1:◆1t9LRTPWKRYF 2011/07/23(土) 22:33:15.21 ID:yBf3Hcveo

 目覚まし時計のアラームは融通がきかない。

 日によって気を利かせて鳴らなかったりするならもっと仲良くなれると思うのだが、今のところそんなことは一度きりしかなかった。
 ちなみに原因は電池切れ。彼との付き合いの短さが露呈する回数だ。
 
 あんまりにも融通がきかないので、最近では一度殴ることで沈黙させている。
 暴力はあまり好ましくないが、言うだけで分からない奴には殴ってきかせるしかない。ときにはそういう場合もある。
 
 女を殴ったと考えるのは寝覚めが悪いので、目覚まし時計を脳内で擬人化するときは男だということにしている。
「なおと」という名前もつけた。たまに話しかける。

「よう、なおと。俺、また女子に笑われちゃったよ……」

 思い出すだけでせつない過去だった。

「元気出せよ相棒、らしくないぜ。あんたはいつも笑ってるべきさ。あんたが悲しい顔をしてると、どこかで誰かが悲しくなるだろう?」

 彼はその神経質な性格が垣間見える説教で俺を励ました。

 最近では何か嫌なことがあれば彼に愚痴を言う。最初の頃は頭がどうかしたのかと心配そうにしていた妹も、今ではかまってくれなくなった。
「ああ、またおかしくなったのか」とあっさり認めてくれる。理解のある家族で非常に助かる。


2: 2011/07/23(土) 22:35:23.42 ID:yBf3Hcveo

 この頃はあまりに擬人化妄想がリアルになり、人間だったらどんな顔をしているか、どんな姿をしているかまで具体的に想像するようになってしまった。
 おかげで、部屋に女子を連れ込んだとき、なおとがいるせいで上手くアンナコトができないのではないかといらぬ心配までするようになる始末。
 もしも女子の前でなおとに話しかけでもしたなら目も当てられない。

「あいつ目覚ましに話かけてたんだけどー」

「えーなにそれまじうけるー」

「ありえねー。やべー」

「ひくわー。あいつマジないわー。ないわー」

「ていうかあいつ童Oでしょー?」

「だよねー。目覚ましに話しかけるなんて絶対童Oだよねー」

「童Oマジうけるわー」

 となること請け合い。
 脳内でエコーのかかった幻聴が響き終わると、全身にぞくぞくと寒気が走った。
 脳内教室にクラスメイトたちの童Oコールがこだまする。超怖い。

 なので近頃は、本格的になおとと決別するべきか、真剣に悩んでいた。
 ぶっちゃけ俺が部屋に女子を連れ込むなんて天地が逆さになってもありえないのだが。

 なおとのことを考えているうちに、さっきまで見ていた夢の内容を忘れてしまった。
 忘れてしまったのだが、なぜかえろい夢だったことは思い出せる。


3: 2011/07/23(土) 22:36:10.77 ID:yBf3Hcveo


 具体的に言うなら……。

 武道場の女子更衣室で剣道部女子が着替えをしているところを覗いていたら、あっさり見つかって、
 顔見知りの剣道部員三名(容姿ランクB+,A,B)に全身を嘗め回されながら罵倒され、
 あられもない姿の三人に男としての尊厳をこれでもかというほどに踏みにじられ、
 最終的にはその三名に学生生活の影でこっそりとしてもらう夢だったはずなのだが――

 ――ぶっちゃけ細かいことは覚えてない。
 
 なんか感覚とかすごくリアルだった。

 童Oなので、本番の想像をしようとしたら夢が覚めた……のかも知れない。覚えてない。
 えろい夢に関しては覚えてないのが悔しい。覚えてたら何かに使えるかもしれないのに。
 
 とはいえ、今重要なのはいろいろ持て余してしまって屹立している下半身であり。
 さらにいえば、目覚ましが鳴る時間を過ぎても起きてこない兄の様子を見に来た健気な妹のことでもあった。

 季節は夏。
 寝相が悪いと、タオルはすぐ落ちる。
 薄着だから、いろいろ見られる。

 察される。
 お約束だった。

4: 2011/07/23(土) 22:36:51.38 ID:yBf3Hcveo

「待て、なんだそのさめた顔は」

 反応はない。

「もっとこう、あるだろ。恥じらいとか」

 返事はない。

「なんとかいえよ」

 妹の視線は品定めするように冷静だった。

「おい……?」

 まさかはじめてみたので驚いて失神したというつまらないギャグではあるまい。
 と、くだらないことを考えた瞬間――

「……フッ」

 ――鼻で笑われた。
 身長百五十センチ(自己申告)の子供っぽい妹さまに。
 あどけなさを残した中学生女子の顔が高慢に歪んだ。
 女王の貫禄。
 思わず氏にたくなる。
 
「……え、そんな、笑われるようなアレですか、俺のは」

「それセクハラだから」

 ごもっともな意見だ。


5: 2011/07/23(土) 22:37:21.67 ID:yBf3Hcveo

「いいから起きて。時間なくなる」

「起きようにも起きれないと申しますか……」

 言い訳する俺を尻目に(尻目って言葉はなんだかすごく卑猥だ。尻目遣いって言葉もあるらしい)、妹は扉を閉じて去っていってしまう。
 残るのはむなしさだけだった。
 妹がいなくなってから例のアレはすぐに鎮まった。人体の不思議。

「妄想だと罵倒されても平気なのに……」

 妹さまの罵倒はどうにも耳に痛い。……よく思い返せば罵倒なんてされてなかったが。

 妹がなぜ俺につらく当たるようになったのか(厳密にはつらくあたるというより舐め腐っているという感じだが)。

 心当たりはあまりない。思春期だからかも知れない。
 でもまぁ、話しもできないというほどではないし、こうして朝起こしにくるだけでも常軌を逸した妹ぶりと言える。

 もし嫌われた心当たりがあるとするなら、

 ネットで見た情報に興味を引かれ、フリーの催眠音声(セルフあり)をダウンロードし実践していたところを目撃されたこととか、
 妹の読んでいた小説を追うように読んで「主人公って絶対口リコンだよな」と発言したこととか、
 妹が買ってきたアイス(箱)を一日で食い尽くしたこととか、
 せいぜいそんなもので、どれも瑣末に思えた。

 難しい年頃なのだろう。
 大人の寛容さで認めてあげることにした。

 あと何年かすればもうちょっと距離感がつかめるに違いない。なんだかんだいって兄が大好きな妹様だし。

 根拠はない。

「うむ」

 ひとつ頷いてからベッドを這い出て着替えをはじめた。
 月曜の朝はつらい。


6: 2011/07/23(土) 22:38:05.60 ID:yBf3Hcveo

 家を出ると夏の太陽が俺を苛んだ。
 ちょっといい感じの言い方をしてみても、暑いものには変わりない。
 
「コンクリートジャングル!」
 
 テンションをあげようとして思わず叫んだ。

 どちらかというと気が沈んだ。

「ヒートアイランド現象……」

 一学生には重過ぎる言葉だ。

「何やってるの?」

 声に振り返ると妹が呆れながらこちらを見ていた。なんだかすさまじく冷たい視線。

「夏だなぁって思ったら生きてるのがつらくなってきた」

「毎年大変だね」

 大変なのだ。

「最近、馬鹿さが加速度的にあがってきてるよね」

「マジで?」

「このままいくと世界一も夢じゃないかもね」

「まじでか!」

 世界一。素敵な響きだった。思わず言葉に酔いしれて白昼夢を見た。
 
 表彰台の上で「THE BAKA」と刻まれたトロフィーを抱え、首に金色のメダルをかけられる。
 美女に月桂冠をつけてもらう。そのとき頭を前のめりになる。でっかいおっOいが目の前で揺れた。
 童Oには強すぎる刺激だが目をそらせない。馬鹿の証明とも言えた。
 涙ながらに「うれしいです!」とインタビューに答え、ぱしゃぱしゃというフラッシュの音を一身に浴びる。
 良かった。努力してきた甲斐があった。ようやく俺は世界一になれたんだ……。

 ――そんなわけがなかった。ギャグにしても寒い。


7: 2011/07/23(土) 22:39:00.48 ID:yBf3Hcveo

「ちょっと前はもう少しマシだったのに」

 妹さまは不服そうだった。

「お姉ちゃんがきてた頃はマシだったのに」

 お姉ちゃん。
 妹がいう「お姉ちゃん」は俺から見ると同い年だ。
 俺と妹には幼馴染がいた。

 美少女だ。料理も上手い。朝起こしにきたりもした。「将来は結婚しようね」と砂場で約束した仲だ。たまに弁当を作ってくれる。
 家事が趣味でほんわりとした穏やかな性格が持ち味。からかわれると「むぅ~」と言いながらぷっくりと頬を膨らませる。
 クラスメイトに「夫婦喧嘩か?」とか「夫婦漫才か?」とかからかわれるたびに、「ち、ちがうよっ!」と真っ赤になって否定していた。
 サッカー部のマネージャーをしている。犬好きで、暇な休日はペットショップを覗きに行き、「かわいい……」とか言ってる。

 そんな好みが分かれそうなハイスペック幼馴染なのだが、つい先日サッカー部の先輩と交際を始めた。

 そのことから照れ隠しかと思われた「ち、ちがうよっ!」という発言が本当だったことが判明し、クラスメイトは今でも俺に哀れみの視線を寄せる。


8: 2011/07/23(土) 22:39:27.28 ID:yBf3Hcveo

 ぶっちゃけ一番ショックを受けたのは俺だった。クリティカルダメージ。オーバーキル。
 昔からの知り合いに恋人ができるというのは、なぜだかひどく寂しかった。
 数日生と氏の狭間をさまよった。
 嘘だ。

 嘘だが、寝取られという言葉がなぜか頭を過ぎった。
 付き合ってなかったからショックを受ける理由なんてないはずなのだが、なんかすごいショックだった。
 なんかすごいショック。技名みたいで少しかっこいい。

 ちょっと前から幼馴染は俺に話しかけたり朝起こしにきたりしなくなった。
 もう弁当を作ってくれることもないだろう。恋は人を盲目にさせる。
 勝手に傷ついた友人(しかも男)の心境など、あの美少女が気にかけるわけもなかった。

「氏にたい……」

「悪かったわよ……」

 妹もなんとなく俺の気持ちを察してくれているらしい。
 が、察されるのもなんだか悲しいところだ。

「もう学校に行こう」

「……ごめんなさい」

 素直に謝れるのが妹のいいところだが、あと一年もすればこいつも彼氏をつくってきゃっきゃうふふとしゃれ込むのだろう。
 
 暗澹とした気持ちのまま妹と別れて学校に向かった。

9: 2011/07/23(土) 22:40:10.63 ID:yBf3Hcveo

 教室につくと、目の前にサラマンダーが現れた。

 当然、人で、あだ名だった。

 名前の由来を語ると長くなる。
 ある休日、友人たちで家に集まっていたときのこと。
 彼は昼食に「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」という名前のカップラーメンを買ってきて食べた(鍋なのにラーメン)。
 グロテスクですらある見た目に警戒した俺たちはサラマンダーに忠告した。

「やめとけ、それは魔の食い物だ。人の食うものじゃない」

 でも奴は食った。向こう見ずだった。青春っぽい。当然、あまりの辛さに顔を真っ赤にして噴き出した。

 案外、由来を語っても短かった。それ以来彼はサラマンダーと呼ばれている。

 サラマンダーは長いし、ドラゴンでよくね? という俺の意見は却下された。面白くないかららしい。
 みんなサラマンダーと呼ぶ。いつのまにかクラス中に移った。正直呼びづらい。長いし。
 
 余談になるが「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」は生産中止になった。ありふれた話だ。

 サラマンダーは俺を見て不愉快そうに眉を寄せた。
 別に嫌われているわけではない。こういう顔をしているときは、サラマンダーが何かを話し始めるときだ。

「聞いてくれよ」

 始まった。と同時に騒がしいはずの教室が鎮まりかえる。彼は期待を一身に受けて口を開いた。

「俺は今日、なんかすげーえろい夢をみたんだ」

「……あ、そう」

 どこかで何かがリンクしているようだった。静寂が途切れて、教室にざわつきが戻る。いつも通りか、と誰かが呟いた。


10: 2011/07/23(土) 22:40:44.52 ID:yBf3Hcveo

「テニス部のプレハブに忍び込んで持ち物をあさってると、あっさり女子に見つかって罵倒されまくるような夢だった」

「……」

 なぜだか背筋が寒くなった。そんな夢を見た気がするが、覚えてないので仕方ない。

「さいてー」
「いやー」
「きもちわるーい」

 女子から声があがった。でもこういうときに積極的に声をあげるのは、あまり容姿がよろしくない人たちだ。
 ごくまれに美少女もいた。歯に衣着せぬ物言いでちょっとした人気があるが、とにかく近寄りがたい。

「すげーえろい夢だったんだが、内容を思い出せない。この気持ち、分かるか?」

「悪いが分からない」

 名誉のためにそういうしかなかった。

 サラマンダーは肩を落として「そうか」と呟き、教室から出て行った。廊下を覗くと、幽鬼のようにふらふらと歩く後姿が見える。 
 くだらないことで落ち込む奴だ。が、実際俺も似たようなものだった。


11: 2011/07/23(土) 22:41:48.71 ID:yBf3Hcveo

 自分の席まで行くと今度はマエストロが我が物顔で座っていた。
 
 体格のいい大男だが、運動部には所属していない。

 先輩の女子率が一番高いということでワープロ部に入った(キーボードをかちゃかちゃ鳴らす速度を競う部活動。大会がある)のだが、
 かっこいい先輩が部長をやっているため女子の熱のこもった視線はそちらへ向き、部内ではいじられキャラらしい。

 憐れな奴。ちなみに指が太い割りにキーボードさばきは的確で精確だ。

 マエストロのあだ名の由来にもいろいろある。

 簡単に言えば工O関連の芸術家なのだった(ノートにえろ絵描いてる。女の子の目がでかい。うまい。えろい)。
 最近は男子全体の指揮者という意味も含んでいる。マエストロの信奉者がいる(ただの工O絵乞食でもある)。
 
 とはいえ、クラスの男子全員が、女性の土踏まずにフェティッシュな愛着を持っているのは、彼の布教の賜物だった。


12: 2011/07/23(土) 22:42:19.45 ID:yBf3Hcveo

 マエストロは俺の席に座って何かを読んでいた。

 何かというより薄い本だ。
 R-18だった。
 俺たちには過ぎたるものだった(年齢的に)。
 そんなこと言ったらフリーの催眠音声(セルフあり)も俺たちには過ぎたるものだが、そんなことは今は関係ない。

「何やってんのマエストロ、人の机で」

「お、ああ。おまえの机に入ってたこれ、ちょっと借りてるぜ」

「あたかも俺のものみたいな言い方してんじゃねえよぶっ飛ばすぞ」

 思わず口調が荒くなった。マエストロの冗談は俺の心臓と評判に悪い影響を与える。
 工O本も買ったことのない少年にはあまりに残酷な噂が立ちかねない。

 工Oに興味があるのは当然だが、実際に手を出したことはなかった。
 さらにいえば、道端に工O本が落ちてたとしても拾えない。
 チキンだから。

 コンビニでチキンを買えば共食いだ。
 ……馬鹿なことを考えた。

 ちなみに工Oに関することはすべてネットで済ませる。便利な世の中。科学技術の進歩は常に人を孤独にする。情緒がない。


13: 2011/07/23(土) 22:42:53.07 ID:yBf3Hcveo

「マエストロ、その薄い本しまって。隣席の女子の目が鋭いから」

「女子の目を気にしてるようではまだ若いな」

 おまえも十代だろ、というツッコミはかろうじて飲み込む。

 隣の席の真面目系女子がこちらを睨んでいる気がする。
 たまに宿題を見せてもらうので、悪い印象を与えることは可能な限り避けたい。
 それでなくても、

「私、アンタみたいな不真面目な人って嫌いだから」

 とか

「アンタ、『宿題見せて』以外に私に言うことないわけ?」

 とか、挙句の果てに、

「ヘンタイ! 氏ね!」

 とか言われてるのに。

 妄想の中だったら歓迎したいところだったが、普通に現実だった。

 しかも、今も睨まれている。
 なぜかマエストロではなく俺が。
 明らかに巻き込まれていた。


14: 2011/07/23(土) 22:43:19.57 ID:yBf3Hcveo

「マエストロ! 頼むから、俺の名誉のために!」

 必氏に懇願する。俺はチキンだった。
 マエストロがぎらりと細い目を動かす。ガタイがいい割に、菩薩のような穏やかな顔をしている彼が、俺を威圧している。
 彼は謎の地雷を持っていて、そこを踏むとたまに暴走する。
 ちょうど今だ。
 
「名誉のため? 違うだろ、はっきりいえよ。女子から冷たい目で見られるのが嫌だって! 俺はええかっこしいですって言えよ!
 ほら、大声で言ってみせろよ! そして自分がどれだけエゴとナルシズムに満ちた存在かをさらけだすがいい!」

 一瞬圧倒された。周囲が沈黙した。

「……いや、おまえの行動と言動の方がエゴに満ちてるから」

 一瞬だけだった。でもナルシズムはちょっと図星かも知れない。ぶっちゃけよく見られたい。思春期だし。
 マエストロの信奉者が心配そうにこちらを眺めている。なぜ男にそんな目を向ける? 一種のホラーだ。

 俺が周囲に目を走らせていると、マエストロは表情をより険しくさせた。

「黙れこのムッツリスOベがッ!」

 教室中に轟く大声で彼は叫んだ。
 注目されている。なぜかマエストロが激昂していた。
 クラス中の視線の中に「おまえが言うな」という心の声が含まれていたのは言うまでもないことだった。
 よくよく考えると彼はオープンな方なのだけれど、でもスOベには変わりない。

「おまえの工Oに対する執着心を数値化してクラス中の女子に見せてやりたい気分だ! 氏ね!」

 なぜか氏ねと仰られる。どうやら今日は虫の居所が悪いらしい。


15: 2011/07/23(土) 22:43:46.06 ID:yBf3Hcveo

「いいか、この際だからはっきり言ってやる」

 マエストロは言った。唐突だ。何かそんなにまずいことをしただろうかという気持ちになる。
 俺の苦悩をよそにマエストロは言葉を続けた。

「このクラスで、童Oは」

 何か重大な発表がなされようとしていた。
 なぜ今のタイミングで童Oの話に? という疑問はたぶん解消されない。

「サラマンダーと、俺と」

 なにやらカミングアウトしている。

「――それから、おまえだけだ」

 ……巻き込まれてしまった。


16: 2011/07/23(土) 22:44:12.09 ID:yBf3Hcveo

 一瞬遅れで、

「……え、まじで?」

 俺は墓穴を掘った。

 空気が凍る。
 教室から音が消えた。
 サラマンダーの下手な口笛がどこかから聞こえる。
 今の発言は童Oだということを暴露したようなものだった。

 何かの視線に気付いて振り返ると、幼馴染が教室のうしろの扉から入ってきたところだった。
 彼女はあっけにとられたようにこちらを見ている。
 しばらく沈黙があった。その間中ずっと、幼馴染と俺は目を合わせたままだった。こんな状況でなければ喜ばしいことだ。
 彼女は静かに視線を落とし、照れくさそうに微笑したあと、言った。

「……童O、なの?」

 ちょっと戸惑ったような声だった。

 ――その瞬間、俺のあだ名はチェリーに決定した。


17: 2011/07/23(土) 22:44:48.97 ID:yBf3Hcveo


 ――マエストロの虫の居所が悪かったのには理由があったらしい。

 なんでも、彼の信奉者であるオタメガネ三人組(鈴木・佐藤・木下)が、三人揃って童Oを卒業したというのだ。

 ……なぜ急に?

 鈴木曰く、

「体育の授業で怪我をして保健室いったら、保健の赤嶺先生に……」

 メガネをはずすと可愛いね、って言われて喰われた。
 巨Oで地味系。童顔。野暮眼鏡。口リコンにひそかな人気がある。羨ましくて憤氏する。

 佐藤曰く、

「ヒキコモリの従妹が数日間うちに泊まることになって……」

 親たちが出かけてる間に、合意の上で、好奇心に煽られて工Oいことをし合った。した。
 年下。物静か。色白。生えてなかった。ぱんつはくまさんだった。ふざけんな。豆腐の角に頭ぶつけて氏ね。

 そして木下曰く、

「勉強のふりしてアレしてたら、義理の母親に……」

 甘やかされた。
 歳の差結婚で恐ろしく若い上、父親は氏んでいて未亡人だった。いろいろやばい。まずい。そんな際どいことクラスメイトに言うな。


18: 2011/07/23(土) 22:45:13.54 ID:yBf3Hcveo

 ――どこぞの工Oゲーか。

 脳内ツッコミ。
 応える声はなかった。

 どう考えても工Oゲーだった。

「保健の先生(巨O)とか!」

 マエストロが吼える。丘の上の住宅街にある公園に、男三人の長い影が落ちていた。

「ヒキコモリの従妹(色白・物静か)とか! 義理の母親(未亡人・いろいろ持て余す)とか!」

 力が篭っていた。

「ふざけんなああああああああ――!!」

 魂の叫びだった。夕日に向かって、マエストロは泣いていた。思わず俺の目頭も熱くなる。

「なんだそりゃあ! なんだそりゃあ! 馬鹿にしてんのかあああああああ――――!!」


19: 2011/07/23(土) 22:45:45.92 ID:yBf3Hcveo

「落ち着けマエストロ」

 サラマンダーが冷静に諌めた。彼はたまに冗談みたいなボケと失敗をかます以外、クールでイケメンなのだ。天然で工O魔人だが。

「で、それなんて工Oゲ? 特に二番目について詳しく教えて欲しい」

 ――天然で工O魔人だった。
 そして俺たちは十六歳(数え年)だ。

「俺がゲームやってる間に! 絵描いてる間に! MAD動画作ってる間に! 工O小説書いてる間に!」 

 多才な奴だ。

「アイツらがそんなことをしてたと思うと!」

「思うと?」

「氏にてえ!」

「ですよね」

 聞くまでもないことだった。


20: 2011/07/23(土) 22:46:16.15 ID:yBf3Hcveo

「反応鈍いぜ、チェリー」

 サラマンダーが気障っぽくいった。こんな気障な奴が「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」を食べて火を吐いたのだから思い出すだけで笑える。

「チェリーって言うな」

 とはいえ、俺は俺で落ち込んでいた。

『このクラスで童Oは、サラマンダーと、俺と、おまえだけだ』

 という言葉もそうだが、何よりショックだったのは、

『……童O、なの?』

 といったときの幼馴染の表情だった。
 
 普通に氏ねる。
 なんか、経験済み的な微笑だった。先入観のせいかも知れない。

 男の子だもんね、的微笑だった。
 おとだも的微笑と名付けた。

 分かりにくいのですぐにやめた。


22: 2011/07/23(土) 22:47:12.94 ID:yBf3Hcveo

「……氏にたい」

 言いながらジャングルジムに登る。丘から見下ろす住宅街のそこらじゅうに「済」のハンコが押されてる気がした。
 
「現実なんて、クソばっかだ―――――ッ!!」

 青春っぽく叫んでみた。
 ……むなしかったのですぐにやめる。

 なんか童Oとか童Oじゃないとか以前に、幼馴染のあの表情だけで普通に氏ねそうです。
 
「この世こそが真の地獄であり、我々は永遠の業火によって罰を受け続けているのだ――ッ!!」

 グノーシスっぽいことを言ってみる。
 適当だった。


 その日はそのままふたりを別れた。


 家に帰ると妹が台所で料理していた。せつなくなって後ろから抱き締めた。
 照れられた。癒された。本気で嫌がられた。抵抗を黙頃した。殴られた。

「次やったら晩御飯抜きだから」

 クールに宣言される。難しい天秤だった。


36: 2011/07/24(日) 12:06:52.62 ID:t7XC+KI9o

 翌日は授業に身が入らなかった。

 ずっと幼馴染のことを考えていて、気付けば、誰とも話さないまま昼休み。

「俺……」

 ひょっとして幼馴染が好きだったんだろうか、とシリアスに悩む。
 悩んだあげく、いつまでも幼馴染のことばかり考えていても仕方ないという結論を出した。

 幼馴染に声をかける。 

「おい!」

「え?」

 きょとんとしている。
 おべんとをあけていた。
 ピンク色の巾着袋。
 乙女チック。ファンシー系女子(普通の女子がやっていたら寒いことをしてもかわいく見える人種)。
 
「おまえのことなんて、もうしらねえからなッ!」

「……あの、突然なに?」

 苦笑してる。

37: 2011/07/24(日) 12:07:26.18 ID:t7XC+KI9o

 普段からマエストロやサラマンダーと一緒にいるせいで、周囲から「またあいつらか……」的な視線が送られていた。
 二人のせいで俺まで工O童O三人衆に数えられている。
 なぜかしらないが俺にまで信者がいる。妄想に関しては随一だというくだらない噂が立っているらしい。
 ……冗談だと思いたかった。

 幼馴染はこちらを見ながら苦笑した。
 毒のない無垢な笑顔に癒されそうになって逆に深く傷つく。もう人の女だ。
 
「おまえなんて、おまえなんて、サッカー部のなんかかっこいい先輩といい感じになってあげくのはてに卒業してからも一緒にいればいいんだ!」

「……祝福されてるのかな?」

 照れ苦笑しておられる。微妙に困っていた。
 どことなく寂しさ漂う苦笑。
 俺の心境がそう見せているに違いない。

 ……自分がかわいそうになってくる。
 ふざけていたつもりが、声に出したら真剣につらくなった。

 というわけで、幼馴染のことは忘れることにする。
 さらば幼き日の約束。
 妙な達成感が胸に去来した。

「おまえと結婚の約束をした記憶なんてないッ!」

「私もないよ?」

 忘れ去られていた。


 ……氏のう。


38: 2011/07/24(日) 12:07:55.54 ID:t7XC+KI9o

 開放されている屋上に行くと女の子がいた。
 見なかったふりをして鉄扉の内側に戻ろうとする。

「待って」

 しかし逃げられなかった。

 ロールプレイングゲームっぽいテロップが脳内に出る。
 戦闘BGM。敵性存在とのエンカウント。

「ヤァ、コンニチワ」

 ナチュラルに挨拶をしようとしたら片言になった(ありがちだ)。俺はこの子が苦手なのだ。

「何でカタコト?」

 普通に気付かれた。

「実を言うとこのあたりに地球外の知的生命体の痕跡が……」

「別にいいから、そういう冗談」

「やは」

 ごまかし笑いが出た。


39: 2011/07/24(日) 12:08:23.98 ID:t7XC+KI9o

「何しに来たの?」

「何しに、とは?」

「お弁当、持ってないみたいだけど」

 何かを言いそびれたみたいな、困ったような声音だった。

 彼女はこの学校でも有名な一匹狼だ。ザ・ロンリーウルフ。
 でも別に凶暴ってわけじゃない。気付くといつもひとりでいる。
 多分ひとりが好きなんだろう。もしくは気楽なのかもしれない。

 俺はなぜか彼女に嫌われていた。
 その嫌われ具合は簡単に語れる。

 まず初対面が――

 曲がり角でぶつかる。彼女が突き飛ばされる。

「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」

「い、たた」

 尻餅をついた彼女に、手を差し伸べる。紳士に。

「大丈夫です。ありがとう――」

 いい雰囲気。彼女の手が俺の手と合わさる。

「あ、パンツ見えてる」

「――は?」

「今日はラッキーデイ! 眼福!」

「……」

 ――ごく普通の出会い方であるどころか、むしろ好印象ですらありそうなものだが、

「……氏ね」

 と暴言を吐かれた。

 深く傷ついた。

40: 2011/07/24(日) 12:08:55.49 ID:t7XC+KI9o

人に噛み付きたいお年頃なのだと納得し、その後もめげずに声をかけるようになった。

 あるときは階段の下から――

「黄色!」

「――ッ!!」

 あるときは廊下で転んだところに彼女が歩いてきて――

「水玉! 青地に白!」

「……」

 あるときは彼女とぶつかって転んだときに身体が絡み合い、体操服の隙間から――

「白!」

「……氏ね」

 ということを何度か繰り返していたら、普通に嫌われた。よくよく思い返してみれば当然かもしれない。
 自己嫌悪。でも全部事故だ。実際に口に出したのは自分だけれど。

41: 2011/07/24(日) 12:09:39.75 ID:t7XC+KI9o

「あのさ」

 考え事をしていたらふたたび声をかけられる。

「お弁当、どうしたのって聞いてるんだけど」

「……ええと」

 教室に忘れてきた。妹の手作りだった。
 親が忙しいのでいつも妹が作っているのだが、美味い。常に食べきっている。
 昨日は食べられたか覚えていない。というか昨日の記憶がない。

 氏にたくなってきた。

「どうしたの?」

 なにやら(心配そうに)下から覗き込まれる。カッコ内はの妄想。

「よせやい、照れるぜ」

 茶化す。

「氏ね」

 笑いながら氏ねと仰られる。
 なんだか今日はご機嫌のようだ。

42: 2011/07/24(日) 12:10:08.65 ID:t7XC+KI9o

 孤高のロンリーウルフである彼女は、通称を屋上さんという。
 なんか屋上にいるから、屋上さん。
 あだ名ばっかりの学校だ。
 名前を聞いても教えてくれないので、俺がつけた。

 髪型はポニーテール。この歳になるとなかなかお目にかかれない。
 陸上部に所属していて、いつもハードルを越えてる。すごい。やばい。足が速い。クラスが違うので詳しいことは知らない。

「食べる?」

「は?」

 何かを差し出される。
 コンビニのサンドウィッチだった。

「……ミックスサンドだけど」

 まるでツナサンドじゃないことが申し訳ないみたいな言い方だった。

「いいじゃんミックスサンド、好きだよ」

 思わずミックスサンドをフォローする。実際好きだ。ツナサンドも嫌いじゃない。

「そう?」

 なぜか照れてるように見える。言うまでもなく妄想に違いない。


43: 2011/07/24(日) 12:10:35.31 ID:t7XC+KI9o

「ありがとう、もらうよ」

「べ、別に。余ってたってだけだから」

「ありがとう」

 なにやらツンデレっぽい発言だが、彼女が実際にツンデレだというわけではない。現実でそんなのいるわけない。
 実際、好かれるようなことはやっていないのだ。

 ――が、嫌いな人間にすらサンドウィッチを分けるこの優しさ。心に傷を負ったタイミングでこんなことをされれば、当然、

「やばい、惚れる」

 となる。

「は?」

「つらいときのやさしさは身に沁みる。結婚しよう」

「氏ね」

 とたんに不機嫌になった。屋上さんは扱いが難しい。現実でも選択肢がでれば、間違ったほうは選ばないのに。


44: 2011/07/24(日) 12:11:01.76 ID:t7XC+KI9o

「なぁ、屋上さん」

「なによ?」

「工Oゲの主人公ってさ、バッドエンドの後、どんなふうに過ごしてるのかなぁ」

「……いや、知らないし。工Oゲとか」

「だよなぁ」

 現実は厳しい。

「食べないの? それ」

「食べる」

 もさもさとサンドウィッチを口にする。ぴりぴりとした味が舌に広がった。調味料がききすぎてる。

「生きてんのつれー」

 屋上さんはどうでもよさそうにフェンスの向こうを眺めていた。

 その後屋上さんと恋について話をした。ちょっと思わせぶりに振舞うためだ。

「屋上さん、好きな人いる?」

「あんたには関係ないでしょ」

 あっさり切り伏せられた。


45: 2011/07/24(日) 12:11:27.85 ID:t7XC+KI9o

 その後、理由なく保健室に向かった。保健の赤嶺先生はいなかった。ちょっと期待してたのに。

 教室に戻ると幼馴染が声をかけてきた。

「どこいってたの?」

「ナンパ」

「そ、そうなんだ……」

 なぜだかショックを受けている。フラグかと思ってちょっと期待した。
 が、俺だって幼馴染が逆ナンしてたら普通にショックだ。
 深い意味がないだろうことに気付いて無意味に落ち込んだ。

 席について妹の弁当を食べた。
 美味かった。好きなおかずばかりだった。優しさと励ましが垣間見えた。
 あいつが何か困っていたら全力で助けようと涙ながらに誓った。

 でも冷食だった。そりゃそうだ。

46: 2011/07/24(日) 12:12:10.08 ID:t7XC+KI9o

 気付けば午後の授業が終わってた。授業を聞いた記憶もない。当然、内容も何も覚えていなかった。

「……期末、近いんだぜ」

 冗談めかして自分に言うと、声が震えていた。

「どうしよう」

 周囲を見回すとサラマンダーもマエストロもいなかった。ぶっちゃけ二人以外仲のいい友人なんていない。

「孤独だ……」

 世間の風にさらされる。
 人間なんてひとりぼっちだ。

 切なくなってドナドナを歌っていたら、うしろから声をかけられた。

「チェリー」

「チェリーっていうな」

 うちのクラスでのあだ名の普及率は一日で100%(担任含む)。

「そんなに童Oがつらいか」

 女子だった。
 やたら下ネタ率が高い茶髪だ。
 化粧が濃い。睫毛の盛りがホラー的である。

 化粧を落とすと目がしょぼしょぼしてて眉毛がないに決まっている。
 でもいい身体をしていた。
 前にそれを言ったら数日間女子に無視された。
「無視するなよう!」と駄々をこねたら「きもかわいー」って許してもらった。おかげで大事なものを失った気がする。全面的に俺が悪いが。


47: 2011/07/24(日) 12:13:09.50 ID:t7XC+KI9o

「童Oは関係ないです」

 冷静に言ったつもりだったが、現実には女子に下ネタ振られて童Oらしく動揺しているだけだ。 
 茶髪は俺の心の機微を意にも介さず話を続ける。

「ヤらせてやろうか」

 情緒のない女だ。

「ぜひ」

 でも童Oのに情緒は必要ない。二秒で結論を出した。
 幼馴染が心配そうにこっちを見ていた。睨み返す。裏切りものめ、と視線に乗せて送った。
 幼馴染は見る見る落ち込んでいた。何やってんだ俺……。

「何やってんだおまえ」

「俺が知りたい」

 本当に。

「まぁいいか。それで、いくら出す?」

「いくら、と申されますと?」

 嫌な予感。

「諭吉さん」

「それ犯罪!」

「愛があれば金の有無なんてちっぽけな問題だから」

「……えー」

 ドン引いた。「金の有無」の意味が違うだろう。
 

48: 2011/07/24(日) 12:13:39.55 ID:t7XC+KI9o

「冗談だよ、冗談」

 煙草に酒に乱交までやってそうな茶髪が言うと冗談とは思えない。

「まぁ、童Oだからってそんな気にするなよ、童O。別に童Oだからって犯罪ってわけじゃないしな。だろ、童O」

 茶髪が言うと、うしろで数人の女子がくすくす笑った。
 屈辱。でもなんだか興奮する。
 
 嘘だ。

「かくいう私も処Oだしな」

「それも嘘だ」

 思わず反論してしまった。
 茶髪は気を悪くするでもなく気だるげに笑う。そのあたりが彼女の魅力だ。気だるげな、おとなのおねえさん的魅力。
 
「まぁ、あんまり落ち込むなよ、おまえが落ち込むと、あれだ。どっかで悲しむ奴がいるかも知れない」

 茶髪になおと的な励ましをもらった。意外と神経質な性格だったりするのかも知れない。
 普通に元気付けられてしまった。

「ありがとう茶髪、チロルチョコやるよ!」

「いや、チュッパチャップスあるし」

 チロルチョコとチュッパチャップスの間にどのような互換性があるかは謎だが、どちらもチが二つ着いてる。
 略すとチチだった。

 チチ系フードと名づけた。

 すぐに飽きた。


49: 2011/07/24(日) 12:14:31.10 ID:t7XC+KI9o

 チョコを食べながら部室へ向かう。ポケットにしまおうとした銀紙が廊下に落ちて、通りすがりの保健の赤嶺先生に叱られた。
 巨Oだった。

 わざとじゃないんです、と言った。
 そうなの? と聞かれた。
 そうなんです、先生と話がしたくてげへへへへ、と言った。
 あらそうなの、とさめた声で言われた。

 赤嶺先生の脳内評価では、俺は鈴木以下だった。鈴木がどうというのではないが、男として劣っていると言われたみたいで悔しかった。
 
 そのまま何事もなく先生と別れた。つくづく女性と縁がない。
 部室についてすぐ、そんな不満を部長に言うと、彼女は呆れたようにため息をついた。

「あ、そうですか……」

 正真正銘呆れている。

 部長は三年で、今年で文芸部も引退。それを思うと少し切ない。

 文芸部は部員数が二十数人の人気文化部で、基本的には茶飲み部だ。部室は第二理科実験室。
 女子数はワープロ部に負けず劣らず多いが、男子率も比較的高い。
 
 普段はお菓子を食べながら好き放題騒ぎまくり、年に一度の文化祭に文集を制作、展示する。

 ちなみに、今年度の文集での俺の作品は「きつねのでんわボックス」の感想文だと既に決まっていた。顧問と部長に許可は取った。呆れられた。


50: 2011/07/24(日) 12:15:44.50 ID:t7XC+KI9o

「大変ですね」

 部長は会話が終わるのを怖がるみたいに言葉を続けた。ちょっと幼い印象のする容姿の彼女は、面倒ごとを押し付けられやすい体質。
 お祭り騒ぎが好きで面倒ごとが嫌いな文芸部の先輩がたは、お菓子を食べながらがやがや騒いでいる。
 ちょっと内気そうな彼女が、パワフルな先輩たちに面倒な仕事を押し付けられたであろうことは想像にかたくない。

 それを想像するとちょっと鬱になるので、部長が大の文芸好きで、文に関しては並ぶものがいないから部長になったのだという脳内エピソードまで作った。

 すごくむなしい。一人遊戯王並にむなしい。

「部長、どうしたら女の人と付き合えますか?」

 せっかくなので聞いてみる。部長は困ったように眉間を寄せて考える仕草をした。

「告白、とかどうです?」

 清純な答えに圧倒された。同時に正論だった。

「部長、気付いたんですけど俺、好きな人いませんでした」

「どうして彼女が欲しいんですか?」

 部長が心底不思議そうに首をかしげる。ぶっちゃけ工Oいことするためだが、そんなこと部長にいえるわけがない。

「愛のため?」

 適当なことを言った。言ってからたいして間違ってないことに気付く。

「素敵ですね」

 案外ウケがよかった。

 その日の部活はつつがなく終わった。


51: 2011/07/24(日) 12:16:13.61 ID:t7XC+KI9o

 家につくと妹が料理していた。
 後ろから抱きしめた。もがかれた。そのうち大人しくなった。十分間じっとしていた。お互いの息遣いと時計の針の音だけが聞こえる。
 背の低い妹の肩は俺の胸元にすっぽり収まる。妹のつむじに鼻先を寄せて触れさせた。息を吸い込むとシャンプーのいい匂いがする。
 妹の肩が抵抗するみたいにびくりと震えた。それもすぐに収まる。目の前に妹の黒い髪が艶めいていた。

 腕の力を強めると妹は足の力を少し抜いたみたいだった。自分の息遣いがいやに大きく聞こえる。
 身体を密着させると妹の身体の細さと小ささがはっきりと分かった。服越しに感じるぬくもりに、なぜだか強く心を揺さぶられる。

 目を瞑ると深い安心があった。腕の感触と鼻腔をくすぐる香りに集中する。妹の身体に触れている部分が、じわじわと熱を持ち始めた。
 それと同時に焦燥のような感情が生まれる。罪悪感かも知れない。
 
 俺は何をやってるのだろうと、ふと思った。 

 冗談のつもりが、思いのほか抵抗がなかった。
 なぜか心臓がばくばくしていた。妹相手なのに。顔も熱い。

 危ない雰囲気。これ以上はまずいだろうと思ってこちらから拘束を解除した。
 俺を振り向いた妹の顔は、暑さのせいか少し赤らんで見えた。瞳が少し潤んでいるようにも見えた。多分それは錯覚。

 直後、彼女が右手に包丁を握ったままだったことに気付いてさまざまな意味で戦慄した。
 危ねえ。やばそうだと思ったら放せ。俺が言えたことじゃない。

「晩御飯抜き」

 クールに言われる。後悔はない。
 実際には既に準備をはじめていたらしく、食卓には俺の分の食器も並べられていた。

「愛してる」

「私も」

 愛を語り合った。妹は棒読みだった。


52: 2011/07/24(日) 12:16:41.59 ID:t7XC+KI9o

 夕飯のあと、部屋に戻ると幼馴染の顔が頭を過ぎった。

「やは」

 ごまかし笑いが出た。
 
 せっかくなので幼馴染がサッカー部のなんだかかっこいい先輩と別れて俺と付き合うことになる妄想をしてみた。
 亡き女を想う、と書いて妄想。

 なかなか上手く想像できず、妄想は途中で舞台設定を変えた。俺が延々「一回だけでいいから!」と工Oいことを要求している妄想だ。

「じゃあ、一回……だけだよ?」

 仕方なさそうに幼馴染が言う。よし、押して押して押し捲れば人生どうにでもなる。
 幼馴染はじらすような緩慢な動きで衣服のボタンをひとつひとつはずしていった。指定シャツの前ボタンをはずし終える。
 彼女はそれを脱ぎ切るより先にスカートのジッパーを下ろした。
 できればスカートは履いたまま、上半身だけ裸なのが理想だったが、そんな男の妄想が女に通用するわけもなかった。
 下着だけの姿になった幼馴染が俺の前に立つ。明らかに育っていた。子供の頃とは違う。女の身体だった。

「……ねえ、あの、あんまり、見ないでほしい」

 顔を真っ赤にして呟く。俺は痛いほど勃起していた。
 彼女は俺がひどく緊張していることに気付くと、蟲惑的な、からかうような、見下すような微笑をたたえる。
 ベッドに仰向けになった俺に、彼女が覆いかぶさった。主導権が握られたことは明白だ。


53: 2011/07/24(日) 12:17:52.04 ID:t7XC+KI9o

「心配、ないから。ぜんぶまかせて……」

 俺は身動きも取れないまま幼馴染のされるがままになる。気付けば上半身はすべて脱がされていた。
 体重が後ろ手にかかっている上に、シャツが手首のところまでしか脱げていないので、手が動かせなくなった。
 彼女は淫靡な手つきで俺の身体に指先を這わせた。彼女に触れられたところがじんじんとした熱を持つ。
 それは首筋、胸元、わき腹、臍を静かに通過して下半身へと至った。
 一連の行為ですっかり反応した俺の下半身に、ズボンの上から彼女の指が触れる。びくびくと中のものが跳ねた。

 圧倒的だった。

 圧倒的、淫靡だった。

 ズボンの留め具がはずされ、制服のチャックが下ろされていく。途方もなく長い時間そうされている気がした。
 その間ずっと、俺は幼馴染の熱い吐息に耳を撫でられ続けているような気分だった。

 見られる、と思うと、とたんに抵抗したい気持ちになった。それなのになぜか、早く脱がしきって欲しいとも思っていた。
 少女に脱がされるという倒錯的な感覚も相まって、頭がぼんやりして息苦しくなるほど快感が高まっていく。
 胸の内側で心臓が強く脈動している。破裂する、と比喩じゃなく思った。

「あはっ……」

 ズボンが太腿のあたりまで下ろされると、トランクスの中で脈打つ性器の形が幼馴染に観察されるような錯覚がした。


54: 2011/07/24(日) 12:18:15.50 ID:t7XC+KI9o

「脱がすよ……?」

 答える暇もなく、彼女は手を動かす。脱がされるとき、彼女の指先が皮膚をなぞって、そのたびゾクゾクとした快感を身体に残した。
 貧血になりそうなほど、血液が下半身に集中している。

「……かわいい、ね」

 ――何かが決定的に間違っていた。
 でも勃起していた。勃起しているんだから、まぁ、間違っていようとしかたない。

 幼馴染の視線をなぞって、ようやく違和感の正体に気付いた。

 妄想の中の例のアレは、なぜだか包茎だった。
 しかも早漏であろうことがすぐに分かった。
 
 でもよくよく考えたら現実でも早漏だった。
 ので、変なのは包茎だけだ。

 幼馴染は俺の腰のあたりに顔を近付けて、じろじろと観察した。
 あまつさえくんくん臭いまで嗅いでいた。


55: 2011/07/24(日) 12:18:47.63 ID:t7XC+KI9o

「へんなかたち。先輩のとちがう……」

 先輩は剥けてるらしい。
 知りたくない情報だった。

 寝取ってるはずなのに寝取られてる感じがする。

「ね、なんでこんなに皮があまってるの?」

 無垢っぽく訊きながら、彼女が人差し指でつんつん突付く。思わずあうあうよがる。

「変な声だしてる。かわいい」

 言いながらも彼女は手を止めない。

「ね、なんか出てきてるよ?」

 彼女の言葉にどんどんと性感を刺激される。
 ソフトながらも言葉責めだった。

 まさか先輩がソフトエムなのではなかろうな、と邪推する。

「きもちいーんだ?」

 照れた顔で微笑んで、手を筒状に丸めアレをゆっくりと焦らすように擦る。

「やば、い……って!」

 すぐ限界がきそうになる。ゆっくりなのに。
 童O早漏の面目躍如だ。ぜんぜん誇らしくない。


56: 2011/07/24(日) 12:19:20.81 ID:t7XC+KI9o

「すぐ出しちゃうのは、もったいないよね」

 幼馴染は手を止めて荒い息をする俺の表情を見て、恍惚とした表情を浮かべた。今の彼女はメスの顔をしている。

「ね。……入れたい?」

 熱っぽい顔で幼馴染が言う。意識が飛びそうだった。答えは決まっていたが、俺は息を整えるのに必氏で何も言えなかった。

「黙ってちゃ分からないよ?」

 どう考えても黙ってても分かっていた。いつの間にこんな魔法を覚えやがったのか。
 砂場の泥で顔を汚していた幼馴染はどこへ言ったのだろう。
 俺が少ない小遣いで買ってあげた安っぽい玩具の指輪はどうしたのだろう。
 いつの間に――こんなに歳をとったのだろう。 

「……あんまりいじめるのもかわいそうだし、ね」

 彼女は下着をはずし、俺の下半身に腰を近付けた。体温が触れ合う。奇妙な感じがした。でも不満はなかった。
 しいていうなら、おっOいさわってねーや、と思った。腕が動かないので触れない。
 仕方ないのでじっと見つめていると、しょうがないなぁ、と言うみたいに、彼女が俺の頭を抱え込んで胸元に招きよせた。
 いい匂いがした。近くで見ると彼女の肌は精巧な硝子細工みたいになめらかで綺麗だった。何のくすみもない。恐ろしく美しかった。
 でも、体勢がつらそうだな、と思った。

57: 2011/07/24(日) 12:19:44.88 ID:t7XC+KI9o

「じゃあ、いくよ?」

 いよいよだ。やっと……遂に……俺も、童Oじゃなくなるんだ。
 さらば青春。美しかった日々。さようならサラマンダー。さようならマエストロ。俺は一足先に大人の階段を登る。
 そして、今までつらい思いをさせてきて悪かったな、相棒。

 なあに、たいしたことじゃないさ、と相棒が彼女のお尻の下で応えた。
 彼女がゆっくりと腰を下ろしていく。足を両脇に開いた姿がよく見えて、その姿だけで俺は一生オカズに困らない気がした。

 そんなことを思っていたら、もうすぐ秘部同士が触れ合いそうだった。何か、余韻のようなものがあった。
 これで、俺の人生はひとつの区切りを迎えるのだ。そう考えると、不意に何かを遣り残しているような気分になった。
 
 喪失の気配。もうすぐ何かを失うような、そんな気配。

 本当に良いのか? と頭の中で誰かが言った。
 幼馴染とこんなふうにして。何もかもうやむやなまま。彼女には恋人がいて、でも俺は童Oだった。
 童Oだから仕方ない、と誰かが言った。まぁ、そんなものかもしれないな。童Oだし。

 なんだかとても、悲しかった。


58: 2011/07/24(日) 12:20:11.11 ID:t7XC+KI9o

 ――そのとき、不意に後ろから声がした。

「……おい、時間だ。そろそろ起きろよ、相棒」

 下の方の相棒じゃなかった。

 どう考えてもなおと(目覚まし)の声だった。

 ――やっぱり邪魔しやがったか。

 そこで俺の妄想は途切れた。


59: 2011/07/24(日) 12:20:37.64 ID:t7XC+KI9o

「なおとおおおおおおお――――!!!」

 我に返った俺はひとまずなおとに対して攻撃を放った。
 
「右ストレート! 右ストレート!」

 技名だ。内容的には左フックだった。

「あとちょっとで! あとちょっとで!」

 たぶん俺は一生なおとを恨むに違いない。他方、感謝もしていた。あのまま妄想が続いていたら後悔していただろう。
 幼馴染を妄想の中で慰み者にするなんて、男の風上に置けない。童Oの風上には置ける。

 その後、部屋の隅でインテリアとなっていたアコースティックギターを抱えて「悲しくてやりきれない」を弾き語った。
 
 空しさだけが残った。

 アウトロに入った頃、妹が部屋のドアを開けた。

「お風呂入らないの?」

「一緒に?」

「入りたいの?」

「入りたいよ?」

 兄として当然の答えだった。それに対する返事もまた、

「ありえないから」

 妹として当然の答えだった。

 風呂に入った後、布団に潜り込んだ。ちょっと涙が出た。もう幼馴染なんて知らない。
 さっきの妄想を思い出すと勃起した。氏にたい。


60: 2011/07/24(日) 12:21:13.80 ID:t7XC+KI9o

 寝付けなかったので深夜二時に台所にいって冷蔵庫の中の麦茶を飲んだ。作ったのは妹。
 幼馴染がハイスペックなように、うちの妹もハイスペックだ。

 そんな妹も、いずれは他の男の女になる。

 むなしい。
 目にいれても痛くないのに。
 せめて悪い虫がつかないでくれと祈るばかりだ。

 麦茶を一杯飲むと妙に頭が冴えた。

 コップの中身を飲み干してから溜息をつく。

「……彼女、欲しいなぁ」

 むなしさばかりの夜。
 
 五分後、布団にくるまってゆっくり眠った。


61: 2011/07/24(日) 12:22:22.86 ID:t7XC+KI9o

 その日、変な夢を見た。

 夢の中ではなおと(目覚まし)が擬人化していた。

「なぁ、なおと……どうやったら、童O卒業できるのかな」

 真剣な悩みだった。
 なおとはダンディに答える。

「……恋、しちゃえばええんちゃう?」

 夢の中のなおとはエセ関西弁だった。

「っていっても……好きな人とか、いないし」

「ちょっと気になる子とか、おらんのん?」

 本当にこれ関西弁か? と疑問に思った。

「気になる子……」

 俺は仲の良い何人かの女子の顔を思い浮かべた。

 幼馴染(彼氏持ち)。屋上さん(嫌われている)。茶髪(化粧すごい)。部長(距離がある)。妹(血縁)。

「いや、妹はナシだろう」

 自己ツッコミ。


62: 2011/07/24(日) 12:23:40.14 ID:t7XC+KI9o

「それをナシにしても障害ありすぎだろ……」

「たとえば?」

 なおとは標準語のイントネーションで訊ねた。

「彼氏とか、嫌われてたりとか、ろくに話したことなかったりとか……」

 目覚まし時計が呆れたように溜息を吐く。

「なんだよ?」

 ちょっと不服に思って問い返すと、なおとは静かに答えた。

「障害くらい、なんだっていうんだ。ちょっとくらいの壁、乗り越えろ。男だろ」

 ダンディだった。
 こんな男になりたい、と真剣に思った。
 目覚まし時計に諭されてるあたり、自分が本気で情けなくなる。

「恋人がいるくらいなんだ! 本気で好きなら寝取れ! 『遠くから彼女の幸せを祈ってる』なんて馬鹿な言い訳はやめろ!
 好きでもない男に幸せを祈られてるとか女からしたら気持ち悪いだけだ! 好きなら彼氏がいようと直球でいけ!
『彼女が幸せならそれでいい』とかな、自分に酔ってるだけ! 気持ち悪いんだよ!
 女なんてラーメン屋と一緒だ! いい店なら客がいて当たり前なんだよ! 彼氏のいないイイ女なんているわけねえだろ!
 分かったら電話をかけろ! 話しかけろ! 家まで押しかけろ! しつこく声をかけ続けろ! 嫌になるまで諦めるな!」

「……なおと」

 最初の方には感銘を受けかけたが、最後の方は普通にストーカー理論だった。
 あと途中でうちの妹さまに対する悪口が聞こえた気がする。
 あえて彼氏を作らない、そんないい女だっていると思います。

63: 2011/07/24(日) 12:24:07.47 ID:t7XC+KI9o

「ろくに話したことがない!? だったら話しかければいいだろうが! 仲良くなればいいだろうが! 自分の臆病を棚にあげて何が障害だ!
 おまえが少し勇気を出せば変わる問題じゃねえかよ! 嫌われたくない? 馬鹿にすんな! 相手にされないくらいなら嫌われた方がマシだ!
 嫌われたらなんだよ! 嫌われたらおまえは生きていけないのか? 人間なんて生きてれば理由があろうとなかろうと嫌われるもんなんだよ!
 話しかけられないなんていう臆病な言い訳は実際に嫌われてから言え!」

「いや、実際に嫌われてたりするんだけど」

 屋上さんとか隣席の眼鏡っ子を思い出す。
 どう考えても嫌われていた。

「おまえはその子の心が読めたりするのか?」

「え?」

「あのな、自分が好かれていると思うのが勘違いなように、自分が嫌われていると感じるのも思い込みなんだよ」

「そんなこと言われても……」

 実際に言われたわけだし。

「素直になれないだけかもしんないじゃん! ツンデレかもしんないじゃん! 勝手に判断すんなよ!『俺のこと嫌い?』って真顔で聞いてみろよ!」

「できるかそんなこと!」

「このヘタレめ!」

 もう意味が分からなかった。
 面倒になったので右ストレートを発動してなおとを黙らせた。

74: 2011/07/25(月) 12:51:06.58 ID:evCbY/gxo

 翌朝、夢から覚めたときには、前日の憂鬱も忘れていた。

「お兄ちゃん、起きて」

 時々兄に対して絶対零度の視線を向ける妹ではあったが、基本的に兄に対する呼称は「お兄ちゃん」だった。
 いい妹なのだ。ときどき起こしに来る。そうして欲しくて、わざと起きていかないこともある。
 見抜かれて放置される。遅刻する。
 しかし、今日は目覚ましが鳴った記憶がなかった。
 
「……なおとは?」

「自分で止めたんでしょ」

 妹の視線の先でなおとが物寂しげに床に転がっていた。

「悪かったよ、なおと……」

「目覚ましに話しかけないでよ……」

 妹さまの呆れ声から、一日がはじまった。


75: 2011/07/25(月) 12:51:33.47 ID:evCbY/gxo

 MP3プレイヤーで「人として軸がぶれている」を聴きながら登校する。

 二番目のサビに入ったところで夢の中の出来事を思い出した。
 しょうがない。恋をしよう。新しい何かを始めてみよう。

 サビを聴いてテンションがあがった。何かを変えようとするにはちょうどいい。イヤホンをはずした。
 学校につき、教室に入ると同時に両手を挙げて叫ぶ。

「ハローワールド!」

 教室を間違えていた。違うクラスだった。
 なんだこの人、という視線が突き刺さる。
 明らかに頭がアレな人だと思われていた。

 なぜ夏にもなって教室を間違えるのか、疑問だ。

 ちゃんと自分の教室にたどり着くと、今日もマエストロが俺の席で薄い本を読んでいた。

 なんだかんだでマエストロとサラマンダーの二人とは三年以上の付き合いになる。
 そう考える感慨深いものがあった。でも三人とも童O。


76: 2011/07/25(月) 12:52:03.45 ID:evCbY/gxo
「何読んでるの?」

 一昨日の例があるので、下手に刺激すれば乱心しかねないと思い、普通に話しかける。

「ん」

 言いながらマエストロが本の表紙をこちらに向ける。
 月刊青年誌で連載中のむしろ成年誌でやれと言いたくなる人気漫画のヒロインが表紙だった。
 ひらりと浮き上がったスカートの下にいちご柄の子供っぽいパンツに包まれたお尻が見えていた。
 家事万能の妹キャラ。

 好きなキャラ。

 俺は今怒ってもいい、と思った。

「……あてつけか? ひょっとしてなんかのあてつけなのか? 俺の好きなキャラだと知っていてそのような暴挙に出ておられる?
 これは宣戦布告なのか? おまえの好きな委員長キャラの同人誌をおまえがいない時間帯に自宅に送るぞコラ」

「……え、なんでそんなに怒ってんの?」

 なぜかどうでもいいキャラの工Oに関しては寛容な俺たちだった。
 好きなキャラの工Oに関しては場合による。
 個人として鑑賞する分にはいい(駄目なときもある)。
 どうでもいいキャラはどうでもいい。
 工O担当として別のキャラがいたりもする。

 そもそも原作が工Oチックな内容の漫画なので、俺の理屈の方が間違っているのは明白だ。
 元ネタからして工Oなのに、工Oがアウトとかエゴにもほどがある。

 が、友人が読んでるのは嫌だった。

「おまえそれ売ってくれない?」

 交渉に出る。マエストロの細い目がぎらりと光った。

「高いぞ?」

 今月の小遣いが半分になった。

「つか、買ったはいいものの本編の方が工Oいからあんまり使えなかったんだけどな」

「使うとか言うな」

 いつだって現実は残酷なほど正直だった。

77: 2011/07/25(月) 12:52:40.64 ID:evCbY/gxo

 授業前のホームルームで担任のちびっ子先生が言った。

「持ち物検査をします」

 うちの妹と同じくらいちっこい先生は、いわゆる口リババア。
 ツンデレくらいありえない存在だが、いるものは仕方ない。
 
 歳を重ねた分だけ世間擦れはしていた。
 口がめちゃくちゃ悪い。息がコーヒー臭い。酒が好き。
 やはり現実だった。

 教壇の上でだるそうに溜息をつく担任に、サラマンダーが冷静に訊ねる。

「なんで?」

 先生は答えるのも面倒とでもいうみたいに眉間に皺を寄せてから、しっかりと理由を話した。基本的に話の通じる教師だ。

「なんかね、煙草吸ってたんだって。あんたらの先輩。あの、四階の、あんま使われてないトイレあるでしょ。あそこで」

 とばっちりだった。見つからないようにやって欲しい。


78: 2011/07/25(月) 12:53:36.11 ID:evCbY/gxo

「私は煙草くらいいいと思うんだけどね。むしろ年寄りとか積極的に吸えよ。長生きしてどうすんだ」

 ありがたい訓辞だった。基本的に話は通じるが、少し人の都合を省みないところがある。
 でもまぁ、みんなそんなもんだな、と思い返して納得した。

「どこもかしこも嫌煙ムードでさ。やんなっちゃうよ。副流煙がどうとかさ、どう考えても言いがかりじゃん。ふざけんなっつう。
 どこ行っても肩身狭くて。値上がりまでするし。金払ってるっつーの。税金払ってるっつーの。権利あるっつーの。健康そんなに大事か?
 パチンコのCMですら煙草ダメみたいなのやってるじゃん。なんなのアレ? それ以前にそもそもあそこは不潔だろうが。システムからして」

 一方的な言い草だったが、正直そのあたりのことはよく知らない。先生がそこまで煙草にこだわる理由も分からなかった。

「んなわけで。持ち物検査します」

 職権濫用だった。
 たぶんPTAに訴えれば責任問題にできる。モンスタースチューデント。世間は世知辛い方向へと進歩していく。

 とはいえ、拒否するのはやましいものがある奴だけだ。




79: 2011/07/25(月) 12:54:06.05 ID:evCbY/gxo

「おいチェリー」

「チェリーって呼ばないでください」

「悪かった。チェリー、おまえこれどうした」

 好きなヒロインがスカートを翻してぱんつをこちらにみせつけていた。

 圧倒的ピンチ。
 サラマンダーが声を出さず笑っている。
 マエストロが俺から目をそらした。
 幼馴染が怪訝そうにこちらを見ている。
 茶髪が斜め後ろで興味なさそうに頬杖をついていた。

 困った。

「実は、マエストロに預かってくれと頼まれて……」

 俺は友人を売ることにした。既に支払った小遣いは痛かったが、マエストロに責任を押し付けられる。犠牲は多いが勝利は近かった。

「ホントか?」

「いや、俺そんなことしてないっす」

「してないそうだが」

 マエストロがあまりに冷静に言ったので俺が嘘をついたような雰囲気になった。
 ていうか実際嘘だった。圧倒的不利に陥る。


80: 2011/07/25(月) 12:54:45.15 ID:evCbY/gxo

「実はそれ、プレゼントなんです」

「へえ。誰への?」

「入院してる親戚がいるんです。そいつ、思春期なのにろくに工O本も読んだことなくて……思わず憐れに思って、読ませてやろうと。今日の帰り病院に寄る予定だったんです」

 適当なことを言った。

「そりゃいいことだな」

 ちびっ子先生が感心している。茶髪がニヤニヤしていた。幼馴染が何かに気付いたみたいにさっと視線を下ろした。

「でも、おまえが持っていいもんじゃないから」

 煙草には寛容なちびっ子先生は、工Oには寛容ではなかった。

「あとで職員室に取りに来い。な? 今なら父ちゃんの工O本を間違えて持ってきたことにしといてやろう」

「すみません。それ父ちゃんの工O本でした」

 俺は父を売った。
 茶髪とサラマンダーがこらえきれず笑い始めていた。

「おまえの父ちゃん……こんなの読むのか」

 先生が心底同情するように言った。三者面談は母に来てもらおう。

81: 2011/07/25(月) 12:55:22.18 ID:evCbY/gxo
 ちびっ子は俺の席を離れて次々と他の人間の持ち物を確認していった。

 やがて彼女はひとりの男子の席で足を止めた。

「……なんでライター?」

「ゲーセンの景品で取ったんです」

 キンピラくんだった。

 茶髪ピアスの痩身イケメンで、微妙に不良っぽい雰囲気がある。
 彼のあだ名の由来はサラマンダーだった。

 初めて彼と接したとき、

「うぜえ、近寄んじゃねえよ」

 と冷たくあしらわれて、その態度の悪さからサラマンダーが、

「ああいうのなんていうんだっけ? キンピラ?」

 と言い間違えたのが由来となった。

 多分チンピラと言い間違えたのだと思うが、さらに正確にはヤンキーと言いたかったに違いない。ありがちだ。

 キンピラくんはさして居心地悪そうでもなく、ライターを持ってることを悪いとは思っていないみたいだった。
 というか、ライター持ってるくらい別に悪くない気もする。

82: 2011/07/25(月) 12:55:53.41 ID:evCbY/gxo

「煙草吸うの?」

「吸わねえっす」

 キンピラくんは基本的に正直者だ。

「ホントに? なんでライター持ってんの?」

 彼は小さく舌打ちをした。

「今舌打ちしたね?」

「してねえっす」

「しただろ」

「してねえって」

「したって言えよ」

「しました」

 キンピラくんは基本的に正直者だ。

83: 2011/07/25(月) 12:56:32.08 ID:evCbY/gxo

「で、煙草吸うの?」

「吸わないっす」

「吸ったんだろ? 正直に言えよ。私も隠れて吸ってたよ。授業サボって屋上で吸ってたよ」

 学生時代から今のままの性格をしていたらしかった。

「吸ってねえんだって」

「嘘つけよ。じゃあ何でライター持ってるんだよ」

「……」

「何とか言えよ」

 先生の言葉には困ったような響きが篭っていた。

「……ぶっちゃけ」

 キンピラくんは静かに話し始めた。

「金属性のオイルライターってなんかいいかな、って思って……」

 クラス中が静寂に包まれた。

「……煙草は吸わないのね?」

「はい。吸わないです」

 彼は基本的に正直者だ。
 そんなふうに持ち物検査は終わった。

84: 2011/07/25(月) 12:57:05.81 ID:evCbY/gxo

 昼休みに屋上に行く。 
 あたりまえのような顔をして屋上さんがコーヒー牛乳を啜っていた。

 場所を変えようかと思ったが、どうせいるかも知れないことを承知できたのだ。こちらが変えてやる理由もない。
 俺は彼女が苦手だが、彼女と話すのは嫌いではなかった。

「また来たんだ」

 屋上さんは困ったような顔をして俺を迎えた。強く拒絶されることはない。
 最初の頃は来るだけでも冷たい視線を向けられたが、今となっては彼女の方もだいぶ慣れたらしかった。

 屋上さんに近付く。

「人、多いね」

 普段はろくに人がいないのに、今日は屋上で食事を摂る人間が多いようだった。

「たまにある。こういうことも」

 屋上さんは周囲を気にするでもなく言う。人ごみの中にあっても、彼女が孤高であるということは揺るがない。
 彼女がひとりでいることと、周囲に人間がいることは無関係なのだ。

85: 2011/07/25(月) 12:57:36.82 ID:evCbY/gxo

「このくらい騒がしい方、逆に落ち着くでしょ」

 そうだろうか。俺は人が多すぎると落ち着かない。

「で、なんで私の隣に座るわけ?」

「一緒にお昼食べようと思って」

「……まぁ、いいけどさ」

 最初の頃と比べれば格段の進歩と言える。
 とはいえ彼女が不躾なほど威圧的な視線を見せることはまだある。

 俺が何か言わなくていいことを言ったときとか、何か気に入らないことがあったときとか、あるいは理由なんて想像もできないこともある。
 いずれにせよ屋上さんは俺に対してなんら執着を持つことがないようだった。
 いたらいたでいいし、いないならいないでいい。どちらでもかまわない。不快になってもまあ仕方ない、という考えでいるようだった。

「今日はおべんとあるんだ」

 屋上さんが静かに言う。甘ったるそうな菓子パンをかじりながら、彼女はフェンスの向こうを眺めていた。サンドウィッチじゃないんだ。

「忘れてこなかったから」

 包みを開けて食事をはじめる。屋上さんはそれに目もくれず一心にフェンスの向こうを睨んでいた。

86: 2011/07/25(月) 12:58:10.62 ID:evCbY/gxo

「何かあるの?」

「何が?」

「フェンスの向こう」

「ツバメが飛んでる」

「ツバメ」

 正直、空を飛んでいる鳥なんて鴉もツバメも同じに見える。

「ツバメは空を飛べていいなぁ」

 屋上さんがぼんやり言う。
 何かを言おうとしてから、何をどういうべきかを考えたけれど、今のタイミングで絶対に言わなければならない言葉なんてないように思えた。

 とりあえず適当なことを言ってみた。

「人間だって飛べるでしょう」

「飛行機で?」

「ヘリコプターとかね」

 屋上さんがくすくす笑う。何がおかしかったのかはまるで分からない。
 彼女の笑い声に呼応するみたいに、少し強い風が屋上を吹きぬけた。髪がなびく。

87: 2011/07/25(月) 12:58:50.21 ID:evCbY/gxo

「屋上さん」

「なに?」

「立ってるとパンツ見えそう」

「見えないから大丈夫」

「ねえ。スカートの下にハーフパンツとか履けば見えないよね。実は見て欲しいとか?」

「いっぺん氏ね」

「屋上さん、俺のこと嫌い?」

 なおとに言われたことを実践してみた。口に出してから、少し卑怯だったかもしれないと思う。

 屋上さんは少し困ったような顔をしてから、ためらいがちに口を開いた。

「別に嫌いじゃないけど、セクハラはうざい」

 案外、悪印象はなかったようだ。
 今後セクハラしないように気をつけよう、と思った。

「あ、今パンツ見えた」

「いっぺん氏ね」

 本能はいつだって俺の身体を支配してしまう。
 屋上さんと和やかな昼を過ごした。

88: 2011/07/25(月) 12:59:45.40 ID:evCbY/gxo

 放課後、部室に向かう途中で部長と遭遇した。
 
 部長とどうでもいい話をしながら部室へ向かう。

「部長は、進学ですか? 就職ですか?」

「進学です」

「大学ですか」

「大学です」

「なんていうか、進路の話をしてると、怖くなってくるんですよね。焦燥感?」

「分かります」

「たとえば、中三の夏休みくらいから、模試とか夏季講習とか受ける奴増えるじゃないですか」

「増えますね」

89: 2011/07/25(月) 13:00:24.85 ID:evCbY/gxo

「で、ずっと成績で負けたことなかった奴相手に、休み明けのテストでめちゃくちゃ引き離されたりして」

「そうなんですか?」

「そうなんです。夏休み中遊び倒してたから。あのときくらいの焦燥感ですね、進路の話をするときの心境っていうのは」

「よく分かりません」

 部長は真面目で堅実な中学時代を過ごしたのだろう。

「あとは、そうだな。将来のこと何も考えてなさそうな奴が、「建築関係の仕事につきたい」って立派な希望を持ってるって知ったときとか」

 サラマンダーがそう語ったとき、盛り上がるマエストロを横目に、俺はひとり硬直していた。

「あ、こいつもこんなこと考えてたんだ、っていう。俺なんも考えてないし、何もないや、っていう。分かります?」

「……分かる気がします」

「なんというか、置いてけぼりにされてく気分。こういうの、心細さっていうんですかね?」

 どうでもいい話はそこで途切れた。沈黙が徐々に空気を凍らせていった。
 部長は、部室につくまでずっと黙ったままだった。

91: 2011/07/25(月) 13:00:51.63 ID:evCbY/gxo

 部活を終えて家に帰ると、台所で妹が立ち尽くしていた。

「どうした?」

 良い兄っぽく訊ねる。

「……ご飯炊き忘れてた」

 数秒声が出なかった。天変地異の前触れか。

「ごめんなさい」

 しゅんと落ち込んだ妹に、罪悪感がこみ上げてくる。
 実際、家事を全面的に押し付けていたわけだし、今までミスがなかった方が不思議だったのだ。
 少しの失敗くらい誰でもする。主婦でもする。中学生で家事をこなせるだけでもすごいのに、完璧まで目指さなくてもいいのに。
 だのに、ちょっとのミスで妹はひどく落ち込む。 
 
 妹は落ち着かなさそうに自分のうなじを撫でながら目を伏せていた。

92: 2011/07/25(月) 13:01:44.81 ID:evCbY/gxo

「今日は外食にするか」

 誰でも思いつきそうな解決案を口にする。
 妹の顔は晴れなかった。

「俺が奢るから」

「ほんと?」

 冗談のつもりで言ったが、思ったとおりの答えは帰ってこなかった。

「むしろ、妹に払わせるつもりだったの?」

 ……という感じの答えを期待していたのだが。

 たったひとつのミスが、妹には致命的なダメージを与えるらしい。
 そんなに完璧を目指さなくてもいいのに。

 気負いすぎるのがうちの妹のダメな部分だ。
 それはいいところとも言えるのだけれど。

 兄としてはもうちょっと甘えて欲しいし、あんまり思いつめすぎないで欲しいし、たまには逆ギレしてもいいのに、と思う。

「ファミレスでいいか?」

 一番近場だし、という言葉はかろうじて飲み込む。安いし近いしそこそこ美味い。
 妹は小さく頷いた。

93: 2011/07/25(月) 13:02:17.50 ID:evCbY/gxo

 玄関を出て、二人肩を並べて歩く。まだ少し早い時間だが、あのまま家にいても落ち着かないだろう。
 なんだかアンニュイな雰囲気。

 歩きながら妹は、気のせいかと聞き逃しそうになるほど小さな声で謝った。
 何を謝ることがあるんだと言ってやりたかったが、そんなことを言っても妹は喜ばないし、いつもの調子を取り戻さないだろう。
 いいよ、と軽く答えた。なんとなく、自分の態度に苛立つ。何をえらそうにやってるんだ。おまえが家事をやれ。
 
 なんだって、わざわざ家事を引き受けてくれている妹がダメージを食らうことがあるのか。

 俺の態度が悪いのかも知れないな、とふと思った。
 文句のひとつでも言ってやれば、「じゃあアンタがやればいいでしょ!」と逆ギレしてくれるかも知れない。
 それはそれで、お互いストレスがたまりそうだ。
 良い兄であろうとするのも考え物かも知れない。基本的にはダメ兄なわけだし。

「家事、手伝ってほしいときは言ってくれていいから」

 一応、そう伝えておく。そっけなくならないように細心の注意を払って。
 別におまえの仕事に不満があるわけじゃないぞ、と言外に想いを込めて。

「……うん」

 落胆した様子のまま、妹は小さく頷いた。これ以上は何を言っても逆効果だろう。
 ちょっとくらいのミスがあっても、今の時点で充分すぎるくらいがんばっているのに。

 自分のいいところって、見えないのかもしれない。

94: 2011/07/25(月) 13:02:44.67 ID:evCbY/gxo

 一通りの家事をこなせるようになってから、妹は家事のすべてを自分ひとりでやりたがった。 
 最後には家事を仕込んだ側の俺が折れて、妹に全部を任せるようになったけれど、やっぱり分担は必要だったと思う。

 お互い、とるべき距離を測りかねているのかもしれない。

 両親は仕事で忙しくて、帰ってくるのはいつも夜遅くだから。
 俺たちがそこそこ成長したからか、最近ではろくに帰ってこないこともある。

 でもやっぱり、俺たちはまだ子供なのだ。

 どうしたものか。

 考えながら歩いていると、すぐにファミレスにつく。徒歩十分。奇跡的な立地。

「何名様で」

「二名です」

「禁煙席喫煙席ございますがどち」

「禁煙席で」

 日本人は相手の言葉を最後まで聞かずにかぶせるように返事をすることが多い。
 というか、見るからに学生なのに喫煙席を選択肢に入れるな。

95: 2011/07/25(月) 13:03:45.77 ID:evCbY/gxo

 禁煙席を見渡してから少し後悔する。平日の夕方は、学生たちで賑わっている。
 騒がしい。

 空いている席につく。ちょうど後ろに騒がしい集団がいた。どいつもこいつも茶髪。なんで染めるんだろう、と思う。
 お洒落感覚? ちょっと理解できない。明らかに似合ってないのに。派手な化粧も着飾った服もバッグだけシックなところとか。

 要するに見栄っ張りなのかも知れないな、と考えてから、自分が異様にイライラしていることに気付く。

 妹が心配そうにこちらを見ていた。
 それには反応せずに問いかける。

「何にする?」

 メニュー表を眺めながら、意識は別のところを飛んでいた。
 騒がしい場所に来ると、自分の存在が希薄になっていくような気がしてすごくいやなのだ。

 店員が水を持ってくる。テーブルの脇に置かれたそれに手を伸ばして口をつけた。水は好きだ。

 飲み込んだ瞬間、後ろの席でどっと笑い声が沸く。
 楽しそうで結構なことだ。

 メニューを決めて呼び出しボタンを押す。天井脇のパネルに赤いデジタル文字が点灯するのが位置的によく見えた。

96: 2011/07/25(月) 13:04:25.79 ID:evCbY/gxo

 注文を終えて溜息をつくと同時に、店内の雑音にまぎれて俺の耳に届く声があった。

「先輩?」

 脇を見ると中学時代の後輩がいた。妹が慌てて挨拶をする。俺の後輩であると同時に妹の先輩でもある。

「中学生がこんな時間まで何をしているのか」

 後輩は困ったように笑った。

「今から帰るとこス」

「五時のサイレンが鳴ったら帰るようにしろよ。誘拐されるぞ」

「いや先輩、このあたりサイレン聞こえないって」

「じゃあ携帯くらい見ればいい」

「鳴らない携帯なんて持ち歩かないし」

「鳴らないの?」

「やー、あの。先輩、あれだ。私ぼっち」

「ああ、だもんな、おまえ」

97: 2011/07/25(月) 13:05:18.34 ID:evCbY/gxo

 後輩の顔を見るのは卒業以来だった。特に付き合いがあったわけではないけど、見かけたら話す程度の仲。
 幼馴染を介して知り合ったのだが、仲が良くなってからはむしろ幼馴染より長い時間一緒にいたかもしれない。
 別に暗いわけでも話していて退屈というわけでもない。親しい人間が少ないのは、耳につけたイヤホンをなかなか外さないから話しかけづらいのだろう。
 
 それさえなければ友達なんて嫌というほどできるだろうに。
 孤立しているというわけではないようで、それならまぁ、好き好きかとも思えるのだけど。

「妹ちゃんとお食事ですか」

「デートっス」

「デートっスか」

「違います」

 妹があっさり否定する。あまりにも月並みなやりとりだ。

「ドリンクバーのクーポンあるけど。先輩使う?」

「いや、持ってるから」

 ですよね。後輩はからから笑った。ポケットからイヤホンを取り出してつける準備をする。

「んじゃ、私行くんで。また。じゃあね、妹ちゃん」

 後姿で妹の返事を受け取りながら、彼女はスタイリッシュに去っていった。

98: 2011/07/25(月) 13:05:46.08 ID:evCbY/gxo

「相変わらず、かっこいい先輩ですよね」

 と、妹が言う。

「スタイリッシュなんだ」

「スタイリッシュ」

 一瞬、妹は硬直した。これ以上ないというほど似合う言葉。あまりに似合いすぎるので、なんだか笑ってしまう。

「あいつ、趣味はベース」

「スタイリッシュだ」

 笑いながら妹が何度も頷く。ベースを弾く後輩の姿を想像するとあまりに似合う。

「インディーズのロックバンドとか超好き」

「スタイリッシュ」

 そもそもヘッドホンが似合う。肩までの短くてストレートな髪。整った顔立ち。それなのに少し小柄な体格。
 可愛く見える容姿なのに、鋭い雰囲気を持っていて、クールともかっこいいとも微妙に違う、スタイリッシュな感じを作っている。

「洋楽とかめっちゃ聴く。邦楽も嫌いじゃない。というか、ちっちゃい頃じいちゃんに演歌やらされてたんだって」

「意外……」

「だから歌が上手い」

「へえ……」

99: 2011/07/25(月) 13:06:13.15 ID:evCbY/gxo

 後輩の話をするとき、俺はやけに饒舌になった。たぶん、彼女のことが好きだからだろう。恋愛とは別に、人間として。
 俺が長々と続ける後輩の話に、妹は普通に感心していた。

 どこか大人のような雰囲気を持つ後輩。
 ザ・スタイリッシュ。やることなすことなんだかスタイリッシュ。やたら大人びている。そんな後輩。一緒にいると退屈しない。
 独特の空気を持っていて、同じ場所にいると俗世とは縁遠い場所にいる気分になる。
 
 あと、ときどき「森のくまさん」を鼻歌で歌う。スタイリッシュな表情で。からかっても照れない。手ごわい。
 甘いものが好きで、いつもポケットに忍ばせている。
 姉と妹がひとりずついる。面倒見がいい。頼られ体質。

「姉って何歳の?」

「たしか、俺と同い年だったはず」

「同じ学校かもね」

「ないない。そんな偶然ない。あったらおまえと結婚する」

「その冗談、意味分からないから」

 ひとしきり話題を消化しきった頃、愛想の悪いウェイトレスが注文した品を届けにきた。悪くない味だった。
 帰路の途中で、いつのまにかイライラがなくなっていたことに気付いた。
 
 後輩恐るべし。
 彼女の持つ謎の癒しパワーはいずれ軍用化されかねない。

100: 2011/07/25(月) 13:07:09.67 ID:evCbY/gxo

 家に帰ってからリビングのソファに座って妹と『2001年宇宙の旅』を鑑賞した。

 冒頭から意味不明の映画だ。なぜだか数十分間(ひょっとしたら数分かも知れないが、体感時間的には数十分間)猿の闘争を見せられる。
 やがて舞台は古代から現代を通り越し近未来へ。この時点で謎は深まるばかりだ。さっきの猿はなんだったのよ。
 話は静かに進んでいく。宇宙船(厳密には違うかも知れないが、素人から見るとそのようなもの)の中で音もなく進む話。
 やがて人類の月面基地へ。ちなみに舞台設定、時代背景の一切は説明されない。予備知識なしで見たらぽかんとすること請け合いだ。
 
 この映画のすごいところはいくつか挙げられる。

 全編を通して音による演出がほとんどないこと。台詞すらも極端に少ない。そのおかげで眠くなる。
 映像による演出が凝っていること。これそんなに必要か? というシーンにやたら長い尺を取っている。そのおかげで眠くなる。
 にもかかわらずSFファンには高い評価を得ていること。理解ができないので眠くなる。

 以前サラマンダーとマエストロに見てみろと薦めたことがある。DVDを貸した。翌日、変な顔で返された。子供には理解できない世界。俺も理解できない。

 正直に言うと、この映画を最後まで見れたことがなかった。

 今日こそは、と意気込んでみても、眠い。がんばってもラスト十分で眠ってしまう。
 妹は開始三十分で眠っていた。肩に頭が乗せられる。もやもやする。気分が。いろんな意味で。

101: 2011/07/25(月) 13:08:29.37 ID:evCbY/gxo

 仕方ないので眠気を振り払って身体を起こす。妹がぼんやりとした表情で何度もまばたきしていた。
 DVDを入れ替えて『バック・トゥー・ザ・フューチャー』をかける。
 テンポよく進む話。先が読めるのに面白い演出。ちょっとした感動と少しのせつなさ。少しだけブラックなラスト近くの展開。
 掻き鳴らされるギター。若さゆえの暴走。軽蔑。友情・努力・勝利。愛と未来への不安。まさに青春。
 
 でも妹は開始三十分で寝た。たぶん疲れているのだろう。
 
 スタッフロールを最後まで見ずにDVDをしまい、妹を起こした。

「風呂入らないのか?」

 紳士に訊ねる。

「……一緒に?」

「は?」

 なんか言ってる。

 なんばいいよっとねこの子は。

 思わず硬直した。

102: 2011/07/25(月) 13:09:03.91 ID:evCbY/gxo

 何拍かおいてから、妹は正常な意識を取り戻したようだった。

「待て。今のナシ。ナシだ」

 彼女の口調は唐突に荒くなった。二重の意味で硬直する。凍結の重ね掛け。

 お互い何も言えずに数秒が経過する。
 しばらくしてから、妹は何かをごまかそうとするみたいに口を開いた。

「……お風呂入ってくる」

「いってらっしゃい」

 仲がいいのも考え物だ。もう年頃だし。役得といえば役得だけれど。

 その後、風呂に入っていざ寝るかとベッドに潜り込んだ瞬間、期末テストが近いことを思い出した。

 ……勉強しとこう。

 ベッドから這い出て電灯をつける。カバンから筆記用具を取り出して机に向かった。

103: 2011/07/25(月) 13:09:35.19 ID:evCbY/gxo

「……めんどくせ」

 結局、教科書を一通り読み返すだけにした。何もしないよりはましだろう。
 飽きてきた頃に教科書を開きながらPSPの電源を入れた。三国志Ⅷをプレイする。
 強力な登録武将を大量に作成して新勢力で敵を圧倒した。

 飽きたのでお勧めシナリオの赤壁の戦いから諸葛亮を選択してプレイする。
 夏候淵に離間をかけ続けて内通、登用。都市ごと寝返らせて一気に三都市を制圧する。
 少しずつ軍を進めて勢力を拡大していくが、なかなか人口が思うように増えない。
 そうこうしているうちに夏候淵が曹操軍に都市ごと寝返る。太守変えとけばよかった。
 前線だからと前に押し出していた大量の兵が露と消える。なんてことをしやがる。

 むなしくなってやめた。

 ゲーム機の電源を落とすと同時に、まったくページの進んでいない教科書が机に載っていることに気付いて愕然とする。

 そんな馬鹿な。

 気付けば深夜二時。
 
 今までの時間はなんだったんだろう。どこに消えたんだろう。

 無性にやるせない気分になり、ベッドに潜り込んだ。
 寝てしまおう。明日、勉強しよう。

 夢は見なかった。

113: 2011/07/26(火) 11:29:34.25 ID:uNKTsPqKo

 翌朝、台所で洗い物をしていた妹から声をかけられる。

「今日、じいちゃんち行こうと思うんだけど」

 じいちゃんち。結構遠い。車で三十五分。母方の祖父の家と思えば結構近い。いずれにせよ田舎だ。俺たちが住んでいるところもだが。

「お呼ばれですか」
 
 家族が全員揃うことよりも、祖父母と食事をとることの方が多い。
 両親がなかなか帰ってこないので、気を遣ってくれているのだろうというのは分かる。
 妹も妹で、祖父母の家に行くのは嫌いではない(末の孫で、しかも女なのでやたら甘やかされる)。

「玉子が切れそうだったから頼んだら、晩御飯を食べにこないかと」

「迎えにくるの?」

 妹が頷く。

114: 2011/07/26(火) 11:31:04.15 ID:uNKTsPqKo

「一応、お兄ちゃんも行くかもって言っておいたけど」

「俺も行く」

 俺が行かないとなると、妹は俺の分だけ食事を作ってから祖父母の家に向かうだろう。
 そんな手間をかけさせるくらいなら、一緒に行ったほうがマシだ。

 というのは建前。孫たちと一緒に食事をするとき、祖父母の食卓は豪勢になる。

「じゃあ、早めに帰ってきて。夕方頃迎えに来るって行ってたから」

 短く頷いて、カバンを抱える。ちょうど皿洗いが終わったようだった。

115: 2011/07/26(火) 11:31:34.31 ID:uNKTsPqKo

「暑い」

 外はうだるような熱気だった。

「連日の猛暑で! 我々の体力は既に限界に達している!」

「暑いんだからあんまり騒がないでよ」

 クールに言われる。涼しい顔をしているようでも、妹だって頬には汗が滴っていた。

 学校に向かう途中で、サラマンダーと遭遇した。
 
 サラマンダーは不愉快そうに眉間を寄せて俺を睨んだ。何かを話そうとしている。
 やけに真剣な表情だ。俺には理解できないことを言おうとしているのかもしれない。

「しまぱんってあるだろ?」

 高尚な話だ。

116: 2011/07/26(火) 11:32:45.55 ID:uNKTsPqKo

「水色かピンクか、ずっと考えてたんだよ。最良なのはどちらかって」

 どっちも良いに決まってるだろ。
 とは口に出さず、サラマンダーの言葉の続きを待つ。

「緑っぽいのもあるな。まぁともかく、しまぱんで一番すばらしい色の組み合わせは何かと、考えていたんだよ。一晩中」

 寝ろよ。勉強しろよ。どちらを言おうか悩む。馬鹿なことに時間を使う奴だ。俺も人のことは言えないが。
 そんなことをしてるから淫夢を見るのだ。

「で、思ったのよ、俺」

「……何を?」

「黒と白。どうよ?」

 どうよと言われても、参考画像がないことには判断のしようがない。
 そもそも、それはしまぱんと言えるのか?
 サラマンダーと高尚な話題で盛り上がっていると、すぐに学校についた。画像に関してはあとでマエストロに要求してみよう。

117: 2011/07/26(火) 11:33:53.63 ID:uNKTsPqKo

 教室では、茶髪が下敷きで自分の顔を仰いでいた。

「化粧落ちる?」

「落ちるね。汗で」

 おんなのひとはたいへんです。
 睫毛に汗の丸い雫が乗っていた。すげえ。ひょっとして本物か?

 篭った熱気を逃がそうとしたのか、茶髪はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回した。
 見栄えも気にしなくなっている。大人のおねえさんはどこへ行ったのか。

「暑い!」

 暑かった。

「チロルチョコ食べる?」

 ポケットから差し出す。溶けてるけど。

「食べない。なぜこの暑い中でチョコなど食うか」

 そういえば、彼女は以前、夏は嫌いだと言っていた気がする。

「なんで?」

「暑いじゃん」

 そんな会話をいつだったか、交わした。じゃあ冬は? と訊ねてみたら、寒いじゃん、という答えが返ってくる。そういう奴。

 茶髪は気だるげに髪をかきあげる。その仕草が誰かに似ていた。

「茶髪、おまえ妹っていたりする?」

 まさかな、と思いながら確認。あの後輩の姉がこいつというわけはないだろう。

「いないけど」

 いないらしい。案の定といえばそうだが、肩透かしとも言えた。

118: 2011/07/26(火) 11:34:30.11 ID:uNKTsPqKo

 暑さにうなる茶髪を放置して自分の席に向かう。今日はマエストロがいなかった。
 
 オタメガネ三人組が教室の隅で大富豪に興じているのが目に入る。
 せっかくなので参加した。ここいらでは大富豪と呼ぶのが定型。革命返しはアリ、八切りもアリ、それ以外はなし。

 カードを配り終えてからジャンケンで一番最初に出す人間を決める。特に予備的な意味はない。

「童Oの力を見せてやる!」

 デュエルスタンバイ!

 結果は惨敗だった。

「……一番でかいのがジャックって」

 神様が俺を苛めたとしか思えない。
 それから、あと二枚で上がりってときにトリプルを連続で出し続ける奴はどういう教育を受けてるんだ。

「負けたよ、ほら。賞品のチロルチョコやるよ」

 一番に上がった佐藤に渡す。

「ヒキコモリの従妹にあげろ。な? 俺の名前ちゃんと伝えとけよ。会ってみたいって言っててくれる? すげえイケメンだよって」

「これ、溶けてるよチェリー」

「チェリーって言うな」

119: 2011/07/26(火) 11:35:00.34 ID:uNKTsPqKo

 佐藤は変な顔をしていた。それ以上何かを言ったら冗談ですまなくなりそうだったのでやめておく。
 そりゃあ自分の従妹をダシにされたら気分は悪いだろう。
 
 それも黒髪色白物静かくまぱん美少女なら。
 俺なら黒髪でなくてもかまわない。
 なんならハーフで色素の薄い栗色の髪をしていてもいい。よく考えるとプラス要素だった。
 とにかくちょっとくらい属性が変わっても可愛がられるタイプの従妹。
 そんな従妹が欲しかった。
 
「悪かったよ、冗談だ、佐藤。八つ当たりしただけだ。本気で受け取るなって。ごめんな」

 心底安堵したように、佐藤の顔から顔の引きつりが取れていった。
 これからは言っていい冗談と悪い冗談くらいは考えよう。相手を選ぼう。
 でも年下の従姉で童O卒業したのは許さないよ。

 なんとなく佐藤の態度に共感してしまった。今度から妹に関する相談はこいつにすることにしよう。
 マエストロもサラマンダーも男兄弟しかいないのでそのあたりは頼りにならなかった。

 オタメガネ三人組は、なぜか俺に対して一定の距離を置く。
 言葉遣いとかが、クラスメイトに対するそれじゃない。ひょっとして嫌われてるのだろうか。

 考えたらつらくなってきた。少人数でトランプやってるところに割り込んできて好き放題。溶けたチョコを押し付ける。他人の従妹をネタにする。

 俺最悪じゃね?

 いろんな場面で、口に出してから気付くことが多すぎる。
 考えなしなのか、必氏に会話を盛り上げて人の輪に入ろうとしているからなのか。

120: 2011/07/26(火) 11:35:42.74 ID:uNKTsPqKo
 
 なんというか、あれだよ。

 人がやってる大富豪に混じるのって、ほら。

 仲がいいと思ってた数人の友達が、土日に一緒に遊んでて、そのとき俺だけ声もかけられなかった、みたいな。
 親戚の集まりで、子供部屋に集められた子供たちが、全員、自分以外顔見知り、みたいな。
 普段五人で集まってた友人同士で、バンド組もうって話になって、俺だけ話に入れてもらえなかった、みたいな。

 そういう、ね。
 なんというか、ね。
 置いてけぼりの気持ち。

 静かに立ち上がって教室の出口に向かった。

「どこいくの?」

 人のいい佐藤はさっきのことをもう忘れたようだった。そう見えるだけで、内心不愉快に思ってはいるのかもしれない。
 こんなふうに後ろ向きに考えてしまうことも失礼にあたるかな。
 でもやっぱり考えてしまう。

 どうも、人の輪に、馴染めないんです。僕。

「お花摘み」

 短く答えると、三人組はそろって変な顔をしていた。

121: 2011/07/26(火) 11:37:14.63 ID:uNKTsPqKo

 トイレは階段の近くにあるので、登校してくる生徒たちの姿がすぐに見つかる。顔を洗ってからすぐに廊下に出た。
 
 先輩と幼馴染が、一緒に階段を登ってきたところに遭遇する。

 呆然とした。

 お前ら家の方向違うじゃん。
 今までこんなことなかったじゃん。
 校門で待ち合わせてたのか、メールで示し合わせてたのか。
 
 でもそんなことどうでもよかった。
 俺は幼馴染の彼氏じゃないし、先輩の友達でもない。

 楽しそうだな、と思った。少し頬を紅潮させて、笑っていた。
 なんだよこれ。

 危うく泣き出しそうになりかけたタイミング。
 幼馴染と目が合った。
 
 次の瞬間、その肩越しに部長の姿を見つけた。

 理由なんてなんでもよかった。

「部長!」

 部長に声をかけて彼女と一緒に上の階へと向かった。

122: 2011/07/26(火) 11:37:53.51 ID:uNKTsPqKo

「どうしたんですか?」

 部長は普段どおりの口調で俺に返事をしてくれた。穏やかな笑み。怪訝に思う様子もない。
 どうやら俺は泣いていないようだった。

「いえ、ただ見かけたので」

 そうですか、と部長は頷いた。部長についていく。ゆっくりとした歩調の彼女に合わせていると、後ろからさっきまで幼馴染と一緒にいた先輩が俺を追い越していった。
 何度も追い越しやがって、と思う。
 でも彼は悪い人じゃなかった。

 悪い人だったらよかったのに。

 女を食い物にするような悪人だったらよかったのに。
 それだったら、幼馴染を取り戻す大義名分ができたのに。
 
「ままならないな」

 ぼそりと呟く。
 部長にまで変な顔をされてしまった。

 ままならない。
 
 でも、しょうがないことだ。

123: 2011/07/26(火) 11:38:31.68 ID:uNKTsPqKo

 家に帰ったらギターでも弾こう、と不意に思った。
 
 そう考えてから、今晩の予定を思い出す。
 妹の顔を思い浮かべると、強張った表情が少しだけ緩んだ気がした。

「今日は、部活に来ますか?」

 教室に引き返しかけたとき、部長から尋ねられた。

「いや、今日は放課後、ちょっと予定があるので」

 うちの部活は水曜日以外は自由参加だ。
 
「そうですか」

 特に感慨もなさそうに、部長は頷いた。

 短く部長に挨拶して、階段を引き返す。教室に戻ると同時に、幼馴染と目があった。
 なぜだか、声をかけることができない。

 自分が嫌いになりそうだった。

124: 2011/07/26(火) 11:39:03.79 ID:uNKTsPqKo

 ――たまに小学生だった頃のことを思い出す。
 大半の記憶はおぼろげで、ろくに思い出すこともできないのに、ときどき、そのときの出来事を鮮明に思い出すことがある。

 小三くらいの頃だったろうか。恋の話が流行った。
 おまえ好きな人誰? おまえこそ誰だよ。そんな会話が何度も繰り返されて、みんなに聞いて回って女子に報告する奴もいた。
 報告する奴は、なんのつもりだったんだろう。遊びのつもりか、女子に媚を売っていたのか。
 小間使いにされている時点で、相手になんてされてないのに。それでも少し羨ましかった。

 小三の俺は生意気な子供だった。恋だの愛だの馬鹿じゃねーの、とまでは行かないが、そういう話からは距離を置いていた。
 なんとなく、自分には過ぎたことのように思えたから。

 でも追い掛け回された。
 小間使いに、好きな人言えよ、誰なんだよ、って。
 くすぐられながら「言わないよ!」って答えたら、「言わないってことはいるんだな?」と問い返される。
 とても困る。
 
 呼吸が苦しくなるほど笑いながら、教室から廊下から校舎中を逃げ回る。休み時間がなくなるまで。
 授業が始まったら席について、授業が終わったらまた追いかけっこ。

 逃げ回ってるとだんだん疲れてくる。
 どっかに隠れるか、と思う。

 図書室のカウンターの中。
 他の学年の教室。
 トイレ、は汚いから嫌だった。
 
 最終的には、自分たちの教室の給食台の下に隠れた。
 どう考えてもすぐに見つかる。

125: 2011/07/26(火) 11:39:30.69 ID:uNKTsPqKo

 子供だから、ばれないと思った。

 で、見つかる。小間使いに。
 
 でも、教室にいた女子には見つからなかった。俺にとっては幸運なことに。

 女子は隠れる俺に気付かずに給食台の脇を通過する。
 その日、スカートだった。

 ぱんつみえた。

 黒かった。

 俺のフェチ的原体験。俺が窃視的な画像に興奮を覚えるのはこのときの体験に起因していると見た。

 なぜこんなことを思い返しているのだろう。

 小間使いの、「あ、おまえスカートの中覗いただろ!」という声が教室に響く。
「ち、ちがうよ!」と俺は悲鳴に近い声をあげる。

 なんだか、そんなこともあったなぁ、とふと思った。
 ほほえましい過去。笑い話。
 あのときから幼馴染は、学校にスカートを履いてこなくなったのだ。

『……童O、なの?』

 ……なにがあろうと、あいつのぱんつを初めてみた男は多分俺だ。父親除く。

 ふへへ。

 くだらない。
 でも、ちょっと笑えそうだ。

126: 2011/07/26(火) 11:40:23.22 ID:uNKTsPqKo

 とりあえず、元気出せ俺。
 何も世界が終わるわけじゃない。
 
 ぱんつが見れなくなるわけでもなし。 

「そう思うよね?」

「何の話?」

 屋上さんはきょとんとしながらミックスサンドをかじっていた。なんでツナサンドを食べないのだろう。

「童Oこじらせると、ちょっとのことで鬱になっちゃって」

「……急に、なに。どう……ああもう。そんなこと言われても困る」

「屋上さんを困らせたくて」

「いっぺん氏ねば」

 屋上さんはとても辛辣です。

「まぁとにかく」

 彼女は今日も今日とてフェンスの向こうを眺めている。

127: 2011/07/26(火) 11:41:33.12 ID:uNKTsPqKo

「元気出しなよ。落ち込んでてもろくなことないし」

 そんなに落ち込んでいるように見えるのだろうか。屋上さんに慰められるとは思ってもみなかった。
 
「だから、そんなふうに励まされると惚れてしまう」

「惚れっぽいね」

「惚れっぽいんだ」

 屋上さんはもさもさとサンドウィッチをかじる。俺は弁当を箸でつつく。
 並んでいるのに遠い気がする。距離がある。なぜだろう。
 
 沈黙が降りた。あ、会話終わっちゃう、と思う。なんか言わなきゃ。
 とりあえず、

「惚れてまうやろー」

 人のネタを借りた。
 屋上さんはクスリともしなかった。

 ……俺にどうしろっていうんだ。

128: 2011/07/26(火) 11:41:59.66 ID:uNKTsPqKo

 放課後、教室から出るときに担任に呼び出された。
 ちびっこは俺を手招きして教壇へと召還する。
 リトルサモナー。ファンタジーゲームなら人気の出そうな立ち位置。口リキャラだし。

「おまえ、これ昨日忘れていっただろ」

 薄い本を手渡される。

「……おお」

 忘れてた。
 父まで売ったのだから、手に入れておかなければなるまい。

「私も忘れてたんだけどさ」

 だろうと思った。ちびっこ担任に「さようならー」と小学生的な挨拶をして教室を出る。
 誰かと会わないかな、と思いながら歩いていたら、誰とも会わずに校門を出てしまった。

 顔見知りが少ないって損だ。

129: 2011/07/26(火) 11:42:42.97 ID:uNKTsPqKo

 家につく。妹は既に帰宅していて、私服に着替えていた。
 慌てて俺も着替えるが、実際に祖父が迎えにきたのはその一時間後だった。
 
 車に揺られて祖父の家につく。祖父は女にめっぽう甘いが、男には厳しい。立派であってほしいとかなんとか。そういうものかもしれない。
 
 祖父母の家につく。犬の'はな'が吼える。おーよしよし。
 噛まれる。俺が嫌いか。

 玄関から入ってすぐに、独特の匂いがする。ザ・祖父母の家、という匂い。だいたいの人にはこれで伝わる。
 和風の居間。家具は大体が古いが、テレビとテレビ台だけがいやに新しい。

 じいちゃんは上座で何かの小物を弄っていた。腕時計。壊れたものを修理しているのだろう。物持ちのいい人なのだ。
 
 もう料理は並びはじめていた。台所の方から包丁の音が聞こえる。ザ・おばあちゃん、という気配。
 腰を下ろして周囲を見回す。何年も前から変わらない。
 
 俺はテレビの近くへと向かった。テレビ台の中に映画のDVDが収納されている(千円くらいで安売りされてる奴が多い)。
 結構な量があるので、なかなか全部は見切れない。

「これ借りて良い?」

 じいちゃんに訊くと渋られるので、食器を準備していたばあちゃんに訊く。

「いいんじゃない?」

 ばあちゃんも適当な人だ。

130: 2011/07/26(火) 11:43:28.11 ID:uNKTsPqKo
 時計に集中していたじいちゃんが顔を上げる。

「ああ、好きなの持ってけ」

 ときどき、じいちゃんはすべてのDVDを一気に渡そうとしてくる。さすがにそれは無茶だ。

「インデペンデンス・デイ」と「ターミナル」のふたつを借りていくことにした。なぜか洋画が多い。

 食卓には刺身が並んでいた。
 マグロ。サーモン。タコ。カツオのたたき。

 好物。
 食事を堪能したあと、帰りの車の中で妹は眠っていた。そもそも寝るのが好きな奴なのだ。
 玉子を膝に抱えたまま、やっぱり来てよかったな、とほくそえむ。美味いものは正義。

 家について、祖父の車を見送ってから、ひとまず妹をリビングのソファに寝かせて「ターミナル」をかけた。

 妹は終わるまでずっと寝ていたが、俺はひたすらに感動していた。

 泣いた。
 こんな映画を撮りたい、と真剣に思った。

 リビングの引き出しにしまっておいた家族共用のビデオカメラを取り出す。
 
 俺は映画監督になる。
 とりあえず試しにビデオを起動して妹の寝顔を撮影した。かわいい。

 ……変態っぽい。

 やめようかな、と思ったところで、運悪く妹が目を覚ます。
 
 ――ビデオカメラを構える兄。寝顔を撮影される妹。
 誤解とは言いにくい状況。

 妹は絶対零度の視線を俺に向けてから何も言わず部屋に戻っていった。
 何やってるんだろう、俺。

131: 2011/07/26(火) 11:45:08.56 ID:uNKTsPqKo

 その日の夜、俺は変な夢を見た。

 夢の中で、俺とサラマンダーとマエストロはファミレスにたむろしていた。 
 男三人、夏の暑さを屋内の冷房でごまかすため、ドリンクバーだけで何時間も粘る。

 と、逆ナンされた。

 女は三人組で、それぞれ独特の可愛さを持っている。ちなみに配役は、幼馴染、妹、茶髪が担当していた。

 向かい合って一緒の席に座る。マエストロが調子に乗って財布の紐を緩め、「好きなだけ食べていいよ!」と言った。
「じゃあ私フライドポテト!」という俺の声を、マエストロは黙頃する。

 マエストロは妹に目をつけた。夢の中では妹は俺の妹ではなく、ごく普通の赤の他人になっていた。
 彼女はマエストロの「俺が作った工O小説、芥川賞とっちゃってさぁ」という自慢話を「えー、そうなんですかー」と笑いながら聞いている。
 仕方ないので茶髪の方に目を向けると、彼女はサラマンダーに肩をもませていた。
 席の仕切りが邪魔になって肩を揉むのは困難なはずだが、サラマンダーは簡単そうに彼女の指示に従っている。

 最後に残った幼馴染と目が合う。すぐそらされた。なぜ?
 彼女は悲しそうに目を伏せてから、俺にこう語った。

「私、身長、一七○センチ以下の人とはお付き合いできないんです」

 俺の身長は一六七センチだ。

 そうこうしているうちに、俺より遥かに身長の高い男が他の席から現れて彼女をさらう。

「ああ、待って! あと一年待って!」

 悲壮な声で叫ぶが、届かない。気付けば他の二組も、どこかにいなくなっていた。

132: 2011/07/26(火) 11:45:39.47 ID:uNKTsPqKo
 薄暗い店内にひとり取り残された俺は、フライドポテトを齧りながら周囲に目を向ける。使用済みの皿が山積みになった自分たちの席。
 俺が口にしたのはフライドポテトだけだった。どことなく物悲しい気持ちのままフライドポテトを食べ続ける。
 いくら食べてもぜんぜん減らない。いやになって、そろそろ店を出ようかと思ったとき、財布を忘れていたことに気付いた。

 これじゃあ、いつまで経っても店を出ることができない。困った。俺はポテトを食べ続けるしかない。

 ときどきサラマンダーが、炭酸系のジュースをことごとく混ぜ合わせたミックスジュースを俺に渡しに来た。
 それがとんでもなくまずいのだが、なぜだか俺は飲み干さなければならなかった。

 それ以外は、どこかで見たような顔が店内で馬鹿騒ぎしているだけで、誰も俺には話しかけない。

 またこれだ。
 取り残されていく。
 置いてけぼりの気持ち。

 ふと気付くと、隣の席には部長が座っていた。

「どうしたんですか?」

 そんなふうに、彼女は俺を見つめる。

 席の脇の通路には、後輩が立っていた。

「デートっスか」

 そんなふうに、彼女は俺を見下ろす。

 なんだかなぁ、という気分になった。

133: 2011/07/26(火) 11:46:46.87 ID:uNKTsPqKo

 俺はふたりに返事をせずにフライドポテトを食べ続ける。だんだん胃がもたれてきて、具合が悪くなる。
 でも、トイレの近くでは大勢の人間が踊りを踊っていて、あと何時間か待たないといなくなってくれないのだ。

「元気だしなよ」

 不意に、他の雑音がすべて消えて、屋上さんの声が響き渡った。

 いつのまにか、店内には彼女と俺のふたりきりになっていた。
 屋上さんは、現実ではみたことのないような綺麗な笑みをたたえて、俺の目の前の席に腰掛けていた。
 彼女はしずかに、首をかしげて笑った。

「ね」
 
 ――なぜか、

 その瞬間、店内が正常な明るさを取り戻した。
 屋上さんは笑顔を打ち消してから立ち上がった。さりげなく伝票を手に取る。止めようとしたけれど、俺は財布を持っていなかった。

 レジにいた店員が何かを言った。
「お会計」までは聞き取れるが、そのあとの金額の部分はまるで聞き取れなかった。想像を絶する金額だったのかもしれない。

 店を出てから、屋上さんは飲み屋を出たよっぱらいみたいに夜空を見上げた。

 星が綺麗な夜だった。

134: 2011/07/26(火) 11:47:17.68 ID:uNKTsPqKo

「ねえ、キスしようか」

 不意に彼女は言う。

 俺はひどく戸惑った。しようか、なら迷わなかった。でも、キス、だとダメなのだ。童Oだから。

 なんて、好きでもない女とでもできる。童Oだから分からないけど。でも、キスはダメなのだ。それはとても重要なこと。
 子供っぽいな、と自分でも思う。

「私のこと好きじゃないの?」

 ――分からない。

「そっか」

 屋上さんは呆れたような表情をした。

 俺は何かを言おうとしたが、けっきょく何も言うことができずに押し黙る。

 最後に、誰かの表情が頭の隅を過ぎった。
 それまでに遭遇した誰かであることは疑いようもないのに、それが誰なのか、まるで分からない。

 たぶん、その女の子は――。
 
 ……そこで、夢は途切れる。

135: 2011/07/26(火) 11:47:59.78 ID:uNKTsPqKo

 目を覚ますと深夜三時だった。俺は風呂に入らずにベッドに倒れこんだことを思い出して起き上がる。お肌が荒れてしまうわ。
 シャワーを浴びて目を覚ます。歯を磨いて顔を洗う。
 もうこのまま起きていようか、とも思ったが、明日(というより今日)に響きそうなのでやめておいた。
 
 変な夢を見たことだけは覚えていたが、内容はちらりとも思い出せなかった。
 
 眠れなかったので、リビングに下りて「インデペンデンス・デイ」を鑑賞した。
 見終わる頃には朝だった。

 俺は何をやってるんだろう。

 もう考え事にふけるのはやめよう。
 期末も近い。明日からは普段どおりに過ごそう。
 
 手始めに、マエストロに嫌がらせのメールを送ることにした。

「ツインテールとツーサイドアップってどっちがかわいいと思う?」

136: 2011/07/26(火) 11:48:27.63 ID:uNKTsPqKo

 返信はすぐにきた。

 添付ファイルを開くと同時に、思わずのけぞる。
 ウルトラ怪獣ツインテールの画像が添付されていた。

 ふざけんなしね。びびったわ。

 三十分ほど仮眠をとってから、ベッドから起き上がった。

 六時を過ぎたころ、マエストロからもう一通メールが来た。

 黒髪ツーサイドアップの美少女が、笑顔でスカートを翻して、お尻をこちらに向けていた。ちょっとリアルな等身と塗り。
 白黒しまぱん。

 アリだ。

151: 2011/07/27(水) 13:37:23.79 ID:h5xVrpm/o

 朝、歯を磨きながら、バイトでもするか、と思った。
 夏休みまであとちょっと。来週からテスト前で部活動休止。どうせ原付の免許も取りに行くつもりだったし、ちょっと遠めのところがいい。
 やるならコンビニ。涼しいし、仕事が楽らしいし、時給は安いが、金が入ればとりあえずはかまわない。
 
 できれば顔見知りのいないところがいい。今度探してみよう。
 
 時間になってから玄関を出る。
 
「今日も暑いねえ」

 おじいさんっぽく妹に語りかけてみた。
 妹はごく普通に返事をした。

「そうだね」

 一日がはじまった。

152: 2011/07/27(水) 13:37:52.86 ID:h5xVrpm/o

 校門近くで部長に遭遇する。なぜだか茶髪と一緒だった。
 真面目な部長×不真面目な茶髪=混ぜるな危険。

 のはずが、ずいぶんと和やかに会話をしていた。

「地区一緒で、昔から顔見知りなんだよ」

 茶髪が言う。部長も小さく頷いた。まじかよ。強い疎外感。
 仕方ないので強引に話題に加わることにした。

「なあ茶髪、テスト勉強してる? 俺ぜんぜんしてないんだけど」

「そういうふうに言う奴に限ってきっちり勉強してるんだよな」

 見透かされていた。
 でもやってることなんてせいぜい教科書を流し見るくらい。

「ちゃんと勉強しておいたほういいですよ」

 部長が大真面目に言う。

「イエスサー」

 大真面目に返事をする。
 部長はちょっと呆れていた。

153: 2011/07/27(水) 13:38:31.74 ID:h5xVrpm/o
 教室につくと、サラマンダーが携帯と睨めっこをしていた。
 彼は俺に気付くと、にやにやしながら携帯の画面を見せつけてきた。

 今朝、マエストロから送られてきたツーサイドアップ画像。

「白黒しまぱん、悪くねえだろ」

 ツーサイドアップも悪くないだろ。ドヤ顔。

 席についたとき、幼馴染と目が合った。ばつの悪そうな顔をしている。 
 あえて無視するわけではないが、話すことがあるわけでもない。

 とりあえず俺は佐藤に声をかけた。

「給食着ってあるじゃん」

 妹の中学校は給食なので、当然、給食当番がいる。

「あるね」

 佐藤は不思議そうな顔をしながらも頷いた。

154: 2011/07/27(水) 13:38:57.77 ID:h5xVrpm/o

「今日、金曜日じゃん」

「そうだね」

「うちの妹、今週、給食当番だったみたいなんだよ」

「なんで妹のクラスの給食事情を知ってるんだよ……」

 佐藤は呆れていた。態度にちょっと余裕がある。非童Oの余裕。悔しい。

「で、俺はどうすればいい? やっぱ匂いとか嗅いどくべき? 兄として」

「やめといた方がいいんじゃないかな……」

 やめておくことにした。そもそも冗談だけど。
 実際、他の人も使うものだしね。うん。

 逆に考えると、別の生徒の兄が妹が使った給食着の匂いを嗅いでいるのかもしれないのだ。
 胃がむかむかしてくる。

155: 2011/07/27(水) 13:39:36.34 ID:h5xVrpm/o

 馬鹿な思考を終わらせたとき、誰かが俺の制服の裾を引っ張った。くいくい。

「ちょっといいかな?」

 幼馴染だった。

 呼ばれて廊下に出る。俺がついてくるのを確認すると、彼女は周囲に気を配りながら歩き始めた。

「あのね、実は……その」

 そこまで言ってから、幼馴染は何かに遠慮するみたいに言葉を詰まらせた。
 
 沈黙の中で俺の妄想ゲージがフルスロットル。

『実は先輩とは遊びで、あなたのことが好きなの』

 キャラじゃない。

『先輩、へたなの!』

 キャラじゃない。聞かされてもうれしくない。
 どう妄想しても先輩を貶める方向に話が進む。俺って嫌な奴。

156: 2011/07/27(水) 13:40:01.52 ID:h5xVrpm/o

 妄想で時間を潰している間も、幼馴染は押し黙ったままだった。
 何かあったんだろうか、と少し心配になったところで、幼馴染が口を開く。
 同時に、その背中に声がかけられた。

 例の、幼馴染の彼氏。と、その友人と思しき男女三名。
 幼馴染は居心地悪そうに視線をあちこちにさまよわせた。

 そうこうしているうちに、先輩たちが幼馴染の名前を呼んだ。

「ごめん。ちょっといってくるね」

 気まずそうに目を伏せて、彼女は先輩たちに駆け寄っていった。
 何を言いたかったんだろう?

 気付けば、例の彼氏のうしろに並んでいた三人のうちの一人が、俺を睨んでいた。
 ……シリアスな感じがする。

 そのあと、始業の鐘が鳴るまで幼馴染は戻ってこなかった。

157: 2011/07/27(水) 13:40:33.26 ID:h5xVrpm/o

 休み時間、ふと気になってキンピラくんに話しかける。

「キンピラくんって童Oじゃないの?」

「氏ね」

 キンピラくんはとてもフレンドリーだ。

「クラスメイトとして知っておきたいじゃん?」

 俺は彼が童Oと踏んでいた。なんか仕草から童Oっぽさが滲み出てる。かっこいいけど。
 なんだろう。童Oだけど不良、的な空気。

「童Oじゃねえよ」

 キンピラくんは不愉快そうに続けた。

「仲間が欲しくて必氏だな、チェリー」

 せせら笑うキンピラくん。
 見下されてる感じ。
 ぶっちゃけ、キンピラくんの不良っぽい態度はあんまり怖くない。マスコット的ですらある。
 デフォルメされたチビキャラが煙草吸ってるような雰囲気。

158: 2011/07/27(水) 13:41:22.52 ID:h5xVrpm/o

「そっかそっか。キンピラくんは大人だったのか」

 適当に返事をする。

「おまえ信じてないだろ」

 彼は語気を荒げた。

「信じてる信じてる」

 軽口を叩く。彼は毒気を抜かれたように溜め息をついた。

「で、相手は誰だったの?」

「……俺、おまえのそういうところすげえ嫌いだわ」

 キンピラくんに嫌われた。
 クラスにはまだ童Oが隠れていそうだ。
 あんまりいじくりまわすのも可哀相なので、そこそこで切り上げる。

159: 2011/07/27(水) 13:41:58.95 ID:h5xVrpm/o

 昼休みに、屋上で屋上さんと話をする。
 屋上で屋上さんと話をする。奇妙な語感。

 屋上さんはツナサンドをかじりながら言った。

「好き」

「は?」

 深く動揺する俺をよそに、彼女は俺の胸の中に飛び込んできた。「ぽすん」と漫画みたいな音がする。

 なんだこれ。
 なんだこれ。

 エマージェンシー。

「私のこと、嫌い?」

 屋上さんが俺の顔を見上げる。美少女。

「嫌いじゃないけど」

 思わず目をそらす。どこからかいい匂い。柔らかな感触。
 彼女は俺の背に腕を回してぎゅっと力を込めた。
 胸が当たる。
 なんだこれ。

「じゃあ好き?」

「好きっていえば……好きだけど」

160: 2011/07/27(水) 13:42:25.79 ID:h5xVrpm/o

「じゃあ好きって言ってよ」

「ええー?」

 どう答えろというのだろう。

「四六時中も好きって言ってよ!」

 サザンっぽい要求をされた。

 どうしよう。

「あ……」

 脳が混乱している。甘い匂いに脳を侵される。どうしろっていうのよ? 頭の中で誰かが言った。やっちまえよ。頭の中のなおとが言った。

「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好きだ」

 消費者金融っぽい雰囲気の返事をした。

 そこで、チャイムが鳴った。

「はい、授業終わり」

 夢だった。

161: 2011/07/27(水) 13:43:03.78 ID:h5xVrpm/o

 せっかくだし、正夢になるかもしれないので屋上に向かう。
 屋上さんは今日も今日とてサンドウィッチをかじっていた。ツナサンド。正夢。

「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好きだ」

「は?」

 何を胡乱なことを言い始めとるんだこいつは、みたいな目で睨まれた。
 目は口ほどにものを言う。

「何寝言いってるの?」

 確かに、夢の中で言った台詞をそのまま繰り返しただけなので、寝言であってる。

「現実って厳しい」

「なんで落ち込むの?」

「いや、しばらく放っておいて欲しい」

 正夢なんてものを信じるなんて、俺はよっぽど恋愛的なサムシングに飢えていたらしい。

 屋上さんと雑談しながら昼食をとった。

162: 2011/07/27(水) 13:43:57.87 ID:h5xVrpm/o

 放課後、部活に行くかどうかを机に座って悩んでいると、ふと天啓を受けた。

「図書室に行くべし」

 その声は神秘的な響きを持って俺の脳を甘く溶かした。
 図書室。素敵な響き。文学少女。無口不思議系後輩。髪色は青か? 悩みどころだ。

 そんなわけで図書室に向かった。

 来なきゃよかった。
 天啓なんてものを信じるなんて、俺はよっぽど運命的なサムシングに飢えていたらしい。

「あれ。君は確か……」

 幼馴染の彼氏がいた。
 
「……ども」

 ふてぶてしい感じに挨拶をした。生意気な後輩っぽさを滲ませるのがポイントだ。目を合わせないで唇を突き出すとそれっぽくなる。

「君、あの子の友達だったよね」

 幼馴染のことだろう、と考えて、違和感を抱く。

『あの子』。

 ――なんだろう、この違和感。
 胸の内側がぞわぞわする。
 何かを見逃している感じ。

 俺を睨む先輩。何かを言いそびれた幼馴染。それに、この人の態度。
 なにかがおかしい。

164: 2011/07/27(水) 13:44:25.68 ID:h5xVrpm/o

 黙りこんだ俺を不審に思ったのか、先輩が怪訝そうに眉根を寄せた。

「どうしたの?」

「いえ……」

 そもそも、どうしてこの人は俺のことを知っていたんだろう。
 幼馴染といつも一緒にいたから?
 
 知っていてもおかしくはない、けれど――何か、不安が胸のうちで燻った。
 
「先輩、幼馴染と付き合ってるんですよね?」

 本人に直接きいたことがなかったと思い、訊ねてみる。

「ああ、……うん。まぁ」

 彼は気のない返事をした。
 ――なんだ? この反応。

 答えにくいことを訊かれたように、先輩は頭を掻いた。

「まぁ、いろいろあってね」

 彼の態度があからさまにおかしいのか、それとも、俺が先輩に先入観を持っているせいで、粗探しをしようとしているのか。
 分からないけれど、何かがあるように思える。

165: 2011/07/27(水) 13:45:36.31 ID:h5xVrpm/o

「君には悪いと思ったけど」

「どういう意味です?」

「どういう意味って……」

 言ってから、先輩は何かに気付いたように口を覆った。怪しすぎるだろこの人。

「いや……君は彼女が好きなんじゃないかと思ってたから」

 ――この態度。
 
 なぜ、会ったこともないような後輩の恋心を気にかける必要がある?
 たとえば俺は、もし幼馴染と付き合うことになったって、幼馴染を好きだったかもしれない先輩のことなんて気にもかけないだろう。
 それなのに彼の態度はなんだろう。

 まるで、俺がいることを見越した上で幼馴染と付き合い始めたと言うような。

 でも――ただ好きなだけなら、なぜ俺がいることを気にかける必要がある?
 俺が彼女を好きだったかもしれないと思うなら、幼馴染の方に確認をとるだけでいいはずだ。

166: 2011/07/27(水) 13:46:03.52 ID:h5xVrpm/o

 先輩は落ちつかないように頬を掻いた。

 悪い人じゃない。そう思う。だから、幼馴染に対して何かをするというのではないのだろう。
 でも彼は、悪い人じゃない代わりに、自分の意志が強いというわけでもないのだろう。ヘタレっぽいのは見れば分かる。
 
 誰かが、何かをしているのか?

 正々堂々と告白して付き合いはじめたなら、なぜ「悪い」と思う必要があるのだろう。
 付き合い始めたなら、「彼の彼女」であって、「俺の幼馴染」ではなくなる。

 なぜ、幼馴染を横取りしたような言い方をするんだ?

 ――後ろめたい手を使ったから?

 考えて、自分の妄想だけが先走っていることに気付く。ただ話したことのない後輩を相手に緊張しているだけかもしれない。
 何もおかしなところなんてない。そうだ。

 ――君には悪いと思ったけど。

 馬鹿馬鹿しい。何を考えているんだろう。幼馴染に執着しているから、彼が悪いように見えるだけだ。
 俺はいまだに、彼が生粋の悪人で、幼馴染が彼にだまされているだけ、という展開を期待しているにすぎない。
 だから、彼が何かを企んでいるように見えるのだ。馬鹿な考えはやめろ。

 でも――この胸騒ぎ。なんだろう。何かが変だ。

167: 2011/07/27(水) 13:46:33.35 ID:h5xVrpm/o

 先輩が人のよさそうな表情で俺を見る。その顔は本物だろう。彼は善人だ。――俺の見る目が正しければ。
 彼が善人だとして、どんなパターンがあるだろう。
 幼馴染が何かを言いたげにして、先輩の友人が俺を睨んで、先輩の様子がおかしいという状況は。

 ――俺を睨んだ先輩。

 幼馴染の話を聞いてみるべきかもしれない。

「そういえば、先輩。サッカー部はどうしたんですか?」

 彼は安堵したように溜息をついて、俺の質問に答える。

「テスト前だから休みだよ。今日から」

「ああ、そういえば」

 ちびっ子担任がそのようなことを言っていた。
 教室で悩んでいたとき、部室にいけ、という天啓がなかったことに心底安心する。危なく赤っ恥だ。

 ひょっとして、昨日が最後だったから、部長は俺に部活に出るかどうかを訊ねたんだろうか。

 俺がこれからどうしようかと考えていると、誰かが先輩に話しかけた。

168: 2011/07/27(水) 13:47:52.15 ID:h5xVrpm/o

 その顔を見て、また胸中で何かが疼いた。
 今朝、俺を睨んでいた女子の先輩だ。

 彼女は先輩の肩に手を置いて笑いかけたあと、俺の存在に気付いて顔をしかめた。
 あからさまに、邪魔者を見るような目。

「アンタ、ちょっと来て」

 彼女は俺の手を掴んで図書室の外へと誘導した。うしろから戸惑ったような先輩の声が聞こえた。

 彼女は図書室を出てすぐのところにある階段を下りて、誰もいない二年の廊下に俺を導いた。
 教室からは話し声が聞こえるけれど、ほとんどの生徒は既に帰っているか、他の場所にいるのだろう。

「アンタ、なんのつもり?」

「なんのつもり、と言われても」

 今朝からずっと思っていたが、この人は何かを誤解している。
 朝は幼馴染から話しかけてきたのだし、さっきは先輩から声をかけてきた。俺が何か行動を起こしているわけではない。

169: 2011/07/27(水) 13:48:18.29 ID:h5xVrpm/o

「何でアイツらの周りウロチョロしてるわけ?」

「どういう意味ですか?」

 女の先輩(面倒なので以下メデューサと呼称。目が異様にでかい。マスカラすごい)は俺を見下すように溜息をついた。
 
「とぼけなくても分かってるから。アイツの彼女に未練あるんでしょ?」

 幼馴染のことだろう。

「言っちゃ悪いけどさ、アンタ、振られたんだよ。ぶっちゃけ、未練がましくて気持ち悪い」

 メデューサの発言は続く。俺は彼女が言いたいことを言い終わるまで待つことにした。
 それにしても――彼女は何をそんなに焦っているのだろう。

「アイツになんか言いがかりでもつけてたわけ? 言っとくけど、あの二人、ホントに付き合ってるから」

 言われなくてもそうだと思っていたし、振られたとも思っていた。
 ――メデューサがそんな発言をしなければ、疑うこともなかっただろう。

170: 2011/07/27(水) 13:48:47.36 ID:h5xVrpm/o

「それとも、どっかでなんかの噂でも聞いたわけ? 無責任な噂を信じるとか、馬鹿じゃないの?」

 それはつまり、何かの噂が流れる余地があるという意味だろうか。
 揚げ足を取るような思考。冷静になれ、と胸中で呟いた。それにしても一方的な人だ。

「あの二人の恋路、邪魔しないでくれる? アンタみたいなのにケチつけられたら可哀相だからさ」

 ――何を、こんなに恐れているんだろう。彼女は何かが露呈することを恐れている。それは確実だ。
 確証はないけれど、ひょっとしたら、と思うと自然に考えが進んでいく。

「アンタみたいに見てるだけで恋してるみたいな気分になってる奴が一番イタいんだよ。もう二度と二人に近寄んな」

 メデューサは、最後にそれだけ言い残して去っていった。

 俺は彼女の言葉を踏まえて、改めて思考を組み立てなおした。

 ――言いがかり、噂、「ホントに付き合ってる」。

 それを、なぜメデューサが言うのか?
 わざわざ「本当に付き合っている」と強調したということは、裏を返せば――。

171: 2011/07/27(水) 13:49:29.74 ID:h5xVrpm/o

 家に帰ってから、机に向かってテスト勉強を始める。
 といっても、教科書を眺めるだけだ。またPSPを起動する。いやになってすぐにやめた。

 携帯を開いてディスプレイの時計を確認する。五時。まだ早い。
 本当は今すぐにでも電話をかけたかったけれど、まだ出先かもしれない。
 それを思うと夜まで待つべきのように思える。
 
 気持ちを落ち着かせなければ。飲み物を求めて台所に行く。妹が料理の準備を始めていた。

 冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。冷たさが喉を通って身体を伝っていく。緊張は解けなかった。

 電話の発明は相手の家まで行く手間を解消してくれたが、インターホンを押すのに必要な勇気までは肩代わりしてくれない。
 呼び出しボタンに指をあわせると心臓の鼓動が強まるのがその証拠だ。

 六時になる頃に妹が夕飯の準備を終えた。ひさびさに、母の帰りが早かった。何週間か振りに一緒に食事を取る。
 食事の量は足りる。妹はいつも、少し人数が増えても足りるくらいの量を作るからだ。
 妹の気持ちはよく分かっていたから、俺も二人分には多すぎる量を黙って食べた。それがいつも。

 ときどき、母か父かのどちらかと食事が一緒になると、妹はすごく喜ぶ。目に見えて上機嫌になる。
 大抵、帰ってきたとしても、そのときには俺たちが食べ終えているから。
 上機嫌になったあと、両方そろえばいいのに、と考えて、また落ち込む。見てれば分かる。

172: 2011/07/27(水) 13:50:02.04 ID:h5xVrpm/o

 母は妹の料理をべた褒めした。学校での様子を聞いた。
 仕事の方が忙しくて、と寂しそうに呟いた。俺も妹もそんなことは知っている。

 分かってるよ、と妹は返事をする。学校はふつうだよ。家事はもうとっくに慣れたよ。心配しないで。

 仕事を一生懸命こなす両親。
 尊敬と感謝を持って接するべき人。
 悪い人たちじゃない。

 夫婦仲も家族仲も悪くない。

 ままならない。
 文句があるわけじゃない。
 時間ができれば、こうやって俺たちと一緒にいようとしてくれる。
 それでなくても仕事熱心というのは尊敬に値することだし、おかげで金銭面でもなんら不自由のない生活を送れている。
 充分すぎる。
 言いたいことがないわけではないが、それを言葉にするにはあまりに長い時間が経ちすぎた。

 一緒にいる時間だけが、圧倒的に足りなかった。
 俺だけならどうにでもなる。
 妹のことを思うと、どうも気持ちが暗くなる。

173: 2011/07/27(水) 13:50:33.81 ID:h5xVrpm/o

 食事を終えて、部屋に戻る。一緒にトランプをしたがる母に、用事があるからちょっと待ってて、と言い訳した。

 そう長い話にはならない。
 
 言うことは決まっている。確認するだけ、だ。それなのに、やっぱり心臓は痛いほど脈打つ。

 ボタンを操作する指が、いつものように思い通りに動かない。
 それでもなんとか番号を呼び出す。

 通話ボタンを押した。

 耳に電話を当てる。断続的な音が、やがて呼び出し音変わる。そういえば今は食事時かもしれないな、といまさらながら思った。
 でももうかけてしまった。

 長い時間、同じ音を聞いていたような気がする。
 電話に出た幼馴染の声は、少しだけ固くなっていた。

「もしもし」と言葉を交わした後、沈黙が訪れる。何から話せばいいのか分からない。

174: 2011/07/27(水) 13:51:11.26 ID:h5xVrpm/o

「珍しいね。えっと……なに?」

 彼女の声にハッとする。何かを言わなければならない。
 俺は直球に話を進めることにした。

「今朝、何かを言いかけてたなと思って」

 少し卑怯だったかもしれない、と思う。でも、自省的な思考は後回しでいい。

 幼馴染が何かを言おうとしたのが分かる。けれど彼女は、すぐにいつもの調子に戻って茶化すように笑った。

「あれは――ごめん。なんでもなかったの」

 声に動揺が浮き出ているのが分かる。長い付き合いだから。

 彼女が言葉に詰まる様子が目に浮かんだ。気まずそうな表情。電話口でも気配だけで想像できてしまう。

175: 2011/07/27(水) 13:51:58.51 ID:h5xVrpm/o
 もういいや、言っちゃえ、と思った。間違っていたとしても俺が恥を掻くだけだ。

「――偽装なんだろ?」

 幼馴染が息を呑むのが分かった。
 しばらく沈黙があった。耳鳴りがしそうな静寂。時計の針の音が聞こえそうなほどだったけれど、ここに時計はなかった。
 不意に、前触れもなく、
 
「……よく分かった、ね」

 幼馴染がそれを認めた。ほっと息をつく。なぜだか、すごく安心していた。

「今朝、言おうとしたのって、それか?」

「……うん」

 できれば詳しい話を聞きたかったが、俺がそれを訊ねるのはおかしいような気がする。
 けれど幼馴染は、自分から事情を話しはじめた。

「先輩の友達の、女の先輩がいるじゃない?」

 先輩の交友関係には詳しくないが、おそらくメデューサだろう。

176: 2011/07/27(水) 13:52:43.77 ID:h5xVrpm/o

「あの人にしつこく付き合ってって言われて、困ってる、って先輩に言われて。それで……」

「それで?」

「……付き合ってるふりをしてくれ、って」

 押しに弱い幼馴染のことだから、最初は渋っても、しつこく言われ続ければ引き受けてしまう。
 たぶん、周りに流されたところもあるのだろう。
 先輩がどのような言葉を用いて幼馴染の協力をとりつけたかは、だいたい想像がつく。
 部活動に集中したいこと、そのために誰かの協力が必要だということ、そう長い期間は必要ないこと、迷惑はかからないこと。

「最初は断ったんだけど……」

「断りきれなかった」

「……うん。それで――」

 ――それで、付き合っているふりをはじめた。

 それだけのこと。

 先輩とメデューサが何のつもりかは分からないが、まだ何か含みはありそうだ。
 だとしても、幼馴染の認識でいえば、ただそれだけのこと。

177: 2011/07/27(水) 13:53:10.23 ID:h5xVrpm/o

 ただの偽装。
 それを確認できたことに、深く安堵する。

 話を終えたあと、また電話口に沈黙が降りた。お互いの呼吸の音が聞こえる。彼女が息を吸うのが聞こえた。
 幼馴染は、覚悟を決めたように話し始めた。

「ほんとは、さ」

 その言葉に思わず眉間が寄る。何か彼女にも含みがあったのだろうか。

「私、先輩の提案を、積極的に受けたの」

 一瞬、思考がフリーズした。
 数秒置いて、胸の中で暗い気持ちが膨れ上がるのを感じる。

 冷や汗が滲む。電話を持つ手の力が抜けてしまいそうだった。
 
 続く言葉をあらかじめ予想しておく。先輩が好きだったから、先輩と偽装でも付き合えるのは嬉しかったから。
 こうしておくとあらかじめ防壁を張っておける。でも現実は、いつだって想像の上をいく。防壁など、大抵は貫いてしまう。
 俺は覚悟を決めて瞼を強く瞑った。

178: 2011/07/27(水) 13:53:38.88 ID:h5xVrpm/o

「友達に、一度、相談したの。そしたら――」

 話がよく分からない方向に進む。俺の想像とは違う方向に。
 俺の想像した通りだとしたら、友人に相談する意味はない。

「――ちょうどいいんじゃないかって」

「ちょうどいい?」

「だから……その」

 幼馴染はそこで言いよどんだ。

「誰かと付き合うって話になったら、何か、反応するかなって」

「……反応?」

 俺の反芻に、彼女は心底困ったように「ああもう」と唸る。

「だから、やきもち妬くかなって」

 誰が? ――と、訊くのはやめておく。
 内心で自分が期待し始めたことに気付いたからだ。
 それは自惚れかもしれない。
 臆病といわれても、聞き返す勇気はなかった。

179: 2011/07/27(水) 13:54:05.70 ID:h5xVrpm/o

「で、どうだったんだよ。反応はあったのか?」

 もう考えるのがいやになって、やけになって適当なことを言った。

「……充分すぎるほど」

 偽装だってことになると、たとえば月曜の朝の、

『……童O、なの?』

 という言葉には、別に経験済み的な意味はなかったことになる。

 脳内シュミレーション。幼馴染の立場。

 朝、教室に入る。静まり返ったなか、マエストロの声が響いている。

『このクラスで童Oは、サラマンダーと、俺と、それからおまえだけだ』

 扉を開けた瞬間に聞こえる衝撃的な発言。
 混乱していると、俺と目が合う。

 何かを言わなきゃ、という気分になり――

『……童O、なの?』

 思わず鸚鵡返し。
 まさかそんなばかな。

180: 2011/07/27(水) 13:55:26.01 ID:h5xVrpm/o

 シュミレーションを続ける。

 火曜日の発言。

『おまえなんて、おまえなんて、サッカー部のなんかかっこいい先輩といい感じになってあげくのはてに卒業してからも一緒にいればいいんだ!』

『……祝福されてるのかな?』

 このとき周囲にはクラスメイトたちがいた。

 偽装を頼まれている立場からして、否定的な言葉を出すわけにもいかないだろう。
 やけに冷静だったところを見ると、ひょっとして俺の反応を楽しんでいたのかもしれない。――それは自惚れか。

 こうやって判断していくと、何もおかしいことなんてなかったような気がする。
 自分の思い込みのせいで勝手に落ち込んでいたんだろうか。ひどく馬鹿らしい気分になる。

 気にかかるのは、

『おまえと結婚の約束をした記憶なんてないッ!』

『私もないよ?』

 このやりとりくらいか。
 彼女は本当に忘れてしまったのだろうか。

181: 2011/07/27(水) 13:55:53.29 ID:h5xVrpm/o

 俺が考え事にふけっていると、幼馴染は電話の向こうであくびをかみ頃した。
 まだ八時にもなっていないことに気付いて愕然とする。もっと長い時間、電話していたような気がした。

「――明日、先輩に言おうと思う」

 幼馴染は眠そうな声で言った。

「やっぱり、あの話はなかったことにしてください、って。みんなに嘘つくのも、疲れちゃったし」

 悪女だ。
 悪女がいる。
 学校中を騙してみせたあげく、「疲れちゃった」なんて理由でやめようとしていた。

「ごめんね、心配だった?」

 からかうように、幼馴染は言った。

「馬鹿言えよ」

 俺は見栄を張った。
 ふたりで一緒にひとしきり笑った。

182: 2011/07/27(水) 13:56:30.17 ID:h5xVrpm/o

 また、互いに言葉を失う。何かを言わなければならないような気がした。

 言っちゃえよ。頭の中で誰かが言った。好きって言っちゃえよ。
 頭の中のもうひとりが言った。それでいいのか? 勢いと雰囲気に流されてないか? おまえは幼馴染が好きなのか?
 冷静な声に情熱的な声が反論する。馬鹿おまえ、好きじゃなかったらこんな内容の電話するわけないだろ。
 
 不毛なやりとりが何度も繰り返される。その間、俺はずっと黙っていた。
 やがて、幼馴染はしびれを切らしたみたいに言葉を発した。

「それじゃ……」

 名残を惜しむような声だった。俺は何かを言おうとして、やめた。

「ああ、うん……」

 電話を切ると、物音ひとつしない自分の部屋に戻ってきた。今まで、どこか遠い場所にいたような気がした。
 そのあとで、幼馴染の言葉を思い出した。

『――明日、先輩に言おうと思う』

 ……馬鹿だ。
 明日は土曜だし、テスト前だから部活もない。
 ひとりでクスクス笑ってから、また考え事にひたる。

183: 2011/07/27(水) 13:56:59.69 ID:h5xVrpm/o

 何で何も言わなかったんだろう、と自問する。
 本棚から一冊の文庫本を取り出した。ブックオフで百五円で売っていた小説。
 冒頭にはこんな一節があった。

 ――なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。――

 俺はこの言葉を盾にとって自分を慰める。多くを口に出せないとき。何かを言い損ねたとき。言い訳に使う。
 それでもいつか、誰かに何かを告げなければならない場面は来る。

 考える。
 今回は結局、幼馴染に彼氏ができたわけではなかった。

 でも、もし仮に、本当に幼馴染に恋人ができたとき、どうなるのだろう。俺は祝福するのか、後悔するのか。
 子供っぽい独占欲と恋愛感情との区別を、俺はいまだにつけられていない。

 今回は偽装を偽装と確認するだけでよかった。
 でも、もし今後そうではなく、「本当の」交際相手などというものが現れたら、幼馴染を取り返すなどということはできはしない。
 このところさんざん悩んでいたように、苦しみながらも折り合いをつけていくことになる。

 だから、判断しなければならない。
 俺はいったい、誰が好きなのか。

 幼馴染を取り戻そうとした感情が、もし子供っぽい独占欲だったなら、それは何の為にもならない。決別しなくてはいけない。
 選ばなくてはならない。そもそも、幼馴染の恋愛に口を出す権利など、俺は持ち合わせていないのだから。

184: 2011/07/27(水) 13:57:29.06 ID:h5xVrpm/o

 考え事を続けすぎて、頭痛がしそうになる。
 部屋を出てリビングに戻ると、母と妹がふたりでトランプをしていた。

「なにやってるの?」

「ババ抜き」

 ……ふたりで?

 喉を潤してから自室に戻る。しばらくテストにそなえて教科書を見返す。
 文字を目で追うが、ちっとも頭には入っていない。教科書の表面を撫でるだけ。目が滑っている、と感じた。
 長い時間、なんとか教科書を理解しようと苦心していると、不意にノックの音が聞こえた。
 返事をすると、お風呂あがりらしい妹がパジャマ姿で部屋の中に入り込んでくる。

「お母さんは?」

「……電話してる」

 寂しそうに言う。

「そっか」
 
 頷いてから、ふたたび教科書と向き合う。

185: 2011/07/27(水) 13:58:06.82 ID:h5xVrpm/o

「ね、なんかして遊ぼうよ」

 さっきまで誰かと一緒にいたせいで、ひとりになるのが寂しくてたまらないのだろう。
 俺は少し考える。遊ぶといっても、できることなんてない。

「テスト近いだろ。勉強したらどうだ?」

 妹は不服そうに口を尖らせた。
 彼女には落ち込めば落ち込むだけ素直になるという習性がある。

「分かった」

 素直に頷く。
 背中に声をかけて呼びとめる。

「カバン持ってきて、この部屋で勉強しろよ」

 妹がカバンを持ってふたたび俺の部屋を訪れるまで、五分とかからなかった。
 しばらくふたりで勉強をする。一時間が経った頃、妹はうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。
 明日が休みだから、気が抜けたのだろう。
 肩を揺すって起こす。自分の部屋で寝るように言う。寝ぼけたままの様子の彼女は、ふらふらとしながら自分の部屋に戻っていった。

186: 2011/07/27(水) 13:58:35.70 ID:h5xVrpm/o

 どうも、喉の渇きがとれない。
 リビングに行く。
 電話を終えた母が手持ち無沙汰に座っていた。

「あの子は?」

 母は開口一番に尋ねた。

「寝たよ」

「ずいぶん早いのね」

「まぁ、うん」

「学校はどう?」

「悪くないよ」

 曖昧に答える。すべての学生が、両親に学校での出来事をつまびらかに語るわけではないだろう。きっと。

「妹は?」

「がんばってるよ」

 過剰なほど。

「なんとか、やっていけてる?」

「……まぁね」

 親が子供に言う台詞としては、あと数年早い。

187: 2011/07/27(水) 13:59:12.27 ID:h5xVrpm/o

 母はまだ何かを言いたげだったが、もう質問が思い浮かばないようだった。
 距離を、測り損ねている。 

 麦茶をコップに注ぐ。

「飲む?」

「ええ」

 ふたつめのコップを用意した。

 少しすると、母は自分の寝室に戻った。

 部屋に戻ってひとりになってから、どうするべきかを悩んだ。
 思い浮かんだのは、先輩の言葉。

 ――君には悪いと思ったけど。

 ひとまず、話の通じる彼から事情を聞いておきたいところだ。
 いったい、何がどうなっていたのだろう。

188: 2011/07/27(水) 13:59:39.41 ID:h5xVrpm/o

 幼馴染のことはひとまずいいにしても――放置しておけばメデューサに攻撃されかねない。
 あの異常な態度。

 憂鬱だ。

 風呂に入る。歯を磨く。ベッドに潜り込む。

 寝付けない。うだるような熱気に部屋がもやもやと侵食されている。
 ドアを開けっ放しにして空気の通り道を作る。窓を開けると涼やかな風が入ってきた。
 
 起き上がって電気をつける。教科書をめくった。
 テストが近い。勉強しなきゃ。

 こういうとき、何か趣味があればいいのになぁ、と思う。寝付けない夜が多すぎる。

213: 2011/07/28(木) 10:24:56.16 ID:eTEPqKVXo

 朝、起きて朝食をとる。
 健康的な食事。一日の活力。ハムエッグは好物。
 
 暇だったのでアコギを掻き鳴らした。 
 三十分程度、適当に鳴らして飽きたころ、妹がどこかから「うるさい!」と叫んだ。

 仕方ないのでリビングに下りて階段下の物置から64を持ち出した。
 風来のシレン2。カセットを差し込む。今となっては粗いグラフィック。

 毎回、カタナ+54、オオカブトの盾+62くらいまで装備を強化したところでシレンが運悪く倒れる。
 次はじめるときに装備を取り戻そうと同じダンジョンに挑む。
 強い武器と防具に慣れてしまって適当になったプレイングのせいで、また氏ぬ。
 装備が取り戻せなくなる。
 
 むなしさだけが残った。

 妹は暑そうにソファに寝転がっていた。
 せっかくなので誘ってみる。

「一緒にスマブラしない?」

「しないから」

 古すぎるもんね、64は。

214: 2011/07/28(木) 10:25:24.78 ID:eTEPqKVXo

 正午を過ぎてから幼馴染にメールを送る。

 返信はすぐにきた。

「ちゃんとメールで言ったよ!」

「明日」と言ったのは間違えたわけではなく、最初からメールで断りを入れるつもりだったのだと主張したいのだろう。
 妙なところで意地を張る奴だ。

 俺は幼馴染から先輩の自宅の電話番号を聞きだした。部活の連絡網。携帯に見知らぬ番号から電話がきたら無視しちゃうしね。

 先輩の家に電話をかけると人のよさそうな母親と思しき人が電話口に出た。
 先輩の名前を言って呼び出してもらう。どうやら家でテスト勉強をしていたらしい。

 彼は少なからず驚いていたようだった。せっかくなので、事情を省みず呼び出ししてみる。

「今から会えません?」

 デート。
 
 嘘だ。

215: 2011/07/28(木) 10:25:56.06 ID:eTEPqKVXo

 先輩の了解を聞き届けて、待ち合わせ時間に間に合うように準備を始める。といっても、財布と携帯だけ持っていけばいいだろう。
 待ち時間を潰すために文庫本を持っていこうかとも思ったけれど、ブックカバーをつけたままにしているものがなかったのでやめておく。
 本屋でつけてもらえるブックカバーは便利なのだけれど、手触りがいやだ。
 かといって布製のものは読みにくい。ジレンマ。

 ガレージから自転車を出す。中学のときのステッカーを貼ったままだ。
 先輩の家の位置も考えて、ちょうど中間くらいにある店に待ち合わせた。ハンバーガーショップ。
 蝉の鳴き声を掻き分けるようにペダルを漕いだ。

 俺が店についたとき、先輩はまだ来ていなかった。昼時だからかひどく混雑している。
 注文、支払い、商品の受け取り。空いている座席を探して座る。そう時間をおかず、先輩はやってきた。

 彼が座るのを見届けれから、口を開いた。

「いくつか訊きたいことがあるんですけど、かまいませんよね?」

216: 2011/07/28(木) 10:26:23.20 ID:eTEPqKVXo

「その前にひとついいかな?」

 先輩はさわやかに笑った。

「なんでしょう?」

 不敵に問い返す。

「襟元になんかついてるよ」

「え、うそ」

 白いものが付着していた。
 ケフィア的な何かか?
 心当たりは無い。

 よくよく見てみたら歯磨き粉だった。

「やだ私ったら」

 恥ずかしくて赤面する。

 先輩はひとつ咳払いをした。

217: 2011/07/28(木) 10:26:52.68 ID:eTEPqKVXo

「それで、訊きたいことって?」

「単刀直入に言うと幼馴染のことです」

 単刀直入に話をはじめた。

「ぶっちゃけ」

 はっきりと言うべきかどうか悩む。
 少しおいてから、悩んでも仕方ないことに気付いた。

「自作自演ですよね?」

 先輩が驚いたように目をしばたたかせる。どんな仕草をしてもさまになる人だ。

「どうしてわかったの?」

「カマかけただけです」

 怪しんではいたけれど、推測の域を出ないものだった。

「なにが目的だったんですか?」

 先輩は言葉に詰まった。だいたいの想像はつく。

218: 2011/07/28(木) 10:27:20.28 ID:eTEPqKVXo

「……それ、言わなきゃダメかな?」

「別に言わなくてもいいです」

 想像がつくから。

「で、ちょっと訊きたいんですけど」

「なんだろう」

 爽やかな反応。いい人なのに、流されやすいのだろうか。

「あのメデューサ、暴走気味じゃありません?」

「メデューサ?」

 脳内呼称を口に出してしまった。

「えっと、あれだ。目が異様に大きい人」

 先輩が「ああ」と頷く。

「サコか」

219: 2011/07/28(木) 10:28:20.85 ID:eTEPqKVXo

「サコ? さん、ですか」

「昨日、図書室で君を呼び出した人。あ、あの後大丈夫だった?」

「ええ。まぁ、何事もなく」

 何事もなく罵倒された。

「それならよかった。一応、心配だったんだ」

 先輩は安心したように溜息を漏らした。そう時間をおかず、今度は憂鬱そうに溜息を漏らす。
 溜息は口ほどにものを言う。だいたいニュアンスでどんな気分かが伝わってくるものだ。

「――前言を翻すようでアレなんですけど、やっぱり、ちゃんと訊いておきたいです」

 俺は少し考えてから口を開いた。

「先輩、アイツのことが好きだったんですか?」

 アイツ、は、幼馴染のことだ。

 彼は、逡巡するようにあちこちに視線をめぐらせて、最後にはテーブルの上に向けた。
 トレイの上に載ったままのハンバーガー。封の空いていないストロー。一向に減らないフライドポテト。

「……うん」

 長い沈黙のあと、先輩はかすかに頷いた。

220: 2011/07/28(木) 10:29:12.10 ID:eTEPqKVXo

「卑怯だよな、とは思ったよ。自分でも」

 自嘲するような笑みを頬に貼り付けて、先輩は言う。

「言い訳はしないけど」

「ええ。納得はしませんけど、理解はしますよ」

「ありがとう」

 とはいえ、彼が悪いのかどうかは、これからする質問次第で分かることであって、今は判断のしようがない。

「昨日、メデューサ、じゃないや。サコさんに言われたこともありますし、実際にあったことを説明していただけるとありがたいんですけど」

 先輩は言葉に詰まった。
 またこれだ、と思う。人には隠し事が多すぎる。

「……まぁ、巻き込んだわけだし、ね」

「言いたくなければいいです。俺、実際にはほとんど無関係ですから」

「そうでもないよ」

 先輩は気まずそうに微笑んだ。

221: 2011/07/28(木) 10:29:39.88 ID:eTEPqKVXo

「まず、僕は彼女が好きだったんだ。それは、もう言ったよね?」

「ええ」

 頷いて続きを待つ。先輩は言葉を選ぶような間をおいてから、話を続けた。

「そのことをサコに相談した。彼女は僕の友達の中でも、恋愛ごとに関して一番頼りになる人物だと思ったから」

 ――アンタみたいに見てるだけで恋してるみたいな気分になってる奴が一番イタいんだよ。もう二度と二人に近寄んな。

 言動の節々に見え隠れする、恋に対する自信と自負。
 オブラートに包まずに言ってしまえば、彼女は思い込みが激しく、自信家であり、お節介焼きで、ちょっとイタい人なのだ。

「サコは次の日には具体的な計画を立てて来たよ」

「それが偽装カップル?」

 俺の俗っぽい言い方に、先輩はいささか辟易したようだった。それでも仕方なさそうに頷く。

「そういうこと。口車に乗せられた、という言い方をすると誤解を生むかな。実際には僕も同意したから。でも、その場の雰囲気に乗せられたところはあった」

 これは言い訳かな、と彼は肩をすくめる。その仕草が妙に似合っていて腹立たしい。少しはしおらしくしやがれ。

「つまり、サコさんは、偽装カップルとして一緒に行動させることで、二人の距離が縮まることを期待したんですか?」

 先輩は俺の言葉にきょとんとした。少し間をおいてから、ああ、と頷く。

「そうだよ」

「その話に乗ったわけですか」

「……うん」

222: 2011/07/28(木) 10:30:22.21 ID:eTEPqKVXo

 先輩は幼馴染が好きで、それをメデューサに相談した。
 メデューサは、自分が彼に言い寄っていることにして、ふたりを偽装カップルとして近づけることに成功する。
 互いの距離は少しずつ縮んでいったが、今日に至って幼馴染からそれを取りやめる旨のメールが送られてくる。

 先輩の話をまとめると、つまりはこういうことになる。

「俺、関係ないですよ、やっぱり」

 俺という存在は、メデューサの計画にはまるで出てこない。
 
「はっきり言ってしまえば」

 と先輩は前置きした。苛立たしげに言葉を続ける。

「君が羨ましかったんだよ。彼女のそばにいたから」

「……はあ」

「一番最初にサコに相談したときも、そのことを言ってあった」

「だから、あの人は俺を目の仇にしてたんですか?」

「その他にも、あの子が僕やサコの前で君の話をすることがあったから」

「……サコさんとしては、俺が邪魔者だったと」

 つまり、二人の距離を縮めるためだけではなく、幼馴染を俺から遠ざけるためにも、そういう形の計画になったのか。
 遠ざけることに成功したと思っていたのに、幼馴染や先輩の周囲をうろうろする俺を見かけた。
 それが昨日のことで、その後の発言はすべて「ふたりの恋愛を成功に導くためによかれと思ってやったこと」なのだろう。

 ありがた迷惑って言葉もある。
 下手な企みなんて、失敗するものだ。

223: 2011/07/28(木) 10:31:01.23 ID:eTEPqKVXo

「なんだかもう、疲れますね」

「僕もすごく疲れた。ここ最近はずっと胃が痛くて仕方なかった。彼女はちっとも振り向いてくれないしね」

 そりゃそうだ。
 なにせ幼馴染は、超がつくほどの鈍感なのだから。
 小学の頃も、中学の頃もそうだった。自分に対する好意にまるで気付かない。
 ナチュラル悪女。

「アイツ、偽装をやめるって、先輩にメールしましたよね?」

 彼は額の汗を手の甲で拭ってから頷いた。

「来たよ。本人の意思に従おうと思う。実際、期限付きで、っていう約束だったんだよ、本当のところ」

「……無理のある話ですね」

「僕もそう思う」

 俺はひとつ溜息をついてから考える。誰も実害をこうむった人物はいない。
 何かを企むことに呆れはしても、責めることはできない。

224: 2011/07/28(木) 10:31:34.26 ID:eTEPqKVXo

「男らしくない」

 口をついて出た言葉に、焦る。だいぶ失礼なことを言ってしまった。

「まさにその通りだ」

 先輩は気を悪くするでもなく笑った。

「僕はもともと、臆病というか、そういう気質があるから」

「臆病というか」

 俺はずっと思っていたことを言った。

「ヘタレなんですよね。直接告白もできないような」

 自分のことを棚にあげて先輩を責めた。
 別に、なんだかんだで幼馴染と仲良くなりやがったことに対するあてつけとかではない。断じて。本当に。

「まぁ、そうだね」

 先輩はまた笑った。

225: 2011/07/28(木) 10:32:02.92 ID:eTEPqKVXo

「本気で好きなら、直接言うのが一番いいと思いますよ。アイツには」

「敵に塩を送るの?」

「アイツのことを抜きにすれば、俺は先輩のことが嫌いじゃありませんから」
 
 かといって、本当に告白されて、付き合うようなことになれば、俺としては困る。
 すごく、困る。
 勝手だな、と内心自嘲してから溜息をつく。なにをやってるんだろう。全然論理的じゃない。

 いいかげん話を終わらせるべきだと考えて、先輩に向かって最後の確認をした。

「まぁ、先輩の恋についての話はいいです。とにかく俺が言いたいのは、サコさんのことです」

「サコが、なに?」

 きょとんとしてる。
 できれば気付いてほしい。この人も鈍感なタチだ。
 とはいえ、彼にとっては友達のことだ。
 俺は慎重に言葉を選んだ。

226: 2011/07/28(木) 10:32:32.29 ID:eTEPqKVXo

「サコさん、なんというか、暴走しがちですよね。偽装をやめたって知ったら、誰かに強く当たったりしません?」

 失礼を承知で言う。必要なことだ。いい気分はしないけれど。
 俺に罵詈雑言を並べ立てるくらいならいいけど、他の人間に当たられては冗談ではすまない。
 その懸念に、先輩は平気そうに答えた。

「大丈夫だと思う。なんだかんだいっても、冷静な判断が出来る人なんだ」

「そうですか?」

 昨日の出来事を思うととてもそうは思えない。

「俺にはもっと、こう……あ、これは別に、昨日罵詈雑言をぶつけられて腹を立てているというわけではないですよ?
 あくまで一意見としてですけど、あの人はこう、暴走しがちなんじゃないかなって。
 別にひどいこと言われた当てつけとかじゃないですけどね。好き勝手言いやがってとか思ってないですし。
 でもちょっと、策士策に溺れる的な、自己陶酔っぽいところがありますよね、たぶん」

 先輩は大笑した。

「大丈夫だよ、そのあたりはきちんとする」

 そういって彼は溜息をつく。端整な顔立ち。さわやか。サッカー部でレギュラー。人望もある。魅力だらけの人。
 彼はひょっとして漫画か何かから飛び出してきたのではないだろうか。
 それでも、彼だって何もかも充実しているわけではない。
 嫌な考え方かもしれないが、それを思うと少しだけ安心する。
 努力していこう、と思える。

227: 2011/07/28(木) 10:33:08.53 ID:eTEPqKVXo

「がんばってみるよ」

 なにに対する「がんばる」なのか、少しだけ考えてしまった。
 メデューサを説得することをか、あるいは――。
 それは、俺に言ったって仕方のない言葉だ。ひとりごとのつもりだったのかもしれない。
 俺にも俺の考えがあるから、がんばってください、とは言えない。先輩もそれは分かっているのだろう。

「まぁ、サコさんのことをきちんとしてくれるなら、それでいいです。ぶっちゃけ、今日話したかったのも、そのことだけなんですよ」

 昨日のアレみたいに幼馴染に当たられたらたまったもんじゃないからね。言っちゃなんだけど。
 先輩は少し困ったような顔をした。

「ところで、先輩」

 俺はすっかり熱を失ったハンバーガーを手に取りながら訊ねる。

「アイツ、俺についてなんて言ってたんですか?」

「秘密」

 先輩はもったいぶるように笑ってストローの袋を破った。

228: 2011/07/28(木) 10:33:40.06 ID:eTEPqKVXo

 二人でハンバーガーを食べきったあと、どうでもいい話をしながら店を出る。
 互いに変な空気が生まれていた。照れくさい感じ。

「テスト勉強中に呼び出してすみませんでした」

「いや、いいよ」

「悪い点とっても、俺のせいにしないでくださいね」

「……それは、するかもしれないな」

 先輩は大真面目な顔で言った。

 店の出口のところで別れて、俺は止めてあった自転車に向かって歩く。

 むちゃくちゃする人も、世の中にはいるもんだ。

 自転車を漕いで帰り道を急ぐ。家に帰ったらなにをしようか。俺はわざと目前に迫った期末テストを思考から追いやった。
 防風林が木陰をつくった、家々の隙間の狭い道を通る。石で出来た水路がブロック塀の隣を通っていた。
 ひんやりとした空気の中で蝉の鳴き声だけが延々と響いている。それでも自転車のスピードは緩めない。
 もうすぐ、夏休み。

 誰とどこへ行こうか、と考える。いろんなことをしたい。花火。プール。海。夏祭り。
 そういうことを想像するだけで、胸が沸き立って落ち着かない気分になった。

 そういうことをできるだろうか、と考える。
 したいなあ、と思った。みんなで、楽しく過ごせるといい。

 ペダルを踏みながら、そんなことを思った。

229: 2011/07/28(木) 10:34:04.99 ID:eTEPqKVXo

 家に帰ると、幼馴染がいた。

「お邪魔してます」

 平然と、妹と世間話に興じていた。
 昨日の今日でこいつは。
 世間様に尻軽女だと思われてしまうでしょうに。

「麦茶を俺にもください」

「コップ持ってきたら注いであげる」

 妹も暑さのせいであまり動きたくないようだった。
 流しに置かれた食器入れの中からコップを取り出す。二人は既に自分たちの分を飲んでいた。

230: 2011/07/28(木) 10:34:36.51 ID:eTEPqKVXo

「どこ行ってたの?」

 幼馴染に尋ねられる。先輩と会ってきた、と言ったらどんな顔をするだろう。
 俺は「ちょっとそこまで」と答えてから麦茶を飲み干した。

 コップを置いたところで、妹が何かを思いついたように声をあげた。

「本人に直接意見を聞けばいいんじゃない?」

 幼馴染は意表をつかれたように「ああ!」と頷く。

「何の話?」

「お弁当の話」

「おべんと、ですか」

 何の説明にもなっていない。

「お姉ちゃんが、お兄ちゃんの、作りたいって言うから」

「ふたりで話し合いをしてたんだよ」

「月火水木は半分ずつってことで決まったんだけど、金曜の分をどっちが作るかがなかなか決まらなくて」

 ……なんだろう、このやりとり。

231: 2011/07/28(木) 10:35:06.57 ID:eTEPqKVXo

「いや、何でわざわざ分担する必要があるの?」

 幼馴染に作ってもらえたら食費が少しだけ浮くが、そんなみみっちい話ではなく。
 なぜ別々の人間に作ってもらう理由があるのか。面倒だろうに。

 彼女らは当人の意見を無視して協議を再開した。
 なんだかなぁ、と思う。今までずっと、どうでもいいことに時間を費やしていた気がした。とんだ徒労。くだらない悩み。
 一気に肩の荷が下りた気がした。

 話し合いは平行線を辿っているようだ。
 金曜の担当が決まるのと、夏休みに入るのはどっちが早いだろうかと、ふとそんなことを思う。

「あ」

 不意に思いついた。

「なに?」

「週ごとに金曜の担当を交換すればいいんじゃね?」

 その言葉の後もしばらくは話し合いが続いていたが、結局はその方向で決まったらしい。

232: 2011/07/28(木) 10:35:42.60 ID:eTEPqKVXo

「でも、何で弁当なんて作りたいの?」

 割と真剣な疑問。面倒なだけだと思うのに。

 幼馴染は簡単に答えた。

「はっきり言って、男の子にお弁当つくるのって、女子からしてもけっこう憧れなのです」

「へえ」

「制服デートとかもね」

「なるほど」

 そのあたりは男子と大差ないらしい。

「つまさき立ちでちゅーするために身長差は結構欲しいとかね」

 妹がさらりと言った。少女漫画的。
 ……やっぱ身長か。やっぱ一七○センチないとダメなのか。

「……ちょっとコンビニで牛乳買ってくる」

 カルシウムの摂取が身長の伸びに直結しない自分の体が憎い。

 幼馴染は、妹の言葉に微妙な表情を浮かべた。

「それはちょっと……違わない?」

「そう?」

 妹さまはけろりとしている。
 なんだかもう、女ってよく分からない。

233: 2011/07/28(木) 10:36:29.28 ID:eTEPqKVXo

 本当にコンビニに行こうとすると、二人は慌てて追いかけてきた。
 三人で並んで歩く。両手に花。美少女二人。ぐへへ。

 ――暑さでそれどころじゃなかった。

「……誰? コンビニ行こうって言った人」

 妹がうなる。誰も「行こう」なんて言ってない。

「蝉がうるさいね……」

 幼馴染も疲れ果てていた。なんだか、子供の頃もこうやって歩いたことがあるような気がする。
 なんだかなぁ、と思う。

 恋だ愛だと騒いでおいて、結局、ふたりと一緒にいるだけで、俺はある程度満たされてしまうのだ。
 まいった。
 この居心地のいい立ち位置で、曖昧なままで一緒にいたい。
 
 まぁ、できないんだけど。

 でもまぁ、今は、ね。

234: 2011/07/28(木) 10:36:55.96 ID:eTEPqKVXo

 徒歩十分のファミレスの脇に立つコンビニ。広い駐車場。でかい看板。何かのキャンペーンのポスターが張られた窓。
 冷房のきいた店内に入っても、暑さの名残は消えないようで、幼馴染はうんざりしたように呟いた。

「アイス食べたい」

 財布を忘れてきたらしい。

「私もアイス食べたい」

 妹は財布を持ってきていたが、間違いなく便乗しようとしていた。

 仕方なしに、三人分のアイスバーを買うことにした。
 牛乳、炭酸のジュース、少しのお菓子を選んで、レジに並ぶ。

 店を出てすぐに、アイスを配ってその場で食べ始める。

「食べ歩き、食べ歩き」

 上機嫌な様子で幼馴染はアイスをかじりはじめるが、どう考えても「買い食い」と言いたいに違いない。

 店の前におかれたゴミ箱に袋を捨てて、来た道を引き返す。
 太陽に焼かれて、アイスはすぐに溶けそうになる。
 溶けて垂れはじめた雫を舌先で舐めとるふたりの様子をみて、思わず変なことを考えそうになる――などということもなく。
 俺は自分のアイスを食べきるので精一杯だった。

235: 2011/07/28(木) 10:37:26.03 ID:eTEPqKVXo

 家に帰ってからも、リビングでぐだぐだと過ごした。
 テスト勉強をしなくては、と思うのに、気が抜けて行動に移せない。
 たぶん、長い間頭を支配していた悩み事がひとつ消えただろう。都合のいいことだ。

 幼馴染は結局、夕方まで家に居座った。

 彼女が帰った後、俺と妹は手持ち無沙汰になった。
 さっきまでいた誰かがいなくなると、寂しさと同時に時間を持て余している感じが訪れる。

 夕食に冷やし中華を食べたあと、映画を鑑賞することにした。
 ターミナルをまたかける。今度は、妹は眠らなかった。最後には涙目になっていた。
 俺は本気で泣いていた。

 さすがに、またビデオカメラを構える勇気はない。

 順番に風呂に入って、早めに寝ることにする。
 ベッドの中で、明日の日曜はどう過ごそうか、と、少しだけ考えた。
 テスト勉強、少しくらいしておかないと。

 そんなことを考えていると、いつのまにか眠りに落ちていた。

270: 2011/07/29(金) 09:32:07.45 ID:ormcuORco

 次の日曜も、幼馴染は当然のようにうちにやってきた。

 リビングのソファに寝転がってだらける幼馴染。
 テーブルに突っ伏して暑さに負けている妹。
 俺は椅子に身体をもたれて全身の力を抜いていた。

 暑い。

「たとえばさ、朝の六時って『早い時間』だろ?」
 
「そうだね」

 だるそうに幼馴染が頷く。意味もなくつけたテレビでは旅番組をやっていた。
 チャンネルを変える。暑さに負けない健康料理特集。妹が顔を机にくっつけたままちらりと目を向ける。
 リモコンをおいて手の力を抜いた。

「でも、深夜三時って『遅い時間』だろ?」

「そうだね」

 幼馴染がさっきとまったく同じ声音で応じた。
 
「遅い時間が早い時間より先に来るって、おかしくない?」

「そうだね」という幼馴染の呟きを最後に、言葉が途絶える。

271: 2011/07/29(金) 09:32:45.86 ID:ormcuORco

 開けっ放しにした窓から、風が一切吹き込まない。風がないのだ。ちょっとでいいから吹け。
 扇風機をつけてあるが、気休めにもならない。近付くと髪が動いてわずらわしいし、遠いと涼しくない。
 
 髪、切りにいきたい。

 けど、動くのだるい。
 テスト勉強どころじゃない。

 夏。

 網戸の向こうから蝉の鳴き声が聞こえる。風物詩。
 
「……暑い」

 何もやる気が起きない。
 このままではいけない。
 何とかしてやる気を取り戻さなければならない。

272: 2011/07/29(金) 09:33:29.17 ID:ormcuORco

 しばらく無言のままの時間を過ごしていると、やがてインターホンがなった。
 這うようにして玄関に向かう。客はマエストロだった。

 彼を玄関からリビングに招き入れたときには、二人の少女は居住まいを正していた。どういう理屈だそれは。

「こんにちは」

 にっこりと妹が笑う。
 どういう理屈だそれは。

 マエストロは幼馴染の姿を見つけてひどく戸惑った様子だった。

「なんで?」

「いろいろあって」

 本当にいろいろあった。
 幼馴染はマエストロに向かって笑いかける。だからどういう理屈だ。さっきまでのおまえたちはどこへ行った。女って怖い。

 マエストロは少し怪訝そうな表情をしたものの、すぐに興味を失ったのか、堂々とリビングの椅子に座った。
 女が二人いることに気後れする様子はない。すげえ。逆の立場ならこうは行かない。

「で、だ」

 マエストロはカバンからノートPCを取り出した。

「電気もらうけど」

「いいけど、充電あるんじゃないの?」

「ずっとコンセント繋ぎっぱなしにしてたら数秒で充電切れるようになって」

「……どうにかしようよ、それは」

 具体的な解決法は詳しくないので思いつかない。
 バッテリー買い替え? どこで売ってるんだろう。

273: 2011/07/29(金) 09:34:00.34 ID:ormcuORco

「で、これ描いたんだけど」

 画像ファイルが展開される。

 パステルっぽい淡い彩色のされたイラスト。
 リアルっぽい雰囲気で描かれたイラスト。
 アニメっぽい塗りのイラスト。
 なんかすごい凝った風景。
 モザイクなしのモロ工O絵。

 なんてものを描いてるんだ。

「ごめん、これは間違いだわ」

 マエストロがファイルを閉じる。と同時に、俺の様子を窺うようにこちらを見た。

「……おまえ、どうした?」

 彼は驚いたように目を見開いた。

「え、なに?」

 何か変な態度を取っただろうか。
 別におかしなことはなかったように思う。
 それなのにマエストロは、女だと思っていた漫画キャラが男だったと気付いたときみたいに呆然としていた。

274: 2011/07/29(金) 09:34:44.74 ID:ormcuORco

「反応が薄すぎるだろ」

「そう、か?」

 マエストロはしばらく考え込んでいた。
 たしかに、マエストロの絵には、いつも強い反応を見せたような気がする。上手いし、ツボをついている。
 クオリティが落ちているとか好みじゃないというわけではない。
 そう考えると、確かに反応が薄いような気もした。

 彼はしばらく押し黙ったあと、不意に幼馴染に目を向ける。

「……なるほど」

「なにが?」

 マエストロは俺の質問には答えずにうっすらと笑う。

「なぁ、チェリー。おまえひとつ忘れてないか?」

「チェリーって言うな」

 妹の前で。
 肝心の妹本人はきょとんとしている。それならまぁいいや。
 と、安心したところに、

「幼馴染との関係が元通りになったって、おまえが童Oだってことは変わらないんだぜ?」

 ――爆弾が投下された。

275: 2011/07/29(金) 09:35:15.41 ID:ormcuORco

「どうて……え、なに?」

 妹が戸惑ったように眉をひそめる。幼馴染はもう慣れた様子で、平然と麦茶を飲んでいた。恐ろしい。
 なんてこと言いやがる。

 が、的を射ていた。

「そうだった……」

 俺は依然として童Oだった。状況は一向に打破されていない。
 まいった。完全に忘れていた。

「どうしよう……」

 苦悩する俺を見て、マエストロは楽しそうに笑った。自分だって童Oのくせに。

「童Oか童Oじゃないかって、そんなに重要かな」

 幼馴染が心底不思議そうに言った。重要だよ。むちゃくちゃ重要だよ。
 あと女の子があんまり童Oとかいうんじゃありません。

276: 2011/07/29(金) 09:35:42.10 ID:ormcuORco

 夏が近い。
 どうにかしなくては、と考える。

 ……でも、ぶっちゃけ、そんなに焦る必要あるか?
 冷静に考える。

 別に、彼女ができていい感じに仲が進めばそのうちやることはやっちゃうわけで。
 何も焦ることはないんじゃないか?
 童O捨てたいから女の子と付き合うっていうのも、何か違う気がするし。

 マエストロは眉をひそめて悲しげな表情をつくった。

「昨日までのおまえは切羽詰ってて面白かった」

 彼は寂しそうに呟く。

「今のおまえの、その妙な余裕はなんだよ。キャラが違いすぎるだろ。先週までの童O丸出しなおまえはどこにいったんだ」

「マエストロ……」

 その発言、普通に失礼だよ。

277: 2011/07/29(金) 09:36:18.75 ID:ormcuORco

 一度しっかりと行動しはじめてしまうと、だらだら過ごすのはもう難しい。
 仕方ないので、冷房が効いていることを期待してファミレスに向かう。時間帯のせいか、結構空いていた。

 朝食と昼食をかねた食事。味は悪くない。
 
 数十分居座ってから、店内が混み合い出した頃に店を出る。

 外に出ると太陽がうっとうしいほどに自己主張を続けていた。 
 入道雲。蝉の鳴き声。炎天下。汗。

「暑い」

 口に出すと暑さが増したような気がした。
 今の段階でこうなのだから、夏の盛りとなった頃には熱中症で倒れかねない。

「俺、帰るわ」

 マエストロは汗を肩で拭いながら言う。

「うち来ないの?」

「だっておまえ、エアコンつけねえじゃん」

 幼馴染がちらりとこちらの様子を窺ったのが分かった。

「まぁ、必要ないかなって」

「んなわけあるか。この暑いなかで」

278: 2011/07/29(金) 09:37:12.38 ID:ormcuORco

 マエストロが帰ったのを見届けたあと、三人で並びながら家に戻る。

 暇なので、三人でゲームをする。スノボー系のレーシングゲーム。昔よくこれで遊んだ。

 妹は恐ろしくこのゲームが上手いが、俺は恐ろしくこのゲームが苦手だった。
 幼馴染は普通だが、順位はかなり変動する。

「エアコン、つけてもいいよ」

 幼馴染はコントローラーを握ったまま言った。
 何言ってるんだこいつは。
 エアコンつけてると具合が悪くなるくせに。
 ちょっとくらいなら平気かな、と思って青褪められた経験は忘れようにも忘れられない。

「別に気を遣ってるわけじゃないよ」

 俺だってエアコンの風は好きじゃなかった。何度か試して懲りた。妹も寒がり。
 エアコンをつけて得をする人間がそもそもいない。民主的な結論。

「そう?」

 彼女が俺の言葉を信じた様子はなかった。なんだって俺たちは遠慮しあってるんだろう。
 扇風機の電源を入れて首を振らせた。気休め程度にはなるかもしれない。

279: 2011/07/29(金) 09:37:39.60 ID:ormcuORco

 夕方までゲームをして過ごしてから、テストのことを思い出す。
 勉強してない。

 これはまずい。
 が、まだ二週間くらいある。
 大丈夫。うん。

 五時を過ぎた頃、幼馴染の母であるユリコさんがやってきた。
 ちなみに本名はユリコではない。どうしてこんなあだ名がついたのかは分からないが、俺の母がそう呼んでいた。

「久し振り。先月以来?」

 母とユリコさんは学生時代からの付き合いで、忙しい俺たちの両親に代わってよく面倒を見にきてくれた。
 最近でも、食事を一緒にとったりする。
 家族全員で揃って食事をとることより祖父母と食事をとることのほうが多いが、ユリコさんと一緒に食事をとることはさらに多かった。
 
 幼馴染と会ったのも、母親同士が友人同士だったという縁があったからこそだ。

「にしても、女ふたりに囲まれて休日を過ごすなんて、ちょっと爛れすぎてるんじゃないの?」

 片方は妹だ。それにもう片方は自分の娘だろうに。爛れるとか言うな。

「夏の魔性が俺を野獣にさせるんです」

 なぜかこの人を前にすると冗談を言わずにはいられない。

280: 2011/07/29(金) 09:38:08.32 ID:ormcuORco

「ユリコさんも爛れてみます?」

 四本目のコントローラーを差し込んだ。
 四人でプレイする。首位は妹。二位は幼馴染。三位は俺。四位がユリコさん。

「……ねえ、コントローラーがきかないんだけど」

「いやいやいや」

 正常に動作しております。

 俺のコントローラーの方をユリコさんに手渡して、もう一度レースをはじめる。
 首位妹。二位俺。三位幼馴染。四位ユリコさん。

「……調子悪いなぁ」

「いやいやいや」

 そんな素振り全然見せていなかった。

 その後、何度もステージを変えてプレイしたけれど、一位と四位は全部同じだった。

「……もういっかい。もういっかいだけだから」

「もう六時になりますよ」

 ユリコさんは負けず嫌いだ。

281: 2011/07/29(金) 09:38:36.07 ID:ormcuORco

 その後、ユリコさんに誘われて幼馴染の家で夕食をご馳走になる。

 焼肉。
 遠慮はいらない、と自分で思った。

 ばくばくと食べる。
 
「調子に乗りすぎ」

 ユリコさんの不興を買った。

「夏の太陽が俺をおかしくさせるんです」

「もう日、沈んだから」

 ちょっとだけ遠慮しながら食べた。
 どうせならお風呂も入っていけば、と勧められる。
 
 せっかくなので好意を受け取ることにした。

282: 2011/07/29(金) 09:39:08.07 ID:ormcuORco

「一緒に入るか」

「調子に乗りすぎ」

 妹の不興を買った。

「私と一緒に入る?」

 幼馴染が真顔で言った。

「なんばいいよっとねこの子は」

 思わずシリアスに突っ込む。
 このところペースが乱れっぱなしだ。

「どうせだから泊まっていけば?」

「調子に乗りすぎです」

 無礼を承知で俺が言う番だった。
 丁寧に断る。風呂まで入っておいて今更だが、一応テスト前だし勉強もしたい。
 お礼を言って、家に帰ることにした。
 いつものこととはいえ、もてなしが過度でちょっと遠慮してしまう。

「またきてねー」

 笑顔のユリコさんに見送られて玄関を出た。おじゃましました。ごちそうさまでした。
 日曜の和やかな夜が過ぎていった。

283: 2011/07/29(金) 09:39:49.15 ID:ormcuORco

 その夜は、ぐっすりと眠ったが、変な夢を見た。
 夢の中、俺は夕方の教室で「なおと」と一緒にいた。

「なにやってるんだよ相棒」

 なおとは困ったような声音で言う。

「らしくないよ……女の子と一緒の週末なんてらしくない」

 余計なお世話だ。
 俺は冷静に返事をする。

「よく考えてもみろよ、なおと。俺が何の代価も支払わず女子と一緒にいるなんてありえないじゃないか」

 夢の中の俺は、なんだか紳士な口調だった。

「つまり……?」

「つまり、だ。両津が金儲けに成功したあとに調子に乗りすぎて自滅するように、予定調和があるんだよ」

「予定調和?」

「爆発オチとか、そういう類の。上手く行っているってことは、悪いことが近付いているとみたね」

284: 2011/07/29(金) 09:40:26.12 ID:ormcuORco

「たとえば?」

「たとえばだ。明日、朝起きたとする」

「そいつはびっくりだ」

「まだ何も言ってねえ」

 思わず紳士口調が取れてしまうほど、なおとの反応は適当だった。

「明日の朝、目が覚めたら、俺に妹なんていないんだよ」

「……ん?」

「幼馴染もいない。全部妄想なんだよ」

「……そいつは予定調和って言うより、一炊の夢だ」

「もしくは幼馴染はいてもいい。ただ、普通に先輩と付き合ってるって可能性もあるな」

「もうちょっと前向きにものを考えられねえのか」

「じゃあ、明日朝起きたら、妹に彼氏ができてて、夜、遊びに来る。お兄ちゃん、外行っててくれる? って言われる」

「前向きになってないな」

285: 2011/07/29(金) 09:41:04.14 ID:ormcuORco

「とにかく、何かあるはずだ。絶対だ。今までのはサービスタイムみたいなもんなんだよ。ここから地獄のどん底に叩き落されるに決まってる」

 なおとは不可解そうにうなった。

「つまり、嫌な想像をしておくと、ちょっと嫌なことが起こっても平気だっていう感じの、心のバリア?」

「それをいわないで」

 なぜそこまで的確に俺の心を読むのか。
 良いことは続きすぎると怖い。
 いつ悪いことが起こるのかと。

「やっぱり臆病者だな、いつもの相棒だ」

「失敬な奴だなおまえは」

 俺のどこが臆病だと言うのか。ぜひ説明してみて欲しい。
 そう思ったときには、なおとの姿は見えなくなっていた。

286: 2011/07/29(金) 09:41:47.21 ID:ormcuORco

 しばらく俺は教室にひとりで取り残されていた。

 置いてけぼりの気持ち。

 絆創膏だらけの指。

 場面変わって、俺はベッドに横になっていた。

 仰向けに寝転がっている。不意に、タオルケットの内側に誰かの気配を感じた。
 自然な表情で、妹が眠っていた。今より少し幼い顔。泣き腫らした跡。

 冷蔵庫にしまいこんだバースデイケーキ。

 蒸し暑い夜なのに、妹は決して俺から離れようとしなかった。

 仕方ないな、と俺は思う。いろいろなことが仕方ない。

 両親が来れないのも、妹が悲しいのも、俺にはどうしようもないのも。

 妹の寝顔をしばらく見つめていると、なんだかよく分からない気持ちが湧き上がってくる。
 自分が甘えてるんだか甘えられてるんだか分からなくなる。混乱する。そういうことはよくあった。

 なんだか落ち着かない気持ちになって、俺は意地になったように眠ろうとする。
 けれど、寝ようとすればするほど、逆に目が冴えていく。
 仕方ない、と思う。
 寝付くまではしばらくの時間が必要だった。妹の寝息を聞きながら瞼を閉じる。一緒にいる、という感覚。

 不思議だ、と思いながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった

301: 2011/07/30(土) 10:15:44.16 ID:7TY25Q1bo

 夢の内容を覚えていたので、意識がはっきりしたあとも、目を開けるのが少しだけ怖かった。
 
 まさか、本当に妹がいなくなっているということはないだろうけど。
 まさか、幼馴染が先輩と付き合ってなかったというのが夢だったわけではないだろうけど。

 考えごとをしながら身体を揺すると、なにかの感触があった。

 目を開くと、腕の中に妹がいた。
 強く動揺した。
 顔が近い。
 いったいなにが起こったというのか。

 なぜこうなった。

「……起きた?」

 妹は心底困り果てたような声で訊ねた。
 頷きながら、状況を分析しようとする。
 なんだ、これ。

302: 2011/07/30(土) 10:16:15.55 ID:7TY25Q1bo

「起きたんなら、放してほしいんだけど。腕」

 言われてから、自分が妹をなかば拘束していることに気付いた。
 目を開けるとそこには妹が……って、さすがに驚く。

 妹を解放する。
 彼女はベッドから起き上がって居住まいを正した。
 落ちつかなそうに視線を動かしながら、後ろ髪を撫でている。
 なにがどうなった。

 混乱する俺を尻目に(以前も言ったように尻目という言葉には独特の卑猥さがあるが、今はそんな場合ではない)妹は部屋を出て行った。

「朝ごはん、できてるから」

 気まずそうな顔をしたまま去っていく。
 ひょっとして記憶が飛んでるんじゃなかろうか。
 携帯を開く。

 月曜。昨日の記憶もはっきりとしていた。
 なにが起こったのか、妹は結局説明してくれなかった。

303: 2011/07/30(土) 10:16:45.11 ID:7TY25Q1bo

「なんていうか」

 通学路を並んで歩いていると、不意に幼馴染が口を開いた。

「シスコンだよね。妹ちゃんもブラコンだけど」

 自覚はある。
 
「たぶん、寝ぼけて布団の中に引きずり込んでしまったんだと思うんだけど」

 でも、それなら殴られるような気もする。反応がおかしかった。
 ギャルゲーかなんかなら、寝てる間にキスでもされてるところだろうが、現実なのでありえない。

 考え込んだ俺の姿を、幼馴染がじとりと睨んだ。

「なに?」

「別に、なんでもないよ」

 言葉の割には不服そうな表情をしていた。

304: 2011/07/30(土) 10:17:15.58 ID:7TY25Q1bo

 教室についてからは幼馴染と別行動をとった。
 先週までのことを考えれば、突然一緒に行動するようになるのは不自然だというのもあるが、以前からそういうところがあったのだ。
 お互い、教室にいるときはあまり話しかけあわない。
 なにか理由があってのことではないが、いつのまにかそうなっていたし、特別不満は感じない。

 急に手持ち無沙汰になる。
 先週までどうやって過ごしていたかを思い出せない。
 佐藤たちの大富豪に混ざったり、マエストロが俺の席で薄い本を読んでいたり。
 思い返しながら佐藤たちの方を見る。今日も今日とて大富豪に興じていた。

 俺は佐藤たちの円に割って入って大富豪に参戦した。

「今度は負けないぜ?」

 佐藤は苦笑していた。

 今日の俺は絶好調だった。2が一枚、Aが三枚、ジョーカーが一枚。
 3も4もある。絵札も充実している。これならいける、と俺はほくそえんだ。

 最初は様子をうかがうように強い数字を出し惜しむ三人に対して、絵札を駆使して一気に攻める。
 強い数字を出し切ってから、A三枚とジョーカーで革命を起こす。ワイルドカード。

305: 2011/07/30(土) 10:17:42.53 ID:7TY25Q1bo

 あとは大きい数字の順に出していくだけだ。

 俺は勝利を確信しながら9を出した。
 続く佐藤が、8を出した。八切り。

 初手を取った佐藤は6を三枚とジョーカーで革命を起こす。

 結果、俺は大貧民だった。

「……おかしいだろ、あの手札で勝てないって」

 佐藤は困ったように笑っていた。

306: 2011/07/30(土) 10:18:27.72 ID:7TY25Q1bo

 昼休みになってすぐ、あくびが出た。大きく伸びをすると、筋肉が心地よくほぐれていくのを感じる。
 ひさびさに授業に集中できた気がした。
 
 妹が作った弁当を持って屋上へ向かう。結局月水が妹で、火木が幼馴染らしい。

 屋上には、相変わらずの顔をした屋上さんがいた。

 ポニーテール。退屈そうな視線。サンドウィッチをもさもさと食べる。
 土日振りに見る彼女の姿は、先週までと少しも変わりなかった。

  俺は彼女の隣に座って弁当をつつく。彼女は俺を一瞥したあと、視線をフェンスの向こうに送った。

「ツバメでも飛んでるの?」

「それが、いないんだよね」

 月曜だからか、彼女は少し眠たそうだった。

 沈黙が落ち着かなかったので、適当な話題を屋上さんに振る。

「テスト勉強してる?」

「まぁ、そこそこ」

 俺は全然してない。
 ……本当にしてない。

307: 2011/07/30(土) 10:19:39.26 ID:7TY25Q1bo

「それはともかく」

 分の悪い話題だったので話を逸らした。
 自分で振っておいて、という顔で屋上さんがこちらを睨む。俺のせいじゃない、星の巡りが悪かったんだ。

「このまえさ、グーグルで『堤防』って入力して画像検索したのよ」

「突然なに?」

「したらね、すげえの。なんか癒されるの。あ、この町住みたい、って思うよ、きっと。今度やってみ?」

 感動を伝えようと興奮するあまり口調が変化した。
 でも、よくよく考えると喋り方なんていつも安定してないし、まぁいいか。

「こりゃあすごいと思って、次は『海』って検索したよ」

「そうしたら、どうなったの?」

「沖縄に行きたくなった」

 湘南でもいい。なんか、海っぽいところであればどこでもいい。夏だし、どうにかしていけないものか。海。
 この街から海を見に行こうとすると、車で一時間から二時間。自転車でどうにかできる距離じゃない。

「で、画像検索が楽しくなって、今度は『水着』で検索した」

「そしたら?」

 ――めくるめく肌色世界がそこにはあった。

「ごめん、言わなくてもいい。だいたい想像ついたから」

 屋上さんは察しがいい。



308: 2011/07/30(土) 10:20:13.91 ID:7TY25Q1bo

 昼食を食べ終えてから教室に戻ると、茶髪に声をかけられた。

「ネタバラシされたんだって?」

 何の話か、と考えて、すぐに思い当たる。
 幼馴染のことだ。

「茶髪、知ってたの?」

 まぁね、と彼女は頷いた。幼馴染の言葉を思い出す。
 
 ――友達に、一度、相談したの。

 こいつか。

「まぁ、元気が出たようで何よりだな、チェリー」

「いやまぁ」

 あまりそのあたりには触れてほしくない。反応に困るから。

 茶髪との話を終えて自分の席に戻る。授業の再開を待っていると、教室の入り口で誰かに呼び出された。
 メデューサがそこにはいた。

 彼女は俺を見て、一瞬だけ顔を強張らせた。
 一瞬だけ警戒しかけたが、先輩が大丈夫と言っていたのを思い出す。実際、彼女は何もしてこなかった。

 メデューサは気まずそうに俺から目を逸らす。ちょっとどきどきする。

「……あの」

「はい」

「……ごめんなさい」

 謝られた。
 なぜだか後ろめたい気分になる。

309: 2011/07/30(土) 10:20:44.21 ID:7TY25Q1bo

「私、自分のことしか考えられないというか、周りの様子が見えなくなるというか、感情的に行動してしまうというか、 
 ダメなのは分かってて直そうとしてるんだけど、どうしてもこう……」

 メデューサはその大きな瞳を伏せた。
 
「ごめんなさい」

 メデューサは謝った。俺はなんと返せばいいのか分からなくなった。
 例の罵詈雑言はすさまじく恐ろしかったが、別段傷ついたりはしなかったし、実害はこうむっていない。
 腹は立ったが、それは俺がそう思うからであって、メデューサからすれば自然な行動だったのだろう。

「別に怒ってませんよ」

 自分のことしか考えられない、周りの様子が見えない、感情的に行動する、というのは別段悪いことではない。
 周囲のことばかり気遣って、いつも周りとの距離を測っている、理性的な人間。
 そういう人間よりは好感が持てる。
 とはいえ、さんざん好き勝手言われたのは事実。何も悪いことしてないのに責められて、少し落ち込んだ。

 だから、いいところと悪いところを相頃するということにした。
 プラスマイナスゼロ。

「先輩に怒られました?」

「……君を呼び出したことには、うん」

「ならいいです」

 メデューサは不思議そうな顔をしていた。
 そのとき、チャイムが鳴った。メデューサは俺の方を気にしながらも、慌てて去っていった。

310: 2011/07/30(土) 10:21:07.79 ID:7TY25Q1bo

 放課後、帰る前に携帯を開くとメールが来ていた。妹。
 買い物に行くから手伝って欲しいという旨。

 了解の返信して、教室を出た。

 家について荷物を部屋に置く。間を置かずに妹が帰ってきた。肩を並べて玄関を出る。
 ファミレスやコンビニを通過してさらに五分歩く。いつも行く古いスーパー。

 店内に入る。ひんやりとした冷房の空気。
 生鮮食品が並ぶ。魚、肉、野菜、果物。

「今年、スイカちっちゃいよね」

「メロンくらい小さいな」

 昔はもっと大きかった気がする。あるいは俺たちが知らず知らず歳を取ったのか。
 そうかもしれない。毎年こんな会話をしている気がする。

「なにが食べたい?」

「ハンバーグ」

 素直に答えたら変な顔をされた。

「……今、子持ちの主婦の気持ちが分かった気がする」

 俺が子供ですか。

「どんな感じ?」

「しょうがないな、って気持ち」

 完全に子供扱いだった。

311: 2011/07/30(土) 10:21:47.85 ID:7TY25Q1bo

 妹は商品を次々とカゴに突っ込んでいく。
 麺系の食品が多かった。ハンバーグに関係がありそうだったのは、合挽き肉とハンバーグヘルパーのみ。

 楽だしね、ハンバーグヘルパー。

 俺はカゴを持ちながら妹が買い物をする様子を見ていた。
 
 不意に思うところがあって、その横顔に話しかける。

「なんか欲しいものとかある?」

「……そういうあからさまな質問、される側としてはすっごく困るんだけど」

 察された。
 もうすぐ妹の誕生日なのです。ちょうどテスト明けの日曜。
 
「今のところ、何か思いついてるの?」

「そうあからさまに訊かれると、考えてる側としてはすごく困るわけですが」

 まぁ、別段サプライズを狙ったわけでもなし。

「夏だし、浴衣がいいかなと思ったんだけど」

「浴衣て」

 妹はあきれ果てたような表情になった。

「いくらするか知ってる?」

「安いのなら一万は超えないでしょう」

 贈る側の言葉としては最悪だった。

312: 2011/07/30(土) 10:22:26.21 ID:7TY25Q1bo

「そりゃそうだけど、いくら安くてもプレゼントにさらっと出す金額じゃないでしょ」

「うん、まぁ」

「第一、どうせ夏祭りのときくらいしか着ないし」

「うん」

「着付けできないし」

「うん」

 サイズが分からないし、柄のこともあるので、結局は没になった案なのだが。
 そもそも自分で選んだ方がいいだろうし、夏祭りの前にはどうせ買うことになるだろうから。
 どちらにせよ、なにを選ぶにせよ、結局、俺の金というよりは、親の金で買うのだから格好がつかない。

「じゃあ、いらない?」

 妹は少し黙ってから、

「……そうじゃないけど」

 呟いた。
 照れていたらしい。
 着付けはユリコさんに頼もう、と密かに誓った。

313: 2011/07/30(土) 10:22:55.54 ID:7TY25Q1bo

「でも、浴衣は、ちょっと、だめ」

「なんで?」

「もったいないもん」

 よく分からないことを言う。

「年に一回だけでしょ、着るの。どうせならいつも使うものがいい」

 難しい注文をされた。
 
「つまり、俺をいつも感じていたいと」

「そうじゃなくて」

 渾身の冗談だったが、あっさりとかわされた。

「せっかくだからね」

 とりあえず、何か考えておこう

314: 2011/07/30(土) 10:23:36.05 ID:7TY25Q1bo

 荷物を二人で分けて運ぶ。全部を持とうとしたけれど難しかったし、意地を張るほどのことでもなかった。
 帰り道では、どちらも言葉を発しなかった。やがて家に着くというところで、突然強い雨が降り出した。
 慌てて家に入る。さいわい少し濡れただけで済んだ。

 開けっ放しにしていた窓を閉める。家中の窓を確認してから料理を手伝おうとキッチンに向かったところで、妹の大声が響いた。

「わあっ! うわあっ! いやあ!」

 ほとんど悲鳴だった。
 慌ててキッチンに入ると、緑色の何かが飛び跳ねていた。

「かえる! かえるー! かえるがいる!」

 めちゃくちゃ怯えていた。

 かくいう俺も、

「うわあ! なんだこいつどっから入った! こっちくんな! あ、そっちにもいくなっ!」

 半狂乱だった。

 最終的にはなんとか蛙を屋外追放できたが、他にも隠れているんじゃないかとしばらくのあいだ落ち着かなかった。
 いつから蛙を怖がるようになったんだろう。大人になったのかもしれないなあ、と少し切ない気持ちになった。

 料理の手伝いを申し出ると、ひたすら合挽き肉とハンバーグヘルパーを混ぜ合わせたものをこねさせられた。
 言うまでもなく夕食はハンバーグだった。いつのまに用意したのかデミグラス的なソースまであった。
 
 その夜はずっとプレゼントのことを考えていたが、いいと思える案はなかなか浮かんでこなかった。

315: 2011/07/30(土) 10:24:02.84 ID:7TY25Q1bo

316: 2011/07/30(土) 10:46:01.73 ID:nP4HO/nDO
乙。
かえる可愛い

引用: 幼馴染「……童O、なの?」 男「」.