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さて、お遊び半分のクイズです。 活動時期には前後100年ほどの開きがある方々ですが、以下の四人には、 共通点があります。 ではそれはなに? 〇山上憶良(660?-733年?)貴族・歌人 〇吉備真備 (695-775年)右大臣・公卿・学者 〇最澄 (766?-822年...
李淵(りえん) 大唐帝国の創始者(高祖) 李治(りち)大唐帝国の三代目皇帝(高宗)
李淵(りえん) 簡単人物列伝 ステータス 史書によると出自は異民族鮮卑「せんぴ」系で、北魏が漢化政策(異民族の漢民族化)を進める中、李氏も漢民族を主張したというのが定説である。北魏が分裂した後の西魏で八柱国(八人の大将軍)の一人が父であり、
李建成(りけんせい) 簡単人物列伝 ステータス 李淵の長男で李世民の兄。李淵が挙兵するまでは、領地の一部(河東郡)を任され、また李淵が体調を崩したときは、隋の官僚との応対など行っている。617年の挙兵にて軍を出陣させ、弟 […]
中国史の魅力について解説 中華地域の文明が芽生えて7000年といわれてる。周辺地域がまだ狩猟採集を行っていたとされるころから栄えた中華文明は、少なからず周りの国々をまきこみながらダイナミックな歴史を歩んできた。王朝や文化が栄えては消え、消え
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下1分裂の時代朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。各々独立の政権をつくりあげた。汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗...6-2-1五代十国
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下3節度使の力皇帝や王を袮した者にしても、一般の節度使にしても、何よりも求めなければならなかったものは、兵力であった。募兵だけでは、まにあわない場合も出てくる。唐代の中期に、民衆の抵抗によって廃止されたはずの徴兵が、ふたたび実施されたりもした。いまの北京にあたる幽(ゆう)州を中心に、勢力をふるったのが、劉仁恭である。そこでは領内の十五歳から七十歳までの男子すべてを徴兵し、そのため村には男子の姿はみられなくなった、と記録ざれている。そのうえ徴兵した二十万人の兵士に強制して、「定覇都(ていはと)」という三字を顔に入墨(いれずみ)した。定覇都とは、羂権を決定づける部隊ということである。入墨したのは、逃亡をふせぎ、たとえ逃亡してもすぐ見つけだせるためで...6-2-3節度使の力
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役5唐朝の落日朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。いわば出世を反乱にかけていたといってよい。この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。よって、これから朱全忠ととなえる。いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜ...6-1-5唐朝の落日
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役4黄巣の栄光反乱はおこったが、彼らは一ヵ所にとどまって拠点をつくることはしなかった。ゆくてに立ちはだかる節度使(せつどし)の軍をうちやぶり、あるいはその間隙(かんげき)をぬって、おどろくほど広い範囲をかけめぐった。北は黄河から、南は広州にまでおよぶ地域で、四川(しせん)を除いて、ほとんど中国の全域にわたっていた。とくに黄河と長江(揚子江)にはさまれた地域では、はげしく流動し、主な地域を一度通過したばかりではない。おなじ都市をいくどか通ったこともあって、その足跡を地図にたどると、まるで蜘蛛(くも)の巣のようになる。この地域は、そのころ経済的にもっとも発達して、農民の階層分化がいちじるしかった。しかも飢饉がつづいたので、それだけ群盗がたくさん...6-1-4黄巣の栄光
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役3大乱おこる黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。そこから東の地方は「関東」とよばれた。黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであっ...6-1-3大乱おこる
中国の歴史 唐による東アジア世界の確立 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
隋が369年ぶりに中国統一をするが、2代で滅亡し、版図を広げて東アジアに君臨した唐王朝。 その唐について、「王
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役2塩の闇商人黄巣(こうそう)はわかいころから、塩を各地に売りあるいて財産をつくりあげた。その人となりは、任侠(にんきょう=弱きをたすけ強きをくじく)をよろこび、武術にもはげみ、また学問も身につけていて、当時としては知識人に属していた。財産があり、知識を身につけた庶民が、世に出るため第一に目ざしたのは、やはり役人になることであった。それには、登竜門として設けられた科挙(かきょ)の試験に合格しなければならない。高級役人は、旧中国ではエリート中のエリートと考えられ、またそれにふさわしい待遇をうけて、権力をもつ存在であった。しかし唐朝では、科挙、とくにそのなかで出世街道をあゆむ進士科(しんしか)の合格者として採用するのは、年にせいぜい二~三十人に...6-1-2塩の闇商人
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役1街頭の講談挿絵は黄巣、唐の滅亡に繋がる反乱を起こす「三七(さんひち)二十一、由の字の頭が出ず、脚は八方の地をふみしめる。果の頭には三つの屈折。」高座の上で、尹常売(いんじょうばい)という講談師が語りはじめると、聴衆はどよめいた。ときは宋代、ところは都の開封(かいほう)の盛り場のなかである。盛り場では、いつも民衆のよろこびそうな娯楽がもよおされ、たいへんなにぎわいを見せていた。そうした催しものの一つに講談があった。尹常売(いじょうばい)は、その講談のなかで歴史ものを語った。歴史といっても、古い時代の話ではない。宋代のすぐ前、五つの王朝が興亡した時代、つまり五代の話である。さて「三七、二十一、由の宇の頭が出ず、脚は八方の地を……」というのは...6-1-1唐の大乱の主役
臨済の教えはどうして鎌倉で受容されたか 栄西が渡った当時の中国の状況から考える
こんにちは、暖淡堂です。 別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。 今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。 sanboku.blogspot.com 臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末期。 安史の乱の後の、混乱した状態の唐の国の大体黄河下流域を活動の場としていました。 その頃、その地域を治めていたのが軍閥。 臨在は、その軍閥の有力者のところに説教にいっていたことが、「臨済録」の記述からうかがえます。 そこで考えたのが、「臨済宗」の日本での受け入れられ方。 日本に「臨済宗」の教えが伝えられたのは、宋の頃に中国に渡った栄…
基本情報 原文 先ず、此の書は佛暦經三千百巻に説き給うと云う。一義又百六十巻に説き給うと云う。両義有り何れにても文殊結集し給うと意を得るべきものなり。 天竺より大唐へ伝来を意得は、大唐雍州城荊山の麓に
陳健一さん死去向您致以沉痛哀悼 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m かなりショックなニューズ。 有名な陽関三叠 中国古曲 で 楊興新さん演奏 唐の王維の七言絶句が残っていますね、 私は 瑠璃の杯はないけれど、、 曇りヒスイ色のガラスに 葡萄ジュースにします。まだお若い。彼の名前は 四川飯店でアッツアッツの担...
安倍保名:連夜説教 第八席 保名義父に対面す ならびに子別れの和歌のこと
基本情報 『安倍保名:連夜説教』とは 題名 安倍保名:連夜説教 著者 三浦浦三 編 出版社 其中堂 出版年月日 明30.6 情節 恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信田の森の うらみ葛の葉 さて、前回
安倍保名:連夜説教 現代語訳 第二席 安倍仲麿入唐ならびに凌雲閣酒宴のこと
基本情報 『安倍保名:連夜説教』とは 題名 安倍保名:連夜説教 著者 三浦浦三 編 出版社 其中堂 出版年月日 明30.6 情節 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも 何れも早々と
山塘街の街歩きがスタートした。唐の時代に町が開かれたという歴史ある場所なので,街並みや石畳の道を見るにつけ,遠い昔にタイムスリップしたようだ。建物は古そうだが,建て替えられた比較的新しい建物も混じっている。観光地だけに人は多く,真っすぐは歩けない。目に付いたのは,結婚写真を撮影するカップルと撮影隊だ。結婚写真は日本を除く東アジア(中国・台湾・韓国)では常識で,景色のいい場所,今風にいえばインスタス...
*今年の中秋の名月は9月10日(土)____ 月餅でも買おうと中華街へ 日本で十五夜 中国では中秋節 月見だんご かたや月餅 平安時代に唐から伝来した風習なんですね 旧暦8月15日に出る月を愛でる *ご訪問ありがとうございます。 「👍...