テレビカメラが入ったことでその夜はファンが異常なほど盛り上がって、終電間際なのにいつまでもその場を離れようとはしなかった。次々とリクエストが飛んできて、それにぜんぶ応えていたらもう0時半を回っていた。 どこからわいてきたのか、オーディエンスはいつの間に
政治経済から芸能スポーツまで、物書き小谷隆が独自の視点で10年以上も綴ってきた250字コラム。
圧倒的与党支持で愛国主義者。巨悪と非常識は許さない。人間が人間らしく生きるための知恵と勇気、そしてほっこりするようなウィットを描くコラム。2000年11月から1日も休まず連載。
「あら」とミチコさんは僕を見るなり言った。「どうしたの?」 バツの悪そうな顔をしていた。後ろからついてきたマスターは僕から目をそらすように空を見上げていた。「いえ、ちょっとこのへんに用事があって」と僕は腕時計を眺めながら言った。「あ、遅れちゃう」 僕は
女の子たちがいなくなってから、僕はしばらくまたそこでギターを爪弾きながら軽く鼻歌でオリジナル第一曲目を練習した。暗い夜道で迷ったように何も見えなくて背中に背負ったすべてのものを投げ出したくなる逃げるのはたやすいけどここでやめてしまったら今日まで
じっさいデビュー間もない頃のハルの歌は決して上手いとはいえなかった。けれど声に圧倒的な魅力があった。年月を重ねていけば上手くなるかもしれないという期待感はあったと思う。 そんな未熟な歌唱力でも支持されるだけの美貌がハルにはあった。男性だけでなく、小さな
ハルはこんな小さな子たちがその名を軽々しく口にできるほどのスターになっていた。松田聖子や中森明菜と同列なのだ。 僕はハルとの間にとてつもない距離を感じた。雲の上の人どころか、その先の遠い宇宙の果てにいる人だった。それはテレビの画面を通じて観る人であって
もらった飴玉をなめながら、僕は女の子たちとしばらく他愛もない話をした。「おにいさん大学生?」「そうだよ。まじめに学校行ってないけど」「おにいさん歌手になるの?」「どうかな? まだ練習始めたばかりだから」「ねえ、歌手になれば? テレビに出たら観るから
ここは出直した方がよさそうだと思って、僕は近所の公園で少し時間を潰した。ベンチに腰かけてギターを弾いていると、遊具で遊んでいた小学生ぐらいの女の子たち3人が寄ってきて、声を合わせて何か歌ってと言った。 そう言われてもこの子たちに喜んでもらえそうな歌が思
待望のオリジナル曲第一作ができたとき、僕は意気揚々とギターを抱えてミチコさんの家に出かけた。よく晴れた秋の日曜の午後だった。彼女の家は東中野駅にほど近いアパートで、中小企業とはいえ社長の住処にしてはあまりに質素な場所だった。 呼び鈴を押そうとして僕はは
ミチコさんは家事全般に疎かった。短大を出てすぐ今の家に嫁ぎ、それから5年後には夫を亡くして、夫の遺した会社を一人で切り盛りしてきた。幸か不幸か子供がいなかったので、家事らしいことはほとんどする必要がなかった。食事はほとんど外食で、夕飯はいつも深夜喫茶の
そんなあれこれを支援してくれたのが、深夜喫茶でいつもおひねりをくれていた40過ぎの女性、ミチコさんだった。彼女は早くに亡くなったご主人の跡を継いでプラスチック部品の会社を経営していた。「あげるんじゃないのよ」と、お金を工面してくれるたびにミチコさんは僕
そういえばサトシは自分が松田聖子の歌を作ると本気で思っていた。そうだ、と僕は思った。僕はコウダハルの歌を作ろう。作れるまでになってみよう。それしか、ハルに近づける方法はない。 それからというもの、僕は音楽の勉強に勤しんだ。クラシックの理論書からジャズの
僕はその深夜喫茶に半年勤めた。8月の初めに郷里に帰省するタイミングでアルバイトをやめたけれど、東京に戻ってくると時おりお店に足を運び、ギターを弾いて歌った。おひねりがポケットにねじ込まれることもよくあった。「オリジナル曲はないの?」 最初のおひねりを
そのうちに僕は常連のお客さんの前でギターを弾いてかじりかけの洋楽を歌うようになった。それがお客さんたちには思いのほか好評だった。「おにいさん、プロ目指してるの?」 あるとき僕が歌い終えてから、40過ぎぐらいの女性のお客さんが僕に訊ねた。「いえ」と僕は
僕の働いていた深夜喫茶のお客さんはほとんどが常連だった。いつも同じ顔が同じ時間に来て同じものを頼み、同じ時間に帰る。毎日同じ番組を繰り返し観ているようだった。 とても退屈な仕事ではあったけれど、唯一の楽しみがBGMだった。いつも有線の海外ポップスが流れて
ミカがいなくなって手持ち無沙汰になったこともあって、僕はアルバイトに精を出すようになった。ぽっかりと空いた夜の時間に、僕は深夜喫茶のウエイターとして働いた。親元からは十分な仕送りをしてもらっていたし、何かほしいものがあったわけでもない。独りで悶々として
一度だけ、ハルの出演する歌番組の公開録画に足を運んだ。テレビ局の中にある客席付きのスタジオで、黄色い声を放つ観客たちの間に僕はいた。 曲のイントロとともにハルが登場すると、ガラの悪い親衛隊の男たちが一斉に立ち上がり、低い声を張り上げて「ハ・ル! ハ・ル
ハルは順調すぎるほどのペースでスターダムにのし上がっていった。テレビをつけているとハルを見ない日はなかった。CMでは水着姿で踊り、歌番組ではヒラヒラの衣装で歌い、ドラマでは白血病で余命わずかな薄幸の少女を演じていた。『徹子の部屋』では捏造された生い立ちを
ミカに返事を書こうと思ったけれど、それはかえって彼女を傷つけてしまうような気がした。彼女の言う通りだった。確かに僕の中にはいつもハルがいた。ミカを抱きながら、心の中ではハルを抱く夢を見ていたのかもしれない。 けれどミカはハルよりもはるかに肉感的で、夢を
ミカは2月の初旬には大学に退学届を出していた。彼女は早くから準備を着々と進めていて、僕の家から消えた翌日には機上の人になっていたらしい。行き先はアメリカ。ニューヨークの大学に進むという。郷里の両親には留学のための奨学金が入ったから、と伝えたのだとか。
けれどミカの夢がどんなものなのか聞けないうちに彼女は僕のもとから消えてしまった。 それは大学の1年目がもう終わろうとしていた2月の寒い夜のことだった。僕とミカは二人で炬燵に入って鶏鍋をつついたあと、ベッドでお互いを温め合うように抱き合った。それからいつ
あるときそんな豪華な焼肉店でミカと豪華な肉を挟んでビールを飲みながら、僕はとてもシンプルに訊ねた。「そんなに稼いでどうするの?」 ミカはきれいに霜の降ったキラキラの肉片を鉄箸で器用な手つきで網の上に並べた。「夢があるの」とミカは言った。「夢?」「う
ミカの月収は時に200万円を超えていたようだった。時おり、「今月は220万」などと寝物語にさりげなく呟いた。 かといって彼女は何を買うわけでもなかったし、ほとんど贅沢らしいことはしていなかった。「仕事」に出かけていくときは真っ赤なワンピースなど少し派手
ミカは毎日のように客を取っていたけれど、それでも大学へはほぼ一日も休まずまじめに通っていた。女子大の英文科で、教職課程も履修していた。郷里の学校で英語教師になるのだと。 あるときからミカは、当時まだ非合法だったピルを服用するようになった。それが何を意味
お互いを拘束しない関係だから、それぞれの男女関係にも寛容だった。 ミカは時おり他の男と寝るようになった。アルバイト先の喫茶店の店長と寝て、家庭教師に通う家の父親と寝て、合コンで知り合った大学生と寝た。そこそこの美人だったし、色白で豊満な彼女の身体は千客
けれど大学生活の解放感はそんな貞操観念も簡単に吹き飛ばしてしまった。高校時代の同級生たちと新宿で飲んだ帰り道、足元をふらつかせて転びそうになった元クラスメイトのミカを抱き止めた勢いでキスをして、そのままラブホテルになだれ込んだ。 彼女は処女で、僕は童貞
これでも僕はかつて、ずっと貞操を守るのだと決めたことがある。それは悪い友達のせいで男女の営みについて子供らしからぬ知識を得てしまった小学6年生ごろのことだ。 女は初めて交わると処女でなくなる。男は童貞でなくなる。その童貞という言葉を憶えてから、僕はそれ
僕は彼女の口を自分の口で塞いで黙らせ、そのまま押し倒してまた事に及んだ。彼女はいつものように声を殺して息だけでその高まりを表現した。 アパートの薄い壁は隣の営みをありありと伝える。いつぞや隣の大学4年生の所にやってくる女の子が大きな声で喘ぐのを聞いてか
「コウダハル、売れてるよね。CMだけで何本出てるのかしら?」と彼女は言った。「好きなの?」「別に」と僕は言った。「アイドルには興味ないよ」「嘘。いつもテレビでハルちゃんが出てるとき、あなた釘付けだよ」「そう?」女の勘は馬鹿にできない。「あんな痩せぎすは苦
ある夏の夜、蒸し暑いアパートで大汗をかきながら彼女と貪り合ったあと、二人で裸のままベッドに横たわってテレビを観ていた。14インチの小ぢんまりとしたブラウン管のテレビだ。 清涼飲料水のCMが流れる。青い海をバックに笑顔でバンザイしている青い水着の女の子はハ
パスケースに写真をしまってから初めて取り出して眺めたのは大学3年生の夏のことだ。 僕は東大に落ち、早稲田大学に入学していた。もう一年浪人したいと言ったらさすがに両親が難色を示した。なぜ早稲田ではいけないのか、と。うちに二浪もさせる余裕はない、と。 渋
その日から僕はこの2枚の写真をパスケースに入れていつも持ち歩いた。かといって広げて眺めることもなかった。ただ、そばに持っていた。お守りとも違うし、宝物とも違う。ただ何となく、これを肌身離さずもっていなければいけないような気がしただけだった。 じっさいそ
数日後、香典返しが送られてきた。文字通り何の色気もない角砂糖のセットだった。その荷物に、故人の兄からの封筒が同封されていた。友へ、と下手くそな字で仰々しく記してある。 手紙の中身は会葬のお礼だった。文末は「これを君に託す」と結んでいて、2枚の写真が添え
「ブログリーダー」を活用して、小谷隆さんをフォローしませんか?
テレビカメラが入ったことでその夜はファンが異常なほど盛り上がって、終電間際なのにいつまでもその場を離れようとはしなかった。次々とリクエストが飛んできて、それにぜんぶ応えていたらもう0時半を回っていた。 どこからわいてきたのか、オーディエンスはいつの間に
そのうちに常連のファンたちと親しくなった。老若男女、いろんな人がいた。それぞれに自分の抱えている悩みを口にした。僕はそれをメモ帳に書き留め、どんどん歌にしていった。 生きていることが 罪に思えてきた 死んだら誰かが 笑ってくれるかな 面白すぎて
1ヶ月ほどホテルに滞在しているうちに、僕は近くの高輪台に1DKのマンションの一室を買った。ついでに中古のメルセデスのクーペも買った。そんなものがポンポン買えるだけのお金があった。そのほとんどは妻子4人分の命の代償であって、どんな形であれこれを使い切らな
たぶんその頃の僕は東京でいちばん暇な37歳の一人だったと思う。けれど幸いその中で経済的にはかなり豊かな方だったと思うし、人生経験のダイナミックさなら五指に数えられたかもしれない。 僕は毎日10時にホテルを出て、最寄りの品川駅まで歩いてそこから山手線に乗
天はこれ以上ないはっきりとした答を返してくれた。苫小牧にいる理由はないということだと僕は解釈した。けれどいざユキヨと別れようとなると、何と言って出ていけばいいのか見当もつかなかった。 けっきょく僕は昼間ユキヨが水産会社に働きに出ている間に、置き手紙ひと
「長いことピルなんか飲んでたのがいけないのかしら」「それは違うって前の先生が言ってたはず」「ううん、絶対その影響はあるわよ」 コールガールなんてやらなければよかった、と言って、ユキヨはアパートのカーペットに突っ伏して声をあげて泣いた。彼女が泣くのを僕は
それから半年ばかりの間に、僕は自分が一生のうちで算出できるであろう遺伝子の半分以上をユキヨに注ぎ込んだと思う。週末になれば昼夜分かたず獣のように交わり続けたし、この日だと確率が高いという日には5回戦に及んだこともある。 けれどいっこうな懐妊する気配はな
僕の中でにわかに答は出なかった。ユキヨのことは好きだけれど、ここで結婚して子供をもうけたらユキヨも僕も何か別の不幸に見舞われるような予感がした。 とはいえユキヨと離れる気もない。ここはひとつ、自分の運を改めて天に委ねてみようと思った。もしも子供ができた
「私さあ、ピルやめたんだよね」 夜の営みの最中にユキヨはそんなことを言い出した。「でも、ゴムしてるから」と僕は言った。「大丈夫」「大丈夫じゃいやなの」 そう言ってユキヨは僕の背中に手を回して自分に引き寄せた。「妊娠したい」と彼女は真面目な顔をして言っ
我々は同じアパートの住人やご近所からは仲良しの夫婦に見えたらしく、僕は「旦那さん」、ユキヨは「奥さん」と自然に呼ばれるようになった。「お子さんまだなの?」と訊く主婦もいた。「旦那さんも頑張らないと。女房にばっか働かせてぷらぷらしてちゃだめよ」「家で仕
それから僕はユキヨとともに苫小牧で冬を越した。彼女が夜の仕事で稼いでいた分は僕が補充した。「お金持ちなんだね」お金を渡すたびにユキヨは言った。「そうでなかったら犯罪者だわ」 思ったことをぜんぶ口に出してしまうのも良し悪しではあるけれど、おかげで彼女は
「ていうか」とユキヨは仰向けになって暗い天井を眺めながら言った。「このさい結婚しちゃうとか?」「さすがにそれはな」と僕は言った。「まだ旅の途中だからね」「まだどこか行きたいの?」「行きたいというか」と僕は口ごもった。「居場所がないんだ。実家はあるけど今
「ねえ、もしかして私のこと大事にしてくれてるの?」「もちろん大事にしてる」「嬉しい! けど、私は何番目に大事な女?」と訊いてからユキヨはハッとして物言いを変えた。「ごめん。つまんないこと訊いたね」「今は君しかいないから」「私しかいない? まじで?」「
寒冷地特有の二重窓を閉め切ってしまえば電車の音も踏切の音も聞こえない。ユキヨの出勤がない日の夜の営みはいつも絶望的な静寂に包まれていた。「あなたは着けなくていいよ」と肌を合わせながらあるときユキヨは言った。「お客には漬けさせてるけど、こういう仕事してる
苫小牧といえば工業都市ではあるけれど、ユキヨのアパートがある海に近い街はとても寂れた印象だった。なだらかな傾斜の土地にポツポツと街並みが続き、その先は森になって遠くの樽前山に連なっている。至る所でキタキツネが野良犬のようにうろついているのを見た。 海岸
「そんな君がどうして苫小牧に?」 流れからしてここにはさむべき質問を僕はインタビュアーのように投げかけた。「男と駆け落ちしてきたのよ」とユキヨは鍋の味見をしながら言った。「その人もテレクラで知り合ったんだけどね」 一度だけ勢いで寝たその相手が故郷の苫小
驚いたことにユキヨは東京の生まれだった。葛飾区で生まれ、江東区で育ち、名の知れた短大も出て、3年間は都銀の支店に勤めていたという。 仕事のストレスから夜な夜なテレクラに電話をするようになり、そこで知り合った相手と男女の仲になった。男に貢いで作った借金を
「一緒にいてあげる」 ユキヨはそう言って、半ば強引に僕をホテルから引きずり出すように車で彼女の家に連れていった。家はコールガールの胴元がある札幌ではなく苫小牧にあって、比較的新しい1DKの小綺麗なアパートだった。「ここだったら宿泊費もかからないわ」とユキ
軽井沢を離れて1年半も経っていた。5人で暮らした家に独りで住むのは寂しかったし、そもそも義父との繋がりもなくなれば僕が会社にいる意味もなくなった。 社長の座はマキの妹の夫に譲り、僕は潔く家を出た。皮肉なことに、事故の賠償金で僕は一生働かなくても暮らせる
ひとしきり泣いたあと、僕はシャワーを浴びた。それからベッドに戻って、横たわる彼女のバスローブを剥ぐと、貪るようにその豊満な肢体を抱いた。そして倒れるように眠りについた。 夢を見た。僕はマキや子供たちと食卓を囲んでいた。そこに真実も、ミチコさんも、ミカも
お母さんが倒れて入院したのと時を同じくして、ミチコさんの妊娠が判明した。ミチコさんは会社を古株の従業員に託すと、逃げ出すように東京をあとにした。お母さんの介護をするという名目だったけれど、本当はひとりで子供を産んで育てるつもりで長野の家に帰った。「結婚
まだ3ヶ月ほどの子に僕の声が聞こえるはずもないとは思いながら、僕は何度もミチコさんのお腹の子に呼びかけた。 ふと、こめかみに冷たいものを感じた。ミチコさんの涙が滴り落ちていた。嗚咽の震えが伝わってきた。そのうちに、ミチコさんは声をあげて泣いていた。「
「おかしなこと言うわね」なおも笑いながらミチコさんは言った。「私、あなたの倍以上の歳なのよ?」「でも、お腹の赤ちゃんは僕の子なんですよね?」「そんなこと一言も言ってないわ。この子は私の子。それだけよ」 ミチコさんの顔が俄かに曇った。「生まれてくるかど
ミチコさんはこたつに入ってしばらく身を縮めて俯いていた。「まさかね」ミチコさんは口を開いた。「44で授かるとは思ってなかったわ」「僕の子ですか?」 ミチコさんは黙ってこたつのテーブルに置いたみかんの山を眺めていた。「僕の子なんですね?」「いいのよ、
1985年の大晦日と正月を僕は信州の片田舎でミチコさんと過ごした。お母さんもさることながら、ミチコさんも体調が芳しくないらしく、かなり窶れて見えた。ほとんど寝たり起きたりの生活で、食べるものもあまり口にしなかった。どこか悪いのか訊いても曖昧な答しか返っ
「どうしたの?」とミチコさんは言った。「こんな田舎まで」 みるみるうちにミチコさんの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「ひどいじゃないですか」僕はこみあげるものを堪えながら言った。「黙っていなくなるなんて」「あら、お邪魔しちゃ悪いわ」 我々のや
旅館の主人が運転する軽トラックで、薄暗くなった細い道をミチコさんの実家まで連れていってもらった。それは小ぢんまりとしたトタン屋根の家で、小さな窓から灯りが漏れていた。「みっちゃん!」 主人は軽快に車を降りると、勝手知ったる様子で玄関先に立って、まるで
思いがけないつてが待っていた。「ご存知なんですか?」「ちっちゃい頃、よく一緒におままごとしたのよ。私がこんなんでしょ? よくいじめられたんだけど、みっちゃんはいつも庇ってくれたの」「この近くなんですか?」「そうねぇ、ここから歩いたら20分ぐらいのと
その日は駅の周辺を歩き回っただけで諦めて、駅近くの旅館に泊まった。古びてはいるけれど、由緒ありそうな宿だった。 幸い部屋はたっぷり空いていて、東京から来た若い珍客を歓迎してくれた。「寒かったでしょ? 早くお風呂入るといいわ」 部屋に案内してくれた40
車どころか、駅員に切符を渡してからというもの人影ひとつ見当たらない。 もう午後4時に近かった。近くに旅館があるのは駅の看板で見て知っていたけれど、ここで夜を明かせる自信はなかった。 けれどそんな不安より、とにかくミチコさんに会わなければという思いが先
北陸新幹線がまだ開通していなかった頃、長野県は今よりはるかに遠かった。途中で買った地図を頼りに、上野から特急あさまで軽井沢まで出て、そこから鈍行に乗り換え、車窓に浅間山を望みながらいくつもの駅を通り過ぎた。乗り継ぎも含めて半日の行程でたどり着いたのは、
ミチコさんがひっそりと姿を消したのは12月のことだった。アパートはきれいに引き払っていて、経営していた町工場もいつの間にか他人の手に渡っていた。 僕は自分の住所を伝えていなかったのに、ある日けっこうな金額の書き込まれた小切手が郵便書留で届いた。差出人の
ミチコさんは結婚してすぐ子供を授かった。けれど早くに流産して、それから間もなく夫も亡くした。そんな話も寝物語に話すようになった。「あの子が生きてたら」とミチコさんは暗い天井を眺めながら言った。「ちょうどあなたと同い年よ」 その言葉に、僕は母親のような
それからというもの、毎週土曜日の夜はミチコさんと食事して、少しだけお酒を飲んで、お勤めに励むという流れが定番になった。支援もしてもらっているし、まるで情夫のようではあった。けれどミチコさんのことは人間としても好きだったし、そのふくよかで柔らかな肉体も魅
翌朝はミチコさんと同じベッドで朝を迎えた。僕が目覚めたとき、隣の彼女は裸のままむこう向きに静かな寝息を立てていた。サッシの窓に雨が打ちつけるおとがした。 うちでお茶でも、と誘われたのだけれど、あんな話を聞いたあとでお茶だけで済むはずがない。それは僕も承
その日のミチコさんはふくよかな身体を黒のタイトなワンピースに包み、豊かそうな胸元を大胆に曝け出していた。もしかしてミチコさんは僕ともそういう関係になりたいと言い出すのかと思ってひやひやしていたけれど、そういうそぶりはまったく見せなかった。食事のあと、二
「別に」と僕は言った。「どうでもいいというか、おとな同士のことですし」「そうね。私もマスターも独り者だし、別にいけないことじゃないわ」 まるで僕がドアの前で声を聴いていたことを知っているかのような物言いだった。けれど僕はそのことを黙っていようと思った。
一緒にご飯を食べようということになって、夕方、ミチコさんと新宿のステーキハウスに出かけた。「もしかして」とミチコさんは熱々の肉にナイフを入れながら切り出した。「こないだうちでマスターと一緒にいたこと、何か誤解してない?」「いえ、そんなんじゃないです」
そんなことがあってから、深夜喫茶とは少し疎遠になった。マスターとミチコさんのただならぬ関係を知ってしまうと、どうもあの二人と顔を合わせたくなかった。もちろんあの人たちは僕が玄関先で色っぽい声まで聴いたとは思わないだろうけど、向こうにしてみても二人でアパ
「あら」とミチコさんは僕を見るなり言った。「どうしたの?」 バツの悪そうな顔をしていた。後ろからついてきたマスターは僕から目をそらすように空を見上げていた。「いえ、ちょっとこのへんに用事があって」と僕は腕時計を眺めながら言った。「あ、遅れちゃう」 僕は