1: 2011/06/07(火) 01:43:31.67
男「ええと……」

男性「こんなことになって、君には申し訳ないと思っている」

男「ちょっと待ってください。そ、それじゃ……」

男性「…………」

男「あいつがいなくなって、あの子は……」

男性「他に頼める人間がいないんだ、君以外には」

男「…………」

男性「やってくれるか?」

男「……分かりました」



男「僕が、彼女の兄になります」



5: 2011/06/07(火) 01:48:21.95
──自宅

男「……もしもし、母さん?」

男「うん、うん」

男「そうなんだ。仕事がやっと決まった」

男「はは、やっぱり、母さんの言った通りだったね」

男「うん……あ、でも、それは……」

男「ごめんね、こっちが落ち着くまでは戻れそうもないんだ……」

男「……うん」

男「分かったよ、頑張る」

男「母さんも元気でね? また時間できたら、すぐに向かうから」

男「うん、じゃあ、バイバイ」

男「…………」

9: 2011/06/07(火) 01:51:41.55
コンコン。

男「失礼しまーす」

ガラガラガラ……。

妹「……え?」

男「よっ! どう、元気にしてたか?」

妹「……す、すみません……ええと」

男「ん? どうかしたか?」

妹「その……わたし」

男「?」

妹「…………」

男「もしかして、俺のこと、覚えてない?」

妹「……すみません」

12: 2011/06/07(火) 01:55:29.78
男「そうか……そうだなぁ」

妹「…………」

男「こういう場合、どう言っていいのか、分かんないな」

妹「はぁ……」

男「この際、しょうがない。単刀直入に言うね」

男「実は俺、君の兄なんだ」

妹「……え?」

男「覚えてない? 顔とか、声とか」

妹「……え、す、すみません」

男「……そうか、覚えてないかぁ」

妹「…………」

男「あっ、そんなに落ち込まないで」

14: 2011/06/07(火) 02:01:10.51
妹「わたし……昔のこと、全然覚えてなくて」

男「…………」

妹「気がついたときには、このベットで横になってて」

男「うん」

妹「何にも分かんないです……どうなったのかも、自分のことも」

男「……うん」

妹「悪気があるわけじゃなくて」

妹「……いや、すみません。これは、ただの言い訳ですよね……」

男「いいんだ。気にしなくていいよ」

妹「……はい」

男「…………」

男「ちょっと疲れさしちゃったみたいだね」

男「……うん、日を改めて、また来るから」

15: 2011/06/07(火) 02:05:45.51
──病室前

男「…………」

男性「どうだった?」

男「全く、気づいた様子ではないです」

男性「それは良かった」

男「でも、いいんですか?」

男性「何が?」

男「こんな偽るような真似して、後で問題になりませんか?」

男性「親の私がいいと言ってるんだ。その責任は、私が負う」

男「でも……」

男性「君が、そんなに難しく考えることはない」

男性「ただ、言われた通りにあの子の兄代わりをして欲しい」

男「…………」

19: 2011/06/07(火) 02:13:06.51
男性「君も、あの子の手首を見ただろう?」

男「それは……」

男性「大惨事だったんだ」

男性「風呂場が血の海で、それを見た妻は失神してしまった」

男「…………」

男性「これ以上、もう誰も失いたくない。分かってくれるか?」

男「はい……」

男性「良かった。それに、これは君にも利がある話なんだ」

男性「だからくれぐれも、良心の呵責に耐えきれなくなって」

男性「あの子に打ち明けるなんてことは、ないようにしてくれ」

男「……分かりました」

男性「よし。なら、会社に行っていいぞ」

男「はい、社長」

22: 2011/06/07(火) 02:20:24.07
──会社

ドサッ。

男「……え?」

上司「この仕事、明日までに終わらせておくように」

男「ちょ、ちょっと待ってください」

上司「ん?」

男「こんな量……ただでさえ、入ったばかりですし……」

上司「そんなの言い訳になるか?」

男「……いえ、失言でした」

上司「徹夜してでも終わらせろ。いいな?」

男「はい……」

上司「あ? なんだよ、その不服そうな返事は」

男「…………」

26: 2011/06/07(火) 02:25:31.68
上司「フン、いいよなー?」

上司「こんな不景気でもコネがあるお坊ちゃん様はさー」

男「…………」

上司「中途採用のお前を入れるために、こっちは仲間を一人左遷してるんだ」

上司「加えて、新しく入った奴は即戦力にもならないと来てる」

上司「どれだけ皆の仕事が増えたと思ってるんだ?」

男「申し訳ない……です」

上司「そんなのデスクワークなんだから、さっさと済ませろ」

上司「慣れたらすぐに、外出てもらうからな?」

男「……はい」

上司「ほんと、上の奴は何考えてるか、分かんないわ」

上司「この糞忙しい時に、新卒より使えないボンクラ入れやがって……」

男「…………」

29: 2011/06/07(火) 02:31:18.14
──自宅

男「……ただいまー」

男「…………」

男「はは、空しいな」

男「返事がないの分かってるのに、慣れでいつも言っちゃう……」

男「……ふぅー」

男「さて、明日の出勤まで、残り二時間」

男「……これじゃあ、眠れないなぁ……」

男「…………」

男「……俺が、兄……か」

男「…………」

男「なぁ、親友」

男「なんで、お前……死んじゃったんだ……?」

33: 2011/06/07(火) 06:00:55.21
──病院

コンコン。
ガラガラ……。

妹「……あ」

男「うん、また来た」

妹「お、兄さん……?」

男「もしかして、思い出した?」

妹「いや、違うんです。ただ、前にそう言ってたから……」

男「あーそうか……ごめん」

妹「いえ……」

男「え、ええとさっ」

妹「は、はい」

男「……どう? 体の調子とか」

44: 2011/06/07(火) 17:04:58.62
妹「体はもう回復してるみたいですけど……」

妹「お医者さんの話だと、まだ安静が必要だって」

男「そうか」

妹「呼び方は、『兄さん』……でいいですよね?」

男「あー……」

妹「えっと、前は違いました……?」

男「……そうだなぁー、昔は──『お兄ちゃん』だったなぁ」

妹「『お兄ちゃん』?」

男「うん、小さい頃からずっと、そう呼ばれてた」

男「自分で言うのもなんだけど、本当に仲の良い兄妹だったんだぞ?」

妹「そうだったんですか……すみません、思い出せなくて」

45: 2011/06/07(火) 17:06:10.16
男「いいんだ、焦る必要なんてないから」

妹「はい……」

男「うん」

男「……『兄さん』……ね」

妹「…………」

妹「……あの、『お兄ちゃん』?」

男「ん?」

妹「仲が良かった昔の話……聞かせてもらえないですか?」

男「…………」

妹「それを聞いたら、わたし、もしかしたら……」

男「……そうだなー」

男「あれは、まだ俺が小学生で」

男「近所にいる仲のいい友達といつものように遊んでたんだ」

……………。
………。

47: 2011/06/07(火) 17:07:04.44
男『おーい、こっちだ!』

親友『悪い悪い、遅くなって』

男『約束の時間から、もう一時間も経ってるぞ?』

親友『実はさ……その』

?『…………』

男『ん?』

親友『ええと、なんだろ、俺の妹?』

男『妹? お前に妹なんて、いたっけ?』

妹『うぅ……』

親友『すごく人見知りする奴でさ……ほら、挨拶しろって』

妹『そ、その……はじ、初めまして……』

男『う、うん……』

48: 2011/06/07(火) 17:08:26.01
親友『遊びに行くっつったら、今日は「私もついてく」って言うんだ』

親友『だからさ……』

妹『……うぅ』

男『……別にいいよ』

親友『本当か? ごめん……ありがとう』

男『気にすんなって! よし!』

妹『……ん?』

男『今日から、お前は、俺の妹になるっ!』

妹『ふへぇ……?』

親友『は……?』

49: 2011/06/07(火) 17:09:21.34
男『親友の妹なら、それこそ、俺の妹でもあるわけだろ?』

妹『お、お兄ちゃん……』

親友『いや、えっと……』

男『ん? 親友のことは『お兄ちゃん』って呼んでるのか』

妹『あ、うん……』

男『なら、俺のことは……』



男『──『兄さん』にしようっ!』



54: 2011/06/07(火) 18:02:58.27
──社長室

男「……失礼します」

ガチャ。

男性「おー、来てくれたかっ」

男「はい……それで、ご用件は……」

男性「もちろん、あの子のことだよ」

男性「最近、余り時間が取れなくてな……病院に行けてないんだ」

男「そうですか……」

男性「どうだ? 彼女の様子は?」

男「日が経つにつれて、元気を取り戻してるように見えます」

男性「うん、うん。それは良かった」

男「はい……」

55: 2011/06/07(火) 18:10:26.87
男性「……ん? 浮かない様子のようだな?」

男「え……」

男性「もしかして、会社内のことか?」

男性「確かに、無理やり入れこんだ感があるから」

男性「初めのうちは、君も苦労することだろう。しかし……」

男「……いや、そのことではなくて」

男性「ん?」

男「彼女のことです」

男性「私の娘の話か?」

男「はい」

男性「……どうした? 何が問題だ」

男「これは……いつまで続ければいいんでしょうか?」

男性「…………」

56: 2011/06/07(火) 18:11:41.16
男「今はまだいいです。彼女が思い出さないうちは、まだ」

男性「けれど?」

男「僕には分からないんです。この仕事の、終わりが」

男性「終わり……か」

男「何をもって達成とするんですか?」

男「彼女が事実を一人で、受け止められるようになってから?」

男性「……それは、恐らくない」

男「…………」

男性「事実がばれたら、そこで全て終わりだよ」

男性「私はまた大事なものを失う。それだけは避けたい」

男「……だから、永遠に隠し通せと?」

男性「いいか。そう難しく考えることなんかじゃないんだ」

男「…………」

57: 2011/06/07(火) 18:12:47.15
男性「君は死んだ私の息子の代わりをする」

男性「自責の念にかられている娘の兄となる」

男「……はい」

男性「幸いにも、生前の息子と私の関係は良好なものではなかった」

男性「会社の人間で、成人した彼の顔を知っているものはいない」

男性「それに……今、この会社には不穏な空気がたちこもっているからな」

男「……というと?」

男性「時期が来たら、また知らせる」

男性「どう転んでも、君には悪い話ではない。だから、心配するな」

男「……はい」

男性「あと、そうだな」

男性「そろそろ、機会を設けるから、私の妻にも会って欲しいな」

男「……分かりました」

男性「よし、話は以上だ。職務に戻って欲しい」

59: 2011/06/07(火) 18:35:33.93
──病院

妹「……お兄ちゃん?」

男「あ、うん?」

妹「すごい思い詰める顔してましたよ?」

男「そうだったか……いや、最近、少し仕事で疲れててね」

妹「大丈夫ですか?」

男「はは、病人のお前に心配されるなんてな」

妹「ふふ、そうだ。お話でもしませんか?」

男「話?」

妹「そうそう、両親のこと聞かせてください」

男「ええと……」

妹「ん?」

男「それは、お前の父親と母親の話か?」

妹「もちろん、そうですけど……」

60: 2011/06/07(火) 18:36:17.11
男「あっ、うんとな……」

男「父さんは……その、ちょっと強面の人だったろ?」

妹「あ……はい」

男「初めて見た時、どう思った?」

妹「その……正直な感想言っていいですか?」

男「うん。親父には内緒にしとくよ」

妹「……実は、結構、怖かったんです……」

男「はは」

妹「だから、その父に「明日、お前の兄が見舞いに来るぞ」って言われた時」

妹「どんな怖い男の人がくるのかと、心配でした」

男「ほほう、それで」

妹「でも、実際の兄はとっても優しそうな方で」

61: 2011/06/07(火) 18:36:55.22
妹「だから初めて会った時、兄じゃない人だと思ってました」

男「……うん」

妹「……その……ええと」

男「ん?」

妹「もしかしたら、わたしのこ、恋人だったり……したらなーみたいな……」

男「『恋人』……か」

妹「いやっ、そのもちろん……違ったわけですけど……」

男「昔のお前には恋人はいたのかなぁ……」

妹「その辺、お兄ちゃんも知らないですか?」

男「プライベートについては、あまり話さなかったしなぁ」

妹「……私って、今」

男「うん、大学生」

妹「だったら、恋人の一人や二人くらい、いてもおかしくないですよね……」

62: 2011/06/07(火) 18:37:56.93
男「二人いたら困るけど、まあ、そういう年頃だよな」

妹「もしかして……わたしって、ブスだったりします……?」

男「……は?」

妹「その……恋人みたいな人が来ることもないですし」

妹「今は、自分の顔を見ても、なんだか自分のじゃない気がして」

男「…………」

妹「お兄ちゃんから見て、わたしってどうですか?」

男「……ええと」

63: 2011/06/07(火) 18:38:44.36
妹「正直に言ってください。気を使ったりは、絶対しないで」

男「…………」

男「……綺麗だよ。普通に」

妹「ほんとに?」

男「ああ、もしも、俺が兄じゃなかったら……」

男「お前を好きになってたかもしれないな」

……………。
………。

69: 2011/06/07(火) 18:58:35.82
親友『おらー、当たれっ!』

妹『きゃっ!』

ビューン……。

親友『あっ、やちった』

男『おいおい、どこ投げてんだよ。草むらのほうに行っちゃったぞ?』

親友『くそぉ……なんで、お前、当たんないんだよ』

妹『お兄ちゃんこそ、本気で妹に当てにいくなんて、たち悪いよ……』

男『いいから、取ってこいって。多分、川までには行ってないと思うから』

親友『うー、めんどくせぇなぁ』

男『はやくっ』

親友『分かったよ……でも、今度こそ、お前に当ててやるからな!』

男『はいはい』

たたたたっ……。

72: 2011/06/07(火) 19:00:29.43
男『やっと行ったな』

妹『だね』

男『しかし、こんな遊びに参加しなくてもいいんだぞ?』

妹『うーん……』

男『玉当たると、痛いぞ?』

妹『でも……外で見るだけじゃ、つまんないし』

男『いいんだよ、女の子はそれで』

男『学年も全然違うんだし、無理するなよ』

妹『……うぅ』

男『怪我したらどうすんだ。俺の母さんがいつも言ってるんだ』

妹『なんて?』

男『『女の子への傷は一生もんだから』ってさ』

74: 2011/06/07(火) 19:01:20.77
妹『ええと……意味わかんないかも』

男『実は俺も分かってない』

妹『なにそれ、ふふっ』

男『ははっ』

妹『あっ、兄さん』

男『ん?』

妹『ここほら、血が出てる』

男『あーほんとだ……でも、これぐらいの傷……』

妹『駄目だよっ! ばい菌が入っちゃったらどうするのっ!』

男『えっでも、いつもはこんなの……』

妹『ほら、こっち来て』

男『お、おう……』

75: 2011/06/07(火) 19:02:39.13
ガサガサ……。

妹『確かここに、キティーちゃんのバンドエイドがあったはず』

男『お、おい……?』

妹『うん、あった!』

男『やっ、やめろって、そんな女っぽいやつ』

妹『いいから、じっとしてて』

男『…………』

妹『消毒して……貼って……これで、よしっと』

男『……あ、ありがと』

76: 2011/06/07(火) 19:07:39.35
妹『ううん、いつも兄さんには優しくしてもらってるし』

妹『それに……やっぱり、使う時に使わないとね』

男『?』

親友『おーいっ! ボール見つかったぞっ!』

妹『あっ、お兄ちゃん戻ってきた』

男『…………』

妹『ほら、兄さんっ! 行こっ!』

男『う、うん』

77: 2011/06/07(火) 19:23:18.90
──会社

男「ふぅ……終わった」

上司「ん?」

がたっ。

上司「どうした? 俺はもう帰るぞ?」

男「頼まれていた仕事、とりあえず、全て終わりました」

上司「ほう……」

男「慣れるまで時間がかかってしまい、申し訳ないです」

男「いままでパソコンを使った作業をしてこなかったもので」

男「本当にご迷惑をおかけしました」

上司「……ふむ」

男「それで、追加のお仕事があれば早速……」

上司「いや」

78: 2011/06/07(火) 19:24:17.35
男「え?」

上司「今日はもう帰りなさい。今まで毎日、残業だっただろ?」

男「ですが……」

上司「いいんだ。警備の人からも話は聞いてる」

男「ええと」

上司「毎日、夜遅くまで、時には明け方まで……本当に頑張ったな」

男「…………」

上司「初めは全てにおいて鈍臭いし、やることは不慣れだし」

上司「本当に困ったやつを部下にさせられたものだと憤慨した」

男「……申し訳ないです」

上司「だが、人一倍の根性は持ってるみたいだ」

男「え?」

79: 2011/06/07(火) 19:24:58.13
上司「そういう奴は大成する」

上司「文句も言わずに、仕事を黙々とこなす奴を俺はもう貶さない」

男「……あの」

上司「四ヶ月、本当に大変だったな」

上司「明日からはもう新入りみたいな仕事はしなくていい」

男「…………」

上司「俺が進めている新規の顧客との会談に付いてこい」

上司「少なからず、得るものはあるはずだと思うぞ?」

男「……はいっ」

男「よろしくお願いしますっ!」

82: 2011/06/07(火) 19:35:46.59
──自宅

男「……ふぅ……」

男「今日も一日が終わった……っと」

男「よし、母さんに電話しようか」

ピッ……ピピッ。

男「……もしもし」

男「あっ、うん。夜遅くごめんね」

男「もう時間過ぎてる? あーそうか、でも電話、大丈夫?」

男「うん……あ、うん」

男「いや、こっちの仕事がうまくいきそうなんだ」

男「ん……ははっ、やっぱり、声が違う?」

83: 2011/06/07(火) 19:36:50.56
男「うん……頑張るよ」

男「みんなに認められるように……失敗はしちゃいけないよね」

男「うん、それは分かってる」

男「……そうだね」

男「俺も戻りたいんだけど……まだ、ちょっと難しそう」

男「うん……」

男「土日はいつも用事が入っててさ……」

男「もう少しすれば、こっちも落ち着けると思う」

男「うん……だから、その時にね」

男「ん、じゃあ、また」

102: 2011/06/07(火) 23:27:36.17
──病院

妹「ちょっと質問してもいいですか?」

男「ん? なに?」

妹「お兄ちゃんは……お父さんの会社で働いてるんですよね?」

男「あ、うん」

妹「いつぐらいから?」

男「そうだな……ぶっちゃけの話でもいいか?」

妹「はい」

男「実は、今年に入ってからなんだ」

妹「ええと……じゃあ、その前は」

男「んと……まあ、フリーターみたいなことをしてた」

妹「じゃあ、どうしてまた急に?」

男「やっぱり、今のままじゃ駄目かなって」

103: 2011/06/07(火) 23:28:23.46
男「長い目で、将来のことも考えて……でも、そうだな」

男「自分の限界を知ったというか、ある意味、逃げてきたのかもしれない」

男「うん……そんなところだ」

妹「その実は……」

男「ん?」

妹「昨日、初めてお母さんに会ったんです」

男「あ、うん」

妹「その、今までは記憶を失ってるわたしと会う覚悟がなくて」

妹「でも、勇気を振り絞って会いにきたって、そう正直に話してくれました」

男「……そうか」

妹「嬉しかったです」

妹「優しそうな方で、どことなく顔立ちも自分と似てて」

104: 2011/06/07(火) 23:28:58.46
妹「本当にわたしはこの方の娘なんだなって……そう実感できました」

男「それは良かった」

妹「それで、その時にこれ……」

男「なんだろ? ええと……写真?」

妹「はい」

男「映ってるのはお前だな。大学の入学式か?」

妹「そうです。お兄ちゃんも覚えてます?」

男「……ああ」

妹「お母さんは、他にもいっぱい思い出の写真を持ってきてくれたんですけど」

妹「これだけは唯一、ちょっと違って」

男「どういうことだ?」

105: 2011/06/07(火) 23:29:28.16
妹「……お兄ちゃんが」

男「俺が?」

妹「撮ってくれたんですよね」

男「…………」

妹「お母さんが言ってました」

妹「『お兄ちゃんは写真家を目指してた』って」

男「……それは」

妹「そう言った後、お母さんは……」

妹「少し、まずいこと言ってしまったような顔をしてました」

男「……そうか」

妹「目指してたんですよね、写真家」

男「うん」

妹「でも、どうしてやめちゃったんですか……?」

男「…………」

106: 2011/06/07(火) 23:30:44.85
妹「すみません、人の傷口をえぐるみたいな真似をして」

妹「でも、その話を聞いた時に何か胸の奥で、ひっかかるものがあって」

妹「きっとそれは、自分の記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないかなって」

妹「本当に、ごめんなさい……でも、無理なら」

男「……そうだな」

妹「お兄ちゃん?」

男「俺は小さい頃から、写真の魅力に取り付かれてた」

男「人の一瞬、物事の一瞬」

男「その場面で一番最高な瞬間を、写真という形で後世に残す」

男「そんな仕事をする写真家に、憧れていたんだ」

……………。
………。

112: 2011/06/07(火) 23:44:41.46
親友『…………』

男『あーつまんねーな……』

親友『そういえば、もうすぐ小学生卒業だな』

男『うん、あっという間だった』

親友『中学生かー』

男『正直、心配だよな』

親友『何が?』

男『ほら、お前の妹』

親友『ああ……』

男『俺たちがいなくなっても、ちゃんとやってけるかな』

親友『大丈夫だろ? 見てくれはいい方だしさ』

113: 2011/06/07(火) 23:45:28.59
男『どうすんだよ、逆に好きで意地悪するみたいな男子がいたら』

親友『はは、お前、そんなこと心配してんのか』

男『……ちょっとだけね』

親友『大丈夫。もし、そんなことがあったら』

男『どうする?』

親友『妹が必ず、俺たちに相談してくるはずだから』

男『つまり、その時に──』

男・親友『『そいつをボッコボッコにしてやろうっ!』』

男『ぷっ』

親友『くっ』

男・親友『『はははっ!』』

114: 2011/06/07(火) 23:46:00.28
男『やっぱり、お前とは気が合うよっ』

親友『俺も今、同じこと考えてた』

男『このまま、二人で仲良くやっていければいいよな』

親友『それこそ、妹もいれて三人でな』

男『ああ……』

親友『なんだ? どうかしたか?』

男『いや、もしあいつが男の子だったらなって思ってさ』

親友『ああ、そしたらもっと楽しかっただろうな』

男『うん……余計なこと考えなくても済むし』

親友『……余計なこと?』

男『……察してくれ』

親友『まあ、もう少ししたら俺たちからは離れていくかもな』

115: 2011/06/07(火) 23:46:34.85
男『四年違いか』

親友『そういうこと』

男『……で、さっきからお前、何見てんだ』

親友『これのこと?』

男『うん』

親友『いや、世界を旅してる写真家の本』

男『そんな本見て、楽しいか?』

親友『めっちゃ楽しい』

男『ふーん……それはよく分かんないわ、俺』

親友『すごいんだけどなぁ……』

116: 2011/06/07(火) 23:56:00.79
──親友宅

女性「今日は、よく来てくださいました」

男「いえ、こちらこそ……」

男「本来なら、もっと早く、お伺いすべきでした」

女性「いいですよ。その辺の事情は聞いていますから」

男「申し訳ありません……」

女性「どうぞ、線香をあげていって下さい」

女性「きっと、あの子も」

女性「長いこと、あなたに会いたがっていたはずですから」

男「…………」

118: 2011/06/07(火) 23:56:25.82
女性「久しぶりに親友同士が対面するんですね」

女性「きっと話したいこと、考えたいことがあると思いますので」

女性「私はリビングの方で待っております」

女性「全てが終わったら……そちらの方で、お話しましょうね」

男「ご配慮ありがとうございます」

女性「気を使わず、ゆっくりとなさっていって下さい」

女性「こうやって遺灰をまだお墓に入れないのも、あなたのためでしたので」

男「…………」

女性「では、また」

ガチャ……。

120: 2011/06/08(水) 00:17:14.23 ID:LURKkJPd0
男「…………」

男「…………」

男「……っ」

男「……は、はは……」

男「久しぶりに会ったと思ったら……」

男「こんな小さな壷に入っちゃうって……」

男「……何してんだよ……お前」

男「どうしてこんなことに……なっちゃったんだよ……」

男「ああ……」

男「…………」

男「……昔のこと、お前は覚えてるか?」

男「確か、あれは俺たちが中学生だった頃」

121: 2011/06/08(水) 00:17:46.31 ID:LURKkJPd0
男「漫画の巻頭グラビアにあるアイドルに俺が目を離せなくて」

男「そんで、お前にも共感して欲しくて見せたらさ」

男「いちいち、アイドルのポーズについての批判しまっくって」

男「そんなの誰も聞いてないって言うんだっ」

男「そんで、俺が言った」

男「『だったら、お前の言う最高のポーズはどれだよ』って」

男「そしたらお前、嬉しそうに鞄からどこぞの写真集持ち出してきてさ」

男「『このシーンはここが凄い』『このアングルはこの場面だから生きる』とかさ」

男「でも俺からすれば、その写真は全部、白黒だったから」

男「はっきり言って、微妙だったんだよ」

男「そしたら、そんな俺を見かねて、お前はこう言ったよな」

122: 2011/06/08(水) 00:18:47.02 ID:LURKkJPd0
男「『なら、この本の中でお前が一番好きな写真はなんだ?』ってさ」

男「…………」

男「分かったよ、もちろん、分かってる」

男「本当、お前ってやつはさ……死んでもなお、厄介な奴だ……」

男「でも……今は無理なんだよ」

男「それよりも、大切なことがある」

男「お前なら、全て成し遂げろって言うと思うけど」

男「不器用な俺は、どうやったって器用にはできないんだ」

男「結局、何かを為すためには、何かを犠牲にしなきゃいけない」

123: 2011/06/08(水) 00:19:41.59 ID:LURKkJPd0
男「だから、分かってくれ」

男「お前の気持ちは分かる……でも、それでも」

男「本当に……ごめんな……」

男「……要するに、俺は──」




男「敗者になっちまったんだよ……」




126: 2011/06/08(水) 00:46:15.71 ID:LURKkJPd0
──病院

男「……結局、あいつの形見を渡されちゃったな」

男「カメラ……」

男「……まだこれ、使ってたのか……」

男「…………」

男「よし、切り替えないと」

男「ふー……」

コンコン。
ガラガラ……。

妹「あっ、お兄ちゃん」

男「よっ!」

妹「今日も、来てくれたんですね」

127: 2011/06/08(水) 00:46:52.02 ID:LURKkJPd0
男「そりゃ、愛しの妹のためだからな」

妹「ふふ。今日は一段と機嫌がいいみたい」

妹「何か、良いことでもありました?」

男「そうだなぁ……」

男「……久しぶりに、大切な人に会えたかな」

妹「……大切な人、ですか」

男「深い意味はないよ。ただ、懐かしかったんだ」

妹「懐かしい?」

男「今まで、無駄に逃げ回ってたんだけど」

男「会ってみると意外と気楽に話ができた」

妹「……いいですね、そういうの」

男「もっと早く、それこそな……」

128: 2011/06/08(水) 00:47:55.61 ID:LURKkJPd0
男「色々、話さなきゃいけないことがあったはずなんだ」

男「はは。俺は、やっぱり、どうしても駄目人間だよ」

妹「でも、お兄ちゃん」

男「ん?」

妹「これからがあるじゃないですか」

男「…………」

妹「やっと、その人と仲直りできたのなら」

妹「これからの関係を大切に。幾ら、過去を悔やんでも仕方ないんですから」

男「……ああ」

妹「今度、また会ったら、色々話し合ってくださいね」

妹「そうすれば、今までのわだかまりもきっと……」

妹「いつかは時が解決してくれるはずですから」

男「…………」

129: 2011/06/08(水) 00:48:39.22 ID:LURKkJPd0
男「……そう、だな」

男「また会ってみるよ」

妹「はいっ」

男「それこそ、かなり時間がかかっちゃうかもしれないけど」

男「いつか、きっと。また、会える日が来るはずだからさ」

妹「……?」

男「気付かせてくれて、ありがとう」

妹「……あの」

男「ん?」

妹「わたし、もしかして、見当違いなこと言っちゃいました?」

男「そんなことないって」

130: 2011/06/08(水) 00:50:10.97 ID:LURKkJPd0
妹「……でも」

男「それよりっ」

妹「え?」

男「ほら、これ」

妹「……あっ、カメラ?」

男「今から撮るぞ? 最高の表情してくれよ?」

妹「え、ええとっ、そんな急に……っ」

男「ハイチーズ」

妹「あっ……」

……………。
………。

188: 2011/06/08(水) 20:58:53.69 ID:LURKkJPd0
パシャ!

男『なっ……』

妹『もう不意打ちやめてよ、お兄ちゃんっ!』

親友『はは、ごめんごめん』

男『ったく、このカメラ好きめ……』

親友『でも、我ながら、今のはいい感じに撮れた』

妹『ほんとに?』

親友『ああ。いつに増して、可愛く写ってる』

妹『ふふ、ならいいや』

男『そうやってすぐに甘やかすなよ。だから、調子に乗るんだぞ?』

189: 2011/06/08(水) 20:59:39.50 ID:LURKkJPd0
妹『でも、兄さんとツーショットだったよ?』

男『いや……まあ、うん』

妹『あとで、焼き増し貰おうね』

男『……お、おう』

親友『はは、いつもお前は妹に弱いな』

男『うるさい。いいから、お前も宿題手伝え』

親友『だから、俺の答えを見せてやってるじゃん』

男『時間がないんだって。書き写し手伝ってくれよ』

親友『そこまでは面倒見切れないって。頑張れ』

男『……はぁー』

190: 2011/06/08(水) 21:00:07.22 ID:LURKkJPd0
妹『兄さん』

男『……ん?』

妹『わたしは手伝ってるから、えらいよね』

男『ほんと、お前は兄と違って優しいやつだなぁ』

妹『いいのいいの。困ったときはお互い様』

親友『……ほー、お前もそんな言葉知るようになったのか』

妹『まあね』

男『四歳も年下には見えないな。えらいえらい』

妹『へへへ』

191: 2011/06/08(水) 21:00:44.31 ID:LURKkJPd0
親友『…………』

親友『よし』

パシャッ!

男『あっ、お前っ!』

妹『あれ? 今、もしかして、お兄ちゃん撮った?』

男『フィルムをかせーっ!』

親友『やなこった!』

男『ま、まてっ! 逃げるなぁ!』

だだだだだっ……。

195: 2011/06/08(水) 21:21:58.27 ID:LURKkJPd0
──親友宅

男性「わざわざ、来てもらってすまない」

男「いえ」

男性「今後について、改めて、話し合う必要が出てきた」

女性「…………」

男「それは……」

男性「母さん」

女性「実は、あの子の退院が昨日、決まったんです」

男「……退院ですか」

男性「もちろん、私は反対したよ」

男性「ずっと病院にいてくれたほうが、安心だからだ」

男性「……だが」

女性「それじゃあ、あの子が可哀想だと思いまして」

196: 2011/06/08(水) 21:22:51.99 ID:LURKkJPd0
女性「私がこの人を説得したんです」

男「……その、記憶の方は?」

男性「まだ戻ってない」

男「……はい」

男性「だからこそ、形としては自宅療養となると思う」

男性「医者は前の環境に合わせたほうが、記憶の戻りの促進に繋がると言っている」

男性「いや……本当は、思い出してなど欲しくないのだがな」

女性「…………」

男性「私たちからすれば、今のままの彼女でいい」

男性「確かに、思い出を共有できないという悲しさはあるが」

男性「……あの子の命には替えられないからな」

197: 2011/06/08(水) 21:23:20.53 ID:LURKkJPd0
男「じゃあ……大学は?」

女性「そのことなんですが、実は、学長さんに休学願いを提出しました」

男「そうですか……」

女性「記憶がないあの子からしたら、見る人会う人が初対面のはずですし」

女性「下手に仲良かった人たちと出会ったら、逆に混乱しちゃうと思うんです」

男「…………」

男性「……君が言いたいことは分かる」

男性「だが、私たちにはもう他に選択肢がない」

男「はい……」

男性「分かってくれ……親の私たちでさえ本当は辛いんだ」

女性「…………」

男「…………」

男性「……そこで、君に折り入って話がある」

204: 2011/06/08(水) 22:16:21.60 ID:LURKkJPd0
男「……話?」

男性「いや、ここからが今日の本題だと言ってもいい」

男「……どういった話でしょうか?」

女性「その前にまずは謝らせて下さい」

男「謝るって……」

女性「あなた」

男性「ああ……」

男性「子供たちと昔からの付き合いだった君に」

女性「死んだ息子の代わりになってくれ、なんて残酷な真似をしてしまい」

男性「本当に、申し訳ないことをした……」

女性「この通り、申し訳ありません」

205: 2011/06/08(水) 22:16:37.31 ID:LURKkJPd0
男「そ、そんなっ、いいから、顔を上げて下さいっ」

男性「にもかからずっ」

男「……えっ?」

ダンッ!

男「……立ち上がって、一体、何を……」

女性「……ごめんなさい」

男「……あ……」

ドン……ドン……。

男「…………」

男「……あ」

男「ああ」

男性「…………」

女性「…………」

206: 2011/06/08(水) 22:17:05.61 ID:LURKkJPd0
男「──僕に土下座なんてやめて下さいっ!」

男性「頼むっ! この通りだっ!」

男「いいからっ、早く立って……」

男性「あの子が退院しても、彼女の兄を演じ続けてくれ!」

男性「この家に住んで、この家で、あの子を支えてやってくれっ!」

女性「一生のお願いです……っ」

男「……そんなこと、言われなくても……っ」

男「……って」

207: 2011/06/08(水) 22:17:33.71 ID:LURKkJPd0
男「……あれ?」

男性「……いいのか?」

男「え?」

男性「文字通り、始めたら最後……」

男性「君は息子の代わりをするだけじゃなくなるぞ」

男「……それは……」

男性「端から見れば、君は私たちの息子となる」

男「……俺が……?」

男「……息子……」

………。
……………。

208: 2011/06/08(水) 22:17:57.31 ID:LURKkJPd0
親友『なあ、知ってるか?』

男『ん?』

親友『世の中には、「弱肉強食」って言葉があるだろ?』

男『ええと、弱いものは強いものに食われるってことだっけ?』

親友『そうそう、もっと具体的に言うとさ』

親友『この社会は弱い奴の犠牲によって栄えてるってこと』

男『……う、ん』

親友『お前はそれ、どう思う?』

男『つまり、強者と敗者がいるってことだよな』

親友『そうそう。んで、敗者は要は社会の犠牲者みたいな感じかな』

男『……んーなんだろうな』

210: 2011/06/08(水) 22:18:26.53 ID:LURKkJPd0
親友『結局、勝者ってのは、自分の思い通りになんでも出来る訳』

親友『でも、みんなが思い通りに行動をしてたら、社会が回らなくなる』

男『それは俺でも分かるよ』

親友『じゃあ、我慢してるのは?』

男『敗者?』

親友『そういうこと』

男『……うわぁ……大人になりたくねぇな……』

親友『もし仮にさ、将来、俺たちが勝者じゃなくて敗者になっちまった時』

親友『どうすれば、そこから抜け出せられると思う?』

男『いや、もう無理なんじゃない?』

男『貧乏くじ引いてる時点で、もう泥沼じゃん』

親友『うん……そう普通は思うよな』

211: 2011/06/08(水) 22:19:05.77 ID:LURKkJPd0
親友『でも俺、気づいちゃったんだよ』

男『何を?』

親友『とっておきの、抜け出し方法』

男『……え?』

親友『実は、すごい簡単な事なんだ。なんで、みんな知らないのってぐらい』

男『教えてくれよっ』

親友『仕方ないなぁ。本当は誰にも言いたくないんだけどな』

親友『……お前だけは特別だ』

男『さすがっ!』

親友『方法は簡単さ。よく聞いとけよ?』

親友『それは──』

……………。
………。

212: 2011/06/08(水) 22:19:36.52 ID:LURKkJPd0
男性「……断るのなら、この瞬間にして欲しい」

男性「始めてしまったから、辞めたいと言われても困るんだ」

男「…………」

男性「前に君は私に聞いた。『終わりはいつですか』と」

男性「分かるだろ? 終わりがあるとしたら、今だ」

男「……はい」

男性「……終わりにしてくれてもいい」

男性「だが、今のあの子は、君をこの世界で一番頼りにしている」

男性「本当の兄じゃないと疑うことも知らずに、信じきっている」

男「…………」

男性「実の兄が、自分のせいで死んでしまい」

男性「ついには自責と後悔の念に耐えきれず」

男性「自分が自殺未遂を謀ったということも知らない」

男「……っ」

213: 2011/06/08(水) 22:20:08.98 ID:LURKkJPd0
男性「残念ながら、彼女に必要なのは私たちじゃないんだ」

男性「私たちが代わりをやれるなら、何を捨ててでも成し遂げる」

男性「けれど、現実は不条理だな」

男性「あの子が、この世界で、唯一必要としているもの……」

男性「皮肉にも、それは君なんだ」

男「……それは」

男性「止めてくれても、一向に構わないぞ」

男性「けれど、君には捨てられるのか?」

男性「あの子を……──見殺しに出来るか?」

男「…………」

217: 2011/06/08(水) 22:34:20.65 ID:LURKkJPd0
──病院

パーンっ!

妹「きゃっ」

男「退院おめでとうっ!」

妹「お兄ちゃん……もう、びっくりしました……」

男「はは、それは良かった」

妹「もう、病院でクラッカーなんて迷惑ですよ?」

男「妹の新たな門出なんだ。せめて盛大にと思ってな」

220: 2011/06/08(水) 22:51:29.01 ID:LURKkJPd0
妹「めっ、ですよ」

男「なんだそれ」

妹「あれ、わたし、なんか変なこと言いました……?」

男「言っただろ。『めっ』て」

男「俺をやんちゃな子供だと思って、言ったのか?」

妹「いや、その……なんか、不意に」

妹「ていうか、そもそも、お兄ちゃんが悪いんですから」

妹「もっとすまなさそうにしないと、駄目です」

男「まあ、確かにそうだな」

妹「ニヤニヤしないっ!」

男「無意識なんだから、許して」

妹「だーめーですー」

221: 2011/06/08(水) 22:51:52.32 ID:LURKkJPd0
男「ならこの顔は?」

妹「どことなく小馬鹿にされてるみたいです」

男「……んー、ならこれ」

妹「……今度は、イヤらしいですね」

男「なら……んっ、よしこれでイケメンになったろ?」

妹「……はぁ」

妹「今日はいつになく、テンション高いですね」

妹「でも、そんなことしてると、彼女さんに嫌われますよ?」

男「そう思うだろ?」

妹「……えっ」

男「こう見えてもな、俺の学生時代はなー」

妹「は、はい」

男「…………」

222: 2011/06/08(水) 22:52:06.87 ID:LURKkJPd0
男「やっぱり、モテなかった」

妹「……ですよね」

男「同意しないでくれない? ちょっと悲しいよ?」

妹「そう言われても……」

男「しかし、最近のお前って、毒舌じゃないか?」

男「ほんと、初めのしおらしい子が嘘のようだ」

妹「それはわたしが言いたいです」

男「なんで?」

妹「お兄ちゃんも、前はもっと丁寧なしゃべり方でした」

男「そうか?」

妹「覚えてないんですか? 例えば……」

223: 2011/06/08(水) 22:52:16.33 ID:LURKkJPd0
妹「『いいんだ。気にしなくていいよ』」

妹「『ちょっと疲れさしちゃったみたいだね』」

妹「『……うん、日を改めて、また来るから』」

男「……確かに」

妹「少女漫画に出てくる好青年みたいでした」

男「いいんだ。今の方が本来の俺に近いし」

妹「ちょっとげんなりですね」

男「それより……そろそろ、家に向かうか」

妹「あっ、はい」

男「病院の横に車を止めてあるんだ。急ごう」

293: 2011/06/09(木) 18:39:27.74
――車内

男「そうだ、少し言い忘れたことがあった」

妹「何ですか?」

男「ほら、父さんと母さんの二人、今日、病院に来なかっただろ?」

妹「……あ、はい」

男「ちゃんとした理由があるんだ。話してもいいか?」

妹「別に……特に何とも思ってませんよ」

男「いや、聞いてくれ。二人とも本当は来たがっていたんだけど」

妹「…………」

男「親父は取引先との急な仕事が入って、休日出勤」

男「お袋は、親戚の方が突然倒れたっていうんで、急いで病院に行ったんだ」

妹「……そうですか」

294: 2011/06/09(木) 18:39:52.93
男「二人とも悪気があったわけじゃない」

男「お前の病院に行こうとするのを、俺が何とか食い止めて」

男「だからさ、今日は俺だけだったけど、許してくれよ?」

妹「……ふふ」

男「へ?」

妹「もうそんな必死にならなくてもいいですよ」

妹「今日、お兄ちゃんが異様にテンションが高い理由も分かりましたから」

妹「本当は、わたしに気を遣ってくれたんですよね?」

男「……いや、それはだな……」

妹「それに、思うんです」

男「ん?」

295: 2011/06/09(木) 18:40:57.65
妹「逆に、お兄ちゃんだけでよかったなって」

男「…………」

妹「もし二人がいたら、なんだか、緊張してしまって」

妹「気まずい空気が流れてたかもしれません」

男「……そんなこと」

妹「本当は、もっと自然に振る舞えればいいんですけど」

妹「やっぱり、親と子の関係って、そう簡単にはいきませんね」

男「なら、兄妹は?」

妹「『友達』……みたいな感じかな?」

男「…………」

妹「どうかしました?」

男「いや、気にしなくていい」

男「それより、もうそろそろ、家に着くぞ」

妹「は、はい」

296: 2011/06/09(木) 18:41:14.34
男「緊張してる?」

妹「……ええと」

男「…………」

妹「…………」

男「……不安か?」

妹「え……?」

男「知っているはずの家に戻るはずなのに」

男「何の感慨も覚えない自分が怖い?」

妹「……それは」

男「大丈夫、焦る必要はないから」

男「仮に今後、過去を思い出さなかったとしても」

男「あの二人はきっとお前を温かく迎えてくれるはずだ」

妹「…………」

297: 2011/06/09(木) 18:41:36.53
男「もちろん、俺も含めてね」

妹「……うん」

男「よし、なら安心だな」

妹「お兄ちゃん……ありがと」

男「はは、感謝されて嫌な奴はいないよなぁ」

妹「……ふふ」

男「……さて」

キキッ……。

男「我が家への到着です」

妹「……うん」

男「ちょっと待ってろ。エスコートする」

妹「え?」

バンッ……トコトコ……。

……ガチャ。

298: 2011/06/09(木) 18:42:01.45
男「さて、どうぞ」

妹「……意外と紳士なんですね」

男「だろ?」

妹「ふふっ」

男「ほら見ろよ。豪華な周りの家々に引けを取らないぐらい」

男「我が家も、捨てたもんじゃないだろ?」

妹「……うん」

男「早速、入ろうか?」

妹「ちょっと待って」

妹「もしかしたら……何か……」

299: 2011/06/09(木) 18:42:20.67
男「……ん」

妹「……いや」

妹「だめ……みたいですね」

男「無理するなよ?」

妹「……分かってはいるんですけど、やっぱり……」

男「家にも思い出の品は一杯あるからさ」

妹「うん……」

男「開けるぞ?」

ガチャリ……。

妹「…………」

妹「……え?」

300: 2011/06/09(木) 18:42:37.41
パンッ、パーンッ!

男性・女性「「退院おめでとうーっ!!」」

妹「う、うそ……だっ、だって……」

男「はははっ」

妹「まさか……」

男「簡単な騙しのテクニックだよ」

男「一度、小さなサプライズをやって、油断させる」

男「そして、そこから……」

妹「お、お兄ちゃんっ」

男「どうだ? 最高だったろ?」

妹「もうっ! 本当にびっくりしたんだから……」

男「お叱りは後で聞くよ、今は……」

妹「あっ……」

301: 2011/06/09(木) 18:42:57.69
女性「本当におめでとう……こっちに来て頂戴」

妹「は、はい」

ギュッ……。

妹「お、お母さん?」

女性「…………」

妹「あの……」

男性「お前が、どんなことになろうとも」

男性「決して、私たちの絆が切れることはない」

妹「…………」

男性「安心しろ」

男性「ここが、お前の居場所だから」

男性「家族四人で乗り切ろうな……」

妹「……っ」

妹「……は、はい……」

男「…………」

302: 2011/06/09(木) 18:43:19.80
──リビング

女性「さーて、準備は整ったかしら」

男性「おー、今日はいつに増して豪華な夕飯だなっ」

女性「お祝いの日だからね。かなり奮発しました」

男「確かに、これはご馳走だなぁ」

妹「食べきれるかなぁ……」

男「なんだ? みんなの分も全部、食うつもりか?」

妹「は……?」

男「こりゃまた、凄い食欲だな」

妹「ち、違いますっ!」

男性「確かに、昔から食いっぷりは良かった」

妹「お、お父さんまで!」

303: 2011/06/09(木) 18:43:41.70
男「はは、やっぱりそうじゃん」

妹「お兄ちゃんっ!」

女性「そろそろ、可愛い妹弄りはその辺にしときなさい」

女性「ほら、温かいうちに食べましょ?」

女性「お父さん、いつものお願いしますね」

男性「分かった」

男性「じゃあ、みんな、手を合わせて」

男「よし」

妹「は、はい」

男性「頂きます」

男・妹「「いただきまーすっ」」

……………。

304: 2011/06/09(木) 18:44:06.02
男「いやぁ……食った食った……」

妹「もう何も食べられないです……」

女性「ありがとうね。綺麗に完食してくれて」

男性「ふぅー、やっぱり母さんの作る飯はうまいな」

男性「さて……食後の一服を」

女性「お父さん、煙草はベランダで吸って下さい」

男性「まあ、そう堅い事は言わずにな」

男性「どうだ、お前も吸うか?」

男「……ええと、止めとくよ」

女性「あら? いつ頃から吸うの止め……」

男性「母さん」

女性「……あっ」

妹「?」

305: 2011/06/09(木) 18:44:36.01
女性「で、でも、いい傾向ですよ」

女性「やっぱり、このご時世、煙草を吸う男性はだめよね?」

妹「え? いや、どうでしょうか……」

男「最近は、嫌いな人多いからね」

男「父さんも早くやめないと、秘書の人たちに嫌われるよ?」

男性「今更止めたところで、好感度は上がらないさ」

男「はは、そりゃそうか」

妹「あの、昔は、お兄ちゃんも吸ってたんですか?」

男「……うん、そこそこね」

妹「へー意外」

男「そうか?」

妹「なんか、そういうの吸う感じの人には見えないですね」

女性「顔が童顔だからね」

306: 2011/06/09(木) 18:45:03.87
妹「ふふ、分かります。少し、男らしさには欠けてるかも」

男「止めてくれよ、気にしてるんだから」

妹「今日の意地悪のお返しですよーだっ」

男「根に持つ奴だなぁ……」

男性「…………」

男性「……本当に仲がいいな」

女性「そうですね」

妹「え?」

女性「こんなこと言うと、あなたは傷つくかもしれないけど」

女性「記憶を失ったとは、到底、思えないぐらい」

妹「そ、そう見えますか……?」

男「…………」

男性「……ああ」

307: 2011/06/09(木) 18:45:24.09
男性「かつての頃のままだ……」

男性「何もかも……」

女性「…………」

妹「……ええと」

男「…………」

男「……つまり、だ」

妹「え?」

男「俺たち兄妹には、次元を超えた見えない絆があるわけさっ」

ぎゅっ。

妹「ちょ、ちょっと兄さんっ!?」

男「過去なんて関係ないぞーっ」

男「昔から大好きだー、妹よっ!」

妹「抱きつくの、止めてっ。禁止ーっ!」

308: 2011/06/09(木) 18:45:39.94
男「はは、顔真っ赤にしてやんの」

妹「はぁー……はぁー……」

妹「もう急になんてことするんですか……心臓に悪いです……」

男「心の準備が必要だったか?」

妹「そうです。これから、抱きつく時には事前に言って下さいよ」

男「いや、兄妹で抱きつくシーンなんてそうそうないから」

妹「あっ……そうでした」

男「でも、お前が良いっていうなら──」

妹「へ?」

ぎゅうっ!

男「何度だって抱きしめてやるぞーっ!」

妹「ちょっ、心臓がっ! 事前にっ! 約束違うーっ!」

309: 2011/06/09(木) 18:46:02.45
──親友の部屋

男「…………」

男「……今日は、疲れたな」

バタン……。

男「はー……」

男「いいのかな……」

男「……本当にこれで間違ってないんだろうか……」

男「…………」

男「……ええと、カメラはどこに……」

男「ん、あった」

男「……よし、これで」

男「…………」

男「……なあ、親友」

311: 2011/06/09(木) 18:46:33.25
男「もしかしたら、俺は、最低なことをしてるのかもしれない」

男「アイツを騙して、お前に成り代わって」

男「……うん」

男「やっぱり、俺は最低だよ」

男「…………」

男「……お前の両親に頼まれた時な」

男「正直、本当は困った」

男「だって、ずっと前から、早くこの関係が終わればいいと思ってたから」

男「他人だったお前を演じるのは、難しいし」

男「それに……お前との友情を踏みにじってる気がするから」

男「なぁ……?」

男「お前……怒ってないか?」

男「本来なら、この日常は、決して俺のもの何かじゃない」

313: 2011/06/09(木) 18:47:09.96
男「お前は死んじまったけど、俺が成り代わっていいものじゃないはずだ」

男「結局、俺はさ……」

男「土下座して頼み込んだ二人の願いを渋々聞いてやって」

男「妹のためだから、見殺しにはできないから、なんて理由つけて」

男「そんな体裁を守れないと、踏み出せないちっぽけな人間なんだ……」

男「……多分、お前は言うと思う……」

男「『やるなら、やりきれ』『迷うな』って」

男「……でも、俺は」

男「こうしている間も、この行動の善悪を決めかねてる」

男「ぐだぐだと、正解のない問いを悩み続けてる」

男「……そのくせ」

314: 2011/06/09(木) 18:47:29.99
男「俺が、とうの昔に失った……」

男「家族っていう幸せの形を、楽しんでる……」

男「……どうだ? 最低だろ?」

男「……なあ、親友」

男「……頼むからさ……」

男「返事してくれよ……」

男「……俺を……罵ってくれよ……」

男「…………」

男「……はぁ」

男「…………」

男「ん?」

315: 2011/06/09(木) 18:47:53.19
ピピピピッ……。

男「……え? 電話?」

男「ええと……このタイミング……」

男「いや、違う。そんなことある訳がない……」

男「……母さんだ」

男「そういえば、最近電話してなかったからなぁ……」

ピピピピピッ……。

男「…………」

男「…………」

ピピピピピピッ……。

男「…………」

316: 2011/06/09(木) 18:48:15.04
ピピッ……ピッ……。

男「…………」

…………。

男「……ふぅ……」

男「…………」

男「……出れるわけ、ないよな……」

……………。
………。

324: 2011/06/09(木) 19:31:29.30
男『…………』

男『……すぅ……すぅ……』

──■■□ッ!

男『……ん?』

男『あれ……今、なんか音がしたような……』

男『……一階?』

男『…………』

男『まだ父さんと母さん、起きてるのかな……?』

ガバッ……。

男『……行ってみよう』

トコトコ……ガチャ。

……………。

325: 2011/06/09(木) 19:31:51.88
トコトコトコ……。

男『…………』

男『……ん?』

男『…………』

男『……あっ』

?『一体、こ……から……のよっ!』

?『まだ家の……も、あなたっ……分……てるの!?』

男「これは……』

男『……母さんの声……?』

男『もしかして……』

326: 2011/06/09(木) 19:32:44.40
父親『うるせぇっ! 言われなくてもそんなこと分かってる!』

母親『だったらどうして!?』

父親『仕方ねぇだろ、クビになっちまったんだからさっ』

母親『いい加減にしてよっ! また酔って帰ってきたと思ったら』

母親『急に、会社を辞めさせられたじゃ、こっちも納得できないわっ!』

父親『何を聞きたいんだっ』

母親『辞めさせられた理由よっ!』

父親『……それは』

母親『いいから言って! あなた、一体、何したっていうのっ!?』

父親『……った』

母親『聞こえないわっ。もっと大きな声で言って!』

父親『あーもうっ! 殴ったんだよっ!』

327: 2011/06/09(木) 19:33:11.35
母親『……殴った? だ、誰を?』

父親『前から言ってた、いけ好かない上司だよ……』

母親『……どこで』

父親『昼間、会社の中でだ』

母親『……そ、そんな……』

父親『腹が立ったんだ。いつも俺に雑用ばっかり押し付けて』

父親『その割に、何かあると責任は俺にあるとほざく』

母親『…………』

父親『それでも、俺は我慢した方だ』

父親『けど、結局、こうなる運命だったんだよ』

母親『……ああ……』

母親『…………』

父親『ふんっ……』

328: 2011/06/09(木) 19:34:02.96
母親『…………』

母親『……ねぇ』

父親『あっ? まだ、文句あんのか?』

母親『……もしかして、あなた』

父親『何だよ』

母親『そのときも、酔ってたんじゃないでしょうね?』

父親『…………』

母親『質問に答えて』

父親『……だからさ』

母親『アルコール中毒のあなただけど』

母親『会社に酒を持ち込んでたりしないわよね?』

父親『…………』

329: 2011/06/09(木) 19:34:27.31
母親『……なんで、黙ってるの?』

母親『何か、言ってよ』

父親『……それは……』

母親『なに?』

父親『……つい、な……』

母親『……なっ……』

父親『…………』

母親『最低よっ! あなたは本当に人間の屑っ!』

父親『……そこまで──』

ガシャーンっ!

父親『いてっ……』

331: 2011/06/09(木) 19:35:06.62
母親『こんな時ぐらい、酒を飲むのはやめなさいっ!』

父親『な、なにすんだっ!』

母親『毎日、帰ってくるのは深夜をとうに回って』

母親『時には、女の香水つけた背広で機嫌良く帰ってくる』

母親『暇さえあれば、酒は飲むわ、煙草は吸うわ』

母親『あなたは夫としても、父親としても、失格よっ!』

父親『……っ』

ガタンッ……。

母親『な、何をっ……』

332: 2011/06/09(木) 19:35:06.71
母親『こんな時ぐらい、酒を飲むのはやめなさいっ!』

父親『な、なにすんだっ!』

母親『毎日、帰ってくるのは深夜をとうに回って』

母親『時には、女の香水つけた背広で機嫌良く帰ってくる』

母親『暇さえあれば、酒は飲むわ、煙草は吸うわ』

母親『あなたは夫としても、父親としても、失格よっ!』

父親『……っ』

ガタンッ……。

母親『な、何をっ……』

333: 2011/06/09(木) 19:35:38.84
バチッ!

母親『きゃっ……』

父親『言いたいことを言わせておけばっ!』

父親『くそっ! なんで、お前に、そこまで言われなきゃいけない!』

母親『……叩いたわね……』

父親『あっ?』

母親『……もう嫌……もう、いやよ……』

母親『これ以上は耐えられない……』

父親『何だと?』

母親『……私と、別れて下さい』

父親『……あ?』

母親『お願いですから……もう、別れて下さい』

父親『なっ……』

父親『こ、この……糞女が……』

334: 2011/06/09(木) 19:36:09.37
母親『……お願いです……』

父親『うるせぇっ!』

バンッ!

母親『……うっ』

父親『別れないぞっ! 絶対に別れてやるもんかっ!』

バゴッ!

母親『……くふっ……』

父親『お前だけいい思いをするなんて、そんなこと……』

たたたたたっ!

父親『あ……』

男『やめてっ!』

ガバッ……。

母親『……男……?』

335: 2011/06/09(木) 19:36:41.62
男『もう母さんに乱暴するなっ!』

父親『ち、違うんだ……』

男『殴るなら俺を殴れっ。それで気が済むなら、我慢するからっ!』

父親『……あ、ああ……』

男『母さん……母さん……』

母親『……う……うぅ……』

男『もう大丈夫だから……大丈夫だからさ』

母親『……うぅ……ああ……うあああ……』

男『うん……僕が、母さんを守るよ……』

父親『…………』

父親『……俺は』

336: 2011/06/09(木) 19:36:53.50
父親『な、なんてことを……』

父親『………ああ』

父親『…………』

父親『……手が震える』

父親『……駄目だ……』

父親『……もう……』

父親『俺は……』

父親『…………』

342: 2011/06/09(木) 20:19:06.58
……………。
………。

男「…………」

……ン……ン。

男「…………」

コンコンっ!

男「あっ……」

……ガチャ。

妹「……お兄ちゃん?」

男「な、何だ……?」

妹「結構、扉をノックしたんですよ」

男「あ、ああ……気づかなかったみたいだ……」

343: 2011/06/09(木) 20:19:24.58
妹「その、大丈夫……?」

男「……何がだ?」

妹「顔、真っ青です……」

男「……え」

妹「体調が悪いなら、また明日にしますよ?」

男「いや、いいんだ……」

妹「で、でも……」

男「ほら、入って入って」

妹「……お兄ちゃんがそう言うなら」

男「よし」

男「でも……ちょっとだけ、時間くれ」

妹「はい……」

344: 2011/06/09(木) 20:19:48.71
男「…………」

妹「…………」

男「……ふぅー……」

妹「お兄ちゃん……?」

男「いや、少し嫌な記憶を思い出してな」

妹「嫌な記憶?」

男「まぁ、なんていうか……」

男「思い出したくない過去って、誰にも一つや二つあるだろ?」

妹「……その」

男「ん?」

妹「わたしは昔のこと覚えてないので……」

男「……あっ、ごめん……」

345: 2011/06/09(木) 20:20:11.60
妹「いや、いいんです」

男「くそっ……何やってんだ俺」

妹「余り気にしないで下さいね?」

男「本当に悪い……まだ頭がうまく切り替わってないみたいだ」

妹「……あの──」

妹「聞いてもいいですか?」

男「ん? 今、思い出した過去をか?」

妹「そうじゃなくて……その」

男「うん」

妹「昔の記憶があるって、どんな感じなんですか?」

男「……それは」

妹「やっぱり、唐突にぱっと思い浮かんだりするんですか?」

男「……たまにだけどね」

346: 2011/06/09(木) 20:20:32.45
妹「それは楽しかった記憶も?」

男「もちろんだ……というより」

男「嫌な記憶を思い出すなんてことはめったにない」

妹「でも、時にはある……」

男「……稀にだけど」

妹「そういう時、お兄ちゃんはどうしてます?」

男「どうするっていうのは?」

妹「辛くて苦しくて、とっても悲しいような、嫌な思い出が沸き起こった時」

妹「お兄ちゃんは、それをどうやって対処してるんですか?」

男「……そうだな」

妹「…………」

347: 2011/06/09(木) 20:21:05.55
男「受け入れる」

妹「『受け入れる』?」

男「……どう足掻いたって、過去は変えられない」

妹「……はい」

男「どんなにやるせなくて、なんとかしたくても」

男「過ぎてしまった日々は、もうやり直すことは出来ないんだ」

妹「…………」

男「だから、受け入れる」

男「前へと進む」

妹「……ん」

男「そうしないといけない」

男「いや、そうするしか方法がない」

348: 2011/06/09(木) 20:21:34.90
妹「……そうですか」

男「俺もさ、昔やったヘマを今でも思い出す」

男「何で、あの時、ああしてなかったんだろうって」

男「悔しくて、でも、どうしようもなくて」

妹「…………」

男「苦しいし、もがき続けてしまうこともあるよ」

男「でも、それに意味はないんだ」

妹「本当に?」

男「うん」

男「後悔をし続けても、その先には何もない」

男「終わり無き道が永遠と続いているだけなんだ」

妹「…………」

男「だからこそ、時には振り返ってしまうかもしれないけど」

男「ひたすらに、必死に、前へと足を進める」

349: 2011/06/09(木) 20:22:03.30
男「結局、それが一番なんだ」

妹「……凄いですね」

男「……そう思うか?」

妹「はい、凄く強いと思います」

男「……強くなんかないよ」

妹「でも、そうやって過去を乗り越えられるって」

妹「そう容易くできない気がするんです」

男「……俺は、ただ」

男「『今』に必死なんだと思う」

妹「……今……」

男「だから、後ろを振り返る余裕がないだけなんだ」

男「強くなんかないし、凄いわけでもない」

男「ただ、がむしゃらに生きてるだけ」

350: 2011/06/09(木) 20:22:32.68
妹「……それでも」

妹「わたしは、お兄ちゃんを立派だと思いますよ」

男「…………」

妹「いつか、わたしも」

男「……ん?」

妹「これから、仮に記憶が戻ったとしても」

妹「そうやって、前へと進むような強い意志があるといいです」

男「…………」

妹「わたしが記憶を失った理由。自らで、自分の命を断とうと思った訳」

妹「お兄ちゃんは事情を知っていると思いますが」

妹「それを、わたしは何ひとつ知りません」

男「……うん」

妹「相当、辛い過去なんだと思います」

351: 2011/06/09(木) 20:23:01.31
妹「だからこそ、今のような自分になったんだと思います」

男「……それは」

妹「お兄ちゃんのような、強い意志」

妹「躊躇わず、今を生きようとするその覚悟」

男「…………」

妹「わたしに、その時が来ても」

妹「どうか、授かっていますように」

男「……妹」

妹「もし、それでも──」

352: 2011/06/09(木) 20:23:24.83
妹「わたし一人じゃ、どうにもならない程のものだったとしたら」

妹「お兄ちゃん……」

男「……ああ」

妹「わたしの側にいて……」

妹「一緒に、背負ってくれますか? 助けてくれますか?」

男「…………」

男「……もちろん」



男「──そのつもりだよ」



……………。
………。

357: 2011/06/09(木) 20:55:35.21
男『今度こそ、負けないからなっ』

親友『倒せるもんなら倒してみろよ』

男『ちっ、いい気になりやがって』

親友『そりゃ、今まで全勝だから、いい気分ではあるね』

男『くそっ……絶対に倒してやる』

妹『頑張れーっ!』

親友『……おい』

妹『もぐもぐ……ん? わたし?』

親友『菓子食ってばかりいる、そこのお前だよ』

妹『なによ、お兄ちゃん』

親友『そうだ、お前は俺の妹だろ?』

妹『だから?』

358: 2011/06/09(木) 20:55:52.55
親友『応援するのは、俺にしろって』

妹『んー……』

妹『やっぱ、兄さんを応援する』

親友『なっ……』

男『残念だったな。この子は優しい『兄さん』がいいみたいだ』

なでなで。

妹『ふふっ』

親友『ちっ……今に見てろよ』

男『はは、燃えてきたじゃねぇかっ』

……………。

359: 2011/06/09(木) 20:56:12.44
男『よっしゃーっ!』

妹『やったね! 兄さんっ!』

親友『……まぐれだ……絶対、まぐれだ……』

男『うおおおっ! 勝利の雄叫びっ!』

妹『ひゃあほおおおっ!』

ぎゅっ。

男『この可愛いやつめっ!』

妹『うわっ、に、兄さん……』

男『あ……ご、ごめん』

妹『……え、ええと』

男『その……感極まってさ……本当に悪い……』

妹『い、いや、別に……』

360: 2011/06/09(木) 20:56:31.76
親友『…………』

親友『おーい、そこのお二人さん』

男・妹『は、はいっ!?』

親友『キリもいいし、そろそろゲームを止めよう』

男『ん? いいのか、俺の勝ちで終わりで』

親友『ふんっ、たかが一勝で何言ってんだよ』

男『……まあ、そうりゃそうだけど』

妹『良かったね、兄さん。勝ち逃げだよ』

男『お、おう』

親友『そんなことより──』

親友『じゃーん、これはなんでしょう?』

男『ん? ビデオ?』

妹『あっ!』

361: 2011/06/09(木) 20:57:16.42
親友『実は、こないだ借りてきた映画があるんだ』

妹『……それは……』

男『?』

親友『他の奴は全部二人で見たんだが』

親友『この一本だけは、未だに見る事ができない』

妹『お兄ちゃん……やめようよ……』

男『どういうことだ?』

親友『見てみろ』

男『……ん……』

男『……ホラー映画か?』

親友『正解』

妹『……うぅ……』

男『ああ、だから嫌がってたわけか』

362: 2011/06/09(木) 20:57:27.53
親友『そこで、今日こそは、これを見ようと思う』

妹『お兄ちゃん……やめようよ……』

親友『何だよ、お前、約束しただろ?』

親友『『兄さんも入れて、三人なら見る』ってさ』

妹『言ったけど……』

男『…………』

親友『てなわけで、鑑賞タイムだ』

親友『部屋も暗くして、雰囲気も出そう』

……………。

363: 2011/06/09(木) 20:57:45.26
──ぎゃあああああああっ!

妹『きゃああああああっ!』

ぎゅっ!

男『……あっ……』

妹『やだやだっ! もういやっ!』

親友『うわぁ……想像以上にグロいな……』

妹『兄さん兄さんっ』

男『……な、なんだよ』

妹『もう……怖いシーン終わった?』

親友『終わったぞ』

──うぎゃあああああああっ!

妹『嘘つきっ!』

親友『はははっ、騙されるほうが悪いんだぞ』

364: 2011/06/09(木) 20:58:13.68
妹『もうやだよぉ……やめようよぉ……』

ぎゅっ!!

男『……お、おう』

親友『本当に、妹は怖い系、苦手だよなぁ』

親友『あー、部屋からカメラもってくれば良かった』

親友『今なら妹のベストショット撮れたのになぁ』

男『おい、タチが悪いぞ』

妹『そうだよ、お兄ちゃんっ!』

親友『分かってるって。撮らないからさ』

妹『……兄さん、終わった?』

男『……うん、大丈夫』

365: 2011/06/09(木) 20:58:52.08
妹『はぁ……やっと見れるよ……』

男『…………』

妹『ねぇ、兄さん』

男『ん?』

妹『終わるまで、手握っててもいい?』

男『……え』

妹『だ、駄目かな?』

男『……い、いいよ』

妹『ありがと、兄さん』

男『…………』

370: 2011/06/09(木) 21:57:25.41
──会社

男「……あの」

上司「ああ、来てくれたか」

男「その、何か、ミスでもしましたでしょうか?」

上司「いや……お前は、ここ最近、よくやってくれている」

男「そうですか……でも、何の用件で?」

上司「聞いたぞ」

男「……は?」

上司「なぜ、もっと早く言わなかった」

男「すみません……その何の話か……」

上司「なかなか、隙を見せない奴だな」

上司「……いや、流石といったところか」

男「……はい?」

371: 2011/06/09(木) 21:57:48.90
上司「お前、社長の息子なんだろ?」

男「……え」

上司「さきほど呼び出されたよ」

上司「『いままで黙っていたが、実は……』とな」

男「社長からですか……?」

上司「ああ、全く気がつかなかった」

男「……その」

上司「別に隠していたことを怒っている訳じゃない」

上司「ただ、そんな重大なことに気づけなかった自分を恥じると同時に」

上司「驕りや高慢な態度をとらないお前を凄いなと思ってな」

男「……いや」

上司「正直に言おうか」

上司「ただただ、感心したよ。降参だ」

372: 2011/06/09(木) 21:58:05.87
男「……いや、そんなことは全くありません」

上司「それだっ!」

男「へ?」

上司「その低姿勢が君の魅力なんだ」

上司「身分が判明したというのに」

上司「まだ続けようとする、根っからの素直さ」

男「…………」

上司「今まで、なぜかと疑問に思っていたんだが」

上司「やっとしっくりとくる理由が分かった」

男「……疑問ですか?」

上司「ほら、そのだな、初めのうちは君に厳しく当たっただろ?」

男「いえ、それは僕に必要なことでした」

373: 2011/06/09(木) 21:59:09.39
上司「君はそう言ってくれるが、やはり私怨がなかったとは言い切れない」

上司「かわいがっていた部下が飛ばされて、確かに、君へ当たった」

男「そんなことは──」

上司「いや、そこは謝らせて欲しい。申し訳なかった」

男「そんな、頭を上げて下さい……」

上司「けれどだ。君をいつの間にか、慕っている自分に気がついた」

上司「初めは無能な部下……いや、これまた、すまん」

上司「その、新入りを俺が鍛えてやろうという気持ちだと思っていたんだが」

上司「無駄に、私の仕事に連れて行きたくなり」

上司「多少のミスも何故だか、自然と許せるようになっていた」

男「……そうだったんですか?」

上司「それが、君の魅力だよ」

374: 2011/06/09(木) 21:59:39.51
上司「上の身分の者が醸し出す、独特な高圧感が君にはない」

男「……はぁ」

上司「本当に、今まで、その才能を持っていたというのに」

上司「どこで胡座をかいていたというんだ」

男「……その」

上司「……まあ、そんなことはどうでもいい」

上司「ただ、少しだけ忠告をしておこうと思ってな」

男「忠告ですか?」

上司「というより、だてに長く生きていない年配者の知恵というか、だな」

上司「それを君に授けたい」

男「あ、ありがとうございます……?」

上司「どうせ私は後数年経ったら、定年の身分だ」

上司「出世が遅くてね。もうこれ以上、上にはいけないだろう」

男「いや、そんなことは……」

375: 2011/06/09(木) 21:59:56.01
上司「でも、君は違う」

男「…………」

上司「創業者である社長の息子だ」

上司「今しばらくは下っ端で経験させているだろうが」

上司「もう少し経てば、自ずと上の役に就くだろう」

男「……それは」

上司「今ではもう若くない社長も」

上司「ゆくゆくは、会社を息子に継がせたいと思っているはずだ」

上司「君が今後、幾ら無能だったとしても」

上司「自然と重役となり、ひいては、社の長となるだろう」

男「…………」

上司「だが、それでは、部下はついてこないぞ?」

上司「馬鹿な上司だと思われて、身内は敵ばかりとなる」

男「……はい」

376: 2011/06/09(木) 22:00:31.49
上司「だからこそ、今の君の魅力を将来にも生かすんだ」

上司「加えて、実績も出せば、誰一人文句を言わないはずだ」

上司「例えそれが、コネでのし上がった若者であっても、な」

男「……あ」

上司「分かっただろ?」

上司「少しでも私の想いが伝わればいいと思っている」

上司「しかし、本当に、君は恵まれているな」

男「……そうでしょうか?」

上司「何を言ってるんだ。もっと親に感謝しなさい」

男「親に……」

上司「君をこの世界に誕生させ、ここまで育ててくれたんだ」

上司「その魅力ある性格も加えてだ」

男「……そう、ですね」

上司「ああ」

377: 2011/06/09(木) 22:00:51.16
男「そうだ……」

男「……そうだよ……」

上司「ん?」

男「今の自分がいるのは……親のおかげ……」

男「だからこそ、俺は……」

上司「お、おい、どうした?」

男「なんで、こんな大事なこと……」

男「……でも」

男「どうすればいい……?」

男「俺は……一体……」

男「…………」

男「やっぱり……駄目だ」

男「……この世界からは、もう抜け出せない……」

男「母さん……」

男「……ごめんね……」

384: 2011/06/09(木) 22:51:44.33
──車内

妹「わたしに、月に一度の検査って、なんか不思議ですよね」

男「どうしてだ?」

妹「だって、病院に行ったところで、記憶が戻るわけないじゃないですか」

男「それはそうだが……」

妹「家に戻ってから数ヶ月」

妹「けれど、一向に過去を思い出す気配もないんですから」

男「……それでも」

男「やっぱり、お医者さんに見てもらうのは大事だよ」

妹「……分かってはいるんですが」

妹「どうも駄目ですね。最近、ネガティブな思考ばっかりです」

男「…………」

385: 2011/06/09(木) 22:52:37.39
妹「お兄ちゃんはなんでだと思いますか?」

男「ん?」

妹「わたしの記憶が未だに戻らない理由」

男「それは……」

妹「お兄ちゃんが、どう考えているのか、聞きたいです」

男「……いや、俺は専門家じゃないから分からないよ」

妹「お願いします」

男「…………」

妹「…………」

男「……はぁ」

男「こんなことは言いたくないんだが……」

男「昔の生活をなぞっているのに、過去を思い出せないってことは」

男「それが今の日々に必要ないってことなんじゃないか」

386: 2011/06/09(木) 22:53:05.35
妹「……必要ない?」

男「もしかしたら、記憶があること自体、問題なのかもしれない」

男「思い出すことによって、今に支障をきたすからこそ」

男「身体が無意識のうちにそうさせているんだと思う」

妹「……自殺未遂するほどですからね」

男「もう、やめよう……」

男「これが建設的な会話だとは、俺には思えない」

妹「でも、お兄ちゃんの意見はすごく参考になりました」

妹「何となく、わたしもそんな気がします」

男「…………」

妹「最近、わたし、思うんです」

男「……さっきの話の続きか?」

妹「はい」

388: 2011/06/09(木) 22:53:33.24
男「なら、今は聞きたくないな」

男「病院に着いて、検査を受け終わってからにしよう」

妹「……これで最後にします」

男「……ふぅ」

男「分かったよ……」

妹「……ありがとう」

男「…………」

妹「その、わたしが記憶が戻らないのには多分大きな訳があるんです」

男「……どうして、そう思う?」

妹「調べたんですが、大抵の記憶喪失はすぐに治るみたいです」

妹「それは今までの生活をなぞったりすれば、次第に気づくから」

男「……ああ、だから、今もそうしてるだろ?」

389: 2011/06/09(木) 22:53:56.67
妹「本当ですか?」

男「どういうことだ……?」

妹「なにか、欠けてるんじゃないんですか?」

男「……は?」

妹「実のところ、わたしも全く思い出せないという訳じゃないんです」

男「……そ、それは本当に?」

妹「はい。誰にも言いませんでしたけど、事実です」

男「いや、待てっ。それは、かなり重要なことなんじゃないか?」

妹「でも、結果的に駄目なんですから意味はないですよ」

男「それでも……」

妹「問題は、思い出そうとする瞬間」

妹「何かが、わたしの記憶が蘇るのを遮ることです」

390: 2011/06/09(木) 22:54:28.27
男「……遮る?」

妹「それが何なのか、前までは分からなかったんですけど」

妹「最近、違和感が」

男「……なんだ?」

妹「昔通りと言っている生活に、何か、不自然さを感じるんです」

男「……それは」

男「昔のように、大学に行ってなかったりするからだろ?」

妹「そんな些細なことじゃなくて、もっと根本的な……」

妹「前提をひっくり返すような、そんな感覚です」

男「…………」

妹「お兄ちゃんは、見当つかないですか?」

男「……いや」

391: 2011/06/09(木) 22:54:49.76
男「俺には、分からないよ」

妹「……そうですか」

男「すまん……」

妹「いや、お兄ちゃんがそう言ってるなら、わたしの勘違いなんでしょうね……」

妹「でも……何かが、おかしいんですよ……」

男「…………」

男「……少し、焦りが出てきてるみたいだな」

妹「え?」

男「過去を取り戻せない自分に、憤りを感じているんだろ?」

妹「…………」

男「よし、そうだ。今度、時間を作って、どこか──」

392: 2011/06/09(木) 22:55:18.42
妹「『前に進みたい』」

男「……え?」

妹「わたしも、前に進みたいんです」

男「…………」

妹「今のままじゃなくて、わたしもお兄ちゃんみたいに」

妹「辛い過去を乗り切って、今を生きたい」

男「……それは……」

妹「ねぇ、お兄ちゃん」

男「……ん?」

妹「最近、見るからにお兄ちゃん、疲れてますよ?」

男「俺が?」

妹「顔も窶れてるし、最近はふざけるのも少なくなりました」

394: 2011/06/09(木) 22:56:20.52
男「は、はは……それは、構って欲しいのか?」

妹「はぐらかさないで」

男「…………」

妹「一体、どうしたんですか?」

男「……別に、なんでもないよ」

妹「仕事のこと?」

男「…………」

妹「それとも、人間関係がうまくいってない?」

男「…………」

妹「或いは……」

妹「わたしのことで……」

395: 2011/06/09(木) 22:56:56.25
男「――違う」

妹「それは、本当に断言できますか……?」

男「違う、お前のことじゃない」

妹「……でも、なら」

男「…………」

男「あまり、人には話したくはないことだ」

妹「…………」

男「でも、強いて言うなら……」

男「自分自身の存在意義に、疑問を感じてる……ってとこだ」

……………。
………。

399: 2011/06/09(木) 23:24:25.59
担任『よし、配り終わったな』

担任『では、志望先を記入しておいてくれよ』

担任『書き終わったら、委員長に渡すか』

担任『それが嫌なら、職員室の私のところまで自分で持ってくるように』

キーンコーンカーンコーン。

担任『……チャイムが鳴ったな』

担任『くれぐれも、適当に書くことはないように』

担任『分かったな?』

担任『では、また明日』

……………。

400: 2011/06/09(木) 23:24:49.07
男『んー』

親友『どうした? もう書けたか?』

男『今のところ、普通に進学するつもりなんだけど』

男『どこの高校にしようかなって思ってさ』

親友『何だよ、俺と一緒じゃないのか?』

男『だって、お前、頭いいだろ? 俺は入れそうもないよ』

親友『何言ってんだ。今まで通り二人三脚で助けるぞ?』

男『それはありがたいが……』

男『いつまでも、お前の足を引っ張ってばかりじゃなあ……』

親友『そんなこと言わず、これからも仲良くやろうぜ』

親友『俺はお前と同じ高校いけるなら、少しぐらい苦労構わないさ』

男『……本当か?』

親友『もちろん』

401: 2011/06/09(木) 23:25:16.30
男『申し訳ないな……いつも、迷惑かけて』

親友『いいよ、気にすんな』

男『はは、持つべきものはやっぱり友だ』

親友『だなっ』

男『そうだ、この後どうする?』

親友『ん? どっか遊びにでも行くか?』

男『隣街のゲーセン行ってみないか? 新型色々入ってるらしいぞ』

親友『ただ、今月厳しいからなぁ』

男『それだと、無理そうだな……』

親友『……そうだ』

男『ん?』

親友『久しぶりに俺ん家来ないか?』

402: 2011/06/09(木) 23:25:36.70
男『……お前ん家?』

親友『ああ、そこなら金もかからないし』

親友『古いゲームしかないけど、昔みたいに盛り上がろうぜ』

男『あ、うん……』

親友『それにさ……』

親友『妹のやつも、最近、お前と会ってないし』

親友『この前、『兄さんはもう家来ないの……?』って、半泣きだったぞ?』

男『……いや』

親友『どうしたんだ? 何が問題だ?』

男『別に、何かあるってわけじゃないんだが……』

親友『なら、いいだろ?』

男『……気乗りしない』

親友『…………』

男『やっぱり、今日はやめとこう』

403: 2011/06/09(木) 23:26:08.12
男『俺も、家でやることあるしな』

親友『……なぁ』

男『ん?』

親友『お前、避けてるだろ?』

男『……何の話だ』

親友『しらばっくれるなよ。こっちは分かってんだぞ?』

男『聞きたくないな、その話は』

トコトコトコ……。

親友『お、おいっ』

男『じゃあな、また明日』

親友『…………』

親友『……何でなんだよ』

親友「何で……』

親友『…………』

412: 2011/06/10(金) 00:38:27.35
──リビング

男性「ふぅ、今日も疲れた」

女性「いつもご苦労様です。仕事の方は順調?」

男性「ああ、今のところはな」

女性「そう、それは良かったですね」

男性「ふむ。で、どうだ。最近、お前の方は」

男「…………」

男性「……ん?」

男「…………」

妹「……お兄ちゃん」

ゆさゆさ……。

男「あっ……な、なに?」

413: 2011/06/10(金) 00:40:47.16
男性「いや、最近どうだと聞こうと思ったんだが……」

男性「どうした? 疲れてるのか?」

男「いや、大丈夫だよ。ちょっと……考え事を、ね」

女性「……ご飯もまだ全然食べてない」

女性「もしかして、口に合わなかったかしら?」

男「……違うんだ。いつも通り、おいしいから安心して」

妹「…………」

男「もぐもぐ……うん、やっぱり、母さんは料理上手だな」

男性「はは、そりゃそうだ」

男性「私が何度も何度も、アタックしたというのに」

男性「そうそう首を縦に振らなかったからなあ」

414: 2011/06/10(金) 00:41:41.55
女性「だって、あの頃のあなたは、今みたいにお金なかったじゃないですか」

女性「やはり、家庭を築くなら、少ないよりあったほうがいいですし」

男性「でも、結局は、貧乏な私と結婚してくれたんだぞ?」

女性「あまりにもしつこいから、仕方なしです」

男性「はは、そりゃ困ったなぁ」

妹「仲いいんですね」

男性「ん?」

妹「両親が二人とも仲いいって、見てて幸せになります」

女性「そ、そう?」

妹「はい。ねっ、お兄ちゃん」

男「…………」

415: 2011/06/10(金) 00:43:00.76
妹「……お兄ちゃん?」

男「……聞いてるよ。いいなぁ、仲良くて」

妹「う、うん……」

男「妹がそう言う訳も分かるよ」

男「家庭の幸せってこういうものなんだなって、つくづく実感する」

女性「あら、お父さん。息子が嬉しいこと言ってくれますね」

男性「……あ、ああ……」

男「もし仮に、ここに不幸な家庭しか見てこなかった子供がいたとしたら」

男「羨ましく……いや、妬ましく思う程、幸せな光景だよね」

女性「……え?」

男性「……ちょっと、席を外すぞ」

ガタン……。

416: 2011/06/10(金) 00:43:28.54
男「大丈夫だよ、お父さん。僕は、正気だから」

男性「本当か? やれるのか?」

男「心配しないで。これでも、人一倍の親思いなんですから」

男「今までの人生をかけてきた、実績もありますよ」

男性「…………」

妹「……え、ちょっと、どういう……」

男「いいから、お父さん、座って下さい」

女性「あ、ええと……」

男性「……駄目だな……こっちに来──」

男「どうしたんですか? 何か、問題でも?」

男性「自分でも分からないのか?」

男「何がです?」

男「……これはもう無理だな」

女性「…………」

417: 2011/06/10(金) 00:43:45.29
男性「すまんな……気づけなかった私が悪い」

男「ちょっと待って下さい。みんなも、何か変だと思いますか?」

男性「……………」

女性「……え、えっと」

妹「お、お兄ちゃん……」

男「どうしたんだよ、妹」

男「そんな、異常者を見るような目つきで……もう困るなぁ」

妹「……うぅ」

男「お父さん、いい加減にして下さい」

男「冗談だと言っても、からかわれ続けるのはいい気分がしません」

男性「……………」

妹「……く、口調」

418: 2011/06/10(金) 00:44:30.75
男「ん?」

妹「お、お兄ちゃん……喋り方が……」

男「なに? 喋り方?」

妹「……お父さんに、敬語使ってますよ……?」

男「は、はは……そんなことない──」



男「です、よね……お父さん?」



419: 2011/06/10(金) 00:45:10.78
男性「…………」

男「……っ」

男「ごめん、席を外す」

ガタン……。

男性「すまん、仕事で疲れていたみたいだ」

男性「会社での会話が、こっちまで入りこんでしまったんだろう」

男性「気にせず、食事を続けてくれ。なっ?」

女性「は、はい……」

妹「……お兄ちゃん……」

妹「……一体……」

420: 2011/06/10(金) 00:45:36.97
──親友の部屋

男「……くそっ!」

男「なんて失態だっ! 何をやってるっ!」

男「馬鹿なことを一人で考えてるから……」

男「……こんな些細なミスを置かすんだっ!」

男「……くっ……」

バタッ!

男「……何が、何が不満なんだ……?」

男「いや……」

男「……俺は、一体、何を恐れてる?」

男「…………」

男「……あ……」

421: 2011/06/10(金) 00:45:53.14
男「カメラ……」

男「……あいつの、大好きだった写真撮影」

男「でも……」

男「別に……好きじゃない……」

男「……親友……」

男「ああ……」

男「俺は……」

男「──一体、誰、なんだ……?」

男「…………」

423: 2011/06/10(金) 00:46:14.26
男「……は、はは……」

男「なんてことだ……」

男「……そんな、自分を見失うなんて……」

男「……親友を演じる事で……自分が分からなくなるなんて……」

男「……はは、はははっ」

男「……うぅ」

男「なんて……滑稽なんだ……」

男「……幸せな家庭」

男「違う、違うっ」

男「俺の家には……そんなものはなかった……」

男「……なら、今は?」

男「今は……」

男「…………」

424: 2011/06/10(金) 00:46:48.64
男「分からない……」

男「駄目だ……自分が自分でないようで」

男「頭がおかしくなりそうだ……」

男「……助けてくれ」

男「おい、親友……」

男「……近くにいるなら、狂った俺を助けてくれよ」

男「もう、俺は……」

男「壊れかけているみたいんだ……」

男「…………」

男「…………」

男「……母さん」

425: 2011/06/10(金) 00:47:18.44
男「母さんしか、いない……」

男「今の俺を……正気に戻してくれるのは……」

男「……俺の、たった一人の母さんしかっ──」

……ピピピピピッ!

男「……へ?」

男「か、母さん……?」

……ガバッ!

男「…………」

男「……違う」

男「……何だ? 知らない番号?」

……………。
………。

426: 2011/06/10(金) 00:47:45.70
親友『少し話がある』

男『なんだよ、朝っぱらから』

親友『……重要な話だ。来てくれ』

男『ここじゃ、出来ない話なのか?』

親友『ああ……ここじゃ無理だ』

男『……分かったよ』

男『お前に付いて行けばいいんだろ?』

親友『助かるな……』

男『いいさ、まだ朝礼までには時間がある』

親友『ああ、それまでには終わらせるよ』

男『…………』

……………。

427: 2011/06/10(金) 00:48:10.40
男『……さて』

親友『…………』

男『まさか、屋上が開いてるなんてな』

男『確かに、内密な話をするには絶好の場所だが……』

男『お前、このためだけに錠を壊しただなんて言うなよ?』

親友『……だったらどうする?』

男『……え?』

親友『話をしよう』

男『ちょっと待てって』

男『本当にお前が……』

親友『今は、そんなことどうだっていいさ』

男『……でも』

親友『お前に、聞きたいことがあるんだ』

428: 2011/06/10(金) 00:48:32.53
男『……何だよ』

親友『俺の……妹のことだ』

男『…………』

親友『こないだは、うまく逃げられたからな』

男『今日だって、走って逃げるかもしれないぞ?』

親友『残念だったな。扉に近いのは俺の方だ』

親友『そこまで話したくないっていうなら』

親友『俺を殴り倒していけよ』

男『……そんなことするわけないじゃないか』

親友『そうか? よっぽど、話したくないことだと俺は考えてるけどな』

男『…………』

親友『どうして、あいつを避ける』

430: 2011/06/10(金) 00:49:30.63
男『……避けてないさ』

親友『分かりきった嘘をつくなよ』

男『嘘じゃない。ただ、巡り合わせが悪いだけだ』

親友『違うな。あまりにも、不自然さが臭う』

男『……お前がそう思ってるだけだろ?』

親友『待て。そう、過剰に反発しないでくれ』

親友『ただ、俺は理由を聞いてるだけだ』

男『別に……怒ってないさ……』

親友『そうか? 俺には凄く、感情的に見えるが』

男『いいから、早く聞けよ』

親友『だから、避けている理由を聞いてるんだ』

親友『はぐらかしたら、また同じ質問を繰り返すからな?』

男『……ちっ』

431: 2011/06/10(金) 00:50:51.34
男『……簡単だよ』

親友『ん?』

男『もう、幼い女の子と遊ぶ気になれないんだよ』

男『ああ……そういうことだ』

親友『……あんなにアイツに優しかったお前がか?』

男『人は変わるよ』

親友『……違うな』

男『違わない』

親友『いいか、小さい頃からの友達だった俺に嘘をつくな』

男『……別に嘘なんて……』

親友『なら、はっきりと言ってやろうか?』

男『……何を』

432: 2011/06/10(金) 00:51:04.35
親友『お前が、妹を避けるようになった理由だよ』

男『なっ……』

親友『俺が分からないとでも、思ったか?』

親友『そうだったとしたら、お前は、相当な大バカ者だ』

男『……くっ』

親友『いいか、お前は……』

男『や、やめろっ!』

親友『妹のことが好──』

男『……ッ』

434: 2011/06/10(金) 00:51:55.13
バゴッ!!

親友『……くっ』

男『それ以上、言うなっ』

男『分かっていても、言うんじゃないっ!』

親友『……何でだよ……何が問題……なんだ?』

男『いいから、止めろ』

男『頼むから、やめてくれよ……』

親友『……お前……』

男『……っ』

たったったった……。

親友『…………』

441: 2011/06/10(金) 01:25:07.82
──書斎

ドンドンドンッ!!

男性「……な」

ガチャ……。

男「…………」

男性「……君か……」

男「…………」

男性「ど、どうした? まだ、気分が悪いのか?」

男性「もしそうなら、数日間、仕事を休んでも──」

男「……終わら、せましょう……」

男性「……は?」

男「……もう、こんな芝居」

男「……やめてしまいましょうよ……」

男性「ま、まて……」

442: 2011/06/10(金) 01:26:04.29
男性「……君には言ったはずだと思うが」

男性「今のあの子には、君という兄が必要で……」

男性「それに、途中でやめる事は……」

男「……昔」

男性「……ん?」

男「……酒を飲んでは溺れて」

男「暇さえあれば、煙草を吸っているような男がいましてね……」

男性「……な、何の話だ?」

男「ヘビースモーカーっていうんですか……?」

男「僕は煙草を吸わない事にしてるんで、よく分かりませんが」

男「そんな骨の髄まで腐り切った、駄目人間がいたわけですよ……」

男性「……男君」

男性「もしかしたら、私が思っている以上に、君は……」

443: 2011/06/10(金) 01:26:35.90
男「でも、父親だったんです……」

男性「……え?」

男「そんな駄目人間でしたけど、間違いなく、僕の父でした」

男「……愛すべき、家族だったんです」

男性「…………」

男「でも、そんな男ですから、家庭に幸せは訪れなくて……」

男「気がついた時には、遅かったんです……」

男「……既に、何もかも歯車が狂い始めていて……」

男「不思議に思いませんでしたか……?」

男性「……何を?」

男「どうして、僕が……この街に再びやってきたのか……」

男性「それは、知らない……」

男「実はですね……」

男「……仕事のあてを探しにきたんです」

444: 2011/06/10(金) 01:27:02.32
男「それも、ある程度、お金になる仕事をね……」

男性「……どういうことだ?」

男「最後に頼むのは、親友っていうでしょ?」

男「だから、何年も訪れていないこの街に……」

男「……かつての友人を頼ってきたわけです……」

男性「…………」

男「そしたらびっくり……まさか、ソイツが死んじまってて……」

男「……妹は、記憶喪失……」

男「……は、ははっ……」

男「笑っちゃいますよね……どんなタイミングだよって……」

男性「……っ」

男「でも、あなたは僕に提案した」

445: 2011/06/10(金) 01:27:32.62
男「……『息子の代わりをしてくれ』と」

男「『妹の兄になってくれ』と」

男「この際だから、はっきり言いますね……」

男「……そんな大役、僕に務まるわけないんです」

男「一人でさえ精一杯になのに……どうして、そんな余裕が?」

男性「……けれど、君は承諾したぞ」

男「……その通りです」

男「……だって、仕事が貰えたから」

男「かなりの金が入る仕事が、得られたから……」

男性「いったい……どういう……」

男「僕にはいるんですよ、お金が」

男「……それも少しじゃなくて、大量に」

446: 2011/06/10(金) 01:28:13.03
男性「……何のために?」

男「……手術費用です……」

男性「手術費用……?」

男「……父の話はしましたよね?」

男「ヘビースモーカーの、煙草吸ってばかりの父がいたって話」

男「それが、最悪なことに、母の病気を生みまして……」

男「医者の話によると、副流煙は非常に身体に悪いそうです……」

男「……で、それを大量に吸っていた母は……」

男「──肺ガンになった」

男性「……そうだった、のか……」

男「まあ、月々の医療費ぐらいならなんとかなったんですが」

男「……有名どころの先生に手術を頼むとなると、相当かかるらしくて……」

男「でも、母さんの残された命は僅かで……」

447: 2011/06/10(金) 01:28:49.80
男「……たった一人の守るべき家族なんです」

男「かつて、僕は誓いました……けど、その母を救うことができない……」

男「……そんな時に舞い込んできた、不幸の中の幸運だったからこそ」

男「かつての……友人、妹のためになるという頼みだったから」

男「今まで、精一杯、頑張れた……」

男「……自分には不可能だと思える事も、やり通せた」

男性「……なら、これからも……」

男「でも、もう意味ないんです……」

男性「……どうしてだ?」

男「……さきほど電話がかかってきました」

男「母が……」



男「──死んだそうです」



448: 2011/06/10(金) 01:29:50.96
男性「…………」

男性「……なっ……」

男「もう……僕には無理ですよ……」

男「こんな……自分の生きる方向性を見失った人間に……」

男「守ると約束した人を救えない、裏切り者に……」

男「……親友を演じて、その妹を救うなんて……」

男「そんな、大役……無理なんです……」

男性「…………」

449: 2011/06/10(金) 01:30:36.37
男「そもそも、これからの人生……」

男「一体、どうしていいのか……」

男「……でも、まずは」

男性「帰るのか?」

男性「母親のいる故郷の病院に帰るんだな?」

男「…………」

男「……はいっ」

男「……ごめん……なさい……」

男性「…………」

453: 2011/06/10(金) 01:50:52.70
──路上

ザーザーザーッ……。

男「……雨、か……」

男「日中はあんなに晴れてたのになぁ……」

男「……ここから、何時間かかるんだっけ……」

男「ええと……」

男「まあいいや……」

男「とりあえず、車に乗らないと……」

男「…………」

男「『時間がかかってもいいから、落ち着いたら戻ってきて欲しい』か……」

男「は、はは……」

男「こんな自分を、まだ必要としてくれてるんだな……」

男「…………」

男「母さんに会いに……行こう」

男「…………」

454: 2011/06/10(金) 01:52:00.98









──『お兄ちゃんっ……』









男「……え?」

男「嘘だろ……だって……」

455: 2011/06/10(金) 01:52:33.32
妹「!!」

男「……あっ……」

男「あいつの部屋は……そうか、道路沿いか……」

男「……やっぱり、一言ぐらいかけたほうが……」

男「…………」

男「……おーい、聞こえるかっ!」

ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。

妹「?」

男「……だめ、か……」

男「そうだよな……」

男「雨降ってるもんな……これじゃあ、向こうに届かない……」

妹「…………」

男「…………」

456: 2011/06/10(金) 01:53:13.18
男「……なぁ」

男「本当のことを言うとな」

男「実は、俺……」

男「……お前の兄じゃないんだよ……」

ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。

男「昔、別れも言わずに消えた……ただの知り合いなんだ」

男「お前にとってみれば、冷たくされた相手かもしれないな……」

男「この前に、約束したよな」

ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。

男「……そばにいるって」

男「助けてやるって」

男「でも……ごめん」

458: 2011/06/10(金) 01:53:54.23
男「……もう、俺には出来そうもないんだ……」

男「今のおれじゃ……お前に勘づかれちまう……」

男「足引っ張っちゃうだけ……になるんだ……」

ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。

男「だから……」

男「また、別れを言わなかった俺を」

男「……恨まないでくれよ……」

男「…………」

男「じゃあな……」

男「──さよなら……」

ガチャ……。

……………。
………。

466: 2011/06/10(金) 02:16:36.23
男『…………』

男『……朝か……』

ガバッ……。

男『昨日は、母さんと父さん、喧嘩してたけど』

男『……でも、大丈夫だろ』

男『一日経てば、二人とも冷静になれると思うし』

男『……最後、父さん……自分のやったこと、後悔してるもんな』

男『うん……きっと大丈夫』

男『何事もなく、うまくいくはずだ』

男『……やっぱり、家族は仲良しが一番だ』

男『これを機に、父さん、変わってくれないかなぁ……』

トコトコトコ……。

男『でも、会社をクビか……』

467: 2011/06/10(金) 02:17:01.11
男『……厳しいんだな、大人の世界は』

男『腹が立っても、殴れない、か……』

男『そんなこと言ったら、こないだ、親友を殴った俺は』

男『学校をやめなきゃいけなくなるな……』

トコトコトコ……。

男『うん……今日、謝ろう』

男『やっぱり、殴った俺が悪い』

男『それに……このままだと変な空気がずっと続きそうだからな』

男『大切な友達を、そんなことで失ったらもったいない』

男『……それに妹のことだって……』

トコトコトコ……。

男『でも……どうしような……』

男『もし仮に、あいつがあの子に言ったりしたら……』

468: 2011/06/10(金) 02:17:19.91
男『……気持ち悪がらないかな? 今までみたいに遊んでくれるかな?』

男『あーわかんねぇっ、恋人いたことねぇからなー』

男『それに……あの三人の関係を壊していいのか……』

男『『兄さん』が『妹』を好きになったなんて……』

トコトコトコ……。

男『……ふぅー』

男『とりあえず、その件はひとまず置こう』

男『まずは、親友と……』

男『………ん?』

男『なんだろ、この臭い……』

トコトコトコ……。

男『リビングからかな? もしかして、誰か起きてる?』

469: 2011/06/10(金) 02:17:48.35
ガチャ……。

男『…………』

男『……え』




父親『…………』




男『……首を……』

男『…………』

男『……うっ!』

……ぐええええぇぇっ!!

470: 2011/06/10(金) 02:18:10.26
男『はぁ……はぁ……はぁ……』

男『いいか、落ち着け、落ち着くんだ……』

男『……今、この家に男は俺しかいない』

男『だから、俺がしっかりしないと……』

男『そうだっ、まずは母さんをここに入れちゃいけないっ』

男『こんな父さんの姿は……見せちゃいけない……っ』

男『ことがすむまでは……絶対に……』

男『…………』

男『……父さん』

男『今、降ろして上げるからね』

男『ちょっと待っててよ……今、椅子と鋏を』

ががっ……。

男『……よし』

471: 2011/06/10(金) 02:18:42.72
父親『…………』

男『…………』

男『……うぅ……くっ……』

男『駄目だっ……泣くな……男は泣くなっ!』

男『全てが終わったら……一人で泣くんだっ』

男『……父さん』

男『約束する……』

男『俺……絶対に強い男になるから』

男『母さんを守るから』

男『俺が……必ず……』

472: 2011/06/10(金) 02:19:15.72
男『……ん』

男『……今、降ろすね』

男『少し乱暴になるかもしれないけど、許して』

男『父さんの身体を支えられるだけの力はないんだ』

男『……だから、地面に落ちる時、少し痛いかもしれない』

父親『…………』

男『うん、じゃあ切るよ』

男『……よし』

男『せいのっ……』

……バタンッ!

475: 2011/06/10(金) 02:39:31.57
──病院 霊安室

看護婦「……お母様のご遺体はこちらに」

男「…………」

看護婦「……その」

男「……はい」

看護婦「お母様、癌の病にしては、とても安らかに亡くなられました」

男「…………」

看護婦「それに……」

看護婦「いつも、自慢の息子がいるのだと、誇らしげに言っておられまして」

看護婦「亡くなられる直前も、あなたの自慢話を聞かせて頂きました」

男「……そうですか」

看護婦「……はい」

476: 2011/06/10(金) 02:40:33.88
男「すみません……」

男「少しの間だけ……母と二人だけにして頂けますか?」

看護婦「……もちろんです、失礼します」

男「……本当に申し訳ないです」

ガチャン……。

男「…………」

男「……やあ、母さん」

男「半年ぶりかな? それとも、それ以上、経ったっけ?」

男「ここ最近忙しくてさ、あんまり時間の感覚が分からないんだ」

男「……うん」

男「そうか、死んじゃったんだね」

男「せっかく、この業界で有名なお医者さんに手術を頼もうと思ったんだけど」

男「間に合わなかったみたいだ」

477: 2011/06/10(金) 02:40:57.44
男「……結局、俺、何も出来なかった」

男「こんなことになるならさ……」

男「前の街になんか戻らずに、母さんの側にいれば良かった」

男「前の仕事だと給料は安かったけど、結構、時間は取れたからね」

男「もっと病院へ通って、母さんと話が出来たはずだ」

男「……ごめん……本当にごめん……」

男「電話も何度もしてくれたのに、それも出なくて……」

男「……本当に、俺は親不孝者だよ」

男「役立たずにも程があるよ……」

男「……父さんが死んだ前の夜、結局、俺は止められなかった」

男「いつもと様子が違ったのに……気づけなかったんだ」

男「……あの時から、何も変わってない」

478: 2011/06/10(金) 02:41:17.03
男「身体は大きくなったけど、中身は成長できていないんだ」

男「いつもそうなんだよな……」

男「俺って不器用だからさ、どうあがいても器用にはいかない」

男「大事なところで、肝心な場面で」

男「……ミスをおかす」

男「ただただ、運命に翻弄され続けてる」

男「…………」

男「ごめん……母さん……」

男「……本当に……」

男「……父さんと約束したはずのに……」

男「守るって……言ったのに……」

男「……うぅ……くっ……」

男「……で、でもっ」

479: 2011/06/10(金) 02:41:34.26
男「今は、涙をこらえるよ……」

男「母親の前で、大きなった息子が泣くなんて」

男「あまりにも、みっともなさすぎるからね……」

男「……だけどね、母さん」

男「……俺さ」

男「正直、これからどうしたらいいか、分からないんだ」

男「……もう、何もかも、失った気がするんだ……」

男「……俺は……」

男「一体……どうすればいいんだろう……?」

男「…………」

……………。
………。

486: 2011/06/10(金) 03:09:47.46
親友『……大変なことになったな』

男『ああ……』

親友『明日、引っ越すんだろ?』

男『うん』

親友『……遠いな、自転車じゃ行けないぐらい、遠いよ』

男『……ああ』

親友『高校はどうするつもりだ?』

男『向こうで、働く予定』

親友『……そう、か』

男『それよりさ……』

親友『ん?』

男『悪いな、妹に黙っててもらって』

487: 2011/06/10(金) 03:10:42.43
親友『ああ、気にすんな……こうなったら、仕方ない』

男『うん……』

親友『……でもさ』

親友『ほんと、こういう時って、何て言っていいのか、分かんないな』

親友『何言っても、下手な同情みたいだし』

親友『俺たちの間に、そんな感情があったら駄目だし』

男『……ありがとうな』

親友『……なあ、男』

男『ん?』

親友『「頑張れ」なんて有り触れた言葉は言わない。てか、言えない』

親友『でもな、これだけは分かってて欲しいんだ』

男『……何だ?』

488: 2011/06/10(金) 03:11:18.03
親友『どこに行ったとしても、お前には、俺がついてるから』

親友『どんなに辛くても、苦しくても……』

親友『悲しい時は、一緒に悲しんでやる』

親友『泣きたい時は、一緒に泣いてやる』

親友『それで……時間が経ってな』

親友『大丈夫って、胸を張って言えるようになったらさ』

男『…………』

親友『そん時は……』



親友『一緒になって、笑ってやろうぜ』



……………。
………。

494: 2011/06/10(金) 03:45:50.63
男「……ああ……」

男「……一緒になって……か……」

男「はは……」

男「……懐かしい、な……」

男「……でもよ……」

男「お前も……もう、死んじまったじゃないか……」

男「……何で……」

男「何で、俺の大事な人たちはみんな……」

男「……俺だけを残して、死んじまうんだ……」

男「……うぅ……」

男「くっ……うっ……うぁっ……」

男「……何でだっ」

男「どうして、こんなにうまくいかないっ……」

495: 2011/06/10(金) 03:46:19.97
男「これ以上、俺に……」

男「俺に……どうしろって言うんだ……よ……」





──『先に、■きになったのは■■じゃないから』





男「……あ」

男「違う……」

男「まだだ……」

男「……まだ、俺には……」

男「……そうだよ」

496: 2011/06/10(金) 03:46:43.81
男「……アイツがいるんだ……」

男「俺のことを必要としてくれる……あの子が……」

男「俺はっ!」

──……さんっ……さんっ

男「……ん?」

男「あっ……もしかして……」

男「……これは夢だったのか……?」

……………。
………。

497: 2011/06/10(金) 03:47:23.99
──待合室

ゆさゆさっ!

看護婦「男さん、男さんっ!」

男「……えっ?」

……ピピピピピッ!

男「電話……?」

看護婦「さっきから、男さんの携帯が鳴ってますよ?」

男「ええと、う、うん……」

看護婦「大丈夫ですか? 目覚めてますか?」

男「あ、うん。もう、大丈夫」

ピピピピピッ……。

看護婦「なら、そろそろ電話出てあげたほうがいいですよ」

看護婦「この時間です。きっと緊急の用のはずですから」

男「ありがとう……出るよ」

看護婦「はい」

498: 2011/06/10(金) 03:48:18.96
ピッ。

男「もしもし……」

父親『男君かっ……!?』

男「は、はい……一体どうしたんですか?」

父親『今、君は母親の元に行ってるんだよなっ?』

男「そうですが……その」

男「多分、今週中には戻れると思います」

父親『……そ、そうなのか?』

男「……はい」

男「恥ずかしいことですけど」

男「一度回りきって……やっと大事なことに気づけたみたいです」

父親『そ、そうか……それは良かった』

男「で……あの、どうかしたんですか?」

499: 2011/06/10(金) 03:48:46.63
父親『いや、そのだな……実に言いにくいことなんだが』

男「はい?」

父親『……今の君に聞かせるのは、正直、心許ない……』

父親『だが、覚悟を決めてくれたのなら』

父親『今はもう、家族の一員である君に伝えるほかない』

男「……ええと」

父親『……実はだな』




父親『君がいなくなった後……妹が────────」




男「…………」

501: 2011/06/10(金) 03:50:11.29
ぽとっ……。

『男君……? 聞いてるのか、男君っ……!?』

看護婦「あ、あの……」

男「……ん?」

看護婦「その……ええと、携帯」

男「ああ」

看護婦「いいんですか? 床に落ちちゃって……」

看護婦「……その、相手先の方はまだ、お話が」

男「気にしなくていいよ」

看護婦「で、でも」

男「いいんだ。もう終わったからさ」

看護婦「……それなら、私は別にいいですけど」

男「それより、少し話を聞いてくれないか?」

503: 2011/06/10(金) 03:51:33.98
看護婦「は、はい」

男「雨だったんだ」

看護婦「え?」

男「もっと早くに気づくべきだったよ」

男「俺とした事が、やっぱり、ミスをしてた」

看護婦「そ、その……一体……」

男「彼女の俺を呼ぶ声が聞こえた」

男「つまりいえば、彼女の声は俺に届いてた」

男「雨だったけどね」

看護婦「…………」

504: 2011/06/10(金) 03:52:09.42
男「ってことはだよ? 逆もしかりと言える」

男「俺の言葉は……その実、全部向こうに伝わってた」

看護婦「……あの」

男「やっちまったなぁ」

男「せっかく、思い出せたっていうのにさ」

男「本当に自分がやらなきゃいけないこと」

男「大切にしなければいけなかったこと」

男「それが全部、さっき、分かったはずだったんだ」

看護婦「…………」

男「でも、また、駄目だった」

男「失敗した。間に合わなかった」

男「また失った。無くした」

看護婦「……男さん?」

505: 2011/06/10(金) 03:52:25.77
男「今度こそ、綺麗さっぱり、俺は失った」

男「俺の生きる意味はもう……」

男「──ない」

看護婦「…………」

男「……はは、はは」

男「笑える。最高に笑えるよっ!」

男「なんて滑稽なんだっ!」

看護婦「これは……もしかして……」

男「く、くははっ」

男「くはは、ははははっ!」

男「ははははははははははははっ!」

看護婦「……だ、誰かっ!」

看護婦「誰か来てっ! こちらの方が──」

……………。

506: 2011/06/10(金) 03:54:00.89
──ふあふあする

──全ての枷が取り除かれたように……
   あたかも、風船のように空に飛んで行けるような、
    そんな気持ち

──世界は歪んでいき、滲んでいき……
   滲む? もしかして、俺は泣いてるのかな?

──でも、いいんだ

──だって、もう、終わりだから

──これで終わり

──何も出来ずにおしまい

──…………

──……なあ、親友



──また、俺たち二人が笑え合える日って、くるのかなぁ……



……………。
………。

508: 2011/06/10(金) 03:54:57.63
親友『そん時は……』

親友『一緒になって、笑ってやろうぜ』

男『……お前』

親友『俺だけじゃない。俺の妹も……』

男『…………』

親友『癪だから、お前には絶対言いたくなかったけどさ』

男『……ん?』

親友『先に、好きになったのはお前じゃないから』

男『……は?』

509: 2011/06/10(金) 03:55:52.84
親友『お前と初めて出会った時』

親友『悔しいけど、その時から、アイツはお前に惚れてんだよ』

男『そ、そんな……』

親友『…………』

男『……嘘だろ……』

親友『……本気で言ってんのか?』

男『…………』

親友『妹と仲良しの『お兄ちゃん』が言ってるんだぞ?』

親友『いいか、どうせ、お前はさ……』

親友『別れるって分かってるなら──』

親友『アイツに会っても意味はないって、思ってるんだろ?』

男『…………』

親友『でも、忘れないでくよ』

511: 2011/06/10(金) 03:56:35.36
親友『アイツは……今も昔も……』

親友『──『兄さん』のことが、大好きなんだから』

男『……っ』

親友『そう遠くない未来、戻ってこい』

親友『そして、想いをアイツにぶつけてやれ……』

男『……ああ』

男『……約束する……』

親友『よし、なら、もう俺から言う事はない』

親友『でも、早くしないと、他の誰かに奪われちまうかも知れんぞ?』

男『はは……よく言うよ』

親友『どうしてだ?』

男『お前なら、きっと覚えてるはずだ』

親友『……ん?』

512: 2011/06/10(金) 03:56:59.96
男『「どうすんだよ、逆に好きで意地悪するみたいな男子がいたら」』

親友『……あ』

男「頼むぜ、俺は信じてるからな?』

親友『……ふん……』

男『……言うぞ……』

男『……ふぅー……』

男『どうするんだよ、俺のいない間にアイツに寄ってくる男がいたら』

親友『…………』

親友『大丈夫。もし、そんなことがあったら』

男『どうする?』

親友『妹が必ず、俺に相談してくるはずだから』

513: 2011/06/10(金) 03:57:33.21
男『つまり、その時に──』








──そいつをボッコボッコにしてやろうっ!








517: 2011/06/10(金) 04:17:43.77
………………………。
…………………。
……………。
………。







【──五年後──】







518: 2011/06/10(金) 04:18:09.31
女「……志望動機ですか?」

女「その、以前から貴社の評判を伺っておりまして」

女「このたびは、ええと……」

女「……え?」

女「本音を聞きたい?」

女「…………」

女「いや……はい、分かりました」

女「実は……」

女「前の会社で、嫌な上司にセクハラを受けまして」

女「それで、思わず……」

女「……はい」

519: 2011/06/10(金) 04:18:29.54
女「バチンって、頬を引っ叩いてしまいました……」

女「……いや、申し立てようとも思いましたが」

女「その人にも家庭があるし、子供もいたんで」

女「その……なんていうか、躊躇われちゃって……」

女「……家族ですか?」

女「家族は……もう、いません」

女「……はい」

女「い、いえ……気になさらずに……」

女「…………」

女「敗者の定義……ですか?」

女「……それは、何か、採用に関係が?」

女「あ、はい。分かりました」

520: 2011/06/10(金) 04:19:18.29
女「そうですね……」

女「敗者って……」

女「つまり、やりたくもないことをやらされている人ですよね?」

女「その中には、辛くて、でも、必死に頑張って苦労してる人もいるのに」

女「どうしようなく、もがき苦しんで……」

女「…………」

女「だから、とっても可哀想な人だと思います」

女「……すみません、幼稚な考えで……」

女「え?」

女「そうですか……それは、ありがとうございます」

521: 2011/06/10(金) 04:19:45.74
女「……敗者が抜け出す方法」

女「んー……これは少し、難しいですね」

女「……でもやっぱり」

女「こういう社会に生きている以上、犠牲は必要ですよね……」

女「みんなは幸せにはなれないから、誰かが苦労しないといけない」

女「……だから、可哀想だけれど」



女「私は、簡単に抜け出す方法はないと思います」



524: 2011/06/10(金) 04:29:53.04
──会社

男「…………」

部下「あ、部長」

男「どうした?」

部下「もう帰られますか?」

男「ああそのつもりだが……どうかしたか?」

部下「その、出来上がった資料を見て頂きたくて」

男「……んー、そうだな」

525: 2011/06/10(金) 04:30:11.27
男「本当は、今すぐにでも確認したいのだが……」

男「実は、今日は急ぎの用があるんだ」

部下「あっ、そうなんですか?」

男「すまん……明日の朝一でもいいか?」

部下「そういうことでしたら、全然構わないです」

男「悪いな……また明日」

部下「はいっ、お疲れさまでした」

……………。

527: 2011/06/10(金) 04:31:05.21
男性「……あ」

男性「そこの君っ!」

男「ん?」

男「……って、社長じゃないですか」

男性「珍しいな、帰りが一緒になるなんて」

男「定時に帰るなんて久しぶりですよ」

男性「はは、私もだ」

男「じゃあ、また家で会いましょう」

男性「……ん、どうだろう」

528: 2011/06/10(金) 04:31:46.56
男「はい?」

男性「運転手付きの車に一度乗ってみたい気はないか?」

男「……それは、お誘いってことですね?」

男性「無論だ」

男「ならば、社長の誘いを断る部下はいませんよ」

男「もちろん、お供させて頂きます」

男性「ん、よく出来た返事だ」

670: 2011/06/11(土) 07:14:57.45
──車内

男性「どうだ、最近の調子は」

男「おかげさまで順調です」

男「昇格した当初こそ、うまくいかないことも度々ありましたが」

男「今では、何とかやれているという実感があります」

男性「ふむ……それはいい兆候だ」

男性「社内でも君の評判はすこぶる良いし」

男性「今のところ、何の問題もないな」

男「ありがたい話ですね」

男性「……どうだ、あの話は考えてくれたか?」

男「……それは」

男性「君にとっては重圧かもしれないが」

男性「私は、それを成し遂げる才を君が持ち得ていると考えている」

男「……でも、いいんでしょうか」

671: 2011/06/11(土) 07:15:26.09
男性「何が問題だ?」

男「…………」

男性「引け目を感じる必要などないのだよ」

男性「結果も残しているし、誰も不満には思わないだろう」

男「会社の人間はそうでしょう……でも」

男性「……やはり、死んだ息子のことか」

男「……はい」

男性「それは、私が口に出来る範疇のことではないな……」

男性「……息子と君だけの問題だ」

男「…………」

男性「もうしばらく、検討していてくれ」

男性「出来るだけ前向きにな」

男「すみません、お時間を取らせてしまい……」

男性「いいんだ。今でも、君は十分にやってくれているよ」

714: 2011/06/11(土) 09:44:26.55

男「……ありがとうございます」

男性「……ん、話を変えよう」

男性「それで、君は何を買った?」

男「え?」

男性「ほら、分かるだろ?」

男「あー、はい」

男性「高価なものか? 今なら十分な給与もあるしな」

男「はは、全てお見通しですね」

男性「会社の社長は私なんだぞ?」

男性「部下がどれだけ稼いでいるかは、大体、把握しているよ」

男性「特に君の場合は浪費癖もないし」

男性「口座の残高は見るときは笑いが止まらないだろう」

男「そんなことはないですよ」

男性「またまた……で、何を買った?」

675: 2011/06/11(土) 07:16:56.35
男「……内緒です」

男性「社長の私にも言えないのか?」

男「ここからは、ただの息子と父の関係ですからね」

男性「それを言われると、強気に出れんな……」

男「まあ、後少しの辛抱です。すぐに分かる事ですよ」

男性「楽しみにしてるよ」

男「さて……そろそろ着きそうですね」

男性「ん、頭を切り替えんとな」

男「はい」

男「……ただ」

キキッ……。

男「……着きましたね」

676: 2011/06/11(土) 07:17:24.18
ガチャ……。

男「どうぞ、父さん。お降りください」

男性「はは、ありがとう」

男性「……で、今、何を言いかけたんだ?」

男「……その」

男性「ん?」

男「……そろそろ一年経ちますね」

男性「……あ」

男性「そういうことか……」

男「…………」

男性「分かっている……余り、考えたくはないがな」

男「はい……」

男性「……よし、開けるぞ? 心の切り替えはいいか?」

677: 2011/06/11(土) 07:17:47.58
男「……ん、大丈夫です」

男性「ならば問題ない」

ガチャン……。

男「ただいまぁー」

?「……あ」

たったったったっ……。





妹「お兄ちゃん、おかえりっ!!」





681: 2011/06/11(土) 07:53:27.27
──リビング

パーンパーンっ!

妹「うわっ……」

男「誕生日おめでとうっ!」

妹「お、お兄ちゃん……ありがとうございます」

父親「おめでとう」

母親「ふふ、おめでと」

妹「お父さん、お母さんも、ありがとう……」

男「しかし、今日は豪勢な料理だね」

父親「七面鳥の丸焼きなんて、ほんと久しぶりに見たな」

母親「この子も手伝ってくれたんですよ」

妹「ちょっとだけですけどね」

父親「なんだ、誕生日の本人も料理に参加したのか」

母親「もちろん、私はしなくていいって言ったんですけど……」

682: 2011/06/11(土) 07:54:01.22
妹「でも……やっぱり、悪いですから」

男「何だ、まだ家族に遠慮してるのか?」

妹「……だって、その」

母親「いいじゃない。私は凄く助かったんだから、ね?」

男「まあ、そうだけど」

男性「よし、早速、ご飯にしよう」

男性「おいしそうな料理を温かいうちに食べないと罰が当たるからな」

女性「そうですね……でも、その前に」

男性「ん?」

男「父さん、もう忘れてるのか?」

男性「あ……ああっ、そうだった!」

男「しっかりしてくれよ? ほんと、歳なんじゃないのか?」

男性「やかましい……」

妹「ええと……」

683: 2011/06/11(土) 07:54:25.91
女性「お父さん、早く」

男性「ん……妹、誕生日おめでとう」

妹「あ、はい」

男性「それで、家族の皆からプレゼントを渡したい」

妹「……えっ」

男性「私からはこれだ。色々、迷ったんだがな……」

妹「……あの、開けても?」

男性「もちろんだ」

ガサガサ……。

妹「……あっ……腕時計……」

男性「うむ。どうだ? 気に入ってくれたか?」

妹「は、はいっ……すごく、可愛いです……」

男「でも、歳の割には、ちょっと可愛すぎるかもな」

男性「……あっ……そ、そうか……」

684: 2011/06/11(土) 07:54:50.63
妹「お、お兄ちゃんっ! 大丈夫ですよっ! 全然、付けられますからっ!」

男性「それならいいんだが……」

女性「じゃあ、私からこれね……よいしょ……」

妹「お、大きいですね」

女性「うん」

ガサガサ……。

妹「最新型のフードプロセッサー!」

男「なんだよ、それ……」

父親「おい、自分のために買ったんじゃないだろうな……」

女性「違いますよ。この子、料理がとっても好きみたいだから」

妹「ありがとうございますっ! しかも、赤で可愛いっ!」

男「……思いの他、凄く喜んでるじゃん……」

父親「なんだ……そういうので良かったのか……」

685: 2011/06/11(土) 07:55:09.90
妹「うわぁ……夢広がるなぁ……」

男「……コホンコホン」

妹「……あ」

男「そろそろ、大トリの出番だな」

妹「お、お兄ちゃんも……?」

男「当たり前だろ。ほら」

妹「……ええと」

男「いいから開けてみろ。喜ぶかは保証出来ないけどな」

妹「う、うん」

ガサガサ……。

妹「……これ……もしかして……」

男「…………」

686: 2011/06/11(土) 07:55:23.26
……パカッ。

妹「…………」

女性「……指輪ね」

男性「あ、ああ……」

男「ど、どうだ? もしかして……気に入らなかった?」

妹「……ううん」

妹「わたし……凄く、嬉しいですよ……」

妹「うん……本当に……」

妹「…………」

妹「ありがとう……お兄ちゃんっ」

688: 2011/06/11(土) 08:21:43.55
──会社

男「さて、今日も一日、必死に汗をかかなければならないわけだが」

男「業務連絡の前に、皆に伝えておくことがある」

男「……よし、こっちに来てくれ」

?「……は、はい……」

男「本日づけで、われわれの部署に新しいメンバーが加わる」

男「主な業務は私専属の秘書みたいなものだが」

男「君らが忙しく困ったときにも、雑務などを手助けてしてくれるはずだ」

男「では、紹介しよう」

男「……新しい仲間、女さんだ。みんな拍手」

パチパチパチ……。

女「これから、よろしくお願いしますっ!」

689: 2011/06/11(土) 08:24:08.16
──部長室

男「これが、今週中の私の予定表だ」

女「は、はい」

男「それと、今後のスケジュール管理は君に一存する」

男「何か問題や重複があった際には、その都度、私に聞いてくれればいい」

女「分かりました」

男「初めのうちは不慣れなことが多いはずだ」

男「だから、少しでも疑問が生まれたときには、すぐに私に聞くように」

女「了解です」

男「今の段階で、分からない事は?」

女「特に……ないですね」

男「よし、あとアポ無しの面談希望は基本断っていいからな」

女「あ、はい」

男「最近、本当に多いんだよ」

690: 2011/06/11(土) 08:24:58.00
男「このご時世だからこその、なりふり構わずの営業なんだろうが」

男「こちらからすれば迷惑この上ないのでな」

女「そうですね……」

男「あまりにもしつこい場合は、そのときに言ってくれ」

男「私の方で対処しておくから」

女「はい」

男「ん、まあ、こんなところかな?」

男「あとはもう、やってみない限りは分からないだろう」

男「私に聞きたいことはあるか?」

女「その……」

男「ん?」

女「す、凄いですね」

男「何がだ?」

女「私と面接のときから、お会いしていたじゃないですか」

691: 2011/06/11(土) 08:25:14.79
男「ああ。だから、君を採用した」

女「その時には、年齢も少し上ぐらいに見えましたし」

女「だから、ただの人事部の方だと思っていまして」

女「……まさか、部長さんだとは」

男「まぁ実際、かなり若いからな」

女「……その若さで部長ってことは、相当、やり手なんですね」

男「はは、違うよ。大きな声では言えないが……」

女「は、はい」

692: 2011/06/11(土) 08:25:30.58
男「実は、親の七光りなんだ」

女「……え?」

男「具体的には、父がこの社の社長ってこと」

女「そ、そうなんですか?」

男「だからはっきり言うと、ただのボンボンってやつだな」

女「……は、はぁ」

男「不甲斐ないところが多少見受けられるかもしれないが」

男「その時は、そういうことなんだなって、受け流してくれよ?」

女「わ、分かりました」

男「ん、なら、雑談は終わりだ。仕事を始めようか」

女「はいっ」

701: 2011/06/11(土) 09:22:05.32
──車内

男「さて、月に一度の病院での検査だ」

妹「はぁ……」

男「気乗りしないか?」

妹「……そうですね」

男「いつも言っているが、やはり万全を期さないとな」

男「それは、お前も分かってるはずだろ?」

妹「はい……」

男「ん、ならいい」

妹「……お兄ちゃんは嫌になりませんか?」

男「嫌になる?」

妹「わたしは、この日が来る度に……」

妹「自分が未だ病気のままなんだって、再確認させられます」

男「…………」

702: 2011/06/11(土) 09:23:05.10
妹「普段は何の支障もなく、それこそ、楽しい生活を送っていて」

妹「だけど、やっぱり、今のわたしは本来の自分じゃなくて」

妹「……何年ぐらいになるんですか?」

男「ん?」

妹「わたしが昔の記憶を失ってから……合わせてどれくらいに?」

男「……約六年だ」

妹「六年……もですか」

男「…………」

妹「そんな長い事、思い出せなかった」

妹「何度繰り返しても、また、同じことの繰り返し」

妹「同じ場所を行ったり来たり……ただそれを永遠と」

男「違う。少しずつだけど、前進してる」

妹「そう思いますか?」

男「ああ」

703: 2011/06/11(土) 09:23:30.24
妹「わたしは今回も駄目な気がしちゃうんですよね」

妹「以前と確かに状況は違うみたいですけど」

妹「急激な変化があったわけでもないですし……それこそ」

男「考えすぎても駄目だぞ?」

妹「でも……」

男「ほら、俺があげた指輪」

妹「え?」

男「形にしたプレゼントを送ったのは初めてだ」

妹「…………」

男「そうやって、些細な変化が積み重ねって」

705: 2011/06/11(土) 09:23:53.66
男「いつの日か、きっと前に進める日が来るはずだ」

妹「……そう願ってます」

男「ん……」

妹「…………」

妹「最後に一つだけ」

男「……何だ?」

妹「わたしが今感じてる感情は……」

妹「……昔のわたしも抱いていたんでしょうか……?」

男「…………」

男「……すまん」

男「……俺には分からない……」

710: 2011/06/11(土) 09:39:27.96
──親友の部屋

男「…………」

男「……なぁ、親友」

男「お前に語りかけるのは、久しぶりだな」

男「とっくの昔にお前は死んじまってるっていうのに」

男「形見のカメラに向かって、こうやって語りかけている」

男「未練がましいというより……」

男「正直、端から見ると異常だな」

男「……でも、少しだけ」

男「自分でも分からなくなったんだ……」

男「俺の前回の選択は、明らかに間違いだったのかもしれない」

男「仕方ないと言えば、それで話は終わりなんだが……」

711: 2011/06/11(土) 09:40:45.16
男「あいつに……無駄な心配をさせてしまっている自分が嫌になるんだ」

男「妹がどんなに苦しくても、辛くても、悲しくても」

男「俺は、あの子の代わりをしてやることが出来ない……」

男「想像は出来ても、実際、どんなことを考えているのかは分からない……」

男「昔の、無駄に悩む癖に、決断はできなかった自分はとうに捨てたよ」

男「これが正しいと、例え、誤りでも前に進もうって」

男「この5年間、そう常に言い聞かせてきた」

男「けれど……」

712: 2011/06/11(土) 09:40:57.78
男「今回はやってしまったのかもしれない」

男「……俺だけが苦しむだけなら、幾らでも構わないんだ」

男「けど、アイツが……」

男「…………」

男「……やめた」

男「こんなことやっていても、どうにもならない」

男「親友は……もう、死んだんだ」

男「この世界に、心を委ねられる友は……」

男「一人もいない」

720: 2011/06/11(土) 10:24:00.23
──部長室

男「……ふー」

コンコン……。

女「入ってもよろしいですか?」

男「ああ」

……ガチャ。

女「お茶を持ってきました」

男「気が利くね。ありがとう」

女「実はお茶とコーヒーで迷ったんです」

女「もしかして、後者の方が良かったですか?」

男「あー……うん、今度はそうして貰った方が嬉しいかな」

女「分かりました。お砂糖はいくつで?」

男「いらない。ブラックでいい」

女「了解です」

721: 2011/06/11(土) 10:24:46.11
男「……どうだ? 仕事には慣れたか?」

女「おかげさまで、一通りのことは何とか」

女「同僚の方もみなさん良い人たちばかりで、感謝してます」

男「そうか、それは良かった」

女「お仕事、大変そうですね」

男「ん……まあな」

女「今日、お昼休み取ってませんよね? 部屋から出てきませんでしたし」

男「ちょっと仕事の進行が遅れててな」

男「今後に支障をきたすから、早めにこなしておかないと」

女「そうですか? 部長は仕事が早いと、もっぱら噂ですよ?」

男「はは、これまた誰が持ち上げてくれたんだ?」

女「みんなです」

女「上が出来ると俺たち部下は大変だって」

男「そんなことも言ってるのか」

722: 2011/06/11(土) 10:25:15.58
女「ここだけの内緒の話ですよ」

女「だから、聞かなかったことにして下さいね?」

男「ふむ……内緒の話なら仕方ない」

女「ふふっ」

男「……そうだ、少し時間をもらってもいいか」

女「何でしょうか? 仕事の話?」

男「いや、ものすごく私事の話」

女「私事……」

男「少し女性の意見が聞きたくてな」

男「もしもだぞ、本当に仮の話なんだが……」

女「はい」

男「理由は分からないが、落ち込んでいる女性がいる」

女「……へ?」

723: 2011/06/11(土) 10:25:57.09
男「そんな女性を励ます時、一番、効果的なのはどんな手段だ?」

女「何かと思えば……ふふ、そうですねぇ……」

男「あくまでも、仮の話だからなっ」

女「その女性は部長とどんな関係なんですか?」

男「……まぁ、近しい関係であることは確かだ」

女「なら、何でもいいと思います」

男「おいおい、適当に流さないでくれ」

女「いや、本気で言ってますよ」

女「部長自身が励ましてやりたいって、元気にしてあげたいって」

女「そう思ってした行動なら、きっと」

女「彼女さんは、分かってくれるはずですから」

男「……そうなのか?」

女「女っていうのは、意外と単純なんですよ?」

女「男性の方の多くは、余り分かっていないようですけど」

男「…………」

724: 2011/06/11(土) 10:26:17.25
女「人と人の付き合いだからこそ、想いが大事なんです」

女「それは、異性同性問わず一緒のことだと思いますよ」

男「……そうか」

女「少しでも参考になりましたか?」

男「ああ、胸の中の靄が消えたようだ」

女「それは良かったです。じゃあ、これで」

男「ん、ありがとう」

女「はい。では失礼します」

男「……あ、そうだ」

女「何ですか?」

男「『彼女さん』じゃないからな」

女「……ふふっ」

731: 2011/06/11(土) 11:20:09.31
──妹の部屋前

男「…………」

男「……よし」

コンコン……。

妹「はーい」

男「俺だけど、入ってもいいか?」

妹「お、お兄ちゃん? 何の用ですか?」

男「ちょっと二人で話をしたいなって思ってな」

妹「え、ええと……」

男「それとも今日はやめた方がいいか?」

732: 2011/06/11(土) 11:21:23.94
妹「い、いやっ! そんなことないですっ!」

妹「でも、ちょっとだけ待ってて下さいねっ!」

男「それはいいけど……」

妹「すぐに終わりますからっ!」

ガサゴソッ!ガタンッ!バタンッ!

男「…………」

……………。

733: 2011/06/11(土) 11:21:51.89
ガチャ……。

妹「はぁ……はぁ……」

妹「もう入ってもいいですよ……」

男「う、うん」

妹「どうかしました……?」

男「凄くげっそりしてるけど、大丈夫か?」

妹「……色々、片付けたいものもありましたし」

妹「この際、良い機会でした」

男「そ、そうか……」

妹「はい。そこのベット座っていいですよ」

男「ありがとう」

妹「……で、話って何ですか?」

男「いや、特に決まった話題があるわけじゃないんだが」

男「少しお前と雑談でもしたいなぁって思ってさ」

734: 2011/06/11(土) 11:22:17.75
妹「でも、夕飯の時もしましたよね?」

男「二人だけじゃなかっただろ?」

妹「あ……はい」

男「どうだ、身体の調子は?」

妹「いたって健康です。お兄ちゃんも仕事の方はどうですか?」

男「順調……って、わけにはいかないなぁ」

妹「もしかしていじめられてたり……?」

男「はは、そんな学生時代じゃあるまいし」

男「ただここ最近は、仕事の量がいつになく多くてな」

妹「……大変そうですね」

男「楽しくはあるよ。充実してるっていう実感もある」

妹「流石、お兄ちゃんです」

735: 2011/06/11(土) 11:22:55.01
妹「あっ、そうだ」

男「ん、どうした?」

妹「お兄ちゃんに、わたしからも話がありました」

男「というと?」

妹「実は今日、久しぶりに服でも買いたいなって思って」

妹「日中、買い物をしに外に出てたんですけど」

男「ほう、いいじゃないか」

妹「それで、気に入った服が一つ見つかって」

妹「お店の方に『試着をなさいますか?』って聞かれたんです」

男「ああ」

妹「……その、この前の誕生日にお兄ちゃんから指輪貰いましたよね」

妹「だから、わたし、最近、いつも指輪をはめているんですけど」

妹「その時に、店員さんがわたしの指輪を見つけて……」

妹「『とても綺麗な指輪ですね。お似合いですよ』って」

736: 2011/06/11(土) 11:23:29.98
男「……うん」

妹「とっても、嬉しかったです」

妹「なんかここ最近、一番、幸せだった気がします」

男「そんなに喜んでもらえるとは、贈った俺も嬉しいよ」

妹「……お兄ちゃんは」

男「ん?」

妹「多分、わたしを励ましにきてくれたんですよね?」

男「……え?」

妹「大丈夫ですよ。わたしは、落ち込んだりしてませんから」

妹「今も毎日が、幸せですから」

男「お前……」

妹「『些細な変化が積み重なって』」

妹「『いつの日か、きっと前に進める日が来るはず』」

737: 2011/06/11(土) 11:24:03.15
妹「お兄ちゃんの言った通りです」

男「……そうなのか?」

妹「…………」

男「本当に、全く心配がないって言い切れるんだな?」

妹「……それは」

男「お前を見てるとさ、いつも頑張りすぎているような気がするんだ」

男「弱音を吐かずに、他人を心配させまいと必死になって」

男「端からは、何の問題もなく過ごしているようだけど」

男「でも……そんなわけ、ないじゃないか」

妹「……っ」

男「他の家族に言えない事でも」

男「俺は、お前の全てを受け入れてやりたい」

男「…………」

男「……そうだな」

妹「お兄ちゃん……?」

738: 2011/06/11(土) 11:25:46.82
男「『どんなに辛くても、苦しくても……』」

男「『悲しい時は、一緒に悲しんでやる』」

男「『泣きたい時は、一緒に泣いてやる』」

男「だから」

妹「……うん」

男「俺の前では隠さなくてもいいんだ。我慢しなくていいんだ」

男「……言うだけでも、少しは楽になるぞ?」

妹「……う……」

妹「…………」

妹「……あ、あのね……」

男「ああ」

妹「……本当は……怖い……」

739: 2011/06/11(土) 11:26:27.45
妹「怖くて、怖くて……」

妹「時には、気が狂っちゃうぐらい、恐ろしい」

男「……やはり……か」

妹「その中でも、寝る時が一番怖いかな?」

妹「朝起きて、もしもまた記憶を失ってたら……」

妹「そう考えたら、夜も眠れない……」

男「…………」

妹「ねぇ、お兄ちゃん……」

男「……ん?」

妹「もしも、明日」

妹「或いは、これから先」

妹「……記憶を失ったら、今のわたしはどうなるんですか?」

男「…………」

妹「死んじゃうの? 消えちゃうの?」

740: 2011/06/11(土) 11:27:18.96
男「……それは」

妹「怖いよ……本当に怖い……」

妹「今の自分がなくなっちゃうって……嫌だよ……」

妹「せっかく、指輪も貰ったのに……」

妹「こんなに毎日が楽しくて幸せなのに……」

妹「そうやって抱いた記憶も、感情も……」

妹「想いも……」

妹「全部、なくなっちゃうの……?」

男「……っ」

ぎゅっ……。

妹「お兄ちゃん……」

妹「明日が怖いよぉ……」

741: 2011/06/11(土) 11:27:44.15
妹「……失うのが怖いの……」

男「分かってるっ」

男「俺が側にいるからっ、守るからっ」

男「だから、だからっ!」

妹「……うん」

妹「……ありがとう、お兄ちゃん」

妹「…………」

妹「でも……」

妹「何となく、分かってる」

妹「……今回は、長く持った方だよね……」

男「……え……」

妹「わたしは……」

妹「もう……」

742: 2011/06/11(土) 11:28:10.58
男「……あ」

男「ああ……」

妹「…………」

男「……妹……?」

妹「……え?」

ぎゅっ!

妹「あの……」

男「いいんだ……」

男「……何も言わなくていいんだ……」

妹「……えっと……」

743: 2011/06/11(土) 11:28:36.62
男「…………」

妹「すみません……」

妹「こんなこと、失礼かもしれませんが……」








妹「──あなた、誰ですか……?」








761: 2011/06/11(土) 12:31:31.56
──病院

男「…………」

男「…………」

男「考えろ、考えろ考えろっ」

男「次の方法だ……次の……」

男「……っ」

男「くそっ!」

……ガンっ!

男「どうしてうまくいかないっ!」

男「何が悪かった? 何をミスしたっていうんだっ!」

男「……くそ、くそ……」

男「…………」

男「……ふぅー……」

男「落ち着け……落ち着くんだ……」

762: 2011/06/11(土) 12:33:27.61
男「焦っても仕方ない……もう一度……」

男「今度こそは失敗しないぞ……」

男「…………」

ガチャ……。

男「……ん」

男性「……大丈夫か?」

男「俺のことはいいです……彼女は?」

男性「今、先生が検査しているところだ」

男性「まあ、毎度のこと、同じ結果だろうがな」

男「…………」

男性「……しかし、何度経験しても辛いものだな」

男性「ああやって、急に初対面の対応をされると……」

男性「……胸を締め付けられるものがあるよ」

男「……七回目」

男性「ん?」

763: 2011/06/11(土) 12:34:04.46
男「アイツが再度記憶を失うのはこれで、七回目ですよ……」

男性「…………」

男「初めてを入れれば、八回……」

男「……何も前に進む事が出来ていない」

男性「だが、今回はいつもより長かっただろ?」

男性「全く進んでいないとは、言い切れないんじゃないか」

男「そんなのたかが数ヶ月の違いですよ……」

男「しかも今回の場合、彼女を相当苦しませてしまった……」

男「……にもかかわらず、この結果です」

男性「……そんなに自分を責めるな」

男性「君がいたからこそ……あの子も約一年過ごせたんだ」

男「…………」

男「……あ……」

男性「どうした?」

764: 2011/06/11(土) 12:36:27.69
男「……『君がいたからこそ』か……」

男「…………」

男性「……何か、問題があったか?」

男「違います……もしかしたら」

男性「なんだ?」

男「……今までをもう一度、整理してみましょう」

男性「あ、ああ」

男「……彼女が二回目に記憶を失った時」

男「あれは俺のせいですが……妹は兄の死を知ってしまった」

男「そして、記憶を失った」

男性「そうだったな」

男「三回目から七回目までは、余り、変化もなく……」

男「一年も経たない程度で、まあ、長さに若干の違いはありましたが」

男「これまた、記憶を失いましたね」

765: 2011/06/11(土) 12:37:51.21
男「そして、八回目」

男性「…………」

男「彼女が約一年周期で、記憶を失っていることを本人に伝えました」

男「あえてその事実を隠さずに、アイツに認識してもらったわけです」

男「そのせいで、妹は日々を悩み続けることになったわけですが……」

男性「その代わり、猶予が伸びた」

男「でも、結果は同じ」

男「俺にとっては、余り大差はないです」

男性「…………」

男「だから、今度」

男「次は今までと全く変わった手段を取りましょう」

男「それが『急激な変化』になる……」

男性「……どうする?」

男「俺は家を出ます」

766: 2011/06/11(土) 12:38:30.91
男性「……なっ」

男「兄を偽るという前提……」

男「それを一旦、やめてみませんか?」

男「兄という存在を、今回は、無かった事にするんです」

男性「しかし、君は一度、会っているんだろう?」

男「その辺りは、うまく誤摩化してもらうことにして……」

男「今後はしばらく病院で生活してもらうようにしましょう」

男「その間に親友の荷物は一旦、違う場所に移して」

男「兄の存在がない家にしてから、彼女に普段の生活を送らせるんです」

男「ん……そうすれば、うまくいく」

男性「…………」

男「どうかしました?」

男性「……本当に意味があるのか?」

男「今は、分かりません……もしかしたら、悪い方向に進むかもしれない」

男性「なら……」

767: 2011/06/11(土) 12:39:21.71
男「でも、前に進むことを躊躇っていたら」

男「いつまで経っても、同じことの繰り返しです」

男「永遠に、彼女は元の記憶を取り戻さない」

男性「……それは」

男「はい?」

男性「それは、そこまで必要なことなのだろうか……?」

男「……どういうことです?」

男性「確かに、昔の思い出も全て思い出せば」

男性「私としても嬉しい事だ……だが」

男性「結局、あの子は現実で兄の死を受け止められず」

男性「自殺未遂を謀ったんだぞ……?」

男「…………」

男性「もし仮に、今後、記憶が戻るとして……」

男性「けれど、その時には……」

男性「あの子が自殺してしまう可能性が生まれてしまう」

768: 2011/06/11(土) 12:40:20.09
男性「親としては、それだけは避けたい」

男「……しかし」

男性「君の気持ちは理解しているつもりだ」

男性「だが、最近、私は思う……」

男性「一年毎に娘が記憶を失ってしまったとしても」

男性「別段、何の問題もないのじゃないか、と」

男「……それを彼女本人に言えますか?」

男「一年しか……いや、一年も生きられない、あの子に?」

男性「……もちろん、言えんよ」

男性「だが、生きていることに変わりはないだろう?」

男「…………」

男性「幾ら記憶を失おうとも、親の子に対する愛は消えたりしない」

男性「それにな……最早、私は、あの子より君の方が心配だ」

男「……はい?」

769: 2011/06/11(土) 12:41:00.74
男性「少し取り憑かれているんじゃないか?」

男性「勝手な私の見解だが、君は人生をあの子にために犠牲にしている」

男「……何を言うかと思ったら」

男性「…………」

男「『犠牲』?」

男「俺が、あいつの為に人生を無駄にしてる?」

男「そんなことありませんよ」

男「……というより、逆です」

男性「……逆?」

男「アイツがいてくれているからこそ、今の俺がいる」

男「生き恥晒しながら、生きていられるんです」

男「……もしも、妹が今後、死んだりなんかしたら」

男「そのときこそ、俺の死ぬときですね」

男性「……今までも、薄々感じていたが」

770: 2011/06/11(土) 12:41:14.43
男性「……君は少し異常だな……」

男「……かもしれません」

男「けど、今の俺にはアイツしかいないんです」

男「父も、母も、親友も失った今」

男「アイツだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる」

男「大切な人たちを無意味に奪っていった、汚いこの世界からね」

男性「…………」

男「俺は諦めません」

男「仮に誰もが匙を投げたとしても、俺だけは決して」

男「──諦めない」

779: 2011/06/11(土) 14:06:50.74
──部長室

男「…………」

男「……仕事が全く進まないな……」

男「あれからまだ一週間も経たないというのに、この調子か……」

男「アイツに会えないっていうのは……」

男「想像していた以上に辛い……」

男「……でも」

男「今度は、うまくいくような気がする」

男「今までとは違う、全く新しい試みだ」

男「……きっと、アイツも昔のように……」

男「根拠はないのに、そう信じてしまいそうだな……」

男「…………」

……………。

780: 2011/06/11(土) 14:07:30.79
コンコン……。

女「部長、失礼します」

男「……ああ」

……ガチャ。

女「コーヒーをお持ち……って、どうかしたんですか?」

男「……ん?」

女「その……」

男「……何だ?」

女「凄く辛そうな表情をしてましたよ……?」

男「……はは……そう見えたか?」

女「は、はい……」

男「……少しな、プライベードで色々あって」

女「もしかして……こないだ言っていた『彼女さん』のこと?」

女「うまくいきませんでしたか?」

781: 2011/06/11(土) 14:08:24.38
男「『彼女さん』じゃないよ……妹──」

男「……って……」

女「……妹?」

女「部長に妹がいたんですか?」

男「……話すつもりはなかったんだがな」

男「思わず、口走ってしまったみたいだ……」

男「……ほんと駄目だな……」

女「その……差し支えなければいいんですけど」

女「……少しお話を聞かせて貰えませんか?」

男「……それは」

女「私、思うんです」

女「時には、他人に話すってだけで」

女「気持ちが多少和らぐことが……誰にでもあるって」

男「……確かにそうだ」

782: 2011/06/11(土) 14:08:56.24
男「なら、少しだけ話させて貰おうかな……」

女「……はい」

男「……実のところ」

男「私には……いや、俺には妹がいるんだ」

女「そうだったんですか」

男「ああ……で、こないだ話した、落ち込んでいる子っていうのが」

女「妹さんだったんですね……」

男「その通り」

女「どうやって、励まそうと?」

男「話を聞いてやって、悩みを受け止めて」

男「それで一緒にそれを背負ってやる……的なことを言った」

女「……私は、凄くいいと思いますよ」

男「でも、結果は駄目だったんだよ」

783: 2011/06/11(土) 14:09:38.90
男「……何度も何度も、繰り返した」

男「時には遠ざけたり、辛く当たってみることにもした」

女「……ええと」

男「でも、そんな些細な変化じゃ何も生まれなくて」

男「逆に、悪化させてしまうこともあった」

女「…………」

男「だから、今回こそはうまくいくって思ってたんだけどな」

男「アイツには辛い思いをさせちゃったけど、仕方なかった」

男「最早……手段がなかったんだ」

女「……はい」

男「でも、結末は変わらない」

男「何度やっても、同じ事の繰り返し」

男「……けど、今度こそは……もしかしたら、ってね」

男「思わずにはいられないんだ」

784: 2011/06/11(土) 14:10:20.08
女「すみません……」

男「ん?」

女「途中から少し分からなくなってしまって……」

男「ああ、ごめん……後半、独り言のようになっちゃったな」

男「余り気にしないでくれ……今日の俺はどうかしてるから」

女「……でも、何となく分かりました」

女「部長は、その妹さんのことを凄く大切に感じていて」

女「掛け替えのない家族の一人だとか思っているんですね」

男「……家族、か」

女「私にも、昔、一人の弟がいました」

男「弟?」

女「すっごく、やんちゃな子だったんですよ」

女「いつも帰ってくると、服を泥だらけにして」

女「そのまま廊下に上がるもんだから、よく母に怒られていました」

男「……そうか」

785: 2011/06/11(土) 14:11:27.47
女「それに悪戯好きで、その対象はいつも私」

女「時には腹が立つこともされましたけど、今となってはいい思い出です」

女「怒られたときに、しゅんとする表情なんて」

女「とても愛らしくて……今でも懐かしくて……」

男「……君の家族は」

女「はい、死にました」

男「そうだった……面接の時にもそう言っていたな」

女「みんなで県境の山にキャンプに行く予定だったんです」

女「弟なんか、絶えず車内で、はしゃいでいて」

女「私は平常を装ってましたけど、内心は凄くわくわくしていました」

女「大好きな両親と愛らしい弟と」

女「テントを張って、近くの川で魚釣りをして」

女「夜はバーベキューでおいしいものを食べて、みんなで仲良く寝る」

女「そんな光景が、容易に想像できたから……」

男「…………」

786: 2011/06/11(土) 14:12:08.54
女「でも、高速を降りて二車線の県道を走っていた時」

女「居眠り運転をしていた対向車線の車がはみ出してきて……」

女「……一瞬でした」

女「大きな衝撃が一回……その後の記憶はありません」

女「気がついたときには、病院のベットで管という管に繋がれて」

女「……みんな、死んじゃったんです」

女「私だけを残して……そう、みんな……」

男「……ああ」

女「それから数年程、生きる気力が湧かない時期が続いて」

女「何度も、自分で命を断とうとも思ったんですけど」

女「その時に限って、弟の笑顔が浮かぶんです」

女「私より小さかった、あの子の笑い顔が頭から離れなくて……」

女「……それで思いました」

女「弟の分も生きよう。強く生きようって」

男「…………」

787: 2011/06/11(土) 14:12:40.87
女「すみません……なんだか急に私の身の上話をしちゃって……」

男「いや、いいんだ」

女「……余り他人に話したくない内容だったんだけどなぁ」

女「部長って、よく聞き上手って言われますか?」

男「はは、生憎、君が初めてだよ」

女「ならなんだろ……でも、部長と私って」

男「ん?」

女「もしかして、凄く似たもの同士なんじゃないですか?」

男「…………」

女「初めて会ったときから」

女「この人は……私と似てるな……って思ったんです」

男「……それはさ」

女「はい」

男「当たり前の話なのかもしれない」

女「……え?」

788: 2011/06/11(土) 14:13:18.39
男「俺も、君が話しやすいって感じているから」

男「だからこそ、秘書に採用したわけだしね」

女「……でも、それって」

男「実のところさ……俺もな」

男「両親がいないんだよ……」

女「え?」

男「だから、共感できるのかもしれない」

男「二人とも家族を失っているから、かな?」

女「……えっと」

男「ん?」

女「でも、部長」

男「何だ?」

789: 2011/06/11(土) 14:13:38.48
女「部長には、お父さんがいるじゃないですか?」

女「この会社の社長が……あなたの父親でしょ?」

男「…………」

男「……ぷ」

女「え?」

男「はははっ」

女「そ、その……」

男「駄目だなっ、今日の俺は本当にうっかりしてるよ」

女「……ええと、はい……」

男「この際だ。君に打ち明ける」

女「?」

男「社長と俺は血が繋がってない」

男「数年前に、養子縁組をしただけなんだ」

804: 2011/06/11(土) 15:31:03.19
──飲み屋

女「……妹さんが記憶喪失?」

男「誰にも言うなよ? バレると色々厄介なんだ」

女「それは分かってますが、何でですか?」

男「恐らくだが……」

男「兄の死に自責を感じて、現実から逃避しているんだと思う」

女「……あー、はい……」

男「その内容について詳しくは俺も聞いていない」

男「今更、彼女の両親に聞くのは躊躇うよ」

男「なんだか、辛い過去を抉っているように思えるし」

女「…………」

男「どうかしたか?」

女「……いや、気にしないで下さい」

男「それで、俺は親友の代わりをすることにした」

男「……そこからは話した通りだ」

805: 2011/06/11(土) 15:31:52.99
女「大変ですね……」

男「昔はそう思ってたけどな……」

男「今は、アイツのためにやれることがあるだけ」

男「何もないより、随分気楽だと思えるようになった」

女「……そうですか」

男「俺にはもう何もないからさ」

男「大切な人はアイツを残してこの世にはいない」

男「でも、彼女がいるだけ、俺はマシなんだ」

女「……その」

男「どうした?」

女「部長の父親が亡くなって、お母さんが病に倒れて」

女「その間、部長は何をしていたんですか?」

男「……お袋が入院したのは、田舎に戻ってすぐだから」

男「同級生が高校に通い始めたぐらいから、ずっと働いていた」

806: 2011/06/11(土) 15:32:33.19
女「医療費を稼ぐ為に?」

男「ああ……初めのうちは大変だったよ」

女「……じゃあ、部長」

男「うん」

女「その時からずっとですか?」

男「何がだ?」

女「……誰かのために生きていることです」

男「それは……」

女「この長い人生の中で……」

女「部長が自分のためだけに、何も考えずに過ごしていた時期って」

女「中学までの、そのたった短い間だけだったんですか?」

男「…………」

女「それって……」

男「異常か?」

女「……はい」

807: 2011/06/11(土) 15:33:04.02
男「はは、彼女の父親にも言われたよ」

男「『……君は少し異常だな……』ってね」

女「…………」

男「でも、俺には分からない」

男「それが当たり前だったし、今まで疑問を感じた事すらない」

男「自分のためだけに日々を過ごすっていうのは、俺の価値観にそぐわない」

女「……普通の人はみんな自分のために生きてますよ?」

男「そうなのか?」

女「え、ええと……」

女「それで……今、妹さんは?」

男「今度は、一旦、距離を置く事にした」

男「死んだ兄を偽っても無理ならば、存在自体無かった事にすればいい」

男「今回はそれでやってみる」

女「……その、一つ気になることがあるんですが」

男「何だ?」

808: 2011/06/11(土) 15:33:43.56
女「それで、部長はいいんですか?」

男「……ん?」

女「妹さんは一年ぐらいの周期で記憶を失うんですよね」

男「そうだ」

女「今回の方法で、仮に妹さんがそうならなかったとします」

女「でも、前の記憶を取り戻さないままだったら……」

女「……部長、あなたは彼女と今後、会えませんよ?」

男「それが、何か問題か?」

女「…………」

女「……問題ですよ」

男「どうして?」

男「俺の中で、最優先なのは妹が過去を思い出す事」

男「けれど、それが叶わなくても」

男「記憶の存続が一年周期っていう縛りさえなくなれば」

男「かつてのアイツは戻らないが、彼女は第二の人生を始めることが出来る」

809: 2011/06/11(土) 15:34:04.51
男「何の問題はない」

女「……部長が妹さんに会えなくても?」

男「そうだ」

女「…………」

女「……やっと分かってきました」

男「ん?」

女「常に誰かのために生きてきて」

女「他のことを考える暇もなく過ごしてきた、あなたは……」

女「自己犠牲なくしては、生きられない人間になっているんです」

男「……自己犠牲って……そんな大層もんじゃ……」

女「なら、妹さんが今後、亡くなったら?」

女「もしかして、その時は一緒に死のうなんて思ってませんか?」

男「……それは」

810: 2011/06/11(土) 15:34:57.57
女「自分を犠牲にして、誰かを救う状況がなければ」

女「自分の生きる意味すら見失ってしまう」

男「………」

女「今日、私と部長は似たもの同士だと言いましたが」

女「……全く内面は違いますね」

男「……そうか」

女「こんなこと言うのは、大変失礼ですが……」

女「記憶を失い続けている妹さんのためにも言わせて下さい」

男「……アイツのため?」

815: 2011/06/11(土) 15:40:38.38
女「あなたには……自己ってものがないです」

女「中身が空っぽというか……空虚なんです」

女「だから──」

女「そんな部長は、彼女の近くにいてはいけない人間ですよ」

女「だって……そこまでして妹さんは救ってもらいたくないから」

女「自分を犠牲にしてまで助けて欲しい……なんて」

女「彼女は少しも望んでないはずですよ?」

女「妹さんを救うとか、救えないとか、その前に……」

女「……部長には今一番にやるべきことがあるんです」

817: 2011/06/11(土) 15:42:18.94
女「自分が何をしたいのか」

女「自分の望みは何なのか」

男「…………」

女「それを確認しなければいけません」

女「……それも、無理なら……」

男「…………」

女「……きついことを言いますが……」

女「部長は妹さんの元を去った方がいいです」

女「そうすれば、きっと、誰も傷つきませんから……」

129: 2011/06/12(日) 21:00:52.32
──アパート

男「…………」

男「……痛いな」

男「……胸の奥が……痛い……」

男「俺は……」

男「間違っていたのだろうか……?」

男「……女の言う通り……」

男「誰かのために生きて、耐えて……」

男「……それは、独り善がりな生き方だったのか」

男「…………」

男「確かに……思うところはある」

130: 2011/06/12(日) 21:02:06.91
男「全うな職を探したいと適当な言い訳をついて」

男「……田舎にいる母さんの元を離れた」

男「そのとき、病院にいた母さん、俺を見て……なんて言ったっけ」

男「……そうだ」

男「『うん。なら、昔の親友を頼りにしなさい』」

男「嬉しそうに、笑って、そう言ってくれた」

男「俺が……母さんだけのためじゃなくて」

男「自分自身のために生きようとしてくれるのを信じて」

男「そんな息子の前向きな姿を……きっと喜んでくれたんだ」

男「……でも、俺は……それも嘘で」

男「ただ単に、手術費用の金が欲しいだけだった」

男「結局、母さんの死に際にも立ち会えなくて」

男「冷たくなった後の母さんを……ただ見つめることしか出来なかった」

131: 2011/06/12(日) 21:02:46.44
男「…………」

男「……ああ」

男「ごめんな……母さん……」

男「これから……」

男「……俺は何をしたい?」

男「……何を望んでいる?」

男「…………」

男「……分からないよ」

男「もう、分からない……」

男「……何一つ、俺にはないから」

男「自分のために、生きる術を俺は知らない……」

男「…………」

133: 2011/06/12(日) 21:46:34.25
──ワインバー

男性「よく来てくれたな」

男「……はい」

男性「どうだ、元気にやってるか?」

男「そうですね……妹と会えないのは、少し寂しいですが」

男性「……ああ」

男「今日はまた、一体、何の用で?」

男性「そのだな……」

男「はい」

男性「会社の件だ」

男「…………」

男性「あれから時間が経ったと思うが、前向きに検討してくれたか?」

男「……それは」

男性「こんなことになってはいるが、私の思いは変わらない」

男性「君になら任せられる。そう、信じている」

男「…………」

134: 2011/06/12(日) 21:47:18.71
男性「息子のことを配慮してくれている気持ちは分かる」

男性「だが、既に君は私と養子縁組を結んでいることだし」

男性「他ならぬ、私の息子と言っても間違いではない」

男「……それは、もしものことを考えた保険という話だったですよね?」

男性「もちろん、初めはそのつもりだったよ」

男性「ただ、君の仕事ぶりを聞かせて貰っているうちに」

男性「或いは、我が家で家族皆で笑い合って……」

男性「食事を共にしている君を見ているうちに」

男性「そして……娘と本当の兄のように会話している姿を眺めて……」

男性「……そうしているうちにな、いつの間にか」

男性「君を、家族の一員のように思うようになった」

男「…………」

男性「いなくてはならない家族の一人だと」

男性「私の本当の息子なのだと」

男性「……思えてしまってならないのだ」

135: 2011/06/12(日) 21:48:19.22
男「……それは、違いますよ」

男性「そう、ただの勘違いだ」

男性「けれど、今となっては……」

男性「……こういう言い方はしたくないが」

男性「死んでしまった息子より、今を共にしている君の方が大切なんだ」

男「……社長……」

男性「君に、私が生涯を尽くして築き上げた会社を託したい」

男性「私の今までの人生の生き写しのような会社を……君に引き継がせたい」

男性「……その気持ちを、分かってくれないか?」

男「…………」

男性「まだ時間はある。けれど、有限ではない」

男性「私もそろそろ引退を考える歳に近づいている」

男性「そう遠くない未来……辞めざるをえないんだ」

男「……はい」

男性「その時になって、突然、君に任せるわけにはいかない」

136: 2011/06/12(日) 21:49:11.57
男性「しっかりと根回しを行ってこその、引き継ぎだ」

男性「そうしなければ……下からの反発は相当なものだと思う」

男性「何か私は間違っているか?」

男「いえ……その通りです……」

男性「だから、早い段階で頼む」

男性「手遅れにならないうちに、君の返答を望むよ」

男「…………」

男性「……妹の話をしよう」

男性「あと数日で、あの子は家に戻る」

男性「君の言った通りの、兄の存在が全くない、我が家に」

男「……はい」

男性「どう転ぶかは私には分からない」

男性「……ただ一つ、これは君にとって、いい知らせかもしれないな」

男「いい知らせ?」

男性「指輪だよ」

男「……え?」

137: 2011/06/12(日) 21:50:17.37
男性「君が誕生日のあの子にあげた指輪」

男性「なぜか分からないが、病院にいる間のあの子はずっと」

男性「それを片時も外さずに、時には、愛おしそうに撫でていたそうだ」

男「……あ、ああ……」

男性「もしかしたら、完全に記憶を失っている訳でもないのかもしれない」

男性「医者が言うには、本人にも分からない深層心理で」

男性「その指輪が、自分にとって大切なものだと」

男性「無意識のうちに理解しているのだそうだ」

男「…………」

男性「本当にいいのか?」

男「……何がです?」

男性「このままで。あの子と会わないままで」

男「…………」

男「……それしか、方法がないのなら」

男性「……男君……?」

男「それに、もしかしたら、俺は……」

138: 2011/06/12(日) 21:51:16.92
男「彼女にとって、不必要な存在なのかもしれません」

男性「…………」

男「そうだ……社長は、敗者が抜け出す方法をご存知ですか?」

男性「……敗者?」

男「弱肉強食の社会で、いつも犠牲となっている人たちのことです」

男「彼らが、その場から抜け出す方法って、何だと思います?」

男性「…………」

男性「……そうだな」

男性「私は今まで、そうならないようにと努力してきたつもりだ」

男性「だから、抜け出せないとは言わないが……」

男性「……一度なってしまったものは」

男性「そう覆すことは難しいんじゃないだろうか?」

男「……そうですか」

139: 2011/06/12(日) 21:52:23.88
男性「しかし、唐突にどうした?」

男「いや……昔、そんな話を親友としたことがありましたね」

男性「……息子と?」

男「彼が言うには、簡単な方法があるんだそうです」

男「でも俺……そんな大事なことを忘れちゃって……」

男性「君が気にすることじゃない。敗者じゃないだろう?」

男「……俺は」

男性「君は地位も金も手にしている。それこそ、望めばその頂点までも、だ」

男「……はい」

男性「少し疲れているようだな……大丈夫か?」

男「…………」

男「……俺を、本当の息子だと思って下さっているのなら……」

男「……一つだけ不躾な質問をさせて下さい」

男性「ああ、構わない」

男「…………」

140: 2011/06/12(日) 21:52:55.98
男「親友は……」

男性「ん?」

男「アイツは何で死んだんですか?」

男性「…………」

男「妹が、記憶を失った訳って、何なんですか?」

男性「……それは」

男「ずっと聞くまいとしてきましたが、それでも今日は……」

男性「……車の事故だ」

男「車?」

男性「息子が、大学にいる妹を迎えに行ったんだ」

男性「けれど、いつまでたっても、彼女の元にアイツは現れなかった」

男「…………」

男性「途中の道で、トラックとぶつかった」

男性「どうだ? 意外と、事実はあっけないものだろう?」

144: 2011/06/12(日) 22:39:23.35
──部長室

女「……失礼します」

男「ん?」

女「こちらの書類にサインをお願いできますか?」

男「分かった。そこに置いといてくれ」

女「その……すみません。今すぐに欲しいそうで……」

男「分かった、少し時間をくれ。今から読む」

女「ありがとうございます」

……………。

145: 2011/06/12(日) 22:40:27.17
男「よし、大丈夫だな」

女「お手数おかけして、すみません」

男「気にするな。他人から頼まれた雑務のようだし、な?」

女「え、ええと……」

男「私がサインをしたんだ。何の書類であるかは理解している」

女「あ、はい……一人、現在進行中で修羅場の方がいて」

男「アイツは要領悪いからなぁ。手間をかけてすまない」

女「いえ、私も時間がありましたし」

男「そうか? はは、なら君の仕事を増やした方がいいのかもしれん」

女「……へ?」

男「冗談だ。そんな、悲しそうな顔するなよ」

女「あ、えっと……冗談?」

男「そうだ」

女「でも……部長」

男「ん?」

146: 2011/06/12(日) 22:41:04.47
女「部長は……私のこと怒ってますよね?」

男「怒ってる? 一体、何の話だ?」

女「その……私がこないだ飲み屋で失礼なこと言ったから……」

男「ああ、そのことか」

女「は、はい」

男「気にしてないよ。いや……それは違うか」

女「えっと、どっちなんですか?」

男「怒ってないのは確かだ。でも、気にはしてる」

女「…………」

男「簡単に言えば、目下探索中だ」

男「自分自身のための、望むことをね」

女「……そうですか」

147: 2011/06/12(日) 22:41:34.04
男「ただ、いまだに見つからないから困っているよ」

男「長い間ついてしまった習慣は、そう簡単には拭いきれないようだ」

女「頑張って下さいね……」

男「ん、分かってる。妹のためにもな……」

女「…………」

ピピピピッ……。

男「ん? 電話?」

女「あっ、すみません……」

女「席を外していたので、部長への電話は直通になってます」

女「とりあえず、私が出ましょうか?」

男「いや、営業からなら、私が直々にガツンと言ってやろう」

女「ふふっ」

……ガチャ。

148: 2011/06/12(日) 22:42:08.94
男「もしもし?」

?『……男君か?』

男「その声は……社長?」

女「……え?」

男「一体、どうしたんですか?」

男性『いや、そのだな……』

女「私……一旦、部屋から出た方がいいですか?」

男「いや、いい」

女「……あ、はい……」

男性『ん? 誰かいるのか?』

男「大丈夫です。それで、なぜ会社の電話に?」

男性『急いで出たものだから、携帯を持ち合わせていなくてな……』

149: 2011/06/12(日) 22:42:38.84
男性『その、今、病院にいるんだ……』

男「……ちょっと待って下さい。だって、今日の朝は」

男性『あの子が家に来る予定だったな……ただそれが……っ』

男「……少し落ち着きましょう。まず、どうなったかを」

男性『……突然、あの子が倒れた』

男「倒れた?」

男性『初めは不思議そうに家の中を歩き回っていたんだが』

男性『……急に何かを呟いていたと思ったら、倒れた』

男「それで病院に戻ったわけですね……。今、アイツは?」

男性『それが……』

男「……?」



男性『──また記憶を失ったよ』



157: 2011/06/12(日) 23:10:58.71
──病院

たったったった……。

男性「……来たか」

男「……はぁ……はぁ……」

男「……そ、それで……アイツは……っ」

男性「……今は寝ている」

男性「というより、医師は昏睡状態と言っている……」

男「……なっ」

男「ちょっと待って下さいっ、記憶を失ったって……」

男性「……倒れてから一度、家の中で目を覚ました」

男性「その時に、記憶を失っていたことに気付いたんだが……」

男性「その後、また再度、瞼を閉じてしまった……」

男「そ、そんな……」

男性「…………」

158: 2011/06/12(日) 23:12:20.03
男「……まだ、たった二週間なのに……」

男「それに、昏睡状態? 一体……どういう……」

男性「分からん。だが、異常事態であることは確かだ」

男「…………」

男「……俺のせいだ……」

男性「…………」

男「俺が……兄の存在をなくすなんて行動を取ったから……」

男「アイツに……今まで以上の負荷を与えたから……」

男性「違う、君のせいじゃない」

男性「君はただ、必死にあの子を救おうとしただけじゃないか」

男「それが……この結果ですよ……?」

男性「それは……」

男「あなたが言ったように、止めた方が良かったんだ……」

159: 2011/06/12(日) 23:12:54.20
男「……今までのままなら、一年の縛りはあったけれど……」

男「アイツは今を……生きていられたんだから……」

男性「…………」

男「……それなのに俺は──」

男「少し期間が伸びたからといって、安易な発想を……」

男「……くそっ……なんて様だ……」

男「……どうしよう……どうすれば……」

男「あ、ああ……」

男性「……あの子に会うか?」

男「……え……?」

男性「今ならまだ眠っている。だから……」

男「…………」

男「……は、い……」

男「彼女に……アイツに……」

男「──……会わせて下さい……」

162: 2011/06/12(日) 23:39:37.79
──病室

男「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……寝顔はこんなに安らかなのにな……」

男「五日間も眠りっぱなしなんて……」

男「……昏睡状態なんて……誰が信じられる……?」

男「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……っ」

男「……ごめん……ごめんっ……」

男「……俺が、俺が悪いんだ……」

男「……もう二度と、あんなことをしないから……」

男「頼むから……お願いだ……」

男「もう一度起きて……」

男「……優しい笑い顔を見せてくれ……」

男「……むすっとした怒り顔を見てくれよ……」

163: 2011/06/12(日) 23:40:45.48
妹「……すぅ……すぅ……」

男「…………」

男「もう……いい……」

男「……俺のしたいことなんて、望む事なんて……」

男「そんなの最早どうだっていい……」

男「……俺がやる」

男「お前の大事な兄は……俺が演じるから……」

男「ずっと……ずっと、だ……」

男「……お前が必要とするなら、それこそ死ぬまで……」

男「演じきってやる……本当の兄にしか、思えない程に……」

男「…………」

男「俺の人生……?」

男「そんなの、初めからないようなものだ……」

164: 2011/06/12(日) 23:41:35.48
男「……父さんが死んでから、俺は一人では生きられないだから……」

男「自分のために生きるなんてことは、出来ないから……」

男「……だから」

男「だからっ」

男「……頼む……頼むからさ……」

男「目を覚まして……くれよ……?」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……指輪を、さ……」

男「……俺が……誕生日にあげただろ……?」

男「『女性になら、こんな可愛いのはどうですか』」

男「そう、お店の人に薦められて買ったんだ……」

165: 2011/06/12(日) 23:42:20.14
ぎゅっ……。

男「…………」

男「……左、薬指……か……」

男「……なんでだ……」

男「何でなんだよ……」

男「……お前……意味分かってんのかよ……」

男「……こんなの……」

男「……こんな……」

男「……っ」

男「もう……」

男「……意味はないんだから……」

169: 2011/06/12(日) 23:52:02.80













妹「──……ん……?」














170: 2011/06/12(日) 23:52:38.20
男「……え?」

妹「……あれ……ええと」

男「あ……」

男「……ああっ……」

妹「?」

男「……っ」

ぎゅっ!

妹「……あの……」

男「目を覚ましたのかっ……目をっ……」

妹「……すみません……ここは……」

男「病院だよっ……お前、五日間も眠りっぱなしでっ……」

171: 2011/06/12(日) 23:53:16.22
妹「その……あなたは……」

男「…………」

男「……俺は……」






男「──お前の兄だっ」






248: 2011/06/14(火) 15:19:03.26
──病院

男「……入るぞ」

妹「あっ……ええと……」

妹「お兄ちゃん、ですよね……?」

男「ああ……まだ覚えてないか?」

妹「いえ……その、起きてから頭がぼーっとしてて……」

妹「まだ今があやふやというか、現実じゃない気がして……」

妹「……記憶喪失……ですもんね……」

男「…………」

妹「すみません……」

妹「……あなたを心配させてちゃって……」

妹「こんなこと言ってたら……駄目ですよね……」

男「……いいんだよ」

妹「え……?」

男「お前の辛くて、苦しくて、悲しい事を全部……」

249: 2011/06/14(火) 15:19:55.29
男「一緒に背負ってやるって」

男「全てを受け入れるって」

男「そう、約束した」

妹「…………」

男「だから、気にするな。強がらなくていい」

男「言いたい事、聞きたい事を我慢しなくていいんだ」

妹「……は、はい……」

妹「……じゃあ、お兄ちゃん……」

妹「少しだけ話を聞いて下さい……」

男「うん……」

妹「今、わたし」

妹「この世界が夢なんじゃないかって思うんです……」

男「……夢?」

妹「深い深い夢の中」

妹「朝になったら、全てを忘れてしまいそうな……」

250: 2011/06/14(火) 15:21:05.07
妹「……そんな果敢ない夢の中……」

男「…………」

妹「もしかしたら、逃避なのかもしれません……」

妹「……ただ今を認めるのが恐ろしいだけなのかもしれない……」

妹「でも、これが現実なら……」

妹「……記憶を失ったわたしと……」

妹「……記憶がある以前の自分……」

妹「……それは同じだと言えるんでしょうか……?」

男「…………」

妹「過去を思い出せないわたしは、もう別物なんです……」

妹「……何が嬉しかったか、どんな感情を抱いていたのか」

妹「そんな些細なことさえ分からない……」

妹「……だから、今のわたしは空っぽ……なんですよね」

男「……『空っぽ』……か」

妹「…………」

251: 2011/06/14(火) 15:21:58.67
妹「……けど」

男「え……?」

妹「ただ一つだけ……」

妹「……何故だかは、わたしにも分からないんですが……」

男「……ん?」

妹「……指輪」

男「あ……」

妹「左薬指にあるこの指輪を眺めていると……」

妹「……心が落ち着くんですよ」

妹「とっても、温かい気持ちになるんです……」

男「…………」

妹「お兄ちゃん……」

妹「……これは、誰からの贈りものですか?」

妹「わたしにとって、どんな意味があるんですか……?」

妹「きっと、これは……」

妹「昔のわたしと、今のわたしをつなぎ止める……」

妹「……たった一つの、証拠だから」

253: 2011/06/14(火) 15:37:32.67
妹「お兄ちゃん……教えて下さい……」

妹「この指輪の訳を」

妹「……この感情の意味を」

男「…………」

妹「……お兄ちゃん……?」

男「……そうだな」

男「お前は知るべきなのかもしれない」

妹「……え?」

男「それを贈った相手は、お前のことが好きだったんだ」

男「……それも、ずっと昔から、な」

妹「…………」

男「ただ、運命っていうのは残酷で……」

男「相手は、今を生きるだけで精一杯で」

男「……お前とは長い事、離れ離れだった」

妹「……それで……その人はっ……」

男「…………」

254: 2011/06/14(火) 15:38:55.34
男「……今は、もういない」

妹「……え?」

妹「それは……」

男「もちろん、死んだってことじゃないぞ?」

男「でも……近くにはいないんだ」

男「また、遠いどこかへ行ってしまった……」

男「……もう届かないどこかへ……」

妹「…………」

男「だから、忘れよう」

男「もう終わったことだからな……」

妹「……そう、ですか」

男「すまんな……辛い話をしてしまって……」

妹「……いえ」

妹「……訳が分かっただけでも嬉しいです」

男「そうか……」

妹「…………」

妹「いつか」

255: 2011/06/14(火) 15:39:26.68
男「……ん?」

妹「……いつの日か……」

妹「また会える日がくるといいですね……」

男「…………」

妹「……その人と」

妹「過去を懐かしんで、今を笑え合えるような」

妹「そんな日が……くるといい、です……」

男「…………」

男「……そう、だな……」

男「…………」

257: 2011/06/14(火) 16:26:06.84
──親友の家

男「…………」

女性「はい、これ。温かいうちに飲んで下さいね」

男「……ありがとうございます」

男性「しかし、君がこうやって家にくるのも久しぶりだ」

男性「以前は、この家で四人一緒に寝泊まりをしていたのにな」

男「……はい」

男性「どうだ? 戻る気はないか?」

男「……しばらくはあの部屋にいようと思います」

男「アパートとの契約がまだ残っていますし……」

男「でも、妹がこの家に戻れるようになったら、その時は……」

男性「……そうか」

男「……申し訳ないです」

男性「気にするな。それで、どうだった?」

男「…………」

258: 2011/06/14(火) 16:26:56.02
男性「昏睡状態から目覚めて、まだ一日だ」

男性「ひとまずは安心だが……今朝のあの子の様子は?」

男「……今は、大丈夫だと思います」

男「記憶がなくなった事実に納得できていないようですが」

男「それでも、少しすれば、落ち着くはずです」

男性「……ふむ」

男性「まあ、振り出しに戻ったと考えればいいか」

男「……はい」

男性「しかし、本当に良かったな」

男性「あのまま、寝たきり状態のままだったら……と」

男性「そんなことを考えると、身の凍る思いだ……」

男「……すみません」

男性「いや、君を責めるつもりがあったわけじゃないぞ?」

男性「それに、終わりよければ全てよし」

男性「紆余曲折はあったが、あの子は目を覚ました」

259: 2011/06/14(火) 16:27:48.78
男性「それが、結果だ」

男「…………」

女性「……お父さん」

男性「ん?」

女性「その……あの話……」

男性「……ああ……」

男「話?」

男性「……そのだな、今後について昨日、二人で話し合った」

男性「それで……私たちは……」

男性「今回、あの子に会う機会を最小限にしようと思う」

男「……どういうことです?」

女性「そのね……前回のことを私たちもよく考えてみることにしたんです」

男「……つまり、妹が二週間で記憶を失った時のことですか?」

女性「そう、その時のこと」

女性「今一度考えると……」

女性「どうしても、あなただけに責任があったとは思えなくて……」

260: 2011/06/14(火) 16:28:45.93
男「……ちょっと分かりません。それは……」

女性「あなたは死んだ息子を偽ることをやめて……」

女性「それで、前回は私たち二人であの子を支えることにした」

女性「でも、結果はあの通り……」

男「…………」

女性「それで思ったんです」

女性「もしかしたら、記憶喪失になる責任は私たちにあるんじゃないかって」

女性「家族という形が……あの子には苦痛になってるんじゃないかって」

男「……ええと」

男性「だから今回は、私たち二人は会うのを極力避けようと思う」

男性「けれど、いつまでも、という訳にはいかない」

男性「私たちだって、あの子に会いたい気持ちは君と同じように……」

男性「いや……親子であることを考慮すれば、それ以上のものだからな……」

男「……はい」

男性「娘の状態が安静して、家に戻って来れるようになってから」

男性「その時こそ、私たちが温かく迎えてやろうと、そう決めた」

261: 2011/06/14(火) 16:29:33.09
男「…………」

女性「……どうかしら? 間違っていたら、教えて下さい」

男「……いえ」

男「お二人がそう言うのなら……分かりました」

男性「頼めるか?」

男「はい、任せて下さい」

男性「……すまんな、君に頼るばかりの私たちを許してくれ」

女性「本当に、ごめんなさいね……」

男「お気になさらずに……」

男「どちらにせよ、俺のやることは変わりませんから」

男性「……そう言ってもらえると心強いよ」

男性「あと、そうだ」

男「もしかして、会社のことですか?」

男性「あ、ああ……そうだが、もう少し時間が欲しいか?」

男「……いえ」

262: 2011/06/14(火) 16:30:01.22
男「よろしくお願いします」

男性「……ん? それは……」

男「私でいいと仰るなら、自分の力を存分に揮いたいと思います」

男性「……本当か?」

男「既に、覚悟はできました」

男「だから、お願いできますか?」

男性「……もちろんだ」

男性「そうか……」

男性「君がついに……私の会社を率いていてくれるか……」

男性「ん……これで、やっと安心できるな……」

男「…………」

274: 2011/06/14(火) 20:31:40.34
──部長室

コンコン……。

女「失礼します」

男「……あっ、おはよう」

女「部長もお早うございます」

女「……で、妹さん、どうなりましたか?」

男「……目覚めたよ」

女「あぁ、そうですか……」

女「本当に良かったですっ!」

男「……あ、うん」

女「でも、元気ないみたいですね……?」

女「何か別の問題でも?」

男「……いや」

男「君に言ったことが守れそうもないなって、ね」

女「……言ったこと?」

275: 2011/06/14(火) 20:32:14.79
男「自分のために生きるって」

男「したいこと、望むことを探すって」

女「……ああ、はい」

男「けど、最早、そうも言ってられなくなった」

男「時間がない……というより、これからは失敗できない」

女「…………」

男「本当はアイツが記憶を取り戻したり」

男「過去を失わないように、前に進むのが正しいのだけど」

女「……時には、その正しさが過ちになる場合もある」

女「そういうことですね?」

男「うん」

男「これからの俺の人生は、妹のために」

男「少しでも、繰り返す短い時間を支障なく生きてもらうために」

男「……俺は、また、誰かのための生を続ける」

女「……そうですか」

男「悪いな……君には心配かけた」

276: 2011/06/14(火) 20:32:45.60
女「部長がそう決めたんなら、そうして下さい」

女「私はああ言いましたけど、自分の決断に自信を持てば」

女「何事も……或いは、どんな苦難でさえ、乗り切られるはずです」

男「ん……」

女「……でも、部長」

男「何だ?」

女「部長の人生って、波瀾万丈ですね」

男「はは、確かにそうだな……」

女「……だから」

男「?」

女「これから、きっと……」

女「必ず部長にも、いいことが訪れると思いますよ?」

男「…………」

男「ん……そう、願ってる」

277: 2011/06/14(火) 21:09:09.08
──アパート

男「……よし、今のところ、順調だ」

男「アイツも眠りから覚めたし、後はこのまま続けるだけ」

男「今まで同じように、兄になりきればいい」

男「一年毎にアイツは記憶を失うが……それはこの際、仕方ない」

男「何事も、全てを望んでいては台無しになってしまう」

男「どこかで諦めなければ、それこそ、終わりだ」

男「人のために生きて……ただ日々を暮らす……」

男「ずっとそうしてきた……そして、これからも」

男「…………」

男「……なのに、なぜだ……?」

男「この気持ち悪さ……違和感……」

男「……俺は……」

男「…………」

男「……何に気付いてしまったのだろう……?」

278: 2011/06/14(火) 21:51:11.23
──病院

妹「ん……」

妹「あ……お兄ちゃん……」

男「……寝てたのか?」

妹「いや……最近、少し眠たくて……」

男「起こしてしまって悪いな……また出直そうか?」

妹「大丈夫です……ちょっとくらくらしますけど」

妹「それもすぐに治るはずですから……」

男「……ならいいが」

妹「でも、これって……」

男「ん?」

妹「ふふ……もしかしたら、まだ夢の中だったりして?」

男「……夢?」

妹「だったらいいですよね……」

妹「今は頭の中もふあふあしますし……気持ちいいです……」

279: 2011/06/14(火) 21:51:44.59
妹「すぅーと余計なものが消えていく感じ……」

妹「あれ……でも、本当に夢なのかも……?」

男「なら、つねってみようか?」

妹「いいですよ……つねって下さい」

男「よし」

ぎゅっ……。

妹「いたっ……」

男「残念だったな。どうやら、夢ではないようだ」

妹「……んー、そうみたいですね」

妹「ふふ、まだほっぺたが痛いです」

男「ちょっと強すぎたか?」

妹「いいです。現実だってはっきりと分かりましたから」

妹「やっぱり、逃避は駄目ですね。しっかり受け止めないと」

男「…………」

妹「そうだ、お兄ちゃん」

280: 2011/06/14(火) 21:52:22.28
男「……ん?」

妹「実は……こういうと変なんですけど」

男「どうした?」

妹「このわたしの指輪って、誰からの贈り物でしたっけ?」

男「……この前も説明したよな?」

妹「それは分かってるんですけど、ちょっと忘れちゃって……」

男「…………」

妹「これを撫でていると、とっても温かい気持ちになるんです」

妹「でも時々、胸が苦しくなるときもあって……」

妹「あっ……この話も前にしましたよね……」

男「……ああ」

妹「駄目だなぁ……まだ、覚めきってないみたいです」

妹「でも、記憶を失ったはずのわたしが指輪に何かを感じるなんて……」

妹「……一体、どういう意味があるんでしょうね?」

男「さあな……俺には分からないよ」

281: 2011/06/14(火) 21:53:02.68
妹「そうですか……残念です」

妹「……お兄ちゃんなら、知ってくれていると思ったんですけど」

男「そんなことより……どうだ?」

男「病院の生活は慣れたか?」

妹「あ、はい、大体は。ご飯は、あまりおいしくないですけどね」

男「そうなのか?」

男「なら、お前の場合、食べ物の制限は余りないから」

男「もし欲しいものがあったら、俺に言ってくれ。買ってくるぞ?」

妹「……そうですね……食べたいもの……」

男「何かあるか?」

妹「……あっ」

妹「食べたいものというより、服を持ってきてもらえませんか?」

男「……服?」

妹「家にあるんですよね? わたしの服」

男「それはあるとは思うが……」

282: 2011/06/14(火) 21:53:41.11
妹「こないだ目覚めたときに……」

妹「お母さんが、こんど持ってきてくれるって言っていたんですけど」

妹「最近は……病院に来てくれないので……」

男「……ああ、そうか」

男「分かった。今から一度帰って、幾つか持ってくるな」

妹「えっ……今度、来てくれたときで構わないですよ?」

男「いや、こういうのは忘れないうちに行動するのに限る」

男「それより、いいのか? 男の俺が、下着とか見ても……」

妹「あー……ええとそうでした」

男「……やはり、母さんに頼もうか?」

283: 2011/06/14(火) 21:54:25.90
妹「いえ……どうせ、履いたか履いてないかさえ分からないんです」

妹「だから、お兄ちゃん、お願いできますか?」

男「お前がそういうなら……分かった」

妹「すみません、お願いしますね」

男「よし、ちょっと待ってろよ」

男「またすぐに戻ってくるから。じゃあ」

妹「はい、よろしくです」

ガラガラガラ……。

……………。

284: 2011/06/14(火) 21:55:05.54
男「…………」

男「……先生」

医師「……あ、妹さんのお兄さん。こんばんは」

医師「ほぼ毎日のお見舞い、ご苦労さまです」

医師「こんな兄を持っている彼女は、本当に幸せですね」

男「あの……」

医師「はい?」

男「実は……お伺いしたことがあります。今、時間とれますか?」

医師「それは大丈夫ですが……何かありました?」

男「ここでは止めましょう。あの子に聞かれてしまう可能性がある」

医師「分かりました……では、歩きながらでも?」

男「大丈夫です。お手数をおかけしますね……」

医師「いえ……」

とことことこ……。

285: 2011/06/14(火) 21:55:50.54
医師「それで……一体何が?」

男「先生は、最近の妹の様態で気になることはありませんか?」

医師「いえ、昏睡から戻った後は、比較的安定していると考えています」

男「……そうですか」

医師「気になる事でも?」

男「記憶のことです」

医師「記憶……」

男「さきほど、あの子と喋っていて感じたんですが」

男「時たま……記憶の損失があったりしませんか?」

医師「……それはつまり、今現在、進行しているという意味ですね?」

男「はい。先日話した指輪のことを覚えていませんでした」

医師「ふむ……」

男「偶然だったらいいのですが、何か悪い兆候かもしれない……」

286: 2011/06/14(火) 21:56:18.12
医師「昏睡状態から復帰された患者さんの中には」

医師「しばらくの間、昔の記憶に整合性がとれない方がおられます」

男「……でも、あの子の場合はそもそも過去を覚えていない」

医師「起きてからの記憶が安定しないというのは、少し懸念要素ですね」

男「今までと違う……ということですか?」

医師「分かりません……とにかく」

男「はい……」

医師「私の方でも彼女の経過を注意深く観察してみることにします」

医師「それで、何か分かった時には、お話を」

男「なにとぞ、よろしくお願い致します」

288: 2011/06/14(火) 22:27:50.28
──親友の家

ピンポーン……。

男「…………」

ピンポーン……。

男「……ん」

男「誰も……いないのか?」

男「……さて、どうするか……」

男「…………」

男「仕方ない。貰った合鍵で入ろう」

ガチャ……。

……………。

290: 2011/06/14(火) 22:28:18.50
男「…………」

男「……静かだな」

男「親友の代わりに、妹の兄代わりに」

男「ここで数年間、暮らしてきた」

男「……この匂い」

男「もう、完全に慣れてしまった」

男「……本当の自分の家だと……錯覚してしまう」

男「それぐらい……」

男「この家での、数年は大きかった」

男「初めて感じた、家族の温もりだった」

291: 2011/06/14(火) 22:29:05.05
とことことこ……。

男「……リビング」

男「いつもここで、四人で食事して」

男「おばさんの料理は毎日おいしくて……」

男「それで、アイツのために誕生日を祝った」

男「……あの日、俺が指輪をプレゼントした時の妹の顔」

男「……とても驚いていて、嬉しそうで」

男「でも、泣き出しそうに見えた表情を……」

男「今でも鮮明に覚えている……」

男「……きっと」

男「妹がここに戻ってこれば……」

男「あの頃の……楽しい時間が蘇るはずだ……」

男「……ん」

男「アイツの部屋に急ごう」

292: 2011/06/14(火) 22:29:31.74
とことこ……とこ……。

男「……ふぅー」

男「久しぶりにこの階段を上るなぁ……」

男「昔は感じなかったけど、久しぶりに上ると」

男「結構、この急な階段は辛いな……」

男「……はぁー……もしかして、俺」

男「体力落ちたか……?」

男「ん……あと一段……」

男「よし……上りきった……」

男「…………」

男「……親友の部屋の向かい側」

男「妹の部屋」

男「……開けるか」

ガチャ……。

293: 2011/06/14(火) 22:30:25.95
――妹の部屋

ガサガサ……。

男「とりあえず、夏服を入れればいいのか……」

男「……しかし、多すぎて何を入れたらいいのか分からん……」

男「とりあえず、俺がいいなと思ったのをつめとくか……」

男「……これと」

男「これと……これ……」

男「ん、これは、昔、遊びに行った時に着てたやつだ」

男「それも入れて……あと……」

男「…………」

男「……こんなところだな」

男「後は……下着」

男「…………」

294: 2011/06/14(火) 22:31:09.11
男「……何か、変態みたいだな……」

男「ここでおばさんとか、帰ってきたら」

男「あとで、色々問題にならないだろうか……」

男「…………」

男「急ごう……誤解されると後々面倒だ」

ガラッ……。

男「…………」

男「……す、すごいな……」

男「なんで……こんな丸まって整理されてんだ……?」

男「むむ……どうしたものか……」

男「……よし」

男「目を瞑って、幾つか取ろう……」

男「…………」

ガサガサ……。

男「……一枚、二枚……」

295: 2011/06/14(火) 22:31:55.03
男「ええと……次で……──」

がたッ、がたッ……!

男「あっ……」

バタンッ!

男「……やっちまった……」

男「目なんか瞑るから、棚を落っことすんだ……」

男「……うわぁ……仕舞うの大変だな……」

男「……とりあえず、入れとくだけでいいかな……」

男「…………」

男「……ん?」

男「なんだこれ……」

男「……棚の裏に……」

男「これは……」

男「…………」

男「──日記……?」

……………。
………。

300: 2011/06/15(水) 00:34:48.38






この日記は、記憶を失い続けているわたしが、
せめて自分の生きた証だけでも残したいと日々を記したもの。

望むべくは、これを読んでいるあなたが、
過去を知りたいと望む、もう一人の自分であらんことを。

今、わたしの胸に宿る思いを──
忘れず、あなたも抱いていることを祈る。



20×1年5月21日。自宅にて。





……………。

302: 2011/06/15(水) 00:37:27.18
──20×0年3月29日。

今日からこのノートに日記を書こうと思う。

今のわたしは、病院から退院して自宅の部屋で、
机に向かってこれを書いています。

そこで、まずは病院内での最初の記憶を遡って、
徐々に今現在のことを書く段階にいければいいかなって思う。
病院にいた時は、メモにちょこちょこっと記していたので、
それに付け加えながら、今度はきちんと書いていこう。

今日はもしかしたら徹夜になっちゃうかもしれないけど、
何とか頑張ります。既に眠いけどね。
拙いところはあると思うけど、長く続くといいなぁ。

303: 2011/06/15(水) 00:39:41.32
──20×0年3月15日。

わたしが知り得る、一番最初の記憶。

天気は晴れだったと思う。
目覚めたとき、窓から眩い光が差し込んでいたのを今も覚えていて、
この日、わたしは記憶を失って、新たなわたしになった。

過去を失い、目が覚めた私の目に写ったのは、
わたしを心配そうに見つめる、優しい顔立ちの一人の男性だった。

訳が分からずに、狼狽えるわたしを穏やかな口調で落ち着かせ、
その人は、自らのことをわたしの兄と説明してくれた。

『お兄ちゃん』──それが、この人との初めての出会い。

少し経つと、わたしも状況が理解できてきて、
記憶喪失になった事実に、とても悲しくなってしまった。

そんなわたしを、お兄ちゃんは励ましながら、
けれど、辛そうな顔でこう説明してくれた。

304: 2011/06/15(水) 00:40:54.42
わたしが記憶を失うのは、今回が初めてじゃないこと。
今までのわたしは、のべで七回も記憶を失っていること。
そして、その周期は、約一年であること。

時に詰まりながらも、
お兄ちゃんは分かりやすく何度も、教えてくれた。
今までのわたしには、あえて伝えなかったみたいだけど、
今度こそは現状を打破したい。そう、彼は強く言ってくれた。

けれど、お兄ちゃんが帰って一人になった時、
自分の生が短いことが急に怖くなった。
つまり、自分の記憶は一年だけという事実が、わたしの心を蝕んだ。

この日。

わたしは記憶を失うのが怖くて、
一度も眠れなかった。

305: 2011/06/15(水) 00:46:28.00
──20×0年3月16日。

記憶を失った二日目の朝。

今日は、お兄ちゃんが両親を連れてきてくれた。

少し険のある男性と、温和な表情の女性。
この二人が、わたしの父親と母親なのだそうだ。

ただ、そう言われても何も感じるものはなかった。
二人の顔立ちが、多少わたしと似てるかな?っと思うぐらいで、
記憶が思い出される気配すらない……。

どうしよう……これから、この二人とうまくやっていけるかな?

ぎこちない会話をお父さんお母さんとしていたら、
お兄ちゃんが笑って指摘してきた。

少し恥ずかしい……。

306: 2011/06/15(水) 00:50:38.24
──20×0年3月17日。

検査が終わって病室に戻ると、お兄ちゃんが椅子に座って、
わたしのことを待っていてくれた。

お兄ちゃんが来るのは、三日連続。

この人は、どうやらわたしのことを、
とても大切に思ってくれているみたいだ。
素直に嬉しい。

色々、雑談をしていたら、
看護婦さんに面談時間を大幅に過ぎていると怒られて、
しぶしぶ帰って行った。
このとき、記憶を失ってから初めて、わたしは笑った。

この日、久しぶりにぐっすり眠れる。

307: 2011/06/15(水) 00:55:42.23
──20×0年3月20日。

午前中は、お母さんが果物を持って、お見舞いにきてくれる。
やはり、未だ、ぎこちない会話だ。
でも、苺が一番おいしかったことを伝えると、
お母さんは、笑顔を見せてくれた。わたしも嬉しい。

検査が終わり、部屋に戻ってみると、
お兄ちゃんの姿はなかった。
昨日までは毎日来てくれたのに……どうしたんだろう?

結局、今日、お兄ちゃんは来なかった。
ちょっぴし残念だけど、明日は来てくれるよね?

308: 2011/06/15(水) 00:59:02.82
──20×0年3月21日。

今日は雨。
お兄ちゃんは今日も来なかった。

夜、お父さんが来てくれて、少し話をした。
お兄ちゃんのことを聞くと、今、仕事で忙しいそうだ。
あと、お父さんが会社の社長であることに驚いた。

309: 2011/06/15(水) 01:05:35.33
──20×0年3月23日。

久しぶりの日記。
今日もお兄ちゃんは来ないと半ば諦めていたけど、
面談時間ギリギリになって、駆け足で来てくれた。

とても嬉しい。

看護婦さんはお兄ちゃんに怒っていたけど、
わたしもお願いして、少し時間を延長してもらう。

けれど、話している時間はあっという間に過ぎて、
楽しい時はすぐに終わってしまった。

夜、今日も怖くてすぐに眠れなかったので、
どうして、お兄ちゃんがここまで話しやすいのかを考えてみた。

結論は、鳥の刷り込みのようなものだと判断。
記憶を失って初めて見たのがお兄ちゃんだったから。

うん、だから当然の話だ。

310: 2011/06/15(水) 01:10:01.35
──20×0年3月25日。

わたしの退院が、四日後の29日に決まった。
家族みんなが喜んでくれる。

まだ、お父さんお母さんとは、ぎこちないけど、
昔よりかは普通に喋れるようになった。

お兄ちゃんは、はしゃいで抱きついてきた。
何か言おうと思ったけれど、言葉が出てこなくて、
正直、びっくりしたんだと思う。

後で、お兄ちゃんはお母さんに怒られていた。
けれど、なぜだか、その光景は温かかった。

早く、わたしもあの一員になれるといいなぁ。

311: 2011/06/15(水) 01:16:23.23
──20×0年3月29日。

そして、この日記を書いている今日。
初めて、自分の家に入った記念すべき日。

わたしがこの家族の一人として、
新たな日々を送る、第一歩である。

想定していた以上に、筆が進んだので、
徹夜しないですみそうだ。
でも、明日の朝はちょっと辛いかな。

ではまた今度。

追記:さっき隣の部屋を覗いたら、
静かな寝息を立てて、お兄ちゃんが眠っていた。

カメラを手に持っていたから、もしかして写真好きなのかな?

……………。
………。

男「…………」

男「……やめよう」

男「これ以上は、俺が見ていいものじゃない……」

男「……けど」

男「妹……日記なんて、書いていたのか……」

男「…………」

326: 2011/06/15(水) 20:40:41.20
──飲み屋

男「……んっ……」

ごくごく……。

女「部長、飲み過ぎですよ……」

男「……そうか?」

女「何杯目ですか? 明日も仕事なのに、二日酔いになりますよ?」

男「……別に構わないさ」

男「最悪、休んだっていいしな」

女「……部長?」

男「ん?」

女「……仕事には中途半端を許さない部長が」

女「そんなこと言ってもいいんですか?」

男「……他の部下に告げ口するか?」

女「……そんなこと……」

女「するわけないじゃないですか……」

327: 2011/06/15(水) 20:41:19.08
男「なら、気にするな。今日は飲もう」

女「…………」

男「次は芋ロックにするか……よし」

パンッ……。

男「いて……」

女「もう、店員を呼ぶボタンは押させません」

男「一体、何だって言うんだ……」

男「酒ぐらい、好きに飲ませてくれ」

女「いけません。悔やむのなら、私を誘った自分をです」

男「…………」

女「……昏睡状態だった妹さんも目を覚まして」

女「仕事も至って順調。なのに、今の部長が悩む理由が分かりません」

男「……それは」

女「お願いですから……」

328: 2011/06/15(水) 20:41:56.67
女「私が尊敬する、いつもの部長に戻って下さい」

男「…………」

女「それとも、まだ何か問題でも?」

男「……違和感が消えないんだ」

女「え?」

男「胸の奥にある、違和感が日に日に大きくなっていく」

男「何かを見逃している……そんな気がしてならない」

女「……部長」

男「なぁ、こないだ俺に足りない物を指摘してくれた君なら」

男「この訳も、実は、分かるんじゃないのか……?」

女「…………」

男「教えてくれ」

男「頼む……俺は一体、何を見落としている?」

女「それは……妹さんのことで?」

男「……ああ」

329: 2011/06/15(水) 20:42:26.58
女「……私には、分かりません」

女「妹さんと、親しくない私には……」

男「…………」

男「……昨日、日記を見つけた」

女「日記?」

男「アイツの服を取りに家へ戻ったんだ」

男「そしたら偶然……前々回の妹が書いた日記を見つけてしまった」

女「……中は?」

男「最初の数頁だけ読んだよ」

女「…………」

男「けれど、その後は読めなかった」

男「妹の物を勝手に読む行為に、引け目を感じたのも確かだ」

男「……だが、本当の訳は違う」

女「……え?」

男「俺は、怖かったんだ」

330: 2011/06/15(水) 20:43:03.90
女「……何がです?」

男「知ってはいけないこと、内心は気付いていた事実を」

男「それを正面から受け止める勇気が……俺にはない……」

女「…………」

男「どうだ? その実、ちっぽけな人間だろ?」

女「……部長は……」

女「もしかして、気付いているんじゃないですか?」

男「……ん?」

女「胸に残る違和感の存在を」

女「それが一体、どんなものなのかを」

男「…………」

女「なら、いつも部長が仕事で言っているように……」

女「……そう……」

女「──『前に』進みましょうよ」

男「……っ」

331: 2011/06/15(水) 20:43:54.67
男「…………」

女「部長?」

男「……ああ」

男「気付かない振りは、もう終わりだな……」

女「…………」

男「ずっと気がかりなことがあった」

男「初めから……五年前、いや、六年前のあの日から」

男「親友を偽ることを決意した、あの時から」

女「……部長……」

男「なぜ……」

男「妹は記憶を失った?」

女「……あ……」

男「自殺までして、この世界から消えようとした?」

332: 2011/06/15(水) 20:44:39.57
男「……俺には、分からないんだ」

男「何かが欠けている。それも、とても重要なピースが」

女「でも、親友さんは彼女を車で迎える途中の……」

女「……車の事故って……」

男「そうだ……社長が言った」

男「『どうだ? 意外と、事実はあっけないものだろう?』」

男「けれど……そんなことがありえるのか?」

女「え……?」

男「自殺しようとまで」

男「今までの記憶全てを失ってまで」

男「……そこまでしなければならない程」

男「その現実は、アイツを苦しめていたのか?」

女「…………」

333: 2011/06/15(水) 20:45:27.82
男「もう見逃せない」

男「社長は何かを隠したんだ」

男「……俺には知ってもらいたくない何かを」

男「もしかしたら……妹を守る為に、家族を守る為に……」

男「今は、ただ、その確信が欲しい」

女「……その後は?」

男「まだ、分からない……」

男「けれど、知らない振りをし続けるのは」

男「……もう、やめだ」

335: 2011/06/15(水) 21:13:30.69
──病院

ガラガラガラ……。

男「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……寝てるか」

男「よいしょっと……」

パタン……。

男「実は今日……図書館に行ってきたんだ」

男「少し調べ物があってな……」

男「残念ながら……予感は的中してしまったよ」

男「でも……これから、一体どうするのか」

男「正直、今の俺には分からない……」

男「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……もしかしたら」

336: 2011/06/15(水) 21:14:26.59
男「俺は間違ったことをしているのかもな……」

男「また……お前を傷つけることをしているのかもしれない」

男「……俺の今までは」

男「過ちだらけの人生だったから……」

男「……だから、今回もきっと」

男「どこかで重要なミスをしているはずだよ……」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……でも」

男「……やっぱり、駄目だ」

男「無視できない。捨て去ることはできない……」

男「…………」

男「……初めに謝っておくな」

男「もしや……」

男「これから俺がやろうとしていることは……」

337: 2011/06/15(水) 21:14:56.30
男「お前が知られたくないこと……」

男「記憶から忘れ去りたいこと……」

男「……それを暴くことになるかもしれない」

男「…………」

男「……ごめん」

男「……でも、俺は止まらない」

男「ここまで来てしまったものは……もう止められない」

男「もう気付いてしまったから……」

338: 2011/06/15(水) 21:15:28.39
男「ずっと胸を蝕んでいた違和感の正体に……」

男「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「…………」

男「だから……」

男「……敗者の抜け出し方」

男「後は、それを思い出すだけだ……」

339: 2011/06/15(水) 21:16:05.69
──部長室

女「……そうですか」

男「ああ」

女「なら、これから、どうします?」

男「…………」

男「……君の知り合いに、関係者はいないか?」

女「情報通の人間ということですね?」

男「その通りだ」

女「……一人」

女「かつての友人に、顔が広い人間がいます」

男「…………」

女「ただ、しばらく連絡を取っていないもので」

女「もしかしたら、連絡先が変更していることも考えられます」

女「ですので、少し時間はかかると思いますが……」

男「頼めるか?」

340: 2011/06/15(水) 21:16:51.69
女「……でも、いいんでしょうか?」

男「……何がだ?」

女「もし、部長が言う通りの展開だったら」

女「……妹さんにとっては、厳しい結末になりますけど……」

男「…………」

男「……それも十分考慮した上だ」

男「けれど、躊躇うわけにはいかない」

女「…………」

男「さきほどの問いの返事が欲しい。今すぐに」

男「君に、任せても良いのか?」

女「……分かりました」

342: 2011/06/15(水) 21:17:30.21
女「部長の願いは、私が承ります」

男「本当に頼む……今の俺には、君だけが頼りだ……」

女「……はい」

男「……しかし」

女「部長……?」

男「やる前から、過ちだと気付いて進むのは……」

男「実のところ、今回が初めてなんだ」

女「…………」

男「意外と、気楽なものだよ」

男「全てを覚悟して……前に進められるのだから」

343: 2011/06/15(水) 21:43:22.42
──病院

妹「……ん?」

男「……あ」

妹「……お兄ちゃん……?」

男「すまん……いつもタイミングが悪いな……」

妹「いいんです……最近、眠ってばかりいるから」

妹「本当は昨日も来てくれたんですね、先生が言ってました」

妹「でも、ごめんなさい……きちんと起きていられなくて……」

男「そんなこと気にしなくていい」

妹「……でも、近頃、睡魔がずっと襲ってきてて……」

妹「こうしてる今も、とっても眠たいんです……」

男「……妹……」

男「無理しなくていいから、また今度来るよ」

妹「……あ、お兄ちゃんっ……」

ぎゅっ……。

344: 2011/06/15(水) 21:44:35.65
男「……どうした?」

妹「行かないで……今日はお話しましょ?」

男「……でも」

妹「わたしは大丈夫です……眠気なんて、我慢できますから」

男「本当か? ……なら」

妹「はい」

男「お前は、何の話がしたい?」

妹「そうですね……」

男「ああ」

妹「……昔のこと」

妹「お兄ちゃんとわたしが、まだ小さかった頃の話を」

妹「……聞かせて下さい」

男「…………」

男「……そうだなぁ……」

妹「……うん」

345: 2011/06/15(水) 21:45:24.35
男「一つ、とっておきの話がある。それにしようか?」

妹「……とっておきの話?」

男「小さい頃、俺と俺の友達はよく河原で遊んでいた」

男「そんなとき、お前もなぜか、俺たちの後をついてきたんだ」

妹「わたしが、男子の遊びにですか?」

男「ああ、昔のお前はすごく積極的だったんだぞ?」

妹「へぇー……わたしが……」

男「河原では、決まった遊びがあったわけじゃなかった」

男「時には、追いかけっこ、隠れんぼ」

男「色々やったもんだが……あの日は確か、『てんか』だったなぁ」

妹「『てんか』? それはどんな遊びです?」

男「簡単に言うとな、ボール当てゲームみたいなもんだ」

男「一人がボールを持って、誰かに当てる」

男「でも、歩ける歩数はボールを拾った時から三歩だけ」

男「本当はある程度の人数がいて楽しいゲームなんだが」

346: 2011/06/15(水) 21:46:26.47
男「恐らく、あの時の俺たちは、二人でどちらが強いか競っていたんだと思う」

妹「……じゃあ、わたしもその中に?」

男「そう、俺は怪我するからやめとけって言ったんだけどな」

男「でも、入れてみると意外や意外」

男「四歳年下だったくせに、ボールをよけるのが神懸かり的にうまかった」

妹「ふふ……多分、わたし、得意げな表情をしてませんでした?」

男「その通り。ダチの奴は、当たらないもんだから、ムキになってたよ」

妹「そんなことがあったんですね……」

男「それで……あるとき、ボールが川の草むらの方にいってしまった」

男「俺の友達はそのボールを探しに向かって……」

男「河原には、俺とお前、二人だけが残された」

妹「……はい」

男「そしたら、お前が俺の身体に傷があるのを見つけてな」

男「傷を無視しようとする俺を無理やり土手につれてって」

男「一通り、消毒をした後、可愛いキャラクターのバンドエイドを取り出した」

347: 2011/06/15(水) 21:47:11.95
妹「……それで?」

男「貼ってくれたよ。俺は女物だから嫌がったけど」

妹「……ふふ、お兄ちゃんも子供だったんですね」

男「そう、子供だった」

男「まだ人生の意味も、目的も、何一つ知らなかったガキだった」

男「……けど、その幼心でも気付いたんだ」

妹「え……?」

男「お前がそのキャラのグッズが大好きだったこと」

男「恐らく、そのバンドエイドも使わないで大事に取っていたんだってな」

妹「…………」

男「なのに、お前は躊躇いも見せずに、それを貼ってくれた」

男「……あの時かな」

男「うん……確かに、あの時だ……」

妹「……うん」

348: 2011/06/15(水) 21:47:49.89
男「お前をこれからも大切にしようって」

男「それこそ今以上に……な」

男「そう、思ったんだ」

妹「……っ」

男「どうだ? 良い話だったろ?」

妹「……はい……とっても……」

男「なら、良かったよ」

妹「……お兄ちゃんは……」

妹「昔も今も、変わっていないんですね……」

男「……え?」

妹「今も、わたしのことを大事に、大切に、思い続けてくれている」

妹「お兄ちゃんは……本当に、わたしの自慢です」

男「…………」

妹「……ふぅー……そろそろ本格的に眠くなってきました」

男「……そうか」

妹「ごめんなさい……せっかく、来てもらったのに」

349: 2011/06/15(水) 21:48:36.88
男「いいんだ……また明日も来るからな」

妹「ありがとう……お兄ちゃん」

妹「本当に……本当に……」

男「…………」

妹「……そうだ」

妹「最後に一つだけ……聞いてもいいですか?」

男「何でもいいぞ。気になることがあるなら……」

妹「……あの」

男「ん?」

妹「わたしのこの指輪って……」



妹「──一体、誰からの贈りものだったんですか……?」



男「…………」

……………。

350: 2011/06/15(水) 21:49:18.81
医師「確かに、お兄さんの懸念していた通り」

医師「妹さんには、最近の記憶の喪失が所々見られます」

男「…………」

医師「今日、詳細な検査を行った結果」

医師「一昨日以前ぐらいの記憶が、非常に曖昧だということが分かりました」

男「……これから、どうなるんです?」

医師「それは私にも分かりません……ただ」

男「……何ですか?」

医師「それよりも、早急に話さねばならない深刻な問題があります……」

医師「……これを見て頂けませんか」

男「…………」

男「……グラフ?」

医師「日ごとに、綺麗に上がっていますよね」

男「……どういうことです?」

351: 2011/06/15(水) 21:50:05.98
医師「実はこれ……彼女の一日の睡眠時間なんです」

男「……睡眠……」

医師「たびたび彼女が眠たいというので、調べてみたら」

医師「……このような結果が出てしまいました」

男「……ちょっと、ちょっと待って下さい」

医師「……はい」

男「つまり……ですよ」

男「アイツの、寝ている時間が日に日に長くなっている?」

男「昏睡状態から覚めてから、今日まで、ずっと?」

医師「……申し訳ない。もっと早めに気付く事ができなくて」

男「……ッ」

男「今は、謝罪が聞きたいわけじゃないっ!」

医師「…………」

男「これは……これが意味するのはっ!」

男「このグラフが、一番上まで行った時……」

352: 2011/06/15(水) 21:50:38.19
男「アイツは、妹は……また、目覚めない状態になるってことですか!?」

医師「……その可能性は十分にあります」

男「……可能性だと……?」

バンッ!

男「あんたも気付いているはずだっ!」

男「このままだとアイツは、確実に眠ったままの状態に戻ってしまうっ!」

医師「……お兄さん」

男「……どうするんだ……一体、どうすれば……」

男「くそっ……何でだっ……何で、またこうなるっ……」

医師「お兄さんっ」

男「何度やっても、形を変えた同じ悲劇が繰り返すだけ……」

男「……そして、今度はまた眠り続けるだと……?」

男「今まで必死に耐えてきたが……いい加減にしろっ……」

男「……もう俺は、こんな仕打ち我慢できないっ!」

医師「お、お兄さんっ! 落ち着いて下さ……」

353: 2011/06/15(水) 21:51:10.75
男「──うるさいッ!!」

医師「……っ」

男「今まで俺がどんなに我慢してきたかっ!」

男「それでも、必死に生きて……耐えてっ!」

男「……その結果がこれか?」

男「これが、俺とアイツの最後だっていうのかっ!?」

医師「…………」

男「あんたには決して分からないよ……」

男「俺の気持ちも、妹の気持ちも……何一つ……」

男「……駄目だ……」

男「もう、どうしていいのか分からない……」

男「……今度こそ、終わった……」

男「終わりだ……」

男「…………」

医師「……お兄さん、聞いて下さい」

354: 2011/06/15(水) 21:52:26.62
医師「まだ話は終わっていない……というより、ここからが大事なんです」

男「……大事? この状況で、か……?」

医師「はい」

医師「……私が推測するに」

医師「今回の結果と、記憶が失われている事実には……」

医師「何らかの強い繋がりがあると思うのです」

男「……強い、繋がり……?」

医師「しかし、あくまでも、私の考えということに留めておいて下さい」

医師「それでも良いというなら、お伝え致します」

男「……分かった……」

医師「もちろん、さきほど言った最悪の可能性だって考えられます」

男「御託はいい……その考えとやらを早く言ってくれ……」

医師「……リセットですよ」

男「『リセット』……?」

355: 2011/06/15(水) 21:54:06.64
医師「何度も記憶を失い続けた妹さんの身体は……」

医師「もう、既に限界値まできていることは周知の事実ですよね?」

医師「こないだの昏睡状態も、それを明らかに意味しています」

男「…………」

医師「……けれど、未だに彼女は過去を捨て去る事が出来ない」

男「待ってくれ……アイツの記憶は未だ戻っていないぞ?」

医師「それは思い出せないだけで、確実に頭のどこかにはあるんです」

医師「何らかのきっかけ……それも、特に強いきっかけですが」

医師「それさえあれば、彼女は今でも過去を思い出すことは可能なんです」

男「……ん」

医師「けれど、彼女にとって、その過去は堪え難いもので……」

医師「今の妹さんには、百害あって一利ない……」

医師「……だから、今回の二つの現象は」

医師「本当の意味で、過去を消し去るまでの準備期間と推測できるでしょう」

男「……じゃあ、グラフが上限へ到達したら……」

356: 2011/06/15(水) 21:55:07.93
医師「彼女は数日間、或いはそれ以上、眠ることになると思いますが……」

医師「再び、目を覚ますはずです」

医師「だって、身体のどこにも異常はないんですからね」

男「……でも……それは……」

医師「……はい」

医師「同時に、かつての記憶を蘇らす機会が」

医師「今後、永久に失われることを意味します……」

男「…………」

男「……あとどれくらい」

男「……どれくらいで、アイツは眠りにつく……?」

医師「このまま進行が続けば……」

医師「あと七日」

医師「……それだけしか、持ちません」

362: 2011/06/15(水) 22:38:33.18
──親友の家

男性「…………」

女性「……そんな、そんなこと……」

男「認めたくはありませんが、これが現実です……」

男性「……七日といったな?」

男「はい」

男性「……たったそれだけしかないということか……」

女性「うぅ……なんで……なん……で……」

女性「あの子が……あの子が一体、何をしたって……」

男性「……気をしっかりと持て」

男性「今はまだ、泣いている場合ではない」

女性「で、でも……」

男「先生が言うには、全く違う可能性もあると」

男性「つまり、再度、昏睡状態になって……また目覚めるというのか?」

男「……はい」

男性「しかし、それは医者の個人的見解にすぎないだろ?」

363: 2011/06/15(水) 22:39:28.41
男「それでも、今は……それを信じるしかありません……」

男性「…………」

男「どうしますか……?」

男性「……もし」

男「はい……」

男性「その医者の言うことが正しかったとしたら」

男性「……今後、あの子は記憶を失うことはないということだな?」

男性「一年という縛りに苦しまずにすむということだな……?」

男「そうなりますね……」

男「ただ、昔の記憶を思い出す機会を完全に失いますが……」

男性「…………」

男性「……なら、後は待つだけだ」

男「待つだけ?」

男性「もう私たちに出来る事はない」

男性「ただひたすら、あの子が目覚めるのを待つだけ」

364: 2011/06/15(水) 22:40:04.68
男性「逆に目覚めれば、これから、記憶を失うことに恐怖する必要はない」

男性「意外と……悪くない話だと思う」

男「……本気で……」

男「それは、本気で言っていますか?」

男性「……どういう意味だ?」

男「アイツが記憶を失ってもいいと?」

男「もう、昔の彼女に戻らなくてもいいって言うですか?」

男性「……君こそ、今更、何を言ってるんだ」

男性「前々から言っていただろう」

男性「あの子にとって辛過ぎる過去なら……」

男性「……それを、無理して思い出す必要はない、と」

男「それは……」

男「アイツが……自殺を試みようとするからですか?」

男性「そうだ」

男「どうしてです……?」

男性「……ん?」

365: 2011/06/15(水) 22:40:38.51
男「そう、自信を持って言い切れる理由は?」

男「その行為を食い止める未来だって、あるはずですよ……」

男性「…………」

男「……なのに、社長は分かりきっているみたいですね」

男「記憶が戻ったアイツの行く先は、『死』があるのみって……」

男性「……血を分けた親子だからな」

男「…………」

男性「幼い頃から、ずっと……」

男性「共に暮らし、今までを歩んできたんだ」

男性「あの子のことは、どこの誰よりも」

男性「私たちが一番知っていると、胸を張って言い切れる」

男「……それは」

男性「では聞こう」

男性「君があの子といた時間はどれほどだ?」

男性「高校に入る前にこの街を去った君は……」

男性「成長したあの子のことを、何一つ知らないだろう」

男「…………」

366: 2011/06/15(水) 22:41:17.75
男性「どんな悩みを抱えて」

男性「これからの将来をどう考えて」

男性「些細かもしれないが、そういった積み重ねが我々にはある」

男性「……君には、厳しいことを言うかもしれないが」

男性「男君、君に、あの子の何が分かるんだ?」

男「……っ」

男性「今のままでいい」

男性「……私たちには、どうせ、待つ事しかできないのだから」

男性「あとの七日間、普通に過ごすことが……」

男性「今の私たちに出来る、唯一のことなんだ」

男「…………」

男性「分かってくれたか?」

男「……はい」

男「……社長の気持ちは理解できました……」

男性「そうか……」

367: 2011/06/15(水) 22:41:55.04
男性「……なら、いい」

男「…………」

男性「皆で、乗り切ろう」

男性「……最後の山を、困難を」

男性「そうすれば、きっと」

男性「その先には輝かしい未来が待っているはずだ」

男「……未来……」

男「…………」

男性「今日はもう遅い」

男性「君も、今夜はうちに泊まっていきなさい」

男性「息子の部屋は、前と元通りにしてあるからな」

男「……分かりました」

368: 2011/06/15(水) 22:42:31.54
──親友の部屋

男「…………」

男「……この部屋も久しぶりだ……」

男「カメラもちゃんとあるし、懐かしいものばかり……」

男「……なぁ、親友」

男「お前の親父さんに……」

男「『成長した妹の何を知っている?』って聞かれた時」

男「俺……何一つ、答えられなかったよ……」

男「俺が覚えているのは……」

男「小さい頃の妹……記憶を失い続けているアイツで……」

男「だから……成長した後の彼女を俺は知らない」

男「どんな子に育ったんだろうな?」

男「頭は良かったか? 優しい女性になったか?」

男「……はは、お前は知ってるか」

369: 2011/06/15(水) 22:43:11.03
男「そりゃ、本当の兄貴だからな……当然だ……」

男「でも俺は、まがい物……」

男「……いないはずの、人間」

男「…………」

男「……何も出来ない自分がもどかしい」

男「その実、無力な自分が腹立たしい……」

男「…………」

男「……親友」

男「……お前だけには、本音で話す……」

男「今更になって、気付いてしまったよ……」

370: 2011/06/15(水) 22:43:55.57
男「……自分のやりたいこと」

男「自分が望んでいること」

男「それが……やっと、分かったんだ」

男「……アイツの日記を読んじまった時から……」

男「もう、その想いは消えることがない」

男「……胸に宿る違和感の存在に気付いてしまった……」

男「今までの俺が……いかに馬鹿だってことがな……」

男「…………」

男「……それと、ごめんな」

男「……これからすることを、最初に謝っておくよ……」

男「お前の私物を漁る俺を許してくれ……」

男「……きっと」

男「……悪いようにはしないから……」

男「…………」

371: 2011/06/15(水) 22:44:32.02
──病院

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……また寝てるみたいだな……」

妹「……すぅ……」

妹「……んん……」

男「…………」

妹「あ……お兄ちゃん……」

男「起きたか?」

妹「……は、い……」

妹「ごめんなさい……来てもらってたのに……」

男「……いいんだ」

妹「なんか最近、ずっと眠ってて……」

妹「……正直、こっちが本当なのか、夢が本当なのか……分からないんです」

妹「今……これは、現実ですか?」

男「ああ……」

372: 2011/06/15(水) 22:45:09.27
男「俺はここにいる」

男「……確実に、お前の側にいる」

妹「……はい……」

妹「それは良かったです……」

男「……どうだ、また眠るか?」

妹「ん……」

妹「……そうですね……」

妹「お兄ちゃんには申し訳ないですが……」

妹「今、起きているのはちょっと辛いかも……」

男「…………」

妹「実は、さっきまで……」

妹「……何か、とても幸せな夢を見ていた気がするんですよ……」

妹「わたしのとって、本当に幸せな……そんな夢を……」

妹「もしかして、それは……」

373: 2011/06/15(水) 22:45:54.32
妹「……わたしの過去の、記憶の断片だったのかもしれませんね……」

男「……そうか」

妹「……ごめん、なさい……」

妹「もう寝ちゃいそうです……すみません……」

妹「……ん……」

妹「……お、兄ちゃん……」

男「…………」

妹「…………」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……寝たか」

男「…………」

男「いいか……待ってろよ」

男「もう少し……後少しだから……」

男「俺が……」

男「……大事なお前を守るから……」

374: 2011/06/15(水) 22:50:02.81
──レストラン

男「…………」

男「……あ」

店員「ごめん、仕事が長引いちゃって……」

男「……気にしないで下さい。どうぞ座って」

店員「ん、ありがとう」

店員「でも、そんな他人行儀な喋り方じゃなくていいんだよ?」

店員「私と君って、同い年でしょ?」

男「……ですが」

店員「ほら、気にしない気にしない」

店員「そんな話し方だと、肩こっちゃうからさ」

男「分かった……これでいいか?」

店員「ん、それでオッケー」

店員「……しかし、ほんと困っちゃうよね」

店員「この歳にまでなって、こんな店に働いてるって……」

店員「……今までの人生、適当にしてきたからなぁ」

375: 2011/06/15(水) 22:50:29.68
店員「罰が当たったと言えば、そうなんだよね」

店員「まあ、仕方ないと言っちゃ仕方ない」

店員「それで、君は?」

男「……ん?」

店員「そんな高そうなスーツ着てるけど……」

店員「なんの仕事してるの?」

男「……親友の、親父さんの会社で働いている」

店員「……あー、そうなんだ」

男「意外か?」

店員「ん……まぁ、意外ちゃ意外だね」

男「…………」

店員「それより、何か食べ物頼まないかな?」

店員「私、ずっと働きっぱなしだったから、お腹すいちゃった」

店員「君は夕飯もう食べた?」

男「……んー、まだ」

376: 2011/06/15(水) 22:51:12.77
店員「よし、なら、一緒に頼もう」

男「あっ……もちろん、今日はおごるから」

店員「ほぉー……流石高給取り」

店員「しかし、本日はそれに甘えさせて貰おうっ」

男「ああ」

店員「さて、ボタンを連打してやろうか」

ピンポーンピンポーンピンポーンッ!

男「お、おい」

店員「いいのいいの、私の勤めるお店だし」

店員「どうせ、彼氏が来たとか…何とか」

店員「あることないこと、お喋りしてるんだから」

男「そ、そうなのか……」

店員「まぁ、従業員の裏の顔ってそういうもんでしょ?」

店員「嫌いな客がくれば、みんなで悪口言い合うし」

377: 2011/06/15(水) 22:51:37.50
店員「一種のストレス解消みたいなもんよ」

男「……ほー」

店員「さて……」

男「……ん?」

店員「雑談はこの辺にしておいて……」

店員「何が聞きたい? 私から」

男「…………」

店員「知らない番号から電話がかかってきた時は」

店員「本当、何だろうって思ってたけど」

店員「……まさか、相手が噂の男君だとわね」

男「……ああ」

378: 2011/06/15(水) 22:52:17.92
店員「今日はこれからずっと暇だし、聞くよ?」

男「…………」

男「……当時、彼と付き合っていた君に」

男「大学時代から親友の彼女だった君に、聞きたい」

店員「…………」



男「──あの日、一体、何があった?」



……………。

379: 2011/06/15(水) 22:52:56.03
店員「六年も前のことだからねー……」

店員「とても悲しかったけど、時間が解決してくれたよ」

店員「ん……これ、おいし」

もぐもぐ……。

男「それで?」

店員「死因は結局、教えてもらえなかった」

男「葬式でも、か?」

店員「うん、なんか言えないやつなのかなって、思ってた」

店員「それに、私は親友の家族と余り仲良くなかったし」

店員「もちろん妹ちゃんは除いてだけど」

店員「でも、だから、あえて聞こうともしなかったなぁー」

男「ああ……」

店員「それより、彼氏が死んじゃったって事実の方が堪えてね……」

店員「しばらくの間は、何もやる気がおきない時間が続いた」

男「…………」

380: 2011/06/15(水) 22:53:38.92
店員「けど、なんで今更、親友の死なんか調べてるの?」

男「いや……」

店員「もしかして、なにか、あった?」

男「……分からない。ただ、それを調べたいと思ってる」

店員「そうかー……あんまり、言いたくはないけど」

店員「それをして、誰か得する人っている?」

男「……いない、な」

店員「だよね……ずっと前の話だし」

店員「無駄に墓荒らしみたいな真似すると」

店員「いろんな人から、恨まれるかもしれないよ?」

男「……それでも」

店員「…………」

男「俺は……もう見過ごすことができないんだ」

男「……たとえ、その先に、どんな結末があったとしても……」

店員「……ふーん」

381: 2011/06/15(水) 22:54:24.17
店員「君の中で、既にそう自己完結しているなら」

店員「これ以上、私がとやかく言うことじゃないね。ごめん」

男「気にしなくていい……あと、聞いてもいいか?」

店員「ん? 何かな?」

男「……その当時の妹と親友の関係って、どうだった?」

店員「とても仲良かったよ?」

店員「昔からって聞いてたけど、違った?」

男「……なら、いいんだが」

店員「…………」

店員「……んー、でも」

店員「もしかしたら、君が聞きたいのって、あのことなのかも」

男「……あのこと? それは一体……」

店員「その前に……」

男「……ん?」

382: 2011/06/15(水) 22:55:36.82
店員「追加で、デザート頼んでも良い?」

男「はは、いいよ」

店員「ん、ありがとっ」

ピンポーン!

男「それで?」

店員「……凄く仲良かった二人だったけど……」

店員「時には、大きな喧嘩することもあってね」

男「……あの仲良かった二人がか?」

店員「そりゃそうだよ」

店員「幾ら仲いいって言っても、家族ってだけで」

店員「実際は、別の人間なんだから……意見が食い違うこともある」

店員「もちろん、怒鳴り合いの喧嘩だって、ね」

男「…………」

店員「家族って、そういうもんじゃないかな?」

383: 2011/06/15(水) 22:56:27.83
店員「どこにでもある、当たり前の光景だよ」

店員「違う?」

男「……そう、だな」

店員「だから、あの二人もしばしば喧嘩してた」

店員「あんまり深くは聞かなかったけど……」

店員「……その時の親友は結構、悩んでたなぁ……」

男「……悩んでた?」

店員「ほら、アイツって写真大好きっ子だったでしょ?」

店員「だから、頭がいい癖に、写真家になるってずっと言ってて」

店員「私は馬鹿だったから、何言ってんだろ……的な感じだったんだけど」

店員「やっぱり、それは家族の人たちも同じだったみたい」

男「それは、どういう……」

店員「親友の父親って、大企業の社長でしょ?」

店員「ワンマン社長でも有名だったから、親としては子に引き継がせたくて」

男「……ああ」

店員「でも、親友は大学を卒業して、すぐに海外に飛んだりしてた」

384: 2011/06/15(水) 22:57:28.16
店員「ボンボンだから出来ることだけど、それをよく思う親はいない」

男「……妹もか?」

店員「うん、初めは応援してたらしいけど」

店員「ほら、写真家って危険な地域にも行くことあるでしょ?」

店員「それを知って、妹ちゃん、顔真っ青になっちゃったらしくて……」

男「そこから……喧嘩か」

店員「妹ちゃんは、親友に……」

店員「お父さんの会社を継いで欲しい、的なことを言ってたみたい」

店員「両親に言われても、それこそ、全く相手にしなかったみたいだけど」

店員「アイツも妹のことはとても大事に思ってたから……」

店員「だから、彼女の話を無視することは出来なかった」

店員「でも、自分は写真家の夢を追い続けたい……」

店員「ね? 話は平行線でしょ?」

男「…………」

385: 2011/06/15(水) 22:58:11.01
店員「私は実際に見た事ないから、分からないけど」

店員「結構、きつい喧嘩の時もあったみたいよ」

店員「親友も頭に血が上ると、冷静じゃなくなる時があったから……」

店員「……まあ、何となく、想像はつくかな」

男「……そうか」

店員「参考になった?」

男「ん……」

男「何となく、掴めてきたかもしれない」

店員「そう……それなら、私も良かった」

男「……今日は、本当にありがと……」

店員「いえいえ、どう致しまして」

男「…………」

386: 2011/06/15(水) 22:59:07.42
──部長室

女「おはようございます、部長」

男「おはよう」

女「……どうでしたか?」

男「ああ、話を聞かせて貰った」

女「それで……」

男「はっきりとしたことは分からなかった」

男「けれど……何か、ヒントが手に入った気もする」

女「……そうですか」

女「なら……」

男「ああ、ただ……もう少し待ってくれないか?」

男「まだ全てを受け止める……覚悟が決まらない」

387: 2011/06/15(水) 22:59:39.46
男「それに妹のこともあるからな……」

女「……分かりました。言っておきますね」

男「ん……ありがとう」

女「あと……さきほど、社長から連絡がありまして」

男「……社長?」

女「部長に内密な話があるから」

女「今すぐ、部屋まで来て欲しいとのことです」

男「……分かった」

男「行ってくるよ」

女「……はい」

388: 2011/06/15(水) 23:00:12.99
──社長室

コンコン……。

男「私です、失礼します」

ガチャ……。

男性「すまないな。わざわざ、部屋まで来てもらって」

男「いえ別に……ただ」

男「『内密な話』とは、一体……?」

男性「その前に……少し、昔の話をさせてくれ」

男「……え?」

男性「私の両親のことを君には話していなかっただろ?」

男「……社長のご両親のことですか?」

男性「ああ。私は今でこそ、こうして優雅な生活をしている」

男性「愛すべき妻もいて、家を持ち、子供もいる」

男性「けれど、昔の私は、とても貧しい家庭の子供だった」

男「…………」

389: 2011/06/15(水) 23:01:38.26
男性「当時だからこそかもしれんが、兄や姉が何人もいてな」

男性「両親も入れて、9人家族」

男性「だから、毎日の生活は本当に苦しいものだった」

男「……そうでしたか」

男性「そして、私だけは晩婚の子であったから」

男性「兄たちが働きに家を出て、姉たちは他所の家に嫁ぎ」

男性「そうしているうちに……」

男性「中学の時にはもう、家には私と両親の三人だけで」

男性「あれだけいた家族が……いつの間にか、そこまで減った」

男「…………」

男性「大半の子供を育て上げた事で、父が抱く重圧は消え」

男性「仕事に対して覇気がなくなるようになった」

男性「……気がつけば、勤めていた町工場をクビになり」

男性「そして、毎日、家の中に居続けるように……」

390: 2011/06/15(水) 23:02:48.74
男性「酒を飲むは、金を借りるは……とにかく悲惨だった」

男「……それは」

男性「どうだ? 君が前に話してくれた家庭の状況と似ているだろ?」

男性「実は、君と私、恵まれていない家庭に生まれたのは同じだ」

男性「……ただ、私の父は自分の姿を恥じ」

男性「自殺をするような度胸があるような人間ではなかった」

男性「それが君と私の絶対的な違いだな」

男「……はい」

男性「母はそんな父を蔑み、逆に家にいる機会が少なくなっていった」

男性「家で、だらしない姿で横になり、酔いつぶれた父を見て育った」

男性「もちろん、父を嫌いだったわけではない」

男性「けれど……こんな人間には絶対になるものかと誓った」

男性「君が、母を守ろうと誓ったように、な……」

男「…………」

男性「そして、やっと私は全てを手に入れた」

391: 2011/06/15(水) 23:03:32.19
男性「血が滲むような努力を重ね、この会社を築き上げた」

男性「……それを、今度は君に託す」

男性「その意味が……理解できるか?」

男「……っ」

男性「誰でもいいわけじゃない」

男性「私の後釜を狙っているいやしい重役たちではなく」

男性「君だからこそ……私と似通った君だから」

男性「私の後を継いでもらいたいと思ったのだ」

男「…………」

男性「……根回しは済んだ」

男性「少し強引な手段を使ったことは否めない」

男性「だが、今となっては最早どうだっていいんだ」

男「……はい」

男性「来週……」

392: 2011/06/15(水) 23:04:32.27
男性「君が我が社の次期社長に決まったとの旨を」

男性「会社全体に内示しようと考えている」

男「…………」

男性「……話は以上」

男性「これまでよりもさらに、仕事に励んで欲しい」

男「…………」

男「……あの」

男性「なんだ? 質問か?」

男「…………」

男「一つだけ選べるとしたら……」

男「……社長は……人生で一体、何を得られましたか?」

男「どんな大切なものを手に入れられたと思いますか……?」

男性「………それは」

393: 2011/06/15(水) 23:05:17.99
男性「この会社に他ならない」

男「…………」

男「……分かりました」

男「伺った話……しかと頭に焼き付けて」

男「今後も、精一杯の努力を続けていきたいと思います」

男性「ん……願っている」

男「はい。では、失礼致します」

男性「ああ」

男「…………」

……ガチャ。

……………。

394: 2011/06/15(水) 23:07:02.14
女「部長?」

男「……ん?」

女「どういった話だったんですか?」

男「俺が次期社長に決まったって話」

女「……へ?」

男「社長だよ社長。この会社のトップ」

女「う、嘘……ええと……冗談ですか?」

男「違う違う。そんな冗談言って、誰が得をするんだ」

女「で、でもそんな……じゃあ、今の社長は?」

男「創業者だし、恐らく会長職を新設して、そこに収まるんじゃないか」

男「ただ、最前線の仕事は俺がやるってことになる」

女「す、すごいじゃないですかっ!」

男「……まあな」

女「でも、部長、嬉しそうじゃないですね……」

男「気付かされた事があってな」

395: 2011/06/15(水) 23:10:18.79
男「……俺と社長が似ている……か」

女「……部長?」

男「……確かに、そうなのかもしれない」

男「幼少の頃の環境のせいで……」

男「俺は自己を犠牲にして、生きるようになった」

男「社長は自己の目的のためだけに、生きるようになった」

男「……その意味は真逆だが、歪さは瓜二つだ」

男「きっと……そう」

男「俺があの人に共感したのも……」

男「……息子になってもいいって思ったのも」

男「そういうことだったんだな……」

女「…………」

男「……でも」

男「もう、俺は違う」

女「……え?」

396: 2011/06/15(水) 23:11:21.75
男「……俺と社長が似ている……か」

女「……部長?」

男「……確かに、そうなのかもしれない」

男「幼少の頃の環境のせいで……」

男「俺は自己を犠牲にして、生きるようになった」

男「社長は自己の目的のためだけに、生きるようになった」

男「……その意味は真逆だが、歪さは瓜二つだ」

男「きっと……そう」

男「俺があの人に共感したのも……」

男「……息子になってもいいって思ったのも」

男「そういうことだったんだな……」

女「…………」

男「……でも」

男「もう、俺は違う」

女「……え?」

397: 2011/06/15(水) 23:14:14.52
男「決めたよ」

男「……今日の夜、駅近くの喫茶店で」

男「細かい指定は、そちら様の都合に合わせる」

女「じゃあ……覚悟を決めたんですね」

男「ああ」

男「俺は大丈夫だ」

女「……そうですか」

男「本当にありがとうな……」

男「……君には、何度も助けられた」

男「もしも君がいなければ、今の俺は永遠に変わらなかったかもしれない」

男「今まで通り、運命に翻弄され、諦めていたかもしれない」

女「はい……」

女「……でもね、部長」

男「ん?」

398: 2011/06/15(水) 23:15:02.02
女「最初に助けてくれたのは、あなたですよ?」

男「……え?」

女「就職先に困っていた私を、秘書に採用してくれた」

女「思えば……全ての始まりはあの瞬間だったから」

男「……ん」

女「だから、あの時にはきちんと言えなかった言葉を」

女「……今度こそは伝えたいと思います」

男「…………」

女「部長、本当にありがとうございました」

女「あなたのおかげで……私は救われた……」

女「……そして」

女「今度は、あの人を救って下さい」

女「……大事な妹さん……いえ、あなたの」

399: 2011/06/15(水) 23:15:37.71








女「──大切な『彼女さん』を」








男「……っ」

女「きっとやれますよ、部長なら」

女「私……そう信じてますから」

400: 2011/06/15(水) 23:16:18.70
──病院

妹「……すぅ……すぅ……」

男「……また寝てるんだな……」

男「ごめんな……」

男「本当は、もっとお前に付きっきりにならなきゃいけないのに……」

男「……今日もこの後、人と会う約束がある」

男「でも、それは必要なことなんだ……」

男「……そうしないと、前には進めないから」

男「だから……」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「…………」

男「今日入れて、あと二日……か」

男「……明日で全てが──」

男「……終わる」

401: 2011/06/15(水) 23:17:11.70
男「先生……いるんでしょう?」

医師「……はい」

男「少しだけ、頼みを聞いて頂けませんか?」

医師「それは……」

男「もし良ければ、明日」

男「この子が目を覚ましたとき、連絡を頂けますか?」

医師「……もちろんです」

医師「ただ、もしかしたら明け方になるかもしれませんよ?」

男「それでもその時には、よろしくお願います」

男「……それと、すみません」

男「こないだは取り乱してしまって……」

医師「いえ……お気持ちは十分に理解できますから」

男「ほんと……駄目なんですよね」

男「急な展開には耐性がついたつもりだったんですけど」

402: 2011/06/15(水) 23:18:04.32
男「……でも、その時になると周りが見えなくなる」

医師「…………」

男「弱い人間なんです、俺は」

男「……だけど、今回は」

男「今回だけは、失敗が許されない……」

医師「……はい」

男「実は、最近、震えるんですよ……」

男「……夜、寝ようと思った時に」

男「本当に自分は正しいのかって」

男「間違ってるんじゃないかって」

男「ただ彼女を傷つけるだけなんじゃないかって」

男「そう考えると怖くて、恐ろしくて……ただ震えます……」

医師「睡眠は取っていますか……?」

男「…………」

403: 2011/06/15(水) 23:19:05.46
医師「駄目ですよ……そんなことだと」

医師「妹さんの話以前に、あなたがおかしくなってしまう」

男「……でも、あと一日だから」

男「あと一日……」

男「……それさえ過ぎれば、幾らでも熟睡してやりますよ」

男「だから、俺は大丈夫です……」

医師「…………」

男「……そろそろ時間か……」

妹「……すぅ……すぅ……」

男「じゃあな、妹」

男「行ってくるよ……」

男「…………」

男「……今度会う時は……」

男「互いに、今を笑え合えるような二人でいたいな……」

404: 2011/06/15(水) 23:19:50.71
──喫茶店

男「……今日は、お時間をとって頂いて」

男「本当にありがとうございます」

初老「いえ……記者の方とお知り合いだとは」

初老「あなたも、なかなかの人脈を持っていますな」

男「……会社の秘書に頼んだんです」

男「ですから、彼女の友人のご紹介ということになります」

男「決して、私の力ではありません……」

初老「そんなことはありませんよ」

初老「こういった時に頼める知人というのも」

初老「それこそ、あなたの日々の積み重ねですから」

男「…………」

初老「さて……早速ですが、本題に入りましょうか」

男「……分かりました」

405: 2011/06/15(水) 23:20:29.72
初老「あなたの親友が亡くなった死因でしたね」

男「……はい」

初老「覚えていますよ」

初老「当時は、この地区の警察署に勤務していましたので」

初老「今は引退して、このように探偵業をしていますがね」

男「……それで、彼は……」

初老「車の事故と彼の父親はおっしゃったようですが」

初老「あなたが調べたように、その日、そのような交通事故はありません」

男「…………」

初老「図書館で、地元の新聞記事を探したそうですが」

初老「非常にいい方法でした。素人にしては、よく考えたものです」

男「……ただ、そこからが」

初老「はい、ここからはそう簡単に真相へたどり着けない」

初老「けれど、今回の場合は、偶然、私が当たっていた事件だったので」

初老「すぐに分かりましたよ」

男「…………」

406: 2011/06/15(水) 23:21:10.86
初老「死因は……階段からの転落死」

男「……階段?」

初老「あなたが、想像していたものと違いました?」

男「いえ……続けて下さい」

初老「事件があったのは、ちょうど冬の夜のことで」

初老「一度、親友さんは救急車に乗って運ばれましたが」

初老「まもなく病院で死亡が確認されました」

男「…………」

初老「そこで、調査に当たったわけですが」

初老「事件現場は、自宅の階段」

男「……あの急な階段ですか」

初老「ご存知ですか? 彼は二階から転がり落ちてしまった訳です」

男「……もちろん、事故ですよね?」

初老「そうです。そのように処理致しました」

初老「身体に外傷もありませんでしたし」

初老「彼はその日、酔っていたことが分かりましたので」

407: 2011/06/15(水) 23:21:52.62
初老「事故であると、最終的に断定しました」

男「そうですか……」

初老「ただ……」

男「……え?」

初老「一つ、私は気になることがありまして……」

初老「……こういってしまうと何ですが」

初老「時に警察は、事件を典型例に当てはめて、流してしまう傾向があります」

男「……今回は、そうだと?」

初老「いや、断定は出来ませんし、もう六年も前のことです」

「……ですが、当時の私が不審に思った点を話させて頂きます」

男「……それは……」

初老「──────」

男「…………」

429: 2011/06/16(木) 01:39:37.69
──墓石前

男「……父親が自殺した時」

男「糞尿の臭いに吐き気を催しながら、俺は父に約束した」

男「絶対に強い男になるって」

男「母を守れるようになるって」

男「……結局、母さんは肺がんで死んでしまい」

男「俺は父との約束を守ることが出来なかった」

男「……なあ、父さん」

男「あんたは家庭をいつも蔑ろにして」

男「……酒は飲むは煙草を吸うは、最低の親だった」

430: 2011/06/16(木) 01:40:08.89
男「けど、俺はあんたを嫌いになれなかった」

男「……だって、父さんは、俺には優しかったから」

男「一度だって、俺に暴力を振るったことはなかったから」

男「会社をクビになって、酒に溺れたあの日も」

男「……寸前のところで留まってくれた」

男「だから、今の俺がいる……」

男「……相手のことを考えられる人間になれたんだ」

男「これは、父さんのお陰だよ」

男「……そして、母さん」

男「最後の死に際に、顔を見せてあげられなくて、ごめん」

男「謝るのは、これで、何度目かだけど……」

431: 2011/06/16(木) 01:40:45.64
男「……最後にもう一回だけするね」

男「今後は……もう謝らないから……だから……」

男「守れなくて、本当にごめんなさい……」

男「ん……これで終わり」

男「でも、その代わり……言いたいこともあるんだ」

男「……あなたは、俺の根本を作ってくれた」

男「常に温かく、俺を包んでくれた」

男「……人を愛するということを、教えてくれた」

男「母さんには、ほんと頭が上がらないなぁ」

男「そんな……俺の誇れる母さんには、この言葉を」

男「ありがとう、母さん」

男「……本当にありがとうね……」

男「じゃあ……二人とも、あの世では仲良くやってくれよ?」

432: 2011/06/16(木) 01:41:12.12
男「もう俺は大丈夫」

男「今まで見苦しい姿を見せて、二人には心配させたと思う」

男「でも、もういいんだ」

男「……俺を見守る必要はないから」

男「自分のやるべきことは……分かってる」

男「だけど……ただ一つだけ」

男「俺がそっちに行った時に聞かせて欲しいな……」

男「俺は……」

男「強い男になれたかな……?」

男「二人が自慢できるような、立派な息子になれた?」

男「……もう一つの約束を守れたかどうか」

男「聞きかせてくれ……」

男「…………」

男「じゃあ、二人とも」

男「全てが終わったら、また来るからさ」

433: 2011/06/16(木) 01:49:50.60
──親友の家 リビング

ガチャ……。

男「……お疲れさまです」

男性「来るが遅かったな……もう、妻も寝たぞ?」

男「すみません、無理いって起きてもらって」

男性「それは構わないが……どうした?」

男「はい?」

男性「……最近の君は、いつも、どんよりとした表情だったが」

男性「今は、随分、清々しい顔をしてるんじゃないか」

男「そう見えますか?」

男性「ああ、心配していたから、安心した」

男「それは、ありがとうございます」

男性「ほら、君も飲みなさい」

男「あっ、いえ、俺は結構です」

男性「ん? 遠慮しなくていいんだぞ?」

男「まだ頭を動かさないといけないんで……やめておきます」

435: 2011/06/16(木) 01:50:22.39
男性「まぁ……無理にとは言わないが」

男性「……で、妹のところに行ったから遅れたのか?」

男「いえ、彼女のところには夕方行きました」

男「案の定、眠っていて、話は出来ませんでしたが……」

男「……それでも、顔が見られただけ、満足です」

男性「そうか……」

男「明日ですね」

男性「ああ……明日だ」

男性「……あと、数十分で零時を回るな」

男「そして明日……」

男「彼女が一度だけ目をさまして……」

男「再度、深い眠りにつきます」

男性「……ん」

男「先生に、どれくらい起きていられるか聞いたんですが」

男「約三十分しかないだそうです」

436: 2011/06/16(木) 01:51:08.06
男性「……短いな」

男「はい。それに……」

男「記憶をほとんど失っている状態であると予想されるので」

男「満足のいく会話は出来ないかもしれません」

男性「…………」

男「それでも俺はアイツの元に行くつもりです」

男「お二人はどうします?」

男性「……私たちは遠慮しておく」

男性「そんな姿のあの子を見るのは、辛過ぎるからな」

男「……そうですか」

男性「すまん……君に任せっぱなしで」

男「いえ……俺が好きでやっていることですから」

男性「……ありがとう」

男「実は、今日」

男性「……ん?」

男「久しぶりに自分の家の墓を掃除してきたんです」

437: 2011/06/16(木) 01:51:45.02
男「辺りは真っ暗で、十分に出来たとは言えませんが」

男「……胸が晴れました」

男性「…………」

男「死んだ父は最低な人でしたし」

男「俺の家庭は恵まれていなかった」

男「……けど、今、考えると……」

男「それはそれで……仕方なかったことなのかなって」

男「今の自分がいるのも……」

男「そういったものを乗り越えてきた証なんだって」

男「思えるようになった自分に、驚きました」

男性「……それは、良かった」

男「今まで、俺は自分のためではなく」

男「誰かの為に、誰かの犠牲になって、生きてきました」

男「……だけど」

439: 2011/06/16(木) 01:52:22.67
男「それは、もう、やめます」

男性「……ん?」

男「初めに謝っておきますね」

男「俺は……昔のアイツが消えるのを放っておくことができない」

男「最後まで諦めずに、彼女の記憶が戻るために必死になります」

男性「……ちょ、ちょっと待て………」

男「それは、もちろん、彼女のためでもあります」

男「無意味に消えていった彼女『たち』のためでもあります」

男性「なら……」

男性「それは、今までの君のままじゃないか……」

男「……違うんですよ」

男「アイツが過去を取り戻すことは、俺の望みにもなりうる」

男「記憶を戻した暁に……」

男「俺には伝えたいことが山ほどあるから……」

男性「…………」

男「だから、あなたに、もう一度聞きますね」

440: 2011/06/16(木) 01:52:53.36
男「……どうして、親友は死んだんですか?」

男性「…………」

男性「……それは、前に説明したはずだ」

男性「妹を迎えるための……車で……」

男「──事故にあった」

男性「……その通りだ」

男「でも……事実は違った」

男性「……どういう意味だ?」

男「…………」

男「階段から……」

男性「……なっ」

男「……階段から、転げ落ちてしまったそうですね」

男性「…………」

441: 2011/06/16(木) 01:53:26.64
男「死因は誰にも言わなかった」

男「葬式でさえ、それを公表しなかった」

男「どうしてですか?」

男性「……それは」

男「家族を守るためですか?」

男「死んだ息子の名誉守るため?」

男「……それとも」

男「──妹を守るためですか?」

男性「……っ」

男「……当時、警察署に勤めていた方に話を伺うことが出来ました」

男性「君は……」

男「その方が言うには、不審に思える点が一つあったそうです」

男「あなたには、推測できますか?」

男性「…………」

442: 2011/06/16(木) 01:54:42.19
男「『遺体は、激しく後頭部を地面に打ち付けていた』」

男性「……それが、何か問題か?」

男「通常、階段を滑り落ちるなどして転落死した場合」

男「身体のあちこちに打撲が見られ」

男「頭部のどこかを打ち付けて、死ぬことが多いそうです」

男「だから、後頭部に傷があるのは当たり前だと」

男性「なら、何の問題もないじゃないか」

男「……親友の身体は」

男「背中や腕……特に腰に強い衝撃の後がみられ……」

男「……頭は後頭部の一カ所しか打っていません」

男「ただ……その衝撃が、異常なほどのものだっただけ」

男性「…………」

男「転がり落ちたというより……」

男「『天を仰ぐように、仰向きで、下に叩き付けられた』」

男「そんな……衝撃だそうです」

443: 2011/06/16(木) 01:55:15.55
男「ただ、当時の警察は詳細な検死を行う事もせず」

男「アルコール成分が検出されたことから、事故と判断した」

男「けれど、その場にいた一人の警官は思ったそうです」

男「──『誰かに突き落とされた可能性もあるのではないか』と」

男性「……言いがかりだ」

男「その当時の妹は……話によると」

男「親友とよく口論になっていたそうですね」

男「危険な土地に行く、写真家を目指していた兄を心配して」

男「あなたの会社で働くことを強く勧めていたようで」

男「けれど、親友としては、昔からの夢を諦めることは出来ない」

男「違いますか?」

男性「君は……一体、何をしたいんだ?」

男「…………」

444: 2011/06/16(木) 01:55:58.86
男性「いいだろう、君の言った通り、全てそうだったとしたら?」

男性「真犯人でも見つけて、探偵気取りで、警察に突き出すつもりか?」

男性「それが、君の見つけたやりたいことなのか?」

男「……俺はただ」

男「真実を知りたいだけです」

男「アイツが記憶を失った訳を……理由を」

男「それを知らないままだったら、前には進めないから」

男性「……そこまで言うなら」

男性「ここからは、君の質問には正しく答えることする」

男性「ただし……結末は保証せんぞ?」

男「…………」

男性「君の言う通り、うまくいっても」

男性「……あの子は自殺するに決まっている」

男性「……そう」

男性「……自責の念にかられて……」

男「……自責ですか?」

445: 2011/06/16(木) 01:56:58.38
男性「……何が言いたい」

男「兄の死に、アイツは自殺するまで追い込まれていた」

男「今までの仮定を全て考慮して、分かった事は一つ」

男性「…………」

男「では、聞かせて貰います」

男「あなたは正しく答えると言ってくれたから」

男「……だから、その言葉を俺は信じますよ」

男性「…………」

男「……恐らく、本当に事故だったんだと」

男「でも、偶然に……親友を階段から突き落としてしまった……」

男性「……ああ」



男「……妹……」



446: 2011/06/16(木) 01:58:32.03













男「──ではなく、あなたですね?」












男性「…………」

447: 2011/06/16(木) 01:59:19.15
男「前々から、おかしいなと思っていた」

男「そこまでして、彼女が記憶を取り戻す事に抵抗しなくても、と」

男「それも……見知らない第三者を兄に仕立てあげるまでして……」

男性「……自分をそこまで言うのか……」

男「だって、幼少の頃、俺はあなたと一度も会ったことはない」

男「仕事が命だったあなたが、家族と食事を共にするようになったのは」

男「ごく最近の話なんじゃないですか?」

男性「……それは」

男「妹が親友を……とは全く思いませんでした」

男「死ぬ直前に、結構な量の酒を飲んでいた親友です」

男「普通に考えれば、あなたと飲んでいたと考えるのが正しい」

男性「…………」

男「……教えて下さい」

448: 2011/06/16(木) 01:59:47.47
男「俺は……あなたが、アイツに恨みがあって殺したとは思えない」

男「……事故だったんですよね?」

男性「…………」

男性「……君の言う通りだよ」

男「え?」

男性「私は今まで家族のことを大切にしてこなかった」

男性「今のように早く帰るようになったのは……」

男性「息子が死に……あの子が記憶を失ってからだ……」

男性「……それまで、仕事だけに人生をかけてきた私は」

男性「子供たちの成長をほとんど見守ることもなく……」

男「…………」

男性「……初めて、自分が引退することを考えたとき」

男性「息子に継がせたいと思った……けれど」

男性「遅かったんだ……それは……」

449: 2011/06/16(木) 02:00:28.87
男「親友は……写真家になりたかった」

男性「そう……そんなことすら知らずに……」

男性「当然と継ぐものだと考えていた私は愚かだ」

男性「そしてあの日……」

男性「久しぶりに外国から帰ってきた息子が家にいて」

男性「夕飯を食べた後……アイツの部屋に行った」

男「お酒を持って……」

男性「初めは最近のことなど笑って聞いていてくれたんだが……」

男性「……私が段々、話を仕事に方向を変えると」

男性「アイツは失望するように、部屋を出て行こうとした」

男性「それを……私は服を掴んで、行かせまいとして……」

男性「それで二階の廊下で、押し問答をしていた」

男性「ただ成長したアイツの力は思った以上に強く」

男性「……すぐに階段の前まで来てしまう」

男「…………」

男性「その時……確かに、その時だった……」

450: 2011/06/16(木) 02:01:02.67
男性「廊下での怒鳴り合いを心配した娘が、部屋から出てきた」

男性「そして………」

男性「娘に、喧嘩している姿を見せたくなかった私は……」

男性「瞬間的に、息子を突き放してしまった」

男「……はい」

男性「全て君の言った通りだ……」

男性「……私が、あの子を殺した……」

男「違いますよ……事故です」

男「事故なんですから……」

男性「本当はな、警察が調査に来た時、自首していれば良かったんだ」

男性「けれど、私は……今の家族が崩壊する事を恐れ」

男性「会社の失墜を考え……それをしなかった」

男性「……口止めをされた娘は……」

男性「兄の死と、それを我慢しなければならない重責に耐えかけて」

男性「風呂場で手首を切って、自殺を謀った」

男「…………」

451: 2011/06/16(木) 02:01:41.64
男性「全て、私の責任だ」

男性「こうなってしまったのは……私の……」

男「……社長」

男性「すまん……君に真実を話さなくて……」

男性「もう少し経ったら言おうと……常に考えて」

男性「けれど、いつの間にか、君を本当の息子と思ってしまった」

男性「アイツと出来なかった、仲の良い親子の関係を……君に求めた……」

男性「……君に、失望されるのが、怖かったんだな……」

男「…………」

男性「すまない……本当にすまない……」

男性「私は……世界で一番、大切にしなければいけない子供たちに」

男性「なんてことをしてしまったんだっ……」

男性「これが……仕事に命をかけて……」

男性「父のようになるまいとした……結末なのか……」

男「…………」

452: 2011/06/16(木) 02:02:07.74
男性「男君……私はどうした方がいい?」

男性「これから、何をすれば、償えるんだろうか?」

男「……絶対に」

男性「え……?」

男「死のうなんて、考えないで下さいね」

男性「…………」

男「それは逃げですよ? 親友への償いではなく冒涜です」

男「……残された人間のことを、考えなくてはいけません」

男性「……っ」

453: 2011/06/16(木) 02:02:34.97
男「家族みんなで考えましょう」

男「何をすべきか、どうすればいいのか」

男「それを話し合ってこその家族だから……」

男「もちろん、妹も入れてですよ?」

男性「……あ……ああ……」

男「……だから」

男「アイツは俺が救う」

男「……俺が、なんとかして、記憶を取り戻させる」

男「そうしないと、いつまで経っても」

男「──この家族は……前に進めないのだから」

463: 2011/06/16(木) 04:56:34.30
──妹の部屋

男「…………」

男「……本当は」

男「俺が読んでいいものじゃないはずだけど……」

男「……でも」

男「今、俺の胸に抱く想いが……」

男「確かなものだって、確認させてくれ……」

男「……ごめん」

464: 2011/06/16(木) 04:57:16.20
男「これを読むのが……俺になっちまって……」

男「…………」

男「……20×1年4月……」

男「……あれは……確か……」

男「…………」

ぺらっ……ぺらっ……。

男「……これだ」

男「……アイツが誕生日だった、あの日……」

……………。
………。

465: 2011/06/16(木) 04:57:52.11
──20×1年4月13日

今日は、わたしの誕生日。

今までの記憶はないけれど、
確かにこの日、わたしはこの世界に誕生した。

そんな記念すべき今日を祝うために、
いつもより詳細な日記を書こうと思う。

……………。

朝、とても気持ちよく目覚める事が出来た。
部屋の窓を開けると、向かい側に見える桜の木が、
風に吹かれて、花びらを舞い散らせている。

小鳥が可愛い鳴き声で、二、三、囁く。
そんな綺麗な光景を、ただ、笑みを浮かべて眺めていた。

466: 2011/06/16(木) 04:58:28.20
まだ、わたしはここにいる。
新しい自分になってから、もうすぐ一年経つけれど、
まだ記憶を失わず、今を生きていられる。

他人から見れば、そんな些細な事実が、
わたしにとっては、とても嬉しかった。

うん、今日も頑張ろう。

……………。

いつものように、みんなで朝食を食べる。
けれど、自分は少しドキドキしていた。

もちろん、プレゼントを貰えるんじゃないかって、
そんな図々しい期待からじゃない。

隣に座る、お兄ちゃんの方をバレないように横目で伺いながら、
彼が、だし巻き卵を箸で掴んだとき……一瞬、びくってなった。

467: 2011/06/16(木) 04:59:00.85
だってそれは、わたしが作った料理だから。
お母さんだけが知っていることだけど、
わたしも毎日、一品作る事にしていた。みんなには内緒で。

もぐもぐとお兄ちゃんが食べてくれている間、
胸の鼓動はずっと高まっている。
それを必死で気付かれないように、ご飯の茶碗で顔を隠したりして……。

すると、お兄ちゃんが言ってくれた。
『このだし巻き、おいしいな』って……。

お世辞じゃない、本当の褒め言葉。
こんなに嬉しいことはない。

一人で、ニコニコしていると、
向かい側のお母さんがウインクしてくれた。
やりましたよ、お母さん。

……でも、何でなんだろう。
お兄ちゃんとは、ただの兄妹なのに、
こんなに、気にしちゃうなんて……やっぱり、わたしが病気だからかな?

468: 2011/06/16(木) 04:59:37.26
納得はいかなかったけど、余り考えないようにしよう。
よし、洗濯物を干さないと。

……………。

凄い凄いっ!
今、とっても最高の気分っ!

ないと思っていた誕生日プレゼントが、
まさか家族のみんなから貰えるなんてっ!

お父さんは、ちょっと可愛過ぎる腕時計。
お母さんは、なんと、赤色のフードプロセッサーをくれたっ!
ナイスチョイスですねっ! 二人とも、本当にありがとうっ!

そして……お兄ちゃんもくれた。

指輪。

キラキラする宝石はついてない、とてもシンプルなやつだけど、
裏側に文字が書かれている。

469: 2011/06/16(木) 05:00:05.18
英語で……多分、『愛しい人に贈る』って。

正直なところ、貰った時、泣きそうになった。
自分でも分からないぐらい、嬉しさと……
でも、なぜか悲しみが沸き起こった。

なんでだろう……なんで悲しいんだろう?

これは多分……昔のわたしが泣いているんだ。
根拠はないけど、ただそう思う。

お兄ちゃん……あなたは一体……。

470: 2011/06/16(木) 05:00:34.02
──20×1年4月21日

最近、お兄ちゃんの顔が正面から見れない。
前よりも胸が熱くなって、苦しくなる。

指輪を貰ってからだ。
きっとこれは……右の薬指にある指輪のせい。

お兄ちゃんは気付いているのかな?
わたしの気持ちに……気付いてないのかな?

この日、なぜか怖くて寝付けなかった。

471: 2011/06/16(木) 05:01:24.87
──20×1年4月24日

お兄ちゃんとお父さんが会社に向かって、
お母さんが買い物へ行った時。

わたしは家を探索することにした。
今更になってだけれど、昔の思い出を探したかった。

昔のわたしとお兄ちゃんが、
どんな関係だったかを知りたい。

勝手にお母さんの部屋に入る。
ごめんなさい……。

色々、探していると机の下から、アルバムが出てきた。

急いで開いてみると、
そこには小さかった頃の自分がいた。
時には泣いていたり、笑っていたり……
とても生き生きとしている。

けれど、お兄ちゃんの写真が一枚もない。
アルバムの大半が、なぜか抜き取られていた。

分からない。
一体、どういうことなんだろう。

……もしかして。
いや……でも。

472: 2011/06/16(木) 05:01:58.81
──20×1年5月1日

一週間、こないだのアルバムのことを考えていた。
どうして、お兄ちゃんの写真がないのか。
その不自然な事実に、頭を悩ませていた。

……でも、何となく、気付いている。

多分、お兄ちゃんは……わたしの本当の兄じゃないんだ。

何らかの理由で家族の一員として、
わたしの兄を偽っているけど、実は、血の繋がりはない。

そう思うと、本当は怖くならなきゃいけないのに、
凄く気楽になれた。胸の痛みが取れるようだった。

その時に、はっきりと分かる。

わたし、お兄ちゃんが好きなんだ。
異性の対象として、あの人を愛している。

どうして今まで気付かなかったんだろう?
こんな大事な自分の気持ちに……。

うん、わたしはあの人が好き。

473: 2011/06/16(木) 05:02:41.58
──20×1年5月3日

今日は、嫌な日。
月に一度に行かなきゃいけない、検査の日だ。

この日は嫌いだ。
だって、わたしが病人なんだって、
否応にも気付かされてしまうから。

車の中で、どんよりとしてたら、
お兄ちゃんが気を使って、話しかけてくれた。

優しい言葉をかけられて、
本音をぶつけてしまう。

六年か……わたしが、記憶を失ってから。
その間、何度も初めてを繰り返して、
それをお兄ちゃんは横で見守っててくれたんだと思う。

『今度も駄目だと思う』と、伝えたら……
お兄ちゃん、凄く悲しそうな顔をした。

474: 2011/06/16(木) 05:03:41.02
本当に、ごめんなさい……。

すると、お兄ちゃんが指輪の話題を振ってきた。
内心、自分の気持ちに気付かれたと思って、
凄く焦ったけど、違ったみたい。

前に進む、か。

よく、お兄ちゃんは、そう言っている。
口癖みたいなものだ。
でも、わたしはそんな前向きなお兄ちゃんが大好き。

けれど、少し不安に思う事もある。

昔のわたしは、同じように、
この人を好きなったのだろうか。

そうだったら嬉しいけど……どうなんだろう?

475: 2011/06/16(木) 05:04:10.41
──20×1年5月15日

最近、頭が痛いときがある。
多分、今も残っている昔の記憶が疼くのかな?

けれど、思い出す事はできない。
いっそ、全て分かれば、楽なのになぁ……。

一年を越えて……もうすぐ一ヶ月?

少し嫌な予感がする。

476: 2011/06/16(木) 05:04:43.35
──20×1年5月18日

日に日に、頭の痛みが繰り返される。
これは恐らく、まずい兆候なのだと思う。

今までは、何事もなく過ごしていたから、
記憶を失う恐怖を忘れていた。

でも、ここにきて、眠れない日が続いている。

忘れたくない。

忘れたくないよ……。

せっかく、楽しい日々が続いていたのに、
これが全部、なかった事になるなんて……
そんなの耐えられない……。

この想いは?

今の、この気持ちはどこにいくの?

あの人が好きなのに……。
こんな大事なことも、忘れてしまうのだろうか。

嫌だ……もう嫌だ。

こんなのって、ないよ……。

477: 2011/06/16(木) 05:05:38.77
──20×1年5月21日

今日で日記を終えよう。

理由は、正直、もう限界だと思うから。
いつ、記憶を失ってもおかしくない状態だ。

何故分かるかは分からないけど、
これも経験から来る予感なのかもしれない。

とにかく、この日記を今まで続けた自分を褒めてやりたい。

だって、これさえ読めば、
次のわたしも、同じように、あの人を好きになるはずだから。

忘れないで、わたし。

478: 2011/06/16(木) 05:06:12.49
指輪を大切に。

あの指輪が、あなたを次へと結びつけるはず。

だから……諦めないで。

指輪は左薬指に填めることにする。
だって、その方が意味深だから。

次のわたし、疑問に思ってね。
その指輪が誰の贈り物なのか、悩んで。

そうすれば、きっと。

答えにたどり着くはずだから。

……………。
………。

479: 2011/06/16(木) 05:06:39.75
男「…………」

男「……ッ」

男「……うっ……」

男「……ううっ、ああっ……」

男「……駄目だ……」

男「泣くんじゃ……ない……」

男「…………」

男「……気付いてたんだな?」

男「俺が……本当の兄じゃない事……」

男「それも全部……」

男「……待ってろ」

男「すぐに、助けてやるから」

男「……絶対に」

男「絶対に救ってみせるっ!」

──ピピピピピピッ!

男「…………」

男「……時間だ」

480: 2011/06/16(木) 06:14:07.38
──病院

たったったった……。

男「……はぁ……はぁ……」

男「……はぁ……」

医師「お兄さん……来ましたね」

男「アイツは……妹は……」

医師「電話で話した通り、さきほど目覚めました」

医師「しかし……まさか、こんな早くなるとは」

男「あと、あと何分あります……?」

医師「十分……それが、限界だと思います」

男「……十分?」

男「くそっ、時間がない……」

医師「…………」

481: 2011/06/16(木) 06:14:37.39
ガラガラガラ……。

男「……あ」

妹「……ん?」

男「…………」

妹「……ええと……」

妹「……どなたで……」

妹「──違う……違う……」

男「……え?」

妹「お兄ちゃん……この人は……」

妹「……お兄ちゃん……」

男「ああ……」

妹「……来てくれて、ありがとう……」

妹「でも、ごめんなさい……わたし、頭がぼーっとしてて」

妹「何にも浮かばないんです……何も……」

男「…………」

妹「……指輪……」

482: 2011/06/16(木) 06:15:05.48
男「……ん?」

妹「この指輪……誰から……」

男「……っ」

男「……俺がっ」

男「俺がお前の誕生日に贈ったっ!」

妹「……お兄ちゃん……が?」

男「違う……俺は……」

男「……違うんだ……」

妹「……え? でも……」

男「……くそっ、どうすれば……」

男「……どう言うのが正解なんだよっ……」

男「…………」

男「落ち着け……一旦、落ち着くんだ……」

男「……ふぅー……」

483: 2011/06/16(木) 06:15:34.92
妹「……お兄ちゃん?」

男「……いいか」

男「これから俺が話すことを、注意深く聞いて欲しい」

男「……頭が回らないかもしれないけど、本当に頼む」

妹「……はい、頑張ります……」

男「……まず」

男「俺は……お前の兄じゃない」

妹「……え?」

男「『お兄ちゃん』じゃない」

妹「……お兄ちゃんじゃ、ない……?」

男「ごめん……今まで騙してて……」

男「ずっと、六年間も、お前に嘘ついてて……」

妹「…………」

男「……俺は……」

484: 2011/06/16(木) 06:16:16.07
男「俺はただ……小さい頃のお前の友達で」

男「お前の本当の兄である親友の友人で……」

男「……覚えてないか?」

妹「……すみません……」

男「……っ」

妹「あの……」

妹「その当時の、わたしは、なんて?」

男「ん……?」

妹「あなたのことを、なんて呼んでたんですか?」

男「……『兄さん』」

妹「……兄さん……」

485: 2011/06/16(木) 06:16:46.35
男「……初めてお前と出会った俺は」

男「親友の後ろの隠れる、小さな女の子が可愛くて」

男「自分の妹にしたいなって、考えた」

男「……だから、『兄さん』」

男「そう君に……呼ばせてた」

妹「……兄さん……兄さん……」

男「どうだ? 思い出さないか?」

妹「ん……何か、頭にひっかかります……」

妹「……とても大事なことを……わたしは……」

妹「……うっ……」

妹「痛い……頭が痛いっ……」

男「だ、大丈夫か?」

妹「…わたしのことはいいですから……」

妹「……もっと聞かせて下さい……二人のことを……」

妹「……本当のわたしと、兄さんの関係を……」

男「……ああ」

486: 2011/06/16(木) 06:17:15.48
男「……俺とお前……あと、親友は……」

男「いつも大の仲良しで……何をするにしても、三人だった」

男「外で遊んだり、家でゲームをしたり」

男「そうやっていられる仲だったんだ……」

妹「……は、はい……」

男「でも、ある時、気付いちまった」

男「……自分が、抱いてはいけない想いを持ってるって……」

男「それで……」

妹「……あ……」

男「いつからか、疎遠になった……」

男「俺は……お前を遠ざけようとしたんだ」

男「妹として見なきゃいけないお前に」

男「……違った感情を覚えた自分を嫌った」

妹「……ん……」

487: 2011/06/16(木) 06:17:50.14
男「俺は若かったんだな……」

男「変化することは、何かを壊してしまうことなのだと」

男「……そう、勘違いしていた」

男「本当に馬鹿だよな……」

妹「……それで……?」

男「結局、お前の本当の兄に怒られたけど……」

男「……俺の家族に悲しいことが起こってしまって」

男「離れ離れになってしまった……」

男「……別れも言えないまま、な……」

妹「…………」

男「覚えていないか? 俺のこと……」

男「『兄さん』って呼んでいた少年のこと」

男「……君は……」

妹「……すみ、ません……」

男「…………」

男「……そうか」

男「なら、仕方ないな……」

488: 2011/06/16(木) 06:18:18.12
妹「……ごめん、なさい……」

男「いいんだ」

男「まあ、こうなってしまったら」

男「……もう、俺に残された切り札はない」

男「だから……」

男「昔のお前に言えないのなら……」

男「……今、伝えてもいいか?」

妹「……え?」

男「俺の想い……聞いてもらっても良いか?」

妹「……それは……」

妹「……ん……あ、眠い……」

489: 2011/06/16(木) 06:18:54.31










男「──好きだよ……」










妹「……あ……」

男「お前のことが、昔から大好きだ」

妹「……ああ……」

490: 2011/06/16(木) 06:19:33.72
男「記憶を失ってから、お前に再会したけど」

男「……結局、俺はお前を好きになった」

妹「……あ、あっ……」

男「何度も何度も、お前は記憶を失ったけど」

男「そのたびに……俺はお前を好きになった」

妹「……んっ……」

男「……そう」

男「これが俺が望んだ事」

男「……見てみぬ振りをしてきた、違和感の正体」

男「俺は……お前に想いを伝えることを我慢していた」

男「ずっと……中学時代のあの時から……」

妹「…………」

男「でも、今なら言える」

男「俺は……本当に、お前が好きだから……」

妹「…………」

妹「……すぅ……」

男「……っ」

491: 2011/06/16(木) 06:20:27.42
妹「……すぅ……すぅ……」

男「……あ、ああっ……」

男「……なんで」

男「……なんで、何だ……?」

男「何で、うまくいかない……」

男「……二人の関係が……最後が……」






──こんな結末なんて……。






………。
……………。

492: 2011/06/16(木) 06:21:00.26
親友『なあ、知ってるか?』

男『ん?』

親友『世の中には、「弱肉強食」って言葉があるだろ?』

男『ええと、弱いものは強いものに食われるってことだっけ?』

親友『そうそう、もっと具体的に言うとさ』

親友『この社会は弱い奴の犠牲によって栄えてるってこと』

男『……う、ん』

親友『お前はそれ、どう思う?』

男『つまり、強者と敗者がいるってことだよな』

親友『そうそう。んで、敗者は要は社会の犠牲者みたいな感じかな』

男『……んーなんだろうな』

親友『結局、勝者ってのは、自分の思い通りになんでも出来る訳』

親友『でも、みんなが思い通りに行動をしてたら、社会が回らなくなる』

男『それは俺でも分かるよ』

親友『じゃあ、我慢してるのは?』

男『敗者?』

493: 2011/06/16(木) 06:21:46.57
親友『そういうこと』

男『……うわぁ……大人になりたくねぇな……』

親友『もし仮にさ、将来、俺たちが勝者じゃなくて敗者になっちまった時』

親友『どうすれば、そこから抜け出せられると思う?』

男『いや、もう無理なんじゃない?』

男『貧乏くじ引いてる時点で、もう泥沼じゃん』

親友『うん……そう普通は思うよな』

親友『でも俺、気づいちゃったんだよ』

男『何を?』

親友『とっておきの、抜け出し方法』

男『……え?』

494: 2011/06/16(木) 06:22:15.25
親友『実は、すごい簡単な事なんだ。なんで、みんな知らないのってぐらい』

男『教えてくれよっ』

親友『仕方ないなぁ。本当は誰にも言いたくないんだけどな』

親友『……お前だけは特別だ』

男『さすがっ!』

親友『方法は簡単さ。よく聞いとけよ?』

親友『それは……』




親友『──敗者の役をやめてしまえば良いっ!』




495: 2011/06/16(木) 06:22:48.53
男『……は?』

男『どういう意味だ……?』

親友『社会の構図に囚われているから』

親友『敗者だとか勝者だとか余計なことを考えるんだ』

親友『だから、そこから抜け出したい時には』

親友『「自分は敗者なんかじゃない」』

親友『「犠牲がなんだっ。貧乏くじがなんだっ」』

親友「そうやって、自分に言い聞かせれば良い』

親友『それすれば次第に……」

親友『そんなちっぽけな枠組みに囚われないようになるさ』

男『……ちょ、ちょっと待てよ』

親友『ん? なんか不満か?』

男『不満も何も……』

496: 2011/06/16(木) 06:23:31.20
男『そんなの根本的な解決になってないぞ?』

親友『……そうか?』

男『何だよ、何が簡単な方法だ』

男『聞いて損したなぁ……』

親友『……なんだよ……』

親友『せっかく、教えてやったのに……その態度……』

親友『……ちぇっ』

親友『でも、いい案だと思うんだけどなぁ……』

親友『……んー』

……………。
………。

497: 2011/06/16(木) 06:24:01.48
男「……あ……」

妹「……すぅ……すぅ……」

妹「……ん……」

男「……うそ、だろ……?」

妹「…………」

男「……だって……」

妹「……あれ?」

妹「『兄さん』……?」

男「…………」

男「……あ、ああ……」

男「──妹っ!」

498: 2011/06/16(木) 06:24:40.05
ぎゅっ!

妹「ちょ、ちょっと、急に、一体……」

妹「……ま、前にも言ったじゃないですかっ」

妹「抱きつく時は……事前に……って」

妹「……え……?」

男「……思い出したんだな?」

妹「わたし……」

男「全部、思い出したんだなっ?」

妹「……ああ」

妹「お兄ちゃんが……お父さんに押されて……」

妹「階段から落ちて……」

妹「……それで、それで、わたし……」

……ぎゅっ!

男「いいんだ……いいんだ……」

499: 2011/06/16(木) 06:25:42.15
男「もう、頑張らなくていいんだよ……」

妹「に、兄さん……兄さんっ……」

男「一人で耐える必要はない……」

男「……俺が……俺が背負ってやるから……」

男「お前と一緒に……これからずっと……」

妹「……っ」

妹「…………」

妹「……うぅ……」

妹「…うぁぁぁぁっ……」

男「…………」

……………。

500: 2011/06/16(木) 06:27:40.91
妹「……ん……」

妹「……兄さん?」

男「もう、泣くのはいいのか?」

妹「うん……また泣きたくなったら……」

妹「その時はわたしと一緒に、泣いてね……?」

男「ああ……もちろんだ」

妹「……全部、思い出したよ」

妹「昔の事も……わたしが死のうと思った時のことも」

妹「……そして……」

男「ん?」

妹「指輪……ありがと」

男「……あ……」

男「お、お前……まさか……」

妹「うん……本当に、兄さん、ごめんね……」

妹「この六年間……ずっと、わたしのためだけに……」

妹「ありがとう……本当にありがと……」

501: 2011/06/16(木) 06:28:24.29
男「……いいんだっ……そんなことは、もうっ……」

妹「それに、さっきの返事も言ってなかった」

妹「……あんな嬉しい告白してくれたのに……」

男「それは……」

妹「だから……兄さんにはもう気付かれてると思うけど」

妹「……はっかり言います」

妹「わたしも、兄さんのことが、大好きでした」

妹「ずっと昔から……そして、今も……」

妹「記憶を失ってからも……それだけは、忘れなかったよ……」

妹「わたしも、兄さんが本当に好きだからっ……」

男「……ああ……」

502: 2011/06/16(木) 06:29:22.30
妹「でもね、兄さん」

男「どうした……?」

妹「最後に……一つ言わせて」

男「ん?」

妹「六年間……ずっと『お兄ちゃん』の代わりをしてくれたけど」

妹「……もう、それはしなくていいですから……」

男「…………」

503: 2011/06/16(木) 06:30:11.23
妹「……だから、これからは……」

妹「昔みたいに……今のように……」

妹「……ずっと……」











──『兄さん』って、
    呼ばせて下さい……──











   -The End-

505: 2011/06/16(木) 06:31:06.72
本当に、お疲れさまでした。
これにて終了。また今度。

509: 2011/06/16(木) 06:55:16.46
お疲れ様でした、そしておやすなさい

引用元: 妹「兄さんって呼ばせて下さい」