全国の尼僧(出家した女性)を手にかけたことでついたあだ名は「殺尼魔(さつにま)」…。明治、大正の時代にかけて10数名もの罪なき人々の命を奪った「恐るべき殺人鬼」とはいったい? 新刊『戦前の日本で起きた35の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「殺尼魔」と呼ばれた男
明治時代後半から大正時代初期、全国をまたにかけ尼僧を中心に強姦・強盗殺人を働いた僧侶がいる。大米龍雲(おおこめりゅううん)。一説には十数人を手にかけたとされる通称「殺尼魔」だ。
日本初のシリアルキラーとも言える大米の犯行形態は鬼畜にも劣る残虐なものだった。
大米は1872年(明治5年)、東京・浅草の質屋で生まれた。本籍が定かではなく本名もよくわかっていないが、幼くして両親が亡くなり、7歳の頃に親類に財産を横領された挙げ句、大分県大分市の禅寺、曹洞宗・龍昌寺に預けられる。龍雲の法名は同寺の住職、大米龍元から授かった。
1890年(明治23年)、18歳のとき、父親代わりだった龍元が死亡。大米は寺を出て、熊本の柔道場の内弟子となり三段を取得する。1894年(明治27年)に勃発した日清戦争に出兵した際、地雷に触れ負傷、鼻柱を失う(親の病気が原因という説もある)。
このことについて、大米は後の予審(旧刑事訴訟法に定められていた、裁判を実施するかどうか判断するための審理)尋問調書で次のように供述している。
「私はご覧のとおり醜い容姿でありますので、これまで女に好かれたことがなく、こちらで好いたらしく思いましても振り向きもされず、惚れた気持ちを打ち明けようものなら笑われるのが落ちでありとうとう40を過ぎてしまったわけであります」
戦地から負傷送還された大米はその後、静岡県島田町の福仙寺で住職に就くも、檀家が少なかったことから22歳のとき寺の仕事に見切りをつけ詐欺や窃盗を重ねながら全国各地の寺を転々とする。黒染の衣を着た大米は行脚僧にしか見えず、どこの寺も疑うことなく宿を提供した。
最初の殺人は1905年(明治38年)1月。兵庫県尼崎市の真如庵に押し入り、当時72歳の老尼僧を殺害。24円(現在の貨幣価値で約48万円)を奪い逃走する。同年6月、島根県松江市の千手院で金を詐取しようとしたところ、住職に通報され逮捕。偽名を使っていたため先の殺人は露見しなかったものの、松江監獄に収監され6ヶ月の服役生活を送る。
3年後の1908年(明治41年)12月、三重県桑名市で窃盗10件を働き、再逮捕。懲役4年の判決を受け、またも偽名で安濃津監獄に服役し、1913年(大正2年)1月に出所。以降、大米の犯行は大胆かつ残虐になっていく。