1: 2022/09/18(日) 00:40:59.12 ID:zBgHanJE.net
Day1

彼方「朝香さん、ここ座ってもいい?」

果林「……あら、珍しいこともあるのね。もちろんよ」

学内のカフェでひとり物思いに耽っている同級生。机に置かれた肘の前にはブラックコーヒーが湯気を立てて主人に存在をアピールしている。
それを敢えて無視するように、まるで相手を焦らしているように、私が知る限りずっと、彼女は窓の外を眺めていた。

彼方「何してたの?」

果林「見て分からないかしら」

彼方「うーん……私が来るのを待っていた、とか」

果林「私を名字で呼ぶような人を?」

彼方「やっぱり違う?」

果林「違うわね」

彼方「ちぇ……」

3: 2022/09/18(日) 00:41:52.71 ID:zBgHanJE.net
果林「あなたこそ、何をしているの?」

彼方「見て分からない?」

果林「フレンチトーストを食べているわね」

鏡になった窓越しの視線を手元に感じる。ぼんやりとしか見えなかったであろう彼女の出した解答を、私は添削する。

彼方「それと心温まるカフェオレもだよ?」

果林「私が言っているのはそういうことじゃないわ。……あなたは放課後にカフェに来るような人間じゃないでしょう?」

彼方「なんてこと言うんだい朝香さん、私だってカフェに来ることもあるよ?」

果林「…………信じられないわね」

そう言うと、彼女はやっと私の方に向き直って、品定めするかのような視線を絶賛憤慨中の私の全身に注いだ。

果林「……あなた、本当に近江彼方さん?」

彼方「そうだけど……」

品定めというよりも、むしろ真偽の鑑定と言った方が正確だったらしい。当たらずとも遠からずだろうか。

5: 2022/09/18(日) 00:43:38.03 ID:zBgHanJE.net
果林「双子の妹とかではないのかしら」

彼方「双子なんていないよー。ふたつ下の妹はいるけど~」

果林「そう」

彼方「あー!興味ないって顔だなー?遥ちゃんはめっちゃくちゃかわいいんだぞー!」

果林「……そうなのね。ごめんなさい」

驚きで持ち上がった目尻と、呆気に取られたような彼女の表情を私は初めて見た。付言すれば、ある程度の感情を表に見せた場面自体、初めて出くわした。
その興奮に反比例して、私は落ち着きを取り戻す。

彼方「ううん、私こそ大声出してごめんね」

頬を撫でる白い蒸気の感触に目を落とすと、色も香りも、味も優しいカフェオレ。一口飲んで気を取り直す。
カップを置いて目線を戻すと、こちらを向いていた視線もまた横を向いてしまう。

6: 2022/09/18(日) 00:44:33.53 ID:zBgHanJE.net
果林「あなた、今日は昼寝しないの?」

彼方「どこで?」

果林「知らないけれど……。いつもはそうしているじゃない」

彼方「そうだねえ……でも今日は……」

そこで初めて目の前の同級生と同じ方向を向く。透明な窓には、無彩色の水玉模様が描かれている。街がカラフルな傘で彩られる季節だ。外の池は雨粒と手を取って瞬く間のダンスを繰り返している。彼女がずっと眺めていたものだけど、このように表現してしまうといささか滑稽だ。

果林「ああ、なるほどね。そういえば屋内で昼寝しているところはあまり見ないわね」

彼方「イヤになっちゃうよー……早く明けてほしいなあー……」

果林「それは同感ね。夏は夏で暑いけれど……」

彼方「そうだねえ……」

すると、朝香さんは若干いぶかしげな様子を見せて応じた。

果林「……あなた、まさか真夏になっても外で昼寝するつもりなの?」

彼方「そうだよ?」

7: 2022/09/18(日) 00:46:03.28 ID:zBgHanJE.net
果林「日焼けするわよ」

彼方「うーん……モデル直伝の日焼け防止法とかないの?」

果林「そんな都合のいい物があれば、私が知りたいわね」

近年の異常気象とかを考えれば、いや、そうでなくても大多数の人間はまず熱中症の心配をすると思うのだけれど、真っ先に日焼けの心配をするというのはいかにもモデルらしい。
その手の雑誌には明るくないけど、読者モデルだと聞いたことがある。いや、まだ目指しているだけだっただろうか。

彼方「ねえ、コーヒー冷めちゃうよ?」

夏の暑さの心配よりも、まずは身近なホットコーヒーの熱さの心配が先だと思う。彼女の眉がぴくと跳ねた。

果林「…………そうね」

また正面を向いてカップを手に取る。持ち手に這わせる指はさすがにモデルだと嘆息する優美さだ。
その重力を振り切って、私は視線をカップの目的地に先回りさせる。中学を卒業してそう間もない人間のものとは思えない程につややかな唇は、蠱惑的ですらあった。

9: 2022/09/18(日) 00:48:47.93 ID:zBgHanJE.net
果林「……どうしたの?落ち着かないのだけれど……」

彼方「ああ、ごめんねー。朝香さんが綺麗だったからつい……」

さすがに気まずくなって目を逸らす。一歩間違えれば毒になりそうな美しさ。慣れるまでは鏡越しに見つめるくらいがちょうどいい。

果林「そういうこと。だったらもっと眺めていてもいいけど……」

カップを置いた手は私の方へ向かってくる。相手はただの同級生なのに、思わず息をのむことしか出来ない。吐き出すことを、許してはくれない。

果林「そっぽ向いたのは、私に魅了されちゃったのかしら?」

顎にかけられた2、3本の指がいとも簡単に私を彼女の方へ向かせる。いつの間にか顔ごと迫ってきていた彼女は、高校一年生であるはずなのに、「魅了」なんて年に合わない言葉と溶け合って、一心同体になっていた。
その間にも私の息は詰まり、心臓の鼓動は、早鐘に変わる。

彼方「っ……」

11: 2022/09/18(日) 00:51:00.96 ID:zBgHanJE.net
果林「……うふふっ。ごめんなさいね」

彼女の身体が座席に再び収まったのを見て、解放された、という表現がふさわしいほど私は安堵する。それでもまだ目を直視することは出来なくて、手元のフレンチトーストを取り込むことに専念する。

果林「あら、拗ねちゃったの?子どもっぽいのね」

彼方「拗ねてない。私あなたと同級生だもん」

果林「そう?いつもと口調が全然違うわよ?」

その通りだ。ついでに言えば声も恐ろしく低い。この声を聞いても私を私と認識してくれるのは、おそらく家族だけだ。

彼方「そんなことない。私のこと知らないだけでしょ」

果林「……そうね。じゃあ、教えてくれるかしら?」

彼方「……いいけど」

思わずそう言ってしまったけれど、このままでは丸裸にされそうだ。それを許させる魔力とでもいうべき何かを、彼女は振りまいている。

12: 2022/09/18(日) 00:53:39.97 ID:zBgHanJE.net
果林「あなた、普段は『私』なんて使ってないじゃない。今日はどうしたの?」

彼方「今日はちょっとよそ行きなの。朝香さんとは親しくないから」

敢えて「親しく」のところにアクセントを置いて言い放つ。相手はそれを気にも留めずに続けてくる。

果林「朝香さん、なんて他人行儀な呼び方も、されると思っていなかったわ」

彼方「初めて話すんだから、別におかしくないでしょ?」

フレンチトーストをかきこみながら答える。それを聞いた彼女は、にっこりと微笑む。妹が見せてくれる純真なそれとは違って、本当に微笑んでいるのは仮面だ。それは、奥に透けて見える本人の嗜虐的な表情と相まって、朝香果林という人間を構成する骨子の一部を垣間見せる。
しかし、それすらもむしろ上品で端麗で、しかも全く自然だ。このことこそが、朝香果林がデビューもしていないただの学生なのに、まるでプロのモデルのようである所以に思える。

果林「ところで、どうして親しくもない私に話しかけてきたのかしら。急ぎの用がある風では……ないわよね?」

彼方「……うっ……」

飄々としながらも同じ単語に力を込めて言い返される。相手は私の弱点を分かっていてそこを的確に突いている。確かにこれと言った用事があるわけではない。

14: 2022/09/18(日) 00:56:09.91 ID:zBgHanJE.net
果林「そうねえ……私のファン、っていうわけはないわよね。握手やサインを求める風でも無いし……」

彼方「いつもそんなこと言われてるの?」

果林「ええ、まだモデルとしてデビューしたわけではないけれど、私のファンの子たちは何人もいてくれるのよ」

やはりまだモデルではなかったらしい。もっとも、この学園の中に限って言えば彼女は既にプロのモデルと言っても過言ではないと思う。ファン同士でなければしないような会話が、朝香果林の名と共に漏れ聞こえてきたことは一度や二度ではない。
「ファンの子たち」といっても、相手は同級生か年上かのはず。あるいは中等部にまで噂は届いているのか。

果林「…………」

早々に黙り込んでしまう朝香果林。どうやら彼女は周りの人間をファンかそれ以外かとしか認識していないらしい。

果林「あら、何か失礼なこと考えてる様子ね」

彼方「そんなことないよ」

果林「…………」

果林「やっぱり、あなたの方から白状して貰いましょうか……」

そう言うと、彼女はまたもや私の方に身を乗り出してくる。今度は両手を従えて、さっきみたいに生ぬるいやり方はしないという様子で。

15: 2022/09/18(日) 00:59:24.34 ID:zBgHanJE.net
サスペンスで、壁際に追い詰められた被害者が手近な鈍器を探すように、彼女に言い返せる武器を求めて、机の上を目まぐるしく見回す。その間も無言の圧力は続いている。
私の側には柔和なブラウンのカフェオレ、彼女の側には他の何者にも染まらぬ漆黒のコーヒー。格の違いは歴然だった。

彼方「…………うう……」

残った分量の差までもが、私たちの力の差を表しているようだった。残量の少ない氏にかけのカフェオレと、全く痛手を負っていないコーヒー。倒れていった私の兵たちは、せめてもの生きた証をカップの白い壁に残している。

彼方「……ん?」

よく見ると、彼女のコーヒーカップには、減った跡がない。コーヒーを飲むと必ず気になる、水平に伸びるかつての残量の印。
しかしおかしい、彼女は確かにさきほどカップに口を付けたはずだ。もしかして、飲む振りをしただけで、実際には飲まなかったのだろうか。

彼方「もしかして……」

16: 2022/09/18(日) 01:01:02.30 ID:zBgHanJE.net
果林「どうかした?」

私の想像が事実であれば、それを突きつけるのは残酷だろうか。
いや、先刻までに私が受けた攻撃を考えれば、その程度なんということはないはず。

彼方「朝香さんって、猫舌?」

果林「……っ!」

途端に口を噤む朝香さん。どうやら正解らしい。ここぞとばかりに追撃をかける。

彼方「そっかー……、だからずっと放置してたんだねー」

果林「そっ、そんなことないわよっ」

彼方「でもコーヒー、減ってないよ?」

果林「ちょっと飲むのを忘れてただけよっ」

驚いた。あの朝香果林が猫舌でコーヒーが冷めるまで待っていたなんて。年相応にかわいい一面もあるものだ。

17: 2022/09/18(日) 01:02:56.40 ID:zBgHanJE.net
フレンチトーストの最後の一切れを飲み込んだ私は、カフェオレの甘さでフレンチトーストの甘さを上書きしながら、いとまを告げる。

彼方「それじゃあ、また明日ね。朝香さん」

果林「ちょっ……あなたねえっ」

彼方「あ、そうそう。猫舌って、飲み方の問題なんだよ?熱くても飲める方法、また教えてあげるね」

そう言い置いてカフェを去る。フードコート方式で先払いだから、そのまま走って出ていっても問題はない。食器は彼女に片付けて貰おう。

果林「結局何しに来たのよっ!」

あまり大声を出して目立ちたくないらしい朝香果林は、それ以上追いかけてこなかった。

彼方「……引き分けってところかなあ……」

Day1 End

19: 2022/09/18(日) 01:07:13.28 ID:zBgHanJE.net
Day2 Morning

朝香果林は、いつもの様に授業開始の5分程前に教室に入ってきた。周りの数名が一斉に同じ方を向くので、ドアの方を見なくてもそうなのだと分かる。
昨日の今日で気まずい思いが、少なくともこちらにはあるけれど、頭を机に預けて真横の世界を眺めている私は、目を閉じれば不自然に思われることなく全てを遮断できる。

果林「おはよう」

誰にともなく朝香さんが挨拶する声と、それに対する若干黄色みがかった応答たち。教室の前方から椅子を引く音が聞こえたところで、頬を浮かせて代わりに顎を机に付ける。これでいくらでも彼女を観察出来る。
私の席は窓から2列目の最後尾。視界の左側には昨日のカフェのそれよりずっと小さく、ありふれた窓を通って梅雨時に似合わない陽射しが降り注いでいる。窓のすぐ隣が昼寝には最適なので、左隣の生徒を羨ましく思うのはいつものことだ。まだ席替えは行われていない。

彼方「……うーむ……」

目下の問題は、いかに朝香さんのペースに飲まれずに彼女と言葉を交わすか。頭に紙袋でも被っていくか、むしろ彼女のペースの方を乱してしまうか……。
朝香さんは見た目に似合わず猫舌だった。ああいうかわいい一面が他にも見つかって全面になるのも楽しそうだ。
私だけが知っている弱点を増やしていけば、案外こちらが優位に立つのは容易いのかもしれない。別に服従させたいわけではないのだけれど。

20: 2022/09/18(日) 01:09:48.70 ID:zBgHanJE.net
そういえば朝香さんはいつも授業が始まるギリギリにやってくる。遅刻は今のところ見たことがないけれど、額にうっすら汗が浮かんでいたこともあったような気がする。
彼女の家は遠いのだろうか。……いや、確か寮暮らしだと誰かが話していた。家と反対方向なこともあって私は行ったことがないけれど、30分もあれば登校できる距離のはずだ。

「はーい、席についてくださーい」

いつの間にか教卓に立っていた英語教師が軽く声を張る。気づけばチャイムも既に鳴り終わるところだった。

仮にも特待生なので普段の勉強は真面目にしなければいけない。けど、その分しっかりと予習しているのでむしろ授業中はあまり気を張らなくても大丈夫だと最近分かってきた。入学して2ヶ月も経てばおおよそペースはつかめる。
特に今日の予習はいつにもましてみっちりやってきた。どの問題で当てられても全て答えられる自信がある。だから授業中に朝香さんを観察していても何も問題ないはず。
懸念事項があるとすれば、当たる順番が完全にランダムなのでいつ当たるか予測出来ないこと。どの問題が当たっても大丈夫だけど、どの問題なのか分からなければ答えようがない。

「今日終わったところまでをテスト範囲にするので、ちゃんと聞いておいてねー」

来週はテストだ。高校のテストはまだ受けたことがないので不安ではあるけど、むしろ一週間ずっとテストに使うという驚きの方が大きかった。早く帰れる分昼寝できるのも楽しみ。
好き勝手に会話する訳でもない授業中に見つかることは限られているだろうけど、あの美貌に目を慣らしておかなければ作戦を練っても簡単にねじ伏せられてしまうので、早速彼女の観察に入る。

21: 2022/09/18(日) 01:10:52.44 ID:zBgHanJE.net
やはりギリギリにやって来たからだろうか、朝香さんは少し慌てた雰囲気で折りたたみの化粧鏡を取り出して机に置いた。頭に隠れて何を持っているのかは見えなくても、化粧を直しているのは分かる。
無粋なピーピングトムから全てを覆い隠す藍色の髪はたまの晴れ間に差し込む光に照らされて、その色の深さにもかかわらず、輝きとも言えるほどの艶を放っている。

「せんせー!テストってどういう問題が出るんですかー?」

授業に入るかと思ったらクラスメイトから質問が飛ぶ。割と器用そうで、それなりにそつなく問題に答える生徒だ。彼女は恐らくテスト勉強よりもテスト「対策」に心血を注ぐタイプだろう。

「テストは過去問配るのでタブレット見てくださーい」

「はーい」

過去問。受験ならともかく、ただの定期テストでは聞き慣れない言葉だ。大学なら卒業のための生命線だとか聞くけれど。
私が教師の言葉を受けてちらっとタブレットに移した視線を元に戻すと、さすがの手際というべきか、朝香さんはもう化粧直しを終えていた。直さなくても十分きれいだと思うのは私だけだろうか。

果林「…………」

彼方「……!?」

気づくと鏡越しに朝香さんが私の方を見ている。スタンド付きの鏡はいつの間にかその手に持たれていた。最後に右目でウィンクひとつ。

22: 2022/09/18(日) 01:12:16.49 ID:zBgHanJE.net
果林「♪」

目から音符が飛び出すのが見えるほど軽快な、カメラのシャッターが切られるかのような見事なウィンク。やられた。

彼方「……むむ……」

後ろからこっそり観察していたことすら見抜かれているとは……やはり侮れない。ドラマや小説に出てくる完全無欠の人物のようなことをされるなんて。猫舌だけど。

「じゃあ始めます。予習ページ開いてくださーい」

今度こそ本当に授業が始まる。最初の1人が当てられて、問題番号を確認したところで観察に戻る。実際に授業が始まっていれば流石にそうそうこちらの様子は窺えないだろう。
朝香さんと実際に話したのは昨日が初めてだけど、これまでの2ヶ月間同じクラスで過ごしていて分かったのは、どうにも勉強が苦手らしいこと。たぶんクラスの全員がそう認識している。特に文系科目が苦手らしい。

23: 2022/09/18(日) 01:14:38.10 ID:zBgHanJE.net
「じゃあこれを朝香さん」

果林「……は、はいっ……」

20分くらいしたところで、私よりも先に朝香さんが当てられた。案の定、今どの問題をやっているか把握していなかったので私もドキリとする。けれど、今の返事から垣間見えた彼女の焦りはそんなレベルではなかったらしい。

果林「In the morning……」

と、やはり言葉に詰まる朝香果林。極々簡単な部分しか答えられていないけれど、それでもなぜか発音だけは完璧なので妙に決まっている。まるで朗読劇でこの先の部分を読まずに溜めているのだとでもいうかのよう。発音の良さも英語歌詞の曲を歌わせたくなるくらいだ。

「難しい?」

果林「はい、すみません……」

しかし教師は非情だった。彼女の心からの演技はあえなく打ち切られてしまった。

「しっかり復習しといてねー。分からなかったら質問に来るように…………じゃあ近江さん」

24: 2022/09/18(日) 01:16:51.46 ID:zBgHanJE.net
妙なタイミングで当たってしまった。けど問題番号が分かったのは好都合だ。

彼方「はい。……In the morning, to avoid seeing the friend I really do not want to see, I pretended to have a cramp in my leg.……です。」

「はい。do notを敢えて短縮しないことで本当に会いたくないのだと強調するところがポイントですね。文句なしの模範解答です」

彼方「ありがとうございます」

一文としては長いものの、実際にはほぼ中学校レベルの文法で解答できる問いである。……つまり朝香さんは、やはりそれなりに英語が苦手のようだ。
件の彼女は私の方を見ている。その表情は驚きの中に若干の悔しさが混じった様子。昨日から今までの様々な感情を込めて、私も彼女にウィンクを返す。口元も目元も、少し意地悪く緩んでいたのではないだろうか。

彼方「♪」

果林「…………っ……」

結構長くこちらを見つめたまま、悔しさが驚きを塗りつぶしたあたりで朝香さんは私を振り切るように前を向き直った。口は乱雑に引き結ばれていたし、目も揺れ動いていたし、思ったよりも効いたらしい。

……これは使えそうだ。

Day2 Morning End

25: 2022/09/18(日) 01:18:43.03 ID:zBgHanJE.net
Day2 Noon

昼休みになったところで、アップロードされていた英語のテストの過去問に軽く目を通した。さすがに全く勉強しないわけにはいかないけど、ちゃんと準備すれば9割以上取れそうで安心する。
ちなみに件の器用な生徒は午前中の全ての科目で過去問を勝ち取っていた。言わなくてもくれたのではないだろうか。
他の科目は後で確認することにして、タブレットの画面を切る。書き込みやすいように寝かせていた画面が真っ暗になって映したのは、天井ではなく人の目だった。

彼方「わっ!」

果林「なによいきなり。失礼ね」

彼方「いきなりはこっちのセリフだよ!脅かさないでよ!」

果林「……ごめんなさい」

初めて見たしおらしい表情。これまで自信が服を着て歩いているようなところしか見たことがなかったけれど、今日は随分弱気な印象だ。

果林「……その……」

彼方「?……どうしたの?」

果林「お願いが……あるんだけど」

彼方「…………おやおや」

26: 2022/09/18(日) 01:21:54.81 ID:zBgHanJE.net
彼方「なんだい?朝香さんが私にお願いなんて」

果林「…………その……」

あまりにも言いづらそうにする朝香さん。まあ大体想像は付くけど。

果林「……ちょっとここじゃ話しづらいわ。人の少ないところでお昼食べない?」

彼方「えー……私、お昼休みはお弁当食べたらすやぴしたいんだけど……」

果林「すやぴ?」

彼方「おねんねすることだよ?」

私と遥ちゃんしか使っていない言葉だからさすがに通じる訳がない。遥ちゃん曰く寝言でそう言っているらしい。

果林「ああ、いつものあれね。……でもそれなら外の方がいいんじゃない?せっかく今日は晴れているんだし……」

彼方「なに言ってるの朝香さん。お昼休みにそんなことしたら授業すっぽかしちゃうでしょ?」

果林「それは自分で起きられるように努力しなさいよ」

少し拗ね気味に言ってみても、甘い答えは得られなかった。

27: 2022/09/18(日) 01:24:13.25 ID:zBgHanJE.net
彼方「そういうわけだからだーめ。教室で食べるの」

果林「……なら、私が起こしてあげるわ。それなら外の方がいいでしょう?」

彼方「うーん……朝香さんに私が起こせるかなあ……」

普段の遥ちゃんの苦労話を聞くに、私はそう簡単に起こせる人間ではないらしい。13年間共に生きている遥ちゃんが言うのだから間違いはない。

果林「…………それは私を馬鹿にしてるのかしら」

私の返答を聞いた朝香さんは怒り気味にそう言った。何やら誤解されている。

彼方「違う違う。私はなかなか起きないよってことだよ。よく午後の授業の先生に起こされてるでしょ?」

果林「あれくらいで起きるじゃないの」

彼方「教室は騒がしいからねー……静かなお外で、お日さまのお布団もついてたらそうはいかないよー…………」

冬ならいざしらず、春ごろのお日さまは最高の布団だ。この上なく軽くて、暖かくて、決して剥がされない天然の寝具。春は終わりかけているけれど。

28: 2022/09/18(日) 01:26:22.12 ID:zBgHanJE.net
果林「…………いわ」

彼方「ん?」

果林「いいわ。私があなたを絶対に起こしてあげる。それでいいでしょう?」

闘争心むき出しの表情でそう告げる朝香果林。彼女が本当に戦うべき相手は他にいると思うけど、そこまで言われたら仕方ない。

彼方「……じゃあ、お願いするよー……朝香さんはお弁当?」

果林「自炊してるわけじゃないけど、お昼は持ってきてるわ」

彼方「じゃあ彼方ちゃんおすすめのお昼寝スポットへ行こうか~」

朝香さんが本当に私を起こせるか一抹の不安を感じつつも、連れ立って教室を出る。万が一にも授業に遅刻する訳にはいかないので、釘を刺しておく。

彼方「もし私が起きなかったら朝香さんが教室まで私をおんぶしてってね?」

果林「はあ!?」

彼方「絶対に私を起こしてくれるんでしょ?起こせなかったらそれくらいして欲しいな」

果林「あなたねえ…………」

呆れたような表情を無視して、最高のお昼寝スポットへ向かう歩を進める。自然と早足になった私を朝香さんが追いかけてくる。

29: 2022/09/18(日) 01:29:16.81 ID:zBgHanJE.net
果林「……ねえ、こっちで合ってるの?この先って学食でしょう?さすがにふたりとも持ち込みで、なんて出来ないわよ?」

さすがに何も頼まずにカフェで昼寝するほど非常識じゃない。それにカフェで出て来るのはお日さまのお布団ではなくエアコンの風だ。それはそれで気持ちいいけど、やるのは夏や冬でいい。

彼方「お昼寝スポット、って言ったでしょ?学食じゃないよ」

果林「そうは言っても……」

彼方「朝香さん、学食の隣に草むらがあるの知らない?」

果林「え?そんなのあったかしら……」

彼方「あるよ。そこが最高のお昼寝スポットなんだ。……ほら、あそこだよ」

そうして指差した方には青々とした草が広がる地面と、カフェテラスの大きな窓ガラス、そして何より重要な、私たちを優しく照らす日の光。食事してよし、お昼寝してよしの、この学園で一番お気に入りのスポットだ。
でも、放課後のお昼寝はともかく、ここで食事をするのは今日が初めてだ。そこは朝香さんに感謝しよう。

彼方「ありがとうね、朝香さん」

果林「どうしたの?いきなり」

彼方「私、ここでお昼食べるの初めてなんだ。起こしてくれるって約束してくれた朝香さんのおかげだよ」

横に立つ朝香さんは、不安なような呆れたような、どっちつかずの様子で私を見下ろしていた。まさか見下されてはいないと思う。

30: 2022/09/18(日) 01:31:34.21 ID:zBgHanJE.net
昼休みもそんなに長くはない。すやぴの時間を確保するため、お弁当を取り出して早速本題に入る。

彼方「それで、朝香さんは私に何のお願いをしたいのかな?」

果林「それは……ええと……」

彼方「もー、言わないなら聞かずにすやぴするぞ?」

朝香果林らしくもなく、歯切れ悪い言葉しか出てこない。ファンの子たちに見せてあげたら新たな人気が出ると思う。

果林「その…………スト……」

彼方「ストライキしたいの?」

果林「ちがっ……テストよ!」

少しからかってみたら、勢いに乗せられて大声で叫んだ。予想通りの回答をありがとう。その言葉を私は待っていたよ。

彼方「テスト?テストがどうしたの?」

などととぼけてのたまってみる。彼女は赤くなっていた顔をさらに染めて答える。

果林「……もうっ!テスト勉強に付き合って欲しいのよ!」

32: 2022/09/18(日) 01:34:05.62 ID:zBgHanJE.net
彼方「うん、いいよ」

果林「えっ!?」

あまりにもあっさりした返事に戸惑う様子の朝香さん。

果林「いいの?ほんとうに?」

彼方「だからそう言ってるでしょ?」

果林「そう……ありがとう」

彼方「うーん…………」

内心ではこの展開は予期していたので驚きは無いけど、感慨はある。視線に乗せて送りつけると微妙な反応が返ってきた。

果林「なによ」

彼方「昨日は、『私に魅了されちゃった?』とか言ってた朝香さんが、こうなるとはねえ……」

果林「うるさいわよっ」

33: 2022/09/18(日) 01:37:16.75 ID:zBgHanJE.net
そこからは普通に食事を取り始めた。会話しながらも2割程減っている私のお弁当を見て、朝香さんが嘆息を漏らす。弁当を見た反応としてふさわしいのだろうか、それは。

彼方「なに?」

果林「いえ、さすがね。あなた調理専攻志望なんでしょう?」

彼方「そうだけど、知ってたの?」

果林「ええ。でも、知らなかったとしてもそのお弁当を見れば一目で分かるわよ」

…………そんなによいものだろうか。もちろん美味しいとは思っているけど、私の口にするものはほとんど私が作っているので、自分で食べている分には相対的な良さは分からない。
遥ちゃんは私の料理を世界一美味しいと言ってくれるけど、それはもちろん家族の作ったものだからという前提付きだ。

彼方「そこまで褒められるものかな……?」

果林「あら、自信が無いの?」

このセリフは朝香果林にとてもよく似合う。ところが、それとセットで思い出される魅惑的で挑発的な色彩は今、朝香さんの表面のどこにも無かった。私が言葉に詰まっていると、彼女はすらすらと次の言葉を出してきた。

果林「……ねえ、そのおかず、どれか一品いただける?」

彼方「え?いいけど……」

35: 2022/09/18(日) 01:40:15.41 ID:zBgHanJE.net
見下ろした手元で目線が彷徨う。モデル志望でストイックに食事を管理している朝香さんにあげるのに適したもの……。

果林「どれでもいいわよ。本当に」

彼方「本当?……じゃあ、この出汁巻き卵を……」

お弁当箱を彼女の方に差し出す。しかし手は伸びてこなかった。

果林「……ああ、ごめんなさい。私、お昼は手で食べられる物しか食べないから箸もフォークも無いの」

彼方「そうなんだ……じゃあ……」

この場に箸はひとつしかない。私がどうしようか迷っているところに朝香さんは追い打ちをかけてくる。

果林「あなたが、食べさせてくれないかしら?」

彼方「…………ぅえっ!?」

果林「どうしたの?」

彼方「いやっ、でもそれはっ」

果林「ほら、早くしないとお昼休みが終わっちゃうわよ?」

それは物を要求する側の言葉ではないと思う。今か今かと圧をかける朝香さんの身体が、昨日のように迫ってくる。でも今日は間に机なんてものはなくて、彼女は私のすぐ右側に座っている。

37: 2022/09/18(日) 01:45:13.01 ID:zBgHanJE.net
彼方「あ、あげないっ!」

果林「あら、自信が無いの?」

先刻と一言一句違わないそのセリフは、今度こそいわゆる朝香果林の風格そのものといった様相をもって私の前に立ちはだかる。

果林「それはあなたの料理に?それとも…………あなたの理性に?」

彼方「…………ううっ……」

果林「ほら、どうしたのかしら」

彼方「どっちでもないっ!」

果林「それなら、食べさせてくれるわよね?」

もはや退路が見つからない。いや、もしかすると初めから無かったのだろうか。さっき教室で、朝香果林の誘いに応じた瞬間から。
朝香果林、急に緊張を解いて、普段のイメージからは考えられないような、お茶目にかわいくねだるような顔を作る。最後にまたもやウィンクなんかして。

果林「……ねっ?」

38: 2022/09/18(日) 01:49:10.59 ID:zBgHanJE.net
彼方「……はあ、分かったよ」

果林「それじゃあ、食べさせてちょうだいっ」

昨日はとても見せなかった年相応の、いや、若干幼いほどの笑顔で言う朝香さん。少し甘く見すぎていたようだ。

彼方「はい」

お弁当箱の中の出汁巻き卵を一切れつまんで、持ち上げる。朝香さんの口元を見るとまたペースを崩されそうだったので、敢えて朝香さんを視界の端の方において、かつ細目気味に、食べさせるのに最低限必要な程度しか見ないことにした。
横からは若干不満そうな空気が伝わって来たけど、それはすぐに霧散した。

果林「…………おいしいっ!」

彼方「ほんと?」

その言葉に、思わず朝香さんを真正面からじっと見る。普段の憧れの対象としての輝きとは全く別の、ただ嬉しいといった輝きを湛えていた。

果林「ええ!これ本当に美味しいわ!……ねえ、他のものももらっていいかしらっ?」

彼方「ええ!?い、いいけど……」

結局、私のお弁当のおかずを全種類試すまでその言葉は続いた。私のお弁当なのにね。

39: 2022/09/18(日) 01:52:16.56 ID:zBgHanJE.net
果林「……こんなに美味しいお料理、久しぶりに食べたわ。ありがとう、近江さん」

彼方「どういたしまして。……でもよかったの?食事制限してるんだよね?」

果林「食事制限っていうよりも、管理ね。普段なら絶対こんな風に衝動的に食べることはないんだけど……」

それはつまり。私の料理がそこまで美味しかった、と言いたいのだろうか。
朝香さんは、ゆっくりと私に語りかけてくる。

果林「美味しいものを見て、食べたいと思うことはもちろんあるわ。でも、本当に食べることは全然無いの」

果林「この私が一目見て食べたいと思って、本当に食べたのよ?自信持っていいわ。……見た目も味も、一級品よ」

彼方「……ありがとう」

果林「……膝枕してあげるわ。このまま横になったら?」

彼方「……じゃあ、お願い」

40: 2022/09/18(日) 01:55:38.56 ID:zBgHanJE.net
支えを失って、不安定で不安な頭を、朝香さんの身体が受け止めてくれて緊張が解ける。
丁度今の彼女と同じように、嘘偽り無く、優しくて柔らかい感触だった。

果林「ねえ、昨日はどうして声をかけてきたの?」

彼方「んー……ひみつ」

本当は秘密にする程のことでもない。これはただの照れ隠しだ。

果林「そう。…………私は、あなたと仲良くなりたかったわ」

いきなり予想外の言葉が降ってくる。朝香さんが、どうして私と。

彼方「……ええ?それは嘘でしょ?」

果林「本当よ?」

彼方「…………どうして?」

その答えを聞きたいけれど、この膝の上で一秒でも長く眠りたい気持ちには抗えそうにない。

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果林「さあ、どうしてかしらね?」

彼方「……ずるい」

果林「ふふっ……10分前には起こすわね?」

彼方「……うん……ありがとう……」

果林「……………………」

果林「おやすみ……なんて、30分もないのにおかしいかしらね」

Day2 Noon End

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引用元: 彼方「Diary of Karin」