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  • 南アルプスから(8)

    台風10号もやっと熱帯低気圧になって、島田でも青空が見られるようになった当初の予報から大きく進路や状況が変わって1週間余も影響を及ぼした台風だったが、接近前先週の奥山からのたより***8/26今の小屋からです静かです!今日の宿泊者(0)です昨日は(6)でした赤石岳荒川・悪沢岳聖岳8/27下界はいかがですか?こちらは通過者、宿泊者(0)でひっそりしています8/28今朝、小屋前から現在、小屋前から聖岳の奥に上河内岳も見えます!雨は一日降っていましたが、シルエットははっきり見えてました南アルプスから(8)

  • 広重・五十三次の山(6)

    府中・安倍川江戸より19番目の宿安倍川の渡しであるが、背後の山は何だろうか?前面が賤機山、それに続く背後の高い山が竜爪山と見るのが常識的か?しかし、そうすると川の流れが何か不自然。どうも藁科川と合流する流れのように見えるのだ。手越・現安倍川橋辺りから北北西の方角に牛ガ峰(高山)があるが、この線も濃厚ではないか。牛ガ峰はカヤトの広い山頂で安倍奥の好展望台。ちなみに、高山・大山などの名は全国に多いが、里から見上げられる高いピークに付けられていることが多い。(2003年8月記)***【2024年8月追記】府中から安倍川を渡った(現・安倍川橋付近)先の手越の西側に、古東海道といわれる「手児の呼坂[てごのよびさか]」があり、小さな峠道となっている。峠の北側に尾根を進むと中腹に今川家所縁の徳願寺があって、さらに尾根を...広重・五十三次の山(6)

  • 広重・五十三次の山(5)

    江尻・三保遠望江戸より18番目の宿江尻は今の清水だが、静岡県の一番薄くなった部分に位置している。駿河、遠江内の東海道から北へ抜ける数少ないルートの起点の一つであり、現在では興津から国道52号線が貫かれている。この道は我々の山行においては、山梨南部の山はもちろん、南北アルプス、八ヶ岳などへ行く折に随分と利用していて、沿線の風景も馴染みのものとなった。いわば我らの山街道でもある。江尻は駿府の手前にあって、海上交通と東西ルート、南北ルートのジャンクションという、絶好のポジションにあることが分かる。湾の向うの山並は愛鷹山塊か、現代では富士の煙突群も望められるだろう。清水とくれば今はサッカーでの知名度が高いが、それ以前は何といっても海道一の大親分次郎長だろう。次郎長一家にとっても、東海道の港湾江尻と山国甲州を結ぶこ...広重・五十三次の山(5)

  • 広重・五十三次の山(4)

    由井・薩埵嶺江戸より16番目の宿薩埵[さった]峠から見る富士山の姿は今も画になる。NHK「私の富士山」でもお馴染みの撮影ポイントである。車や電車で東進するとき、由比にさしかかると立派な富士の姿がドンと現れいつも見入ってしまう。海には桜エビ漁だろうか、広重の画のごとく帆を張った漁船が浮かんでいることがある。由比には広重美術館があるが、実景に最も近いのがこの画らしい。薩埵峠は、東海道の難所であり要所でもある。現在は旧道にバイパス、東名、それに東海道線が並んで眼下を通っているが、かつて旧街道は上道・中道・下道の三つに分かれ、断崖下のルートが「親不知子不知」と呼ばれていたのは、北陸道のそれと同様だ。SHCがまだ準備会の頃、但沼から浜石岳を経て薩埵峠まで歩いた。農作業のおばさんが蜜柑を放ってくれた。長い歩きで疲れた...広重・五十三次の山(4)

  • 広重・五十三次の山(3)

    蒲原・夜之雪江戸より15番目の宿温暖の地、駿河の国でも、かつてはこれほどの雪が降ることがあったのだ。どれほど歩いてきたのか、蓑や笠に積もった雪が重そうである。茅[かや]や菅[すげ]などで作られたこの昔の雨具は、防水性と共に通気性もあるなかなかの優れものであったらしい。背後のドームのような山は大丸山だろう。広いカヤトの山頂で、東の金丸山にかけての一帯は、富士川沿いの整備されたハイキングコースになっている。(2003年5月記)新蒲原駅西に建つ蒲原夜之雪記念碑【2024年8月追記】『文化遺産オンライン』の解説によると「深々と雪が降る寒村の夜の情景を描いた広重。画面に漂うその静寂さはシリーズの中でも突出した傑作といわれる。現実の蒲原にはこのような豪雪がみることはできず、広重の創作した心象の風景ではないかといわれて...広重・五十三次の山(3)

  • 広重・五十三次の山(2)

    吉原・左富士江戸より14番目の宿前宿の「原・朝之富士」が、ドンと枠からはみ出すほど大きく描かれているのに対し、これはまた小さく遥か彼方という感じである。この辺が変幻自在の対象への距離感で面白い。しかし、手前に描かれている馬上の篭に乗った三人は子供のように見えるが、真ん中の人物の視点はしっかりと富士山を捉えている。さて、この一行は江戸へ下っているのか、京へ上っているのだろうか。「左富士」と題されているのは、本来ならば右手に見えるはずの富士が左に見えるからだと、そう解釈すれば西に向かっていることになる。西進していた街道が一時、北へ向かうような地点が、東海道の吉原宿辺りでどこになるのか私には不明だが、例えば川の流れが蛇行し南北逆だったり、太陽が海に沈んだりすると、方角の錯覚を起こしたりすることがある。おそらく初...広重・五十三次の山(2)

  • 広重・東海道五十三次の山(1)

    原・朝之富士江戸より13番目の宿玉置哲広(前略)そして、いよいよ天下の険「箱根」越えで、その後「富士」の裾野を通過していくが、この二山は有名すぎていうまでもなかろう。原宿の浮島ケ原からの富士や、吉原宿の左富士の景は実在する場所があり、「愛鷹山」や「宝永山」まで描かれているが、有名な箱根宿の景で描かれた美しい岩峰は、カルデラ内壁にいかにもありそうな地形だが実在しないようだ。広重のイメージ上の峰なのだろう。駿州路遠州路にかかると、全国的には無名であるが、古くからその名を知られたり、地元では親しまれているような特徴のある山々が続々と登場してくる。由井宿の「薩埵[さった]峠」は、海辺の絶壁から海越しに富士を眺める人々が描かれた印象的なものだが、五十三次中もっとも浮世絵に近い風景が見られる場所だ。旧街道はここで上道...広重・東海道五十三次の山(1)

  • 南アルプスから(7)

    ▼今期3回目のヘリ荷揚げ希望通りの場所に下ろしてもらえないと大物のドラム缶は移動が大変通りかかった消防の方に手伝っていただく▼スッキリした青空、朝はこんな景色が見られるが、午後はほぼガスっている赤石岳荒川・悪沢岳聖岳、奥の雲掛かるのは兎岳▼幻想的な夕方の景色赤石岳聖岳聖岳の上空に白い月が見える8/14の落雷で真っ二つに裂けた赤石岳山頂標識8/17遭難者の収容・搬送に向かう救助ヘリ遭難者の発見された砲台型休憩所南アルプスから(7)

  • チェーンソーマン

    末の息子が来て伸び放題だったケヤキを伐ってくれた。ついでに裏のザクロなどは根元から。チェーンソーで速い、速い!さすがチェーンソーマン有難う!年寄りは、枝片付けを手伝って朝から3時間くらい外にいたら、汗だくで疲れ果て熱中症寸前、ゆえに午後は昼寝。チェーンソーマン

  • 息子とのビバーク

    海の日連休中日の富士宮口五合目は、これから山頂を目指す人たち、下りてきた人たちで賑わっていた。息子と二人、そんな賑わいから外れ宝永火口へと向かう水平道を歩き出した。山頂ではなく、須山口登山道を水ヶ塚へ下るつもりなのだ。登りでなくとも、ダウン症の障害を持つ息子が凸凹の坂道を歩くのが苦手なことは充分承知しているから、標準コースタイム3時間に対して倍の6時間を見込んでいた。宝永第二火口縁に出ると、山頂には雲が掛かっているものの、青空に宝永山や火口の荒々しい壁が映え、普段の里山とは違う高山らしい雰囲気に、息子も満足そうに写真に収まった。第三火口のザレた斜面にやや手こずりながらも時間を掛けて下り、火口底の御殿庭上で弁当を食べた。ここまでは想定の範囲に収まっていたが、三合目・御殿庭中を過ぎた辺りから亀にも及ばぬ歩みと...息子とのビバーク

  • 大井川下流域での流路変遷

    コロナ禍によって半年近く休止していたSHCの活動は、9月のおはようハイクより再開される。その初弾は、3回シリーズで行われる「大津谷川・栃山川を駿河湾まで歩こう」(Kdo企画)のリバーサイドウォークだ。このコースは、だいぶ以前の会報で池田金苗さんの絵本『かわ』(かこさとし画・文)に寄せた一文の中で見たが、川を溯るのとは逆に、河口へと下ってみることにも様々な発見があることと思い、愉しみなことだ。栃山川水系歩くにあたり『やまびこ』276号(本年4月号)にSmaさんが寄せていた「栃山川って?」を読み返してみた。ここでは栃山川水系を構成する五河川の主に近代に入ってからの利水、治水のあらましが記されていて参考になった。この文に添付されていた栃山川水系の地図や、さらに詳しく地理院地図を眺めて感じることは、栃山川水系や瀬...大井川下流域での流路変遷

  • 慶長の仮東海道を歩く

    4月の「緊急事態宣言」以降の約2カ月間、家からの発着を基本に歩いていた。体(てい)の良い散歩である。幸いに家から5分も歩けば千葉山から派生する尾根の端っこに取り付くから、使える時間やその日の気分によって自在にコースは変えられ、飽きることはなかった。この間、近隣の里山でも結構な賑わいを見せていた所があったようだが、尾川丁仏参道をはじめ散歩中の山道で人と行き交うことは稀だった。お蔭で少し気になっていた所の納得も幾つかでき、また付随して地域の地誌的、歴史的な事柄への興味も満たすことができた。『やまびこ』277号で紹介した「慶長の仮東海道」もその一つだった。その内、大津野田前の長谷川代官所跡から東光寺村を抜ける「東光寺道」を歩こうかなと6月の例会で呟いたところ、5人の方々が当日の朝、偶然にも顔を見せて下さった。今...慶長の仮東海道を歩く

  • 慶長の仮東海道(1)

    本年1月の「おはようハイキング」で中央公園から矢倉山の道を歩いた。報告(『やまびこ』№274)で、江戸初期慶長9(1604)年の大井川氾濫により壊滅的な被害を受けた島田宿が、大津野田前(元島田)に移転し、同時に東海道も洪水後11年間、北側の山沿いを通る仮街道が設けられたことを記した。この「慶長の仮東海道」について、島田宿・金谷宿史跡保存会刊行の『東海道島田宿の歴史』(2016年・大塚淑夫)を拠り処として、もう少し詳しく紹介したい。「慶長九年秋七月大井川は未曾有の大洪水で沿岸の村落被害絶大と云う状態であった。先ず神座村の如き平地を流亡し、室谷、笹ヶ窪などこの水害に依って山裾まで流し浚われて終わった。向谷の堤防は根底から決潰されたので、本流は伊太口から旗指、野田の南端を浸し、又一筋は水神山鼻から分離して現在の...慶長の仮東海道(1)

  • 天狗岳西尾根

    立秋は過ぎても相変わらずの猛暑の最中、山の仲間二人と北八ヶ岳・唐沢鉱泉から天狗岳を周回してきました。山の日連休二日目のこの日は朝8時には唐沢鉱泉駐車場は満杯、600mも手前の林道路肩に駐車しました。久しぶりの八ヶ岳には大勢の登山者が登っていました。天気は晴れでも雲がかかりやすく眺望は今ひとつでしたが、休みの一日を元気に過ごせました。しゃくなげ橋を渡って西尾根登山道に入るワンピッチの上りで尾根に出た第二展望台から目指す西天狗岳を見上げる諏訪方面の展望巨石の積み重なった登山道を上っていく西天狗岳山頂に到着向かい側の東天狗岳山頂には大勢の登山者の姿東天狗岳山頂に到着稜線南側はガスに覆われがち稜線北側、蓼科山を望む岩がちの稜線を中山峠に向かう登ってきた東・西天狗岳の姿中山峠に到着黒百合平に到着苔むした滑りやすい道...天狗岳西尾根

  • 御塔処参りの道

    コロナ禍での帰省控えもあってのことなのか、いつもはごった返す盆の御塔処(おたっしょ)参り(墓参り)は、今夏(2020年)は静かなものだった。こうした盆の風習も、地域や宗派、寺によって異なっているようで、祖霊をお迎えに行くタイプとお送りするタイプがあるが、家(うち)のお寺さんは15日が恒例で、「ご先祖さんは家に帰っていてお墓は留守じゃないのか……?」と思えてしまう。以前、前の方丈(ほうじょう/住職)さんに伺ったら、「この寺は、元は街中にあったので檀家に商売屋が多く、盆休み明けにすぐ店ができるように一日前倒ししている」とのこと。七年前、老父が亡くなり墓所を旗指(はっさし)の法幢寺(ほうどうじ)とした。前住職が言うように、法幢寺は元々は本通一丁目北側の大村酒造の建つ場所にあって、現在地の旗指に移ったのは昭和50...御塔処参りの道

  • 南アルプスから(6)

    休みを利用して小河内岳まで縦走したようだ南アルプスの奥深い位置に立つ昔ながら高山裏小屋今夏からStarlinkの「山小屋Wi-Fi」が利用できるようになったのには時代の流れを感じる越えてきた荒川岳は大きい小河内岳からの富士山兜のような塩見岳蝙蝠岳から陽が昇る小河内岳は日本の3,000m峰が農鳥岳を除いて(塩見の陰)全て見える荒川岳に抱かれる荒川小屋今回歩いてきた縦走路荒川岳は大きい赤石岳では雷鳥の親子が南アルプスから(6)

  • 南アルプスから(5)

    21日に2回目のヘリが来ました今回は小屋前に荷物が降りましたが、風があったので屋根にぶつかるのでは!とびっくりしました水場の写真です写真では出てるか確認できないかもですけど…ちょろちょろ出ています古い登山地図には水場と記されてますが、今は立入禁止ですここを通ってタンクに溜めて小屋に揚げます今夏はタンクから溢れているので、現在では去年より心配無いかもです(7月初旬の雨が良かったのかも!?)KIMさんより、今回は山小屋のライフラインに関わる便りでした南アルプスから(5)

  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

    2007年11月20日講談社現代新書【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分...日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

  • 森町 遠州山間地の道の交錯点

    森町に通じる県道以上の山間道路遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から大日山の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。東海道(国一)のルー...森町遠州山間地の道の交錯点

  • 天方城跡

    15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へたかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える森町の城郭森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。通季の孫にあたる通興(みちおき)は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方新城(しんじょう)(現在の天...天方城跡

  • 安倍奥と井川を結ぶ道

    井川峠安倍川と大井川の間には分水嶺として、南アルプス白峰南嶺から山伏を経て連なる山稜が横たわっていて、安倍と井川の集落とを結ぶには越えなければならない峠がいくつかあった。その内、2000年前後まで実際に使われていたのは、北から牛首(三尺峠)、井川峠、大日峠、富士見峠の四ルートである。牛首ルートは、井川最北集落の小河内に出る道で、西日影沢からの山伏周回ルートとして登山目的でも使われていたが、コンヤ沢トラバース部分の崩落で通行止めとなって久しい。井川峠は、安倍側の孫佐島や大代と井川の岩崎を結んでいる。岩崎は井川ダム建設前には大井川左岸の集落だったが、ダム建設による水没で対岸に移転した。ここに架かる井川大橋は、車の通れる吊橋として知られる。大日峠越えは、井川ダム建設以前、井川から静岡に出るための、また口坂本から...安倍奥と井川を結ぶ道

  • 南アルプスから(4)

    梅雨が明けて夏山シーズン本番へ富士山とハクサンシャクナゲ7/17(2564.4三等三角点「奥槙沢」より)夕暮れの赤石岳富士山、手前右に笊ヶ岳・布引山7/19(2701標高点辺り、赤い屋根の小屋も見える)聖岳方面荒川岳方面おまけ山小屋の夕食生姜焼きと具だくさんの味噌汁が売り南アルプスから(4)

  • 静岡の一等三角点

    一等三角点「坂部村」(坂部高根山)師走の「おはようハイク」は、坂部高根山に行った。担当の河野君お薦めの展望所からは、高草山の上に富士山が、また北には大井川筋の山々と申し分無い眺望だった。目的地の坂部高根山頂には白山神社の祠があり、藤枝蔵田の高根白山神社との関連も窺えて興味が湧くと共に、もう一つここには一等三角点(点名:坂部村)と、県内ではここだけという天測点(かつて三角測量の位置座標を補正するための天文測量に用いられた測量標、全国で48点)が埋設されている。現在は木立に囲まれ山頂からの展望は望めないが、この場所が地図測量において重要な地点だったと推測される。三角測量の原理は、三角形の2点間の長さと内角が分れば、もう1点の位置(残り2辺の長さ)が分るというものだが、ここで必要になるのは正確な2点間の距離(基...静岡の一等三角点

  • 南アルプスから(3)

    小屋開けを迎えたが生憎の天候が続く「昨日、今日(7/11)と風が強くて雨もありで…嵐みたいな時もあります」「夕方4時、小屋前気温11℃」「今朝(7/12)6時頃の小屋裏から」赤石岳聖岳荒川・悪沢岳方面裏の展望台への道ハクサンシャクナゲ2564.4m三等三角点『奥槙沢』、名なしではありません小屋裏の小ピーク2564.4m三等三角点「奥槙沢」の名前が出ましたので、南アルプス南部の三角点について少々。三伏峠から光岳までの南アルプス南部主稜線のピークで一等三角点は盟主・赤石岳(3120.5m「赤石岳」)だけで、範囲を南アルプス全域に拡げても甲斐駒ヶ岳(2965.5m「甲駒ケ嶽」)と二峰しかありません。二等三角点は南部主稜線では小河内岳(2802.0m「小河内」)と上河内岳(2803.4m「上河内岳」)。三等三角点...南アルプスから(3)

  • 井川への峠越え

    井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、...井川への峠越え

  • 南アルプスから(2)

    知人からの南アルプス便り、小屋開け前の準備に忙しい絶好の布団(毛布)干し日和コーヒーブレイクやっと荷揚げのヘリが来る南アルプスから(2)

  • 井川に見る様々な「日本」

    一面に花が咲いたソバ畑=静岡市葵区小河内(2014年)9月22日付静岡新聞に〝焼き畑復活3年目静岡・井川の「在来ソバ」根付く〟という記事が掲載されていた。静岡市葵区井川地域で伝統の焼き畑農業を復活させ、在来ソバのブランド化を目指す取り組みが3年目を迎えた。ことしは近隣の民家を改装し、そば打ち体験など交流拠点としての活用も始まった。県外からの移住者も受入れ、集落に活気が生まれ始めている。として、2012年、井川小河内で約50年ぶりに焼き畑を実施し、井川地区の村起こしの一つとなりつつあることが紹介されていた。井川において焼畑が行われていたのは、遠い昔のことではない。戦後しばらく、場所によっては昭和50年代まで続けられ、山間(やまあい)の集落という地理的条件に即した農法であり、生活の基盤であった。井川の昭和28...井川に見る様々な「日本」

  • 続・山名の読み方

    先の会報に『山名の読み方』と題する小文を載せた。さっそくにA・Hさんが手紙の中で触れて下さり、また幾人かの会員からも反応があって気を良くした。今回は文末に記した「○○ノ頭」の頭について、無い頭(あたま)で考えてみた。A・Hさんは「私は頭(かしら)の呼び名が好きです。」と述べられ、また山の話をしていると、他の多くの人も[かしら]と呼んでいるようである。なるほど語感的には[かしら]の方が、すっきりと納まる気がする。ところで一般に使われている[あたま]と[かしら]の区別は、おおよそ以下のように思う。まず、体の部位としての区別は、[あたま]は頂点そのものであるのに対し、[かしら]は首(肩)から上の全てと範囲が広くなる。「おかしら付き」は顔のついた状態であり(魚に首や肩は無いが)、「かしら右!」の号令では首から上を...続・山名の読み方

  • 南アルプスから(1)

    奥山に入っている知人から山の便りが届く7/2聖岳と兎岳7/5三等三角点「奥槙沢」(2564.4)から朝の富士山南アルプスから(1)

  • 山名の読み方

    1997年・岩波新書山名、地名の読みというのは甚だ難しく、いつも苦労させられる。それは、こうした固有名詞には、それぞれの歴史的、地誌的な意味、つまりはそれぞれの地域の文化があって名付けられているからであり、また、長い時間の営為の中や、その土地土地の風土によって名前が変化(訛ったり、省略化されたり)してきている場合もある。さらに、後付けによって特殊な意味合いを付与されるなどということもあるので、一層複雑になってくる。そのような事情もあって、およそ当てられている漢字にのみ囚われていると、頓珍漢な方向に行ってしまったりすることもあるのだ。山名(地名)というのは、読みから辿らなければならないのである。逆に言えば、名前と、その変化してきた経緯(当てられた漢字を含めて)から、その土地の時間の流れ、風土などを垣間見るこ...山名の読み方

  • ランドマークとしての粟ヶ岳

    山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、この両山と我が家は東西線上に並んでいることが分かる。もう少し広い地域のことを言うと、志太平野は東端の高草山と西端の粟ヶ岳の両ランドマークに挟まれた地域であり、この両山を目印に新旧の東海道が越えているのだ。高草山塊を越える古東海道の峠が「日本坂」であるのに対して、粟ヶ岳から牧之原台地へと続くこの山塊を西から越える道は「日坂」で、いずれ劣らぬ難所であったことが窺えるが、大井川と共に駿河・遠江の境として存在する粟ヶ岳の方が、より東西文化を分かつ面が強かったのではないかと思える。高草山塊が白峰南嶺から続く大井川左岸尾根の最末端であるのに対して、粟ヶ岳は赤石山...ランドマークとしての粟ヶ岳

  • 吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

    金谷牧の原鳥瞰図を眺めるコロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題した鈴木雅春さんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである...吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

  • 天地耕作 初源への道行き

    左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?)右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマ...天地耕作初源への道行き

  • 野本寛一『大井川―その風土と文化―』

    歩き続ける人今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言...野本寛一『大井川―その風土と文化―』

  • アカクボ沢のトチノキ

    山住古道とアカクボ沢の栃巨木○期日:2003年12月10日(快晴)○コース:浜松市天竜区水窪町・山住河内浦(8:20〜40)…鳥居橋…〈山住古道〉…二合目(9:08)…六合目(9:50)…山住峠(10:25〜30)…常光神…1108三等三角点「山住峠」(10:42)…山住峠(10:56〜11:22)…山住神社(11:25〜40)…鳥居橋(12:37)…河内浦・山住家(12:42)…駐車地(12:52)=〈車移動〉=アカクボ沢下降点(13:05)…アカクボ沢栃巨木(13:17〜27)…アカクボ沢下降点(13:40)○メンバー:6名山住古道(山住神社旧参道)入口山住(やまずみ)古道は県道・水窪森線開通以前に歩かれていた参道で、河内浦(こうちうれ)と山住神社を結ぶ距離約2キロ・標高差約550メートルの山道が、水...アカクボ沢のトチノキ

  • 伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

    前記事の参考資料です。旧下田街道■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが...伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

  • 伊豆・二本杉歩道の補修

    二本杉峠(旧天城峠)山の仲間がラインで「河津側の二本杉歩道は少しづつ整備されそうですね。」と情報を届けてくれた。こちらにリンク↓吉田松陰も通った古道“通行禁止の道”復活へ一歩【河津・二本杉歩道】(『テレしずWasabee』2024年6月15日)峠の名の由来となった二本杉歴史的な街道である旧下田街道を今に伝える二本杉峠の河津側は、大雨被害によって10年余に亘り「閉鎖」されたままであったが、歩道の復活に向けて地元の有志たちが登山道整備を始めたとのことだった。二本杉歩道の荒廃は河津側だけでなく、北側の伊豆市(湯ヶ島)側も同様で、先日の伊豆山稜線歩道山行の際にも感じられたことだった。「天城遊々の森(旧大川端野営場)」の上部にあたるが、歩道の管理者すらおらず勝手に手が付けられない状況のようで、こうした歩道の保全には...伊豆・二本杉歩道の補修

  • 花菖蒲

    いつもより大回りの散歩から長谷川家長屋門前の花菖蒲長谷川家長屋門(はせがわけながやもん)前の花畑では、季節毎の花が見られる。今は花菖蒲がみごとに咲いている。*長谷川家は、慶長元(1596)年頃から島田代官であった長谷川藤兵衛長盛の弟、三郎兵衛長通が先祖になります。長通は、兄の長谷川七左衛門長綱に随い相模国に赴き、代官職を務めた後、ここに居を移し、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めました。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札には「維時元治元龍舎甲子臘月吉日・野田村・大工棟梁・栄次郎」と記されており、元治元(1864)年に建てられたことが分ります。茅葺入母屋造り、間口5間半(約10メートル)、奥行2間(約3.6メートル)で、市内に唯一残る茅葺長屋門です。(島田市ホームページより)立石稲荷(たていしいなり)こちら側...花菖蒲

  • 高桑信一編『森と水の恵み』

    ――生を取り戻す舞台2005年8月発行・みすず書房みすず書房から今夏(*2005年)刊行されたシリーズ「達人の山旅2」と銘打たれた16篇からなるアンソロジー。編者の高桑信一氏は、元浦和浪漫山岳会の代表で、ベテランの山旅派(?)の沢屋。会報11月号の編集後記で「登山者が山麓の風景を見なくなった。」という氏の言葉を紹介したが、消えゆく山里の文化や失われた径などを記録し、活発に著述や発言をしている。私が「山」を見ようとする時、大きな示唆を得ている一人である。高桑氏は本書「編者あとがき」の中で、本書を編むにあたって心がけたのは登山者の視点を捨て去ることだった。そこには登山という行為を基軸としながら、自然との共存をわが事のように慈しむ生がある。(中略)登山という領域に終始しながらも、山は主体ではなく、日々を暮らす者...高桑信一編『森と水の恵み』

  • 柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

    1999年8月発行・白水社――風景をこえて今年(*2002年)は国連の定める「国際山岳年」である。国連の意図するところは、環境あるいは資源としての山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟なのであり、行為としての〝登山〟を考えてのものではないが、これを契機として山岳地域を遊び場とする側も某かのアピールをしていこうと、各種のイベントが企画され開催されている。山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟が、国連にとって重要な課題となる背景には、地球環境の破壊という、その存立基盤への危機感がある。つまり、ほころびを見せ始めた〝近代〟を延命させるためには、山岳資源の管理が欠かせないものとしてあるのだろう。それでは行為としての登山をする側は、この機会に何をアピールしようとするのか。保護、保全といった環境の側面からだけでなく、行為とし...柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

  • いつもの散歩

    はっきりしない天気で予定の山歩きが中止となって、いつものコースの散歩。まずは6/6記事「大津落合のクスノキ」中とは別の八兵衛碑二つ。左/野田・鵜田寺境内の八兵衛碑(明治35年・西野田講中建立)大小二つの碑が重なって建てられている。藤枝バイパス工事に伴ってここに移されたらしい。右/尾川・尾川丁仏参道入口の八兵衛碑(明治35年・建立者不明)千葉山尾川丁仏参道入口に馬頭観音(左)や地蔵菩薩、道標などと共に建つ。丁仏参道の登り口は昔はここではなかったから、これも移されたものではないだろうか。ちなみに落合の八兵衛碑は明治36年建立、大草は平成7年に再建だが元は明治38年建立。明治35年〜38年に何があったか?これも例の招魂社の大クスノキと大津谷川。離れて見てもなかなか立派に思う。足元を見ると道端にはさまざま草花。オ...いつもの散歩

  • 串田孫一『山歩きの愉しみ』

    木の中に、もし物語を見るのならば、それは植物らしい物語のはずである。地上に生きる一切のものと同様に、宿命的にそれぞれの場所に根を張っているが、通りすぎて行くものとして私が見る時には、見られるものらしく、あるものは申し分なく気取り、気取りそこねてうなだれるものもあり、またあるものは争いのあとを隠し切れずにいる。彼らの生命の長短は別にして、彼らには、私たち人間に隠されている時間があるに違いない。その時間の、あまり窮屈でない区切りのなかで、木は物語を自分で創り出している。その物語をまちがいなく見抜くことは困難であるが、時にはなまめかしい仕種のあとさえ残っているのを見かけることもある。(串田孫一「山の博物手帖」より)串田孫一『山歩きの愉しみ』

  • 大津落合のクスノキ

    樹高:22m、目通り幹囲:6.8m、推定樹齢:300年以上※WEB『人里の巨木たち』内「静岡県の巨樹」によるいつもの散歩コース内に大きなクスノキがある。大津谷川に架かる堂前橋の袂にあって、境内の裏側から社に覆い被さるように立つ姿は凛々しく、四方からよく目立っている。クスノキが立つ忠魂社が建立されたのは、日清(1894〜95)・日露(1904〜05)戦争の前後だろうから、たかだか100年余にすぎないが、この木はそのだいぶ前からここに立っていたわけだ。大津忠魂社堂前橋を渡った対岸には橋の名の由来となったお堂があって、二体の頭部のない石仏が祀られている。また、お堂の前には小長谷八兵衛碑(1903年、落合講中建立)が建てられている。八兵衛信仰はほぼ志太郡内(大井川下流左岸域)のみというきわめて狭い範囲の民間信仰だ...大津落合のクスノキ

  • 山の本棚

    ドイツ文学者の故池内紀(おさむ)氏が、『山と渓谷』誌に2007年1月号から2019年10月号(同氏が亡くなったのは2019年8月)まで連載していた、書評エッセイ「山の本棚」全153篇が昨年刊行された。このエッセイは、ごく稀に『山と渓谷』誌を手にすることがあれば目を通していたが、全篇を目にするのは初めてだった。まず驚いたのはその量、月刊誌に12年にわたっての連載だから当然なのだろうが、B6判・470頁は充分なボリュームがある。ただ、その時々に気の向いた書題を拾って、ぼちぼちと一日一篇の勘定で読み繋げば半年は愉しめる案配だ。池内の簡潔な表現も、読み進めることを苦にさせない。帯には「古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を池内紀と歩く。」とあるが、その森の広さと樹種の多さに驚いた。「山の本棚」であるから、い...山の本棚

  • 庭のアジサイ

    妻の植えた庭の紫陽花小振りだけど葉に斑入りのガクアジサイが好み6月入り、そろそろ雨の季節か・・・で、何で6月が水無月なのか?「最も有力な説は、田んぼに水を張る月という意味の「水な月」だという説。“な”は“の”という意味の古語で、“無”は当て字」ということらしい。庭のアジサイ

  • 続・手引頭

    先の記事で「もう四半世紀も前になるが、今回と逆コースの仁科峠から天城峠を歩いたことがあったが、P1014を踏み同じタコブナを見たのかどうも記憶が定かでない。」と記したが、2008年に「手引頭」を紹介していた伊豆在住の[Yさん](趣味人倶楽部)に尋ねてみた。[takobo]このP1014を「手引頭」と称すようになったのはいつ頃からでしょうか?また山名の謂れはどこからでしょうか?ご存知でしたらご教示をお願い致します。四半世紀も昔、子どもを連れて来たことがありましたが、その頃はまだ手引頭とは呼ばれていなかったように思いました。[Yさん]30年以上前から伊豆の山を歩いてます。当時、伊豆の山は山道以外は猛烈な笹に覆われていて、道以外の藪を歩くのは困難でした。手引頭を知ったのは30年前の「伊豆天城山」(日地出版)の地...続・手引頭

  • 伊豆山稜線歩道・手引頭

    2024年5月26日/伊豆山稜線歩道(天城ゆうゆうの森〜仁科峠)天城ゆうゆうの森(8:35)…二本杉峠(9:47〜55)…滑沢峠(10:20)…三蓋山(11:03)…つげ峠(11:30)…P1014・手引頭(12:00〜25)…猫越岳(13:55)…仁科峠(14:50)手引頭のタコブナ(2024.5.26)大ブナ峠(通称・P1014西)のブナ巨木(2024.5.26)所属会の5月定例山行は、伊豆山稜線歩道の二本杉峠から仁科峠を歩く。ハイライトは、昼食場所としたP1014「手引頭」周辺のブナ林、広々としたいかにも天城の森らしい雰囲気のある場所だ。山頂近くの大シャクナゲの下部は既に花を落としていたが、頭部はまだ可憐なピンクの花を十分に残していた。山頂に根を張るこの森の主のようなタコブナは、何本もの太い枝を横に...伊豆山稜線歩道・手引頭

  • オオキンケイギク

    特定外来種のオオキンケイギク、最近は公園や歩道の植込みの中、道路の法面、堤防とあちこちで見かける。市の環境課に駆除をお願いしたら「残念ながら既に駆除・根絶ができる段階ではありません。」と白旗状態。「なお、オオケンケイギクを処分する場合には、根から引き抜いていただき燃えるごみとして排出いただければ幸いです。」おいおい、個人ボランティアかい・・・でも指定管理者に連絡を入れたのか、中央公園内のものは数日後に処理されていた。市外からも大勢訪れる中央公園内にオオキンケイギクのお花畑では、ちょっとみっともないからなぁ。オオキンケイギク

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