御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
徳川家臣団の屋敷跡巡りの続きです。尾張町公会堂付近には松下之綱の屋敷跡松下之綱天文6年生まれ。松下長則(ながのり)の子。今川氏に属し遠江(静岡県)頭陀寺(ずだじ)城主。このころ日吉丸(のちの豊臣秀吉)が3年間之綱につかえている。のち徳川家康,秀吉につかえ,天正18年遠江久野(くの)1万6000石の城主となる。慶長3年2月29日死去。62歳。三河(愛知県)出身。通称は嘉(加)兵衛。(コトバンクより)「おんな城主直虎」では、悪役に...
徳川家康在城期の徳川家臣団居住区は、浜松城を取り囲むように設定されていました。鴨江観音堂の北築地跡、現在の浜松西小学校付近には、鵜殿兵庫頭の屋敷跡の標柱が立っています。鵜殿兵庫頭鵜殿氏長(うどの うじなが)天文18年生まれ。鵜殿長照の子。今川氏真の家臣。父とともに三河(愛知県)上之郷(かみのごう)城をまもる。永禄5年徳川家康の家臣,松平清善に攻められ捕虜となる。今川方と徳川方の人質交換で氏真のもとにもどり,...
地域タグ:浜松市
豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣家を擁護する石田三成が対立。家康が上杉征伐(会津征伐)を企てると、石田三成は、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名を大坂城に集結させました。家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。三成は家康が会津攻めに赴いた隙に、大谷吉継や毛利輝元らを集めて挙兵。伏見城を落とし...
地域タグ:大津市
豊田市の隣松寺の裏手には、鴛鴨(おしかも)松平氏墓所があります。この地もかつては隣松寺の敷地内だったそうです。榊原康政の祖父・榊原清長・父・榊原長政の墓や、松平忠久の娘である於美津(おみつ)(東条松平家忠の妻で、松平忠吉の養母になった)の墓があります。鴛鴨松平氏は、松平家三代当主・信光の子である親光を初代とし、鴛鴨城を拠点としました。親光の後は、親康、親久、忠久と続きました。永禄6年(1563)上野城(豊田...
地域タグ:豊田市
隣松寺は、鴛鴨松平家(寺から北に約1㎞に居城・鴛鴨城跡)の菩提寺であり、隣松寺の墓地には、鴛鴨松平家の墓、家康の四男・松平忠吉の墓、内藤家の祖先・内藤清長の墓、室町時代の細川家三代の墓などが並んでいます。細川家三代墓所細川家三代とは、初代の細川義季とその弟の戸賀崎義宗、2代細川俊氏、3代の細川公頼のことをいいます。内藤清長の墓内藤清長は、家康の祖父・松平清康、家康の父・松平広忠に仕えた上野上村城主です...
地域タグ:豊田市
豊田市の隣松寺もまた徳川家ゆかりの寺として知られています。仁王門仁王像山門稲荷社境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。家康は三河一向一揆の際、一向一揆の際に、酒井忠尚の居城・上野城めの本陣とし、稲荷社に戦勝祈願しました。勝利した後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進したといい...
地域タグ:豊田市
天正18年(1590年)佐和山城主となった石田三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行い、山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、人をして「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめました。三成は伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であったといいます。慶長4年(1599年)大老・前田利家が病死すると、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福...
地域タグ:彦根市
※本日の紀行で紹介されましたので、再掲します。まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている米原市の観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂...
地域タグ:米原市
※本日の紀行で、石田三成の生誕地・長浜の石田会館が紹介されましたので、まとめ直しました。長浜駅から、湖国バスで約20分、石田で下車。石田三成生誕の地・石田町を歩いてみました。バスを降りたところで、「三献の茶」の三成さまを発見!ここから南へ50mほど行くと、右手に石田三成出生地があります。三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルが展示されています。「石田治部少輔出生地」と刻まれ...
地域タグ:長浜市
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。指...
上野城跡から南に300mほど行った天道院の前にも榊原康政生誕の碑があります。この石碑は大正6年(1917)に建てられたもので、もとは上郷町会下山にあったそうです。会下山には、上野下村城がありました。康政の祖父・榊原清長が城主だったとも内藤清長が築城したとの説もあります。榊原清長は、伊勢国一志郡榊原より三河に移り、酒井忠尚に仕えました。一方、内藤氏代々代々松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄です。清長は、...
地域タグ:豊田市
豊田市上郷町は徳川四天王の一人である榊原康政生誕の地とされます。上郷町には、2つの榊原康政生誕地の石碑が存在し、そのひとつが上野城跡にあります。愛知環状線「三河上之郷」から550mのところにある上野城跡は、現在は上野護国神社と城山稲荷となっています。城山稲荷社上野城の遺構は、社がある高台のみです。 1400年代半ばごろ、戸田宗光が築城したと言われています。宗光が渥美半島に移った後は、阿部氏が治めていまし...
地域タグ:豊田市
豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として、畿内を中心に寺社の修復・造営を行いました。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼったといいます。今まで撮影した画像をまとめてみました。東寺南大門東寺金堂醍醐寺金堂熱田神宮石清水八幡宮北野天満宮等持院鞍馬寺由岐神社の本殿と拝殿金戒光明寺の阿弥陀堂真如堂の本堂相国寺の法堂寂光院の本...
地域タグ:京都市
1160年(永暦元年)、後白河法皇が院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、もとは智積院南側に創建したのが始まりです。その後社地は転々としており、江戸時代になって豊国廟社が壊されたのと同時期に旧廟前に移り、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された1897年(明治30年)になってからです。1958年(昭和33年)後白河天皇を増祀し、1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改めました。楼門江戸時代には、豊臣家や豊臣...
地域タグ:京都市
慶長三年(1598年)に豊臣秀吉の遺体を東山の阿弥陀々峰に葬り、翌年に社殿が山腹に創建されましたが、豊臣家滅亡後に徳川家により取り壊され、現在の豊国神社の社殿は1880年(明治13)方広寺大仏殿跡地の現在地に再建されたものです。旧福岡藩主の黒田長成侯爵が中心となり境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられました。豊国神社豊臣秀吉を祀る...
地域タグ:京都市
慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は、醍醐寺諸堂の再建を命じ、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて、秀頼や奥方たちと一日だけの醍醐の花見を楽しみました。しかし、5月より秀吉は病に伏せるようになり、次第に病状は悪化。徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、自身を八幡として神格化するこ...
地域タグ:京都市
京都の豊国神社門前にある古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられた塚は、耳塚と呼ばれています。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を削ぎ、腐敗を防ぐため、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った塚で、2万人分の耳と鼻が埋められているといいます。昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として、国の史跡に指定されました。当初は「鼻塚」と呼ばれていましたが、...
地域タグ:京都市
慶長伏見地震は、1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)子の刻に現在の京都・伏見付近で発生した大地震で、京都では伏見城や東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられています。完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われています。伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元...
地域タグ:京都市
京都市中京区木屋町三条の瑞泉寺1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺です。文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、聚楽第の秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛らが訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促します。秀次は釈明の為に、秀吉のいる伏見城へ向かいますが、福島正則らに遮られ、秀吉に会うことは叶わず、同日高野山へ入ります。それから1週間後、秀次のもとへ...
地域タグ:京都市
大坂の玉造稲荷神社は、垂仁天皇18年(紀元前12年)創建されたと伝えられています。戦国時代の戦火により荒廃しましたが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建されました。大坂夏の陣で、社殿は再び焼失しましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建されました。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称し、江戸時代には伊勢参りの出発点とされました。「玉造」という名は、鎮座...
地域タグ:大阪府
宮島の大聖院は、寺伝によれば、大同元年(806年)に弘法大師空海が唐からの帰途、弥山を開基して以来1200年の歴史をもつといいます。天下統一を果たした豊臣秀吉がここで盛大な歌会を催し、祈不動堂を再建して念持仏の波切不動明王を奉納したことでも知られます。本堂は、鳥羽天皇の勅願道場として創建されたことから、鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都の仁和寺や歴代皇室との結びつき深く、明治天皇の厳島行...
地域タグ:宮島
滋賀県大津市坂本の律院は、比叡山延暦寺の里坊です。元々は、横川の総里坊であった松禅院があった場所で、山門、石垣の高さにその格式の高さを感じます。かつて松禅院と呼ばれていた当地は、大正末期に民間の手に渡り、荒廃していたのを、昭和24年(1949)戦後初の千日回峰行者、叡南祖賢(えなみそけん)師が再興。寺号は祖賢師が当時、安楽律院の管領を務めていたことに由来するそうです。庫裏本堂本堂は、豊臣秀吉の側室・淀殿が...
地域タグ:大津市
秀吉が鶴松の菩提を弔うために建立した智積院の前身「祥雲禅寺」
智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。鶴松を亡くした豊臣秀吉の嘆きは大きく、鶴松の菩提を弔うために、京の東山に祥雲禅寺(臨済宗)を建立しました。しかし、その後、豊臣家を滅ぼした徳川家康は、この寺をかつて秀吉と対立した紀州・根来寺の僧に与え、五百佛山根来寺智積院(真言宗)としました。真言宗智山(ちさん)派の総本山で全国...
地域タグ:京都市
滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあり、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされてい...
地域タグ:滋賀県
鈴木家屋敷の東側にある甘露寺は、寺伝によれば、弘仁13年(822)に真言宗寺院として創建され、その後平重盛によって七堂伽藍が造営されたといいます。明徳元年(1390)に仲翁が臨済宗に改宗し、奥山方広寺の末寺となりました。応仁の乱で全焼、江戸末期には中門と楼門を残して焼失しました。徳川家康が阿茶局を連れて、この寺を訪れ、本堂前の梅を「未開紅甘露梅(いまだひらかずかんろのこうばい)」と名づけて観賞したという伝承が残...
地域タグ:浜松市
徳川家康の側室・阿茶局は、於愛の方の死後に、徳川秀忠と松平忠吉を養育し、大坂冬の陣の和議にも貢献した女性として名を残しています。その阿茶局を預け、家康も度々訪ねたという旧鈴木家屋敷跡は、浜松市東区中郡町にあります。中郡町周辺は、古くからの稲作地帯で、万斛(まんごく)と呼ばれ、今でも字名(あざな)にその名称が残っています。家康が遠江に侵攻してきた際、米の石高である(万石)と同音であることから縁起の良...
地域タグ:浜松市
小田原駅から数分のところに北条氏政・氏照の墓所があります。北条氏政後北条氏の4代目。父は北条氏康。1554年相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(武田信玄)の娘を正室として迎えた。1559年に氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に努めたが,豊臣秀吉による小田原征伐で数ヵ月の籠城の末に降伏して切腹,北条氏による関東支配を終結させる最期になった。北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿...
地域タグ:小田原市
帰りは、行きと違うルートで、銅門から退城しました。銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由...
地域タグ:小田原市
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御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
宇治駅の近くにある東屋観音に「東屋」の古蹟があります。浮船の母は今は常陸介の後妻になっていた。浮舟には左近少将という求婚者がいたが、少将は、浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまう。この破談に浮舟を不憫に思った母は、縁を頼って二条院にいる中君に預けることにした。ある夕暮、ふと匂宮は、西対にいる浮舟を見て、その美しさに早速言い寄った。驚いた母は、娘の行く末を案じ、三条あた...
彼方神社の脇に「椎本」の古蹟があります。春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばせた。薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれて...
京都翔英高等学校の近くに「蜻蛉」の古蹟があります。源氏物語宇治十帖(五) 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙に暮れたが、思いはそれぞれ違っていた。 実情を知った薫君は、自らの志の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。 六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のため...
早蕨の古蹟からさわらびの道を進むと宇治上神社があります。さらに進んで行くと、与謝野晶子没後50年と宇治市制40周年を記念して建てられた与謝野晶子の歌碑があります。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、源氏物語 にひかれ紫式部を師と仰ぎました。そして源氏物語の現代語訳に力を注ぎ、五十四首の詠歌で再構成した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮したといわれています。歌碑には宇治十帖の十首が晶子の真筆...
宇治駅から三室戸寺からに向かう交差点の近くの歩道に「手習」の碑があります。薫27歳から28歳の夏にかけての話。匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護の...
現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。藤原道長の日記『御堂関白記』には、寛弘4年(1007年)道長が、曲水の宴を土御門殿で主催したとあります。平安時代のこの辺りは、公家の屋敷や寺院が建つ土地で、東側には紫式部の邸宅跡・廬山寺、その南の鴨沂高校の辺りには、道長が創建した法成寺もありました。寛仁2(1018)年10月16日、道長の「御堂関白記」に和歌を詠んだ記載があり、その歌...
曲水の宴は、(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))は、庭園の曲水に沿って参会者が座り、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を詠み、杯を手に取って酒を飲んでから杯を次へ流すという遊びで、もとは中国で行われたものです。奈良時代には宮廷行事として確立していたとみられ、平城天皇の代に一時中止されましたが嵯峨天皇により復活。平安時代には宮廷や貴族の邸宅などでも行われるように...
平安時代中期、奈良の興福寺別当であった定澄(じょうちょう)。壬生氏の生まれで左京の人。延喜19年(919年)17歳で得度し、仁和寺別当・寛空、興福寺別当・空晴に学ぶ。興福寺に籍を置き、永延2年(988年)の維摩会では講師を務めた。長徳元年(995年)権律師に任じられ、西大寺別当に就任[3][4][1]。長保元年(999年)興福寺権別当となり、翌年には正任の別当に転じ、権少僧都となって龍蓋寺・龍門寺の別当職も兼任した[5][6][7...
三室戸寺の鐘楼の脇に「浮舟」の碑があります。これは、寛保年間に「浮舟古跡社」を石碑に改めたものです。その際、古跡社のご本尊「浮舟観音」は当山に移され、浮舟念持仏として、伝えられています。正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君に匿われて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ、薫君の風を装って忍んで行く。浮舟が...
百人一首は、800年前に藤原定家がここ嵯峨嵐山で優れた和歌を撰んだことから始まると伝えられます。2006年1月から2017年3月まで営業していた百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月1日に「嵯峨嵐山文華館」としてリニューアルオープンしました。常設展では百人一首の歴史やその魅力を伝える展示が行われています。1F 常設展百人一首の歌かるたは江戸時代の初期に誕生。当初は貴族や大名の嫁入り道具の1...
清涼寺から西に約5分、二尊院門前北中院町の通り沿いに、地蔵尊が祀られており、その横に「中院山荘跡」の駒札があります。鎌倉時代のはじめ、僧・蓮生の中院山荘がありました。蓮生の出家前の名は、宇都宮頼綱といい、歌人としても著名で、藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築きました。『英雄百首』(歌川貞秀画)宇都宮頼綱鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に...
二尊院は、平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したとされています。総門慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものと伝わっています。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦などが施されており、室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅...
小倉山山腹に位置する常寂光寺にも、藤原定家の小倉山荘跡と伝えられる場所があります。 常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創されました。山門江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。仁王門仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺...
『源氏物語』は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品です。平安中期、宮仕えで宮中の内情にも精通した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して、当時の貴族社会を描きました。『源氏物語』の原本は、今は残されていませんが、現存する最古の写本は、鎌倉時代に藤原定家(ふじわらのさだいえ)が残したものであるといわれており、定家の写本は、以後『源氏物語』の主流となり、広がっていきました。また、定家が京都小倉山の山...
名和児童公園の前に一条院跡の案内板があります。一条院跡は、もと藤原伊尹(これただ)の邸宅で、その異母弟為光から藤原詮子に伝えられ、のち一条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の里内裏となりました。紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えていた期間は、ほとんど一条院が皇居となってします。ゆえに『紫式部日記』で描かれる内裏は、一条院のことと考えられています。一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅で、一条天皇...
紫式部は、長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始めたとされています。のちに藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮・道長の長女である藤原彰子に女房として仕えることに。女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされています。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、この間、道長の支援のもとで『源氏物語』を完成させています。『源氏物語』の執筆地として有力なのは石山...
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻橋は、「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、安倍晴明の父である安倍保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。安倍保名 あべの-やすな古浄瑠璃(こじょうるり)「しのだづま」の登場人物。摂津阿倍野(大阪府)の武士。和泉(いずみ)(大阪府)の信太(信田)(しのだの)森で陰陽師(おんようじ)芦屋道満の弟...
仁王門から本堂までの399段の長い登廊を上りきり、やっと長谷寺の本堂に到着。小初瀬山の斜面に建つ国宝の本堂は、慶安3年(1650)、徳川家光により造営された大殿堂。10mを越す本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、本尊を参拝する礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっています。ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ長谷寺式十一面観世音菩薩...
まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなります。当寺は、鷹狩で立ち寄っ...
石田会館に向かう道を左に曲がると、八幡神社があります。石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。 本殿 三成の辞世の歌「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」三成の自筆による歌「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」 墓石出土跡昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れる...
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。 三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、...
次回9月17日の「どうする家康」予告を見ると、いよいよ石田三成が登場するようです。そこで、過去の記事より、「石田三成生誕の地」を紹介します。長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年...
静岡大河ドラマ館の中を進んで行きます。次は、メインキャストの衣装展示です。今川氏真役:溝端淳平さんの衣装徳川家康(松平元康)と瀬名の婚礼衣装今川義元の衣装続いて、メインキャストの紹介です。徳川家康と瀬名織田信長本多正信、松平信康、今川氏真静岡浅間神社の模型古くから駿河国総社として歴代幕府の崇敬を受けて信仰され、竹千代(家康)が元服式を行ったことから、江戸時代には特に徳川氏の崇敬を受けました。神部(か...
臨済寺の特別拝観の日に、静岡大河ドラマ館も見学してきました。これで、岡崎、浜松、静岡の三つの大河ドラマ館を制覇したことになります\(^o^)/静岡大河ドラマ館は、徳川家康が元服式を行った静岡浅間神社の境内に建てられています。では、記念すべき第1回に登場した小物を振り返ってみましょう!実際撮影で使用したものもあれば、同等品の展示もあり。「次郎三郎元信と瀬名を結ぶウサギと騎馬の人形」「瀬名が口づけした弓懸」...
回廊を通って、客殿に向かいます。客殿寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より) 句碑 星野立...
徳川家康の側室であった西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国宝飯郡の武家・鵜殿氏の出身で、西郡の方ともいいました。永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされましたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服しました。西郡局は、柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産みました。湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上...
8月29日に「秀吉時代の遺構が残る竹生島の宝厳寺」の記事を掲載しましたが、社殿修復前の2011年訪問時の褪せた色の社殿の画像でした。先日、滋賀県在住の友人が、竹生島を訪問し、宝厳寺の修復後の画像を送ってくれましたので、改めて鮮やかな色彩の宝厳寺の記事をアップします。竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より、「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立...
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
9月4日の「鶴瓶の家族に乾杯」で、於愛の方を演じている広瀬アリスさんが掛川を訪問し、事任八幡宮が登場しましたので、過去の記事より「事任八幡宮」を再掲します。事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂、旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある神社です。 式内社で遠江国一宮。創建時期は定かではありませんが、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武...
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
石川数正は、徳川家康の片腕として酒井忠次とともに活躍しましたが、小牧・長久手の戦いの後に突如出奔、豊臣秀吉に臣従しました。出奔の理由は、「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉に調略された」「松平信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていた」「徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをした」など諸説ありますが、はっきりした理由はわ...
天正14年(1586年)に入ると、豊臣秀吉は織田信雄を通じて徳川家康の懐柔を試み、妹の旭姫を正室として岡崎城に送りました。 しかし、一向に上洛の気配を見せない家康に対し、今度は母の大政所を旭姫の見舞いとして、岡崎に送りました。さすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げ、浜松を出立し、大坂に向かうことに。 この間、岡崎では、鬼作左と呼ばれた本多作左衛門重次が、大政所の世話役を務めました。剛毅...
静岡浅間神社から5分ほど北に行ったところに瑞龍寺というお寺があります。1560年(永禄3年)、能屋梵藝によって開山され、徳川家康が居城を駿府城に定めた際に寺領が与えられました。天下取りを目指した豊臣秀吉は、家康と同盟関係を築くため、天正1586(14)年、自分の妹である旭姫を、夫の佐治日向守(さじひゅうがのかみ)離縁させ、 築山御前の死後、正室を持たなかった家康に嫁がせました。同年、旭姫は、家康と共に浜松城から...
天正地震は、天正13年11月29日に日本の中部地方で発生した巨大地震です。震源や地震の規模には諸説ありますが、揺れの範囲などから見てM8.0級の巨大地震だった可能性もあり、近江の長浜城や美濃の大垣城は全壊、尾張の清洲城も半壊するなどの被害に遭いました。これにより、豊臣秀吉方は、大きな被害を受け、計画していた徳川討伐の計画を取りやめることになり、徳川方と講和への方向に傾いていきます。秀吉は、妹の旭姫を家康...
お万の方は、知立神社の神主家・永見貞英と刈谷城主水野忠政の女の間に生まれた娘で、徳川家康の正室・築山殿に仕えたとされています。後に、双子の子を授かり、家康の側室となって、双子のうちひとりの永見貞愛(ながみ さだちか)は、知立神社の神主となりますが、31歳の若さで病死しています。(『柳営婦女伝系』などでは、秀康は双子で誕生し、弟はすぐに亡くなったとされている)もう一人の結城秀康は、羽柴秀吉の養子として羽柴...
愛知県の知立はかつて東海道五十三次の宿場町でした。池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)は品川より数えて39番目の宿駅で、知立神社への参拝や馬市、木綿市などでにぎわったと言われています。宿には、宿駅業務を行う問屋場、大名・公家等が休泊する本陣のほか、庶民向けの旅籠・茶屋などが軒を連ね、池鯉鮒宿には、本陣、脇本陣が各一軒置かれていました。本陣の敷地は約二千九百坪、建坪約三百坪と広大な面積を有していましたが、明治8...
2011年9月に滋賀県長浜市の竹生島を訪問しました。長浜港から竹生島クルーズで30分で到着。この日は、朝から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でした。晴れていたら、もっとくっきりと琵琶湖が見渡せたでしょう。「延喜式」式内社の都久夫須麻神社(竹生島神社)と西国三十三所観音霊場第30番札所・宝厳寺があります。明治時代初期の神仏分離までは、宝厳寺が都久夫須麻神社の別当をつとめていました。船着場から祈りの階段と...