々の人生をたどるルポルタージュ。

 顔面に障がいを負った人びと・・・と言っていいのだろうか、究極のスティグマを負った当事者たちの言葉がぐさぐさ刺さる。

 海綿状血管腫により右の顔が腫れ上がった藤井さん。

 就職してから4年後に、医学系の大学に入り直し、看護学を学びました。博士となり、大学の教壇に立ちました。授業では、医者の卵たちに自分の体験を伝え、どう心のケアをするべきか議論してもらいました。
 医療や教育の世界で、障害のある人がどんどん働くことは大切なことだと思います。外見に症状がある人が教師になれば、存在そのものが、子どもたちに多様性を尊重する大切さを伝えることになります」
(p.72)

 ほんそれ。
 大切なのは、当事者たちが、電車、バス、学校、職場、街頭などにふつーに存在する、できるよう、惜しみなく支援、応援することだ。

 「気分の浮き沈みはあります。突き刺す視線にはストレスを感じますし。電車で私の隣に座った人が私の顔を見て、ほかの空いている席に移ることが今もあります。
 『顔のことくらいでガタガタ言うな。もっとつらい病気や障害の人はいる』との批判もさんざん耳にしてきました。しかし、つらいものはつらいのです。
 私のような顔を見て、悪気はなくても驚いたり、違和感や嫌悪感を覚えたりするのは仕方ないことだと思います。感情を抑えることはできませんから。でも、理性があるわけだから、その感情を表情や行動に出すことはやめて下さい。
 私が小学校で講演を繰り返すのも、教育の力を信じているからです。子どもたちに『人と違う見た目の人も世の中にいる』と知ってもらいたい。そうすれば、驚きや戸惑いも減ると思います。車いすの人や外国人を見ても、何とも思わないのは、その存在を見慣れたからではないでしょうか」

 自尊心の大切さを、藤井さんは強調します。
 「母親は近所の家を一軒一軒回って、『うちの子を励ましてやってほしい』と声をかけてくれました。そんな両親に大切に育てられ、自尊心が育まれていきました。つらい体験をするたびに、自尊心も削られていきましたが、最後に倒れずに済んだのは、子どもの頃の自尊心の貯金があったからだと考えています。
 両親は、『コブはあなたの宝物。自分の顔に誇りをもって生きなさい』と言ってくれました。両親の言葉は本当だったと実感しています。
(pp.72-73)

 アルビノの藪本さん。

 最後に、「髪の色をどんなに周りから否定されても、黒く染めなかったのはなぜですか」と尋ねると、薮本さんはこう言いました。
 「仮に面接のために黒く染めて入社したら、そのままずっと黒くしないといけない状況が続くかもしれません。私の性格上、それはプレッシャーを感じると思います。染めないでいたほうが、気持ちが楽です。
 社会に対する、私なりの反骨精神なんだと思います。マイノリティーに生まれたがゆえに、マジョリティーの常識や圧力に反発を感じてしまうと言うか・・・・・・。差別から逃れるために、生まれたままの髪の色を自ら否定するということができませんでした。子どものわがままだと言われるかもしれませんが・・・・・・。
 アルビノの人が髪を黒く染めるかどうかは、本人の意思が何より大事だと考えています。だから就職活動のために染めるアルビノの子がいても私は否定しません。自分の精神安定のために黒く染める人もいます。
(p.91)

 軟骨無形成症のちびもえこさんは、「小人(「こびと」で変換されない・・・いいかげんにしろよポリコレ)バーレスクダンサー」だ。

 かつて〝小人プロレス〝というエンタメがありましたが、「彼らを見せ物にするのは失礼だ」という声もあり、衰退したとも言われています。こういった風潮に、ちびもえこさんは「負けてほしくない」と同士としてエールを送ります。
 「自分たちがやりたくてやっていることに対して、それを不謹慎というのは違うのではないでしょうか。やっぱり、私たちのような存在を表舞台から隠したいんだろうなって思います。嫌なら見なきゃいいだけなのに」
今は会社の事務職として働きながら、月に一度のペースで、バーレスクダンサーとして活躍するちびもえこさん。(p.158)

 わたしが子どものときは、TVで小人プロレスの試合を放送していた。
 「不謹慎」って、その人たちの姿を隠蔽する方が不謹慎だろ。

 他者の外見について評価することはとても失礼なことだ。
 それは、外見にスティグマを負った当事者に対しても同じだ。

 矢吹さんは、アルビノの人が自らを「美しい」と言うことは「かわいそうと見なされることへの対抗戦略」として否定しません。また「矢吹さん、格好いい」と個別に評価するのは、本人がそう言われることを望んでいるのであれば問題ないと言います。
 ただ、アルビノであるがゆえの苦労話を語っている途中で、「でも、きれいじゃん!」と言われると釈然としないと言います。「でも」という逆接の接続語で、苦労話が打ち消されてしまうからです。
 矢吹さんは言います。「いろいろ大変な思いをしていることに目を向けず、『アルビノ=美しい』と一般化されると、アルビノであることに悩むこと自体、否定されてしまいます。美しいという役割を課し、大変さを語りにくくさせるなら、それは「感動ポルノ』と同じです」
 僕も取材を通して感じていることですが、アルビノの人々も多様です。アルビノであることを前向きにとらえている人もいれば、生きづらさを感じている人もいます。差別体験についても人それぞれ。白い外見への受け止め方も違っており、「美しい」と言われて、うれしい人もいれば嫌な人もいると思います。「アルビノ=美しい」と一般化して語るのは無理があると、僕も思います。
(pp.169-170)

 単純性血管腫の石井政之さん。

 ユニークフェイスは、当事者が悩みを語り合う交流会や、アザや傷を隠すメイク勉強会などを開催。講演やメディアを通し、顔への差別を巡る問題を訴えました。
 「講演を聴いた人から、『見た目の悩みなんて、たいした問題ではない。大切なのは、顔よりも心だ』と言われることがありました。
 私は聞き返しました。「では、顔半分にペンキを塗って街を歩けますか?もし娘さんの顔に大きなアザがあったら同じ言葉を言えますか?もし配偶者にアザがあったら結婚していましたか?』。自分事として考えたとき、問題の深刻さがわかります。
(後略)
(p.184)

 学校は勉強するところだし、職場は仕事をするところだ。
 一緒に勉強したり仕事するのに、外見は関係ない。

 わたしたちは、他者に失礼にならないように、「儀礼的無関心」を装う。
 それは、他者が外見にスティグマを負う人であっても同じだ。

 「当事者と、どう接すればいいのだろう」。そんな思いを抱く人もいるでしょう。一つのヒントとなるのが「好意的な無関心」です。ある当事者から聞いた言葉です。僕なりに解釈するなら「好奇の視線を向けない。でも無視はしない」という姿勢です。難しく考えず、普通に接すればいいのではないでしょうか。
(pp.196-197)

 と、本書を読んでつらつら考えたことは、ずいぶんと年齢を重ねて思い至ったことだ。
 中学、高校と、当事者にこころない言動をしていたのではないかと思うと、こころが痛い。

 無知は罪だ。
 つくづくそう思った。

「顔の差別で人は死ぬ」あざ・まひ・傷の痕…ユニークフェイスの闘い

顔の変形に悩む人々、「脱マスク社会」に抱く〝怖さ〟 安心感が一転

マイフェイス・マイスタイル

目次
第1章 生きづらさの海の中で
第2章 学校生活という試練
第3章 どんな顔でも自由に働きたい
第4章 誰かを好きになったら
第5章 見た目を武器にする
第6章 視線という暴力
最終章 この子の見た目を愛するということ


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