漫画家生活30年を超える柴田亜美さん。1991年に発表したプロデビュー作『南国少年パプワくん』で一世を風靡したのち、少年漫画、ギャグ漫画、エッセイ漫画などジャンルを問わず、多くの傑作を生み出した。
そんな柴田さんがTwitterに「常軌を逸した多忙ぶり」を紹介する4コマを投稿した途端、ネットは激震。毎月の執筆ページは、なんと150ページ近く。
90年代を代表する超人気漫画家の生活とはどんなものだったのか? 柴田さんに振り返ってもらった。(全3回の1回目/#2、#3を読む)
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広告会社勤務から「地獄の漫画家生活」に突入
――1991年に「月刊少年ガンガン」創刊号で漫画家デビュー。いちばん忙しかったのはいつ頃ですか?
柴田亜美さん(以下、柴田) デビュー翌年に『パプワくん』がアニメ化されて、その数年後には「月刊少年ジャンプ」や「週刊ファミ通」での連載が始まって……。漫画家生活2〜3年目で、もう地獄でしたね。
当時の「ガンガン」って、エニックス(現スクウェア・エニックス)が初めて作った雑誌で、私はまだリクルートの子会社でイラストを描いていた時代。
実は雑誌のスタッフ全員が漫画1年生だったから、業界のルールや適切な仕事量もわからなかったんです(笑)。私も実践でしかスキルを上げられないと思っていたし、来た仕事は断るべきではないと思って働いていました。
――当時だと、リクルートの仕事も忙しそうですよね。
柴田 アルバイト求人情報誌「FromA」が週2回出ていた時代で、もう戦争でした。でも、早く描く力はそこで鍛えられましたね。私が会社員のときはまだバブリーで、毎週金曜日はとにかく経費を使うために、全部署で宴会をひらいていました。
――今や都市伝説としか思えない「1万円札を振ってタクシーを停める」ということも……?
柴田 いやいや、1万円ぐらいじゃタクシーが捕まらない時代でしたよ。だって、1万円を持った人が道沿いにズラーッと並んでいるんだもの。5万円でも停まってくれなかったんじゃないかな(笑)。