週末ごとに夫婦で楽しんでいる神社巡り(御朱印集め)の記録です。
南九州には魅力いっぱいの神社がいっぱい点在していますね。
今から千二百余年前の奈良時代、道鏡に都を追われた和気清麻呂は、再び都に呼び戻されるまでの日々をこの周辺で過ごしたと伝えられています。その和気清麻呂を祭った神社で交通安全、学問、建築の神として御利益があるといわれています。近くに清麻呂が入ったといわれる温泉
閑寂な老杉の濃い緑に包まれた参道・境内を抜けると、格調高い朱塗りの社殿の荘厳かつ豪華絢爛な姿があらわれます。 建国神話の主人公である瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祀った霧島神宮は、創建が6世紀と古い歴史を誇る神社です。 最初は高千穂峰と火常峰の間にある背門丘
神社のある丘の頂上には陰陽石と呼ばれる巨石があり、古くは石峯と呼ばれました。この石の穴に狐が棲むと言われ、お稲荷さんの祠(ほこら)ができ、信仰されていました。近くからは石器や土器などが出土しており、古代から人々が住んでいたことがわかります。明治3年に都城地
旭丘と書いて「ひのお」と読む。元和元年(一六一五)旧領主 北郷忠能公御代、一国一城令により城山(現・歴史資料館)からこの地(現・明道小・市役所)に領主館を移設した。そのときには既に山立ちがあって、南向きの御社殿があり上之別府天神また氷室天神とも称していた。
『日向地誌』によると、彦火々出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。大隅国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その地の一宮八幡の御神体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年庚寅十月二十五日創建すると伝える。島津氏が飲肥を領した時代にも大いに崇敬
『日南市史』によると、伊東家二十代伊東祐慶(飫肥二代藩主)のとき、願成就寺の僧祐遍(赤面法印と称された名僧)を導師に現在地の新山に遷座した。また『日向地誌』などによると、当社の起源はなお古く、延元二年(一三三七)に伊東祐持初めて伊豆から下り、都於郡に居城
古蹟(御鉾の窟、御手洗池、天皇の井戸、神宮寺跡) 駒繋松跡、当神社東方道路沿いにあり。海辺にて鈞をなされた折白髪の老人から龍馬を与えられ、その馬に龍馬と命名。愛馬で鵜戸の父君にお会に行かれる都度、この松に繋がれたと伝えられる。草履石、駒形石、愛馬龍石の足跡
吾平津神社は明治期までは乙姫大明神といわれた。祭神は、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の妃であったアヒラツヒメ。神武東征には同行されずこの地に残り、ことの成功を祈り成就されたことから乙姫さまは諸祈願成就の神として信仰を集めている。別名、乙姫神社とも呼ばれ
当神社は、応永四年(一三九七年・室町時代)、時の領主藤原氏が天下泰平・国家安穏・万民安泰を祈願して当宮村地区の宗廟として建立したものであると社記にある。 当時は、中央において南北朝の争乱もようやく治まりかけたが、地方ではまだ争いが続いており、荘園制度は崩
当神柱宮の創建は、人皇第68代後一条天皇の御代、萬壽年間(西暦1024~1028年)に太宰府より大監(たいげん)という職にあった平季基(たいらのすえもと)が来都し、無主の荒野であった日向国諸県郡島津一帯を開墾して、宇治関白藤原頼通に寄進されました。 後の鎌倉時代、
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