まだまだ暑い日が続いているが、夜明けの空は少し秋めいてきた。
イワシを水槽の中に3000匹入れた展示が動物虐待だといわれて議論を呼んでいる。
かと思えば、イワシをギリギリまで生かしておいて、食べる直前に殺して天ぷらにするという高級料理屋とそこに卸す魚屋がテレビで流されていた。
どこかの神社で急坂を馬に登らせる神事で、転んで骨折した馬が、殺処分になったというニュースがあった。
どれは動物虐待で、どれは許されるのだろう。
日本動物福祉協会というところのHPを読むと、”【動物虐待】とは「動物に不必要な苦痛を与える事」つまりは、「動物の心身に肉体的な苦痛・精神的な苦痛・多大なストレス等を与えること」です。”とある。
デカルトによれば、人間以外の動物には心がなく、機械的な運動をするだけの存在ということで、そう考えている人にとっては動物虐待という概念そのものがないだろう。
そこまで極端でないにしても、家畜ならばある程度の苦役をやらせてもいいぐらいに考える人はいるだろうし、鳥、豚、牛などは毎日大量に殺している。
私は、人間以外の動物にも生きる権利があって、それは尊重されなくてはならない。
生きる権利がある、というのは人間が生物の頂点にあるからではなく、それぞれの生命というものがとても精巧に作られていて、その生殺与奪の権利がほかの生物にあるわけではないということだ。
それでも、人間である私は、他の生物の命を日々いただいて生きている。
動物虐待の問題、答えは簡単には出ないだろうし、私自身答えなど見つけようがない。
それにしても、人間さえいなければ虐待だの、無駄な殺生だのないわけで、つくづく地球にとって邪魔な存在なのだと自己嫌悪すら感じてしまう。
それでも生きている
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何をもって虐待と言うのかはとても難しいのですが、少なくとも、人間がこんなことをされたらイヤだろうなということは、決してやるべきではないんだろうと思っています。
>それぞれの生命というものがとても精巧に作られていて、その生殺与奪の権利がほかの生物にあるわけではない
私もこの通りだと思います。
本来、一つの命が他の命を奪うのは、その命を繋ぐためだけに許されることなのかなと、私は考えています。
頂点だから何をしてもいいということは絶対にはないと思いますし、そもそも、頂点というのが優劣を前提にしたものであるならば、人間は決して生物の頂点ではないと思います。
今の地球の危うさは、多くの人がこの考えを信じていることに根本の原因があるように思います。
この考えを捨てない限り、人間は「地球にとって邪魔な存在」のままありつづけ、いずれは排除されるのかなと思います。
地球の生物の中での人間の立ち位置というのをより深く考えなくてはいけませんね。
こういうことを言うとまともに取り合ってくれない人が多いのはなぜでしょう。
どうしてちっとも考えないのでしょうか。