先日の私がS屋を辞めた経緯の続き…
昔の事を思い出し書いてると…走馬灯の様…私の人生は
終わりに近いんじゃないかと…ふと、思ってしまいます…
( ̄∇ ̄)憎まれっ子世に憚るから、長生きしそうと…思います。
人から見たら大変そうに思えるかも知れませんが、
人生は誰もが1本の小説が書けると言います。
私は昔の事だけは覚えが良い…のですが
少し忘れつつあります。忘れる前に…
やっと決着が着いて(お喋りな後輩Oは先にS屋を辞めました)
お茶の水湯島にあった本社に手続きで呼ばれて行ったら、
私と同期(…らしい、けど入社時に全く顔も見てなかった)S屋社長の出身
K大学の百貨店研究会の後輩だったイカれK○と呼ばれてた
特別社員とバッタリ…
(このイカれ小○と言うニックネームをつけたのは海外事業部のディレクター、
マツダのアメリカ法人にいた方、後に石田財団でお仕事して、大学の先生になった。
アメリカのパタゴニアブランドを日本に紹介した人でした。もうお亡くなりに…)
以前、面白い論客がいるからと、本社の屋上の小屋へ行った事
があり、彼はそこで奇声を発し乍ら壁をドラムのスティックで
叩いてた。
話を聞いいても、この人は変?と、皆で言ってたのですが…
どう見てもただの遊び人。
開発室(あのTSUTAYA増田氏も在籍)で軽井沢にS屋のプチ
ホテル?ロッジ?を担当し、完成お披露目パーティで、あの
口の悪い商品部マネージャー(面白い方なんですが)が
「これで良いと思っているならかなりレベルが低い」と
言った所為で逆上、
傍にあった大きな花瓶を投げ付けようとして、屈強な社員に
取り押さえられた…のは知ってたけど、退職する手続きが
偶然同じ時に呼ばれてた。
それで、帰り道、2人でお茶して、その後情報交換、
六本木に顔の広い女性がいると紹介されパーティへ
私の後輩は彼女の紹介でアパレルへ就職。
私はK○氏から、I○T○社長に会ってみないかと言われて、
イカれK○は桃太郎で有名なO市の駅近くの百貨店の息子、
母親が出張用に使ってる南青山のマンション住まい。
甘やかされて育ち、出版著書も色々あるけど、一寸怪しい
ファッションアジテーター
その実家のデパートは彼がリニューアルして…駄目にしたと聞きました。
のちにオン〇〇〇の13区のプロデュースで成功して有名に
なりますが、最近見たら彼のWikiはかなり出鱈目( ̄∇ ̄)
アレは自分で都合のいい様に勝手に書けます。
紹介されたI○T○社長に会いに表参道の脇道の突き当たり
(昔、ドンクや北青山病院があった道)
手前が自身が経営するアパレルのあるマンション
隣のマンション屋上のペントハウスがアトリエでした。
履歴書を出し、トントン拍子にお話が決まり、
その会社が以前S屋がバックに付いてた縁があったのは後から知りました。
いきなり、チーフデザイナー、お給料はS屋の倍以上、
独立予定で高めのアパートを借りていたので大助かり。
アトリエには3人の女性がいて、週3日のパタンナーさんと
ニットデザイナーが2人、全員年上でした。
ニットの2人は毎日かせくり機で糸を巻いていました。
つまり何も動いていないアトリエだったのです。
I○先生も何がしたい?何を作りたいのか?全く不明な方で、
大きな花火を打ち上げたいと言って、いつもフラフラしてる、
絵を描かない…
デザイナーが絵を描いてイメージを作ると言うのは完全なる思い込み。
comme deの川〇〇氏もセレクターの様で何も言わなくても
企画室のデザイナーがイメージトワルを組んで見せに来るそうです。
comme deではパタンナーとデザイナーの区別も無い。
片やイラストレーター上がりのデザイナーは絵しか描かない、デザイン画を
アシスタントやパタンナーに渡してお任せ、リゾートに行く方も…
そこで、ファッションショーの為に協力してくれる人や、
スタッフ探しから始まりました。
だから私が口説いてくるスタッフのチーフだった訳です。
先生のここがば〜っとなってるとか訳の分からない言葉を
何でも絵にしてしまう、絵の上手いKちゃんに週3日来て貰い、
訳が分からないけど、彼女はニットが得意なので編み地が
朧げに想像が付いてくる。
でもキット先生はイメージなんて無くって適当に言ってる。
他所に勤めていたお喋りの後輩Oをパタンナーに呼び寄せて、
(K大賞を受賞して、才能がある)デザイナーSさんを
紹介されて、何とか作品造りの体制を整えました。
ここのアトリエは先生の個人的なショー用のアトリエでした。
呼び名は何でもいいよと言われ、先生と、社名はTファクトリー
私はチーフコンダクターにしました。
先生には商社の人や糸商がバックについてる様でした。
よく鞄持ち(お財布預かり)で今は亡き銀座のマキシム、
赤坂のラテンクォーターなど接待について行きました。
そのうち彼がやりたい事が薄っすらと分かって来た。
ショーの予算も私が担当、プレスやモデルオーデション、
マスコミ関係の根回しまで、後には協力工場も探す事に…
ショーのスタイリストは先生と好みが似たa○a○の
スタイリストを紹介して貰いました。
先生は叩き台が出来るとあれこれ注文が出てきます。
私は出来る限り最後まで、完成させました。
何度アトリエでシーチングにくるまって眠ったか…
あのお喋りの後輩Oは撮影で先生、スタイリストやカメラマン、皆、草臥れ
帰って来て、サンプルをハンガーにかけようとしたら、埃が立つ…と言い放った。
この女はもう仲間では無いと痛切に思いました。
1回目のショーは11月には間に合わず、1月に春物。
一応大成功だったと言えると思います。
ショーを続けるためにデザイン契約も増えて、大忙し…
せめて先生がショーの色出しでもしてくれたら…
助かるのですが…出来ない…
雑誌の貸し出しも、作品依頼も、インタビューも一気に
増え、先生のカンペメモ作りまで作ってました。
パリに住んでたのに私にトリコロールって何だ?と…
フランス語はコンプリケ?とか一応喋れる様でした。
この後、ベルコモンズが建ち、I先生が自分の名前を冠した新ブランド
(スタッフは別)を作り、ベルコモンズに出店します。
私が先生の名代として会合に出たので、元上司達がびっくり仰天
そりゃそうです、S屋を辞めて僅か1年で得意先として現れた。
先生はデザインや絵は描けないけど、浪漫を語って
スポンサーを見つけるのが天才的だった。
そしてI○先生の(殆ど)親友がこのファッション情報誌の主幹
創刊号から私のヘタな記事を書かせて頂きました。
先日書いたS屋を辞めた経緯