平野啓一郎の同名の小説は未読である。したがつて、この映画が原作通りであるのかどうかは分からない。あくまでも映画の感想である。
宮崎県のある文房具屋に、スケッチブックを買ひに男がやつてくる。温泉旅館の次男坊といふことらしいが、兄と折り合ひが悪く故郷を離れ、この地にやつて来た。仕事は木を切り出す林業である。仕事の休みの日には風景画を描いてゐるらしい。そのために何度もこの文房具屋を訪れる。さうかうしてゐるうちに、文房具屋の女性と恋仲になり結婚。娘が生まれる。ところが、ある日木を切り出す仕事をしてゐる最中に不慮の事故で亡くなつてしまふ。
話はここから急展開。葬儀にやつて来た男のお兄さんは遺影を見て、「これは弟ではない」と言ふ。ではいつたい誰なのか。
文房具屋の女性は、じつは離婚歴があり、その折に世話になつた弁護士に相談する。そして、その弁護士が「男」の過去を調べていく。
男には、隠したい過去があつたのだ。それが一枚一枚襞(ひだ)をはがすやうに解明されていく。そこには、弁護士の隠したい過去も重なり、複雑である。詳細は省くが、このことは小説では十分に意味を重ねることは可能であるかもしれないが、映画となるとノイズのやうにも思へて話がやや拡散してしまつた。それは残念である。また「ある男」の正体を追つて行く中で、別の「ある男」のことも明らかになり、本来なら偶然に過ぎない名前と存在との関係(例へば私が前田家に生まれたから前田といふ姓を名乗つてゐるに過ぎない)が、じつはその関係は逆転してゐて存在が名前によつて保証されてゐるといふことに弁護士も見てゐる私たちも気付かされることになる。しかし、そのことに気付かない(名前と存在など考へなくてよい)幸福な人からは、それが異常な関心に思へてしまふ。つまり、弁護士とその妻との関係に亀裂が入る。幸せな家庭が、静かに引き裂かれていくなかで、「ある男」の正体が明らかにされ、事件は片付いて行つた。
このことが残す余韻は、複雑で、決して心地よいものではないが、後味が悪といふ訳でもない。
生きてゐる過程でどうしても隠してしまひたい過去を抱へてしまへば、人は「ある男」にならざるを得ない。そして、ささいなことであれ過去を書き換へるやうに生きるといふことは、誰もがしてゐることであらう。いや、書き換へてゐることすら気づいてゐないのが私たちである。この映画が決して心地よいものではないが、後味が悪い訳でもないのは、さういふ生き方しか私たちはできないといふことなのかもしれない。
いやいや私は正直に生きてゐる、と言ふ人がゐるかもしれない。しかし、そんな人こそ「ある男」なのである。
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