180: ◆nIlbTpWdJI 2017/09/18(月) 20:34:10.84 ID:HUNlZsa0o


由愛「食欲の秋、行楽の秋、スポーツの秋……いろんなことが楽しくできる季節になりました」

由愛「でも……私にとってはやっぱり芸術の秋です」

由愛「昔から……絵が好きで、私にとって大切なものです……」

由愛「絵を描いてるときは楽しくて……夢中で……」

由愛「まるで、魔法でもかけられたみたいに……」

由愛「絵の世界に、入り込んでしまうんです……」


「ゆめを広げて」
アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(3) (電撃コミックスEX)

181: 2017/09/18(月) 20:35:34.23 ID:HUNlZsa0o

ある日、閑散とした事務所のテーブルにスケッチブックと絵の具のセットが置いてありました。
新品のスケッチブックは、私が持っているものより、ずっと大きい紙が重なった分厚いものでした。
これなら、どんな絵を描いてもすっぽりと収まるような気がしました。

隣に置いてある絵の具のセットは、私の鞄に入っているものより、たくさんの色が詰まったものでした。
これを使えば、どんな絵も描けるような気がしました。

ですが、この絵の具とスケッチブックの持ち主は誰なのでしょう。
ちひろさんもプロデューサーさんも、絵を描いているところは見たことがありません。そもそも、私がいる事務所で絵を描く人は、私だけです。

きょろきょろと周りを見渡しても、誰のものなのかヒントになるようなものはありませんでした。書類が山積みになっている二つの事務机の前にはからっぽの椅子が寂しそうに置いてあります。
お客さんが来たとき用の皮張りのソファーは、蛍光灯の青白い光を跳ね返すばかりで、皴一つありません。
 
あるのは、私が使っている小さな椅子と、綺麗に整えられて置かれた分厚く大きなスケッチブックと、新品の絵の具だけ。

182: 2017/09/18(月) 20:36:16.08 ID:HUNlZsa0o

……少しくらいなら、使ってもいいよね?

私の中から、ちくりと悪い声が聞こえてきました。

事務所には私だけ。
絵を描くのは私だけ。
なら、あの絵の具とスケッチブックは――

気が付けば、私はテーブルの前に腰かけていました。スケッチブックは目の前です。

私は、鞄の中からパレットと筆を取り出しました。

そしてスケッチブックに手を伸ばしました。
そのまま――ちょっといけないことをしてる気がしたけど――表紙を一枚だけ、めくってしまいました。

スケッチブックを開くと、誰もいないスキー場みたいに真っ白な画用紙が目の前に広がりました。
どこまでも広くて、ずっとずっと奥までどこまでも広がっているように思えました。

いてもたってもいられなくなって、大急ぎで筆洗を取り出し給湯室に飛び込んでいきました。
袖口が濡れることも気にしないで蛇口を思いっきり捻って水を溜めます。勢いよく跳ね返る水飛沫がシンクのあちこちに飛び散りました。
びしゃびしゃになったシンクをほったらかしにして私はすぐにスケッチブックの前へ戻りました。

183: 2017/09/18(月) 20:37:00.23 ID:HUNlZsa0o

私が知っている色、いいえそれ以上に、まるで世界中のなにもかもが描けるくらいの種類が詰まった絵の具のセットを前にしてわくわくしないわけがありませんでした。

何を描こうかな……私はまたきょろきょろとあたりを見わたします。
事務所の壁は真っ白で、たまに白黒のプリントやカレンダーがあるだけ。
絨毯も天井も、真っ白。蛍光灯の青白い光は元気ですが、今の私にはずいぶんとつまらなく感じました。

184: 2017/09/18(月) 20:38:37.76 ID:HUNlZsa0o

どうしようかな、と迷っていると窓のすぐそばにある緑色が目に入ってきました。
白い壁を背に、おひさまの暖かい光りを精一杯浴びようと葉っぱを一生懸命伸ばした名前の知らない観葉植物です。
細長くて、ひらべったい葉っぱは生き生きと緑色を放っています。
葉っぱを支える茎や幹は、大きい葉っぱの影に隠れながらも、弱弱しさや寂しさを感じない力強さを感じます。
影の薄い青と、茎の薄い緑が混ざったような、不思議な色です。
根を張っているであろう、丸く太った、大きなくまさんみたいに可愛い植木鉢は、根っこと茎と葉っぱを支えてくれる、優しい土の色をしています。
そして、葉っぱの先にある窓の外は、透き通るような青空が広がっていました。


私は絵の具が詰まった箱から、緑と茶と青を持てるだけ引っ張り出して、パレットに乗せていきます。

絵を描き始めてからは一瞬でした。何も無かった真っ白のスケッチブックに瑞々しくて力強い、生きている一本の木が生まれました。
葉っぱが伸びた先にある窓の外は、まるで自分で描いたとは思えないほど、透き通る青色で、本当におひさまの暖かさを感じるような気がしてくるくらいでした。
私は完成した絵を眺めながら目の前にある絵の具の素晴らしさに心を奪われていました。
もっと描きたい。何か描きたい。この絵の世界に入り込めるほど……


185: 2017/09/18(月) 20:39:39.83 ID:HUNlZsa0o

吸い込まれるほどに絵を眺めていると、なんだか変な感覚になりました。
植木鉢はやさしさに溢れた色をしています、茎も葉っぱも生きていることを力強く感じます。
絵の中の窓の外は突き抜けていくような青空です。

少し考えて、違和感の正体に気付きました。
本物の空にしてはあまりにも小さすぎるのです。当たり前のことでした、せっかく素晴らしい絵の具があるのに自分で窓枠を決めて広がっていくはずの青空を閉じ込めているからでした。
私はスケッチブックから画用紙をちぎり、テーブルの隙間から余計な色が見えないくらいに広げました。

私は絵の具をありったけ絞り出し、思うがままに絵を描いていきます。

窓枠を塗りつぶし、私が思う青空を描いていきました。
青空を閉じ込めた窓枠がおかしいなら、根っこを閉じ込めている植木鉢だって変です。
植木鉢をそのまま塗りつぶして、私が思う地面を描いていきます。

186: 2017/09/18(月) 20:40:32.70 ID:HUNlZsa0o

地面があったらもっといっぱい草やお花が生えているに違いありません。広げた画用紙に何本も何本も、たくさんのお花を描きました。
私が描いたお花は本物顔負けの、いいえ、絵の具の素晴らしさも手伝って本物以上に生き生きとして鮮やかなものでした。

私は次々に色んなものを描いていきました。
花があれば虫もいるはず。
虫がいればそれを食べる動物がいるはず。
動物がいれば、住処になる森があるはず。

私が描いたものは今にも動き出しそうなくらいです。じっくり見たことも描いたこともない動物や植物も、今ならなんでも描けるに違いありません。

ずっと絵を描き続けていましたが、あっという間に画用紙は白い部分が無くなってしまいました。思うがままに描いた私の世界はテーブルいっぱいに広がった、色に溢れた素敵な世界でした。

ですが、私が思う世界はこんなに狭いはずがありません。窓枠の外の青空みたいに、勝手に閉じ込めているはずです。

187: 2017/09/18(月) 20:41:23.88 ID:HUNlZsa0o

テーブルいっぱいの画用紙を見つめて、また周りを見渡して、繰り返しながら考えました。
散々見わたした事務所の風景は、私が描いた世界と違ってずっと変わらない退屈な真っ白のままでした。

真っ白い壁を見て、絵の世界の窓枠に気が付きました。

私は、茶色の絵の具を持って部屋の隅っこの植木鉢に近づいて、近くの壁と床ごと地面の色に塗り替えました。

私が描いた世界のほうが、この真っ白で何もない事務所より正しいはずです。

絵の具を筆に付け、壁と床を地面に描き変えていきます。真っ白でつまらない壁と床は、
草花が生える豊かな土に変わりました。
そして、テーブルの絵を私の世界の設計図にして私の世界へと描き変えていきます。
真っ白な空間は次々と溶けていき、絨毯は地面となって、観葉植物は根を伸ばします。
絨毯に筆を入れるたびに、草と花が育っていきます。

188: 2017/09/18(月) 20:41:54.71 ID:HUNlZsa0o

生い茂る草原をさらさらと歩いていき、壁だった場所を森に描き変えていきます。
いつしか、蛍光灯の青白い光はおひさまの暖かな光に変わって、描いた森の奥からふんわりと心地よい風が吹いて来ました。

もう真っ白で何も無い壁はどこにもありません。書類が積まれてたデスクは塗りつぶして苔の生えたごつごつした岩に描き変えました。
お客さん用の革張りのソファーは森の中でどこにあるかわかりません。
最初に窓があったところは、カーテンの上からもっと広い青空に描き変えました。

見わたしてみると、私は私の描いた……私の生み出した木々に囲まれていました。
全てが本物以上に本物の、絵の世界へと変わっていました。

どこまでも続く青空と、どこまでも続く草原、森。
少し歩いてみると、描いた覚えのない動物や、鳥の鳴き声が聞こえてきました。
私は走り出したくなりましたが、まだ一か所描き変えていない場所があります。

189: 2017/09/18(月) 20:42:28.71 ID:HUNlZsa0o

冷たくてこの世界で一番変な、事務所のドアです。
少し迷いましたが、残り少ない絵の具を全部パレットに絞り出しました。

そして、事務所のドアを絵の具で青空に溶かしてしまいました。

これで、全部私の世界に描き変えました。
私は筆とパレットを放り投げて、どこまでもつづく草原へ駆け出していきました。



どこまでも、どこまでも――




190: 2017/09/18(月) 20:42:56.91 ID:HUNlZsa0o
以上です。
ありがとうございました。


引用: 【モバマスSS】世にも奇妙なシンデレラ