1: 2018/08/12(日) 09:45:34.43 ID:f0hWHOAvo


・長いです

・設定の改変があります

・書きためてあります


よろしく

アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(9) (電撃コミックスEX)

2: 2018/08/12(日) 09:46:14.58 ID:f0hWHOAvo




現実と非現実の境目なんてものがほんとうにあるなら、アタシはあの日がそれなんだと思うな。


.

3: 2018/08/12(日) 09:46:42.25 ID:f0hWHOAvo



何やら資料をわんさと持たされて、気もそぞろに夕暮れの帰り道を歩いている。
いったい何の資料か。

アイドル。

正確にはアイドルへの勧誘のための資料だ。
簡単にまとめるなら、さっき街で会った人にこの資料を通してと誘われたということだ。
声をかけられた時にはもちろん冗談だと思った。
だってそれはあまりにもいきなりすぎて、そんな勧誘をそのまま呑み込むほどあたしの胆は据わっていなかったから。
でもそれはすぐに冗談で片付けきれない事態にまで立ち至ってしまった。
たとえば芸能事務所の真偽なんてスマホで調べれば一発でわかってしまう。
つまり、その結果として真のほうに転んでしまったわけで。

今日のオレンジ色の街並みは昼間と比べると本当に非現実的で、あたしの心を乱しにかかる。
それがどの色であれ統一された色合いというものは、すくなくともあたしにとってはどこか不自然な印象を残す。あくまで印象程度のものだけど。
指先が痺れている。
足元がふわふわしてる感じがする。
胸の奥が前向きに疼いて、すると今度は脳の奥が冷静になれと脈を打つ。
視線はどこにも落ち着かなくて、考えなんてちっともまとまらない。
帰りの曲がり道を四回も間違えたとなれば、冷静じゃないことくらいさすがに自分でも気が付く。


4: 2018/08/12(日) 09:47:08.87 ID:f0hWHOAvo

神谷奈緒。十七歳。高校生。おとめ座だ。
特徴はなし。まあ目立たないほうだと思う。
趣味はあまり日の目を浴びない感じのもの。
そんなあたしがアイドルとしての魅力を有しているか。
ノー、だと思う。
そもそも女としてのとか女子高生としての魅力だってアヤシイものだ。

けれど、そこに憧れみたいなものがないわけじゃなくて。

だって夢みたいじゃないか。
やっぱりそれは、特別だと思うから。
そしてあたしは、特別じゃないから。
綺麗な衣装を着て、華やかな舞台で、全部の視線をあたしに集める。
そんなのはぜんぜん現実的じゃなくて、なのに “でも” が離れなくて。

いろいろ放り投げて、単純になってみたいかと聞かれたらたぶんあたしは頷くと思う。
でもダメだろう。
本当にいろんなものがあたしの単純な憧れを引き留める。
羞恥心、功名心、虚栄心、恐怖心。
ほかにも名前さえ知らないたくさんの心がぐちゃぐちゃに重なってあたしを動けなくする。
どう考えたってあたしはただの女子高生で、そしてただの女子高生は決して特別じゃない。

だからこれはひとつのいい思い出ということにしようとあたしは決めた。
いつか、どこかの未来で、こんな野暮ったい眼鏡をかけているあたしがアイドルにならないかって誘われたこともあるんだ、なんて。
めちゃめちゃ面白い話のタネになるじゃないか。
そうだ、これはあたしの人生の中のひとつの奇跡。
何かを見つめるときにはいつも目を細めるあたしの例外的事態。
父さんも母さんもきっと笑ってくれるだろう。
だからこの話はここで終わり。
明日になればいつもの毎日に戻るんだ。

靴を並べてリビングに行って、ソファに座ってる父さんと母さんに資料を見せてそれで終わろう。
こんなことがあったんだ、まいっちゃうよな、あはは。
それでおしまい。あとは動画でも観てれば忘れるさ。


5: 2018/08/12(日) 09:47:39.23 ID:f0hWHOAvo

がたん、と電車が揺れて、ぼーっとしてた意識が帰ってくる。弾みでずれた眼鏡の位置を直す。
気が付けば目的の駅はもう近い。

あの後すぐに父さんは、これから行く芸能事務所に電話を入れて見学の予約を取り付けた。
あたしにできたのは見学には一人で行くことをなんとかして父さんに認めさせることだけで、見学に行くこと自体はどうやっても避けられなかった。
あれが一週間前だとはとても思えない。つい昨日のことのようにさえ思える。
そんなことがあったからか、今週はほとんどのことが手につかなかったような気がする。
家に帰ってしばらく経ってからスマホを見て、そこではじめて友達から連絡をもらってたのに気付くこともけっこうあった。
なかには心配してくれているような内容もあったりした。
ただ、悪いけど誰にも本当のことは言えなかった。

そこはアイドル事務所、なんていう言葉から想像するような建物とはまるで違っている。
綺麗で、大きくて、なんというかすごそうなビルだ。
頭の悪そうな言い方しかできてないけど、建物の正しい褒め方なんてあたしは知らないし。
ただ、もちろん資料でもホームページでも事前に見てはいたから、見た目の綺麗さに対して初めて見る驚きみたいなものはない。
けれど大きさというものは直に見る以上に正確に把握する術なんてなくて。
あたしはしばらく口をあんぐりと開けて眺めていることしかできなかった。

右を見て左を向いて変な笑いがこぼれる。
こういう建物があることはもちろん知っていたけど、自分の目的地になるとは思っていなかったから。
ここはどこかと聞かれたらエントランスと答えるのがいちばんしっくりくるんだろう。少なくとも玄関とか入口なんて呼び方は似合わない。
目の前にある長いエスカレーターがあたしを威圧してるようにさえ思える。
一階に受付が見当たらないことを考えると、きっとこのエスカレーターの先にあるんだろう。
一階にはカフェやらなにやらがいくつも店を構えている。
大企業、おそるべし。

エスカレーターを上がって程なく受付を見つけることができてあたしは安堵のため息をつく。
受付カウンターへ行ってあの日もらった名刺といっしょに名前を告げると、係のお姉さんがどこかに電話をかける。仕草は洗練されたもののように見える。
電話口でのちょっとしたやり取りを経てお姉さんがくれたのは落ち着いた笑顔と入館証みたいなもので、それはなんだかこの建物にあたしが受け入れられたみたいだった。
担当の人が来るからすこしだけここで待っててほしいという言葉も同じ印象をあたしに残す。

どこからその担当の人が来るかわからないこともあって受付から少しだけ離れたところで目を細めながら周りを見渡していると、仕事のできそうな人がそこらを行き来している。今日は日曜だってのに大変だよな。
辺りを見ててひとつ気にかかるのが、同じフロアにエレベーターホールが三つもあるのは普通なんだろうかってこと。どうでもいいと言えばどうでもいいんだけどさ。
あたしは会社のビルに詳しくなんてないからわからないけど、まあきっと普通のことじゃないんだろうな。
そんなことを考えていると、あたしがこんなところにいる原因になった人の姿が目に入った。

「やあ神谷さん、今日はよく来てくれた。ようこそようこそ」

「つっても見学だけだからな、父さんが予約みたいなことしちゃったから」

「いや、それくらい慎重なほうが正しいと思うよ、そう簡単な世界じゃない」

手振りをつけながら担当の人は人の好さそうな笑顔を浮かべた。
はきはきとしたしゃべり方をする人だ。

「で、見学って何を見るんだ? あたしさっぱりわからないんだけど」

「うちの施設ってことになるのかな、それなりに貴重だと思うよ」


6: 2018/08/12(日) 09:48:09.93 ID:f0hWHOAvo

行かなければよかった。
行ったせいであたしの心が揺れている。
もしただ施設を見せてもらっただけならここまで揺れはしなかったと思う。
だけどどうしようもないじゃないか。
本物のトレーニングを間近で見せられてしまったら。
あんなに熱のこもった舞台の裏を見せられてしまったら。
そのうえそれぞれの施設にいたプロたちに声までかけてもらったら、あたしなんかは舞い上がってしまうに決まっているじゃないか。

ああやって、キラキラしたいって、思ってしまうじゃないか。

無理をしてでも悪いところ探しをしなければあたしはこのまま呑み込まれてしまう。
ええと、なにか。
そうだ、気が付いたら夕方になっているくらいに時間を奪われた。
……ダメだ、難癖にもやっちゃいけないラインみたいなものはある。
それはただ単に楽しくて時間が経つのを忘れてるだけだ。
他に。他に何か。
あの宮本フレデリカには会えなかった、とか?
いやいやこれダメだろ、通う理由になるとしか思えない。
あたしの常識的で弱い心が、たったひとつの夢に圧し潰される。

言葉だけ見ればひょっとすると悪いことには見えないかもしれない。
でもこれはあたしを待っていたはずのふつうの人生を捨てることとそれほど意味は変わらない。
あたしにとってアイドルになることというのは “努力の許されている身投げ” を選ぶことと同義のようなものだ。
人から見れば不思議な言い方にしか聞こえないだろうけど、頭に浮かんだものはしょうがない。
だって、輝きたいからって誰もが輝けるわけじゃない。
そこにはきっとあたしの力が及ばない領域みたいなものがあるはずで。
けれど輝きたいってあたし自身が思ってるのにはもうウソはつけなくて。
ひょっとして、あたしはもうダメなのか?
考えれば考えるだけそっちに傾いていくだけなのか?

最寄りの駅を過ぎてから我に返って額に手をやる。
ついでにちいさくため息もセットだ。
電車を降り損ねるなんて気持ちの大部分を持ってかれていることの証拠だろう。
そうなればもう結論は出てる。
どれだけあっちこっち迷ったところでゴールは決まりだ。
父さんと母さんの反応を考えても必要なものはあたしの覚悟ひとつだけ。
まさかあたしの人生のこのタイミングでそんなものを要求されることになるとはなあ。


7: 2018/08/12(日) 09:48:37.06 ID:f0hWHOAvo

「うむ、見たところ体力は普通の女子高生といったあたりだろう。しばらくは体力メニュー中心だな」

先日見学に来た場所、いっそもう事務所と呼んでしまおう、にまた来た理由は他にない。
父さんと母さんに挑戦してみると話をして、そして今度は自分で事務所に電話をかけた。
書類だなんだとあれこれ細かい話は別にして、あたしが初めて顔を出す日が決まった。
とはいっても学校の部活なんかみたいに全員で顔合わせ、なんてことはしないらしい。
つまるところ最初に行ったのはジャージに着替えてのレッスンルームだったわけで。
そしてそこにいたトレーナーさんと顔合わせをして今に至る。

見学の時にも見せてもらったレッスンルームは相変わらず広くて、そういう立場じゃないのはわかってるけど感心するようなため息が出てしまう。
これってホントにルームって呼べる範囲の広さなんだろうか。
そんなのもちろん見学の時から気になってたから広さの理由は尋ねてある。複数人どころか複数のユニットが同時に練習をすることがよくあるから、ということらしい。
それとステージレベルでの動きを確認するのにはできる限り広いほうがわかりやすいのは自然だろう、とも言っていた。
そんな部屋がいくつかあるのだという。
納得するところではあるけど、現実感が一気に薄れていったのをよく覚えている。
芸能事務所を思い浮かべろと言われれば最初にイメージする人もそれなりにいるだろうところはお金のかけ方がさすがに違う。
あたしはこれからこんなところで自分を磨いていくことになるのか。
人間は慣れるものだと聞いたことがあるけど、あたしはこの環境に本当に慣れるんだろうか。
そんな自分の姿が想像できないのは当然じゃないか?
あたしはふつうの女子高生なんだから。

「ああ、そうそう。体力メニュー中心とは言っても基礎的な部分は他のも鍛えていくからな」

心配しなくていいぞ、とトレーナーさんがいい笑顔を浮かべながらこっちを見ている。
別にあたしはそんなことを心配しちゃいないんだけど。
激しい運動だと事前にプロデューサーさんから聞かされていたけど、これはマジなやつかもしれない。
眼鏡じゃなくてコンタクトレンズにしてきて正解だったなんて思いたくはないんだけどな。


8: 2018/08/12(日) 09:49:06.43 ID:f0hWHOAvo



ボリュームのある髪を後ろにまとめたきれいなスタイルをした娘が床に這いつくばってます。
意識が飛ぶまではいってませんが、その四歩か五歩くらい手前までは来てそうです。
呼吸は荒い段階は過ぎたみたいですけど、それでもある程度は深い呼吸をしています。
タオルも取りに行けないほど消耗してますからシャツなり床なりが大変なことになってますね。
トレーナーさんが誰もいないところに視線を留めてちいさく頷いています。
何かしらの考えをまとめているんでしょう。
気の毒にと思わないこともないですけど、それ以上に。
ええ、あ、いえ、懐かしいとは言いませんとも。
私はここへ来たとき何日連続でぶっ倒れてましたっけ。
……ところでこの娘はいったいどちらさまなのでしょう?

状況としてはとても奇妙なものですが、見たこともない可愛い娘がこんなふうに倒れているのがすごく珍しいというわけでもないのがこの業界の不思議なところというか。
が、どうしてでしょう。今日に限っては頭の片隅に別の違和感が残りました。
なにかこの娘におかしなところでもあるんでしょうか。すぐには思い当たらないのが気持ち悪いです。

視線を倒れている娘からトレーナーさんのほうへ移すと、考え事は終わっているようでした。
その娘の上にバスタオルを放り投げたかと思えば荷物のあるほうへと向かいます。水でも取りに行くんでしょうか。
あれ、じっと観察してましたけどこれどう考えても介抱したほうがいいのでは。

もはやただ掛かってるだけと表現したほうが適切だったバスタオルを使って、まずは顔の汗を拭いてあげます。
見たことはなくてもやっぱりここにいるだけあってとても整った目鼻立ちをしています。肌も綺麗ですね。
髪はちょっとクセがある感じでしょうか。でもすごいふわふわしています。
よく見ると眉が顔立ちの中ではいちばん主張してますけど、でもそれが調和になっている感じがします。

すこし楽になったのか、小声でお礼の言葉が聞こえてきました。
きっと疲労で正常な判断は下せない状況かとは思いますが、お礼が言えるのは良いことです。
目の前の娘から見れば私はただの知らない人ですからね。根が礼儀正しいのかもしれません。
拭ったそばから汗が滲んできます。頑張ったんでしょう。
ないよりはあったほうがマシかということで、私のタオルを何枚か重ねて枕にしてあげます。
さすがにこんな状態で床に転がしておくわけにはいきませんからね。


9: 2018/08/12(日) 09:49:37.23 ID:f0hWHOAvo

寝ているとき特有の言葉になっていないうめき声みたいなものを伴って意識が帰ってきたみたいです。
十分も経たないくらいだと思いますが、まあ不思議な時間でした。
うっかり眠ってしまったのか気絶したのかはわかりません。前者だとは思いますけど。
目を覚ますと彼女は俊敏な動作で私から離れて行きました。
顔を覗き込んでいたわけではないのでおでこ同士でごっつんこなんてことにはなりません。

「うわぁ!? えっ、え、誰!?」

悲しくもありますが当然の反応ですよね。
すごく疲れて意識を手放して、それで目を覚ましてみれば見たことのない顔が近くにあるわけですから。
図式としては看病みたいなかたちになるんでしょうか。

きっと動揺しているでしょうし、不安にさせないように笑顔でペットボトルの水を勧めます。
まあまあまずは、なんて水を飲ませるときにふつう言いませんよね。いま言いましたけど。
ちなみにトレーナーさんは水を置いたっきり他のアイドルの指導に向かってしまいました。
私だから任せた、みたいなことを言ってはいましたけど個人的にはそれに対して言いたいことがあるんですけど。

焦って飲んでむせちゃったのを落ち着かせてあげます。
声もガラガラでしたし、喉も渇いていたんでしょうね。

呼吸も整ってきたところで、安部菜々です、と自己紹介をします。
彼女からすれば気になって仕方がなかったはずですから。
テンパっていたのか肝が据わっているのか、名前も知らない私の言うことをここまでよく聞いてくれたと思います。

「とりあえず、自分の名前は思い出せますか?」

「え、あ、神谷奈緒、です」

「ここにいる理由は思い出せますか?」

「んーと、あれ、…………あ、今日からレッスンってことで来ました」

とくにマズい意識状態ではなさそうでひと安心ですね。
しばらくは話を聞きがてら状態が落ち着くのを待つことにしましょう。

「……え? 誰?」


10: 2018/08/12(日) 09:50:12.35 ID:f0hWHOAvo

自分のレッスンを終えてルームB-02に向かいます。
せっかくだから奈緒ちゃんも誘おうかと思ったんですがダメでした。
まさかまだデビューが決まっていない候補生だったなんて。
いちおう機密事項もあるのでデビューが決まらないと入れない場所はけっこうあります。
芸能界なんて特殊も特殊ですからね。
半ばアイドルたちのたまり場と化している執務室もそのひとつです。
それにしても、そんな候補生の段階で本社のレッスンルームに来た子なんてこれまでいましたっけ。

そんなことを考えながら肩をぐるぐると回します。
アイドルになる前と比べたらもちろん体力はつきましたけど疲れを感じなくなるわけじゃありません。
重い足を引きずってのろのろと移動します。
救いといえばこの棟に入れる社員さんが少ないことでしょうか。
こんな姿をところ構わず見せるわけにはいきませんからね。

今くらいの時間だとプロデューサーさんはだいたい社内にいないことが多いんですよね。
いたらいたで話したいこともありますけど、いないならいないで別にやっておきたいこともあります。
とはいえアイドルの子は誰がいるかわかりません。
部署ひとつあたりにはそんなに数は多くないんですけど、うちの部署は休みでも遊びに来たりする子が多数派なので。
アイドルが女の子でいられる最後の場所というのもあるんだと思います。
なんだかんだと私も自然に誰がいるかな、なんて期待を持ちながらドアを開けました。

まず目を引いたのは黄色に近いと言い切ってもいいくらいの金髪。
ショートのアシンメトリーにぴったりと合っています。いま私の位置から見ると横顔なので正面に回らないと髪型はわかりませんけどね。
そして顔の小ささに似合わない大きさの目。それなのに品を失わないのが反則です。
瞳の色はオリーブグリーン。マスカラなんてなくてもバッシバシに長い睫毛。
鼻が小ぶりでかわいいのがちょっとした日本人的要素でこれまたずるいです。
ただソファにもたれて膝の上の雑誌に目を落としているだけの姿なんですけど、華を感じてしまうのがうらやましいというか悔しいというか。
……これ以上は控えましょう。止まらなくなりそうです。
というか直に見たのちょっと久しぶりな気がしますね。

「おはようございまーす」

「あ、おっはよう! もう夕方だよ! ナナちゃんったらもー、お寝坊さんだね♪」

座ったままで、綺麗な顔だけこっちに向けて、満面の笑顔でフレデリカちゃんが挨拶を返してくれます。
さっきまでレッスンしていた身に迷いなくボケをふっかけてくるあたり調子は良さそうです。
ちなみに私は毎朝六時前には起きている程度には朝は強いほうです。お寝坊さんではありません。

「ところでナナちゃんはこれからレッスン? 大変だねー」

「ホワイトボードの予定見てください……。今日はもうナナ疲れました……」

「ごめんねナナちゃん、フレちゃんの通ってた高校ウサミン語の授業なかったから」

「……う、ウサミン星の公用語は日本語ですよ?」

厳しいところをつっつくのはやめてほしいところです。

「あれ、ナナちゃんナナちゃん」

「はい、どうしたんですか?」

「鉱山にでも行ってきた?」

「……へ? コウザン? ……ナナ、山には登ってませんけど」

そっか、と素直に納得して彼女は視線をまた雑誌に戻しました。
今度はゴキゲンな鼻歌まで聞こえてきます。
なんだかこっちまでハッピーになれる、弾むようなものでした。

……なんだか不思議な質問でしたけど、どういうことだったんでしょうか。
もしかしてそう見えるほど疲れが顔に出ちゃってたとか。
私自身としては疲れた表情だけはしないようにしてたつもりですけど。
それにしてもコウザンってなにかの比喩表現だったんでしょうか、高山? 鉱山?

フレデリカちゃんはあまりに自由奔放なので会話の飛び方が本当にすごいです。
でもどうしてでしょうね、それも魅力のひとつというか、フレデリカちゃんだからこそプラスに変わるというか。
そんな、たぶん答えの出ないことを頭の隅で考えながら、くつくつと笑っている事務の方に挨拶に向かいます。
さてさて、荷物はソファの上でも問題なさそうですかね。


11: 2018/08/12(日) 09:52:53.70 ID:f0hWHOAvo

奈緒ちゃんを介抱した日からしばらくが経ちました。
さすがにもう起き上がれないようなことはないみたいですが、シャワールームまで行くのはまだまだ大変そうといった具合です。
練習の甲斐あってかダンスのステップも目に見えて良くなったように私は思います。
トレーナーさん的目線から言えばまだまだみたいですけど。

いまルームB-02にはプロデューサーさんとはぁとちゃんと私がいます。
部屋の中はパソコンのキーボードの音と布の擦れる音、あと雑誌をめくる音だけの静かな空間です。
プロデューサーさんがお仕事、はぁとちゃんはソファに座って自前の衣装を縫っています。
私はどちらの邪魔もしないようにカバンに入れてあったファッション雑誌を読んでいます。
ちなみに二人とも話しかけても手が止まらないすごい能力の持ち主ですが、そうと知っていても作業中の人に話しかけるのに私は気後れしちゃいます。
季節感が混乱してしまいそうな雑誌の品々を見ていると、プロデューサーさんが呻きに近いような声を出しました。
驚いて目を向けると伸びをしているプロデューサーさんの姿がありました。
きっと作業がひと段落ついたんですね。

「くあぁ……、ってなんだ、心に菜々じゃないか」

「おいおいはぁともナナ先輩も二時間くらいここにいるんだぞ☆」

「悪い、集中してて気づかなかった」

「集中し過ぎだろ、っつかはぁとって呼べよはぁとって。字面はスウィーティーでも音読みはそんなことないんだからな?」

なんだかやり取りに安心してしまいます。
私たちの部署はプロデューサーさんとアイドルたちとの距離感がこういう具合なので。
きちんとラインを決めるっていうのもプロっぽくてちょっと憧れますけどね。
それでも軽口を叩いていくなかで生まれたものもあるくらいなので、うちはこれでオッケーです。


12: 2018/08/12(日) 09:53:21.95 ID:f0hWHOAvo

「おいプロデューサー、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ん、なんだ?」

「いやそんな真剣な話じゃなくて」

はぁとちゃんはそう言うと、手元の衣装をソファの空いたスペースに掛けました。
その衣装にはマンガチックで小さめな天使の羽が背中についているのでそっちが上を向いています。

「ここのところだいぶキツそうな仕事量に見えるけど、なんかあんの?」

「フレデリカのアリーナLIVEの大詰め、三か月後のやつ」

ああなるほど、と納得したように頷いてはぁとちゃんは話を続けようと体をすこし前に傾けます。
位置取り的に私も話に参加していると思われるのですが、はぁとちゃんがどういう話をしようとしているのかがわからないので私は口を閉じて成り行きを見守ります。

「しばらくフレデリ子見てないのもその関係かぁ、ちょっぴり悔しいぞ☆」

「別にスタジオ借りて練習始めたのもあるし、あとまあ他にもいろいろとあってな」

「なんだよそれ、ウチでやればいいんじゃね?」

「麗さんや聖さんだけじゃなくて外のトレーナーさんの意見も聞いてるんだよ」

「ウチでもトップのあの二人だけじゃないってどれだけ豪華なんだよ☆ 若干怖ぇけど」

なるほど話題の方向はフレデリカちゃんで確定のようです。
ところでこのあいだ私が会えたのはなかなかの珍しいケースだったということでしょうか。
そういえばフレデリカちゃんのことなら私もちょっと小耳に挟んだことがあります。聞いてみましょうか。

「あの、もしかしてフレデリカちゃんってアナスタシアちゃんとユニット組んだりする予定があるんですか?」

プロデューサーさんがわずかに目を大きくします。
はたして大当たりなのか寝耳に水なのか、どっちなんでしょうか。
表情だけで相手の感情がわかる、なんて人がいたりしますが私にはとても判断つきません。

「俺は聞いてないけど、どっから聞いたの」

「いえ、最近フレデリカちゃんと仲良さそうにしてるのよく見るって聞くことが多くて……」

「単純に話が合うってだけじゃないッスかナナ先輩。どっちも海外系っちゃ海外系だし」

「でもナナ的にはちょっと想像しにくいものがありますね、真逆のタイプに見えますし」

別に反論というわけでもありませんが、雑談みたいなものでしたから。
はぁとちゃんは、まあそれは自分も思ってましたけど、なんておちゃらけてます。

アナスタシアちゃんはうちの部署ではありませんけど、社としては看板レベルの大スターです。
強烈な透明感の持ち主で、ロケーションと機材次第では現実感を置き去りにしてしまいます。
私の知る普段の彼女はどちらかといえば物静かですけど、まったくしゃべらないということもありません。
とても頭の回転が速いことも含めて、同性の私でも参ってしまいそうになります。

「フレデリカとアナスタシアさんならそんなに真逆ってわけでもないと思うぞ」

「ええ? どう見ても太陽と月レベルで違うだろあの二人」

「そりゃまあ表面はだいぶ違うけどな」

プロデューサーさんは背もたれに体を預けて言葉を続けます。

「ああ見えてフレデリカも大事なところではきちっと一歩引いて物事を見られるし考えられるの知ってるだろ」

「知ってるんですけど言われないと出てきませんね、あはは……」

ごめんなさいフレデリカちゃん。いつものイメージが強すぎます。

「にしてもその二人だとどんな話になんの?」

「そんなもん俺も知らないよ」

フレデリカちゃんの好きなファッションの話題になるんでしょうか。
それともアナスタシアちゃんが好きな星の話になるんでしょうか。
なんにせよ私には入り込めない世界のような気がします。


13: 2018/08/12(日) 09:54:23.40 ID:f0hWHOAvo


二時間目が終わる。
全身がバッキバキなせいでノートをとるのにも一苦労だ。
字はいつも以上に汚い。下線なんてまっすぐに引けない。
それ以前に授業として考えるとノートをとるのに集中しすぎて話をほとんど聞けていない。
授業の合間のこの休憩時間でどうにか筋肉痛を和らげる方法はないかといろいろ試してみたけど、どうやらすぐに取れるものじゃないらしい。
立ったり座ったりするのもしんどいからいい加減どうにかしたいんだけど。

「ひょあぁあっ!?」

いきなり背中がぞくぞくして変な声を上げてしまう。しかも大声だ。恥ずかしい。

「えっ、いやちょっと効果ありすぎじゃないっすか」

後ろからいたずらが成功したどころかむしろちょっと引いたような声がする。
今の席順でこういうことをするのはコイツしかいないから犯人ははじめからわかっていたけど、その反応はひどくないか。
あたしは声のしたほうにすぐさま振り向く。名前も知らない筋肉がぴしりと痛む。
そいつはあたしの背中に這わせた人差し指を立てたまま目をぱちくりさせている。

そういうリアクションを取られているとなると単純に怒るのも難しくなる。
けらけら笑ってくれていたら対応がラクなのに。

「うぅ、やめろよ沙紀、あたしが背中弱いの知ってんだろ!」

「にしても弱すぎないっすか」

「夏服なんだからしょうがないんだよ!」

よその高校はどうだか知らないけど、うちの高校はブレザーを着て来ないからってガミガミ言われることはない。
何なら真冬にワイシャツ一枚で来たって怒られないくらいだ。別の意味で心配はされるけど。
というか去年も罰ゲームで男子がそういうのをやってるのを見た。
だから、っていうのは違う気がするけど、五月も半ばを過ぎると大抵の生徒はワイシャツにカーディガンとかワイシャツだけで登校するようになる。
あたしはワイシャツ派。だから防御力は低い。
もしかしたら背中が敏感なのかもしれないけど、それは考えないことにする。

さすがにあたしの反応が大きかったのに罪悪感を覚えたのか、沙紀は手を合わせて謝る。
中性的で整った顔立ちにいたずらっぽく片目をつぶってみせた姿はなかなか反則だと思う。
だけど近いうちにやり返してやろうとあたしは決めた。
沙紀だってカーディガンを腰に巻いてはいるけど夏服なのに違いはないんだからな。

「つーか奈緒ちゃんここんとこ大丈夫なんすか? ことあるごとに筋肉痛って言ってるし学校終わったらすぐ帰っちゃうし」

「んー、大丈夫かどうかは正直あやしいよ。習い事みたいなの始めたからな」

「習い事」

「そ。けっこう身体使うやつなんだ」

嘘はついてない。
でもアイドルになるなんて口が裂けても言えない。
似合わないと今でも思ってるし、実感みたいなものはまだ湧いてないから。
それに笑われるかもしれないし。

ふうん、とすこし何かに考えを巡らせたあとで沙紀はにっこりと笑顔を見せた。
なんというか、少年みたいな笑顔だ。にかっ、っていう擬音が似合う。

「こう言うのはあれだけど、似合わないっすね」

「……自覚はあるっての」

あたしがどんな顔をしてたのか、沙紀が慌てたように言葉を重ねてくる。

「違う違う、奈緒ちゃん運動得意でーすってキャラじゃないでしょ、そういうことそういうこと」

そうか。沙紀の知ってる情報だとそれだけしか導けないのか。
あたしの頭の中にはアイドルになるっていう前提があるから考え方に違いが出るのは当然なんだ。
いろいろ誤魔化すにはこういう部分にも気を配らないといけないということだ。なるほど。

「なんにしても熱中できることができたんならそれはいいことっすね」

「熱中? どーなんだろ、してんのかな」

「してんじゃないっすか? キツいのに続けてるみたいだし」

なるほどそうかもしれない。
そもそも考えてもみなかったことだけど、言われてみればそういうことになりそうだ。
でも認めるのはどうも照れくさいから、わかんないや、なんて笑ってごまかす。

「楽しく続くといいっすね」

「あたしもそうならいいと思うけど、始めたばっかりだからまだなんともなあ」

言っている途中でチャイムが鳴って三時間目が始まった。
たぶん沙紀には後半部分は聞き取れてないと思う。

14: 2018/08/12(日) 09:54:51.36 ID:f0hWHOAvo

ホームルームを終えて、がたぴし軋む体を引きずって下駄箱を目指す。
あたしの学校での交友関係は広くはないから、ちょろっと挨拶をすればそれで済む。
あるいはたまたま目が合ったクラスメイトに手を振るとかせいぜいそんなもの。
日によっては無言で帰ることもさして珍しくはないくらいだ。

レッスンを受け始める前はどれだけ軽快に歩けていたかがもう思い出せない。
廊下は長いし、階段は降りるときこそダメージが大きいんだ。
教室とか廊下に残ってしゃべってる生徒の声に包まれてるせいで、なんだか間違った場所に来てしまったかのような気分になる。
あたしは早くここを脱出してレッスンルームに行かなきゃならない。
だいぶ意識の部分は変化したよな、とふと思う。

やっとこ上履きからローファーに履き替えて昇降口から出ようとすると、肩をぽんと叩かれた。
そっちを向いてみると沙紀がいつもの笑顔で左手を上げている。
あんまりないこと、というか初めてじゃないだろうか。
端的に言ってあたしと沙紀は属しているグループが違う。
そして少なくとも沙紀のグループの面々とあたしはそれほど親しくない。
その逆も然り。
沙紀とあたしが例外なのはずっと席が近いからで、席替えをしてもなぜか離れたことがないのだ。
高校だの中学だのでグループが違うっていうのは大きいことで、そうなれば一緒に帰るなんていうことはほとんどあり得ないことだとあたしは思っている。お昼だって一緒に食べたことないし。
そんな中で沙紀がひとりであたしの後ろに立っていたのはずいぶん奇妙なことと言えそうだ。

「あれ、沙紀じゃん。どうしたんだよ」

「今日ちょっと早く帰る用事があって。で、下駄箱来たら奈緒ちゃんがいたってだけっす」

普段は席に着いてるからあまり意識しないけど、隣に立って歩いてみると沙紀は女子にしては背が高めだ。
振舞いから考えると意外に姿勢もきれいだし、なんと出るとこも出てる。
まあ細かいことは気にしないしゆるいところもあるから完璧超人ってわけじゃないんだけど、こう、人目を引く要素をいくつも持っている。
あらためて考えるとずるくないか、こいつ。

「ていうか奈緒ちゃん大荷物っすねえ、何入ってるんすかそれ」

「ん、ああ、着替えだよ。身体使う習い事だって言ったろ?」

「なるほど直接行く感じなんすか、駅からはどっち方面?」

「上りのほうなんだ。家に帰るんだったら下りなんだけど」

「じゃあ駅でお別れっすね」

あたしと沙紀は仲良くしてるわりにはお互いのことを話そうとも知ろうともしない変な間柄だ。
世間話とちょっとしたふざけ合いしかしたことがない。
すごくクールな関係にも見えるけど、ラクで居心地がいい。
こいつと話しているとなんだかちょっと体が軽くなるような感じがする。
駅に続く道の先の方で子供たちがオレンジジュースがどうのと騒いでいるのが聞こえる。

高校の最寄りの駅は改札を通ってからすぐ二股に分かれて上りと下りのホームが向かい合うタイプのもので、朝の通学ラッシュの時間帯はうちの生徒でちょっと壮観なくらいに混み合う。
その改札を抜けたところでちらっと沙紀に顔を向けると、ちょうど同じタイミングで沙紀もこっちを見た。
じゃあ習い事がんばって、と手を振る沙紀にあたしも手を振って応える。
頑張ろうか、そう思う。


15: 2018/08/12(日) 09:55:20.04 ID:f0hWHOAvo

プロデューサーさん、見学の時に案内してくれた人だ、が言っていたことが身に染みる。
簡単な世界じゃない。
あの時は緊張もあって軽く受け止めてたけど、あれはこの世界に棲んでいる人間の実感のこもった言葉だったんだ。

六週間と少し。それだけの時間が過ぎて、あたしはやっと壁に手をつくことなくシャワー室へたどり着けるようになった。
レッスンだなんて生ぬるい名前じゃ表現しきれないそれは、完全にあたしを壊しにきてた。
その期間のうちにあたしのアイドルに対する尊敬の念は明確に形成されていった。
そして初めて日常的に運動している人たちを尊敬した。
たとえば運動部の彼ら彼女らはほとんど毎日あんなことをやってるんだろ?
もちろんあたしは運動部には入ってなかったから、正確に運動部の運動量とは比較できないけど。

柔軟から始まって筋力トレーニング、ダンスの基礎ステップの反復。
これだけでもうあたしの真下には拭き取らなきゃならないほどの汗が落ちる。
もちろん休憩は入るし水分なんかも摂らせてもらえる。
でもそれだけじゃカバーしきれないほどの運動量があたしを待っている。
息はあがる。意識は遠くなる。
そのたびにトレーナーさんから声が飛んでくる。
絶対に意識を切るな、前を見ろ。
たぶんだけど、トレーナーさんはサディストなんだろう。

それが終われば場所を変えて今度は発声の練習。
腹式呼吸なんて合唱コンでやれって言われて適当に流した記憶しかない。
おなかを使って声を出すなんてはじめはイメージすら湧かなかった。
おまけに体力は筋トレとダンスのおかげで限界近い。
半ばヤケクソで取り組んでたせいで、こっちは成果が出るのに余計に時間がかかった。
たまには練習の順番変えてくれてもいいんじゃないかと思ってたけど、結局それは一度もなかった。

そういえば四週間が経ったころからたまにレッスンルームにプロデューサーさんとかの姿が見えるようになった憶えがある。
そのたびにトレーナーさんと何かの話をしてたけど、まあこれは当たり前か。
なんとなく気になったのは疲労のせいで自意識過剰になってるだけなんだろう。
勘違いついでに言うなら、同じところにレッスンを受けに来ている現役のアイドルとかにはずっとちらちら見られてたような気もする。
とはいえ今では同じ部屋で練習してる縁でみんなそれなりに仲良くなったから別に気にならないけどな。
レッスンルームの面子が一定なのは、あたしがここに来る時間が決まっているのもあるんだろう。
やっぱり未だに宮本フレデリカとは出会えていない。
スーパー過ぎてここには来ない、みたいな事情もあるんだろうか。
本当のことを言うとそんなことに気を回せる余裕はまったくなかったっていうのはナイショだ。


16: 2018/08/12(日) 09:56:32.74 ID:f0hWHOAvo



私がレッスンルームに着くと奈緒ちゃんが先に居るのがもう当たり前です。
違うのはストレッチを済ませているかどうかくらいで、いつも早くに来ていて感心しちゃいます。
奈緒ちゃんが来るまではわたしが一番手だったのももう過去の話です。
それがやる気の表れなのか、あるいは別のものなのか私にはわかりません。だからといって聞くつもりはありませんけどね。

気が付くとこっちに向けて手を振ってあいさつしてくれます。
私もいつもみたいに元気よく返します。
ストレッチが終わっていれば話しかけてくれますし、終わってなければその後で話をするのがいつもの感じですね。
しばらくするとみんながやってきて、それからトレーナーさんが来て。
そこから先は、まあ、スポ根ですよね。
今日もいつもの例と変わりなし。
奈緒ちゃんもストレッチをしています。
筋肉痛をほぐすには欠かせませんからね。
実際ここに入ってきたばかりで奈緒ちゃんには今がいちばん大変な時期だと思います。
わたしにも覚えがあります。懐かしがるほど昔のことじゃありませんけど。

それにしてもなかなか根性があるというか、音を上げませんよね。
自分のレッスンの合間にちょこちょこ目を向けると、ふらつきはしてもレッスン中に膝はつきません。
もちろん休憩に入れば勢いよく座り込んじゃいますけど。
それでも初日を除けば一度も倒れていないと聞きました。大したものだと思います。
だって週に六日はレッスンが入ってるそうじゃないですか。
デビュー前ってことと体力強化も兼ねてるとは言ったって誰にでもできるようなものじゃないのは簡単にわかります。
私にだってそんな厳しい時期の経験はありません。レッスンが入るのは週に二日か三日、多くて四日がせいぜいです。

17: 2018/08/12(日) 09:57:00.18 ID:f0hWHOAvo

「安部、おい安部、どうした?」

「へ?」

声のしたほうを向いてみるとトレーナーを務める麗さんが訝しげにこっちを見ています。
ちょっと物思いにふけっていたせいかと思いましたけど、室内をよく見てみれば今日レッスンを受けるメンバーはすでに全員そろっていました。
ちょっと、ってレベルじゃなかったみたいですね。
体調には何ら問題ないことを説明してウォーミングアップを始めます。
メニューとしてはジムでやるようなものとレベルは変わりません。私たちみたいな職業は体力勝負みたいなところもありますから。

アップが終わって今度は基礎的なステップの反復練習です。
体が覚えるまで動作を叩き込んで、体が覚えたら次は細かいところに気を配るように繰り返します。
もちろんそんなステップがひとつなわけがなくて、いくつも反復しなくちゃなりません。
基礎的とはいえ緩やかなものから激しいものまで揃っています。
わずかにでも気を抜けば麗さんから声が飛んできます。
なんでも個々人の到達レベルに合わせての指導を同時にできるのだとか。さすがプロです。どんな目をしてるんでしょう。
ちなみにステップの最中にはもちろん奈緒ちゃんが目に入るわけですが、前よりもっと動作が滑らかになったように思います。

そうした全体練習と筋トレが終わって、やっと個人練習に移ります。
とはいえこのレッスンルームはダンスレッスン以外の目的ではあまり使われません。
ほとんどの子がイヤホンをつけて課題曲を通しで踊ってみたり、タブレットやスマホで動作の確認をしています。
私ももちろんそうです。日によっては外に出て走ったりもしますけど。

不思議なのは奈緒ちゃんがずっと筋トレしていることでしょうか。
あれだけ基礎ステップで成長したんですから、個人としての課題曲をもらってもいいような気がします。
時期はわからないとはいえいずれはデビューが控えている身ですし。

「麗さん」

「ん、どうした?」

「あの、奈緒ちゃんのことなんですけど」

「神谷か、どこか気になるところでも見つけたか」

一目厳しい印象を受ける麗さんですけど、話のわからない人ではありません。
それだけ裏側から私たちを支えることに真剣というだけの話です。
そんな彼女が、ほう、と少し意外そうな表情を浮かべます。

「そろそろ個別の課題曲があってもよさそうにナナは思うんですけど」

「まあ、それは言うとおりだな。練習用の曲なら先人たちのおかげでたくさんあるわけだし」

「ですよね、そのほうが個人としても伸びますよ」

「それもそのとおりなんだが、神谷に関しては方針というものがあってな」

方針。
そういうものがあるなら横から口出しできるものではありませんよね。

「それより安部、今日ボーカルレッスンは第一グループだぞ。体力の配分には注意しろ」

「あ、はいっ」

ボーカルレッスンは私が力を入れているものになります。
方針といえばこれも方針と言えそうですね。
このレッスンはその性質上、スタジオでひとりずつ練習するのが基本です。代表的な例外はユニットを組んで練習する場合でしょうか。
会社的な説明をするならば、ボーカルレッスン用のスタジオがいくつかあって、それをかわりばんこに利用するのがうちのシステムです。
部署によってはダンスレッスンとボーカルレッスンの順番が前後することもあるみたいですが、うちはダンスのあとにボーカルというのがいつもの流れになっています。
個人としての順番は日によって違っていて、今日は私が第一グループだということです。
むろんトレーナーさんも何人もいます。実は麗さんの妹さんがボーカルレッスンのトレーナーさんを務めていたりもします。

歌はなんとなくで歌うなら楽しくて気分のいいものですが、本気で取り組むとなるとあまりにも繊細で技術的で見通しの立ちにくいものです。
大舞台でたくさんの人の心に残る歌い方なんて、ぱっとできるどころかどうやればいいのか思い浮かぶものですらありません。
でも必氏でやるしかありません。
私たちの、アイドルのライブというものは総合的なものに違いありませんけど、でもその中心は歌なのだと私は思っていますから。
だから今日も全力で取り組みます。
満点の回答がわからないなら、地力を鍛え上げるだけの話です。だってそれは裏切りませんから。


18: 2018/08/12(日) 09:57:28.28 ID:f0hWHOAvo

「よし、今日はここまで」

パートナーを務めてくださるトレーナーさんの一声でボーカルレッスンは終わります。これに関してはどの子も一緒のはずです。
真剣に取り組むと決めてはいますけど、レッスン終わりにはやっぱり安堵と開放感の混じりあった気持ちが知らずに湧いてきます。
歌は日常生活では絶対に使わない筋肉を絞り上げるように使いますからね。
あごとか喉の筋肉痛ならまだイメージしやすいほうで、なにがキツいかっていうと呼吸器官にそういったものが残るんです。
もちろんそれはあくまで基礎体力みたいな話であって、音の取り方や表現のための歌い方なんかとはまた別領域です。
つまりボーカルレッスンも際限ない奥深さを持っているということです。時間がどれだけあったって足りるというものではありません。

日によってはそのまま居残り練習(これは次の時間の人と一緒に)や見学の指示が出たりもします。今日は違ったみたいですけどね。
あいさつをして荷物を持って、レッスンルームの扉を開けます。
ボーカルレッスン用の部屋が立ち並ぶ廊下には順番待ちの子たちが座るベンチがあって、順番が最後かあるいはよほどのことがない限りはそこに誰かが座っています。
私のいた部屋の第二グループはどうやら奈緒ちゃんだったらしく、部屋の前のベンチで何かのメモを見返しているようでした。

「お疲れ様です、奈緒ちゃん。次、空きましたよ」

「あ、菜々さんお疲れ。今日もキツかった?」

いたずらっぽく笑いかけてきます。
とりあえずどのレッスンもキツいのは共通理解なので、えへへ、と笑って返します。

「ところで奈緒ちゃんはいまどんな内容なんですか?」

「あー、基礎も基礎だってトレーナーさんは言ってる。実感としてもまだまだだよ」

居残り練習で奈緒ちゃんとぶつかったことがないので様子がどんなものだかはわかりません。
でもダンスレッスンの感じを思うとちょっと厳しめなのかもしれませんね。
でも奈緒ちゃんの表情には暗いものとか後ろ向きなところはなくて、きっと成長できていること自体を楽しんでいるんだろうことが読み取れます。
実に健康的な態度だと思います。

「じゃ菜々さん、またね」

手を振りながらレッスンルームに奈緒ちゃんは入っていきました。
さっきまで私がいたはずの部屋は超がつくほど徹底的に防音されていて、少なくとも人の声程度じゃなんにも漏れてはきません。ほとんど別世界です。
そんな空間に消えていったことを思うと、そうなる必要もないのにどうしてか寂しくなります。
変な感傷。
まあなんにせよ今日のぶんのレッスンはこれで終わりです。
B-02に行ってもいいし帰るのもアリです。
お買い物のことを考えるとやっぱり帰るのがベターですかね。


19: 2018/08/12(日) 09:57:56.81 ID:f0hWHOAvo



今は八月二十二日の午前四時。
目が冴えてしまってここからもう一度寝るのは難しそうだ。
だからといって何ができるってわけでもない。
こういうときはいろいろと思い出しちゃうもんだよな。

あたしの現実がすでに実際的に変わっていたかどうかはちょっと判断が難しい。
これまでと生活のスタイルが変わったのはたしかなことだったけど、あたし自身はまだテレビの向こうの存在になったわけじゃなかったから。
過渡期、とでも言えばいいんだろうか。
ただ、周囲の環境は明らかに変化していた。
初日にあたしの介抱をしてくれた菜々さん、その仲良しの心さん。
控えめどころか隙あらば逃げようとする乃々にユニットが忙しそうな柚。
その誰もがテレビの向こうの存在で、あたしはそこに含まれている。
まだ一般人のあたしに芸能人の友人がこれだけいるというのはなんとも不思議な話だ。
他にもみんなけっこう声かけてくれるしな。

そしてその不思議な話の世界の中で、あたしはさらにもうひとつ不思議な夢を見た。

ようやくボーカルレッスンにヤケクソでなく取り組めるようになったころのことだった。
むちゃくちゃな天気だった。雨も風も強くて、いっそサボりたくなるくらいに酷かった。
駅から社屋まではそれほど距離があるわけじゃないんだけど、それでもその短い距離で膝から下がけっこう濡れちゃったのをよく憶えてる。
もちろん普段もレッスン用の靴下は別に持ってきてるけど、その日は行きと帰りで靴下を替えなきゃならなかったからカバンには二足入ってた。
あたしはいつもより早く更衣室で着替えてレッスンルームの扉を開けた。
慣れきった動作に意識を割かれないのは当たり前のことで、あたしもその時はぼんやりしていた。
いつもみたいにレッスンルームは広くて、外が暗いせいでいつもと違ってちょっと眩しかった。
そんな中に、たったひとりでステップの練習をする人がいた。

あたしはそれを見た瞬間、扉のところから動くことも声をかけることもできなくて。
ただぼんやりとその姿を眺めることしかできなかった。
あたしの位置からはその人の顔は見えなかったけど、後ろ姿でさえ美しかった。

開け放した扉が仕組みにしたがって閉まる。
無粋な音が立って、あたしは失敗したことを悟った。
この空間で許される音は、シューズと床の立てる音と、短く切れる息遣いと、衣擦れの音だけだ。
あたしがそれを壊したのだからその後ろ姿がこちらを振り向くのは当然のことで、その表情は。


20: 2018/08/12(日) 09:59:23.27 ID:f0hWHOAvo

はじめきょとんとした顔が覗いたかと思うと、それはすぐにはじけるような笑顔に変わった。
まだ一歩さえ動けていなかったあたしの脳は止まったままで。
いや、たぶん正確には違っていたんだろう。
それが誰かなんて後ろ姿を見た瞬間にわかってはいたけど、それを意識のところまで持ってくるのを脳が拒否していたんだと思う。
意図せずあたしの口が憧れの名前をかたちづくった。

「み、宮本フレデリカ……」

「ワオ! はじめましてなのに名前を知ってもらえてるなんて、フレちゃんもしかして有名人!?」

はじけるような笑顔がちょっとだけいたずらっぽく変わって、テンション高く声をあげた。

気が付けばがちがちだったあたしの緊張はそこで一気にほぐれた。
なんたってテレビで楽しそうにはしゃぐ宮本フレデリカそのものがそこにいたんだから。
タオルを拾って汗を拭いながらこっちへ歩いてくるその動作のひとつひとつに目を奪われそうになったのも仕方ない。
さすがに日本のトップアイドルの一角だけあって、造り込まれたような外見はため息ものだ。
独りで練習してたってことはきっとメイクなんてしてないはずだ。目に映る顔立ちからはとても信じられないけど。
腰の位置が高くて脚が長い。顔が小さい。カラダに無駄なところがない。
見惚れているあいだに宮本フレデリカはあたしの目の前に来てて、なんだか甘い匂いがしたような気がした。

「それで、アタシの名前を知っててくれたあなたの名前はなんて言うの?」

覗き込むように顔を近づけてきたせいで、あたしはびっくりして後ろに下がろうとして、閉まってからけっこう時間の経ったドアに頭をぶつけた。
宮本フレデリカは、おもしろいねえ、なんて言いながらころころ笑っている。
ぶつけた衝撃で多少は冷静さを取り戻したあたしはとりあえず自分の名前を告げた。

「奈緒ちゃんだね! かわいい名前だ! うんうん、よろしくね奈緒ちゃん!」

突然に手を取られてぶんぶん振られた。

「これでアタシと奈緒ちゃんはお友達だね! 友達たくさんいいことだ!」

「へ!? なんかおかしくないか!? あ、いや、……ですか」

学校の友達を相手にするように接してしまいそうになる。
だってテレビに向かって丁寧な言葉遣いなんてしないだろ?
宮本フレデリカなんてそんな存在の最たるものの一人で、だから自然とフラットに話してしまいそうになったんだ。
それはまあ、親しみやすいキャラクタが影響してるのもあるかもしれないけど。
でも今は状況的にはそれは違う。
あたしはアイドルの候補生で、目の前にいるのはその道の大エースだ。
いくらなんでもノリに合わせてフランクに対応するわけにはいかないし、そんな度胸もなかった。

「んー、ダメダメ、奈緒ちゃん! 敬語なんて使っちゃダメだよー、南の島の大王もおんなじこと言ってたよ? 言ってなかったかもしれないけど」

「いや、でもそれは……」

「フレちゃんがいいって言ってるからオールオッケー! 友達なんだから、ね?」

「わか、ったよ、けどあたし割と口悪いタイプだからな」

「フランス人ハーフ、細かいコト、気にしナーイ!」

「なんで急にカタコトなんだよ! あとハーフ関係なくないか!?」

学校で友達と接するようにツッコミを入れるとフレデリカの笑顔が一段深まった。
あたしの場合は気質も関係していると思うけど、このスーパーアイドルの前ではたぶん誰でもツッコミに回ることになるんだろうと思う。
いや冷静に考えてみるとツッコミを強いるようなアイドルってなんなんだ、と思わなくもないけどな。

21: 2018/08/12(日) 09:59:49.81 ID:f0hWHOAvo

それからしばらくは質問攻めにあった。
あたしがどんな立場の人間かということから好きな三時のおやつまで。
それは友達になったとはいえこんなに聞くだろうかとちょっと疑問に思うほどだった。
単にフレデリカがそういうタイプってだけのことだったのかもしれない。
それとは別にフレデリカの言う “友達” がその場しのぎのものでないような気がしてうれしかったっていうのは本当のところだ。

「うーん、奈緒ちゃんのことたくさん教えてもらったからフレちゃんも自分のこと教えちゃおうかな♪」

「お、世間には知られてない秘密みたいなのがあるのか」

「実はねー、アタシの本名は宮本・フランソワ・フレデリカなのだ!」

「おお、ミドルネーム!」

「なんとこのことを知っているのは世界でも奈緒ちゃんひとりしかいない!」

「いやそれはさすがに嘘だろ!?」

「うん、嘘だよ」

「世界でも、はやりすぎだろ。いくらあたしでも騙されないぞ」

「そもそもミドルネームなんてないし♪」

「は?」

「だってアタシは宮本フレデリカで全部だよ?」

こういうのを悪気のかけらもなく言ってのけるのがずるいと思う。
自由すぎるし意味もわからないけど、なぜだか納得してしまう。
特別な人にだけ許される雰囲気みたいなものなんだろうか。

けれど、なんというか、ちょっと意外だった。
トップアイドルなんていうどう考えても特別な立場の人間が、こうやってなんでもないあたしを相手に笑ったり冗談を言ったりするものだとは思っていなかった。
どんなにすごくてもあたしと変わらないところがあると思うと、これまでよりもずっと身近に感じられた。
幻想を抱きすぎだろ、と言われたらそれはまあその通りなんだけど。


22: 2018/08/12(日) 10:00:17.39 ID:f0hWHOAvo

「ふむふむ、奈緒ちゃんはまだデビューの話はなんにも聞いてないんだね?」

「通い始めて三ヶ月も経ってないし、まだまだ努力が必要ってことなんだろうな」

「そっかぁ、……あ、フレちゃんちょっといいこと思いついちゃった」

「え、いきなりどうした」

「秘密~♪ でも今日はこれまでにしてあるところに行ってきまーす、バイバ~イ」

そう言うとフレデリカは軽やかにレッスンルームを出て行った。
落ち着きとかとはまったく無縁な感じはどうやら素のものらしい。
出来たばかりの友達がいなくなった部屋は途端に静まり返って、どこか現実じゃないみたいだった。
外は変わらず雨の降る暗い空で、対比されるようにあたしのいる空間は眩しくて。
たとえばドラマのワンシーンとかで使えそうだった。
……あたしには筋は思いつけないけど。

あたしが自分のヘンテコな想像を鼻で笑ったあたりで扉が開いた。
そういえばここはレッスンルームで、ここにいるべきトレーナーさんが今までいなかった。
代わりはフレデリカとのおしゃべりだ。
よくよく思い出してみれば雨と風が強いから早くここに着くようにして、そうしたらフレデリカがいたのだからなんとも奇妙で完璧なタイミングだったらしい。
トレーナーさんはすっかり準備を終えているあたしを見て満足そうに頷いた。

あたしはふと気になってトレーナーさんに聞いてみることにした。
たしかにレッスンは厳しいけど別に話ができないわけじゃないからな。

「なあトレーナーさん」

「ん? どうした」

「フレデリカって今日は何時から来てたんだ?」

それを聞くとトレーナーさんの目がすこしだけ大きくなった。

「ほう、宮本が」

「あれ、知らなかったんですか」

「ここはうち所属のアイドルなら自由に使えるからな、自主練習というところだろう」

「自主練って、そっか、フレデリカって大きいライブあったもんな」

ここだけの話、あたしも抽選に応募して見事に落選している。
競争率はむちゃくちゃなものだし、なにより高校生のあたしの懐事情には限界というものがある。
ある意味で言えばそれよりはるかに希少な体験をたった今してしまったわけだけど、そこに関しては残念な気持ちがないと言えば嘘になる。

「で、当の宮本は?」

「なんか思いついた、って言ってついさっき出てっちゃいましたけど」

フレデリカのいなくなった理由を教えるとトレーナーさんは目を外にやって考え込み始めた。
傍から見てると考え込むことの多い人だと思う。クセなのかもしれない。
いまだトレーニングを重ねているという鍛え抜かれた肉体に回転の速い頭を乗っけているから、この人はあたしから見れば超人のカテゴリに入る。

「ということは神谷、お前と話をしたということだな?」

「え、でも特別なことは何も話してないですよ」

不思議なことを確認されたものだと思っていると、トレーナーさんの頷く姿があたしの目に映った。
それはなにかに納得するといった頷き方じゃなくて、自分の中でなにかを並べ替えるみたいな感じのものだった。
そういうよくわからない動作を目の前にしてあたしの気分が良くなるはずもなかった。
どうせこの流れであたしが関わっていないなんてことはあり得ないんだろうし。

「そのうち君のところのプロデューサー殿からなにか連絡があるかもしれないな」

それだけ言うとトレーナーさんはいつものようにあたしに柔軟の指示を出した。

いまの話の流れでどうしてプロデューサーさんが出てくるのかはさっぱりわからなかった。
これまでだってたまにちょろっと様子を見に来るだけだったのに。
何をどうつなぎ合わせてその結論を導いたんだろうか。
……フレデリカがなにか関係してるっつってもなあ。

でもやっぱりあたしには理解できなくても成立してることはいくらでもあるみたいだった。


23: 2018/08/12(日) 10:00:47.43 ID:f0hWHOAvo

こなせるようになったとは言ってもダンスレッスンはやっぱりしんどい。内容が発展したのもある。
ボーカルレッスンは受け始めからずっと続いている発声と呼吸の仕方、普通にこれボイストレーニングだよな、の二本立てだった。
回数を重ねれば慣れてくるもので、自分でもちょっとは上達したかなと思う。
喉が開く感覚とか声を潰さずに飛ばす感覚とか、考えたことすらなかったイメージがあたしの中にも根を張った。
けどまだ歌を歌ったわけじゃないからどんな効果になってるのかは正直わからない。

レッスンが終わればそのまま帰るのがいつもの感じだから、あたしは今日もそれにならう。
私服で受けるボーカルレッスンは最初は不思議なものだったけど、慣れるとやっぱり気にならないんだよな。
荷物を持ってトレーナーさんにあいさつして廊下に出る。
すると見慣れたってほど顔を合わせたわけじゃないけど見慣れないってほど距離のあるわけでもない人が壁に背中を預けて立っていた。

「よう奈緒、レッスンは順調か?」

嘘だろ。今日の今日だぞ。
まさかの顔にあたしは驚きを隠せない。
きっと外から見れば動揺は簡単に見て取ることができただろう。

プロデューサーという立場の人がアイドル候補生の様子を見に来るってのは別におかしな話じゃない。
でもあたしをアイドルの世界に誘い込んだプロデューサーさんが今ここにいるのはおかしなことだとあたしには断言できる。
どうしてかって、今までは見に来るにしたって絶対にダンスレッスンの時に限ってたからだ。
なぜならダンスレッスンのあいだなら別に途中で入ってきても何の邪魔にもならないから。
一方で音やリズムが大事なボーカルレッスン中には (あたしはその限りではないけど) 途中で部屋に入ってきてしまうとどうしても邪魔になってしまう。

「じゅ、順調かどうかはトレーナーさんに聞いてくれよ、あたしが判断することじゃない」

「ん、元気はありそうだな」

いつの間にか初めて会った時とは違って話し方はくだけた感じのものになっている。
なんというか、敬語からタメ語ってんじゃなくて、よそよそしさが消えたっていうか。名前呼びになったし。

「で、だ。突然なんだけど、八月二十二日って空いてるか?」

「へ? あー、夏休みだし空いてるんじゃないかな、にしてもずいぶん先だけど」

も、もしかしてアレか、デビューってやつが近づいてきたのか?
いやいや待てあたし。それだとフレデリカがつながらない。
それにデビューなら話の切り出し方がたぶん違うはずだ。

「よし、じゃあその日は空けといてくれ」

「うん、そうするよ」

「あ、別の話になるけどデビューも決まったからな。デモテープも来週には届くそうだ」

「うんわかった、……うん!?」


その日の晩、あたしは微熱を出した。


24: 2018/08/12(日) 10:01:14.38 ID:f0hWHOAvo



「ナナちゃーん、ダメだよもう、いくら可愛いからって奈緒ちゃん独り占めにしちゃ」

ちょっと待ってください何のことですか。
忙しげな足音が聞こえるなと思いながら廊下を歩いていたらいきなり言いがかりな感じで声をかけられました。
ついでに後ろから抱き着かれました。

「えっ、奈緒ちゃんって、いや別にそんなことしてませんよ!?」

「フレちゃんはナナちゃんをそんな子に育てた覚えはありません!」

「えぇ……、ナナも育てられた覚えはないっていうかそもそも私のほうが歳う、……こほん」

咳ばらいをしていったん心を落ち着かせます。
あれ、フレデリカちゃんって奈緒ちゃんのこと知りませんでしたっけ。
だって私たちの部署のレッスンルームって一緒では、とそこまで考えてはっと合点がいきました。
そういえばここしばらくのフレデリカちゃんって外のスタジオでレッスンをしてるんでしたね。
なるほどそれじゃあここ最近来るようになった奈緒ちゃんのことを知らなかったはずです。
おや、でも知り合いじゃないはずなのにフレデリカちゃんから奈緒ちゃんの名前が出てくるってことは。

「ひょっとして奈緒ちゃんとどこかで知り合ったんですか?」

「うん! あれはこの間のねー、そう、雪の降りしきる晩のことだったんだ」

わざとらしく作り変えた演技っぽすぎる声は素直に嘘と言うよりも嘘っぽいものでした。

「フレデリカちゃん、いまは六月です。雪は降りませんよ」

「あれ、そうだっけ? じゃあ違うんだね」

とくに細かい情景が知りたいわけでもないんですが、こうやってあからさまにはぐらかされるのも困りものですね。
いつもこの調子だと何が本当のことなのかわからなくなっちゃいそうです。

よくよく顔を見てみるとなんだかうきうきを隠し切れないような表情をしています。
ははあ、さては奈緒ちゃんと相当ウマが合いましたかねこれは。
フレデリカちゃんが絡んでる時点でどんな化学反応が起きるかなんてわかりっこありません。
もしかしたら私たちがレッスンルームで見るいつもの奈緒ちゃんとは違った奈緒ちゃんだったのかもしれませんね。

「アタシ奈緒ちゃんともっと早くに知り合っておきたかったなー、ナナちゃんずるーい!」

「そんなこと言われてもここのところフレデリカちゃんいなかったじゃないですかぁ」

「でもアタシ、欲しいものは何を捨ててでも手に入れる主義だよ?」

「まるっきり論点変わってるうえにそんな悪役みたいな主義はじめて聞きましたよ……」

「あれ、ホント?」

それに私も知り合って二ヶ月とちょっとですし。
隣を歩くフレデリカちゃんは楽しそうに頭を悩ますフリをしています。

「というかフレデリカちゃんっていまレッスンで忙しいのでは?」

「今日は口紅のの撮影だったからそれはお休みだったんだ♪」

「ひぇっ、でっかいお仕事ですね」

「もうね、ルージュ、って感じのオトナなやつだったんだー、見て見て~」

そう言ってフレデリカちゃんは肩から提げていたちいさなバッグからスマホを取り出しました。
手慣れた様子でロックを解いてすぐに目当てのアプリを起動しています。
トレードマークの鼻歌も聞こえてきました。いい出来だったんでしょうか。

「ほらこれっ!」

「わああっ、なんですかこれ!」

憎めないいわゆるドヤ顔とともに差し出された画像は海外のデスメタルバンドのボーカルのアップでした。
もしこれがフレデリカちゃんならもう特殊メイクの領域じゃないですか、骨格から違います。
ちなみに口紅はいちおう塗られてはいますが色はルージュどころか黒でした。

「あ、ごめんごめん間違えちゃった」

絶対わざとですよね?
だって自分とデスメタル間違えませんもん。
というかなんでそんな画像がスマホに入ってるんですか。
すこしも悪びれずに満足そうに画面を操作しているのに文句も言えないのは、これ別にナナ悪くないですよね?


25: 2018/08/12(日) 10:01:42.37 ID:f0hWHOAvo

……こんな表情もできるんですか。
すぐに出てきたいつもと違うメイクのフレデリカちゃんは目を疑うほどで、これがまだ未成年だなんて聞かされても信じられない人が大多数を占めるだろうと思うくらいに大人びて見えました。
ふつうにスマホで撮ったものなのに、背景がごちゃごちゃしたスタジオでなくたとえば白一色だったなら商用レベルじゃないかと疑うほど完成度の高い写真でした。
いえ、完成度にまで思考が及んでしまうほど美しいというのが本当は適切なんでしょう。
私は思わず息を呑んでじっとスマホを覗き込みます。
きれいだな、なんていう子どもみたいな感想だけを抱えたまま呼吸さえ忘れていたような気がします。

「もー、照れちゃうよナナちゃん」

「えっ、あっごめんなさい。でもこれホントすごい魅力的で……」

「うんうん言いたいことはフレちゃんよくわかる、なんか工口いよね」

「自分からそういうこと言っちゃうんですか!?」

まあ同意はしますしカメラが回ってるわけでもないので発言そのものを止めたりはしませんけど。

「というかこれ誰に撮ってもらったんですか? スタッフさん?」

「うん、休憩時間のときに撮ってもらったんだ」

「なんというか、こう、キメキメな顔してますね」

「それは仕方ないよー、だってアタシ宮本キメデリカだもん」

ああ、これですこれ。これがフレデリカちゃんですよ。
具体的な言葉で説明するのは無理なんですけど、こうなんですよ。
こういうのを個性と呼ぶのかもしれません。違うかもしれませんけど。

「あ、ねえねえナナちゃん、いくつか試供品もらったんだけどいる?」

「うれしいですけど、私さっきみたいなはっきりした色ってあまり似合わなくて……」

「大丈夫大丈夫、色もいくつかもらったからお気に入りも見つかると思うな♪」

「わ、いっぱいありますね、さすが塔」

「んふふ、じゃあ今度からはタワー宮本と名乗ろうか!」

「そんな弱そうなリングネームみたいな……」

私がそう返すとフレデリカちゃんはにっこりと笑顔を深めました。
これ仮に私が返すのへたっぴだったとしても、これでいいんだって勘違いしちゃいますよね。
まあ友人関係にそういったことを持ち出すのは野暮な話ではありますけど。
……ってフレデリカちゃんからもらったこれ、海外の有名ブランドのやつですね。えっ、ここと契約したんですか、すごっ。


26: 2018/08/12(日) 10:02:10.56 ID:f0hWHOAvo

ウサミン星へと続く電車は心地良いリズムで私の体を揺らします。
今日は運がよかったのか、けっこう早い段階で座ることができました。
いろんな人がいろんな目的を持ってどこかの駅へと向かうこの光景はよくよく見慣れたものです。
知名度なんてまだまだの私には変装の必要もありません。
髪だけ下ろしておしまいです。それだってほとんど自己満足みたいなもので、ふとため息が出そうになります。
いつか、電車に乗るのに大変な準備が要るような、そんな存在になりたいです。

今日フレデリカちゃんとお話をしてしまったせいでしょうか。
それとも以前はぁとちゃんと二人で愚痴を言い合ったのを不意に思い出してしまったからでしょうか。
どうにも未来のことがちらついて仕方がありません。

この世界は、着実に積み上げて成功を収めるというパターンのほうがむしろ稀です。
一気に、爆発的に、階段を何段も飛ばして、そうして一等星として輝く。
才能がそこらじゅうをうろついているような界隈で燦然と存在感を放つのなら、それこそ圧倒的なものがなければなりませんから。
私には、ナナにはそれがありません。

たしかにフレデリカちゃんと私では対象というか、ファン層が違います。
フレデリカちゃんはむしろ女性ファンのほうが多いくらいで、ナナのファンはコアな感じというか。
けれどそれだけでは説明がつかないことがあるのもれっきとした事実です。
それこそが何をもって実力と呼ぶのかさえわからないこの世界にしがみついている理由なのかもしれませんけど。

ぼんやりと目の前に立っている人のTシャツを眺めます。
その人のTシャツには地面から芽が出ている図柄がプリントされていました。
いわゆる双子葉というやつで、たしか中学校で習った覚えがあります。
さて双子葉と単子葉で植物的にどんな特徴を備えるんでしたっけ。さっぱり思い出せません。
その図柄のかたちだけをじっと見ているとだんだん変な図形に見えてきました。疲れてるんでしょうね。

芽。
ふと頭の中に納得までの段階を済ませた考えが自然に場所を取っていることに気が付きました。
あの子はそれほど時間を置かずに、ちょっとしたきっかけで一気に大人になる。正しい色気というものを身につける。
今はまだ溌溂とした少女としての魅力が強いけれど、すぐにそれが変質していくに違いない。
そして誰もがあの子から目を離せなくなる。
さっきのあの画像はまさにまだ誰にも知られてない萌芽だ。
焦点の合っていない目のままで前を見つめていると、電車ががたんと揺れて一気に現実に引き戻されました。

フレデリカちゃんと同じ部署にいることはラッキーなんでしょうか、アンラッキーなんでしょうか。
仲良くなれたことは確実にラッキーなことだと思うんですけど。


27: 2018/08/12(日) 10:02:38.75 ID:f0hWHOAvo



デビューが決まったということで、これまで行けなかった場所に行けるようになった。
たとえば最初の日に菜々さんに誘われた、アイドルのみんなが集まってるっていう部屋。
こうやって言葉にするとなんだかとても現金で、素直に喜べないような感じもちょっとある。
お前はこれこれこうだから許すよ、お前はそうじゃないから許してあげない。
あたしは前者になったわけだけど、なんだか、うん。
いやまあ考えすぎなのはわかってる。

熱が下がって数日後、そんな経緯があった上でいまあたしは菜々さんに連れられてB-02に来ている。
前々から聞かされてはいたけど、みんなこういう部屋に集まってたんだな。
一般的な企業の事務室みたいなところがどんなのかは知らないけど、この部屋はたぶん綺麗だと断言してもいいものなんじゃないか。
なんというか、オシャレだ。オフィスっていう言い方がしっくりくる感じ。広いし。
心さんが黒革張りのソファにだらしなく身を預けているのを除けば、ってことだけど。
どうやら寝てるみたいだ。疲れてるのかもしれないな。

責任者であるプロデューサーさんがいないけれど、菜々さんから聞くところによれば珍しくないことらしく、よくただの談話スペースと化しているんだそうだ。
あたしもそれが当たり前になるのかと思うと不思議な感じがした。
というかすでにここに来ること自体を当たり前にしてもよくなっている状況を考えると、本当に属している世界が変わったんだという気がした。
だってここはアイドルが出入りするスペースなんだから。

隣の菜々さんが手で指すほうについていく。
あたしたちは心さんが寝てるところからはちょっと離れた位置のソファに座ることにした。
この部屋の使われ方の話がさっきあったってことは、これからすることも決まりだ。そんなに構えるようなことじゃないけど。
小声で話をするならまず大丈夫だろうし、そもそも心さんなら起きなさそうな気もするし。失礼かな?
まあ菜々さんもそう考えてるからここを選んだんだろうけど。


28: 2018/08/12(日) 10:03:06.66 ID:f0hWHOAvo

「というか奈緒ちゃん、メガネさんですね」

「あれ、あ、そっか。レッスンの時はいつもコンタクトだから」

「なんだか新鮮ですねえ」

「あたしとしちゃこっちが普段通りなんだけどな、学校もこれで通ってるし」

「じゃあ今日からはコンタクト持ちってことですか」

「そ。ダンスレッスンはメガネじゃ無理だけど、普段はできれば慣れた感じで過ごしたくてさ」

そっか。ここだとコンタクトのあたしが普通なのか。
あたしからするとそれこそ新鮮だよな。
学校だとむしろメガネじゃないあたしを見たことあるやつなんていないのに。

「まあまあ菜々さん、あたしの見た目なんてどうでもいいじゃんか」

「そうですか? ナナとしては気になるところなんですけど」

「いいの。それにしてもまだまだジメジメが続くよなぁ」

「七月に入っても梅雨明けはまだ先なんですよねぇ」

「わかる、梅雨と言えば六月、みたいに思ってたけど実際そんなこともないんだよな」

毎年やって来るこの時期に梅雨の話をしたことがない人なんていないだろう。
その意味であたしたちの会話はとんでもなくふつうのものだった。
フレデリカもふつうなら菜々さんもふつう。
単に目立つ職業ってだけで、人間的な面では特別じゃないってことをよくよく実感する。
そしてその実感を抱いたとき、なぜだろう、あたしはうれしかった。

「でも七月になると、夏のはじまりだな、って特別な気分になっちゃうのも本当なんですよねぇ」

「それもわかる。あたしもカレンダー見て今日から夏か、とか毎年思うよ」

「それにほら、私たちにとっては年二回の新しい仲間と出会う季節でもありますし」

「え、菜々さん、どういうこと?」

菜々さんはきょとんとしている。
ひょっとしてあたし何かハズしたのか?
まいったな、めちゃめちゃいたたまれない。
たまーにこういうのやらかしちゃうことあるんだよな。
苦笑いがゆっくりと口元に上がってくるのを意識すると、菜々さんの表情がもうひとつ変わった。
はっとなにかに気付いたような顔をしてるけど。

「も、もも、もしかしてですけど、奈緒ちゃんウチのオーディションの実施月って……」

「知らないよ、っていうかその言い方だと今月オーディションやるんだな」

菜々さんの表情がなにかに気付いたものから焦ったものに綺麗に移り変わっていく。
あたしの頭にはクエスチョンマークが飛び交っている。
どんなふうに頑張ってみても手元にある材料がつながらない。
オーディションをやる月を知らないことと菜々さんが焦る理由。
とっかかりが足りない中で考えていると今度は菜々さんの口がかたちを変えた。

「つっ、つまりそれっ、すすすスカウトされたってことですか!? プロデューサーさんに!?」

「スカウトってほどそれっぽくはなかったけど」

「で、でも、だって、オーディション受けてませんよね?」

嘘をつく理由はなかったからあたしは素直に肯いた。
それがそんなに大きなことだとはあたしには思えなかったからだ。
アイドルとスカウトなんて単語は関係ありそうにも聞こえるんだけど、実際は違うんだろうか。
でもその可能性もすこし考えるとなさそうだということに落ち着く。
だってそれだとあたしが特別ってことになりそうだから。


29: 2018/08/12(日) 10:03:33.41 ID:f0hWHOAvo

どうやって話を続けたものか見当がつかなかったあたしは菜々さんが話し出すのを待つ。というかそれ以外にできることがない。
菜々さんはさっきと変わらず、驚いたような焦ったような顔をしている。

「あのですね、いいですか?」

あたしがぼんやりと菜々さんが話すのを待っていたのが理解できてないふうに見えたのかな。
それはそれでいいか。ちょうど説明は聞きたかったところだし。
返事を返す代わりにあたしは菜々さんの目を覗き込んだ。

「端的に言っちゃえば、初めてスカウトされたのが奈緒ちゃんってことになるんです」

ほんの十数秒前に切り捨てたはずの可能性があたしの前で息をしていた。
もちろんまだいくつか種類を備えてはいる。
たとえばプロデューサーさんはこれまでスカウトすることが許されていなかったとか。
たとえばもともとスカウトなんてする主義じゃなかったのに、上司からの指示とかでそうせざるを得なくなったとか。

けれど、あたしはうまく言葉を返せなかった。
それどころか自分がどういう気持ちなのか名前をつけることさえできない。
わけがわからないという意味で言えば、いつかテレビで見た抽象画と同じだ。
菜々さんの瞳に興奮のようなものがちらついたような気がした。

「や、やめてくれよ菜々さん、あたしをふつうじゃないみたいに言うのは」

「いやいやよっぽどだと思いますよ? あのひと街に繰り出してはピンと来なかったとか自信が持てないとかずっと繰り返してたんですから」

話題そのものは真面目とはちょっとずれたものだったけど、菜々さんの話し方ががあまりにも真剣なものだったから、あたしはなんだかそれが面白く思えてしまって笑ってしまいそうになる。
それをこらえることで頭の中の混乱にひとつ落ち着きが訪れて。
そうして次に照れくささがやってきて、あたしの気持ちは突然そこから動けなくなる。

褒められる機会に恵まれていたわけでもないから褒められるのになんて慣れてるわけがない。
ましてや今はその相手がアイドルっていうある種の殿上人なわけで、こんな状況はあたしの理解をはるかに超えているのだ。
そんな事情が届いているはずもなく、菜々さんはプロデューサーさんがスカウトすることの特別さについて丁寧に説明してくれる。

すごく熱の入った話だったけど、あたしに納得できるわけがない。
だってそうじゃないか、他の誰か、たとえばフレデリカじゃなくてあたしなんだから。
どう見たって特別とは思えないふつうの女子高生だぞ。
だからあたしはプロデューサーさんの側に何らかの事情があったと推測せざるを得ない。
言い方は悪いかもしれないけど、菜々さんだって全部のことを知ってるわけじゃないはずだしな。

「いやいや、ナナ先輩の言ってることどれもホントだかんな☆」

「ええ? でもあたしにはしっくりこないっていうか、……って心さん!?」

「ん、どうした?」

起こしてしまうどころかいつの間にか肩に手まで回されていてあたしはびっくりした。
いったいどれほど動揺していたんだか。ため息をつきたくなる。本当についたりはしないけど。

「あ、あはは、起こしちゃいました?」

「あんだけ騒がれてスヤスヤ~、ってほどモーロクしてねぇぞ☆」

そういえば一瞬テンションが上がったような。

「ご、ごめんなさい。初めは静かにしようと思ってたんだけど……」

「まぁいいよ気にすんな☆ んーなことでぐちぐち言うのはスウィーティーじゃねぇし」

それにしてもこの人の物理的な距離の詰め方はまるで意味がわからない。
今回に関してはあたしが混乱してたのはあるけど、それと人にぴったりくっつくのにためらいがないってのとはまた別の問題だと思う。
なによりすごいのがいつの間にかぴったりくっつかれてもちっともイヤな気がしないってことだ。
あたしの鼻を押しつけがましくない甘い匂いがくすぐる。

「それより奈緒坊、スカウトされたのは事実なんだろ?」

「そりゃそうだけどさ」

「じゃあもうそこは認めなきゃな」

「でもあたしそんな実感ないよ」

「うるせぇな☆ 自分じゃわかってない何かがあったからスカウトされたんだろ。もうこれ以上この話はどこにもいかねぇぞ☆」

そう言われてしまえばあたしに返せる言葉はもうない。
あたしにできるのは視線を外して人差し指で頬を掻くことくらいだ。

けれど心さんに言われたことを振り返ってみると、それをあっさり受け入れている自分もいる。
さっき菜々さんに対して思ったことは自分に対しても返ってくるのだ。
あたしの知らないあたし。
とすれば、ふつうの女子高生じゃない神谷奈緒がプロデューサーさんの目には映ったってことなのか?
フレデリカやトレーナーさんにも?
ああ、これはたしかにもうどこにもいけない話だ。


30: 2018/08/12(日) 10:04:04.78 ID:f0hWHOAvo

充電器につながっているスマホはふつう目を覚ますような時間じゃないと告げている。
朝起きるときにはかならず引きずっている “もうすこし寝ていたい” という気持ちが、なぜか今だけは微塵も残っていない。
それどころか頭はすっきりと冴えているくらい。
意識が覚醒した瞬間から脳がフル回転で動くなんて感覚はむちゃくちゃ奇妙なものだ。他のものにたとえることのできない違和感だけがはっきりした頭に残る。

振り返って覗いてみた窓の向こうの午前三時の空はただまっくらで、暑いわけでも寒いわけでもない。
八月も後半に差し掛かった時期を考えればタオルケットなんてあってもなくてもどっちでもよさそうで、実際ベッドから落ちたところにあたしのタオルケットは丸まっている。
汗はとくにかいていないみたいで、肌は普段通りの手触りだ。
ところでこの時間を深夜と呼ぶのか早朝と呼ぶのかあたしは知らない。ただ外を見る限りは夜と呼ぶのが妥当のように思える。
十二時間後を対極の時間と考えるなら、たしかにいまはド深夜と呼ぶのが正しそうだ。

まっくら。でも空の色は完全に黒というわけじゃない。
コーラ飲みたいな。
は? なんでこの状況であたしは突然コーラを思い浮かべるんだ?
意味も理由もわからない。でも飲みたくなったのは本当だ。
……まあ、近くに自販機あるし。
まず人とは出会わないだろうけど、ぎりぎり人に見られても大丈夫な程度の服に着替えて財布を片手にこっそりと玄関のドアを開ける。
空気の感じが家の中と全然違う。昼と比べてもそうだ。
澄んでいて、ひんやりしていて、もう一つ言葉にできない何かの感覚がある。
当然どの家も明かりなんて点いてなくて、見渡せる範囲ぜんぶが寝静まっている。
あるのはマンションの廊下の明かりと一晩中点いてるような道端の電灯だけ。
駅のほうまで行けばもっともっと明るいんだろうなと思うと、どうしてだか空しくなった。

自販機を目指して夜の底を歩く。
サンダルとアスファルトがこすれてじゃりじゃりと音がたてる。
地面がすこしやわらかくなったような気さえする。
周囲に余計な音が無いからか、小銭を入れる音が響く。
文字通り本当に冷たい缶はしっかりとつかむのには五秒だって長すぎるくらいだ。
コーラが喉を通ってやっと現実感と実感が湧いてくる。
アルバイト、アルバイトと意識しないうちに口から言葉がこぼれ出る。一見ヤバい。
ただ今日のはちょっと特別なアルバイトで、午前三時に目が覚めてしまうほど気分が高翌揚するのも仕方がないと思えるほどの仕事なのだ。

説明のつかない時間。ほんとうなら寝ているべき時間。
でもあたしは起きていたい。もしかしたら外に出ようと考えた時点でそうするつもりだったのかもしれない。
自販機のすぐそばの駐車場の低いブロック塀が座るのにぴったりで、コーラを片手にあたしは座る。
なんにもない時間に、ただ暗い街並みを眺めているのはなんにもつながらない。
そもそも眺めるといったって高いところから見ているわけじゃない。
というか普段立っている目線の高さよりもむしろ下の位置から眺めている。
新しい発見なんて何もない。せいぜい人工の光ってこんなに強かったんだってわかったくらいだ。
ぼんやりして、頭に空白が生まれる。
するとその空白を埋めるように、とくに願ったわけでもない記憶がふんわりと浮かんできた。

あれはたしか小学校二年生のころのことだったと思う。
あたしは小学校の廊下にいて、もう帰るところだった。
外は寒いから厚く着込んでいて、教室から出たときになんとなく昇降口とは逆のほうを振り向いたんだ。
廊下の奥の方には同じ学年だけど名前を知らない別のクラスの男の子と女の子がいて、手とか顔とかはいろんな仕草が見られたんだけど、不思議なことに足は根をはったように動いていなかった。
やがて女の子が何かを男の子に渡した。そして突然、それまで動けなかったぶんを取り戻すように思いきり駆け出した。あたしがいるのとは別の方向に。
あたしには関わりのなかったバレンタインデー。
子供心にも、ああ自分とは遠いところにあるんだ、とぼんやり思ってた。
もし動こうとすれば、今でもあたしはバレンタインデーに近づくことができるんだろうか。

そういえばそんなこともあったなと思う。
けど、どうしてこんな記憶が急に蘇ってきたんだろう。
別に強烈に印象に残ってたわけじゃない。というか思い出したのは初めてだ。
あたしのまったく関わっていない記憶。
晩夏の午前三時にはそういう不思議な力があるんだろうか。
イヤな記憶なわけじゃないんだけど、頭に急に浮かんだ泡みたいなそれを振り払うためにもういちど周りを見渡してみる。
見える景色に変化はない。ただ暗いだけだ。
でもたしかに朝は近づいていた。


31: 2018/08/12(日) 10:04:31.50 ID:f0hWHOAvo

段ボール箱に入った商品を指定の場所まで運ぶ。
簡単に言ってしまえばあたしの仕事内容なんてそんなもので、とくに複雑なわけじゃなかった。
その代わりと言っていいのかはわからないけどその量はどう見たってとんでもないもので、そういった仕事の経験のないあたしがすんなり雇ってもらえるのも納得だった。
それがどうして早起きするほど特別かといえば、この仕事が誰のライブのためのものかに関係している。
フレデリカだ。
いわゆる物販のスペースには小さなものはシールから大きなものなんかデカいパネル?みたいなものまであって、フレデリカの人気の一端が窺える。
普段から連絡を取り合うようになったせいでスーパーアイドルだってことを忘れそうになるけど、こうして現場に来てみるとその事実をしっかりと思い出すことができる。
まさかスタッフ側として現場に関わることになるとはちっとも思ってなかったけど。

フレデリカのライブという大前提はあったにせよ、荷運びという仕事そのものも思っていた以上に楽しいものだった。
お揃いのスタッフTシャツを着てライブの準備を整えていくのは文化祭のスケールを大きくしたような感じで、あたしみたいな素人もその一体感の中に入れてもらえてるような気がした。
フレデリカがあのとき敬語を使わないでほしいと言ってた気持ちもわかる気がする。タメ口というか雑な扱いだと距離が近いような感じがあるのだ。
ちょっと違うか、敬語を使われてると遠慮みたいなものを不意に感じることがあると言ったほうが近いかもしれない。
ほとんど決まった場所の往復しかしなかったけど、あたしのアルバイトはそんなこんなで順調だった。

荷物を運んでしまうとあたしの仕事はすっかりなくなった。
本当なら品数の確認とか別の仕事があるんだけど、そこは素人が入ったら逆に時間がかかっちゃうからあたしは関わっていない。
だからあたしは暇を出されるかたちで舞台裏をうろつく許可をもらっていた。
なんと文字通りステージの裏側まで回っていいとのことだった。
そうは言ってもちょっと疲れていたあたしの足はまずアリーナの外へと向かう。本番前の休憩みたいのものだ。
まさに夏空っていう感じの抜群の晴れ方だけど、天気予報によるとどうやら日が傾いたころから天気は下り坂らしい。現時点での空を見ているとなかなか信じがたいものがある。
ステージの設営どうこうはあたしがアリーナに着いたときには終わっていたから、きっと昨日の段階で、あるいはもっと早くに済んでいたんだと思う。
誰がそこに立つのかを考えればそれもそうかと頷ける。何かを仕込んでいるだろうことは簡単に想像がつくからだ。

礼儀というか常識というかなにかそういったものが働いて、あたしは舞台には上がることなく顔を覗かせるかたちでその空間を見渡す。
たぶん全体を通した大掛かりなリハーサルは昨日とかの段階で済んでるだろうし、観客が入るのにはまだ時間が早すぎる。
だから会場にはほとんど明かりが点いてなかった。
映画の上映中みたいに足元だけがぽつんぽつんと淡く光っている。
もちろん設営の用事ができればその限りではないんだろうけど、とにかく今は暗かった。
ついでに言えば涼しいどころかちょっと寒いくらいだ。
荷運びをしているときには汗を拭くのに必要だったスポーツタオルの役割が変わるくらいに。

( まるで深海みたいだ )

別に深海に対して強い関心を持っているわけじゃないけど。
けれど何かが合致してしまったんだろう。そういうことは珍しいことじゃない。
光が無いせいで余計に距離感のつかめない天井も、あたしとは根本的に違うスケールで広い空間に点在するよく見えないデコボコとした座席や柵や階段も、全部がそれを想起させた。
足元の小さな光でさえそのある種の幻想的なイメージを手伝っていた。

場内はここに観客が詰めかけるのだと言われてもなかなか信じられないくらいにがらんとしている。
今はフレデリカとは正反対にあるようなそんな静かで暗い舞台のはずなのに、でもあいつがそこに立てば綺麗に映えるだろうことは疑えなかった。
どうしてと問われても答えられないことが多すぎて自分でもすこし不安になってくる。
それとも誰でもこんなふうにわからないことに囲まれて生活してるんだろうか。
まさか聞いてみるわけにもいかないけど。


32: 2018/08/12(日) 10:05:07.70 ID:f0hWHOAvo



会場に来ているお客さんがとくべつ静かにしているわけじゃありません。
ざわめきどころか近いものなら会話の内容だって聞き取れます。
でも場内の高い天井から沈黙に似たすこし重みのある空気がゆっくりと下りてきます。
これはライブイベント特有のものなんでしょうか。私にはわかりません。
あるいは大きな会場であることが条件なのかもしれません。
後ろを振り返ると、中学校で習った反比例の正の値のように客席が上段まで弧を描いているように見えます。
男性だってたくさんいますけど、やっぱり他の子のライブに比べて女性の数が多いですね。
ファッションモデルとして活躍していることが大きいんだと思います。他にも特別な何かがあるのかもしれませんけど。

始まるまでまだ優に三十分はあるはずなのに、空いてる席を探すのはもう無理といった入り具合です。
もしかして本当に埋まりきっていたりするんでしょうか。
もちろん物販とかのことを考えたらまずありえないとは思いますけど、でも私がそう考えてしまうくらいにはこの広い会場は混み合っています。
息を吐き終わってからため息をこぼしていたことに初めて気が付きました。
急いで口を覆いましたけど、そのこと自体もなんだかすごく恥ずかしくて。
とりあえず二本買っておいたペットボトルの片方にそそくさと口をつけました。


33: 2018/08/12(日) 10:05:34.66 ID:f0hWHOAvo

突然、暗くなりました。
それまで普通の室内の明るさだったはずの景色が一変します。
まるで太陽が一瞬で沈んでしまったように。
直後は落差のせいでなんにも見えなかった周囲が、時間をかけてゆっくりかたちを取り戻していきます。
それでも暗いことに変わりはないので、かたちを見分けるのがやっとです。
不意に視線を上に持っていくと、ギリギリまで絞ったライトがその場でだけ光っていました。
まるで星の瞬く夜空のようです。

もうじき始まるんだ。
光のなくなったあのステージに一番星が上がるんだ。
周囲のざわめきもはっきりとひそやかなものに変わります。
みんなの気持ちの向きが統一されていくのがわかります。
だって、私たちはたった一人のアイドルを見に来たんですから。
この待っている時間が待ち遠しくて仕方がありません。
でも、愛おしくもあります。

完全に明かりが落ちて、時間がぴたりと止まります。
もう誰も口を開いてはいません。
全員の視線が前へ向いていることが、姿なんて見えなくたって感じ取れます。
きっと十五秒くらい経ちました。
みんなの中で何かが高まっていきます。
私だって例外じゃありません。
何度も何度もライブは見に来ましたけど、この感覚はいつだって決まって湧き起こってきます。
三十秒は経ったはずです。
いえ、もしかしたらその五倍くらい経っているのかもしれません。
もうみんなの高まりが限界近くまで来ています。
破裂してしまいそうなほどの空気が張りつめて、息が詰まりそうになります。

「みんなー、お待たせボンジュールー♪」

マイクを通して少し滲んだ声が、場内に反響して浸透していきます。
続いてステージ脇、向かって右側にスポットライトが当たります。
目を凝らせば階段があるのが見て取れます。あそこから上がってくるんでしょう。
フレデリカちゃんの一曲目、もうお決まりと言ってもいいほどの前奏が始まります。
曲調はポップなんですけど、でもどうしてか私は涙ぐんでしまう、そんなナンバー。
最初の一音、そこから包み込むように場内を満たしていく音の奔流。
まだ姿は見えません。
特別なアレンジでもしない限りはそんなに前奏は長くないはずなんですけど……。
もう歌が始まっちゃいます。アクシデント? まさか。

歌が始まる、と思ったらスポットライトが同じタイミングでステージ中央に切り替わりました。
フレデリカちゃんは何食わぬ顔、というか楽しそうにステップを踏みながら歌っています。
ああなるほど、そういう仕込みですか。
ちょうどそれに思い当たった辺りで “ねえ、どこを見てたの?” という歌詞が耳に届きました。
やかましいわ、とツッコみたくもなりますがそれは野暮というものです。
どうして、って思い思いの色のサイリウムが一斉に揺れ始めて、幻想的な光景が浮かび上がるから。
穂の光る夜の草原の先で、かたちを持った憧れが手を振っています。

引力と呼ぶべきでしょうか。
視線はどうしても彼女のもとへ向けざるを得なくなります。
もちろん周囲が暗いなかでの明るいステージですからそれは自然ですけど、きっとそれ以上に。

一生懸命にコールを入れます。
そうしないと口を開けたままぼんやりと時間が流れてしまいそうな気がするから。
夢の時間の熱狂は曲目が変わっても衰えることなく、むしろ一体感を増して高まっていきます。
曲目と曲目のあいだのマイクパフォーマンスも、曲中に要求する煽りも、ミュージックビデオでは見られないキレキレのダンスも、本気の歌声も、全部がフレデリカちゃん以上のものでありながらしっかりとフレデリカちゃんでした。

“らしさ” という意味では三曲めのAサビ終わりに舞台の両脇からスモークが勢いよく噴き出て、その片方からフレデリカちゃんがもうひとり出てきたのが印象に残っています。
しかも出てきたのがそっくりさんじゃなくて本物だったっていうのが、また。
後で本人に聞くと、歌は舞台の裏で本当に歌っていたそうです。
距離があったとはいえ、会場の盛り上がりを考えれば誰もそっくりさんだったなんて疑ってはいなかったはずです。よくもまあそんな似た人を探し出しましたよね。メイクの魔法でしょうか?
実際に本物と見比べると違いがわかるんですけど、似てたんですよ、これ本当です。
というか影武者さんのほうも最後までダブルフレデリカとして舞台に立ち続けていたのも驚きです。

ん? ああなるほど、私たちと一緒にレッスンできないわけです。秘中の秘なわけですから。
このかわいらしいイタズラに会場は精一杯の声で応えていました。
まるで全力で声を上げる口実を見つけたみたいに。
熱狂。
ほとんど音の中にいるようだったあの感覚はほかに喩えようがありません。
流れる汗のことなんてちっとも気にならなくて、どこで息をしていたのか思い出せないくらいに気持ちよくて。
振り上げた腕はとても自分のものだと思えませんでした。

いま思い返してみれば事前に買っておいた飲み物を途中で飲むチャンスもあったはずなんですけど、あの最中にはちらりとも頭に浮かびませんでしたね。あらん限りの声で叫び通してました。
おかげで翌日どころか三日ほど喉にダメージが残りました。
お仕事を考えるとやっちゃいけないんですけどね。
アンコールも含めて満足以上の言葉が出て来ないほどに楽しい時間でした。
夢そのもの、憧れそのもの。
夜の空の下で、光る草原に囲まれて。
心の底から楽しそうに歌って踊ってしゃべる彼女の姿は、やっぱり一番星でした。


34: 2018/08/12(日) 10:06:02.62 ID:f0hWHOAvo



いまあたしに起きている現象はほんとうに現実のものなんだろうか。
ついさっき、それこそ二分とか三分くらい前までステージの中央に立っていたフレデリカに、あたしは抱きしめられている。
あたしは何もしていない。スタッフゾーンから舞台袖に引っ込んできただけだ。というかそもそもここに来ることだって教えてないんだけど。
だというのにフレデリカはステージから下りてくるなりあたしを見つけて駆け寄ってきて。
そしてあたしに何度もありがとうと呟いている。
なんだか状況がうまく掴めていないから、この細身の体に手を回していいものなのかもわからない。

「……ああ、お疲れさま」

あたしに言えるのはこれだけだ。

「……うん」

衣装も肌もぐしょぐしょで、あたしだってさっきまで汗まみれだったしそんなことはどうでもいいんだけど、フレデリカは本当に疲れているように見えた。
呼吸ももう落ち着いてきてるし、あたしにかかる体重もさっきほどじゃない。
でもときおり腕が震えているのを見ると、間違いなく大変だったんだろうと思う。
ライブ中、あたしから見えたフレデリカは客席を見据えた横顔だけ。
だけど見ていた時はそんな風には見えなかったんだけどな。
いや、それどころか正直に言えばカッコよくさえあった。
ずーっと動きっぱなしで、それでもちっとも疲れた素振りなんて見せずに笑顔を振りまいてさ。
ステージに立っていたもうひとりには悪いけど、ほとんど記憶に残らないくらいフレデリカが凄かった。
どれくらい凄かったかって、スタッフゾーンで見てて歓声を上げないように自分を抑えなきゃならなかったくらいだ。

だからいまここでフレデリカに理由を尋ねるわけにはいかない。
あたしにだってそれくらいの常識は備わっている。
まあ、フレデリカの状態を考えたら、受け止めてやるくらいは当然か。
ぽんぽんと右手で背中を軽く叩いてやる。
よく頑張ったな、なんてどんな立場かわかったもんじゃないセリフも一緒だ。

「奈緒ちゃんのおかげでね、奈緒ちゃんのおかげでね、ふふ、わかったことがあるんだー♪」

「なんだよ、ライブに集中してたんじゃないのか」

「それはそれ、これはこれー♪」

「で、あたしのおかげでわかったことってなんだ?」

「ヒ・ミ・ツ☆」

「…………わかったから挨拶してくるなり着替えるなりさっさとしてこい、話はあとで聞いてやるから」

バカみたいな投げキッスをしてから歩いていくフレデリカの足取りは確かなものだった。
あたしとのやり取りが休憩になったのかもしれないし、あるいは初めから疲れた演技をしてたのかもしれない。
ただあれだけ歌って踊ってを続けてやってたんだから疲れがまったくないってことはないだろう。
そういうときには誰かに甘えたくなるのも自然と言えばそんな気もする。
その相手があたしっていうのは微妙に疑問といえば疑問にはなる。
回答としては今日に至るまでにそれなりに仲良くなったから、とかだろうか。
初めて出会って以降はそれほど顔を合わせる機会は多くなかったけど、そこはそれLINEとかで連絡とれるからな。
ある意味で言えば親しみのある顔がステージを下りたところにあったわけだし、そう考えればまあ納得か。
こういうのはあたしは正直ちょっと照れくさいんだけど、フレデリカのやつは平気なんだろうか、なんだろうな。
ところでさっき話をあとで聞くって言った手前、これからフレデリカの用事が終わるのを待つわけだけど、あたしはどこで待てばいいんだ?


35: 2018/08/12(日) 10:06:30.84 ID:f0hWHOAvo

ここしばらくあたしの理解を超える事態がいくつか続いているけど、今回のはその中でもトップクラスに衝撃的だった。
アイドルデビューそのものはいい。あたしが決めたことでもある。
それが九月半ばなのもまあいい。心の準備をするだけの時間はもらったと思う。
そのイベントが割とデカいところに新人を集めて一曲ずつ歌わせるっていうものなのは、ちょっと派手だけどさすがは大手ってことにしておこう。
でも、だ。

「乃々ぉー、おかしいとは思わないかー?」

「あの、でもどうして奈緒さんは部屋に入ってくるなりもりくぼの隣に飛び込んでこられたのでしょうか……」

だってしょうがないだろ、ちょうどいいところに乃々がソファに座ってたんだから。

「あのな、ついさっきな、デビューイベントの話の詳しいところ聞いたんだけどな」

「ひいぃ、奈緒さんがもりくぼの話をまるで聞いてくれません……」

世の中には腑に落ちないコミュニケーションというものが存在するんだよ、乃々。
近くにいるとやっぱり乃々もいい匂いがする。
そんなことより部屋に人がいてよかった。誰かに聞いてもらわなきゃ落ち着かない類の話だ。
乃々もあたしからすれば先輩になるわけだしな。
というか怯えるにしても “ひいぃ” はひどくないか。

「そこで大トリ任されちゃってさ」

「……え?」

「だよな!? おかしいよな!?」

「え、そ、そうじゃないんですけど……」

思っていた反応と違う。
あたしはそこで同意とかそういうのが欲しかったんだぞ。
心の中で不合理な文句を言うのにわずかに遅れて息が詰まりそうになる。

乃々はちっとも悪くなくて、ただ巻き込まれただけだ。
ただそれにしても乃々のこの反応はどういうことだろう。何に対しての “そうじゃない” なんだろう。

怯えているとはいえ隣から逃げ出さない乃々を見ると、あたしにもそれなりに慣れてくれたことが実感できる。
ちなみにフレデリカとか心さんとかが当たり前のようにやっている接触を伴うコミュニケーションはとても真似できない。乃々ですら逃げないあの技術はヤバい。
本当に捕まえておきたいわけじゃないし、自由を奪わないようにある程度の気は遣う。
目の前にある乃々の顔はいつも通りあたしのほうを向いてはいないけど、かと言って自分が変なことを言ったというような様子も見られない。

「なあ乃々、なにが “そうじゃない” んだ?」

「あ、あの……、その、奈緒さんが大トリなのはおかしなことじゃないって思うってことなんですけど……」

「えぇ? あたしなんてそんな器じゃないだろ?」

「さ、さすがにもう、それは通らないんじゃないですかって、わ、私は、その……」

何を言ってるんだ?
普段からはとても信じられない乃々の強い言葉に、あたしの一気に喉が渇いていく。
もう熱は引いたはずなのに。
出入り口のない立方体の部屋にひとり取り残されたような錯覚を起こしそうになる。ここはB-02のソファの上だぞ?
あたしは乃々の言葉の意味するところもその意図も理解ができなくて、つっかえながら尋ねる。

「えっ、え、乃々、それはどうしてだ? 何か理由があるのか?」

「な、奈緒さんって、その、レッスン見た限りなんですけど、そ、ソロ取られますよね……?」

ソロ。そう言われてあたしは曖昧に頷く。
ダンスレッスンもボーカルレッスンもずっと一人でやってきたから、それは当然だ。
変なところがあるようには思えない。
むしろこれから誰かと合わせるぞ、なんて言われたら苦労しそうな気さえする。

36: 2018/08/12(日) 10:06:57.70 ID:f0hWHOAvo

乃々のほうを見ると、とくにこれ以上言うことはない、みたいな表情でじっとしている。
あたしと乃々のあいだに齟齬が生まれてる。
もう乃々は結論に達した、あるいはそれに達するに十分な言葉は交わしたと認識していて、その一方であたしは与えられた言葉がどう組み合わさるのかがわからない状態だ。
ちらちらとあたしの顔を見る乃々が視界の端に入ったけど、疑問を抱えたままのあたしは視線を上のほうに泳がせていた。
やがて乃々がおずおずと口を開いた。あたしがずっと目を泳がせていたからだと思う。

「は、初ステージで、そ、ソロでやる人なんて私は聞いたことないんですけど……」

「……えっ?」

「その、普通はユニットとかで経験を積むものだと、もりくぼは思っていました」

あたしは二の句が継げない。
表情に気を回せない。もしかして口が開いたままか?

「わ、私もすごく親切な方々と組ませてもらってますし……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、乃々。それはあたしが例外ってことか?」

「えっと、ユニットそのものがすごく人気が出たり、そ、そのユニットの中でずば抜けた印象を残したりしない限りはソロで活動なんて聞いたことないので、例外も例外だと思います……。うちの事務所は人数も多いですし……」

乃々がいつも以上に頑張って長い言葉で説明してくれているのに、どうしても意識が信じられないっていう考えから離れない。
むしろ乃々の正論があたしに大きな衝撃を残していく。
あたしは特別じゃないはずなのに。
それでも周囲の状況がそれを許そうとしない。
うまく回らない頭で考えようとすればするほど深みにはまっていく。
これまでの、プロデューサーさんから資料をもらってからの日々が、あたしの認めたくない証拠をどんどんと揃えていく。

一気に吐き気があたしを襲う。
これはなんだろう。
これはきっとあたしがふつうでいたかったことの理由だ。
そしてその願いに対する回答だ。
実体のない、ただのイメージ上の期待でさえあたしには重すぎる。
あたしに、規模も立場も何もかも比べられないけど、フレデリカと同じ土俵に立てっていうのか?
そんなものを背負えっていうのか?
皮膚の一枚内側を冷たい何かが駆け下りていく。
あの人たちはあたしの中にいったい何を見たんだ?

「あ、あのっ、な、奈緒さん、ひぅっ、ご、ごめんなさい……」

違うんだ。違うんだよ、乃々。
乃々はなんにも悪くない。
あたしは乃々を怯えさせたくなくて、笑いかけようと努力する。
でもあたしの表情筋は応えてくれなかった。
ぎちぎちと皮膚の下で震えるだけで、顔はこわばったままだ。
口もうまく開かない。
喉はからからで、かすれた声どころか咳にすらならない小さな音しか出て来ない。
気が付けば腕にも力が入らなくなっていて、これまでに見たことのない本気の怯えた表情をした乃々があたしから逃れて部屋から駆け出して行ってしまった。

最悪だ。

乃々がいなくなってスペースの空いたソファに倒れ込む。誰も受け止めてはくれない。
両手を顔に持ってきて隠す。
誰にもこんなもの見せられない。
自分のハートの弱さというかくすんだ部分が浮き彫りになる。
乃々に絡んだのも単純に逃げ場が欲しかっただけなんだって気付かされる。
こんなあたしが人前に立つ? とても正気とは思えない。
でも今さら逃げ出せるわけがないだろ、と理性が主張する。
大トリで、衣装も曲も作ってもらって、本番まであと二週間を切っている。
あたしには救いなんてものはないんじゃないかとすら思える。
涙は流れなかった。
きっと意味なんてないからだ。

……逃げようかな。
そんなことを考えていると、不意にドアの開く音がした。
体を起こして元気よくあいさつなんて、今はとてもできそうにない。
寝てるふりをしてやり過ごそう。


37: 2018/08/12(日) 10:07:26.15 ID:f0hWHOAvo



社内で、これは別の部署も含むという意味で、奈緒ちゃんの名前をよく聞くようになりました。
まだデビューすらしていないのに、これは異常と言ってもいいくらいです。
多くはまた聞きでのウワサ程度のものですが、それにだって出所というものが必要です。
私の推測するところではボーカルレッスンの時間が入れ違いの子が発信源なのではないかと思っています。
ウワサになる理由もいくつか想像がつきますけど、おそらく一番大きいのは徹底して秘密主義が貫かれていることでしょうね。
奈緒ちゃんのボーカルレッスンだけは、その前後のアイドルが部屋に残ることも早めに入ることも許されません。
それは同じ部署の私たちにも徹底されました。
どんなレッスンをしているのかを知っているのは本当にごく一部の人だけみたいです。
当然どんな曲をもらったのかも私たちは知りません。
だから実体のない “神谷奈緒はヤバい” というウワサだけが聞かれるようになったのだと思います。
……さすがにもうちょっと具体的な言葉があってもいいと思うんですけどね。

今日もB-02に向かう途中で知り合いの子に同じ話題を振られました。
まあたしかに奈緒ちゃんといっしょの部署ですから質問する相手は必然的に私とかはぁとちゃんとかになるのはわかるんですけどね。
B-02に入ってみると、プロデューサーさんがマグカップを片手に立っていました。
朝のこんな時間に机に向かってないなんてずいぶん珍しいですね。

「おはようございまーす」

「おう菜々、おはよう」

「お仕事のほうはちょっと落ち着いたんですか?」

「フレデリカのライブ前に比べれば、な。とはいえすぐに忙しくなるよ」

ありがたいことに、と、残念だけど、ってひとつの表情で同時に成り立つんですね。驚きです。
私たちにとって彼が忙しいっていうのはもちろんありがたいことなんですけど、やっぱり大変なのに違いはありませんよね。
それにしてもプロデューサーさんの言い方だと忙しくなるのが決まっているか、あるいはかなり高い確率でそうなるっていうふうに聞こえます。なにかあるんでしょうか。

「近いうちになにかありましたっけ?」

「奈緒がデビューする」

即答です。
奈緒ちゃんが耳目を集めることを露ほども疑っていないことがよくわかります。
彼女に期待したい気持ちは私も同じですが、とはいえデビューはみんなと変わらない新人イベントでのもののはずです。
そのイベントから抜け出せない子もふつうにいる中で、プロデューサーさんが忙しくなるレベルで注目を浴びるのはなかなか難しいのではと思わざるを得ません。
なにせ世間的に注目度バツグンのイベントというわけではありませんから。
そのうえで確信に近いものを持っているというのはどういうことでしょう。

「え、たしかに奈緒ちゃんかわいいですけど、それでもまだ初ステージですよ?」

「んー、秘密の作戦があってな」

「なんですかそれ」

こどもみたいな返しにちょびっと呆れながらこっちも返事をします。

「そう言うなよ、ただ奈緒じゃないと成立しないんだよな、これ」

「奈緒ちゃんじゃないと成立しない? どういうことです?」

「そこから先は秘密だ、でも菜々、お前はもう奈緒の魔翌力にやられてるよ」

魔翌力?
なんともヘンテコな言い回しですけど、どういう意味でしょう。
まあプロデューサーさんにスカウトされてきた時点で奈緒ちゃんが何かしらの特別さを備えているだろうことには納得しますけど、さすがにそれが何かまではわかりません。
そして私はその何かにやられている。
自覚症状はありません。
かわいいな、って思う程度ならそんなものうち所属のアイドル全員に対して思っています。
たまにプロデューサーさんの言ってることがよくわからなくなることがありますが、今回のこれもその系列の話なのかもしれません。


38: 2018/08/12(日) 10:07:53.55 ID:f0hWHOAvo

「あの、はぁとちゃん?」

「どうしたんスかナナ先輩、あ、さすがにエビフライはあげませんよ」

「そんなこと考えてもいませんよぅ」

ファミレスで出し抜けに話を切り出そうとしたらあさってのほうを向いた答えが返ってきました。
そんなに物欲しそうな顔でもしてたんでしょうか。
逆に一発で話題を当てられても怖いですけど。

はぁとちゃんはなんでもないように食事を続けながら視線だけは私に投げかけています。
とくに話を適当に聞き流すというつもりはないようです。
かと言って重く捉えているようには見えません。場所もファミレスですしね。
まあ実際、腰を据えて真面目に話す内容でもないかなと私も思いますし。

「奈緒ちゃんについてどう思います?」

「奈緒坊? どの観点っていうか、どうしてまた」

「アイドルとして、ですね。プロデューサーさんが気になることを言ってたんですよ」

「気になること、ねぇ……。つーか奈緒坊は今度やっとデビューっスよね?」

やっぱりはぁとちゃんも私と似たような疑問を抱いたみたいです。
そうなんですよね、とつぶやきつつ頷きます。

「じゃあアイドルとしても何もないんじゃないスか? 期待したいってのならわかりますけど」

言い終えるとはぁとちゃんは手に持っていたフォークをまた動かし始めました。
疑問の持ち方もいっしょなら導く結論まで私といっしょで、それは多くの人が私たちと似たような思考の流れをたどるだろうことにそれなりの説得力を持つ材料になるはずです。
そうです。正確に言うなら奈緒ちゃんはまだアイドルではありません。
それほど遠くない未来に解決されることとはいえ、実戦の場を踏んでいるかどうかは大きな差になります。
ステージでの立ち姿というものは、私たちの職業上なによりも重要なものになるからです。
けれどプロデューサーさんはそのことに見向きもせずに成功を確信していました。
ひっかからないわけがありません。でも正しい問い方もわかりません。

ペースが遅いせいかすこしぬるくなったグラタンを食べ終えると、はぁとちゃんがこちらをじっと見ているのに気付きました。
頬杖をついて、そのちょっとだけ傾いたほうに束ねた二房の髪がついていってます。
テーブルがすこし低いのか、肘をついている位置が前めになっています。
あまり意識されることは多くありませんが、実ははぁとちゃんって意外と背が高いんです。私が小さいっていうのもあるんですけどね。

「で、ナナ先輩はさっきの話どう考えてるんです?」

「わかりません。プロデューサーさんが奈緒ちゃんの魔翌力だなんだ言ってましたけど、根本的な部分でさっぱりなんですから」

「えぇ? それギャグとかじゃなくて?」

「少なくとも仕事に関しては冗談すら言いませんよね、あの人」

「魔翌力、……魔翌力ぅ? 奈緒坊に何かあるってのはわからなくもないッスけど、ねえ?」

「むしろわからなくもないって言えるはぁとちゃんにナナは感心してますけど」

大人げな、こほん、……こども染みた精神が顔を覗かせました。
どう見ても拗ねたように言葉を返しているようにしか見えません。
自分にはまったく見えないものをなんとなくでも他人が掴んでいると言われてしまうと、どうしてか頭の芯のほうがイヤがるんです。
意味もわからなければ向かう先もない嫉妬です。
あとで落ち着いて考えれば簡単にわかるんですけど、その場では急にそんな感情が頭に昇ってきてしまうんです。

「……まあでも、その魔翌力だかなんだかは抜きにして、自分は芸能界に向いてないと思いますよ、奈緒坊」

「在野に置いておくには魅力的すぎる気がしますけど」

「見た目の話じゃないですよ、性格っつーか気立ての話?」

「ナナはすごくいい子だと思いますね、相手に壁を作らせない親しみやすさというか」

「そいつは同意します。でもああいうのは背負いこみますよ、いい子だからこそ」

潰れないかが心配、と添えた一言は妙に重いものでした。
頬杖をついたまま視線を窓の外に投げてため息をひとつ。
はぁとちゃんは普段のキャラこそハジけたものですが、意図して落ち着いた雰囲気にすれば本物の美人の枠に収まります。あるいは意図しなくてもそうなのかもしれませんが。
たとえばこういう普段は表に出て来ない要素が、ふと滲み出てくるなんて話になれば魔翌力と言われても納得してしまうような気がします。
それは隠された特殊な誘蛾灯のように、特殊な感応器官を持った人たちを惹きつける。
実際にはぁとちゃんのファンには多様性というか、はぁとちゃんが見せる多面性のひとつひとつに魅せられている人が多いようです。

腕が震えだしそうな気がして、不自然にならないように左手で右腕をそっと押さえます。
はぁとちゃんが向けた視線を追って窓の外を見てみると、空はきれいな青色をしていました。


39: 2018/08/12(日) 10:08:21.21 ID:f0hWHOAvo



腕を枕にして背もたれのほうを向いて顔を見られないようにする。
外から見れば姿勢としてちょっと苦しいかもしれないけど、今のあたしにはこれくらいしか方法が思いつかない。
革張りのソファがぎゅむぎゅむと音を立てる。

「フンフンフフーン♪」

いつもの鼻歌だ。
こういうタイミングで来るならきっとフレデリカだろうと思ってた。
たぶんだけど、すぐにあたしのことを見つけるだろうし、見逃しもしないだろう。
本当にキツい。
せめて三十分後ならまだよかったのに。

「あ、奈緒ちゃんだ」

あたしからフレデリカを見ることはできないけどなんとなく雰囲気でわかる。
きっと顔を近づけるようにして覗き込んでいるんだろう。
今のあたしは見られて困るものがあるわけじゃなくて、単に顔を見られたくないだけだから体の向きを動かさないようにするだけだ。

正直、フレデリカには申し訳ないと思う。
いつもだったらこんな寝たふりなんてしないで楽しく話をしてたはずだ。
しかもその寝たふりの理由がフレデリカにちっとも関係のないあたしの落ち度によるものなのだから申し訳なさもマシマシだ。
ほんとうに自分が嫌になる。

「んー、でも寝てるの起こすのはよくないよね。それじゃあ……」

ぱちん、と留め具を外す音が聞こえて、フレデリカは自分のカバンを探り始める。
何かを取り出して、その何かをテーブルに置く音。がっちがちじゃないけどそれなりに硬質。
もうひとつ何かを取り出す。ぺらぺらとわかりやすい音がする。
フレデリカのイメージからすればそれはファッション誌のはずだけど。
かちゃかちゃ。軽い硬質のものが触れ合う。
ついで紙の上を細くて硬いものが踊る音がした。
フレデリカがノートに何かを書いている?
音だけの情報からはそんな推測が立つけど似合わないことこの上ない。
たとえば勉強なんていうのはフレデリカから最も縁遠い事柄のひとつのはずだ。
……いや実際フレデリカが普段は真面目に勉強してるかどうかは知らないけど。

そのまま聞いてた限りだと、書いては消し書いては消し、のような作業を繰り返しているらしい。
んん、と答えを探すような唸りがときおり聞こえる。
これもあたしのフレデリカ像にはそぐわない。
気になる。
うまく寝たふりから切り替えられれば確かめられるけど。
ソファの感触が妙に肌に主張してくる。
フレデリカが部屋に入ってくる前から眠気なんてちっとも感じていない。脳はずっとエンジン全開だ。
そもそもアイドルがやるもんだかわからないけど演技のレッスンなんて受けてないし、うまく起きたフリなんてあたしにできるのか?
でもこの状態をキープし続けるのもつらい。


40: 2018/08/12(日) 10:09:31.81 ID:f0hWHOAvo

そっと、じゃなくて目覚めのよかった時をイメージする。
急にぱっちりと目が覚めて、これから何をするかがはっきりわかっている感じの。

「お、フレデリカじゃん。いつ来たんだ?」

「あ、奈緒ちゃん、おはよ。んとねー、奈緒ちゃんが起きる前だよ」

「なんだそれ、ってあれ、いま何時だ?」

「そんなことより奈緒ちゃんヘンテコな向きで寝てたね、からだ痛くない?」

大丈夫だよ、と簡単に返す。そんなに長いあいだ同じ姿勢だったわけじゃないし、そもそも寝てすらいないし。
フレデリカはあたしとは別のソファの背もたれに体を預けて、それぞれの手に小ぶりのノートとペンを持っている。
見た感じで言えばメモ帳に何かを書きつけているような印象。だけど教科書みたいなものは見当たらない。
本当に勉強してたんだろうか。
ノートに落書きしてたとかのほうが説明がつきそうだ。

「どうしたんだよ、ノートなんて珍しいじゃんか」

「あ、これ? これはね、秘密のお仕事なんだ♪」

「なんだそれ」

「実はね、いまアタシ作詞してるの」

「作詞!? すごいな、そんなのもやるのか」

するとフレデリカがいたずらっぽく笑う。

「ホントは奈緒ちゃんが来た直後くらいにお願いされてたんだよ」

「っていうとけっこう時間経ってるんだな」

単純計算でもう四ヶ月は経ってる。季節がひとつ巡って、ちょっと余るくらいだ。
フレデリカは照れくさそうにペンの押すところでこりこりと頭の後ろを掻いた。
目をそらしているところを見ると本当に照れているのかもしれない。
だとするとあたしはむちゃくちゃ貴重なものを目にしていることになりそうだ。

「だってー、書きたいこと多すぎるんだもん。ぜんぶ書いてたらフレちゃん今ごろ小説家だよ」

「待て待て、あたし作詞のイロハなんてわかんないんだからな」

真面目な話、歌詞って何からどんなふうに書いてくんだろう。
これまで歌なんて何気なく聴いてたけど、立ち止まってみると謎ばっかりだ。
書きたいことを区切るんだろうか。膨らませるんだろうか。それともまとめきっちゃうんだろうか。
でもフレデリカの書きたいことが多すぎるっていう悩みはそこまで悪くないように思える。
それは何も思いつかないよりもはるかにマシなんじゃないのか。

あれ、と思う。
全然書けない、みたいなそぶりをしてた割にはフレデリカの手はしっかり動いてたような。

「なあフレデリカ、四ヶ月前に依頼が来たってホントなのか?」

「ん? ホントだよ?」

「手元の調子見てるとまだ終わってないってのが信じられないんだけど」

「それはそうだよ、こないだやっとわかったんだもん」

「なんだよ、なんかあったのか」

「あー、奈緒ちゃんひっどいんだー、フレちゃんはアリーナのことよく覚えてるんだけどなー」

あれかよ。
秘密とか言ってたからすっかり頭から消えてた。
それにしても言いたいことはわかるけど、納得できるかっていうと話は別だ。
あの圧巻のステージを終えて、そこを降りてあたしがいてどうしてそうなるんだよ。
どこに歌詞の書き方が関わる要素があるんだ。
いやライブ中に秘法にたどり着いたとかならわかるんだけど。
でもフレデリカの言い方だと確実にあたしが絡んでるし。

41: 2018/08/12(日) 10:09:59.83 ID:f0hWHOAvo

わかりやすくぶーぶー言ってる顔ですら魅力的で、同じ女としては腹立たしい。
……テレビの向こうにいたときからかわいいと思ってはいたけど、こいつここまでかわいかったっけ。
フレデリカにあたしの視線が吸い込まれる。
これまではあのオリーブグリーンの瞳に。
いまはすぼめた唇に。
ごくりと喉がなる。
別にそうしちゃいけないって状況じゃないのに、不意にあたしは視線を逸らす。

……あたしは何を考えてるんだ。
乃々を悲しませたばっかりだぞ。
だから顔を見られたくないと思って寝たふりまでしてたのに。

「あ、そうだ。そういえばフレちゃんのど渇いたからレモネード作ろうと思ってたんだけど、奈緒ちゃんも飲む?」

「えっ、あ、うん、飲むよ」

話の脈絡のなさにあたしはもう慣れ切ってしまっていて、とくに不思議には思わない。
何気なく視線で追ってみるとまだまだ夏っぽい薄着にちょっと羽織ったフレデリカ、たしかにちょっとエアコン利きすぎかもな、が流し台のほうに歩いていく。
そんなに目立たないはずなのにちょっと驚くほど似合うローヒールがこつこつと音を立てる。
何でもない動作ですら絵になるよな。これがアイドル、いやトップアイドルか。
でも意外というかちょっと待て、あいつレモネードなんて作れんの?

姿が見えなくなって、でもゴキゲンな鼻歌が聞こえてくる。
戸棚をやたらめったら開ける音が聞こえないってことはどうやら物の在りかがわかってるらしい。
疑って悪かったよ。
氷を入れる軽い音が響いて涼しい感じがする。
できあがり、なんてうれしそうな声まで聞こえてきた。


42: 2018/08/12(日) 10:10:27.11 ID:f0hWHOAvo

「は~い、宮本家特製レモネードだよ~♪」

「なんだそれ、ってなんかシュワシュワしてないか?」

へえ、宮本家特製ってのは炭酸入りのことを言ってるんだな。
というかここの冷蔵庫って炭酸水まであるのか、あたしは開けたことないからよく知らないけどすげーな。
氷のせいで汗をかいたグラスを持って口へと運ぶ。
かすかに立ち昇るレモンの香りがイイ感じだ。さて、お味は……。

「レモンスカッシュだこれ!」

「急にどしたの奈緒ちゃん」

「いやいやレモネードだと思って飲んだらレモンスカッシュだったもんだからつい」

「いいリアクションだったねぇ。これがフランス流レモネードだよ、奈緒ちゃん」

フレデリカにしてはソフトというか感じが違うような気がするけど、たぶんいつものイタズラなんだろう。
こいつのせいでフランスとかパリって場所に対しては警戒心を持つようになったからな、あたし。

あ、ちょっと苦い。レモンピールっぽい。
意外と炭酸要素を抜けば本当にレモネードなのかもしれない。
このほんのりとした苦みが爽やかさを際立たせてる感じは炭酸水も一役買ってる気がする。
これがフランス流レモネードかどうかは別にして、宮本家特製なのとフレデリカが作り慣れてるのはウソじゃなさそうだ。

「そんなにおいしかった? おかわりいる?」

気が付けば全然溶けてない氷がグラスの中でからから音を立てている。
……いや、そんなにハマったわけじゃないし。
欲しがるようにグラスと顔を傾けて停止しているのが恥ずかしい。
でももうすこし飲みたいのは本当で、あたしはフレデリカに向かって頷く。

「しょーがないなぁ♪」

あたしからグラスを受け取ってフレデリカがもう一度立ち上がる。
テーブルにはあたしのとは違ってまだほとんど減ってないレモネードとノートとペン。
グラスはすりガラスみたいに見える細かい水滴をびっしりつけている。
なんだかそういうふうに意図して作られた光景に見える。インテリアの雑誌の一ページみたいな。
まあ今日は雑誌の一ページと呼ぶには天気が悪いからあれだけど、もし晴れたらおしゃれなフロアに大きい窓から入る光の具合もあいまって、ちょっと現実感が薄く見えるんだろうな。
……なんで自分がこんなところにいるんだかわからなくなりそうだ。

目は開いてたけど何も見てないような感じの中に、かたん、と現実的な音が割り込んできて。
あたらしく作ってもらったレモネードが置いてある。
フレデリカはいつものように楽しそうな表情で、またノートとペンを手にしている。
あたしが意識を現実に持ってくるとフレデリカは目だけをちらっと動かして、楽しそうなものとはまた違う微笑みを浮かべた。

歌詞云々は置いといて、なにかのきっかけがあのアリーナだったっていうならそれはきっとマジだ。
少なくともあたしはそう思う。
アリーナ以来で直接顔を合わせるのは今日が初めてだけど、明らかにこいつの中で何かが変化してる。
振る舞いとか見た目とかそういう部分は変わってない。
けど、なにか、色調とでも言えばいいのか、構成要素が違ってる気がする。
ただフレデリカじゃなくなったわけじゃなくて、よりフレデリカになったっていうか。
自分の持ってる表現力の足りなさにうんざりする。

あたしはのんびりレモネードを飲んで、フレデリカはペンを走らせている。
ううん、まあ、これでいいか。
何に対してなのかすらよくわからないけど。

乃々に後できちんと謝ろう。
どうしてひとりで頭を抱えてたんだ、先に謝るのが筋じゃないか。
それが当たり前だよな。
それに比べたらデビューの話がなんだってんだ。
あたしってずいぶん酷い人間だったんだな。

……宮本家特製レモネードのおかげ?
まさか。


44: 2018/08/12(日) 10:10:56.11 ID:f0hWHOAvo



今日はアイドルではなく声優のお仕事でした。
とはいえ私に取ることのできる声優としての仕事はまだまだ小さいものです。名前もないとか、あっても苗字だけみたいなキャラクターばかりです。
アイドルとしても声優としてもキャリアを積んでいませんから当然なんですけど。
もちろんどんな役柄であっても愛着はありますよ。それは私の夢のかたちと相似形を成しているんですから。
それでも大きな役への憧れはまた別です。
私の目指すところは歌って踊れる声優アイドルなので、それはもうどうしようもないんです。
他のアイドルの皆さんとはちょっと仕事の毛色が違ってしまいますけど。
抜群に売れてしまえば例外的にそういう仕事が舞い込むこともあるかもしれませんが、さすがにそういうのとは比べられません。
なんたって中心点が違いますからね。

いまは電車に揺られています。空はまだ明るい色をしています。
時間帯もあって車内は空いています。このあいだのフレデリカちゃんのライブと比べたらとんでもない差です。
比べる対象として間違っているっていうのはわかってるんですけどね。どうしても、凄かったですから。
向かっているのは346の本社です。
私はまだアイドルのお仕事一本で生活していけるような段階にありません。
なので、お仕事もレッスンもないような時にはアルバイトをしないと生計が立てられないんです。
もう事務所にも本社にも頭が上がりません。
社に併設されてるカフェでアルバイトをさせてもらえているというのは本当にありがたいお話です。
ほとんど見つからないはずの時間に融通のきくアルバイトを都合してもらえるなんて、ふつうに考えたらあり得ませんからね。

とはいえ今日の目的はアルバイトではありません。
いわゆる自主レッスンというやつです。
不定期とはいえライブに出演させてもらってますから、自分を磨けるときには磨いておきたいと考えるのは自然なことだと思います。
まあボーカルレッスンのスタジオが空いていることはまずないので、基本はダンスのレッスンルームになるんですけどね。
ボーカル系を鍛えたいときはヒトカラなんかに行ったりもします。
……ただただ気分が良くなって帰ることもしばしばあったりもしますが。


45: 2018/08/12(日) 10:11:23.40 ID:f0hWHOAvo

レッスンルームの扉を開けると薄められた体育館の匂いがします。
本物の体育館と違うのはビルの高層階にあることと、外に面した壁面がガラス張りなのでとんでもなく眺めがいいことです。それに今日は天気もいいですし。
タオルとかそういうレッスンに必要なもの以外はロッカーに預けてあるので、持ち物はどこか端に寄せておけば邪魔にもならないでしょう。
適当な置き場はないかな、と広い室内を眺めてみるとなぜかトレーナーさんが窓よりのところにぽつんと立っていました。
とてもきれいな立ち姿で外を眺めているように見えます。向きの関係で正確にはどうだかわかりませんけど。

「麗さん?」

びくっと跳ねるように麗さんがこちらを向きます。
信じられません。少なくとも私たちの前では一度も油断してる姿なんて見せたことはないはずです。
それが私が声をかけるまで部屋に入ってきたことにすら気が付いていないなんて。
ただ表情はいつもの落ち着いたものでしたけど。

「ああ、安部か。自主練か?」

「はいっ。でもそんなにバチバチにやるつもりはありませんけどね」

「皮肉を利かせたつもりか? 生憎こういう仕事なんでな、それくらいじゃぴくりともしないぞ」

にやりと不敵な笑みを浮かべます。
そもそも私にそんな意図はありません。本当です。
でもなんというか、レッスンの時とは違って覇気というか圧力のようなものを感じません。
……麗さんにオフモードって存在してたんですね。
いつだって厳しくて正当な人だと思い込んでました。

振り向いた顔をよくよく見てみると、目にはどこかぼんやりとした穏やかな光が灯っています。
いつもの眼光と比べるとなんだか繊細過ぎて、かんたんに壊れてしまいそうな気さえします。
日中に麗さんとレッスンルームで話だけするというのも奇妙な感じです。

「ところでどうしてこんなところに? この時間って空きでしたよね」

「ん、そうだな、どう言ったものか……、いや、単に好きなんだろうな、ここが」

「いちばん馴染み深いってことですか?」

「たしかにそうでもあるが別だよ。もっと個人的な理由だ」

個人的な理由。
トレーナーさんの職分としてではない理由ということです。
ひとりの人間としての麗さんなんて、失礼ですけど考えたこともありませんでした。


46: 2018/08/12(日) 10:12:22.17 ID:f0hWHOAvo

私はこうして麗さんと会うのは初めてですけど、こういうことはよくあるんでしょうか。
レッスンルームそのものはいくつかあるのでここじゃない部屋にいたことはあるのかもしれません。
あるいは私が自主練しに来たときにたまたま鉢合わせすることがなかったのかもしれません。

「よくこうやってひとりで外を見られるんですか?」

「それほど多くはないと思う。というか条件が揃うことが珍しいと言ったほうが正確か」

麗さんが社内にいるのに出番がなくて、かつレッスンルームが空いてるっていうのが最低限の条件だと考えると、なるほどそれは珍しいですよね。
それにプラスアルファでさらに条件がつくのかもしれないですし。

やさしい目をした麗さんはあまり視線を合わせてくれません。
ばっちり合ったのは最初に振り向いたときくらいで、あとはちょびっとだけ視線をずらしています。
私の鼻や口、もしくは後ろの壁とか。

「麗さんもこうやってぼんやりすることがあるんですね」

「ばかもの。私だってふつうの人間だ。物思いにふけることくらいあるさ」

「ちなみにどんな内容だったんですか」

諦めたような目と小さなため息がセットになって麗さんの表情を崩します。

「安部、お前にとってアイドルとは何だ」

質問を投げたつもりが逆に質問が返ってきます。
いえ、相手が相手ですからこの過程が必要だってことくらいはわかっているんですけどね。
それにしても頭の良い人の話の組み立てはよくわかりません。

47: 2018/08/12(日) 10:12:49.78 ID:f0hWHOAvo

「夢です。それだけで何度だって立ち上がれるくらいの」

「実にお前らしい回答だ。たしかにアイドルは夢と呼ぶのにふさわしい目標のひとつだろう。仮にお前が主観的な意味で言ったのだとしても、それは一般的な意味でも通用する」

外はきれいな青空で、太陽の光がガラス張りの壁の縁を斜めに切り取っています。
そのせいでレッスンルームも一本の目に見えない線で明るい部分と暗い部分で区切られています。
いつもなら気にも留めないような塵が、明るい部分でゆらゆらと舞っているのが目に入ります。
レッスンの時はどたばたしているのが静かになると、いろんなものが違って見えるんですね。

「それなんだよ、安部。私がぼーっと考えていたのは」

「夢、ですか?」

「アイドルという夢について、だ」

どんどん麗さんの人間味が増してきて、これまで以上に親近感が湧いてきます。
まさかこの人から夢なんていう単語が出てくるなんて。
どこか、無意識のうちに私は本当に麗さんを非人間的な存在だと思い込んでいたみたいです。どこまでも失礼な話ですよね。でも接している限り完璧という印象を残す人に対してそういうイメージを抱いてしまうのは仕方がないのでは、と思わないでもないですけど。

また麗さんが視線を外してひとりで二度三度と頷きます。
どうやら考えごとをするときのクセのようなものらしいんですが、対面でそれをやられると、なんというか、一方的に閉じこもられてしまったような気がしてしまいます。
とはいえ実際には時間にちょっとの差はあってもすぐに戻ってきてくれるので、そんなに気にすることもないと思うんですけどね。

「……考えてみれば私はお前たちをある意味不埒な目で見ているのかもしれないな」

「麗さんってばえOちな目で私たちを……」

「ばかもの。お前たちも私も女だろうに。それにある意味と言ったろう。人前に出ない私の代わりにお前たちがステージに立つのを見て、そうやって私は満足感を得ているのかもしれないという話だ」

冗談が驚くほどまっすぐに返されて、私は苦笑いを浮かべざるを得ません。
けれど頭の中はすぐに麗さんの話した内容に取って代わられました。
私には麗さんの言っている意味がうまく掴めません。
少なくとも私やはぁとちゃんは指導してくれるトレーナーの方々に感謝の気持ちを抱いています。
だってたったひとりで練習を積んでいたとしたら潰れますよ、そんなの。
私たちは手助けをしてもらって、その代わりに満足感をもしちょっとでも返せているのだとしたら、それはとてもうれしいことのように私には思えます。
不埒だなんて発想はとても出てきません。

表情を元に戻して首を傾げていると、麗さんは今度は薄く笑いました。

「いいんだ安部、お前だけには私の言ったことを理解できるようになってほしくない」

「えっ、どういうことですか」

「理解してしまうということがお前がアイドルでなくなることと同じ意味だからだよ」

「すいません、麗さんの言っている意味がちっともわかりません」

それでいい、と麗さんは一段階だけ笑みを深めました。
この人ほんとうは人前に立っても十分以上にやっていけるんじゃないでしょうか。

それにしても何が何だかさっぱりです。
論理の飛躍があるようにしか思えません。
本当に私と麗さんの会話は初めから一貫してたんでしょうか。いや、してるはずなんですけど。
たとえばこれが私じゃなくてはぁとちゃんなら理解できるんでしょうか。
私だけには?

「さて、それじゃあ私はそろそろ外すとするよ。バチバチにやるつもりはないんだろう?」

私が何かを返す前に麗さんはそう言ってさっさと部屋を出て行きます。
急にがらんとした空間に放り出されたような感じがして、ちょっと不安になります。
時間なんて全然経ってないはずなんですけど、妙に自分の感覚とずれがあるように思えます。
もともと自主レッスンをしに来たのでこの状態が自然なはずです。はずなんですけど。
……とりあえずウォーミングアップ始めましょうか。


48: 2018/08/12(日) 10:13:16.77 ID:f0hWHOAvo

本社から出た時にはしくじったと思ったものですが、最寄りから三つめの駅で座ることができたのでほっと一息をつきます。帰宅ラッシュがなんぼのモンじゃい、と。
ここからしばらくは座ったままになるので、心と体と頭の余裕ができるわけです。
となればやっぱり気になってしまうのは今日の麗さんとのやりとりのことでして。
時間をあけて振り返ってみると、どうも腑に落ちないところがちらほらと出てきます。

あの人、自分のことをふつうの人間だと言ってたんですよね。
どこがふつうなんでしょうか。
人間の個体としての能力も高いですし、トレーナーとしての能力だって社外から声がぽんぽんかかるほど優れたものだと聞いています。
それに比べて私は、ということになるとなんだか不思議なロジックが生まれます。
たしかに私はアイドルなので、そういう意味ではふつうではないのだと思います。
でも能力云々の話を加味すると、アルバイトをしないと生活も難しい感じの毎日です。
ふつうよりもむしろ……といった感じですが、どちらがと問われればふつうなのは私じゃないですか。
そんな私の姿を通して、そして麗さんみたいな人が奇妙な自省をする。おかしくないですか。

何をもってふつうなんでしょう。何をもって特別なんでしょう。
……わかってます。ぜんぶ駄々です。ひとつのふつうとひとつの特別なんかで人と人との区別を簡単につけることなんてできません。
それに境目も曖昧で、もしかしたら線を引くことさえできないのかもしれません。

でも本当にひとつだけわからないことがあります。
どうして麗さんの自省を理解することと私がアイドルでなくなることが同義なんでしょうか。
たとえば自分が育てた生徒が活躍したとしたら、それが喜ばしいのは自然なことのように思えます。
でも麗さんはそれを不埒だとさえ言いました。
そう考える理由がわからないからどうやってもゴールにたどり着くことができません。
同じことを何度も何度も、同じところで止まるのに考えてしまいます。
結局降りる駅までずっと考え通しで、電車なので目の前の人の乗り降りは何度かあったはずですけど、私はちっともそれに気付けませんでした。


49: 2018/08/12(日) 10:13:43.47 ID:f0hWHOAvo



「一週間くらい思ってたけど、やっぱり奈緒ちゃんちょっと印象変わったっす」

隣を向くと沙紀がいる。
夏休み明けにも席替えをしたんだけど、予想通りというかなんというか、私と沙紀は離れなかった。せいぜい位置関係が変わっただけだ。

「なんだよいきなり。あれだろ、久しぶりに会ったからそう思うってだけだろ?」

「いや、アタシの感性がそれは違うって叫んでるんすよ、何かがたしかに変わったぞ、って」

言ってることはなかなかシリアスに取れそうでもあるけど、実際には頬が思いっきり潰れるくらい机に頬杖をついているのとジト目のせいで日常会話の枠を出ない。
あたしも夏の間にみっちりレッスンを積んだから成長という意味で変わったとは思うんだけど、そこを認めるとなるとそれをノーヒントで嗅ぎつけるこいつの鋭さはいったいどうなってるんだっていう気持ちにもなる。
とはいえ自分の知らない自分っていう考え方があるのだ、ということを知ったあたしが沙紀の目にはどう映っているのかが気になってしまうのは仕方のないことで。

「じゃあ沙紀の感性はなんて言ってるんだよ」

「えーっと、なんかきゅっと締まって、存在感が増した、みたいな?」

「ヤセたってんならそれはうれしいけど存在感は違うだろ、あたしなんてメガネの地味子だぞ」

「メガネ? あ、それかもっす。なんか似合わなくなったっていうか、余計というか」

最後のほうの言葉はしだいにごにょごにょしていってなんだか要領を得ない。
ずーっと似合わないメガネをつけてたとでも言いたいか。オシャレアイテムってわけでもないから別にいいけどさ。
というかこの言い方だとどう聞いても肉体的な意味だけにとどまらないよな。
やっぱりあたしの知らないあたしがこいつの中にもあるんだろうか。

気が付けば沙紀は顔を近づけたり離したりと確かめるようにあたしを観察している。
まるで鑑定人が骨董を見るみたいに気難しそうに眉根を寄せたりしている。
そんなんでなにかがわかるなんて沙紀自身も思っちゃいないんだろうけど。
その証拠によく聞いてみると、うむむ、なんて唸っているのが聞こえてくる。

「彼氏でもできたり?」

「あのな、できたところで人間そうそう変わらないだろ」

「えー? オトコできて変わるオンナなんてよく聞くハナシっすけどね」

「だとしても前提として彼氏ができてないんだからしょうがないじゃん、それ」

「でもなんかそれ系の変化な気がするんすよね、前の奈緒ちゃんと比べて」

あたしをからかう時のいたずらっぽい笑いもない。
ということは沙紀が本当にそう考えているということだ。なんたってこいつは表情をごまかしてからかうような、そういうこずるい真似はしないから。

けどそれにしたって見た感じの印象が変わったように見えるってのはマジなんだろうか。
沙紀とは違ういつものグループでも言われてないし、あたし自身も鏡で毎日見てはいるけどそう思ったことは一度もない。
毎日見てれば逆にわからないよと言われれば納得はするけど、でもそういうことならあたしの変化は微妙な変化に違いない。むしろ違いがわかる沙紀がすごいと思う。本当に外に出てこない変化があるならな。

「そういう沙紀は浮いた話はないのかよ」

「はっはっは、ないない。いまは別に彼氏が欲しいとも思わないっす」

「なんだよけっこうモテそうなくせに」

「バレンタインチョコならたくさんもらったっすよ」

「そっちかい!」


50: 2018/08/12(日) 10:14:17.51 ID:f0hWHOAvo

こ、これがアイドルの肉体……!
冗談みたいなリアクションは別にして、たしかにある時期からあの地獄のレッスンですら意識が遠くなりかけることがなくなったとは言っても。
こんなにもあたしの体ってのは動くもんだったのか。
今日の体育が終わって初めて気が付いた。
一学期までは体育の授業なんてどう凌ぐかを考えることのほうが多かったってのに。
体組成が根本的に変わってしまったんだ。
急に足が速くなったっとか力が強くなったとかそういうことじゃない。
長く、イメージ通りにあたしの体が動くんだ。
週六で叩き上げたボディはめちゃめちゃよく言うことを聞く。
しかもトレーニング歴の浅さを考えればまだまだ成長するんじゃないかって自分でも思ってしまう。
そのへん精神性は本物のアイドルとは遠いんだろうけど。

フレデリカのライブを思い出す。
あいつは舞台の上では疲れなんて言葉をこっちの頭に掠めさせさえしなかった。
あの雨の日のレッスンルームみたいな根拠がたしかにあったんだ。
つまりあたしの体にも根拠が作られ始めてる。
歌もボイトレも体力づくりも真面目に取り組んできた成果ってことだ。
たしかに驚きの変化だけど、なんとなく怖くもある。

帰りのホームルームの担任の話をちっとも聞かずにそんなことばかり考える。
まあ真面目に話聞いてるヤツはほとんどいないし、大事な話があればちょっと聞いてくれとかそういう一言もあるし。
窓の外の空は綺麗に青く澄んでる。
説明は難しいけど、たしかに真夏とは色が違うんだよな。
あ、鳥。

51: 2018/08/12(日) 10:14:44.03 ID:f0hWHOAvo

ガタガタと椅子を引く音がする。
ホームルームの話が終わったんだろうな。

「ヘイヘイ奈緒ちゃん奈緒ちゃん」

「へいへい、なんだよ沙紀」

「もう、ノリ悪いっすねぇ」

笑いながら言ってる限り文句には聞こえないぞ。

「で、どうしたんだよ。今日おもしろいテレビでもやるのか?」

「さっすが奈緒ちゃん、微妙に鋭い!」

「なあそれ褒めてないよな」

あたしの言葉を無視して沙紀は椅子を寄せてきた。
いっしょにスマホを覗けるくらいの距離だ。
実際に沙紀の手にはスマホがあるし、そういうことなんだろう。

「今度346プロが特番やるらしいっすよ、ゴールデンで」

「特番? なんの?」

「えっと、ほらこれっす。新人アイドルの合同ライブだとか。録画みたいだけど」

……は?
沙紀のスマホから目が離せない。
そのくせ内容は頭に入ってこない。
こんなことあたしは聞いてない。こんな偶然があっていいのか。
大人の世界の話だ、詳しいことなんてわからないけど、それでもテレビ番組が簡単なものじゃないことくらいはわかる。
とくにスケジュールどうこうの話は特別そうだろうと思う。
意外とそうじゃないのかもしれないけど。

「おーい奈緒ちゃーん、どうしたんすかー?」

「えっ、あっ、なんでもないよ、よく読んでただけ」

「なんだかんだで奈緒ちゃんってテレビっ子っすよね、ってそういや宮本フレデリカファンだとか前に言ってたような気が」

テレビはまあ、よく観るよ。
人を本気で楽しませようとして作られたものは面白いと思う。
その流れで言うならフレデリカに惹かれるのも自然なわけだ。ある意味。
今はそれどころじゃなくなってるけどな。もう直接の関係性の中にあるんだよ。
さらに言えば他の部署の友達も増えたぞ。
トレーナーさんを名前で呼べるようにも、ってこれは違うか。
とはいえそんなことを話すわけにもいかなくて、ごまかすように笑って後頭部に手をやるくらいしかできなくなる。

「なるほど、つまりこの番組で新しい原石を探そうっていう魂胆」

「ええい人を指さしちゃいけませんって親に習わなかったのか」

「おおっと、これは失敬」

大げさに人差し指を隠して沙紀はおちゃらけてみせる。
ま、おちゃらけるってのならあたしがそっちに引っ張り込んだんだけど。
というかちょっと待て、こいつの言い方だとアイドルオタクみたいな認識になってないかあたし。

とりあえずあたしがこの話を聞いてないのは本当で。
だけど沙紀のスマホを見る限りテレビ放送はもう決まったことで間違いなさそうだ。
だからまずはプロデューサーさんに確かめておきたい。
必要かどうかで言えばそうじゃないけどな、もう確定しているんだろうから。
それはそれとして、これちょっと変じゃないか。

「なあ沙紀、なんでわざわざ新人で特番なんか組むんだろうな。視聴率のこと考えるなら人気のある人集めたほうが良さそうなもんだけど」

「なんかそのこともどっかに書いてあったっす。ただ新しいスターの可能性を世間に知ってもらいたいから踏み切った、みたいな感じのこと。文面はぜんぜん違うけど」

「ずいぶん思い切った感じがするな、そんなに観る人いるのか?」

「けっこういると思うっすよ。346っていったら有名だし、そもそもキー局のゴールデンなんつったらって感じっす。もし視聴率の考え方がそのまま国民の数に当てはまるなら、仮に10%を叩いたとして一千万人が観る計算っすからね」

沙紀の話を聞いてみるとなんだかえらいことのように思えてくる。
視聴率と実際にテレビ観てる人の関係がどんな感じになってるのかは知らないけど。いやたぶん違うんだろうけど。
でもそこを除けばこいつの言ってることは事実なんだと思う。
そしてあたしがその事実のなかに含まれているのも動かせない。
何度も自問してきたけど。そのたびになんとなくでごまかしてきたけど。
どうやって信じればいいんだよ、あたしがテレビの向こうに行く、だって?


52: 2018/08/12(日) 10:15:11.23 ID:f0hWHOAvo



車のCMが終わって番組が始まります。
新人ライブと銘打ってはいますけど、進行はきちんと経験を積んだアイドルが担当します。
今回は十時愛梨ちゃんがそのポジションを担っているみたいですね。
進行の他にもタイムキーパー的な役割もありますから実はかなり重要な位置です。
外から思われている以上にライブというものは厳密に進行していくものですからね。
当然ながら能力の高いアイドルは人気もありますから、集客に関わる側面も持っています。
もちろんキャラクター的な向き不向きはありますけど、新人ライブの司会進行を務めるのは346プロではひとつの到達点とさえ言われています。
いつかは私もああやってライブを回してみたいものです。

新聞のテレビ欄を見ると、二時間の枠が取られていることがわかります。
けれどそれでも時間は足りません。根本的に出演者の数が多いんです。
残念ですけどそこは編集の手が入ってしまって、カットされている子もわりにいるはずです。
MCの進行、あいさつ、歌、捌け、と一組をきちんと放送するにはすくなくともこれだけのステップが必要になりますから。
あるいは捌けくらいならカットするのかもしれませんけど、それでもちょっとした差にしかならないと思います。
もし全部観たいと思うなら生のライブに参加するのがイチバンですよね。空気感とか迫力とかも合わせてそれだけの価値があるというのが私の実感です。
……このライブに関しては予定が合わなくて行けなかったのが残念です。

ほこほこと湯気を立てる湯呑の置いてあるちゃぶ台に頬杖ををつきます。
私も関わっている側の人間ですけど、そういう人間が抱くような緊張はとくにありません。
新人あるいはまだそれほど知名度がないアイドルとはいえ、ステージに上がる以上は一定レベルのパフォーマンスは保証されているとわかっていますから。
別の言い方をすれば麗さんたちのレッスンを乗り越えてあそこに立っているんだから心配する必要なんてない、っていうことになります。

愛梨ちゃんが期待させるように観客を煽って、そうして一組めをコールします。
世にはどころか出演してる本人たちですら知らないんでしょうけど、あの出演順はきっと社内の部署ごとの政治力の結果なんでしょうね。
トップバッターなんていやでも目につきますし、すごい争いがあったに違いありません。
面白くもなんともない話ですけど、そういう世界でもあることは否定できません。
前にプロデューサーさんに聞かされたんですけど、どうして私にそんな話をしたんでしょうね。
テレビの向こうで照明が瞬いて、軽快なリズムの前奏が始まります。

どのユニットも弾けんばかりの笑顔で観客に、テレビを通して私たちに向かって手を振ります。
それがあまりにも精一杯で、思わず私も手を振りそうになってしまいます。
あそこからアイドルとしてのすべてが始まるんですから気合の入りようが違います。
きっと特番として地上波放送されることも手伝ってるんでしょう。
いいなあ。
自己紹介をして、自分を知ってもらって、好きになってもらって。
これはたしかに夢ですよ。


53: 2018/08/12(日) 10:16:02.50 ID:f0hWHOAvo

ステージの上で歌って踊るアイドルのみんなを見ているといろんな感想が湧いてきます。
この子たちの次の曲を聴いてみたいとか、もっと時間をとって話すのを見てみたいとか。
気が付けばお茶を飲みながらテレビを見ているただの安部菜々に戻っています。
テレビを見ている人たちも多かれ少なかれ同じようなことを思うのでしょう。
あの子たちはすでに一度は選ばれている段階にあるんですから、好みの違いはあっても全員が魅力を備えているんです。
かわいいなんて標準装備。
…………なんだか自分が嫌な人間になってしまいそうでげんなりします。

夢を体現する時間は夢のように早く過ぎ去っていきます。
ついさっきお茶を淹れたばかりだと思っていたのにもうそろそろ番組もおしまいです。
つまり奈緒ちゃんの出番です。
プロデューサーさんに教えてもらえたのは、奈緒ちゃんが最後に出てくることと一人で舞台に立つことだけ。
それ以外は本当にひとつも教えてもらえませんでした。

最後のひとつ前のユニットが歌い終えて、手を振りながらステージを下りて行きます。
愛梨ちゃんがそこで客席にもうひとつ拍手を要求して、場内は盛り上がっています。
そうして示し合わせたように拍手が止んで、愛梨ちゃんがしゃべるタイミングがやってきました。

『それでは、これから今日の大トリを飾ってくれる子の登場で~す! あったか~く、迎えてあげてくださいね!』

54: 2018/08/12(日) 10:16:30.63 ID:f0hWHOAvo

あれ。
愛梨ちゃんが奈緒ちゃんの紹介をしていません。
これまでは出てくる前にユニットの名前と簡単な紹介を入れていたのに。
彼女の積んでいる経験から考えれば、ここでしくじるなんてことはありえません。
よく聞いてみると会場をざわめきが満たしています。
どういうことでしょうか。
私と同じところに気が付いたんでしょうか。
愛梨ちゃんの表情は変わらず笑顔で、ミスをしたようには見えません。取り繕うようなこともありません。
どうぞ、と大きく一声あって愛梨ちゃんが下がります。
まさかこんなヘンテコなものが秘密の作戦ってことなんですか?
そうでもないとこの特番そのものが奈緒ちゃんのために用意された秘密の作戦になっちゃいますけど。
いくらなんでもそこまでやるわけが……。

まだ止まないざわめきの中で、スポットライトが舞台の中央に当たります。
周りはまっくらです。たったひとつだけ明るい場所がぽっかりと浮かぶように光っています。
白い脚がすっと光の空間に突然割って入りました。水を打ったように音が消えます。
次いで裾を引きずるもう片方の脚。
右の膝下から斜めに裾がカットされているせいで左脚は完全にドレスの内側です。
裾の角度は急なもので、肌を晒している右脚でさえ露出と呼ぶには遠いものだと思うのですが、なぜだか不思議な色気があることを否定できません。
ドレスの色はほとんど白に近いくらいの薄い藤色で、シルエットも含めてそれは明らかに新人アイドルが選ぶ衣装とは思えません。
変な言い方ですけど、厚手の綺麗なカーテンを胸に巻いたら左右非対称なのにもかかわらず奇跡的にも美しい調和を実現してしまったといった趣があります。
誉め言葉として赤点なのはわかってるんですけど、意図的なものではなくて偶発的な美のような印象を受けるんです。
そしてその印象を私の言葉で表現するなら、それがいちばん近いのだから仕方がありません。

ふと気が付くといつの間にか奈緒ちゃんは、圧し潰されそうな暗闇の中のたったひとつのスポットライトに立っています。
下ろした髪は主張の強くない衣装とうまく調和して、綺麗という印象を残します。
ふわふわとしたくせ毛がすこし幻想的です。
……ちょっと待ってください。
テレビの画面を見ていたはずなのに、衣装まで意識していたのに、どうして上半身に目がいくのがワンテンポ遅れたんでしょう。
カメラワークに特別なところがなかったのは断言できます。
だってスポットライトの大きさに変化なんてなかったんですから。

奈緒ちゃんは光の真ん中に立って、前を見据えています。
衣擦れの音さえ聞こえそうなほどの静かな空間に、緊張感が走ります。
私はその場にいないのに?
それどころかこれは生中継じゃないはずなのに?
もうざわめきなんて名残さえもありません。
会場の意識がすべてひとりの少女に向かっていることがはっきりとわかります。
奈緒ちゃんが、いえお客さんからすれば名前も知らない誰かが、異質な存在感を放っていることを誰もが理解しているんだとしか思えません。

奈緒ちゃんはにこりともしません。
緊張を解こうとするように両手をスタンドマイクにかけて、そして目を閉じて深呼吸をします。
ゆっくり目を開けて。

『神谷奈緒』

一言名前を告げるとピアノを軸としたイントロが流れ始めました。
聞いたことのない曲です。
いやまあそれは当然なんですけど。
水晶みたいにすきとおった音が私の鼓膜を震わせます。
ちょっと細めの歌声が滑るようにメロディーラインに乗って、テレビの向こうの空間を満たしていくのがわかります。
変に力が入っているわけではないからこそ芯が一本通っていて。
もちろん歌姫と呼ばれるような実力派とは並べられませんけど。でも、それでもまっすぐに伸びるその歌声に不意にもっていかれそうになってしまいます。
ダンスはありません。わずかに前傾になってスタンドマイクに手をかけているだけです。
ただの立ち姿にぴんと一本のまっすぐな線が見えます。
方針とはこのことでしたか。
ステージは相変わらずスポットライトがひとつだけ当たっているだけで、そのことが他に余計なものはなにもいらないと主張しているように見えてきます。
変化を挙げるならカメラワークくらいで、とはいえそれもシンプルなものばかりです。
じっさい私はそんな舞台をテレビで見ていてちっとも飽きません。

四分かそこらの奈緒ちゃんの時間は強烈なものでした。
曲が終わって奈緒ちゃんが一礼して舞台を降りて、そのあとしばらく無音の時間がありました。
テレビなのに、です。まず放送事故です。
それでもその部分が編集されずに、まばらな拍手から大喝采につながるまでを放映した理由が私にもわかる気がします。
もう誰も立っていないスポットライトに向かって惜しみない拍手を送る様は奇妙なものですが、私もその場にいたならそうしてたと思います。
説明のつかないなにかがそこにあったんですから。


55: 2018/08/12(日) 10:16:57.89 ID:f0hWHOAvo

そういえばさっきの曲はなんていう名前なんでしょう。
思い出してみれば曲名も作詞も作曲もなんにもテレビに出ていなかったような。
そこは契約が絡むので外しちゃいけないところだと思うんですけど。
まさか奈緒ちゃんが作詞作曲をしてるとは思えませんし。

となればそこは文明の利器。
パソコンがあればちょちょいと調べられます。
番組として放映したわけですから情報は解禁になってなきゃおかしいですよね。
とりあえずうちの事務所の名鑑から奈緒ちゃんのところに行くのが確実な気がします。

さっそく検索バーに346と打ち込んでページに飛びます。
イメージよりはるかにシンプルな造りと評される画面が表示されるかと思いきや、なかなか画面が切り替わりません。
画面の矢印がくるくる回るアレになったまんまでそれっきりです。
えっ、もしかして壊れました?
ちょっとちょっと勘弁してくださいよ、買ってからまだそんなには経ってないのに。
ネットだけダメなんでしょうか、これ調べないとまずいのでは。

あれ? 他のページにはつながるのに346だけダメみたいです。
つまり私のパソコンはとくに問題ないということで。
じゃあ346のホームページだけ壊れてるとかそういうことなんでしょうか。
それはそれでまずくないですか。私個人の範疇ではないですけど。

はぁとちゃん。
はぁとちゃんのパソコンも同じ状況ならたぶんそういうことになりますよね。
違うならまたいろいろ考えないとなりませんけど、それはまあ後にしましょう。

「あ、はぁとちゃんですか? ナナです。いま大丈夫ですか? ごめんなさいこんな時間に」

「ありがとうございます。ええ、変な話なんですけど、いまはぁとちゃんパソコン点けてます?」

「えっ、その通りですけどどうして」

「はぁとちゃんもですか!? あの、これって……」

「あ、電話かけたんですか、……プロデューサーさん大笑いしてたんですか……」

「いけませんよはぁとちゃん、そんな、狂ってるなんて言っちゃ」

そりゃアクセス過多でそれ自体が話題につながれば願ったり叶ったりでしょうけど。
けれどこんなにテレビの影響って大きいんですね、ってちょっと待ってください。おかしいです。
毎日いろんな時間にうちのアイドルがテレビに出てますけどこんな事態は聞いたことないです。
ましてやさっきまで流れてたのは新人アイドルのライブです。
失礼ですけどさすがに普段からテレビで活躍してる子たちと新人の子たちとでは実力に差があるのははっきりしたところです。
逆なんですよ。
新人でアクセス過多なんか起きるはずがないんです。
なにか特別なことでもない限りは。
特別なこと。

落ち着いて考えてみましょう。
短い時間にホームページにアクセスが集中したということは、そこへ行けば知りたい何かがきっとあると多くの人が考えたということだと思います。
まあ、状況から見てそれはアイドルに決まってますよね。
録画とはいえ今日はたくさんの子たちが出演してましたから、なるほど調べる対象は多いです。
現に私も奈緒ちゃんのことを調べようとして引っかかったわけですし。
やっぱり中には奈緒ちゃんのことを調べようとした人もいたんでしょうか。
テレビの前の視聴者さんからすれば謎だらけのアイドルですもんね。
でも、特別なことは思い当たりません。
たしかに愛梨ちゃんが名前を言わなかったり大トリでソロを取るとかは異例ではありましたけど、だからってホームページが落ちますかって話です。
奈緒ちゃんをその特別に当てはめるのは難しいですよね。

でもはぁとちゃん、プロデューサーさんは笑ってたって言ってました。
どんなものかにもよりますが、ホームページが落ちて笑うような事態にそれほど種類があるとは思えません。
つまり秘密の作戦がうまくいった結果なのだと思います。こんなの推理とも言えませんけど。
するとぐるっと回って奈緒ちゃんが特別だってことに落ち着くしかありません。
結局、私の感覚がおかしいのでしょうか。
奈緒ちゃんの持つ魔翌力とやらについてもつかめないままですし。

いつの間にかテレビには全然違う番組が流れています。
まあ、なんにも音がないのもさみしいので普段からけっこうつけっぱなしですけど。
湯呑どころか急須に入ってたお茶まで冷めきっています。

ため息が不意にこぼれます。
嘘をつきました。イヤになります。


56: 2018/08/12(日) 10:17:25.07 ID:f0hWHOAvo



「で、今日はどうするんだ?」

「うーん、どうしよっか」

「考えてないのかよ!?」

「あはは、うそうそ。今日はね、アタシの好きなところに行く予定だよー♪」

フレデリカの好きなところ、ね。
ふーむ、服でも見に行くのかな。
たとえばあたしが想像したこともないようなオシャレショップとか。
芸能界でも群を抜いているらしいこいつのファッションセンスを間近で見られるんだったらそれは相当楽しそうだ。
あたしには手の出ない値段の服ばっかりかもしれないけどな。

乗った電車が向かう方面は別にさらに都心というわけでもないらしい。
隠れお気に入りショップみたいなものなのかな。
隣に立つフレデリカは気分が良さそうで、なんだかあたしの気分も明るくなってくる。
ウィッグまでしてしっかりお忍びっぽい変装じみたカッコだけど、それでもやっぱり目立ってると思う。
美人って目立つんだよな。どうしたって。

窓の向こうに流れていく景色を見ながらくだらないことをしゃべる。
よくもまあ話題が次から次へと見つかるもんだ。
どうでもいいこととはいえ途切れることなくしゃべるのなんてあたしにはとても真似できない。
言い方を変えればフレデリカのおかげで変な無言の時間が来ることはなかったってことだ。

「さあさあ奈緒ちゃんここだよ、降りよ?」

予想もしてなかった駅だ。
知らない以外の感想が出てこない。そもそもあたしは千葉県民だし。
名前はこれまでの人生で聞いたことくらいはあるけど、それ以上の知識は何もない。

駅から出てもとくべつ何かが見当たるってわけでもない。
比較対象が都心だったからそれはしょうがないけど、まあ、ぱっとはしないな。
フレデリカのお気に入りショップがあるぞ、っていうイメージもわかない。
というよりも駅前バスロータリーでこういう風景はどちらかといえば……。

「今度はバスだよ、れっつごー♪」

なぜか拳を突き上げたまんまじっと見つめてくるもんだから、あたしもフレデリカにならって仕方なく拳を上げる。なんかすっごい恥ずかしい。
なんなんだこいつのこの強制力。

停車場まで行って案内板を見てみればやっぱりな、といった感想が湧く。
この駅で降りるまではそんな可能性なんてちっとも考えなかったんだけどな。
はたして意外という言葉をここで使っていいものか。


57: 2018/08/12(日) 10:17:51.59 ID:f0hWHOAvo

「なんつーかさ、フレデリカって水族館好きだったんだな」

「えへへ、ちっちゃなころからパパとママとよく来てたんだ。とっても落ち着くんだよ」

「まさかのセリフが出てきたな、あたしの人生でフレデリカから落ち着くなんて単語を聞くとは思わなかったぞ」

「えー? フレちゃんショックー、巷では落ち着きガールなんて言われてる気もするのにー」

「その巷ってどこだよ」

「どこだろうね?」

好きな場所っていうのは本当なんだろうな。
いつでも楽しそうだけど、今日はそれよりもちょっと楽しそうだ。
バスの中でも機嫌が良さそうだったし。
それにあたしも実はわくわくしてる。
まあ、フレデリカといて感情をごまかす必要はとくにないしな。
バスから降りたときには、おぉ、とかこぼしちゃったくらいだ。

考えてみれば水族館なんてしばらく来た記憶がない。
小学校のときの遠足とか、家族で行ったのも一度くらいだったような気がする。
正直どっちが最後の水族館だったかも覚えてない。
言われてみればいつの間にか縁遠いものになってたっていうそんな感じ。
もうほとんど印象の世界だ。
……えっと、イルカショーとか?
ああいうのってできるところ限られてるんだっけ?

「なあ、フレデリカのイチオシみたいなのってあるのか?」

「奈緒ちゃんにはまだ早い! 次の誕生日が来たら教えてあげよう!」

「R-18かよ! ここ水族館だろ!?」

受付のお姉さんに楽しんできてくださいねと送り出されて、ゲートをくぐれば別世界。
砂場に磁石を投げ込んで砂鉄がぶわっとくっつくみたいに、あたしの記憶の底から水族館の匂いだけが浮かび上がってくる。
まだ水槽のガラスさえ見えない位置にいるのに、ガラスの向こうに水が満ちていることが実感として理解できる。
そうだ、それでここは外と明るさがぜんぜん違うんだ。
今日は雨が降ってるけど、でもそれともまた別の作られた暗さがあって。
そんな不思議空間を魚が泳いでるんだ。

最初の広いスペースに出ると壁一面が水槽で、そこをいろんな魚が所狭しと泳いでる。
もちろん広間の各所にも点々と水槽が置かれてる。小さいとはいっても人の家にあるようなサイズじゃあない。
個人的な感覚だけど、こういう場所にやっぱり現実感はないよ。
だって息をしながら水中探索してるようなものじゃないか。
まあ、ところどころにある解説みたいなやつを読んでると一気に現実に引き戻されるけどな。
しかし一口に魚といっても変なかたちをしたやつが多いこと。
解説の写真で見たやつをついつい本当に泳いでるのか探しちゃう。
視線を動かしてたら不意にフレデリカが目に入って、めちゃくちゃニコニコしながらあたしを見てた。
なんだよ、水族館が好きなんだったらもっと魚見てろっつーの。

「あ、ねえねえ奈緒ちゃん、変なかたちの魚だね!」

「おー、ほんとだ。あれ、でもさっきどっかの解説で見たなあれ」

「どんな名前なのかな、ヘンナオデコザカナとかかな?」

「見た目の印象に従いすぎだろ……」

やばい。楽しい。
こいつと一緒だと魚見るだけなのにこんなに面白いのか。
これどう見てもあたしハシャいでる。フレデリカもそうだけどさ。
べつにうるさくしてなくてもテンション上がってるのがよくわかる。
絶対口には出さないけど、たぶんこいつとあたしは人間としての相性がいいんだろう。
似てるところなんてひとつもないし共通の趣味みたいなものもないけど、それでもなぜかガチッとハマっちゃった感じのやつだ。

同じ部屋でうろうろしながらガラスにべったりくっついたり解説を真面目に読んだりする。
周りには家族連れとかカップルとかあたしたちみたいに友達と来たみたいな、思いつく限りの組み合わせの人たちがいてそれぞれ楽しんでる。
でも照明が暗めだから全然顔は見えない。
それこそあたしたちが海の底の魚になった気分だ。
種類の多さも環境も、気ままに周りに気を配らないところも。
なんか、暗いところって落ち着くんだよな。
小さいころに用事もなく押し入れに隠れたこともあったな。

次の部屋に行くための廊下は壁の途中から天井までがまるくガラス張りで、今度は海底を散歩してるんじゃないかと誤解しそうになる。
水族館にでも来ない限りはエイとかサメとかを下から眺めるなんて機会はそう多くないだろうからな。
海外でシュノーケリングとかをやるんならまた話は変わってくるんだろうけど。
周りの人たちも年齢関係なしに感嘆の声が漏れている。
日常生活にない別世界は、やっぱり人を惹きつけるってことなんだろう。
ふたりして天井を泳ぐいろんな魚を間抜け面を晒して見上げる。口なんて半開きだ。これがアイドル。冗談みたい。


58: 2018/08/12(日) 10:18:18.67 ID:f0hWHOAvo

「あ! ねえねえ奈緒ちゃんこっちだよ!」

突然に腕を引っ張られて、よろけながらもなんとかあたしはついていく。
部屋の名前が書いてあるのがちらっと見えた気がしたけど、文字としては読めなくて。
うきうきであたしを連れて行くフレデリカは前しか向いていない。
きっとここがこいつのオススメの場所なんだ。
引っ張られたせいで目線が下にいって、ふと足元が一気に暗くなったことに気付く。
さっきまでの暗さとはまた違う。ほとんど明かりのない夜の暗さだ。

フレデリカが足を止めて、あたしもやっと止まる。
顔を上げると暗い空間の中に光の柱が何本もまっすぐに突き刺さっている。
水色の柱の中をふわふわと浮かぶ半透明のものを見て、ここが水族館だったとやっと思い出す。
クラゲか。
よく見れば円筒型の水槽のほかにも、壁に埋め込まれた水槽が点在している。
さっきと違うのは一面がそうなっているわけじゃないってところだ。
変な言い方かもしれないけど、埋め込み型テレビみたいな感じ。
ここは深海系の部屋らしく、出入り口はひとつしかない。
見たい人は来るけれど、興味がないとか好きじゃない人は来なくてもいいようになっている。
たしかに深海のはグロテスクなやつも多いしな。
とはいえ繊細な生物でもあるらしく、そこらに “フラッシュをたかないでください” と注意書きがある。
そりゃこいつらの世界には光なんて縁遠いものだもんなあ。
……クラゲもダメなんだな、フラッシュ。目みたいなものでもあんのかね。


59: 2018/08/12(日) 10:18:58.05 ID:f0hWHOAvo

円筒型の水槽だけが目に入るようにしてじっと見つめていると、距離感とか高低の感覚とかが失われてくるような気がしてくる。
ぶわっと膨らんで、絞って上に行く。
このまま上がって天井にぶつかるのかなと思っていると決してそんなこともない。
いつの間にかクラゲは水中を下がってきている。
なんにも動かず、ただ沈んでいる。
そして思い出したように浮かぶ。いやこれ泳いでるのか?
なんとなく目が離せない。
世界にあたしとコイツだけしかいないかのような、変な錯覚を起こしそうになる。

「ふふ♪」

「……なんだよ」

「アタシが好きなものは奈緒ちゃんも好きになるなって思ってたから、フレちゃん大正解~♪」

にっこり、って擬音がぴたりとはまるような顔をしてフレデリカがこっちを見ている。
あれだけじっと眺めてたら好きになったと思われるのも仕方ないか。別にそれがイヤってわけでもないしな。
この、妙な飽きない感じはたしかに悪くない。

「ね、けっこう癒し系でしょ?」

「うん、なんかぼーっと見てられる」

「あっちに座れるところもあるんだよ!」

そう言って楽しそうに先導するフレデリカの後ろを、周りに目を奪われながらあたしはゆっくりと歩いていく。
背もたれのないスツールソファをいくつかくっつけたスペースがそこにはあって、ちょうど具合のいいことに今は誰も座っていない。
行儀悪くどさりと座る。ソファに後ろ手をついて正面の円筒を軽く見上げるような姿勢を作る。
眺めは不思議なもので、黒い天井に明るい水色の柱が突き刺さっている。
特殊なガラスの向こうはあたしたちのいるところとは共通点を探すのが難しいほど条件が違っているらしい。
水圧とかそういうのを考えると、そもそも人はそのかたちを保てないとか。

そういえばさっき海底を散歩している気分みたいなことを思ったけど、それならここは深海の底になるんだな。
余計に手の届かないはずの場所。
ある種の怖さがあるといえばあるけど、同時に気になるのも否定できないというか。
こういうのも怖いもの見たさになるのかな。
クラゲを眺めてるだけでこんなことを考えるなんて、もしかしてあたし詩人とか?
……くっだらね。

60: 2018/08/12(日) 10:19:25.12 ID:f0hWHOAvo

「それにしてもさ、フレデリカってクラゲ好きだったんだな。プロフにも書いてなかったろ」

「フレちゃんには秘密がいっぱいだからね、好きなものなら他にもたくさんあるのだ!」

「へえ、たとえば?」

「んー、石鹸とか?」

「すっげえ意外、って思ったけどひょっとして香水は使わないタイプなのか?」

「持ってるけどそんなには使わないよ」

なるほど、いい匂いの原因は石鹸だったのか。
会うたび感じの違う香りだったからたくさん香水持ってるのかと思ってたけど納得だな。

「ね、ここ出たらどうしよっか、カラオケ行っちゃう?」

「歌ったの昨日なんだから勘弁してくれよ」

クラゲを見ながら隣り合ってぼんやりと言葉を投げ合う。
BGMさえない空間のはずなのに声は響かない。きっと壁が音を吸い込む造りになってるんだろう。
深海にも音はないのかな。

「デートの定番だと思うんだけどな~」

「これデートだったのか」

「二人でお出かけだし、それでいいんじゃない?」

二人で出かけることをそう呼ぶなら、まあその通りか。
そうだな、といかにも興味なさそうに返す。
そうでもしないとフレデリカはどんどん話を広げるからな。
変な方向に進みそうな話題はさっさと切っておくに限る。

「ところで奈緒ちゃん、初めてのステージは楽しかった?」

「んー……、よくわからん。あんま覚えてないんだよな」

「ワオ、それは大変、記憶喪失だね! フレちゃんのことは覚えてる?」

「あたしは今まで誰と会話してたんだよ……」

「あ、そうだね、それじゃあ記憶はオッケー、バッチリ、最高潮だね♪」

「気が付いたら歌い終わってて、家帰って寝て起きてここにいる感じなんだよ。楽しい楽しくないも、成功も失敗もわからない。実感がまだなくってさ」

「大丈夫、奈緒ちゃんならきっと成功したはずだよ。お仕事で見てないけど」

「なんでそんなの言い切れるんだよぅ、あたしだってけっこう不安だったりするんだぞ」

「だって、奈緒ちゃんだもん」

「なんだそりゃ」

「ほんとほんと、大丈夫だよ。奈緒ちゃんはこれからもたっくさん成功するよ、安心安全のフレちゃん印だよ」

「なんだそりゃ、うまく行かなかったらどうすんだよ」

「じゃあその時はー、……フレちゃんが責任取ってあげる♪」

「えぇ……、具体的にはどうすんだよ」

「どうしよっか?」

「何も考えてないのかよっ」

もういちど円筒に目をやると、やっぱりクラゲは変わらずにふわふわしている。
あたしのことなんてお構いなしだ。当然だけど。

たぶんフレデリカなりに気を遣ってくれたんだろう。
デビュー直後の一日を家でぼんやり過ごすより、連れ出してもらって本当によかった。
こういう丁寧な心配りは素直にうれしいよ。
だって今日は言われるまで気が付かなかったにしても、別の日に一人で意識しちゃってたら大変なことになってたかもしれない。
たとえばテレビの放送日はその現象のデッドラインだったんだろう。
たぶんフレデリカはわかってたんじゃないかな、すぐに話題に上げるようなこともなかったし。
自分でも気づいてなかった不安感というか、煮え切らなかったものが晴れている。
なくなってからその存在を認識するってのも変な気分だ。

ただやっぱりアイドルになったって実感はまだ湧かない。
ステージ上でのことをあんまり覚えてないから。
これまでのことが全部夢でウソでした、って言われてもまだ信じられるんじゃないかと思う。
……まあ、レッスンで変化した身体とか技術のことは置いておくとして。


61: 2018/08/12(日) 10:19:51.07 ID:f0hWHOAvo

あれは誰だったんだろう。
あんなのはあたしじゃない。
金曜の夜、テレビの向こうの “神谷奈緒” が歌い終わった瞬間にあたしは電源を消した。
それはすっかりそのまま向こう側の人間だった。
そんな映像を眺めていたのは野暮ったい眼鏡をかけた部屋着のあたし。髪型も違う。
誰だってそんなものをイコールで結べるわけがない。
だからあれはあたしじゃないと結論づけることが可能になる。

意外なことに現実を受け入れられなくなるとかそういう事態は起きていない。
あたしの頭がはじき出したのは奇妙な結論だ。
土日と同じようなことを何度もぐるぐる考え続けたけどゴールは変わらなかった。
もしかしたら逃避のひとつのかたちなのかもしれない。
そんなものが自分でわかれば苦労はしないんだろうけど。
たとえばスカウトを受けた日みたいなふわふわした感じはない。
なにせ学校に行く途中で電車を乗り過ごしてはいないし、曲がり角はぜんぶ正解してるからな。
ただそれが何を示しているのかあたし自身にはわからない。
時計を見るとホームルームが始まるまで意外と余裕がないみたいだ。
遅刻をしていいことがあるわけもないから、ひとつ息をついて走り出す。


62: 2018/08/12(日) 10:20:18.49 ID:f0hWHOAvo

階段を上りきってチャイムが鳴っていなかったのを確認して思い切り歩を緩める。
もう安心だ。今すぐ予鈴が鳴っても楽勝で席につける。
周囲も似たような感じで、いつもの学校の朝の風景だ。
開けっぱなしの引き戸をくぐって教室に入る。
適当に目が合ったやつとあいさつを交わす。
たいていのクラスメイトは友達と話をしてて、残りはまあいろいろだ。
ほら、誰もあたしとアレを結び付けてなんていない。
なにせあたしはとくに目立ちもしないメガネの地味子だからな。

席に座る前にどうしたって目に入る沙紀がぐでっと机に突っ伏してる。
たしかに朝に強い印象はないけど、夜更かしでもしたのかね。
とは言ってもコイツは自由なやつだからこんなんでも日常の範囲から飛び出してるわけじゃない。

「よう沙紀、調子でも悪いのか」

沙紀の動作はのっそりしている。こりゃホントに調子よくないのかもしれないな。
机にべったり張り付いてた顔がこっちを向くとマンガみたいなジト目があたしを迎える。
あたしはたったいま来たばっかりで何もしていない。そんな目をされるような覚えはないぞ。
顔だけ動かした沙紀と立ったまんまのあたしが見つめ合って五秒。
よく見るとジト目というよりは、疑わしげに何かを確かめているような感じもする。
悪いがあたしの顔をじっと見たところでなんの証拠も出てこないぞ。いたずらなんてしてないんだから。

やっと体を起こした沙紀は返事もないままなにかの考えを振り払うように頭を振る。
ホントによくわからん。
チャイムが鳴っていたけど先生はまだ来ていないから沙紀のほうを向いて座る。
今度は難しい問題を目の前にしたみたいに眉根が寄っている。
こういう表情もあったんだな、失礼だけど想像したこともなかったぞ。

「奈緒ちゃん」

「なんだよ」

「…………今日、サボんないっすか」

「はァ?」

おまえは何を言ってんだ。
こんなこと沙紀から言われたのは初めてだ。
というかそれ以前にサボりのお誘いなんかこれまでの人生でもらったこともない。
付け加えるなら沙紀とあたしはそんな関係性じゃなかったはずだろ。
あとそういうお誘いをするのにその表情は違うんじゃないか。

あたしの頭の中を当然の疑問が埋め尽くす。
なんでこんなことを急に言い出したんだ?

「……いや、たまにはいいんじゃないかと思って」

「もうホームルーム始まるぞ?」

「古典が始まる前なら脱走できると思うっす」

冗談でもないらしい。
なんでこんなにやる気まんまんなんだ。

「なんだよ、マジでなんかあったのか?」

「……あったというかありそうというか」

謎かけかなんかか。まったく意味はわからないけど。
でもとにかく事情はありそうだ。
コイツは自由人で間違いないが、だからって不真面目なわけじゃない。
沙紀が動こうとするならどこかに理由はあるんだろう。
ただ動く基準がちょっと人と違うだけだ。

とりあえず、わけはわからないけどあたしはこんな沙紀を放っておけるような人間の作りをしていない。
学校をサボるのに抵抗がないとは言えないけど、優先順位なんか考えるまでもない。
ノートは誰かに写させてもらえばいいし、心配なのはそれだけだ。出席日数を気にするほど休んじゃいないしな。

「わかったよ」

驚いたような顔がそこにある。
おまえはあたしをなんだと思ってんだ。


63: 2018/08/12(日) 10:21:09.33 ID:f0hWHOAvo

ジャンクジャンクしたおやつはたまに食べるとびっくりするほど体になじむ。
ハンバーガーにポテト。ドリンクは適当に。
思い出してみれば春からずっと離れてたんだな。
そういうチャンスがある放課後はみっちりレッスンが詰まっていたと言い換えることもできるけど。
休みの日は本当に休んでおかないと疲労でしんどかったし。
だから沙紀と食べているこれはマジで久しぶりで超美味く感じる。
現金な話だけど、これだけでサボった価値がちょっとあったかもと思ってしまう。

学校を出るまではまったく元気のなかった沙紀は校門を出ると一気に元に戻って、教室でイヤなことでもあったのかとさすがのあたしも勘ぐった。
普段から遊ぶような仲じゃないけど、さすがにそれは無視できない。
時間で言えば朝の九時を過ぎたばっかりで周りには誰もいなかったから、そこは何も気にすることなく聞けた。
その時の “何もないっすよ” は本当なのかな。あたしにはウソをついてるようには見えなかったけど。

その沙紀が今や完全にいつもどおりになっているのだから不思議なもんだ。
最近はすっかりご無沙汰だけど、遊ぶときにはこうやって都心まで出てくることもあったな。
ま、つまりここらはあたしの領域だったってわけ。
驚いたのは沙紀と遊んでも内容にそれほど差はないってことだ。
店を回っていろいろ見て。それだけ。
違うのは店のタイプだ。あたしが入ったことのないようなショップとか、アート系の店?とかはものすごく新鮮だった。
逆にあたしがよく行くような店は沙紀にとっては貴重な体験だったのかもな。
何も買わないのがミソだな、って女子ならたいていわかってるか。
今はもうすっかり落ち着いて、だらだら感想モードに入ってる。

64: 2018/08/12(日) 10:21:36.52 ID:f0hWHOAvo

「にしてもあれっすね」

「ん?」

「奈緒ちゃんと遊ぶの楽しいんだろうなとは思ってたんだけど、こんだけ楽しいとは思ってなかったっす」

「あたしも似たような感想だな、タイプが違っても楽しくやれるじゃんって感じ」

「これはもっと早くサボりのお誘いをかけるべきだったっすねー」

「おいあたしは一応真面目で通ってるんだぞ」

「真面目もいいけどたまには息も抜かなきゃ潰れちゃうっすよぅ」

ぷう、と頬を膨らませて反論をぶつけてくる。
言ってることは間違ってないんだろうけど、そこは性格とか考え方の違いか。
まあ真剣にやり合うような話でもないしテキトーに流れていく。女子高生の会話なんてこんなもんだ。

「あ、奈緒ちゃん、このあとどうするっすか?」

そう言われてスマホで時間を確認する。
学校だともう最後の授業が終わりそうな頃合いだ。
楽しいと時間が経つのが早く感じるよな。
沙紀はうきうきしてるし、あたしもこの時間が続けばいいと思う。
でも時間切れなんだよな。
もうあとちょっとで事務所に行く時間だ。
今いる場所は位置的に学校よりは近いからちょっと余裕はあるけど大差はない。
次にどこかに行くことになれば確実にアウトだろうからここまでだ。

「悪い、今日ほら、例の習い事があるんだ」

「えぇー、今日はアタシに付き合ってほしいっす」

「どうしたんだよ沙紀、もう今日はけっこう遊んだだろ」

「むしろ大事なのはここからなんすよ、そのためにガッコから引っ張りだしたんだから」

なんだか妙に食い下がるな。
コイツはこういうわがままを言うようなタイプじゃない。
そのはずなのにここでこれだ。
朝の変な状態も含めてやっぱりちょっとおかしい気がする。

「なんでだよ、ここからが大事って意味がわかんないぞ」

「一度くらいその習い事をサボってみてほしいっていうか……」

「……頭痛くなってきた」

どれだけ頭を働かせても話が通らない。通る気さえしてこない。
目的をそこに置く必要がどこにあるってんだ。
もっと遊びたいならまだわかる、っていうかこの場合はそれが普通だと思う。
そうじゃなくて“サボってみてほしい”?
あたしをサボらせてお前はいったい何を得るんだよ。

いつの間にか額にやっていた手をテーブルに戻して沙紀のほうを見る。
口元もなんだかおぼつかないし、視線は自信なさそうにテーブルの隅に落ちている。
情緒不安定かと言いたくなるけどそれは我慢しよう。
あたしは沙紀に対してなんて答えればいいんだ。
レッスンを休むつもりがないことはもう言ってあるってのに。
もしかして正解なんてない状況だったりするのかこれ。

どっちも口を開けない時間が続く。
別にケンカしてるわけでもないのに何なんだこの感じは。

「……ダメっすか?」

「ダメだ。習い事のほうはあたしがやるって決めたんだ」

「そっか、ダメかぁ」


65: 2018/08/12(日) 10:22:06.05 ID:f0hWHOAvo

都心の駅は学校の最寄り駅と違ってどこも人が多い。話をするにはだいぶ不向きだ。
沙紀はここから千葉に向かう電車に乗るし、あたしは事務所へ向かう電車に乗る。そもそも線が違うからホームで向かい合うことさえない。
だから駅の入り口辺りでもう今日はお別れだ。

……気まずい状態がまだ続いてるのが意味わからん。
学校でなら多少イタズラが過ぎてもすぐにちょっかいの出しあいに戻るからなぁ。
二人でいてこんな無言の時間が続くのなんて初めてじゃないか?
沙紀がしゃべらないとこんだけキツいとは思ってなかった。
意外とあたしは自分で思ってるよりも受け身タイプだったらしい。

合わせづらかった視線をどうにか合わせる。目も合わせずに挨拶はナシだろう。
沙紀は沙紀でまだ気まずそうな顔をしている。
変なことを言い始めたのはお前なんだからその表情は道理といえば道理だ。ただそれ以上にあたしにダメージが入る。理由はわからない。

「…………やっぱり、ダメ?」

「あんまりわがまま言うなよ、たまになら学校サボんの付き合ってもいいからさ」

「むぅ」

「沙紀はそっちだよな、悪いけどあたしこっちなんだ。じゃあな、楽しかったぜ」

「……うん、さよならっす」


66: 2018/08/12(日) 10:22:34.27 ID:f0hWHOAvo



ドアを開けると乃々ちゃんがフレデリカちゃんに捕まっています。それはもうがっしりと。
抜け出そうとはしてますけどどう頑張っても抜け出せそうには見えません。
乃々ちゃんとフレデリカちゃんでは体格がそもそも違いますし。
あまり必氏っぽくは見えないのでじゃれ合いだとは思うんですけど。
というかこれどういう状況なんでしょうか。
見ただけでわかれば苦労はないんですけど、まあフレデリカちゃんが絡んでますから仕方ありません。

乃々ちゃん、助けを求める目はやめてください。
そんなものを向けられても私にできることはひとつもありません。
加えて言えばその目を続けられただけ助けられない罪悪感みたいなものが募るので。

「フレデリカちゃん、いったい何をしてるんですか」

「それはね、語るも涙、話すも涙の大長編物語なんだけど」

「誰も聞いてないじゃないですかぁ! ひとりでしゃべって泣かないでください!」

「わ、さすがナナちゃん、ツッコミ上手ぅ♪」

「とくにそれで売ってませんからね!?」

「え、即興でこんな掛け合いできるんですか……。トークの苦手なもりくぼに対するいぢめですか……」

乃々ちゃんの言っていることは私には聞こえません。
私はそういうアレじゃないです。目指しているのは歌って踊れる声優アイドルです。
というかこれたぶんフレデリカちゃんに振ったのが間違いでしたね。

「乃々ちゃんはフレデリカちゃんとどんなお話をしてたんですか?」

「あぅ、その……、奈緒さんがすごかったっていう……、昨日テレビで観たので……」

なるほど乃々ちゃんも観てたわけですか。それなら話題になるのもおかしくないですね。
乃々ちゃんは奈緒ちゃんにけっこう懐いてるみたいですし。
外から二人を見てると微笑ましいんですよね、なんかふわふわしてて。

ま、そこに奈緒ちゃん大好きと社内で公言してはばからないフレデリカちゃんですから話が盛り上がったんでしょう。
捕まる経緯はわかりませんけど。


67: 2018/08/12(日) 10:23:06.00 ID:f0hWHOAvo

それにしてもこのぶんだとだいたいの子があの特番を観てそうですね。
深く考えなくても自社の新人さんたちが出てるわけですから注目度が高いのは当然なのかもしれません。
こんな世界ですし、アンテナは常に張っておきませんと。

「乃々ちゃんはどんなところがすごいって思ったんですか?」

「そ、そもそもトリであんなに堂々としてた時点ですごすぎます……。もりくぼとは比べられません……」

「たしかにそうですね。奈緒ちゃんとっても落ち着いてたように思えます」

「それに、その、すごく綺麗だなって……、目が離せませんでした」

ほとんど同じ感想です。私も目が離せなかったんです。
ちゃぶ台もお茶もテレビそのものすらも消え去って、奈緒ちゃんだけが立ってたんです。
一晩経った今でもかなり鮮明にあの映像が思い出せます。細部までも。
自分でもどうなんだと思わなくもないですけど、事実として頭に残ってるのにそこにウソをつくわけにもいきません。

これは推測ですけど、きっと乃々ちゃんも同じなんだと思います。
だからこそここに戻ってきてまでお話をしてるんでしょう。
乃々ちゃんは今日ボーカルレッスンだったはずですからね。
ボーカルレッスンの後って意外としんどくて、ダンスレッスンとはまた違った疲労感なので、そうそう気楽にここに寄る気になれなかったりするんですよ。あくまで個人的な感想ですけど。
そんな中でB-02にいるってことは奈緒ちゃんのことをかなり話したかったんじゃないかなって思っちゃいます。
フレデリカちゃんに捕まってても話ができてるのでテンションも高めと考えてよさそうです。

「奈緒ちゃんはアルファヴィルだからね」

68: 2018/08/12(日) 10:23:33.84 ID:f0hWHOAvo

同意のためにうんうん頷くことしかできないところにフレデリカちゃんから声が飛んできます。
だからそれは当たり前のことなんだよ、というセリフが言外に明らか含まれた物言いは自信とかそういうものを飛び越えて、冬は寒いというようなことと同列に語られているようにしか聞こえません。
それがあまりにも自然に挟まれたので、疑問を持つタイミングが一瞬遅れます。
アルファヴィル?
これまでの人生で聞いたことのない言葉です。
フレデリカちゃんがたまたま知ってるフランス語とかでしょうか。

「アルファヴィル、って、たしか星の名前、でしたよね……?」

「わお、乃々ちゃんすごーい♪ よく知ってるね!」

「あ、その、たまに図書館で調べものとかするので……」

ほほう、星の名前なんですか。
乃々ちゃんもよく知ってましたね。ホントに。
星ということは……、なるほど、きっとアナスタシアちゃんが情報源ですね。
それにしてもフレデリカちゃんから星の名前だなんてかなり意外です。
まあ、話題になっているのは奈緒ちゃんなので別に星の話ってわけじゃありませんけどね。

星と奈緒ちゃん。
スターって言いたいんでしょうか。
いやいや、まだ奈緒ちゃんはデビューしたてです。
たしかに否定のしようもないほど衝撃的なものではありましたけど、それでも舞台に立った回数はたったの一度です。
スターなんていうのはさすがに早すぎると言わざるを得ません。
その辺りフレデリカちゃんが考えてないわけありませんし。

「そのアルファヴィルっていうのはどういう意味なんですか?」

「えっとねー、アルファヴィルはオットセイなんだよ!」

「は?」

「あ、菜々さん、たぶん一等星のことだと思います……」

「そうそうそれそれ♪ いちばん光る星なんだよ!」

一等星。聞き覚えありますね。
たしか恒星の等級で、フレデリカちゃんの言うようにいちばん光るランクでしたっけ。
もしフレデリカちゃんの言いたいことが私と一致しているなら。
奈緒ちゃんは一等星レベルの可能性を持っている、と?

ふとテレビの向こうの奈緒ちゃんが頭を過ぎります。
周りはまったくの暗闇のなか、ぽつんと浮かぶスポットライトに一人だけで立つ姿。
真夜中みたいに静かな場所で全部の視線を集めていました。
むこう側からこちら側に届けられる歌声はあまりにもまっすぐで。

「だからね、奈緒ちゃんを見ちゃうのはどうしようもないんだよ」

言葉を引き継がれたような気がしてはっとしたのを気付かれないようにごまかします。
でもよくよく話の流れを思い出してみれば、フレデリカちゃんはたださっきの言葉に続けて話しただけです。
別に私の考えていたことを読み取っているわけでもなんでもありません。
アルファヴィルだから、一等星だから誰もが目を離せない。
いったい何の話をしてるんでしょう。現実の人間のことなんでしょうか。
だんだんわからなくなってきます。

「フレちゃんはてんびん座だからね、奈緒ちゃんには勝てないんだー」

あの、本当に何の話をしてるんですか。
わからない話を続けられるほど私は優秀にはできていません。

「あの、ところで当の奈緒ちゃんは?」

「えっとね、乃々ちゃんの次のボーカルレッスンだって!」

「あ、はい……。ドアのベンチのところで、ちょっとお話を……」

「どんなお話をしたんですか?」

「その……、奈緒さんは気合入れて頑張るって言ってたんですけど、なんか、すこし表情が変で……」

「表情が変?」

69: 2018/08/12(日) 10:24:21.99 ID:f0hWHOAvo



ダンスレッスンで意識が遠くなることはなくなったと言っても、キツいものはキツい。
なにせプログラムもいつまでも同じものってわけじゃないからな。
一つできるようになったかと思えば課題は見つかるし、それをトレーナーである麗さんが見逃すはずもない。立場的にも当然だ。
だからボーカルレッスンが始まる前のこの待ち時間は休憩時間として実に有効なのだ。
逆を言えばボーカルレッスンの順番が一番だとものすごくしんどい。
シャワーのことを考えると相当急がないとならないからだ。
もちろんシャワーを外すなんてあり得ない。女子としての尊厳は守らなきゃならない。

今日の一番手の犠牲者は乃々で、年齢問わずにビシビシいく辺りはプロフェッショナル感もある。
あたしは今日は二番手で、シャワーを済ませてクールダウンがてらに社内施設をうろついてきたばかりだ。
廊下のベンチはB-02とかのものに比べると味も素っ気もない。
壁によりかかるのは姿勢も行儀もいいとは言えないけど、疲労が残ってるから許してほしい。

相変わらず目の前の壁も扉も防音が行き届いているようで、ちっとも音は漏れてこない。
まあ、防音性能が低くても乃々だとあまり聞こえてきそうにないけどな。
時計を見るとあとちょっとで私の順番が来ることがわかる。
それまではのんびり待たせてもらおうか。

「なんだ神谷、お前いつもこんなに早くから待機してたのか」

かなりのハスキーボイスに名前を呼ばれてそっちを向くと意外な人がそこに立っている。
手にはペットボトルのスポーツドリンク。
この人以上にスポーツドリンクが似合う人はなかなか見つからないだろうと思う。

「あれ? 麗さん。今って他のところのレッスン入ってないんですか?」

「いや、レッスン自体は入っているが指示を出したところでな。ちょうど手持ち無沙汰なんだ」

そんな時間が存在したのか。
あるいはあたしたちの時にもあったのかもしれないけど、気付く余裕がなかっただけか。
言われてみればトレーナーさんとしての声が飛んでこない時間帯があったような気もする。
もちろん指示が出ている時間っていうのはあたしが必氏な時間帯でもあるから記憶は輪をかけて曖昧だけど。

「もしかしてあたしを探してました? さっきの言い方的に」

「そうだな……、まあ見つかればいいか、程度だな」

「あっはっは、なんですかそれ」

70: 2018/08/12(日) 10:24:49.45 ID:f0hWHOAvo

もう半年近くの付き合いにもなると初めの印象とは違った面も見えてくる。
この人はレッスン中は本当に厳しいけど、そこを外れると案外と面白い人だ。
その落差のせいで余計に親しみを感じてるってのはあるかもしれないけど、それでも話してて楽しいのは間違いないし。
なんというか、誰が相手でもさわやかな距離感で接する人だからこっちとしても接しやすいというか。
学生時代とかはきっと人の中心にいたんだろうな。それも自然と。

麗さんがあたしの隣に腰かける。
近くに他の誰かがいるってわけでもないから麗さんもとくにあたしに目を向けることもない。
ペットボトルをあたしから見えない側の体の脇に置く。
ちくしょう、締まった腕がかっこいいぜ。

「なあ神谷、この立場で言うのもおかしいかとは思うんだが」

「どうしたんですか、そんなあらたまって」

「引き返さなくていいのか?」

レッスンの時ほど隙が無いわけじゃないけど、だからって冗談に聞こえるような声色じゃない。
和んだ雰囲気の時にはもっとくだけた話し方のできる人だ。それとは違う。
だからたぶんこれはその二つのあいだのトーンなんだろう。
そのグラデーションの中のどの位置にあるのかまではわからないけど。

「えっと、どういう……?」

「そのままだ。ああ、誤解のないように言っておくが私はお前をかなり評価しているからな」

「あの、余計に意味がわからないんですけど」

「一度なら思い出づくりで済むんだよ、まだな。ただそこから先はもう我々では手出しができん。つまり頃合いとしては今が最後のチャンスと言っている」

評価されているとまっすぐに言われても、それが浸透してこない。
とくに具体的な言葉は出てきていないけど、アイドルから降りるならっていう話だってことくらいはあたしにもわかる。
どうしてだろう。
間違いなく麗さんは善意の人だと思う。すくなくともあたしはそう信じている。
なのに麗さん自身が言ったトレーナーという立場のことを踏まえると、辞めることを提示するっていうのにはおかしななにかを感じざるを得ない。
選択肢を見せてくれていると考えれば変な話でもないんだろうけど、本当にそれだけか?

麗さんの顔は前を向いたままであたしから見えるのは横顔だけ。
目はいつものように鋭い。
あたしはろくに返す言葉を見つけられない。

「ぷ、プロデューサーさんとか」

「違う。まずはお前の考えなんだよ、神谷。続けたいなら喜んでアシストしよう、我々が高みに連れて行ってやる。でもな、無理をしてまで続ける必要はないというのが私の持論なんだ。もしそうであればという話だが」

わからない。そしてわからないことを考えるのは相当疲れる。
あたしはどうやら評価されているらしくて、麗さんはあたしたちを鍛える立場の人で、でも辞めるなら今だと言っていて。
あたしの貧弱な脳みそだとそこに正当性のあるつながりは見つけられない。
じゃあどうするか。聞くしかない。わからないんだから。

「ど、どうして麗さんがそんなこと……」

「心配だというのがある。オーディションを通らずにスカウトで引っ張られてきたからな、お前は。そのぶん自発的な意志がなければこの先は酷だろうと思ったからだ」

「え、あ……」

「それにお前はまだ高校生だ。最悪でも自分の未来について考える権利くらいは保証されていなければダメだろう。それが道理というものだ」

あたしの未来。
そんなことさっぱり考えてなかった。
目の前にやってくることをこなしていくのに必氏で、その先になにが待ってるかなんて頭をかすめたことさえない。

あれ、でも今日あたしは沙紀の誘いを断ってここにいるはずで。
違うのか? もしかして選んでいないのか?
あたしがここにいる理由。
頭痛がする。

「まあ、まだ時間はそれなりにある。ゆっくり考えてみるといい。それと」

麗さんが一呼吸置いて言葉を区切る。

「どちらにせよ決めたならまず私に話せ。プロデューサー殿は立場から言ってお前を手放す選択肢は採れないからな」


71: 2018/08/12(日) 10:25:47.22 ID:f0hWHOAvo

麗さんが立ち去った廊下はそれまでよりいっそう静かで、別の場所に来てしまったかと錯覚してしまいそうになる。
その環境も手伝って、あたしの頭は思考することをやめようとしない。こんな心持ちで考えなんかまとまるはずがないのに。
自分が何を考えているのかすらわからなくなる。
時計の秒針が意識を手放しかけていたことを定期的に教えてくれる。
どうしよう、フレデリカに相談でもしてみるか。
いや、あいつも今はレッスン直後なわけだしさすがに控えるべきだよな。

ぶんぶん首を振って頭に生まれた形を成さないものをなんとか追い払う。
外から見たら見事に不審者だ。社内だから通報されるようなことにはならないだろうけど。
いつの間にか足元に落としていた視線を前に持ってくると、ピタリのタイミングでレッスンルームのドアが開く。

「あ、奈緒さん、ど、どうも……」

「乃々。……あ、そうか、レッスン終わったのか」

「えっ、じゃあ奈緒さんは何を待たれていたんですか……」

あたしの顔は大丈夫か。いつも通りにできてるか。
前に乃々には顔の筋肉が動かなかったせいで怖い思いをさせちゃったからな。
全力で謝り倒して、乃々にもうやめてくれと泣きながら懇願されたことを思い出す。
その場にたまたま居合わせた心さんに説教を食らったことも忘れちゃいけない。
一方的に何かを伝えるっていうのはだいたいの場合よろしくないと教えてもらった。コミュニケーション自体がそもそも自分以外を含めて成立するんだから当然といえば当然なんだけど。
まあ今回は目を合わせた瞬間に怯えた表情をされてはいないからセーフだろ。

「ああいやいや違うよ、乃々が終わるのを待ってもいたけどちょっと考え事もしてて」

「奈緒さんが何を考えていたのか、もりくぼちょっと気になります」

「え、あー、なんというか、…………未来?」

ウソをつかずに誤魔化せって言われたって。
そのためにギャグっぽく見せようと変なポーズとセットでキメたあたしのとっさの判断はアホなのか。そうかもしれない。いや高確率でそれだわ。
もう、なんというか恥ずかしくて走って逃げたいけどそういうわけにもいかない。
恥ずかしさを堪えてるせいで顔に血が上っていくのが自分でもよくわかる。
ちょっと固まったままあたしを見てる乃々の視線が辛くなってきたから、何も言わずにポーズだけ変える。これが何かの解決になっているかなんて考えちゃダメだ。

「んふっ、なんか今日の奈緒さん妙なキレがあるともりくぼは思います」

ちいさな口から漏れ出た空気があたしを救ってくれる。
笑ってもらえるってこんなに幸せなことだったんだな、ってこんなところで理解したくなかったけど。
ええい、話題転換だ話題転換。

72: 2018/08/12(日) 10:26:14.38 ID:f0hWHOAvo

「それで乃々は今日は何のレッスンだったんだ?」

「ゆ、ユニット曲でのソロパートの練習ですけど……、これはやはり私には無理なのでは……」

「ん? そんなことないだろ。任されるってことは理由があるってことなんだから」

「うぅ……、そんなアグレッシブな応援されても困るんですけど……」

目をそらして手をもじもじさせてる乃々の様子は反則的に可愛い。
こんなの誰だって構いたくなるって。
これだけ可愛くて自信がないなんてどういうことだと言いたくなるけど、この一貫した弱気のスタイルが乃々の最大の魅力なんだから世界は因果なものだ。

この状態の乃々を一人で、しかも間近で眺められるのは一種の特権だよな。
アイドルになってよかった、とまで言ってしまうのはさすがに歪みすぎな意見だと思うけど。
まあなんというか、素敵なおまけくらいには考えていいんじゃないか。

「なあ乃々、アイドルをやるのは楽しいか?」

ふと口をついてこんな言葉が出てきてしまう。
先輩を相手に聞くことじゃないよな。

「う、そ、その質問はもりくぼにとってはずるい質問なんですけど……」

「あれ、そんなにだった?」

「私は、め、目立つのはイヤですけど、みなさんと頑張るのはイヤじゃないというか……」

なんだよこいつかわいいなあ。ついつい目を細めて乃々を見てしまう。
乃々にも頑張れる理由があるんだ。
いつも逃げようとはするけど全力じゃないわけだよ。

乃々は答えを持っている。

冷や汗が、頬を伝う。
どうして?
いま間違いなく何かがあたしの頭を通り過ぎたからだ。
どうして?
目の前にいる乃々を通して何かを見たからだ。乃々とは関係のない何かを。
そこまでわかっているのにあたしにはその何かのはっきりした姿を掴むことができない。

そしてそれは確実に楽しくない部類のものごとだ。

あまりに突然の出来事にも関わらず、あたしの脳はぴたりとその判断を下す。
不思議なことに混乱はない。
いや違う。混乱はしている。その判断を下すことだけ妙にすんなりとできただけだ。
他のことに関しては頭の中はぐちゃぐちゃだ。
理由も前兆もなく唐突に感覚だけが、考えというものが存在できない領域だけが怖い思いをしたんだから。

顔は。
顔は大丈夫か。
絶対に乃々だけは怖がらせるような顔はしちゃいけない。二度とだ。
笑え。微笑みでもニヤニヤでもなんでもいい。
作り上げろ。幸い乃々はまだ視線を逸らしてもじもじしてる。
ここで表情くらい作れないでなにがアイドルだ。

「うぅぅ……、も、もりくぼはもう耐えきれないのでお部屋に戻らせてもらうんですけど……。あ、な、奈緒さんはレッスン頑張ってください……」

去り際に乃々がちらっとあたしに視線を投げる。
いつからかあいさつの時だけは目を合わせてくれるようになったんだよな。

「ああ、気合入れて頑張るよ」

「…………?」

乃々が小首をかしげる。
返し方がよくわからないから、あたしはとりあえず手を振って重たいドアを開ける。
ひょっとしてあたし、また失敗した?


73: 2018/08/12(日) 10:26:49.13 ID:f0hWHOAvo



「プロデューサーさんが忙しくなるって言ってた理由、本当でしたね」

素直に敬服します。
もちろん程度にずれくらいはあったんだろうと思いますけど、デビュー前から奈緒ちゃんを忙しくなる根拠に挙げていたってことはそれなりに確信があってのことに違いありません。
すくなくとも私が同じ立場だったとしてもそんなこと言えないだろうと思います。

新人アイドルによるアクセス過多でのホームページ接続不良なんて現代では騒ぎのタネもいいところです。
あれから数日経っても各所で奈緒ちゃんの話は途切れていません。
世間ではどちらかといえばネットでの話題になるほうが多いみたいですけど。
もちろん社内でも話題になり通しです。
本人がいるところではぴたりと話が止むっていうのが奇妙ですけど逆にリアルっていうか。

「ん? 奈緒のことか?」

「はい。けっこう前にプロデューサーさんとナナでそんなお話したんですよ」

「いや覚えてはいるんだが、忙しいことに関する話となるとほとんど毎日してるようなもんだろ? ピンポイントでそれかどうかは自信がなくてな」

言い訳がましく聞こえますが事実でもあるんでしょうね。
基本的にプロデューサーさんは人と話をすることで仕事を成立させる方ですから。
売り込むための資料や企画計画もろもろを作成したりももちろんしていますけど、それはあくまでも補助的なものだと言っていた記憶があります。
話すということに基軸を置いているとはそういうことで、そうなればそのぶん話の内容の質も量も増していくのは当然です。
そこに普段のなんでもない会話を加えると考えると、返しにピンポイントで奈緒ちゃんの名前が出てくるだけ本当に覚えていてくれたことの証拠になると思います。

「別に気にしたりはしませんよ、日常会話ですし」

「助かるよ」

背もたれに思い切りもたれかかるプロデューサーさんの姿は、B-02のルームデザインとはさすがにそれほどマッチしたものとは言えません。
失礼といえばそうなんですけど、この部屋だと比較対象がアイドルになってしまうので。
……ここ、アイドル事務所なんですよね。

「それで、これから奈緒ちゃんってどうなるんですか」

「大きいのは年末のスーパーライブ。いちおう枠だけは取れてる」

「えっ」

自分のくちびるが小さく震えるのがわかります。
どうしてこんな些細なことに気付けるんでしょう。
きっと冷静じゃなくなっているからなんでしょうね。
だから手近なわかることだけに反応する。
中学生くらいのころに自分にこういう癖があるってことに気付きました。
落ち着きましょう。まずは確認できることから。

74: 2018/08/12(日) 10:27:15.15 ID:f0hWHOAvo

スーパーライブ。うちのいちばん大きいイベント。
346プロは規模の大きい会社ですが、それでも三年前にやっと会場を押さえることが叶ったそうです。
その大きな会場を埋められるセットリストを組むことはずっと前から可能だったのに、です。
始まる前からそんなだったんですから、今ではびっくりするほど競争倍率が高いんです。
それでもファンの方は誰も諦めないほどのステージ。
そして。

そして。

たしかにデビューの年にスーパーライブまで駆け上がった前例はあります。
ありますけどそれは階段を何段も飛ばして駆け上がる才、能に、しか…………。

自分のことが嫌いになりそうです。
気付いてたんじゃないですか。
どうして見えないふりをしてたんでしょう。
奈緒ちゃんがテレビに映ったあの時からわかっていたのに。

……あらためて振り返ってみれば条件は整っていたんですね。
異例づくめのデビューだけじゃなくて直後に発生した事態。
それ以前に社内での扱いや評判がまるで違っていたじゃないですか。
スカウト、方針、ウワサ、フレデリカちゃんの評価。
どうして気付けなかったのかと自問したくなるくらいに揃っているじゃないですか。

「さすがに出演順は選べなかったがな。たぶん前半のどこか落ち着いた辺りだろう」

「プロデューサーさんの目から見て、やっぱり奈緒ちゃんはすごいですか」

プロデューサーさんは軽く笑いながら答えます。
その言葉の中にどれだけの意味が込められているのでしょう。
きっと思うところが私とは違うはずです。

「わかってるだろ。奈緒は特別なんだよ」

「なんとなくは言いたいことわかりますけどね」

「言い方は悪いかもしれないが、アイドルって枠組みで見れば見た目が飛び抜けてるわけじゃない。歌だって奈緒より上手いのはいるし、ダンスに至っては舞台で見せてすらいない」

「でも?」

「そう。でもあいつが脳裏に焼き付いて離れない」

まさに。
気が付けば目を奪われていて、そのことに違和感を抱けない。
かちりとなにかのスイッチが入って世界の境目がゆるむというか。
実際テレビは録画だったわけですし。
それなのに手を伸ばしてしまいそうになる瞬間があの四分のあいだに何度もあって。

「それはこの世界にあって本当に特別な才能なんだ、原理とかはよくわからん。でもそれは間違いなく存在するんだよ」


75: 2018/08/12(日) 10:27:41.91 ID:f0hWHOAvo



麗さんの言葉が頭を過る。
あたしがアイドルをやりたいのかどうか。
どうだ、と言われて困っているのはあまりステージでの記憶がないからだ。
観客の顔とか声とかそういうものは残っていない。
会場の規模もどんなもんだったか。
というか共演した人もまるで覚えてない。楽屋だか控室だかは二つしかなかったはずなんだけどな。
ド緊張の末になんとかやれることだけをやったっていうのが本当のところなんだろう。自分のことなのに推測っぽく言うしかないのが情けない。

逆に辞めたいのかと問われても困る。
辞めるだけの理由もとくに挙げられないから。
一言にしてしまえば宙ぶらりん。ただどっちでもいいってほど関心がないわけじゃない。
うーむ、あたしには意志ってもんが存在しないんだろうか。

ただ、傾き加減ならかろうじて判断はつくと思っている。
たぶん続けるほうにあたしは傾いてるはずだ。
なぜって沙紀とサボった日の最後にあたしはレッスンを選んだから。
でもレッスンを受けることが日常化しすぎて惰性でその選択をしたんじゃないか、と言われてしまうとあたしにはうまく反論の言葉が見つけられなくなる。
そうかもしれないからだ。
だからあたしは悩んでいる。
もっと根源的な部分でアイドルであることを選ぶかというのを判断するべきなんだろう。
そこにはきっと人生が関わっているだろうから。
当然ながらまだ二十年も生きてないようなあたしに人生について考えろなんて言われても実感が湧くわけがない。
けれどこれは要するにふつうに戻る最後の機会ってことなんだろうな。

キーはたぶん沙紀と一緒にサボった日のことにあるんだと思う。
どうしてあの日レッスンはサボらないって前提に立っていたのか。
ここを考える必要がある。
沙紀に話を聞く必要があるかとなるとそこは微妙だけどまあいいや、聞くとして。
さくっと終わる話じゃなさそうだから放課後かな。あいつに用事がないといいけど。
そういえば今日はまた席替えの日だっけ。月イチ。もう夏休み明けてひと月経つのか。


76: 2018/08/12(日) 10:28:09.67 ID:f0hWHOAvo

沙紀と席が離れた。
あれだけ何度も何度も席替えをしても離れなくてなかばそれが当たり前だとさえ思っていたのに、それは崩れてみると意外なほど簡単に新しい現実に取って代わられる。
驚いたことに近くには沙紀どころか普段のグループさえいない。
別にあたしは話してないとダメなタイプじゃないから構わないといえば構わないけど、それでも拍子抜けというかがっかり感のようなものはある。

「よう、沙紀。ついに席離れちまったな」

「驚いたっす。奈緒ちゃんが遠くに行っちゃったなって」

「同じ教室で遠いも何もない気もするけどな」

「ちょっかいが出せないならそれは遠いって言っていいと思うんすよね」

いつものいたずら顔で笑いかけてくる。
まあ背筋を指ですーっとやられたり脇腹を突かれたりしなくなるのは利点と言えるのかもしれないけど、逆に言えばこれまでずっとそういう生活だったんだな。
なんだろう、引っ越しとかってこういう感覚なんだろうか。
さすがに規模が違うか。

あたしは窓側の席で、沙紀は廊下側の席。
イメージで言えば窓側は太陽の光が差し込んで眩しいって感じだけど、うちの学校は逆だ。
午後はむしろ廊下の窓から光が差し込む。教室の窓は日陰になる。
もちろん廊下と教室のあいだには壁があるわけで、光はそこで遮られる。
日によってはものすごい鋭角に廊下から引き戸のところを抜けてまさに光が差し込むみたいなこともあるけどな。
かわいそうなことに沙紀はちょうどその鋭角な光が当たる場所を引き当てている。

さて、聞こうと決めたはいいけどあたしは何を聞けばいいんだ?
そもそもコイツはあたしがアイドルだってことを知らない。
そんな沙紀にアイドルを続けるべきかなんて聞くのは支離滅裂もいいところだ。
このあいだのレッスン前に別れた時のこともできれば聞きたくない。
じゃあなんだ、いつもの実にならない会話から鍵を見つけろってことか。
気が進まない。
でもまあ、やるしかないんだろうな。

「お前の “近い” の範囲せまくないか」

「いやいや手の届く距離なんだからおかしくないと思うっす」

「それじゃあ昇降口なんて世界の果てみたいなもんだな」

「人と場所を比べるのは違くないすか」

「あー、言われりゃまあそうか。でもなんかマトモな意見でびっくりだ」

「奈緒ちゃんアタシのことなんだと思ってるんすか」

「ゆるゆるの自由人」

「それたぶん誉め言葉じゃないっすよね」

ははは、と笑ってごまかす。
そもそも自由人という言葉には褒める要素がなかなか入らないぞ、沙紀。

でも不思議なもんだな。
比べてみるとうちの部署の連中とはぜんぜん違ってるのにどっちも心地良さが成立してる。
あいつらはあたしのことを知りたがるし、あたしも知りたくてけっこう聞いたし。
反対に沙紀は基本的には深く干渉しようとはしない。

理由みたいなものなら両方とも見当はつけられる。
B-02はしっかりと仲がいいんだ。それこそ肌が触れ合うくらいに。もちろん比喩だけど。
いわばあったかい居心地の良さがある。
沙紀の場合は別だ。こいつとの付き合いはすっきりしてる。
お互いがお互いのことに詳しくはないけど、まさにちょうど手が届くぐらいの距離感だから。

考えてみるとどっちも別におかしいところはないよな。
待てよ、ダメだこれ。
アイドルを辞める理由にも続ける理由にもつながらない。
どうしてあの時レッスンをサボるっていう選択肢自体がなかったんだろう。

「……けど、うん。寂しくなるっすね」

「なんだよ、話ならこうやってできるだろ?」

「いやまあそうなんすけど、なんかこう、わかるっすよね?」

わかるよ、たぶん、なんとなく。
不確定なものばっかりできちんとした言葉にはならないけど。
沙紀の感覚とあたしのそれが完全に合致してるかもわからない。
でもこの言い方はそういうことだろう。
きっと沙紀にも感じるところがあるんだ。
あたしだけじゃないんだ。


77: 2018/08/12(日) 10:28:45.45 ID:f0hWHOAvo



「お、ナナ先輩、モーニン☆」

私のほうに体を向けて座っていたはぁとちゃんが顔を上げます。
膝の上には雑誌、たぶんファッション誌、があります。
それにしてもはぁとちゃんって背高いですよね。私からすると完全に見上げるかたちです。
ん、いや、これおかしいですよ。
なんで座ってるはぁとちゃんを見上げるんですか。

なんだか物事の順番が前後している気がします。
ずきずきと頭が痛みます。うまく考えられません。
はぁとちゃんの表情は人前に出ているときのものではなく、個人的で素のものです。
なんでまた突然こんな表情のはぁとちゃんに出くわすのでしょう。
突然?
人の顔が突然出てくるのはおかしいのでは。
頭はまだ痛みます。痛みが邪魔で、よくわかりません。

「先輩、調子のほうはどうです?」

「調子、ですか。頭が痛いです」

「レッスンルームでぶっ倒れてたんですよ」

なるほどぶっ倒、……えっ。

「いったい何時からやってたんスか、はぁとが見つけたの9時だったんだぞ☆」

レッスンルーム……。
朝早く。
倒れるほどの……?

あ。

音さえ聞こえるくらいに頭にかかっていた靄が一気に晴れていきます。
そうだ、私は昨日の夜。

「時間まではわかんないスけど、理由はまあ想像つきますよ。自分もそうですし」

脳の回路がいきなりクリアになって情報が堰を切って流れ出します。
普段だって処理しきれないような情報量を相手に目を覚ましたばかりの私が対応できるわけがありません。
優しく語りかけるはぁとちゃんを目の前にして、私はあうあうと言葉にならない音声だけを口から零します。
理由。そうです。あるんです。

78: 2018/08/12(日) 10:29:13.47 ID:f0hWHOAvo

「見たんですよね? 奈緒坊の動画」

「……はい」

あの衝撃の特番からたった十日。
346の公式アカウントから新人ライブの動画が投稿されたとき、SNSでは大騒ぎになりました。
そこにはテレビに映れなかった子たちのぶんも投稿されていたので、コアなファンは狂喜していたようです。
形態としては途中でフェードアウトするように編集をしたショートバージョンが、ユニットごとにひとつずつ投稿されていました。
ですがそのことが持つ意味はまったく違うように思えました。すくなくとも私には。
あの奈緒ちゃんのライブが、短縮されたものとはいえ何度でも観られるようになったんだと。

テレビに映れなかった子たちの救済という側面もあるとは思います。
競争原理の中にあるとはいっても、そういう不公平が内側に不満を生んでしまえば社としていい結果にはつながりませんし。
実際に動画で初めて姿を見せた子たちも遜色なく輝いていました。
でも私がその日ずっとリピートしていたのは奈緒ちゃんの動画です。
初めのうちはそのまま観て、次は目を閉じて歌だけ聴いて、そして音を消してただただ奈緒ちゃんの姿だけを見つめました。
かちり。
パソコンから離れられない。
ようやくお布団を敷けたのは午前一時をまわるころでした。

でも予想通り寝付けませんでした。
テレビで観たときには気付けなかった箇所がいくつも見えてきます。
動きそのものは大きくないのに、瞳が、くちびるが、指先が、何もかもが訴えてきます。
目を閉じてもそれが浮かぶんです。どうして寝ていられますか。

あんなものをよくよく見せられて、どうしてナナが普段通りの生活を送ろうと思えますか。

「……7時前にはもう始めてました」

「いくらこの部屋は24時間使えるっつってもナナ先輩そりゃ……」

「やっぱり、無茶でしたかね」

どう扱えばいいのかわからない感情は笑いと一緒になって言葉になります。
はぁとちゃんがため息をついて自分の頭をがしがしと掻きます。
ちょっとずるい言い方だったのかもしれません。
けれどどのみちはぁとちゃんは私に強く言うことはできないはずです。
だって理由は同じだって言ったんですから。
はぁとちゃんだってアイドルなんですから。

「家で黙ってらんないほどのもんだったってことで納得しときます」

どこか不満そうな返事です。
仕方ありません。わかりますよ。
はぁとちゃんは頭が良くて優しいから、私にそう考えさせる状況に思い至ったんですよね。
自身でも驚いています。行動が矛盾ばっかりじゃないですか。
いえ、もしかしたら言い方が違うのかもしれません。
ずっと矛盾していたのではなくて、考えが変化したせいで矛盾になったというのが正しいのかもしれません。
でもどうしようもありませんよね、あくまで原因は奈緒ちゃんなんですから。

……そっか、魔翌力。
プロデューサーさん、たしかに奈緒ちゃんには魔翌力があります。
私がそれにやられていたのも間違いないと思います。
でも、本当の意味でのそれはプロデューサーさんには絶対にわかりませんよ。
人の目を惹く特別な才能のうしろに、もうひとつ隠れているんです。
参っちゃいますね。奈緒ちゃんにもフレデリカちゃんにも。


79: 2018/08/12(日) 10:29:44.45 ID:f0hWHOAvo

そういえば気にしてませんでしたけど、ここどこなんでしょう。
ベッドがあって、椅子があって、静かで。
仮眠室とかでしょうか。
あまり馴染みがない部屋っぽいので聞いた方が早そうです。

「聞いて驚け、救護室☆」

救護室。
ぶっ倒れてたんならそうですよね。運ばれるのは救護室ですよね。
倒れる前の記憶がさっぱり抜けているので、やっぱりどこか現実感はありません。
境目があやふやです。
救護室と聞いた途端に右ひじの辺りがじんじん痛み出します。ぶつけたんでしょうね。

「あの、運んでくれてありがとうございます」

「気にしないでいいスよ、誰かが倒れてたらフツーそうしますって」

ほら優しい。

「ところで私どれくらい気を失ってたんですか」

「えーっと、三十分も経ってない、かな」

意外と短かったみたいです。
考えてみれば寝て起きてもそのあいだの時間間隔ってわかりませんもんね。
体を起こそうとするとはぁとちゃんに目で制されます。
扱いは患者ってことですか。
わかりました。このままおとなしくしてますよ。

にしてもはぁとちゃん当たり前みたいな顔して座ってますけど、いつまでも付き合わせるのはなんだか申し訳ありませんね。
見方を変えれば自主練の時間を奪ってしまったようなものですし。
目も覚めたし頭も働き始めましたから、もう大丈夫だと思います。

「はぁとちゃん、もうレッスンルームに戻ってもいいんですよ」

「先輩、はぁとを人でなしにしようなんて人が悪いぞ☆ 仮にも倒れた人を置いてほいほい自主練に行けるわけないでしょうが」

撤回。私の頭はまだ全然機能していないみたいです。ちょっと考えればわかることを。
意識はクリアになっているんですけど、どうも思考回路とうまくリンクしていないようで。
なんというか、からっぽのカバンを抱えて荷運びをしているつもりになっているような、そんな気持ち悪さがあります。
さっきものすごく冴えたような気がしたんですけど、思い違いだったみたいですね。

「無理はダメだし過信もダメ☆ ナナ先輩、寝ていいッスよ。自分ここにいますから」

はぁとちゃんの穏やかな声を聞くとなんだか一気に眠くなってきました。
夢を見られるでしょうか。
さすがにここのベッドは寝心地バツグンというわけにはいきませんが、まあ気にするほどではありません。
目を閉じると意識がさぁっと遠ざかっていきます。
ここは不思議な空間ですね。
346プロそのものが夢といろんなかたちで接続している場所なのに、そのなかで眠るというのもなかなか奇妙なことのように思えます。
考えすぎだと言われれば否定はしませんけど。



80: 2018/08/12(日) 10:30:12.12 ID:f0hWHOAvo



外はしっかりした雨が降っている。
道路に水たまりができて、夜の街明かりが反射するくらいの降り方だ。
予報を聞くとそれなりに長く降るらしい。

スマホの通話履歴を呼び出してフレデリカをコールする。
あたしはあいつに電話をかけるときは先にSNSで確認を取ることにしている。
なんせ昼でも夜でも普通に仕事入ってたりするからな。看板レベルはさすがに違う。
呼び出し音が鳴り始め……、出やがった。

「びっくりした、出るの早すぎじゃねえか?」

『当ったり前川みくにゃんにゃん、だってフレちゃんスマホの前で正座して待ってたからね♪』

調子はよさそうだな。
そうじゃないフレデリカを見たことがないってのもあるけど。
それは抜きにしても本当に楽しそうに話すヤツだ。電話越しなのに表情が浮かんでくる。
つられてあたしも楽しくなってくる。
テキトー発言はこの際無視だろ。別にきちんとした会話でもないわけだし。

「正座はしなくていいわ、ていうかちょっと語呂いいなそれ」

『でしょでしょ? 流行らせようかなって思ってるんだ♪』

「ちゃんと本人に許可とれよー?」

『さっき道端の塀の上にいたからそのときオッケーもらったよ!』

「それ完全にどっかの猫だよな」

『あれ、違ったかな? でもきっと大丈夫だよ』

まあ前川さんなら許してくれるんじゃねえかな。
いろんな人から話は聞くけどマイナス方面の話は出てきたことないし。
それ以前にフレデリカが本気ならどう転んでも止めるのは無理だし、前川さんのほうもそれをわかってる可能性が高そうだ。
まあ、あたしがどうこう言う話じゃないか。


81: 2018/08/12(日) 10:30:56.67 ID:f0hWHOAvo

あたしたちはいつからかこうやって頻度高めに電話をするようになった。
別にこれについて話したい、っていう話題がいつもあるわけじゃないけどな。
今日もそんな感じだ。
もちろん毎日じゃあないけど週に一度ってこともない。そういう生活の一部。
思いつくままにしゃべるし、思いつくままに話をされるのだ。

「そういやさ、前やってたあの作詞ってどうなった?」

『ふっふっふ……、フレちゃんをなめちゃいけませんぜ旦那!』

「あたしいちおう女な?」

『あのね、いま大急ぎで曲つけてくれてるんだって』

「作詞自体は終わってるってことか、でもまたどうして大急ぎなんだろうな」

事務所のトップクラスともなると扱いが変わってくるもんなのかね。
いやたしかにあのフレデリカが詞を書いたってんならそれはあたしも気になる。
それに曲がついてフレデリカが歌うってんならなおさらだ。
そう考えるとこれはある意味ファンサービスと言えるのかもしれない。
こいつのファンは新鮮な驚きみたいなものをより強く求めてるフシがあるような気もするし。
だからこそ作曲を担当する人には頑張ってほしい。条件的にハードル超上がってるっぽいけど。

『スーパーライブでお披露目だから、それに間に合うようにするんだって』

おっと、あたしにとってはホットすぎる単語だぜ。
なぜって、あたしもそれ出るんだよ。
こないだ初めて聞かされたときはプロデューサーさんもなんでもないように話すもんだから聞き逃しそうになったけどな。

「はー、すげえタイミングで発表するもんだな。インパクトはすごそうだけどよ」

『そのまま年明けにアルバム出しちゃうんだってー、買ってね♪』

「宣伝はもっと大多数を相手にやってくれ」

『ノンノン、世間を相手にするならまず奈緒ちゃんから、って或阿呆の一生にも書いてあったよ』

「なんか学校の授業で聞いたことある気がするなそれ。ていうかそうだとしてフレデリカ、お前本とか読むのか……」

『ふふん、実は知性あふれるタイプだからね! 本の名前は友達から聞いただけだけど!』

「そのへん素直なのお前のいいところだよな」

『ワオ、奈緒ちゃんに褒められちゃった♪』

「はいはいいい子いい子」

スーパーライブが年末ってことは、そうだよな、そりゃ作曲は大急ぎなわけだ。
年明けまでにレコーディングまでを仕上げなきゃならないんだもんな。
あたしはまだもらった一曲しかないからそれをより磨いていくわけだけど、それと比べてみると大変さの違いがよくわかる。
新しい曲って前例がないからそれをモノにするまでけっこう時間がかかるんだよな、仮歌ってあくまで音を取るためのものでお手本じゃないから。
カラオケで歌うのとはさすがにちょっと違う。

「あー、曲が出来てないからまだ練習もできないのか」

『そうなのだ! フレちゃん練習の虫だからね、不安になっちゃう! かわいそう!』

「それで、どうなんだ? 曲のタイトルとか聞いてもいいのか?」

『いいよー、えっとね、“スピカを独り占め” っていうの』

「おお、なんか、こう、オシャレ感あるな……、まともだ……」

えへへ、とフレデリカが笑う。
そんな些細なものでさえ表情が鮮やかに浮かんでくる。
どれだけ表現力に富んだ声をしてるんだこいつは。

82: 2018/08/12(日) 10:31:26.59 ID:f0hWHOAvo

雨垂れの音に窓のほうへ顔を向けてみると、すこし雨が強まったらしい。
電話をしているとなぜか細かいところに気がいくようになる。なんでだろうな。

『あ、そういえば奈緒ちゃん、奈緒ちゃんは奈緒ちゃんの動画見た?』

「多い。あと動画ってライブのやつだろ? 見てないよ」

『えー、なんでー』

「あたしがあたしのライブ動画見てもどうしようもないだろ」

『それだけでサバンナの荒野に一輪の花が咲くよ!』

「そうやってウソをつかない」

『でも奈緒ちゃん、再生数とかすごいことになってるよ。フレちゃんも800万回くらい見たし』

「ああ聞こえない聞こえない、知らない知らない」

本当に動画を見てなくたってウワサはいろんなところから入ってくるんだよ。
特番が放送されたあの日から社内の、とくに廊下とかで声をかけられる回数も激増したしな。
ここ二週間くらい当たり前のように見かけたことのない先輩アイドルから応援してもらってあたしはすげえテンパった。
きちんと応対できてたか心配なくらいだ。
そんな状態だったから動画の再生数だの評判だのは逐一聞こえてきてたんだ。

それに折悪しくというか、スーパーライブ出演も決まったっていうのがあって。
外から見れば抜擢かもしれないけど、あたしから見りゃ意味不明な決定。
気が付けば特設サイトだのポスターだのに名前が載ってた。
とんとん拍子っつってもなぁ、実際にステップアップした感触が自分になければ宙に浮いてるのと変わらない。
落ちてるのか飛んでるのかの違いもわからないんだ。
応援が集まってるのはその部分なんだよ。あたしじゃないんだよ。
だから応援してもらってもテンパるしかなくなる。
前にも思ったことだけど、あたしじゃないあたしをまだ飼い慣らせていないんだ。
いずれそのもう片方のあたしに喰われちまうかもなあ、ってのはさすがに漫画の読み過ぎか。
それだけにこいつとのこういう時間は本当に救いになってる。
絶対に言ってやらないけどな。


83: 2018/08/12(日) 10:32:19.48 ID:f0hWHOAvo

「それじゃあ奈緒、見ておいで。俺はここで待ってるから」

「ん? プロデューサーさんは中入らないのか?」

「あー、ほら、ホール内特有の圧みたいなのあるだろ、あれ苦手なんだよ」

まあ、そんなもんか。
あたしがとくに嫌いじゃないってだけで、この違った空気がダメな人はけっこういるのかもしれない。
というかプロデューサーみたいな立場の人でホールの中が苦手って大丈夫なのか。
さすがに我慢がきかないってほどじゃないんだろうけどさ。

専用の通路、というよりは搬入口とかのほうが近い廊下を歩いていく。
もっと、こう、こつこつと靴音が響くような想像をしてたけど、ふつうに作業中の人たちが行き来してるせいでそんなに静かにはならない。
許可をもらっているとはいえ、仕事中の人が往復しまくってる忙しい通路を手ぶらで歩くのはなんだか落ち着かないなあ。
前にちらっとだけ設営の手伝いをしたからだろうけどさ。
ちなみに忙しいのは明後日に人気バンドのライブを控えているからなのだそうだ。
立つためのステージの仮組みは終わってて、あたしはこれからそこに上る。
プロデューサーさんに言われたからっていうのもあるけど、あたし自身そこに上っておきたかったっていうのも本当のところで。
なんたってこの前のステージのことはなんにも覚えてないから。
一度ステージから見える景色というものを確かめておかないと、と思ってたんだ。

本番では取り外される鉄の板と鉄パイプみたいなのだけでできた簡素な階段。
ここ以外の場所では人が走り回って怒鳴り合ってる。
場違いだよなあ、あたし。
ゴム底の靴が薄い鉄の板を踏んで、ほとんど音にさえならない振動があたしだけに届く。
そんな些細なことが気になるくらいに妙に集中が高まる。

広い。
アホみたいな感想しか出てこなかったことに気付いてため息をこぼす。
きっとバンドの人たちが必要とするスペースはあたしたちのステージよりも狭いんだろうけど、それでも広い。
あの日あたしはこんな場所に立っていたんだ。
その事実が信じられなくて、何度か仮組みのステージを強く踏んで確かめてみる。
別に何も確かめられなかったのは気にしちゃいけない。

足元から床に沿って視線を動かしていってちょっと驚いた。
階段を上がったのだから当然だけど、それでも思っていたより高い位置にあたしは立っている。
ケガなんかとは程遠いけど、飛び降りろとなったらちょっと躊躇する。
小学校の卒業式で上がった体育館のステージに近いかもしれない。
……なんというか、自分の小市民的発想に呆れてしまう。
まあ、フレデリカなり他のアイドルはこんなところでパフォーマンスをしてたんだな。

そういえばよく客席への煽りで「いちばん後ろまで見えてる」なんて聞くけど、本当に見えるんだろうか。
確認するチャンスは今くらいしかなさそうだ。どうせ本番はそんな余裕ないだろうし。
階段下とステージから視線を一気に上げると、視界が急に広がる。
くらっとした。

どうして今の今まで意識がいかなかったのかと思うほどに見渡せる空間がそこにはあった。
あたしより頭が低い位置にある一階席と、庇みたいになっていてステージから距離はあるけど全体を見ることができそうな二階席。
ホール内は作業中で明るいからその細部まで目が届く。
後ろのほうの座席もたしかに見えるには見えるけどかなり小さい。
いったい何人収容できるんだ? 数える気さえ起きてこない。
わかっているのはスーパーライブでは見渡す限りの座席が人で埋まるということだ。

あたしここにひとりで立つんだよな。
つまりこのむちゃくちゃな数の人の目が、全部あたしに集まるってことだよな。
心臓が強く跳ねる。
こんだけの数の席のすべてに人がいて、それが全部。
信じられない、と言ったところで始まらない。
とりあえずイメージしてみよう。満員御礼ってやつだ。


84: 2018/08/12(日) 10:33:09.48 ID:f0hWHOAvo

さっきよりもずっと、心臓が強く動いている。
それに合わせて胸がかたちを変えてるんじゃないかと思うくらいに。
呼吸が浅くなる。うまく息が吸えない。
頭痛がする。脳が荒縄で締められてるみたいだ。
汗が噴き出す。イヤな夢を見た朝のように。
どうして?
怖いからに決まってる。
こんな囲まれるようにして人から見られるなんて怖くないわけがないじゃないか。

デビューライブの記憶が残ってない理由が今ならわかる。
自衛だったんだ。あたしがその重みに潰されないように、あたし自身を守ったんだ。

たしかにアイドルという存在に憧れたことはあったかもしれない。
ただ現実としてその立場に立って、そのまま受け入れられるかってのは別の話だ。
フレデリカや他のアイドルたちはどうだか知らない。でもあたしは怖いのだ。
万単位の人間の視線を集めるんだぞ。まともじゃない。
心臓が痛い。
これを楽しめるのはそういう精神構造をしてるか図太い神経をしてるかのどっちかだ。
あたしはどっちでもない。
いや待てよ、アイドルって全員が本当にそうなのか?
脚が震え始める。
この先は意志がないと酷だ、と言った麗さんの優しい顔が浮かんでくる。
そういうことだったんだ。
あたしが持ってないのは、それだ。

こんなの誰にだってわかる。これは決定的な問いだ。
お前にはこの恐怖と戦えるだけの強い意志があるのか。
ないんだよ、あたしには。
流されるようにしてここまで来たんだから。
ずっとずっと絞るべきポイントを間違えてたんだ。
346のすべてはアイドルがアイドルとして生き残っていくために存在していたのに、あたしだけがそこを目がけてなかったんだ。
レッスンをこなすことであたしは何かが変わると思い続けていたんだから。
学ばなきゃいけなかったことをひとつも学んでない。
時間をかけなきゃ生まれるはずのないものを、強い意志をそんなにすぐに持てるわけもない。
無理だ。あたしはこのステージには上がれない。

85: 2018/08/12(日) 10:33:38.50 ID:f0hWHOAvo

これまであたしに向けられてきた言葉がとつぜん頭の中を巡って、声がこぼれそうになる。

『奈緒ちゃん、頑張ってくださいね!』

『ガツンと決めてこいよ☆』

『な、奈緒さんがすごすぎて遠くへ行ってしまいます……、応援はしますけど……』

『奈緒サンすっごーい! 頑張ってー!』

B-02でも。廊下でも。
座って。立ち止まって。すれ違いざまに。

『奈緒、期待してるよ』

『みんな奈緒ちゃんのステージを楽しみにしてると思います!』

『今度お祝いにクレープとか食べにいこ! ね♪』

『奈緒さん、すごいです……!』

『楽しんできてね、神谷さん』

『奈緒ちゃん、いっしょに頑張りましょう』

『ナオ、とても楽しみに、しています』

『奈緒ちゃんなら変なおっちゃんでもメロメロですね、うふふ♪』

『よくやるよね、奈緒ちゃんも。休んでないんじゃないの?』

『そうか神谷、うむ、できる限りのサポートはしよう』

こんなもの背負えるか。
こんなにも。
絶対にダメだ。
けれどポスターにも特設サイトにもあたしの名前は入ってしまっている。
目が眩む。
怖い。

どうすればいいんだよ。
あたしはここに立たなきゃいけないのか?
本当に立てるのか?
ぶち壊してしまうよ。
歌えないどころかステージに上がることさえできないんじゃないのか?

あたしはきっと、はじめからアイドルじゃなかった。
かと言って何も知らないメガネの地味子かと言えばそうでもなくなった。
ならあたしはいったい誰だ。
どちらでもないあたしの居場所はどこにある。
誰に聞けばいい。

作業スタッフの人たちがちらちらと心配そうにあたしを見る。
仮組みのステージの上で立ち尽くしているやつがいるなら無理もないよな。
大丈夫だよ、あたしはもうここを出て行くから。
心配しなくていい。歩けるから。

プロデューサーさんに送ってもらったあと、あたしはスマホのSNSアプリを起動した。


86: 2018/08/12(日) 10:34:36.90 ID:f0hWHOAvo



もうめっきり寒くなってきました。
秋がなかったねなんて毎年のように言いますが、今年も例に漏れません。
コートはもう必需品です。
あったかい飲み物がより美味しく感じます。

コーヒーを買いにコンビニへ行けば雑誌の棚に奈緒ちゃんの姿が目立ちます。
ハタチ前後を対象にしたファッション誌の表紙を飾っています。
なんというか、ほんとうにかわいいんです。
気取ったところがなくて親しみやすくて。すごい武器です。
コーヒーだけ買いに来たのに気付けば奈緒ちゃんの雑誌もレジを通してしまいます。

あのデビュー以来、奈緒ちゃんはライブを一度もやっていません。
テレビにもラジオにも出ません。動いてる奈緒ちゃんを見たくなったらあのライブ動画だけです。
いま奈緒ちゃんの仕事はファッション誌の撮影だけですね。
プロデューサーさんがそう決めたと私は聞いています。
ファッション誌一本とはいってもけっこう厳選しているそうで、相当な数のオファーを断ってるみたいです。

焦らす作戦。そんなところでしょう。
スーパーライブに出ることだけ発表しておいて、露出は写真だけ。
いかにもプロデューサーさんの考えそうなことです。
それに動画は見られるので、ここからどう変化したのかっていう成長の期待もしてしまいます。
もちろん奈緒ちゃんの惹きつける力が前提の荒技ですけどね。
どんな進化を遂げているのかは同じ部署の私でもやっぱり気になってしまうところです。
相変わらずボーカルレッスンは秘密にされっぱなしなので、余計に。

とはいえ奈緒ちゃん自身には秘密要素なんてありません。
B-02にはよく顔を出しますし、いつも通り仲良くお話もします。
ちょびっと落ち着いたというか控えめになったような気もしますが、高校生ですしいろんな経験を積んだ成果ってことなんでしょう。
ときおり上の空になることだってありますよ。

奈緒ちゃんがボーカルレッスンに向かって、私は部屋で一人で順番待ちです。
みんなの予定はホワイトボードにざっと書いてありますけど、そこはこの業界、予定通りにいかないことは当たり前のようにあります。
お仕事だととくにそうですね、早くなったり遅くなったり。
ちなみに予定ではフレデリカちゃんがそろそろ戻ってくる時間です。
個人的には一人で待つのは退屈なので誰かに来てほしいところです。
暖房があったかくって寝ちゃいそうになるんですよね。


87: 2018/08/12(日) 10:35:13.01 ID:f0hWHOAvo

「おはよー! ボンジュールー! あれ、どっちが正解だっけ?」

「意味はどっちも同じですよ」

「ワオ、菜々ちゃんすっごーい! ウサミン星ではフランス語が流行ってるんだね♪」

お見事、ぴったり。
ドアを勢いよく開けて入ってきたフレデリカちゃんはいつも通りに元気です。
とてもお仕事の後とは思えません。
いつもの鼻歌と一緒に空いてるソファへやって来ます。
荷物を端へ置いてフレデリカちゃんは背もたれへだらり。
やっぱり疲れはあるんですね。

でも最近のフレデリカちゃんは、こうなった後でよくこのB-02から出て行ってしまいます。
荷物は置いたままだったり持って行ったりと時によりますけど、何かあるんでしょうか。
アリーナのことを思い出すとなにか隠し事がありそうな気もしてしまいます。

「あの、フレデリカちゃん」

「どーしたの?」

「最近お仕事は大変ですか?」

「んー、タイとヘンのどっちかで言えば、タイのほうだよ!」

何を言ってるのか誰か訳してください。
わたしこういうノリにノータイムでついていけるほど人間ができてないんです。

「新曲のレコーディングはあるけどお仕事は普段と変わらないって感じかな~」

前のくだり必要でしたか、それ。

「じゃあ近ごろよく部屋から出て行くのはやっぱりレッスンとかですか」

「んーん、違うよ」

「あれ、ちょっと意外ですね。ここにいたら奈緒ちゃんとも遊べるのに」

ほんとうに意外です。
いっしょにいる時はあれだけ楽しそうにちょっかいをかけてるのに。
奈緒ちゃんもなんだかんだまんざらでもなさそうな感じですし。

「むしろアタシは奈緒ちゃんのためにこの身を削って……、よよよ……」

「ちょっとよくわかりません」

「あのね、奈緒ちゃんにお願いをされたの。だから何よりも優先することにしたの」

「奈緒ちゃんのお願い、ですか」

「うん、一緒に駆け落ちするんだ♪」

あ、これ冗談ですね。
どこからでしょう。お仕事が普段と変わらない辺りからでしょうか。
もう奈緒ちゃんのお願いがあったかどうかさえかなりあやしいところです。
じゃあなんでウソをついたかとなると。
スーパーライブでの新曲発表を考えたら隠れてレッスンとかはありそうですよね。

「だからね、いろんな大事なことをみんなに聞いて回ってるの」

「駆け落ちに大事なことですか~?」

半ばからかうような調子で問いかけます。
なかなかこんなチャンスはありませんからね。
私だってやる時はやるんです。

フレデリカちゃんは思い出すように頬に人差し指を当てて、目線だけを上に向けます。
それだけで写真集の表紙を飾れそうに決まっています。
自然な動作だけでこれだけ映える。あらためてむちゃくちゃな子ですよね。

「えっと、すごくわかりにくい銀行口座の変え方とか移動の方法とか」

「思ってたより本気ですね!?」

「うん。ちゃんとしたやり方があるんだって」

よくもまあこれだけすいすいと言葉が出てくるものです。
テキトーなのにトークが面白いアイドルの名は伊達じゃありません。

ふふ、といたずらっぽく笑うフレデリカちゃんの顔はなぜかすっきりして見えます。
いつもは楽しいを中心とした感情が押せ押せで迸っているのに、今の彼女のそれは、その場できちんと収まっているような感じです。
こう表現するのも妙なものですけど、フレデリカちゃんが初めて見せてくれた素の表情のように思えてしまいます。

88: 2018/08/12(日) 10:35:40.76 ID:f0hWHOAvo

あ、完成しちゃったんだ。
突然私の脳裏にそんな言葉が浮かびます。
これまで何度も見ないふりをしてきた自分の直感が、そう言っています。
フレデリカちゃんがどこまで冗談混じりのウソをついているかは知りません。
そんなことよりも私は理解できてしまった事実に驚愕します。
芽吹いたんだ。ひとつ花をつけたんだ。
すでに誰にもどうにもできない魅力を備えたこの少女が、もうひとつ殻を破ってしまう。

ぞっとします。
同じアイドルとしても、同じ女としても。
フレデリカちゃんと話している内容自体はいつものものと変わりないのに、私だけがひとり温度差を感じています。

いったい何がきっかけになったんでしょうか。
……考える必要なんてありませんよね。


89: 2018/08/12(日) 10:36:11.13 ID:f0hWHOAvo



小さな窓の外に空の底が白く広がっている。
あたしはそこから目を逸らして、視線だけをただ前に向ける。
耳鳴りは治まったけど気分の悪さはしばらく抜けていない。
浅く息をつく。
これがため息にカウントされるとしたら、もうあたしは数えきれないほどため息をついたことになる。

「どうしたの、奈緒ちゃん」

「ん、大丈夫かなってさ」

「心配ないよ、大丈夫だよ、奈緒ちゃんとアタシが一緒だもん、全部うまく行くよ」

「そうじゃないよ、わかってるだろ」

「へーきだって、みんなスゴい子だからオッケー♪ 今はちょっと混乱してるかもしれないけど」

「……大騒ぎだろうな」

「それでも奈緒ちゃんが無理するより全然いい、ってアタシは思うな」

「にしてもよ、何もお前まで」

「んもう、忘れちゃったの?」

「へ?」

「前に言ったよ、もしうまく行かなかったら責任取るよって」

「たしかに言われた覚えはあるけどそんな律儀に守んなくてもさ、まだあるんじゃないのか? フレデリカが何も捨てなくて済むようなやり方が」

「ノンノン、違うよ奈緒ちゃん。そう決めたのはアタシだから。だから気になんてしなくていいんだよ」

「……ありがと」


90: 2018/08/12(日) 10:36:44.52 ID:f0hWHOAvo



エアメールが届きました。
差出人の名前はありません。
満点の夜空に一際おおきく輝く星がひとつ目立つ絵葉書です。
ああ、なるほど。
もう物にあたる気になんかなれなくて、ちゃぶ台の上に無造作に放ります。

理解ができなくても。
悔しくても。
怒りたくても。
そしてそのすべてが叶わなくても。

それでも私は、この世界で生きていこうと思います。



.

91: 2018/08/12(日) 10:37:21.03 ID:f0hWHOAvo
おしまい
読んでくださった方はありがとうございました

92: 2018/08/12(日) 13:36:52.34 ID:WmwgKHeao
アルファヴィルって何だっけ、懐かしい響きだな、なんて思い出すのにしばらくかかってしまった

93: 2018/08/12(日) 17:08:29.81 ID:OVi8DjrOO
終盤で一気にバッドエンドに切り崩していくの精神衛生によくない

96: 2018/08/14(火) 03:17:45.30 ID:1Uxf9Gek0
結構好きなんだけどなんて感想書いたらいいかわからない

引用元: 神谷奈緒「アルファヴィル」