今年1月、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の玄孫(やしゃご)である山岸美喜さんが、第5代当主として「絶家」することを発表し、大きな話題となりました。

 120年以上の歴史を持つ名家を閉じようと決めた理由は――先代の徳川慶朝さんが6年前に他界した後、山岸さんが「第5代当主」になるまでの道のりについて聞きました。(全2回の1回目/続きを読む

山岸美喜さん 徳川慶喜家墓所の前にて ©杉山拓也/文藝春秋

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――山岸美喜さんは、徳川慶喜家の第5代当主です。慶喜からみれば、玄孫ですね。祖父は15代将軍・慶喜の孫の慶光さんで、祖母は幕末の会津藩主・松平容保の孫の和子さんという、由緒正しい御家柄です(家系図を参照)。

山岸美喜さん(以下、山岸) 会津松平家は祖母の実家で、徳川慶喜家は母の実家です。慶喜家の当主は、慶喜の七男の慶久、孫の慶光、ひ孫の慶朝と受け継がれました。慶朝の遺志によって、5代目当主として、家じまい、墓じまい、いわゆる絶家という局面に向き合っています。

徳川慶喜家の家系図

徳川宗家と慶喜家の違い

――そもそも、徳川宗家と徳川慶喜家は、どう違うのでしょうか。

山岸 慶喜は1867(慶応3)年に大政を奉還して、謹慎、引退という事になりましたが、将軍という立場を失っても、徳川宗家の当主を誰かに継がせなければいけない。のちに10男11女をもうける慶喜ですが、このころはまだ子がなく、田安徳川家から6歳だった亀之助(のちに家達)さまが第16代宗家の家督を継いだのです。全ての立場を控えた慶喜は、宗家の庇護下に置かれます。宗家は今年1月に、19代目として58歳の家広さまが家督を相続されました。

 静岡市(かつての駿府)で隠居していた慶喜は、1902(明治35)年に公爵に叙されました。このとき、明治天皇よりご宗家とは別に、新しく徳川慶喜家を興すことが許されました。

徳川慶喜と徳川家達(山岸さん提供)

――徳川宗家は、爵位の中で最も高い公爵でした。徳川宗家の別家として作られた慶喜家も、同じ公爵になったのですね。

山岸 ご宗家の家達さまはどのようにお感じになられたかは存じ上げませんが「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を再建する人」とおっしゃっていたと聞いています。もしそれが本当であれば、養子に迎えてくれた父親に対しての感想としては、残念に思います。明治天皇は、大政奉還という慶喜の英断によって、平和な世の中が訪れたとお考えだったようで、爵位がなかった時代でも常に慶喜に配慮してくださっていました。

――徳川家というのは、現在いくつあるのでしょうか。