文章と向き合う時間が年々減っている。仕事で書く機会が少なくなり、文量や精度も求められなくなった。腕も、頭の回転も確実に鈍くなっている。生活には困っていないものの、自分の存在意義が薄れるような気がして怖くなるときがある。自宅に、業界紙記者時代に書いた新聞のバックナンバーを保管している。
ライティングや転職の悩みを吐露するブログです。(毎週水曜・土曜投稿)
文章と向き合う時間が年々減っている。仕事で書く機会が少なくなり、文量や精度も求められなくなった。腕も、頭の回転も確実に鈍くなっている。生活には困っていないものの、自分の存在意義が薄れるような気がして怖くなるときがある。自宅に、業界紙記者時代に書いた新聞のバックナンバーを保管している。
人生の70~80%は、目標もなく、惰性で生きているような気がしてきた
毎日惰性で過ごしている自信がある。気持ちが上がることもやってみても、どうも面白くない。不満があるわけではない。こうやって余計なことを考えるのも、きっと暇なのだろう。以前は楽しかった楽器も、読書も、仕事も、筋トレも、心が躍らない。自分の殻に閉じ困ったまま癖で、グルグルと同じことを繰り返しているに過ぎない。
ダイエット中の外食は、たいてい決まっている。サブウェイ、蕎麦、うどんだ。ハイカロリーでなければ、ラーメンも食べる。少ないストレスで長い戦いを乗り切るためには、程よく自分を許すことが大切である。蕎麦の中でも「ざるそば」がいい。油揚げや天ぷらのような余計なものが入っていないし、出汁を飲み過ぎることもない。
1皿500kcalの無水カレー、鶏むね肉は最上段に置いて作ろう
できるだけヘルシーに、低予算で済ませる。 そのようなことを考えながら、毎食のメニューを決めている。3日分作り置
自分で立てた業務スケジュールが想定どおりだったときは気持ちがいい
締切と業務量から逆算して、スケジュールを組み立てる。ほぼ想定どおり物事が進む達成感を久しぶりに感じている。「できて当たり前」と思われる年齢になり、人から褒められる機会が減った分、せめて自分で自身の行動を認めてやらねばと思う。 転職したことで、業界紙記者だった頃のように、自分で行動予定が立てやすくなった
季節の変わり目は、どうも気分が沈む。具体的な理由があるわけではない。日々の生活に楽しさを見出だせないだけだ。規則正しく眠れている。食欲もある。仕事のタスクもそれなりこなしている。家があって、仕事がある。生活に困っているわけではないし、誰かには相手にしてもらえる。ただ、ふとした瞬間に孤独を感じる。
40年生きても、自分のことが分からなくなるときが結構ある。似たようなことで失敗するとき、指摘を素直に受け止められないとき、明るく話しているつもりでも「目が笑っていない」と言われるときなどがそうだ。感情のコントールできないとき、1、2時間後に「自分ってダメだな」と後悔することが多い。
東京駅から京都駅に戻る新幹線の車内で嬉しそうな声が聞こえる。 「こんなところでお店広げちゃって悪いね」 初老の男性が、同じシート列に座る別の乗客に一声かけたようだ。 私の斜め後ろに座っているため、チラッとしか見えていないが、座席のテーブルにはお弁当とビールが置かれていた。
「ケースバイケースだから」で片付けてしまいそうになるとき、納得できないけど気持ちは分かる
最適な答えは状況によって変わる。前後関係が単純明快なことは少なく、「ケースバイケース」で片付けられることがほとんどではないか。誰かに教えてもらうとき、必ず質問してしまう私にとって「それはケースバイケースだから…」で済ませられる答えは、どうにも納得がいかない。ケースが多岐にわたり、発生する条件も複雑なのだろう。
組織運営において、役職が重要な役割を果たす。方向性を定めるにも、迷ったときに修正するにも、集団である以上はリーダーが必要だ。 自分がその位置に立たされたとき、個人的な理由で動けない不自由さが生まれる。言葉や行動によって、まわりに少なからず影響を与えている可能性があることを自覚しているつもりだからだ。
曖昧な指示にストレスを感じている。とくに、具体的な期日を言わず、「なるべくはやく」「なるはやで」といった解釈次第で食い違いが起こるような場合だ。「そっちの都合も分かるけど、こっちの状況を察して優先度上げてね」。うがった見方だが、指示する側のそういった気持ちが透けて見えるようでならない。
後悔する場面がいくつかある。調子に乗って自分のことを話しているとき、組織への文句、意にそぐわないことに対して言い返しているときだ。 仕事では、質と効率のバランスを考えながら進めている自負があるため、思いつきのような他人の発言には過剰に反応してしまう。
帰宅途中の電車でブログを書いている。5カ月間続けてきた定期投稿で学んだのは、思い立ったときに書き始めることの大切さだ。手段が目的になっていることは承知している。ただ、自らきっかけを作らなければ、直接的な利益を生まない行為が続くわけがない。
「年齢はたんなる数字」と言われるたびに、いつも違和感を覚える
「年齢なんて気にする必要はない」「年齢はたんなる数字」ーそう言われるたびに違和感を覚える。言っていることは理解できる。年齢で何かの優劣が決まるわけでもなく、他人と比べることもおかしい。ただ、対自分に置き換えると、考え方が小さくなるような気がする。
いつも締切を守れない人は、後工程の影響を考えているのだろうか
締切厳守は最低限のマナーではないだろうか。時間が足りなくても、そのなかで自分納得できる質にすればいい。あとは他人が評価することだ。 締切から逆算して、多少余裕のあるスケジュールを組んでも、想定外のトラブルが立て続けに起こることもある。それでも他人からすれば「知ったことではない」という気持ちが本音ではないか。
「事実と異なる部分があったら指摘ください」そう一筆添えて掲載前の原稿を渡したところ、真っ赤になった状態で返ってくるときが、年に1、2回ある。確認すると、取材のときに話していないことが盛りだくさんで入っている。
記憶が当てにならないこそ、すぐに履歴を残した方が効率的である
記憶は当てにならない。次々に押し寄せてくる情報に飲まれて、すぐにあやふやになる。思い出そうと頑張るほど、記憶が中々よみがえらない。時間の経過とともに、連想ゲームに発展し、ようやく答えが出てくると、次は正確さを証明するために頭をひねる。時間の浪費でしかない上に、あやふやな情報によって判断を誤る可能性が高い。
40代男性が今さらながら清潔感に気を配るようになってもおかしくないか?
最近、Panasonicのボディートリマー「ER-GK82」をヨドバシカメラで購入した。価格は約1万円。アタッチメントで長さ2~12mmまで体毛をカットできるうえ、水洗いも簡単な優れものだ。メンズ美容系YouTuberが取り上げていたので、前から気になっていた。
40代になっても、何も成し遂げていないことに愕然とする瞬間がある
歴史小説を読んだり、大河ドラマを見たりしていると、「自分って何も成し遂げていないな」と空しくなる瞬間がある。 時代、境遇、目標が違う。そもそも比較すること自体、意味がない。それでも思わずにはいられないのだ。 40代になってから、「もう人生の折り返し地点か…。残りの時間で何ができるだろうか」とたびたび思うようになった。
セミナーの「何でも聞いてください」は、「何でも」ではないと思う
「何でも聞いてください!」セミナーで講演が終わった後、登壇者や司会が聴講者にこう語りかける。質問のハードルを下げたつもりかもしれないが、鵜呑みにしてはいけない。遠慮なく質問しても、登壇者にとって答えにくかったり、的外れだったりして、微妙な空気が流れる。あの何とも言えない感じがとても苦手だ。
エスカレーターに乗ったとき、時の流れの早さを感じる瞬間が嫌だ
歳を重ねるほど、清潔感に対する意識が高くなっている。少しでも気を抜けば、典型的な中年男性ができあがる。ボサボサで張りのない髪、青々とした顎、ぽっこり出たお腹、よれよれのシャツ、なんとも言えないにおい……。まわりからどう思われても構わないのだが、ふとした瞬間に自己肯定感が下がるのが嫌だ。
続けていることがすべて良い方向に作用しているわけではない。これまで積み上げてきたものが捨てられず、惰性に陥っていることがある。私にとって吹奏楽がそれだ。気付けば、初めてから四半世紀が過ぎた。プライベートの人間関係や経験は、ほぼ吹奏楽で築かれたといっていい。
Google AdSense、二度目の合格~ただ審査を通った理由に心当たりがない~
Google AdSenseの審査に合格(二度目)した。もう諦めていたものの、電車で移動中に何気なく再審査を申し込んだら、申請から2日後に連絡があった。効果的と言われている方法はすべて実施したものの、不合格が続いたため、もう諦めていた。不利と見なされそうなことを実行した後にもかかわらず、審査に通っているから不思議だ。
夏期休暇を「まだ」と考えるか、「もう」と考えるか。私は後者である。
夏期休暇の初日がもう終わる。仕事が始まるまでの日数を「まだ」ではなく、「もう」で数える私は、すべてを忘れて満喫できないまま最後を迎えるだろう。学校が嫌いだった小学生の頃から、何も変わっていない。まだ何も起こっていないのに、先のことを心配して勝手に疲れる。
推敲と見直しを怠ることで、まわりに迷惑をかけているかもしれない
ほかの人が書いた原稿を校正するのは、中々のストレスである。今回は運が悪かった。誤字、脱字、衍字が多く、指摘に時間がかかった。「いい加減に書くな! 推敲したうえでもってこい!」そう言いたい気持ちはあるものの、ストレートに注意できない相手だったため、ブログでこうやって愚痴っているのである。
できるだけ身軽に生きたい。そう願い人にとって、財布でさえも荷物に感じるのではないか。少なくとも、私はそうだ。昼ごはんを選ぶ条件に「キャッシュレス決済」が入るほど、財布を持ち歩きたくない。キャッシュレス決済ならお釣りがないため、財布が太らずに済む。履歴が残るため、家計簿に転載しやすいのもメリットだ。
ビジネス本から学んだこと~自分の考えを方向修正するきっかけに~
週1.5冊のペースでビジネス本を読んでいる。最近、ライティング、ディレクション、コピーライティングから時間管理や思考法に興味が移りつつある。 情報発信に関連するスキルは、アウトプットと試行錯誤が重要だ。「せっかくインプットしても、意味がないのでは…」と思った時点で、書籍購入の基準を変えた。
自分の裁量でスケジューリングできないのは不自由だ。それが分かっていながらも、組織に所属している以上、勝手にふるまうわけにはいかない。行動する時間帯と目的が不明瞭だったり、これまで発言したことと矛盾があったりすれば、少しずつ信頼を失う。そうならないように、最近は自身の行動を客観視するように努めている。
庭の手入れが面倒くさくて、雑草が伸び放題になっている。引っ越してきた当初の面影は微塵もない。知らない人が見たら、「ここに住んでいる人はいるのか?」と思われるレベルだ。生活の快適さに直接関係がないため、ついつい優先順位が低くなる。後回しにしていたら、無法地帯になった。
早起きを定着させるために習慣見直し中~自身の成功体験に沿って~
ブログのプロフィールに「毎日5時に起きています」と書いていた頃がなつかしい。3年ほど続けていた。時差出勤ができたことでスケジューリングしやすかった。勤務時間が固定されれば、そこに照準を合わす必要があるため、コントロールがしにくくなる。仕事優先で行動すると、プライベートで使える時間はわずかだ。
急に仕事が忙しくなってきた。転職してもほぼやることがなく、自己研鑽してばかりだった3カ月は何だったのか。それが当たり前になって、現状に違和感を覚えている。いつもであれば、仕事のボリュームが増えるごとに、ブログの優先度が少しずつ低くなり、気付くと半年ぶりの更新ということになりかねない。
毎日書いたから文章が上手くなるわけではない~テーマ設定とボリュームの問題~
毎日書いたら文章が上手くなる。そう思っていた時期が私にもあった。ただ残念ながら、文章力はまったく向上していない。むしろ下がっている。文章の構成や表現を考えず、勢いで流して書く悪習慣が染みついているからだ。文章力を上げるには、まず自身が納得できるテーマで書けた「一定期間の作成本数」で決まると思う。
Google AdSense不合格で思うこと~ポリシー違反に心当たりがない件~
Google AdSenseの審査にまた落ちた。今年に入って5回目だったと思う。もう諦めの境地に入っている。一般的に言われている対策は、すべて打った結果だ。独自性のある記事に画像も入れた。独自のドメインで作成し、投稿数は100本を超えている。プロフィール、問い合わせ、プライバシーポリシーも設置済みだ。
テキストコミュニケーションが苦手 ~トラブルに発展する原因~
書くことを生業としながらも、テキストコミュニケーションが苦手になってきた。私の言葉が原因で炎上したことはほぼないが、まわりでボヤ騒ぎがよく起こっている。話せば分かり合えるはずなのに、いつまでもチャットやメールでやり取りが続く。回数を重ねるごとに、少しずつ険悪な雰囲気になる。どうしてこのようなことが頻発するのだろうか。
物事がつながらない「点」ばかりの情報 ~ほぼ毎日投稿で思うこと~
最近、人目に触れる文章をほぼ毎日書いている。水曜と土曜はブログ、日曜以外はnoteに投稿している。業界紙記者を辞めてから3年間もブランクがあるため、書く感覚を取り戻しておきたいからだ。3カ月ほどで1時間あたり800~1,200文字で書けるようになってきた。
「何を書いたらいいか分からない」という貴重な悩み~ブログ投稿で思うこと~
仕事で書く機会が少ないため、ブログやnoteを更新する頻度が増えた。キーワードを意識しながら、事前にテーマを練りこんでいるわけでもない。書き始める直前に、最初に思い浮かんだ言葉や出来事について綴っている。完全な勢い頼みである。あれこれ考えるのも訓練のうちだが、費やしている時間に比べて手が動かない。
孔子が『論語』で「不惑」と言っていた40歳を超えても、まだ迷っている。仕事、人間関係、趣味、生き方など、悩みであふれている。おそらく死ぬまで迷い続けるのだろう。年齢を重ねると、見える景色が変わる。1軸、2軸で比較して判断できることが少なくなった。
半月前からnote(アカウント名:ぐずもち)を始めた。オウンドメディアの認知度向上施策として、n
年齢はただの数字ではないような気がする~労力と対価をどう考える~
「年齢なんて気にしない。ただの数字」前向きな考え方で見習いたいところだが、なかなかそういう気持ちになれない。35歳を超えたあたりから、寿命を意識するようになった。動ける時間は限られている。取捨選択できる権利は、自身にあるはずなのに、組織のしがらみから抜け出せないことが多々ある。
ChatGPTに対する抵抗感~「考える力が衰えてしまうのではないか」という懸念~
いまだにChatGPTを積極的に使えていない。「考える力が衰えて、バカになってしまうのではないか」との抵抗感が拭えていない。質問するだけで答えが返ってくる。読みやすい文章で答えてくれるところが、何となく納得感を与えてくれる。この正確性を醸し出しながらも、間違ったことを教えてくるところが実に巧妙である。
文章を書くのが苦にならない人は、読むのも好きな人が多い気がする。気になる文章があれば、最初から最後まで読むのが当たり前。文章も想いの詰まった長文になりがちだ。しかし、残念ながら情熱を注いだ分だけ、読まれる可能性が高まるわけではない。むしろ文章が長ければ長いほど、読者の離脱を招く。
読書リストの効果~仕事のために漫然と読むなら、そのまま書き出せ~
仕事関係の本ばかり読んでいると、「この知識が役に立つ前に忘れてしまうだろうな」と思うことがある。立ちはだかる壁を突破するために勉強しているわけでなく、いつ到来するか分からない出番に備えての準備なので、実感できないのは仕方ない。それでもアウトプットの一環として、読書リストづくりに取り組むと、想定外の効果が得られた。
SEOって本当に必要なの? ~オウンドメディア立ち上げ準備で思う疑問~
ただいまオウンドメディアの立ち上げにいそしんでいる。紙媒体の経験しかないので、今さらながらコンテンツマーケティングやWebライティングに関する本を自費で買い漁り、一人で黙々と勉強する毎日だ。そのなかで「SEOって本当に必要なのか?」との疑問が出てきた。
過去を振り返ることが増えてきた。本棚から手帳を数冊引っ張り出して、同じ日のスケジュールを調べる。3日前の食事は覚えていないが、手帳さえ見れば、3年前のことでも何となく思い出せるから不思議だ。
「察しろ」「上手いことやれ」に対する答え~考えを深める言語化~
35歳を過ぎたあたりから、自分の考えを言語化するように努力している。頭のなかで思っていることを文章にする。他人に理解してもらえるレベルまで考えを昇華させて伝える。少なからず練りこむ作業があってこそ、言語化が成立する。 そう思うのは、組織活動にありがちな「察しろ」文化に対する反骨精神が根底にある。
文字数の呪縛~ボリュームの大きな記事に対する苦手意識を拭えない~
どういった目的で書くにしても、文字数が決まっていることが多い。読書感想文、論述問題、小論文、卒論、レポートなど、量の水準と制限を設けることで、評価しやすくしているのだろう。記事は事情が異なる。話題、情報の量などによって、割くスペースが決まる。限られた文字数のなかで、中身の濃いものを書くことも、記者の腕の見せどころだ。
業務中に認められる学びの時間~まわりに聞けない環境だから、本から学ぶ~
転職したばかりなのに、時間を持て余している。入社前に聞いていた長期案件が縮小したらしく、私のところまで仕事がまわってこない。1カ月間、ほぼ放置されている。ただ、ありがたいことに、仕事に関連することであれば、業務時間内でも自己研鑽が許されている。
こだわって書いたのに、まったく反応がない。そういったことは日常茶飯事。当たり前すぎて、がっかりすることもなくなった。むしろ反響がある方がめずらしい。業界紙だけでなく、委託されて制作された発行物もそうだ。厳選したテーマで、ストーリー性と話題性がある記事が書けても、読者の声が書き手に届くことはない。
どれだけ相手に非があっても、激高されたら関係修復に時間がかかる。もう手がつけられない。導火線がいたるところにあって、怒っているうちに爆発の連鎖が発生する。 コンサルタント時代、そういう理不尽なことが半年だけでも数回あった。口頭や書面で何度も説明したことなのに、損することが分かった時点で、先方は着火体勢に入る。
キャッシュレス化でたまり続ける小銭~手数料が足を遠のかせる~
自宅のウォークインクローゼットに、レジ袋に詰まった小銭がある。仕事から帰ってきた後、鞄と合わせて、財布の中身も整理したとき、50円玉以下の小銭を放り込んでいるからだ。 以前は、小学校5年生のときに買ってもらった貯金箱に入れていたのだが、1枚ずつ入れるのが面倒になり、レジ袋に投入する方式に変えた。
「毎日投稿して、ライティングスキルを磨くぞ」そう意気込んでみたものの、すぐに断念する挫折ことが何度もあった。自分でも無理やり書いていることが分かっているので、「これでいいのかな」と思ってしまう。喜びも、達成感もない。翌日、パソコンの電源を入れて、何を書こうか悩むところから始める。かなりの苦行だ。
無料によって失われるもの~情報とノウハウの価値を忘れていないか~
調べれば分かるような環境が当たり前すぎて、ノウハウや情報の価値を忘れてしまうときがある。 それだけスマートフォンの存在は大きいということだ。無料は感覚を鈍らせる。パソコンのように、調べたら分かることでも気軽に質問する人がいる。苦手意識がそうさせるのだろうか。
言いたくなる「ここだけの話ですが…」~信頼関係を深める武器になる?~
「おー、さっきの取材どうだったよ?」以前の勤め先で、編集長からよく聞かれていた。長々と話せば、間違いなく藪蛇になるので、取材先の強みと現状のみ端的に報告する。ただ、それだけで編集長が満足するケースは少ない。結局、一味足して伝えることになる。「ここだけの話ですが…」と。
考えていることを言語化するとき、ノートに一旦書いて、まとまってからテキストに起こしている。いきなり文章にするのは、ハードルが高い。仕事の癖で「他人にも伝わる文章にしないといけない」と考えてしまう。ノートには、言葉を羅列すると、頭が整理されるだけでなく、物事の関連性がわかったり、優先順位がつけやすかったりする。
ポジショントークが生まれる原因と対策~問いかけの質を上げるには~
取材しているとき、「ポジショントークだな」と感じるときがある。とくに、景況に関する質問は高確率でそうなる。工夫もない質問を投げかけた記者が間違いなく悪い。ただ、こちらが「業界のことはある程度分かっていますよ」オーラを出しながら、下調べした情報に基づいた質問でも、ポジショントークが返ってきたときは、少し頭を抱えたくなる。
転職に伴って、2年ぶりに毎日出勤している。長い社会人人生において、リモートワークはわずかな気分転換に過ぎなかった。3週間も経つと、通勤ラッシュに巻き込まれずに乗る感覚が戻ってくる。相変わらず目につくのは、電車内が混雑しているにもかかわらず、足の癖が悪い男たちだ。
「まさか自分が…」の転職の話~情報によって判断基準が変わる~
歳を重ねるほど、「まさか自分が…」と思ったときのショックは大きい。人生の重大な選択である転職でやってしまった。面接のときに聞いていた話と、入社後に伝えられた話が違っていたのだ。
【読書】強みと生き方を考える~城山三郎『秀吉と武吉 目を上げれば海』
『秀吉と武吉 目を上げれば海』は村上武吉の生涯を描いている。毛利元就の領域拡大に助力しながらも、村上三島の首領格として、独立不羈にこだわった姿が印象的だった。毛利元就、織田信長、豊臣秀吉の圧力に対しても、強気の態度に出ることができたのは、海を知り尽くし、水軍の戦い方を熟知した上で訓練を重ねてきた土台があるからだろう。
YouTubeや同僚の影響で、旅行に行く機会が増えた。取材以外で遠出することがなかったことを考えれば、年間に7
【読書】転換期における指導者の在り方とは~城山三郎『冬の派閥』
『冬の派閥』は、徳川慶勝の姿を通じて、転換期のおける指導者の在り方を問いかけている作品だ。本作品は「熟察」という言葉が頻繁に登場する。半信半疑のまま行動しない。朝廷と幕府の関係を深め、徳川慶喜の尻ぬぐいをしながらも、真意が理解されず苦悩する。時代の大きな流れに、不本意ながら立場上、動かざるを得ない辛さが伝わってきた。
【読書】不遇な立場にあっても逃げない~城山三郎『男子の本懐』
1930年1月に実施された金解禁を推し進めた浜口雄幸と井上準之助の生きざまにスポットを当てている。内閣総理大臣と大蔵大臣が成すべき取り組みは、緊縮財政と行政整理による金解禁にあった。国難に生命をかける姿勢もさることながら、異動で不本意な立場に置かれながらも、逃げ出さずにやるべきことに取り組む姿勢に学ぶ点が多かった。
ブログ記事100本投稿に思うこと~無理に投稿するよりも、楽しく気軽に書きたい~
ログ開設から2年10カ月で、ようやく投稿数が100本に達した。始めた当初は「1年間で100本投稿できたらいいな」と思っていたものの、仕事の多忙さを言い訳に投稿しない日々が続いた。ブログ初心者向けの指南サイトには、「まず100本投稿しよう」と教えているものもある。分かりやすく、コツコツと頑張ればできる目標だ。
【読書】書くことに心理的なハードルを下げてくれる一冊~いしかわゆき『書く習慣』
タイトルどおり、ライティングスキルが書かれているわけではない。パラっとめくって読むだけで分かったので、購入をためらっていた。買ったのは、書くことに対して億劫な気持ちだったり、身構えなければ書けないことを自覚していたからだと思う。この一冊を読み終えた後、「もっと気楽に書いていいかも」と考えられるようになった気がする。
転職活動がまったく進まない。書類選考さえ通過できないとなれば、「市場価値がない」と言われているに等しい。「総合的に判断したけど、うちがほしい人材じゃないよね」ということだろう。分かっているけど、世の中の厳しさを改めて感じる。
毎週日曜、吹奏楽団の練習に参加している。練習よりも教えている時間の方が圧倒的に長い。技術レベルがいきなりアップしないことは分かっているが、相手が中々理解してくれないことにイラッとすることもある。年月が経つにつれて、教えることに対する考え方も随分変わった。
「ブログリーダー」を活用して、ぐずもちさんをフォローしませんか?
文章と向き合う時間が年々減っている。仕事で書く機会が少なくなり、文量や精度も求められなくなった。腕も、頭の回転も確実に鈍くなっている。生活には困っていないものの、自分の存在意義が薄れるような気がして怖くなるときがある。自宅に、業界紙記者時代に書いた新聞のバックナンバーを保管している。
毎日惰性で過ごしている自信がある。気持ちが上がることもやってみても、どうも面白くない。不満があるわけではない。こうやって余計なことを考えるのも、きっと暇なのだろう。以前は楽しかった楽器も、読書も、仕事も、筋トレも、心が躍らない。自分の殻に閉じ困ったまま癖で、グルグルと同じことを繰り返しているに過ぎない。
ダイエット中の外食は、たいてい決まっている。サブウェイ、蕎麦、うどんだ。ハイカロリーでなければ、ラーメンも食べる。少ないストレスで長い戦いを乗り切るためには、程よく自分を許すことが大切である。蕎麦の中でも「ざるそば」がいい。油揚げや天ぷらのような余計なものが入っていないし、出汁を飲み過ぎることもない。
できるだけヘルシーに、低予算で済ませる。 そのようなことを考えながら、毎食のメニューを決めている。3日分作り置
締切と業務量から逆算して、スケジュールを組み立てる。ほぼ想定どおり物事が進む達成感を久しぶりに感じている。「できて当たり前」と思われる年齢になり、人から褒められる機会が減った分、せめて自分で自身の行動を認めてやらねばと思う。 転職したことで、業界紙記者だった頃のように、自分で行動予定が立てやすくなった
季節の変わり目は、どうも気分が沈む。具体的な理由があるわけではない。日々の生活に楽しさを見出だせないだけだ。規則正しく眠れている。食欲もある。仕事のタスクもそれなりこなしている。家があって、仕事がある。生活に困っているわけではないし、誰かには相手にしてもらえる。ただ、ふとした瞬間に孤独を感じる。
40年生きても、自分のことが分からなくなるときが結構ある。似たようなことで失敗するとき、指摘を素直に受け止められないとき、明るく話しているつもりでも「目が笑っていない」と言われるときなどがそうだ。感情のコントールできないとき、1、2時間後に「自分ってダメだな」と後悔することが多い。
東京駅から京都駅に戻る新幹線の車内で嬉しそうな声が聞こえる。 「こんなところでお店広げちゃって悪いね」 初老の男性が、同じシート列に座る別の乗客に一声かけたようだ。 私の斜め後ろに座っているため、チラッとしか見えていないが、座席のテーブルにはお弁当とビールが置かれていた。
最適な答えは状況によって変わる。前後関係が単純明快なことは少なく、「ケースバイケース」で片付けられることがほとんどではないか。誰かに教えてもらうとき、必ず質問してしまう私にとって「それはケースバイケースだから…」で済ませられる答えは、どうにも納得がいかない。ケースが多岐にわたり、発生する条件も複雑なのだろう。
組織運営において、役職が重要な役割を果たす。方向性を定めるにも、迷ったときに修正するにも、集団である以上はリーダーが必要だ。 自分がその位置に立たされたとき、個人的な理由で動けない不自由さが生まれる。言葉や行動によって、まわりに少なからず影響を与えている可能性があることを自覚しているつもりだからだ。
曖昧な指示にストレスを感じている。とくに、具体的な期日を言わず、「なるべくはやく」「なるはやで」といった解釈次第で食い違いが起こるような場合だ。「そっちの都合も分かるけど、こっちの状況を察して優先度上げてね」。うがった見方だが、指示する側のそういった気持ちが透けて見えるようでならない。
後悔する場面がいくつかある。調子に乗って自分のことを話しているとき、組織への文句、意にそぐわないことに対して言い返しているときだ。 仕事では、質と効率のバランスを考えながら進めている自負があるため、思いつきのような他人の発言には過剰に反応してしまう。
帰宅途中の電車でブログを書いている。5カ月間続けてきた定期投稿で学んだのは、思い立ったときに書き始めることの大切さだ。手段が目的になっていることは承知している。ただ、自らきっかけを作らなければ、直接的な利益を生まない行為が続くわけがない。
「年齢なんて気にする必要はない」「年齢はたんなる数字」ーそう言われるたびに違和感を覚える。言っていることは理解できる。年齢で何かの優劣が決まるわけでもなく、他人と比べることもおかしい。ただ、対自分に置き換えると、考え方が小さくなるような気がする。
締切厳守は最低限のマナーではないだろうか。時間が足りなくても、そのなかで自分納得できる質にすればいい。あとは他人が評価することだ。 締切から逆算して、多少余裕のあるスケジュールを組んでも、想定外のトラブルが立て続けに起こることもある。それでも他人からすれば「知ったことではない」という気持ちが本音ではないか。
「事実と異なる部分があったら指摘ください」そう一筆添えて掲載前の原稿を渡したところ、真っ赤になった状態で返ってくるときが、年に1、2回ある。確認すると、取材のときに話していないことが盛りだくさんで入っている。
記憶は当てにならない。次々に押し寄せてくる情報に飲まれて、すぐにあやふやになる。思い出そうと頑張るほど、記憶が中々よみがえらない。時間の経過とともに、連想ゲームに発展し、ようやく答えが出てくると、次は正確さを証明するために頭をひねる。時間の浪費でしかない上に、あやふやな情報によって判断を誤る可能性が高い。
最近、Panasonicのボディートリマー「ER-GK82」をヨドバシカメラで購入した。価格は約1万円。アタッチメントで長さ2~12mmまで体毛をカットできるうえ、水洗いも簡単な優れものだ。メンズ美容系YouTuberが取り上げていたので、前から気になっていた。
歴史小説を読んだり、大河ドラマを見たりしていると、「自分って何も成し遂げていないな」と空しくなる瞬間がある。 時代、境遇、目標が違う。そもそも比較すること自体、意味がない。それでも思わずにはいられないのだ。 40代になってから、「もう人生の折り返し地点か…。残りの時間で何ができるだろうか」とたびたび思うようになった。
「何でも聞いてください!」セミナーで講演が終わった後、登壇者や司会が聴講者にこう語りかける。質問のハードルを下げたつもりかもしれないが、鵜呑みにしてはいけない。遠慮なく質問しても、登壇者にとって答えにくかったり、的外れだったりして、微妙な空気が流れる。あの何とも言えない感じがとても苦手だ。
ログ開設から2年10カ月で、ようやく投稿数が100本に達した。始めた当初は「1年間で100本投稿できたらいいな」と思っていたものの、仕事の多忙さを言い訳に投稿しない日々が続いた。ブログ初心者向けの指南サイトには、「まず100本投稿しよう」と教えているものもある。分かりやすく、コツコツと頑張ればできる目標だ。
タイトルどおり、ライティングスキルが書かれているわけではない。パラっとめくって読むだけで分かったので、購入をためらっていた。買ったのは、書くことに対して億劫な気持ちだったり、身構えなければ書けないことを自覚していたからだと思う。この一冊を読み終えた後、「もっと気楽に書いていいかも」と考えられるようになった気がする。
転職活動がまったく進まない。書類選考さえ通過できないとなれば、「市場価値がない」と言われているに等しい。「総合的に判断したけど、うちがほしい人材じゃないよね」ということだろう。分かっているけど、世の中の厳しさを改めて感じる。
毎週日曜、吹奏楽団の練習に参加している。練習よりも教えている時間の方が圧倒的に長い。技術レベルがいきなりアップしないことは分かっているが、相手が中々理解してくれないことにイラッとすることもある。年月が経つにつれて、教えることに対する考え方も随分変わった。