981: 2018/06/20(水) 21:13:28.73 ID:5Xhr7xCLo

「ねえ……起きて」


 静まり返った部屋に、一人のアイドルの声が響く。
 その声を聞いて、霞がかっていた意識がハッキリとしてきた。
 うっすらとだが、ノックの音が聞こえていた……ような気もする。
 私は、身をよじって声のする方へと、視線を向けた。


「起きて、Pチャン」


 旅館に備え付けられていた浴衣ではなく、Tシャツとハーフパンツ。
 そして、普段では見ることのない、眼鏡をかけている彼女の姿が目に映った。
 薄闇の中でも、視界がクリアーになっていく。
 だが、今の状況を正しく理解出来る程には、頭が回らない。


「……Pチャン」


 彼女は、布団に横たわっている私の傍に座り、胸に手を置いてきた。
 明かりの灯った廊下から歩いてきたからか、この暗闇に彼女の視界はまだ慣れていなのだろう。
 浴衣のはだけている、肌が露出している場所に、
同じ年頃の少女よりも少し皮膚が固くなっている指先の感触を感じる。
 だが、それは彼女がアイドルとして人一倍努力している結果であり、私は――


「っ!?」


 ――などと、悠長にしている場合ではない!


「にゃっ!?」


 飛び起きた。
 それに彼女は驚いて声を上げ、置いていた手をすばやく引っ込めた。
 その手を胸に抱え込み、目を大きく開きながら、声を失っている。


「あ、あの……ここで、何を……!?」


 私も私で、彼女の指先が触れた左胸――丁度心臓の真上だった――を隠すように、
はだけていた浴衣をたくしあげ、少しでもマシになるよう、体裁を整える。
 そうは言っても、この様な状況に陥ってしまった時点で、かなりの失態だ。
 担当しているアイドル……いや、それ以前に、彼女はまだ年若い。
 そのような方に無防備な姿を晒してしまうとは……いや、年齢は関係ないか。


「え、えっと……その……お願いがあるの」


 太ももをすり合わせながら、非常に言いにくそうに、彼女は言葉を紡いだ。
 瞳は潤み、切なげなその表情は、普段の明るい彼女からは想像が出来ないものだった。
 仕事とプライベートの区別をしっかりする方だとは思っていたが、
今の姿が、彼女の素……という事なのだろうか。


「あの……ね」


 彼女は、普段の装いを脱ぎ捨て、ありのままの自分を曝け出している。
 それは、彼女が言おうとしている事が、心の底からの、願いということだろう。


 それは……一体――?


「とっ――トイレに着いて来て欲しいの!」


 その言葉を発するのに、彼女は大いに悩んだのだろう。
 だが、私は想定していたものとはまるで違う彼女の願いに、大いに安堵した。
アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(12) アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場 (電撃コミックスEX)
984: 2018/06/20(水) 21:47:22.73 ID:5Xhr7xCLo
  ・  ・  ・

「……はあ、和式……ですか」


 私達は、仕事で来た山奥にある、小さな宿に宿泊している。
 予約をとっておいたホテルはあったのだが、
ホテル側の手違いで他の旅行客の方とダブルブッキングしてしまったらしい。
 私は、交渉して譲って貰うつもりでいたのだが、
話してみたら、なんと、旅行客の方が彼女のファンだと言うのだ。


「それに……な、なんか暗いんだもん!」


 それに気を良くした彼女は、快く部屋を譲り、颯爽とホテルを後にした。
 勿論、少し離れた所で頭を抱えて後悔されたのは、言うまでもないだろう。


 そこから、他に空いているホテルを探したのだが、
どこも生憎と、空いていている部屋が……一部屋のみ。
 アイドルとプロデューサーが、同室で寝泊まりするわけにはいかないと、
一時は別々のホテルに宿泊する事も考えたのだが、何かあった時のために、却下した。


「うぅ……なんで、こんな目に……!」


 結果、二部屋だけ空きがあった、ここに宿泊する事になったのだ。
 少し……いや、かなり古びた宿だったので不安ではあったが、
夕食は非常に絶品で、小さいながらも温泉まである、良い宿です。
 部屋の窓からの景色も良く、機会があれば、個人的にまた来ようとも思える程だった。


「……早く、帰りたい……!」


 ……しかし、彼女はそうは思ってはくれなかったようだ。
 そこに、一抹の寂しさを覚えながらも、仕方ないとは思うのも、また事実。


 普段、気の強い所を見せている彼女には、怖がりな面もある。


 そして、驚いた事に、和式のトイレを使用した事が無いらしい。


「トイレくらい、座ってしたいにゃ……!」


 そんな、二つの不安要素が重なって、私に助けを求めてきたと、そういう事のようだ。
 時刻は既に、深夜二時をまわり……図らずも、丑三つ時になっている。
 朝まで我慢する気でいたらしいが、どうしても、耐えられなくなったらしい。
 そうですね……はい、夕食をかなり食べていましたから、当然の結果です。


「あの……どうぞ」


 トイレの――木製のドアの前に立ち、彼女は泣きそうな声を上げ続けている。
 迷惑にならないように、小声でぼやいているのが、彼女らしいといえばらしい。
 だが、トイレには、ドアを開けなければ入れない。
 それなのに、彼女はドアに手をかけようとしないのだ。


「……」


 促しても、彼女はトイレに入ろうとしない。
 それどころか、眼鏡越しに訴えるような眼差しでこちらを見つめてきている。


 が、


「どうぞ、中へ」


 私はそれを無視し、ギィィと鳴るドアを開け、催促した。
 申し訳ありません、私も眠いのです。

985: 2018/06/20(水) 22:12:35.26 ID:5Xhr7xCLo

「……わかったにゃ」


 私の有無を言わさぬ様子に観念したのか、彼女はトボトボとトイレに向かって歩き出した。
 恐らく、彼女にネコミミがついていたならば、それはピタリと頭にはりついていただろう。
 尻尾があったら、その毛は逆だっていたか、もしくは、垂れ下がっていたか……。


 とにかく、これで、トイレに入っていただけ、部屋に戻れ――


「でも! 戻っちゃダメだよ!?」


 ――ない……らしい。


「……わかりました」


 右手を首筋にやって、必氏な彼女の顔を見る。
 しばし、月明かりの下、無言で見つめ合う。
 廊下も照明がついてはいるのだが、その光量はほんの僅かだ。
 そして、彼女はトイレの――和式便所をキッと睨みつけ、トイレの照明ボタンを押した。


 パチン。


「…………ん?」


 少し古めかしい、黒いスイッチ式のそれが反対側に倒れたのに、照明はつかない。


 パチン……パチン、パチン。


「…………えっ? えっ?」


 パチン、パチン……パチンパチンパチンパチンッ!


「…………うそにゃ」


 ――トイレの照明が――つかない。


 電球の交換を怠っていたのか、はたまた、他に違う原因があるのか。
 何にせよ、このトイレの電気は――スポットライトは、無い。


「Pチャン……どうしよう……?」


 顔から一切の感情が抜け落ちた彼女に対し、私は、


「……頑張ってください」


 精一杯の、声援を送る。
 しかし、彼女は「それだけ?」と小さく呟いた。
 なので、


「……笑顔で、頑張ってください」


 パワーオブスマイル……笑顔の力を信じてくださいと、再度声援を送る。
 あの……それ以外、かける言葉が無いと、そう、思います。

986: 2018/06/20(水) 22:40:45.75 ID:5Xhr7xCLo
  ・  ・  ・

「……絶対、後を向いちゃダメだからね、Pチャン」


 最悪だ。
 私の眼の前には、トイレの木製のドアがある。
 暗がりの中とは言え、窓から差し込む月の光で、木目すら数えられる程の、至近距離で。
 ……そう、私は今、


「はい、決して振り返りません」


 彼女と一緒に、暗い、トイレの中に居る。
 同室になるのを避けたばかりに、こんな事態に陥ってしまうとは、思わなかった。
 こんな事になるならば、別々のホテルに宿泊すれば良かった。
 これ以上の事態など、そうそう、起こり得はしないだろうから。


「……ふぅ、んんっ……!」


 今すぐに、耳を塞ぎたい。
 だが、私の両手は、既に使用中なのだ。


「んぐっ……ふ、ん……!」


 背後でふんばっている彼女が、支えにしたいと要求して来たために。


 私の担当アイドルは、和式トイレを正しい向き――ドア側を見る形で、用を足そうとしている。
 だが、しゃがんだその体勢では、暗がりの中安定せず転んでしまうと、そう、言ってきた。
 そんな事を仰られてもと困る私とは逆に、彼女は……閃いた、と。
 不思議なもので、閃いたはずなのに、私は視界がより一層暗くなった。


「はぁ……はぁ……緊張して出ないよぉ……!」


 後ろに回した両の手は、彼女がふんばる度に、強く、握りしめられる。
 一見すれば、私が前に立ち、彼女の手を引き、導いているように感じるだろう。
 ……そうですね、そう考えてみれば、気分も大分違うはずです。


 楽しい事を考えよう……笑顔……そう、良い笑顔の事を――


「そうにゃ! 笑顔! 笑顔になれば、リラックス出来るにゃ!」


 ――……もう、考えるのはやめよう。


「……」


 早く、この悪夢のような時間が過ぎれば良い。
 いや、むしろ、これは夢なのではないだろうか?
 本当の私は、今も布団の中で目を閉じて眠り続け、日中の疲れを癒やしているのでは?
 そうだ、そうに違いない……これは、夢――


「アイドルになるの、ずっと夢だったの」


 ――では、無いですね、はい……現実ですね、わかっています。
 ですが……あの、この状況で、何故その話題を選択してしまうのですか?
 他にもっと、こう……あると思うのですが。

988: 2018/06/20(水) 23:09:37.99 ID:5Xhr7xCLo

「でもね、その夢は叶ったでしょ?」


 彼女の小さな手に込められていた力が抜け、しがみつくから、繋ぐに変わった。
 プロジェクト内でも、飛び抜けたプロ意識を持つ彼女は、
文字通り、夢を叶えるために、必氏にしがみついて歩いてきた。
 だが、ユニットを伝えた時の彼女は、非常に不満を持っているようだった。


「だから、今の夢はトップアイドルにゃ!」


 しかし、彼女はそれを乗り越え、手を繋いだのだ。
 今でも、彼女の――彼女達のデビューライブの時の姿は、ハッキリと思い出せる。
 目を閉じれば、瞼の裏に焼き付いた光景が、まざまざと浮かんでくる。
 今の言葉が現実になるだろうと思える程の、本当に、良い笑顔だった。


「だからね、Pチャン……これからも、プロデュースよろしくにゃ!」


 キュッと、手を握りしめられる。
 この様な状況にも関わらず、やはり、彼女は素晴らしいアイドルだと認識させられる。
 きっと、私の後で、彼女は良い笑顔をしているのだろう。
 振り返る事は出来ないが、今の言葉に応える事は――


「はい……これか「あ、出る! 出る出る出る出る出るにゃ!」


 ――出来なかった。


 ブフーッ!


「……」


 凄い、放屁です。


「ふっぐ……P、チャン……!」


 お願いします、手を握り締めるのは、構いませんが、その……私を呼ばないでくれますか?


「手……! 手、握っててぇっ……!」


 絞り出すような、彼女の声。
 私の手を掴む彼女の掌は、小刻みに震えている。
 それが、羞恥のためか、腹筋に力を込めているかは、わからない。


 だが、アイドルの方の要望に可能な限りお応えするのが、プロデューサーの務めだ。


「――はい、わかりました」


 彼女の、小さな手を握り締める。


「ふんっ、にゃあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙……!」


 ブポッ! ブッ、ムッ、ブリィッ!


「……」


 一つだけ、気付いた事がある。


 木目を数えるのは、案外と、楽しい。



おわり

990: 2018/06/20(水) 23:14:07.96 ID:5Xhr7xCLo
とりあえず埋めます

引用元: 武内P「アイドル達に慕われて困っている?」