野球選手が実際に使用したグラブやバットの展示を見るのが好きだ。観客席からは見えない細部のこだわりや使用感を、間近に感じることができるからである。

 先日、東京ドーム併設の野球殿堂博物館で、いつものように各球団の現役選手の用具展示を見学していた時、ふと気になったことがある。内側、すなわち平裏と呼ばれる手を差し入れる部分に刺繍が入ったグラブは、いつの間にこんなに増えたのだろうと。

 確かに以前から、野球選手のグラブには刺繍が入っていた。しかしそれは外皮に背番号や名前を縫い付けたものがほとんどで、意味合いとしては自分の持ち物に記名する感覚に近い。博物館内に展示されている1980年代後半の桑田真澄や江川卓らのグラブを見ても、全て外側の「記名型刺繍」であり、内側に刺繍を施してあるグラブなど皆無である。

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 一方で現役選手の展示グラブを見てみると、内側に刺繍があるグラブの方が圧倒的に多い。確認できただけでも、博物館内に展示されているグラブのうち、27個が内側の刺繍入りである。となると、この四半世紀の間にグラブ内刺繍が登場し、瞬く間に増加したことになる。なぜこの間にグラブ内刺繍が浸透したのか、主に2つの理由を考えてみた。

グラブ内刺繍が浸透した背景

 1つ目は高校野球のルール改正である。日本高等学校野球連盟(高野連)による「高校野球用具の使用制限」には、以前はグラブやミットに「刺繍で選手個人名、番号、その他の文字を入れてはならない」と規定されていた。ところが2010(平成22)年3月の改正時に、この文言が「グラブ、ミットの表面(受球面・背面)に氏名、番号、その他の文字を表記することを禁止する」と変更されたのである(※注1)。すなわち受球面・背面ではない、見えない平裏部分に刺繍を入れることはOKと解釈され、グラブをオーダーする際に内側に刺繍を入れる高校球児が増加した。これをプロ野球に入っても続けている選手が多いのではないだろうか。

 2つ目には刺繍機器の進歩が挙げられる。昭和50年代には刺繍機のコンピュータ化が進み、機器も進化していった(※注2)。細かい図柄や多色使いの刺繍も可能になり、より安価に、気軽に刺繍が入れられるようになった。刺繍の敷居が低くなったことにより、グラブ内刺繍も増加したのではないだろうか。なおこの理由は、一部の中学生が卒業式に着用する「卒ラン」の刺繍の文字数が、格段に増えたこととも関係があるかも知れない。

 もちろん現在でも外側の「記名型刺繍」は多く見られ、書体やデザインも多種多様である。にもかかわらず多くの選手がわざわざグラブの内側を選び、刺繍を施す。見えない部分に施すからこそ、何か本人が重視している事柄や美学が込められているのではないか。それは、背広の裏地に縫い取られた虎の刺繍にも似ている。

 そのような視点からグラブ内刺繍を見てみると、いくつかのパターンに分類することができる。まず、家族の名前やイニシャルなどを縫い取るタイプ。カープで言えば、家族全員の名前を一文字ずつ刺繍した森下暢仁の「力 美 夕 暢 颯」や、夫人の名前を刺繍した薮田和樹の「Karuna」がこれにあたる。次に、座右の銘や信条を縫い取るタイプ。中﨑翔太の「初志貫徹」や大道温貴の「不動心」などが代表例だ。