主に小学生の頃の振り返り。自分が見たこと、やったこと。学校でハヤっていたこと。昭和の中期、30年代の頃のこと、共感なり同意なり、これからの新たな時代、変化に備えられる発見があればと振り返ります。
各トピック、単語からそれにからむ思い出や当時の子供たちの姿を描ければと思っています。懐かしい風景が瞼に浮かぶよう、記憶を辿って書いています。共感が得られるものが少しでもあれば、嬉しい。
日本の乃木さん凱旋す、 す! ス・ズ・メ、 め! メ・ジ・ロ、 ろ! ロシヤ、 や! 野蛮国! く! クロポトキン! きん! 金の玉 たま! 負けて逃げるはチャ
日本全国の小学校でこっくりさんが流行したことがあった。 特に女子などが教室の片隅でやっていたという記憶がある。 彼女たちはまさに怖いもの見たさで、紙に「あいうえを」などを書き、そして準備をし
教師がそれぞれの生徒の自宅を個別に訪問し、親との関係や生活態度を観察し、育ち方を判定する。 親に対しては日頃の教育現場で注目された点を報告もする。 こうしたことを踏まえてその後は生徒の成長につ
よく授業が日教組の集まりやデモ参加で潰れたものだが、教室で開かれるようになった誕生会というのはその時のカッコウの時間つぶしにはなっていたのだった。 だが教師たちは結局、誕生会を禁止
人生で二度だけ、女たちの「群れ」としての騒ぎようというのを見て、私はポカーンとするしかなかった記憶があります。 女子たちの群れが男子に関わりないところでざわめき、女子の誰かが悲嘆にくれるように
昔の子供たちは競争が大好きでした。 かけっこなんかがとても大好きでした。 運動会の障害物競走なんて、まるでRPGゲームのように大好きでした。 友だちとの競争が大事でした。 色んな意味で
秋です。運動会日和の曇り空が続いています(笑)。 秋というのは運動会の季節です。暑くもなく寒くもなく、体を動かすのにちょうどよい季節です。 今はコロナでそれはちょっとムリなのかも知れません。
昔は定期券なんてものがあって、電車通学している子供はランドセルの横にくくりつけてぶら下げていたものでした。 ゴムひもみたいなもので定期をケースに入れて、見せるときはグイと定期券を伸ばして駅員さ
「デパート」。というと、デパートメントストアということです。 なんだか今となっては、とても違和感のある言葉にに聞こえます。 「百貨店」と言い換えてもなんか違う感じがします。 このネット
焼き芋売りというのは昭和の昔からの典型的なモノ売り商売です。 大きな大八車を改造して引いて売っていました。 「大八車」というのは今で言えばリヤカーでしょうか。 オヤジさんがそれを引いて売
転校というケースがあります。 それは昔は、今よりもずっと多いものだったはずです。 親の都合、進学のため、色んな理由はありましたが、転校というのは子供たちに少なからず傷を残したものです。
手品というのは昭和の時代にはたいそう流行したものだ。 大仕掛けでやるものもハヤったし、テレビでも盛んに放送された。 マジックショーなるものが普通に劇場で催されたりした。 引田天功というマ
どうしたわけか「裁縫をやれ」という授業があった。 男子でもそれはやらされ、裁縫セットというのを買わせられた。 今ならどうなのだろうか。 生徒の選択制だのとやって、また現場は自由を曲解した
昭和の高度成長期には各地で公害が発生しました。 「光化学スモッグ」というものもそのひとつでした。 主に都会、交通量の多い、自動車からの排気ガスが溜まりやすいところで、亜硫酸ガスなど有害なガス
「しきし」ではなくて、「いろがみ」という読み方をする方です。 折り紙を折るための紙ですが、それは色とりどりの紙がありました。 それを水に漬け、色を出して混ぜたり、抜けさせたりする遊びがあり
なかなかできなくて、ひどく困ったものです。 この逆上がりができることこそが学校での最も重要なことのように思わせられたりもしたものです。 単に体育の授業のひとつであったはずのことが、なぜか
こんなことが今でも学校でやられているかどうか、それは知りません。 父兄のフリをした不審者も考えられるでしょうし、どだい授業というものはもはやそれほど重要ではないはずです。 ましてやコロナと
子供たち、特に男の子たちというのはみなヒーローが大好きでした。 女子たちは男子の遊ぶのを不思議そうに見ていた。 この男子たちのヒーローへの思い入れというものがよく分からないのか、それとも自分ら
おしくらまんじゅう 押されて泣くな、♪ おしくらまんじゅう 押されて泣くな、♪ 冬の寒い日、それをやれば温まるなんていわれたものだ。 昭和の思い出だ。 ある日のこと、近所
これはゲームの一種です。 体育館や校庭で、授業中に教師が子供たちにゲームをさせることがありました。 「ハンカチ落とし」というのは、そんなゲームのひとつでした。 野外学習や遠足の時、そ
女生徒の中には早くも小学生から初潮を迎えてしまう子がいました。 それは、多分にイレギュラーなことだったのだと思います。 突然に先生がドタバタと走り回って隣のクラスの教室に駆け込んでいきました。
迷子というものがあります。どんなことが「迷子」なのでしょう。 親や保護者とはぐれてしまい、どうしてよいか分からないでいる子供。 泣いたり、独りでさ迷っていて、誰かに見咎められて保護され
「祭り」なんて、このコロナ感染拡大の今となっては、ちょっとできるかどうか分かりません。 感染者は拡大し、このままでは帰省することもどうなるか。 昭和の時代の「お祭り」というのはちょっと
いよいよ待ちに待った夏休みが近づいてきました。 コロナ感染拡大もあり、勉強も遅れています。 今の子供たちはそれどころではないんでしょうけれども。 昔は、夏休みがやってくるのを子供
満年齢に応じて入学するのが学校という制度ですが、一年を4月を起点とすれば最大で一年弱の差が開きます。 同じ学年と言っても、ほぼ一年ぐらいの差があることになります。 本来ならまだ小さいのに
今はあまり聞かれない言葉だが、「人さらい」ということが昭和の時代はよく言われた。 「知らない人についていってはいけない」と、クチを酸っぱくするようにして親や教師、大人から言われたものだ。
学校でやらせられた最初の楽器は、確かカスタネットだった気がします。 音楽の授業でやりました。 みんなで拍手をするように音を合わせるようなことをしました。 それは幼稚園の頃にもやった気がしま
沖縄が日本に返還され、沖縄への旅行がブームになりました。 それまで、戦後アメリカの統治下におかれた沖縄への旅行は、戦争を知らない若い世代にとっては外国でした。 そして沖縄に行って帰って
「じゃんけん」に関西と関東、地方によって違いがあったすると知ったのはずっと後のことです。 「じゃいけん」と「じゃんけん」ジャンケンの名前も違うようです。 そしてその掛け声も様々です。
そんなものがあったことに、今更ながら驚きます。 まあ、内申書とかそういうものに関係がなかった子供たちは分からなかったのでしょう。 ともかく、「謝恩会」というのが小学校を卒業して暫くすると
子供の頃はよく嘔吐をしていました。 学校帰りで、学校の裏庭で。 人知れず、嘔吐していました。 その後、カミユの小説に惹かれたというのは、決して偶然ではないでしょう(笑)。 冗談で
学校のクラス単位で「学級新聞」が作られることになりました。 少し高学年になった頃のことです。 大きな紙にみんなでマジックで記事を書いて、それぞれのクラスの外の壁に貼り、みんなに見てもらうとい
なんだか懐かしい響きの言葉です。 そんな特別な設備の教室が学校にはありました。 普通の教室ではありません。 授業で使うときはわざわざその部屋に出かけました。 前の日から伝えられていたの
誕生会が流行りました。 そのうち、あまり派手にやるのはよろしくないという学校側のお達しがあり、やらなくなりました。 PTAとか保護者会なんかでも一部の子供たちのあいだで誕生会が行われている
「書き取りの時間」という授業がありました。 国語の延長だった記憶がありますが、国語というと本を読んだり作文を書かせたり、その中で接続詞や指示語の使い方を学ぶものでした。 その上で論理性など身に
東京の上野動物園にパンダが来ることになりました。 1972年、昭和47年のことです。 確か中国との国交回復、国交正常化に関して中国から贈られ来ることになりました。 名前はランランとカン
実は「ツイスター」というゲームの真相はとてもスケベなゲームだったということ。 もうこの時代、「ツイスター」を知らないという人もいるんだろうか。 発売はマテル社かと思っていたが、調べると発
目が悪いと、眼鏡を作ってくる子供がいた。 小学校低学年は人生で最初に眼鏡をかけ始める時期だ。 どこかで検査したり健康診断で眼鏡が必要ということになって、メガネを作ってくる。 そして
振り返ると懐かしい言葉。 「ケンケンパ」って、もう忘れてしまったでしょうか。 この遊びを今の子供たちもまだ知っているんでしょうか。 どの路地にもその遊びの跡が残っていました。 コンク
なんの流行だったのか、そのキッカケは思い出せないが、「誕生会」というものをよくやった時期があった。 やはり小学校低学年の頃だった。 誕生会で友達の家へ行った。 互いににプレゼントを持
クラスメイトに家が肉屋をやっている友達がいました。 お定まりのようになぜか太っていて、ちょっとイジメたりもしていました。 泣きもしないので休み時間なんかよく体当たりなんかしていた。 ある日
小学生ともなると保育園や幼稚園などは格下に感じます。 だから保育園などでバザーなんかのイベントがあったりすると、子供のくせに偉そうな感じで出かけていきました。 その点、幼稚園というのは小学
子供が寄り道をする先、そのトップは駄菓子屋さんでした。 そこにはたいてい「ガチャガチャ」というものがありました。 昔は10円ぐらいでした。 暫くすると三枚重ねて30円、そのうち50円ぐ
子供たちの寄り道の先は日替わりで色々でした。 駄菓子屋に寄ったり、友達と公園で遊んでから帰ったり。 一緒に帰る友達の都合によります。 一度、家に帰ってランドセルを置いてから出かけろ
子供時代、同級生には肉屋や魚屋、花屋など色んな商売をやっている子がいました。みんな知っていました。 その後に中学生になるとそういう家のことは分からないのが普通になります。 大学へゆくとそうした
学校でそろばんの授業というのがあって、買わせられたことがあります。 「願いましては」なんていちいち唱えて、こうして計算するのだと教えられた。 そして「便利なものを昔の人は考え付いたものだ」
縄跳びには二つの種類があります。 ひとつはみんなで跳ぶ大きな縄跳び。 二人が長いロープを持って大きな輪を描いて回す。 その中に子供たちが次々に入っては跳んで出て行く、誰がひっかかって止
子供たちはなかなか図書館などに行きません。 「本を読みましょう」なんて大人たちはよく子供に言ったものです。 var nend_params = {
今ではとても信じられないだろうが、小学校の頃にカエルの解剖実験をした。 「解剖実験」と呼ばれていたが、解剖して何か実験するわけではない。 カエルを解剖する実習そのものだった。 浮き
「ファーストキス」なんて言葉が流布されるようになったのは、自分の経験からすればずっと先のこと、中学生ぐらいになってからのことです。 それまでの小学校生活ではキスなんて言葉はマンガやコミックでの
バカで、劣等感の塊のような親が、子供たちを追い込んだ。 昭和の時代にはそんな親の暴走がよくあったものだ。 そこそこの暮らしをしているというのに、子供に健全な育ちをさせようとはせず、なぜか
得意中の得意だった。 子供の頃から鼻の調子が悪かった。 母親の腹がきっと悪かったんだろうが、今更言ってもそれは始まらない。 蓄膿症というわけではないし鼻声というわけでもない。
授業の一環ではあったと思うが、アサガオを種から育てて咲かせるということをやった。 時間のかかることなので、授業の合間という感じで「アサガオを育てる」ということがはさまれた。 成長させた後、
タバコを初めてクチにしたのは小学生の時です。 近所に工事のおっさんが外溝の工事に来ていて、私はそれを見に行きました。 おじさんたちは昼の弁当を食べた後の休憩の時間。 その頃は外食な
歯並びが悪いと育ちが悪く見えるという、親の見得みたいなもので歯の矯正に通った。 歯にワイヤーをかけて締め上げて矯正する方法もあったが、入れ歯のようなマウスピースを入れて就寝中だけにそれをして矯
確かそういう名前だった。 踊りだ。 社交ダンスのようなものを教えられた。 みんな、特に男子は馬鹿にしていたが、実はみんな愉しみにしていたものだ。 ダンス自体は面白いと
給食はたいていの子供にとっては楽しいものだった。 外から与えられる人生で初めてのものだったからそれを大いに楽しんだ。 食うことをみなで共有する一体感もあったろう。 ただ、一部
学校には遠足という一大イベントがあった。 年に数回はやっていただろうか。 近場へ日帰りで出かけ、ちょっとした登山や散策をして弁当を食って帰ってくる。 山や海、河とそれぞれの学校から近い
キリスト教系の幼稚園で育った。 クリスマスの出し物。 その時は学芸会とは言わなかった。 流れ星を見つけ、ベツレヘムの方向に救世主が現れると予言した博士の一人をやった。 台詞もあっ
そういう言葉があった。 誰が言い出したのか、記憶では教師から最初に聞いた言葉だったと思う。 男子のズボンのチャックが開いたままになっていて、それを指摘する時に言われた言葉。 「
小学生になって最初に体育館で跳び箱を見たとき、なぜかそれに違和感がなかった。 それまで見ていたわけでも知っていたわけでもないのに、なぜか不思議なものに思わなかったことをはっきりと思い出す。
小学校の頃には習字の時間というのがあった。 そこには道具の用意が必ずつきまとった。 筆、硯、墨汁、半紙、半紙敷き、文鎮、これらをまとめたひとつのケースを買わせられた。 硯箱なんて呼び方
「掃除の当番」なんて、今から思えばなんでもないこと。 自分で進んで掃除ぐらいはする。 言われなくてもするようになった。 ところが、なぜか子供の頃。 この学校での掃除当番という
日直と書いて「ひじき」と読んだ子供の回答があって、その話で爆笑したことがある。 たいてい日直と言うのは二人でやった。 二人でパートナーを組んで、挨拶の号令かけや黒板の字を消したり、教
遠足にでも行かなければ弁当など普段は食べることはなかった。 給食があるものだから自分の親も金をもたせるぐらいだった。 ただ、時々、給食が休みになるときがあった。 きっと親にも子
遠足にでも行かなければ弁当など普段は食べることはなかった。 給食があるものだから自分の親も金をもたせるぐらいだった。 ただ、時々、給食が休みになるときがあった。 きっと親にも子
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