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ベイサイドに宿る 十人十色の横浜愛

<Whales Memory>愛すべき横浜大洋事件簿

 

度々起こるハプニングやアクシデントでさえも、運命だったのではないかと想像をかき立てる魅力だった。ホエールズとベイスターズの足跡を追った「4522敗の記憶」を代表作に持つ村瀬秀信氏だからこそ知るエピソードとは。
文=村瀬秀信 写真=BBM

メサキャンプでの数少ない収穫? だった斉藤のヒゲ


クジラに魅入られ


 僕の心のまんなかにはいつだって「W」がある。栄光ある歴史、愛すべきクジラの男たち、横浜大洋ホエールズ。15年で12回のBクラスなんて結果など正直どうでもいい。勝ち負けじゃない、人生の大事なことを横浜大洋に教わった。優勝経験なしで200勝に唯一たどり着いた平松政次山下大輔の華麗なる出自とフィールディングに田代富雄の豪快な空振り。何度刺されても果敢に走り回るスーパーカーに、転がさない屋鋪要のフルスイングと小兵の四番、こけしバットの山崎賢一の健気さ。通算6本塁打の石橋貢が1試合3本塁打の狂い咲きをすれば、代打コールで「ヒロカズ」と叫ぶスタンドの声を屈伸しながら聞く加藤博一。斉藤明雄(斉藤明夫)のいかつい見た目とは対極の針の穴を通すようなコントロールと遠藤一彦の美し過ぎる投球フォーム。それによく似た大門和彦。8歳のときに初めて見たホエールズ、ピカピカの横浜スタジアムで見た、五月女豊の字面の艶めかしさに対するヒゲパンチ銀縁メガネのギャップと、あばれはっちゃくに出ていた東野英心似なダンプ辻とのバッテリーに幼い心は撃ち抜かれた。以来40年、この球団は僕の心をつかみ続けている。

 1950年に下関で誕生した大洋ホエールズという球団にとって横浜は辿り着くのが必然の地だった。遡ること95年前。のちの大洋ホエールズ初代オーナーとなる中部兼市氏が起ち上げた林兼商店野球部が初の都市対抗に出場した際、東京日日新聞に「トロール船を偽装して横浜まで押しかけようか」と勇ましいコメントを残している。

 それは、星に導かれるように奇跡的な美しい逸話を描くプロ野球チームの物語。93年に大量解雇でクビになった屋鋪要が、青島の海岸に座礁したクジラを海へ返すと、その秋に38年ぶりの優勝を果たすような、胸をときめかせずにはいられない横浜大洋の男らしくも愛しい15年の軌跡をエピソードで振り返ってみたい。

 1978年。大洋ホエールズが横浜に来た。横浜スタジアムのこけら落としだった巨人戦に別当薫監督は2年目の斉藤明雄を先発に指名。1失点完投勝利を挙げた斉藤はこの年16勝、最多奪三振のタイトルを獲得。だが新人時代の斉藤はヒゲを生やしておらず、なぜかサングラスを掛けていたが「HOYAバリラックス(メガネ)」のCMでお馴染(なじ)み“境目のない男”別当薫監督のすすめでコンタクトに変更。その後、遠藤一彦とともにメガネスーパーのCMに出演「メガネがいいから200勝」「それは無理だよ斉藤さん」の掛け合いでWエースとなった。

メサキャンプの収穫


 1980年。大洋初優勝時の正捕手、土井淳が待望の監督に就任する。全面バックアップを約束した球団フロントは、球団初となる海外キャンプを温暖な気候のアリゾナ州はメサで実施。親会社のマルハから海苔300帖などが差し入れられ、フロント、現場ともに気合十分でスタートしたキャンプ。その初日に雨が降り現地民が「20年に一度の雨」と歓喜する。この年は大洋優勝からちょうど20年。縁起がいい、吉兆だ、などと言っていると、翌日も、その次の日も雨がやまない。やがて現地民は「200年に一度の大雨だ」と言い直し、室内練習場もない大洋は完全に調整不足。開幕ダッシュに失敗し、土井はわずか2年で無念の退任。以来、一度も海外キャンプは行われていない。

 このとき、雨で練習できない投手陣は・・・

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