536: 2019/07/14(日) 22:31:29.99 ID:rrrJR14vo

「……」


 学校から帰って、仕事用のバッグに持ち替えて。
 玄関で靴を履き、視線が止まる。
 止まったその先は、傘立て。
 今日の予報では、夕方から雨が降るらしかったからです。


「……」


 傘立てには、何本もの傘が立てられています。
 お父さんもお母さんの、少し困った癖。
 予想していない雨に降られた時、ビニール傘じゃなく、ちょっと良い傘を買うんです。
 結果、我が家の傘立ては……とても、賑やかになっています。


「……」


 折り畳みの傘だと濡れてしまう程降ったから、だとは思います。
 大人にとっては、確かに手狭に感じるサイズですから。
 だけど、やっぱり使われない傘が出てきてしまっています。
 私は、そんな傘達から、目を離せずにいました。


「……」


 最初に手にとったのは、いつも私が使っている傘。
 水色の、子供用。
 だけど、私が傘立てから引き抜いたのは、別の傘。
 ネイビーブルーの、大人用。
アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(8) (電撃コミックスEX)
537: 2019/07/14(日) 22:53:01.59 ID:rrrJR14vo

「……よし、と」


 玄関を出て、しっかりと鍵をかけたか確認します。
 これをやるのは、朝学校へ行く時と、夕方プロダクションへ行く時の二回。
 当然、それ以外にもありますが、基本的にはその二回です。
 小学生とアイドルの、切り替えをしている気分ですね。


「あ」


 学校から帰る時から、もう曇り空ではありました。
 地面を見ると、水滴がポツポツとアスファルトを濡らしていっています。
 雨が、降り出しました。
 私が駅のホームにつくまで待ってくれたら、なんて言っても仕方ありませんね。


「ん」


 傘を開くべく、バンドの部分に手をやって、一瞬。
 指先に触れた茶色いボタンを見て、この傘を選んで正解だったと思いました。
 マジックテープも、とっても便利だとは思います。
 だけど、こういう小さな所に、私は「大人」を感じます。


「よいしょ」


 開く時も、ワンタッチではありません。
 大きな傘の持ち手を左手で抑え、右手をグッと押し込んで傘を広げます。
 開いた傘を手に持って――わ、重い……これで良し。
 傘を肩に担ぐのは少し子供っぽいですが、アンブレラタチバナ、出勤します。

539: 2019/07/14(日) 23:09:40.43 ID:rrrJR14vo
  ・  ・  ・

「……ふぅ」


 駅の構内、雨が降り込んで来ない所まで進み、一息つきます。
 始めは、とても良い感じでした。
 何せ、いつも使ってる傘よりもかなり大きい訳ですから。
 雨の日にちょっとやそっとじゃ濡れないというのは、それだけで快適だと思います。


「……」


 失敗の原因は、私自身にあります。
 傘を真っ直ぐ立てて持つのが、大人っぽくて格好良い。
 そんな風には、いつも思っていました。
 なので、挑戦し……あえなく返り討ちにあいました。


「……よい、しょ」


 バランスをとって、このまま行けると思った時、風が吹きました。
 肩に担いでいたら、なんてことはなかった風。
 でも、そんな風にすら負けてしまう程度には、この傘は私の手に余る物でした。
 現に、今もこうして畳むだけでも大変な思いをしています。


「ん……これ、で……」


 よし。
 畳んだ傘のバンドのボタンを留めただけだと、傘の真ん中が膨らんでいました。
 だから、指で引っ張ってピシッと綺麗に形を整えました。
 アイドルなら、持ち物の細かい部分の見た目にも気を遣えないと。

540: 2019/07/14(日) 23:27:11.80 ID:rrrJR14vo
  ・  ・  ・

「……」


 改札をくぐり、エスカレーターに乗って駅のホームへ。
 雨だから滑らないよう、しっかりと手すりを掴んで。
 傘が大きくてどうしようと思いましたが、持ち手のもっと先を掴む事にしました。
 落っことしたら危ないですし……手が、ビショビショになりましたけど。


「……」


 電車を待ってる間に、ハンカチで手を拭きたいと思いました。
 でも、どうしても傘がその存在を主張してきます。
 腕に引っ掛けておくのは名案だと思いましたが、
ハンカチを出す時にどうしても床に触れてしまってカチャカチャ音が出るので、却下。


「……」


 私が尊敬する人達だったら、そうはしないと思ったからです。
 だって、変に音を出すのは格好悪いですし、それに、
動く腕に合わせて傘が動いて危ないじゃないですか。
 そうして迷っている間に、電車が来て……良いです、どうせ乾きますから。



「――あっ」



 ホームに停車するため、ゆっくり走っている電車の窓から。
 私の知っている人の姿が見えました。
 その人が乗っている車両は、私が乗り込む予定だった車両の、一つ隣。

541: 2019/07/14(日) 23:40:02.51 ID:rrrJR14vo

「……」


 見間違え無いと思います。
 でも、どうしよう。
 ……なんて、考えているのも束の間。
 停車した電車のドアが、プシュウと音を立てて開きました。


「……」


 私は、あの人に気付きました。
 だけど、あの人が私に気付いていたとは限りません。


「……」


 考えた結果、私はほんのちょっとだけ早歩きをして、隣の車両のドアへ。
 電車に乗り込む時、気づかない内に引きずっていた傘が、
電車とホームの隙間に当たってパチンと音を立てて跳ねました。
 ちょっとビックリしましたが、落としたりなんかはしません。



「おはようございます」



 電車内だからか、頷くような仕草をしながら、挨拶をされました。
 だから私も、



「おはようございます」



 それを真似て、しっかりと挨拶を返しました。
 ……気付いてて、くれたみたいです。

542: 2019/07/15(月) 00:01:58.00 ID:FEMhkyywo

「もう、降り出しましたか」


 電車の座席と座席の間にある、高い吊り革。
 私では手の届かないそれに手をかけなおしながら、言われました。
 多分、これは私に気を遣ってくれているんだと思います。
 電車の中からでも、雨が降っているのはわかっていたでしょうから。


「はい。でも、あまり強くは無いです」


 この人は、あまりコミュニケーションが得意では無い、らしいです。
 お仕事で一緒になった時、この人が担当しているアイドルの人に色々聞きました。
 でも、優しい人だ、って。
 ……その前に、顔は怖いけど、って前置きがあったのは、内緒です。



「……――どうぞ、使って下さい」



 上着のポケットから取り出された、水色のハンカチ。
 低い声と一緒に差し出されたそれを見ながら、私は困ってしまいました。
 一方の手は入り口横のバー、反対の手は傘を持っていたからです。
 これじゃ、受け取るに受け取れません。


「傘は、私が持っていますから」


 そう言いながら突き出されたのは、薬指と小指。
 ハンカチは、残った三本の指に収まっていました。

544: 2019/07/15(月) 00:20:51.22 ID:FEMhkyywo

「あ、はい……!」


 ガタンゴトンと揺れる、雨で床が濡れた電車内。
 片手には鞄を持っているので、反対の手はどこかを掴まないと危ないです。
 だから、すぐに傘を渡してハンカチを受け取らなきゃと思い、傘を差し出しました。
 すると、


「お預かりしておきます」


 大きな手の薬指と小指だけで、軽々と傘を。
 私が指の全部を使って持つのよりも、安定しているように見えました。
 それにちょっと驚きながら、ハンカチを受け取ります。
 これも、普段私が使っているのよりも、ずっと大きいハンカチです。


「……」


 渡した傘は、そのまま右手に居続ける事無く、左手に。
 鞄の持ち手と一緒に、危なげなく収まりました。
 私の手だと、どっちかを持つだけで精一杯だと思います。
 そうして、役目を果たしたと言わんばかりに、右手は吊り革に帰っていきました。


「あ……ありがとう、ございます」


 その動作は、とても自然で……大人っぽく見えて。
 ハッキリと言いたかった感謝の言葉が、どうしても小さくなってしまいました。

545: 2019/07/15(月) 00:37:56.41 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「あの……」


 手と――軽く髪を拭き終わったハンカチ。
 私は大丈夫だと言ったんです。
 それなのに、風邪をひくといけないから、って……受け取ってくれなくて。
 兎に角、借りたハンカチを返すべく、差し出しました。


「すみません、降りてからでも?」


 言われて、目線の先を追ってみると、次の停車駅が表示されていました。
 次の駅は、346プロダクションの最寄り駅。
 気づかない内に、もうすぐ着く所まで来てたなんて。


「停車近くになると、危ないですから」


 ほんの少しだけ、吊り革を揺らして。
 そう言われてしまったら、私からは、何も言えなくなってしまいます。
 電車内ですから、他の乗客の人も居ます。
 私に出来る事と言ったら、


「はい……」


 電車を降りた後。
 ハンカチを貸してくれたお礼と、ずっと傘を持っていてくれたお礼。
 どっちを先に言うべきかを考えること位でした。

548: 2019/07/15(月) 01:01:58.95 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「まだ……・降っていますね」


 電車から駅のホームに降りて、空を見上げて。
 私が何かを言う前に、低い声が雨音に消される事なく届いてきました。
 そこで、ふと気付きました。


「傘、持ってないんですか?」


 そんな私の、口をついて出た質問。


「いえ、大丈夫です」


 右手を首筋にやって、一旦言葉が途切れました。
 その言葉の続きを待っている間に、鞄の横から取り出されたのは――折り畳み傘。
 広げたらどの位の大きさになるのかわかりません。
 でも、大人でも大柄なこの人にとっては、ちょっと頼りなさげに見えます。


「……」


 左手に鞄と一緒に持たれている、ネイビーブルーの大きな傘。
 右手に持たれている、黒い小さな折り畳み傘。



「あの……良ければ――!」



 傘を持ってくれたお礼は、傘で。
 ハンカチを貸してくれたお礼は、この人が濡れないように。

549: 2019/07/15(月) 01:30:28.89 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「……」


 手に持っている傘は、とっても軽いです。
 大きさも、この位の雨だったら全然濡れずに済む位はあります。
 私にとっては、丁度良いです。
 それに、


「……」


 私が持っていた傘は、この人には丁度良かったみたいです。
 隣を歩く姿を傘をちょっと傾け、見上げて確認。
 折り畳み傘だと、傘を手に持ってるのと反対の肩が濡れてたかも。
 我ながら、良い提案だったと思います。


「……~♪」


 それに機嫌を良くして、傘をクルッと回し――そうになったけど、我慢。
 あまりにも子供っぽいし、水しぶきが飛んじゃいますから。


「……」


 無理に背伸びをするのは、良い事じゃないと思ってました。
 でも、背伸びをしてなきゃ、こうはなってませんでした。


「~♪」


 パチャン、と。
 長靴で水たまりを渡っていく、私の足取り。
 それは、大人の女性には無い。
 子供ならではの軽やかさがあるって思える、雨の日でした。



おわり

550: 2019/07/15(月) 01:37:31.68 ID:fubfxopOo
乙でした
こうしてちょっとずつ背伸びをしながら大人になっていくんだなあ

引用元: 武内P「ラッキースケベです」