1: ◆1t9LRTPWKRYF 2012/04/24(火) 23:21:11.11 ID:qSbSwrSBo


「もうやめたくなりましたか?」

 と後輩の声がした。咄嗟に反応できず彼女の顔を見返すと、ひどく不安そうな表情をしている。

 最初に視界に入ったのは緑色のフェンスと、その向こうの道路、そこに舞う桜の花びらだった。
 俺たちふたりは、どうやら一緒に昼食をとっていたらしい。
 後輩の膝の上にはコンビニのレジ袋が置かれていて、彼女はその中からサンドウィッチを取り出しているところだった。
 
 何の話をしていたのかは思い出せない。彼女の切羽詰まった表情を見るに、大事な話をしていたのかもしれない。
 俺は一瞬とまどったが、それでも思い出せないものは仕方がないと割り切り、適当にごまかすことを決めた。

「いや」

 曖昧に返事をすると、後輩は眉間に皺を寄せる。怒るというよりは訝るような仕草だ。何かしくじったのかと考えたが、それならそれで構わない。
 適当にごまかしておけば、大抵のことは問題にならない。要するに、どれだけ上手にごまかすかが問題なのだ。
 いつでもどこでも、変わらない。



アホガール(12) (週刊少年マガジンコミックス)


2: 2012/04/24(火) 23:21:47.82 ID:qSbSwrSBo

 彼女は諦めたように視線を落とし、サンドウィッチを口に運ぶ。
 その様子を横目で警戒しながら、俺は周囲をうかがった。
 
 場所はおそらく、うちの学校の体育館裏だろう。大きな切り株があって、俺と後輩はそれを椅子代わりにしていた。
 この場所でこんなふうに昼食を共にすることがあった。この日もそうだったということだろう。
 敷地を示すフェンスがすぐ傍にあって、その向こうは道路に面していた。

 俺は舌打ちをしたい気持ちをこらえ、道路に舞う花びらに目を向ける。

 付近に視線を巡らせると、やはり桜が咲いていた。枝を疎ましいほど広げ、花びらを路面に汚らしくまき散らしている。
 どうやら春らしい。こんなことは初めてだった。

 度を越えた驚きは、衝撃よりも呆れや可笑しさをもたらすものだが、俺は笑うに笑えない。もはや慣れてしまったということもある。
 
 後輩は何も言わなかった。何かに気付いた様子はない。
 結局はそういうことだ。俺が何かを忘れても、見失っても、誰も困らないのだ。
 外側さえ取り繕ってしまえば、誰も中身の変化なんて気に掛けない。そういうことがこの世にはごまんとあるらしい。

3: 2012/04/24(火) 23:22:15.46 ID:qSbSwrSBo

 今度は春か、と俺は思った。さっきまでは夏だった。……いや、九月だったから、秋だろうか? 夏休みが終わった直後だから、まだ夏かもしれない。
 まぁ、九月が夏だろうと秋だろうと、どちらでもかまわない。いずれにせよ、ついさっきまでは九月だったことには変わりない。

 ここ最近――六月の半ば過ぎから九月上旬まで――の俺には、こういうことがよくあった。
 
 時間の流れが、"現在"から、まったく別の季節、日、時間へと入れ替わってしまうのだ(こうとしか表現できない)。

 後輩に話し掛けられる直前まで、俺は九月八日土曜日にいた。桜はとっくに散っているどころか、葉桜も盛りを終えている。
 それにも関わらず、ここには桜が咲いているのだから、今は九月八日とはまったく違う日なのだろう。こういうことが三日に一度は起こった。

 はじめは一日、二日のズレで、おかしいなと思いながらも気のせいだと忘れていたのだが、週単位、月単位で"ズレ"るとさすがに気付かずにはいられない。

 七月から六月へ、八月から九月へ、そして今回、九月から四月へ。俺の意識は突然、過去の経験とも未来の映像ともつかない場所に迷い込んでしまう。
 記憶と記憶とのつながりが混線しているようで、その行き来は無秩序で唐突だ。
 現実にあったことか、と言われると、経験した覚えはない。では未来かというと、過ぎてみても"ズレ"で見たことが必ずしも実際に起こったわけでもない。
 もちろん符合するときもあったが、ただの偶然と受けとめたほうがよほど自然だ。

4: 2012/04/24(火) 23:22:53.10 ID:qSbSwrSBo

 ただの白昼夢であると考えるのがいちばん自然だが、それはそれで困ったことになる。

 俺の中には、

「これは夢ではない」

 というたしかな確信があった。もちろん自分自身の確信なんて根拠のあるものではない。疑わしく思うところもある。
 けれど、

「これが現実ではない」

 ということにするには、この"ズレ"はあまりに現実味がありすぎた。ほとんど(まったくと言ってもいい)現実と変わらない手触りなのだ。
 
 これを「現実ではない」ことにしてしまうと、今度は、どこからが現実で、どこからが現実でないか、その区別がまったくつかなくなってしまう。
 人は「ここまでが現実で、ここからが想想である」という区別を失っても生きていけるものだろうか?
 不可能ではないが、困難ではあるだろう。

 だからこそ、俺はこの"ズレ"を現実だと信じざるを得ない。
 そうしなければ現実の自明性が失われ、この"現実"よりもっとおそろしいどこかに引きずり込まれてしまうような気がした。
 

5: 2012/04/24(火) 23:23:24.39 ID:qSbSwrSBo

 世の中に不思議なことはありふれているが、それも話で聞くのと自分の身に降りかかるのでは話がまったく違う。
 最初は何が起こっているのかと不安に思ったものだが、何度も繰り返しているうちに慣れてきた。
 より正確に言えば、気付いたのだ。この"ズレ"が何かをもたらすものではないということに。

 一ヵ月先に行ったところで、一ヵ月前に行ったところで、どこにもいかなかったとして、何の問題もない。
 俺がやることは、いつでもどこでも、変わらず同じ。周囲に適当に合わせればいい。
 別に相手の話をすべて聞くこともない。仮に何かを勘付かれて、怒らせたり悲しませたりしても、それだけの問題だ。
 
 この"ズレ"があろうがなかろうが、俺は誰かを怒らせるだろうし、悲しませるだろう。
 どちらにしても変わりない。

 幸いにもこの"ズレ"は少し時間が経てば収まり、俺は元いた時間に戻れる。
 やり過ごせばいいのだ。やはり、現実と変わらない。
 
 ただ、周囲に合わせる。適当にごまかす。可能な限り上手に。失敗しても、またごまかせばいい。
 そうすることの何が悪いだろう? どうせ俺は誰からも必要とされていない人間なのだ。
 誰かが俺に話しかけるとしても、それはマネキンに話しかけるようなものだ。答えを期待されているわけじゃない。
 
 俺の返事が上辺だけだろうと本心だろうと、聞く相手は都合の良い方がうれしいのだから、せいぜい相手に都合の良いように返事をすればいい。
 可能なかぎり上手に、矛盾がないように。

 それで十分なのだ、俺以外の人間にとっては。


6: 2012/04/24(火) 23:24:07.38 ID:qSbSwrSBo

 不意に、隣に座る後輩が顔を上げた。俺は面食らってのけぞる。
 彼女は懇願するような表情で、「大丈夫ですよ」と言った。

「忘れないでください」

 俺の頭には一抹の罪悪感がよぎったが、それも一瞬だけだった。

 もはや、自分の中からは、さまざまなものが失われつつある。そのことを強く感じた。
 そして俺自身でさえも、もう何もかも失くして空っぽになってしまいたいと思っているのだ。

 もう、うんざりだ。こんな場所に居続けることは、もう無理だ。
 ここにはもう居たくない。楽になりたい。消えてなくなってしまいたい。

 いつまでこんな、果てのない砂漠のような場所を孤独に歩き続ければいいのだ?
 喉の渇きはいくら歩いたところで満たされるわけがないというのに、なぜ歩き続けなければならないのだろう?
 熱砂に沈み、干からびるのを待つ方がよほど理性的だ。
 どうせ何もかもが過ぎ去っていくだけのものなのに。
 
 こんな生活がいつまで続くというのだろう。

「大丈夫」と俺は嘘をついた。

「何の問題もないんだ」

 これは本当だ。何の問題もない。期待には応えてやればいい。答えられないなら、せめて、見破られない嘘をついてやればいい。
 それだけだ。それ以上のことは、何ひとつ期待されていない。ただそれだけのことなのだ。


7: 2012/04/24(火) 23:24:41.64 ID:qSbSwrSBo




 もし「校内でいちばん指が綺麗な男子は」と問われたなら、迷わず「トンボだ」と答える。
 そういうマニアックなランキングをつけたがる人間がいるのかどうかはさておき、彼の指はおそろしく綺麗だった。

 ともすれば女性か、女性的な男性に見まごうほどだ。
 全身を見れば身長や骨格から性別が分かるが、指だけを見ると手の大きな女みたいに見えた。

 顔つきも整っているが、中性的というよりは男性的な整い方をしている。
 運動と勉強は並よりちょっと上程度で、容姿と誠実でとっつきやすい性格が相まって人望も篤い。

 彼の指を見るたびに、ひょっとしたら人柄というものは指にも出るのかもしれないと真剣に思う。
 彼は正直で、潔白で、おおよそ罪悪というものに縁がない。少なくともそういうふうに見える。

 罪がないというのも一種の罪ではあるのだろうか。それを除けば彼に悪いところは見つけられそうもない。
 もちろんトンボだって失敗はする。間違ったことも言う。けれどそれは別に悪いことではない。

 動物を食べることが悪であり、人間はもともと悪い存在である、などと元も子もないことを言い出さない限り、彼はまったく正しい人間だ。


8: 2012/04/24(火) 23:25:11.63 ID:qSbSwrSBo

 俺とトンボは同じ部活に所属している。小学校の頃からずっと一緒のクラスだ。 
 そういう面だけ見れば、トンボと俺はかなり長い付き合いになる。だが、あくまでそれは表面上の話だ。

 毎日のように顔を合わせているにも関わらず、俺は彼と三回しか話をしたことがない。

 会話とも呼べないような会話ならもっとあっただろうが、一対一の会話は三回だけだ。
 それは俺とトンボの関係が特別に険悪だったというわけではない。
 仲が良くないクラスメイトとの関係なんてそんなものだし、一対一で会話をする機会なんて、仲が良くてもそうそうない。

 もともと俺は社交的な方ではないから、自分から誰かに話しかけたりしないし、トンボは来るものは拒まないが来ないものは呼ばない。去るものも追わない。
 相性の問題だ。お互い嫌いあっているわけではない。けれど話すことが少ない。そういう関係が確かにある。

 三回のうちの一回は今の学校に上がってから。今年の四月くらいのことだ。

 トンボが同じ部に入ったことに気付いた俺が、挨拶のつもりで話しかけると、彼は気まずげに微笑した。
 眉を顰めながら口角を釣り上げた表情は、そう見せるつもりはなかっただろうが、どこか蔑むようにも見えた。


9: 2012/04/24(火) 23:25:47.20 ID:qSbSwrSBo

 お前がこんな部に入るなんて意外だと言うと、今度は自然な微笑を浮かべ、

「そっちは別に意外じゃないね」

 と言った。

 その言葉になぜか気分がよくなって、俺は話を続けた。

「どうして入ろうと思ったんだ?」

「たぶんそっちと一緒だよ」

「一緒って?」

「ときどきはね、じっくり休める時間が欲しかったんだ」

 俺はこの言葉にかなり驚いた。
 これでは普段は休めていない、くつろげでいない、と言ったも同然だ。
 "品行方正な"トンボが自然なものではないことを認めるのと変わらない。


10: 2012/04/24(火) 23:26:14.50 ID:qSbSwrSBo

「意外だ」と口に出すと、彼は照れくさそうに笑って、「そうでもないだろ」と言った。

 たしかに、そうでもない。
 子供時代から品行方正だったトンボの本心を、俺は以前からかなり疑わしく思っていた。
 もちろん自分が勝手に感じているだったが、彼の仕草は、どうも意識的に"いいひと"であろうとしているように見えたのだ。
 悪いことではないので、そのことでトンボを嫌ったりはしなかったが、彼自身はかなり無理をしていたのだろうか。

 どれだけ善人であろうと、どれだけ品行方正であろうと、どれほど理路整然としていても、必ず誰かには嫌われる。
 トンボほどの人間でもそれは変わらない。
 
 ある程度の努力を、ある程度の時間払い続ければ、ある程度の願いは叶う。
 そうしてトンボは善人になった。その結果、何を得たかったのかは分からない。
 それでも嫌われることはある。努力の限界だ。

 ひょっとしたら、そういうことが嫌になったのかもしれないと俺は思った。もちろん憶測でしかなかったが、たいして外れてもいないだろう。

「なんだか嫌な気持ちになってきた」
 
 トンボは独り言のように言った。


11: 2012/04/24(火) 23:27:10.82 ID:qSbSwrSBo

「なにが?」

「自分が」

 彼がなぜこんなことを話す気になったのか、俺にはまったくわからなかった。

「どうして?」

「あんまり説明したくない」

 俺は不意に思いついて疑問を投げかけた。

「ねえ、お前ってさ、人を嫌いになったこと、ある?」

 トンボはほとんど表情を変えずに答えた。

「あまりない。そういうことは考えないようにしているし、考えそうになっても言葉としてまとまらないように自制してる」

「そうなんだ」

 やっぱり、と言いかけたがやめておいた。

 気疲れしそうな生き方だと、そのときの俺は思ったものだ。


12: 2012/04/24(火) 23:27:47.96 ID:qSbSwrSBo




 トンボは「ときどきは休みたかった」と言った。「そっちと一緒だよ」とも言った。
 でも、俺は別に休みたくはなかった。休むというなら最初から最後まで休んでいたし、それで困っていなかった。

 だから、彼の言葉は少しだけ的外れだったのだ。

 俺とトンボが入部した自然科学部は、部活動強制所属のうちの学校で、活力のない学生が生き残るための受け皿だ。
 現在の部員数は五名。そのうち男子が三名、女子は二名。

 三年の"ハカセ"が部長をやっている。彼も同じ小学校出身で、昔はよく遊んだりもした。
 もちろん、長い空白期間を挟んだあとでは、ただの先輩となってしまったのだが。

 自然科学部の活動は至ってシンプルだ。

 何もしない。

 部員たちは好きなように過ごす。話をしてもいいし、話をしなくてもいいし、何かしてもいいし、何もしなくてもいい。
 ただ、週に一度、水曜日に必ず部室を訪れ、下校時刻までぼんやりと過ごせばいい。
 
 活動の成果を求められることはないし、顧問もめったに部室に出てこない。


13: 2012/04/24(火) 23:28:35.06 ID:qSbSwrSBo

 ただぼんやりと過ごす。これはなかなかの苦行だ。

 他の人間は、熱心に部活動に打ち込んだり、勉強に励んだり、あるいは友人関係や恋愛に夢中になったりしている。
 そんな有意義な時間の過ごし方を外側からぼんやりと見ていると、強い不安や焦燥に駆られる。

「このままでいいのか?」

「何もしなくてもいいのか?」

「本当にいいのか?」

 現に、今年の春、俺たちと同時期に自然科学部に入部した男子は、一ヵ月もしないうちにやめてしまった。
 あるいは沈黙続きの部室に居続けることを苦にしたのかもしれない。真相は分からない。

「無意義に過ごす」を自覚的に行うのは、なかなかに難しいところがある。


14: 2012/04/24(火) 23:30:43.58 ID:qSbSwrSBo




 俺は校舎の屋上に寝転がっていた。太陽が燦々と輝き、空は青く、遥かまで澄んでいる。
 下の階でどこかのクラスが音楽の授業をしているのだろう、合唱曲の歌声がぼんやりと聞こえた。

 屋上にいるのが好きだった。一日中ずっと寝そべっていてもいいくらいだ。
 雨が降ってもきっと気にならない。それくらい、俺にとって屋上は特別なスペースだ。

 どうしてこんなに安心するのだろうと、何度も考えたことがある。
 その結果、この場所のいくつかの特徴がそう感じさせるのだろうと納得した。

 屋上という場所はかなり特殊だ。
"屋内"ではないが、"屋外"でもない。限りなく開かれているにも関わらず、ここからはどこにも向かえない。
 つまり一種の閉鎖空間だ。
 
 この開かれ閉ざされた空間に、俺は不思議なほどの安堵を抱く。いつからそうなったのかは思い出せない。 
 とにかく俺にとって、屋上はそういう空間だ。この場所でだけ、俺は安らぐことができる。……静かに眠ることができる。
 この"外"でもなく"内"でもない場所でこそ。


15: 2012/04/24(火) 23:31:32.91 ID:qSbSwrSBo

 ここにいる限り、俺はずっとひとりきりだ。孤独というものはある種の安心を伴う。
 
 闖入者がいるとすれば――おそらくは、鳥か虫か。あるいは、もっと別な何かだけだろう。

 "スズメ"はたぶん、そういう存在だ。そんなことを真剣に考える。

 俺の心を読んだわけでもないだろうが、スズメは屋上の鉄扉をくぐった瞬間、こちらに向けて声を掛けた。
 柔らかな風に長い髪が揺れる。無造作に広がった髪と風に揺れる制服。彼女の姿は何かの映画の主人公のようにすら見えた。

「どんな具合?」とスズメは笑った。

「至って快適だよ」と俺は答えた。
 
「ずっとここに居てもいいくらいだ」

「本当に?」

「……本当に」

 彼女は透き通った笑みを浮かべた。俺の言葉に反応したわけではないだろう。いつもこうだ。
 彼女と話をすることは、鏡と話すことと似ている。
 彼女から何かを言ってくることはない。こちらの話をちゃんと聞いているのかだって怪しい。


16: 2012/04/24(火) 23:33:17.06 ID:qSbSwrSBo

 それでも俺は、スズメに対して可能なかぎり正直であることを心掛けている。
 なぜだったかは忘れてしまった。……近頃はずっとこうだ。自分がいつから屋上にいるのかさえ判然としない。分からないことが多すぎる。
 
 俺は立ち上がって、制服を叩いて埃を落とした。

「もう行くの?」

 スズメは表情を変えずに行った。もし俺以外の人間が見たなら、彼女のこの態度を不気味にさえ思うかもしれない。
 実際、俺自身も、彼女を空恐ろしく感じることがある。何の感情も示されていないような表情は、マネキンが動いているようで、ひどく無機質だ。

「いや」

 それでも、すぐにこの場を離れる気にはなれなかった。
 
 気分は穏やかだった。朝、まどろんだまま布団にくるまっているときのようだ。
 あとちょっとだけだ、と俺は思った。
 あとちょっとだけだから、ここに居てもいいだろう?




 もちろん、そんなふうに面倒なことを先送りしていると、物事はさらに面倒になっていく。


17: 2012/04/24(火) 23:33:46.78 ID:qSbSwrSBo



「例の噂、聞いてない奴はいるか?」

 ある水曜、部室には五人の部員全員が勢揃いしていた。
 ハカセはホワイトボードの前にパイプ椅子を四つ用意し、全員に座るように言った。
 
 俺たちは怪訝に思いながらも従った。ミーティングなんてそれまで一度もやったことがなかったし、これからもないだろうと思っていた。
 どういう風の吹き回しかは知らないが、この状況は俺にはあまり喜ばしくない変化だ。

 ハカセはホワイトボード用のマジックペンをくるくる回しながら話を続ける。

「例の。旧校舎の」

 友人のいない俺は、噂と言われてもピンとこない。黙って話の動きをうかがっていると、後輩が口を開いた。

「あれですか。例の。鏡の」

 彼女の言葉に頷き、ハカセが話を再開しようとする。慌てて口を挟もうとしたが、それより先にシラノが声をあげた。

「すみません、噂って何の話ですか?」


18: 2012/04/24(火) 23:34:25.64 ID:qSbSwrSBo

 ハカセは呆れたような溜め息をついた。

「シラノ、お前、友達いないのか」

 歯に衣を着せぬ物言いだ。良いことか悪いことかはわからないが、ハカセは子供の頃からずっとこうだった。
 オブラートというものはどこかに落としてしまったらしく、相手が傷つこうが悲しもうがおかまいなしに思ったことを言う。

 彼自身は傷つけようとしているわけでもなく、自然とそうなってしまうらしい。
 一時はその癖を直そうと努力していたようだが、そうすると今度は反対に自分の意思を表明できなくなってしまうという。極端な奴だ。
 そのことで誤解されたり、嫌われたりすることが今でもあるらしい。

 俺は彼のそういうところが好きだった。ぶっきらぼうで遠慮のない、威風堂々とした態度が好きだった。
 だからといって、俺が彼に特別な親密さを感じているということにはならない。

 どちらかというと苦手意識の方が強かった。
 ハカセと一緒にいると、俺は自分の意思表示の稚拙さや、あるいはもっと根本的な幼児性に気付かされる。
 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼にはあるのだ。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはあるのだ。
 だから俺は、彼と目を合わせて話をするのが苦手だった。


19: 2012/04/24(火) 23:35:34.18 ID:qSbSwrSBo

「失礼な」

 彼女はハカセの言葉に眉をひそめた。

 シラノは俺と同じクラスに所属していて、自然科学部の数少ない女子部員(といっても一人しか違わないが)でもある。
 彼女の声は、どのような場面で聞いてもすこし間抜けな響きを持っている。
 本人はいたって真面目なのだが、舌足らずなのかなんなのか、独特の響きをもってしまうのだ。
 そのせいで誤解されたり、嫌われたりしたことが何度もあるという。
 
 俺は彼女の声が好きだった。愛らしくてそっけない、繊細そうな声音が好きだった。
 だからといって、俺が彼女に特別な感情を抱いていることにはならない。

 どちらかというと苦手意識の方が強かった。
 彼女といると、妙に緊張してしまう。彼女の表情は、笑顔であろうと無表情であろうと俺を不安にさせる。
 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼女にはあるのだ。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはあるのだ。
 だから俺は、彼女と正面切って話すのが苦手だった。

「いますよ、友達ぐらい」

「だったら噂くらい聞くだろう?」

「友達はいるんですけど、ガラパゴス化したというか、なんというか」

「つまり?」

「友達ごとクラスで浮いてるんです」


20: 2012/04/24(火) 23:36:01.14 ID:qSbSwrSBo

 彼女の言ったことは半分くらいは本当だ。
 たしかに彼女は、教室では二人の女子としか会話しない。けれどそれは浮いているわけではなく、敬遠されているのだ。
 
 学年の中でも断トツの容姿を誇るシラノとその友人ふたりは、女子の中でどう扱われているかはしらないが、男子の中ではかなりの人気者だ。
 不思議と彼女たちに声を掛ける男はいないが、クラスメイトたちがシラノの話をしているのを、俺は何度か見かけた。
 評判はかなりいい。だからこそ、女子の間では浮いているのかもしれない。
 男子の中にも彼女に話しかける者はいないから、本人してみれば、クラス中から避けられているのと変わりないのかもしれない。
 
 いずれにせよ、もともと友達のいない俺にはどうしようもないところだ。

「ジョーは?」

 ――ハカセは俺のことを"ジョー"と呼んだ。なぜかは知らない。いつからだったかも覚えていない。
 何か理由があった気がするが、大したことではないだろう。
 最初はどうにも間抜けなのでやめてほしいと思っていたが、今ではどうでもよくなった。

 馬鹿らしいあだ名だが、その名で呼ばれたところで俺が損をするわけでもない。
 名前なんてなんでもかまわない。なんなら数字でもいい。どうせ大した意味などないのだから。

「俺も知らない」

 正直に答えると、ハカセはふたたび溜め息をついた。こいつは一日に何度くらい溜め息をつくのだろう。


21: 2012/04/24(火) 23:37:11.25 ID:qSbSwrSBo

「お前ら、もうちょっと社交的になれよ」

「わたしはいつでも社交的なつもりですよ。誰でも話しかけてくださいって感じです」

 シラノはおどけて言ったが、誰も笑わなかった。ひとしきり空々しく笑った後、彼女は結局口を噤んだ。
 
 ハカセは社交的になってどうしろというんだろう。いまさらトンボのやり方をまねて上っ面の付き合いを広げてもどうにもならない。
 所詮、友人なんて必要不可欠なものではない。なくても困らないなら、手間を惜しんでも問題ない。
 もちろんいるに越したことはない。いてほしいときもあるだろう。
 けれど、何もしなくても時間は流れる。そうである以上、多くの問題はやり過ごすことができる類のものなのだ。
 
 俺がトンボと同じことをやろうとしても、すぐに飽きてしまうだろうと思う。
 それとも彼が言う噂というのは、その労力に見合うほどの価値を持つものなのだろうか?


22: 2012/04/24(火) 23:38:06.50 ID:qSbSwrSBo

「お前は知ってるか」

 ハカセはトンボに水を向けた。

「まあ、少しは。あれだろう、旧校舎の階段の、大きな鏡」

 トンボはすらすらと答える。彼の話し方は穏やかで落ち着いていた。その口調は、いつも俺の心を強く波立たせる。
 なぜなのかは分からない。俺はトンボに、理由はわからないが、奇妙な親近感を抱いていた。
 もちろん俺と彼との間に類縁性と呼べるものが少しもないことは自覚していたし、この親近感が単なる錯覚にすぎないだろうとも思ってはいた。
 それでもなぜか、俺はトンボに妙な興味を抱いていた。

 だからといって、彼が俺にとって特別な存在だという話にはならない。

 俺にとってトンボは、多くの人間と変わりなく単なる他人でしかなかった。
 そもそも俺は、彼という人間と長い時間一緒にいるのが苦手だった。


23: 2012/04/24(火) 23:38:37.61 ID:qSbSwrSBo

「それ」

 ハカセはトンボの答えに頷く。トンボは続けた。

「人が消えるって奴だ。鏡に呑まれて。神隠し」

「その通り」

 ハカセは満足そうに頷いた。

「そういう怪談がね、流行ってるわけ。学校で」

 俺とシラノに向けて言うと、ハカセはマジックを机に放り投げて両手をパンと鳴りあわせた。

「これさ、俺たちで調べてみない?」

 何か妙なことを言い出したぞ、と俺は思った。


24: 2012/04/24(火) 23:40:06.09 ID:qSbSwrSBo





 逢魔が時の旧校舎は「冥界」に繋がっている。そういう噂があるのだ。そのことを俺はよく知っていた。
 噂なんて聞いたこともないはずなのに、どうしてか、よく知っていた。

 厳密には、この「神隠し」は七不思議のひとつとして数えられる。

 空が茜色に染まった頃、旧校舎に忍び込み、校舎の東側の階段の踊り場に向かう。
 二階と三階の間の踊り場には、大きな鏡が貼られている。特筆するところのない、縦長でそっけない鏡だ。

 その鏡は旧校舎に迷い込んだ"こども"を、永遠に自分の中に閉じ込めてしまうのだという。
 そこは此処よりもおそろしく、ずっと寒々しく、ずっと暗く、ずっと重苦しい。
 ありとあらゆる悲しみと苦しみを、ごった煮にしたような世界なのだという。
 ただの噂話だ。


25: 2012/04/24(火) 23:40:49.35 ID:qSbSwrSBo




「七不思議の中でも、この"冥界の鏡"はかなり異質でさ」

 ハカセはさして面白そうでもなく話を続けた。

「他の怪談は、自頃した生徒の怨念だとか、氏んだことに気付いていない音楽教師の未練だとか、そういう類の話なんだ。
 でも、この鏡の話に関しては違う。
 他のものは"現実に原因があって不思議が起こっている"タイプの話だけど、これは"なぜだかわからないが不思議なことが起こる"タイプの話なんだ。
 ひとつだけ異質なんだよ」

 俺は溜め息をついてハカセの言葉を遮った。

「あのさ、ハカセ。そんなことを大真面目に考えたところで、噂話はしょせん噂だよ」

「分かってる。でも、この話はかなり前からあるものなんだ。七不思議なんてほとんど風化していて、みんな忘れてた。
 でも最近……なんでかわからないけど、つい最近、また噂になりはじめた。この鏡の話だけ。
 興味が湧かないか? 何か原因がありそうな気がするんだ」

 知らねえよ、と俺は思った。そんなこと自分ひとりでやればいい。どうして他人を巻き込む必要がある?
 興味なんて湧かなかった。いや、それどころか、むしろ嫌悪感すらあった。
 
 どうしてそんな噂が流れたりするんだ? 

26: 2012/04/24(火) 23:41:24.76 ID:qSbSwrSBo

 俺は不愉快な気持ちを抑え込んだ。何も言い返さずにいると、ハカセは他の人間の意見を確かめるように周囲に視線を巡らせる。

「なあ、調べてみないか。確かめるべきだと思うんだ。噂が本当なのか」

「どうして?」

 と今度はトンボが問う。ハカセは頭を振って、苦しげに顔を歪め、答える。

「わからない。でも、なんだかそういうことを考えていた。これは確かめるべき事柄なんだ」

 話にならない、と俺は思った。お前の事情なんて知ったことではない、と。だが、他の奴らは違ったらしい。

「わたしはかまいませんよ」

 と、まず後輩が頷いた。俺はなぜだか裏切られたような気分になった。

「どうせ暇ですしね」


27: 2012/04/24(火) 23:42:02.37 ID:qSbSwrSBo

 ハカセはほっとしたように溜め息をつき、他のふたりに視線を移した。
 
 トンボもまた、困ったように苦笑して、頷いた。

「いいよ」

 彼は後輩を見てにやりと笑った。

「どうせ暇だしね」

 シラノもまた、同じように笑う。

「暇ですからね」

 最後にハカセは俺の顔色をうかがった。俺の嫌いな表情だった。
 
「お前はどうする?」


28: 2012/04/24(火) 23:44:50.26 ID:qSbSwrSBo

 俺はどう答えようか迷った。調べたくなんかない。でも、それはたしかに必要なことだ。
(――必要なこと? どうして?)
 
 身体に奇妙な痺れのような感覚が広がっている。俺はそんなもの知りたくない。冥界がどうとか、本当にどうでもいい。
 嫌悪感すらある。もう新しいものなんて何ひとつ視界に入れたくないのだ。
 けれど、それをしなければならないという気持ちは確かにあった。

 そのことを強く自覚するたびに、俺は絶対にそんなものに振り回されたくなくなった。

 自分でも妙に意固地になっていると気付きながら、首を横に振っり、俺は立ち上がった。

「悪いけど、今日は気分が乗らない。俺抜きでも十分だろ。面白いことがわかったら教えてくれよ」

 立ち上がってパイプ椅子を畳み、壁に立てかけた。
 机の上に置いていた鞄を肩に掛けて、「もう帰るよ」と皆に声を掛ける。ハカセは少し気まずそうな表情をしていたが、仕方なさそうに頷いた。
 
 部室を出る直前、少しだけ後輩と目が合った。何を考えているのか、ちっともわからない表情だ。

 俺は思った。なあ、お前も俺も同じだよ、結局ここにいるしかないんだ。 
 特別なことなんて何も起こらない。何かしてもしなくても、変わらない。どうにもならないんだ。


29: 2012/04/24(火) 23:45:45.20 ID:qSbSwrSBo

 帰る途中、男子中学生の二人組とすれ違った。彼らは何かの話の途中だったらしく、すれ違うときにその会話が俺の耳に入った。
 片方が短く、

「知ってる?」

 と訊ねた。
 もうひとりは即座に、

「うん」

 と頷く。

 そのやりとりを聞いて、俺は無性に悲しくなった。涙が出そうなほどだった。なぜかは分からない。
 俺は知らないんだ、何もわからないんだと言ってやりたい気分だった。

 なぜなのか分からないことが多すぎる。
 いつからこんなことになったのだろう? どうしてこんなことになったのだろう?

 その問いの答えは、おそらく誰も知らない。忘れ去られてしまったのだ。




 残暑は一向におさまる気配を見せない。
 残照のような九月の夕暮れが、永遠に続いていく気がした。


32: 2012/04/25(水) 19:11:54.92 ID:JGE6sUjjo




 目を覚ますと、夕方の五時を過ぎていた。
 帰ってきてすぐに猛烈な眠気に襲われ、自室のベッドで仮眠を取ることにしたのだ。
 
 頭がぼんやりと重かった。身体を起こそうとすると関節が軋み、気怠い。億劫になって再びベッドに身体を沈める。
 何か奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。
 思い出す必要もないのだが、なんとなく気になってしばらくの間、寝転がって夢の面影を撫でまわしてみた。
 
 結局何も思い出せないまま時間が過ぎた。意識がはっきりとするのを待ってから、俺はベッドを這い出る。

 ふと机の上を見ると、机の上に手紙封筒が置かれていることに気付いた。
 薄い水色をした便箋を手に取る。こんなものに覚えはない。

 部屋の中をうかがう。誰かが部屋に入った気配はない。
 表にも裏にも何も書かれていない。封筒を開くと、中には三枚の便箋が入っていた。

 俺はその便箋を、一度大雑把に流し読みした。次に二、三度しっかりと読み、最後に小声で朗読までした。
 文字はお世辞にも上手だとは言えず、解読には時間が掛かったが、左上に書かれた俺の名前だけははっきりと読むことができた。
 

 文章は次のようなものだった。


33: 2012/04/25(水) 19:12:27.66 ID:JGE6sUjjo




前略
 突然このような手紙をお送りすることをお許しください。
 本来ならば直接ご挨拶に伺うべきなのですが、さまざまな理由から今はそれができません。
 このような文面で挨拶させていただくことを、どうかお許しください。
 要件は危急なのです。

 近頃、起こりつつある異変に貴方もお気づきになっていると思います。
"異変"という言い方をすると大袈裟だと感じられるかもしれませんね。
 もっとシンプルな言い方をしましょう。

 この世界に、"ズレ"が起こり始めているのです。
 心当たりはございますか?
 

34: 2012/04/25(水) 19:13:06.03 ID:JGE6sUjjo

 それと言いますのも、あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王、カリオストロの復活が原因です。
 あの山師! 忌々しい昏き光!  
 理想と幻想の女神ガラテア様のお力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。
 
 原因は分かりません。とにかく、カリオストロの力の流出を止めなければ、この世界の"ズレ"はもっと広がっていくでしょう。
 そうして広がった間隙から、彼の者の腕が忍び入り、この世界に破綻をもたらしてしまう……。
 ガラテア様はそのことにいち早く気が付き、魔神の復活を阻止なさろうとなさいました。

 けれど、ガラテア様は、カリオストロとの戦いでお力のほとんどすべてを失われていました。
 そこで、お話は貴方様に繋がります。

 カリオストロの封印を成し遂げる際、ガラテア様は自らの強大な力によって世界に影響を与えるのを避けようとなさいました。
 その際、ガラテア様がとった方法とは、ひとりの人間に女神の力を分け与え、代行者としてその者を戦わせるというものです。


35: 2012/04/25(水) 19:13:47.17 ID:JGE6sUjjo

 半神の身になった彼は、所詮は野蛮な亡者にすぎぬカリオストロに後れを取りませんでした。
 世界の平穏は保たれましたが、けれど、人に力を与えるのは大罪です。
 ガラテア様は高き者の怒りに触れ、お力の大半を失ってしまわれたのでした。
 
 言うまでもなく、カリオストロを封印した一人の英雄、これは貴方の前世です。

 世界はふたたび、彼の者によって危機にさらされようとしています。
 ガラテア様のご意志に従い、我々と運命を共にし、世界を守る戦いに協力していただけませんか?
 英雄の魂をもつ貴方ならば、きっと成し遂げられるはずです。

 つきましては、近々、詳しい話をするために、そちらへお伺いしようと思います。
 今回は、簡単な事情の説明とご挨拶だけで終わらせていただきます。
 
 よしなに。

                    草々


36: 2012/04/25(水) 19:14:34.20 ID:JGE6sUjjo


 

 二枚目の右下には、おそらく書いた者の名前だろう、なんなのかよく分からない法則性を持った象形文字のようなものが並んでいた。
 三枚目は白紙だった。
 
 俺は最後にもう一度便箋を読み返すと、それを封筒にしまい直し、机の引き出しに放り込んだ。

 狐につままれたような気分で、頭を掻く。 
 
 気分が落ち着かなかったので出かけることにした。
 財布と携帯だけを持って玄関を出る。特にどこに向かうでもなく、住宅街を歩いた。
 
 緩やかな勾配の坂を上りきり、児童公園の自動販売機でスポーツドリンクを買った。
 その場でペットボトルの蓋を開けて口をつける。蓋を締め直したとき、ベンチに人がいたことに気付いた。

 ひどく、目を引いた。おおよそ児童公園には似つかわしくない人影だ。
 真黒のスーツを身にまとった、大男だった。
 ディアドロップのサングラスで目元を隠しているが、その奥の視線がこちらに向いていることがぼんやりと分かる。


37: 2012/04/25(水) 19:15:37.95 ID:JGE6sUjjo

 何か変なのが現れたぞ、と俺は思った。

「坊主、金貸してくれないか」
 
 大男は言った。ドスは効いていたが、思っていたよりは軽妙な話し方だ。
 俺は少し警戒しながら答えた。

「悪いけど財布を忘れたんだ」

「お前はバカか」

「自分でもバカだバカだと思うことは多いけど、見知らぬ人に言われるほどひどくはないはずだ。財布を忘れたくらいでバカ扱いもないだろう」

「そうじゃねえ。ついさっき自販機でドリンク買ったじゃねえか。さっき出したのが財布じゃなけりゃなんだ。カード入れか」

「ああ。カード入れなんだ」

 大男は笑った。

38: 2012/04/25(水) 19:16:13.95 ID:JGE6sUjjo

「いいから貸してくれよ。俺は腹が減ってるんだ。飲み物を飲んでごまかしたい。百二十円でいい」

「こういうのもカツアゲって言うのかな?」

「ああ? いや、違う。カツアゲじゃない。借りるだけ」

「いいけど、返す気ないよね?」

 彼は目を丸くした。

「どうしてわかった?」

 俺は彼にかすかな親近感を抱いた。


39: 2012/04/25(水) 19:16:53.41 ID:JGE6sUjjo




 大男は名乗らなかったし、俺も訊ねなかった。
 俺から受け取った金で缶コーヒーを買うと、彼はふたたびベンチに腰を下ろして溜め息をつく。

 その姿は、冬の山をひとりで散歩する冬眠前の熊みたいにも見えた。
 プルタブを捻って缶を開け、大げさな手振りでコーヒーを一口飲んでから、大男は言う。

「坊主、今は何時だ?」

「さあ?」

「時計、持ってないか」

「ああ」

「携帯は?」

「ちょっと待って」

 俺はポケットから携帯を取り出したが、案の定、充電切れで電源が入らなかった。
 そういえばしばらく充電していない。どれくらいになるだろう。……別に、どうでもいいことではあるのだが。


40: 2012/04/25(水) 19:17:21.54 ID:JGE6sUjjo

「電池切れてる」

 正直に言うと、大男はにやりと笑った。

「お前、友達いないのか」

「まあね」

「寂しくないのか」

「別に」

「反抗期の子供みたいな態度だな」

「わりと反抗期が尾を引いた方なんだ」
 
「そうかよ」

 大男がどうでもよさそうに笑うと、そこで話は途切れた。


41: 2012/04/25(水) 19:18:18.36 ID:JGE6sUjjo

 彼の持ち物は大きな鈍色のアタッシュケースがひとつきりだった。
 それ以外のものは何ひとつ持っていない。アタッシュケースだけを抱えて、遠くの街から逃げてきたような風情だった。

 無性に興味を引かれて、ケースの中身について大男に訊ねてみた。
 大男はにやにやと笑みを浮かべ、「知りたいか?」と言った。

「教えたくないならいいけど」

「心にもないことを言わずに、素直に聞いていいんだぜ。よし、見せてやろう」

 大男は脇に置いていたアタッシュケースを膝の上に載せて開いた。
 その中身を見たとき、最初は何が入っているのか分からなかった。

 何秒かして、それが大量の札束であることに気付いた。心臓が一度だけドクンと強く鼓動する。
 俺は平静を装って言った。

「金、持ってるじゃないか」


42: 2012/04/25(水) 19:18:52.26 ID:JGE6sUjjo

 大男は呆れたように深い溜め息をついた。

「お前、かわいげってものがないね。もっと驚けよ」
 
「いくら入ってるの?」

「五千万」

「ゴセンマン。へえ」

 五千万ってどのくらいだっけ? マンションくらいなら買える? まあいいや、と俺は思った。どうせ俺の金じゃない。
 そんなことよりも、この大男がこんな大金を持ち歩く理由の方に興味があった。


43: 2012/04/25(水) 19:19:42.88 ID:JGE6sUjjo

「アンタ、何してる人?」

「"アンタ"はないだろ、坊主。敬意をこめて"おじさん"と呼べ」

「"坊主"はないだろ、オッサン。で、何やってる人?」

「頃し屋」

「コロシヤ」

 また妙な奴と話をしてしまったな、と俺は思った。

「頃し屋なのに五千万しか持ってないの? 少なくない?」

「少なくはない。後ろ暗い商売だからな、依頼する側も足元見るのよ」

 後ろ暗いのはお互い様なんだから、付け込むことだってできるだろうに。
 

44: 2012/04/25(水) 19:20:27.07 ID:JGE6sUjjo

「というか、まあ、金はもっとあったんだけどな。なくなっちまった。全部」

「どうして?」

「いや、まあ、そうな。いろいろだ」

「いろいろ。へえ、それで、その金で何をするつもりなの?」

 話の流れで訊ねると、大男はしかつめらしい表情を作った。
 重苦しく口を開き、声をひそめて呟く。

「頃してもらうんだよ。俺をな」

「……へえ」

 世の中にはいろんな人間がいるものだ。


45: 2012/04/25(水) 19:21:50.08 ID:JGE6sUjjo




 俺は恵まれた人間だ。本当にそう思う。
 他人との比較で自分自身の幸福を測れるわけではないが、俺はたしかに他者と比較しても恵まれている。

 食べ物にも飲み水にも寝泊りする屋根にも困らない。特に厳しい仕事をしなくても生きていくことができる。
 挫折や妥協というものと巡り合ったことは一度もないし、またこれからもそうそう出会う気がしない。

 身体にも問題はない。至って健康そのもので持病もない。アトピーも持っていない。
 働き蜂の両親から、日がな一日遊びまわる生活を一週間続けても困らないほどの金を預けられている。
 携帯もパソコンもゲームも本も、親に頼めばいつでもなんでも手に入れられた。

 上手くいかないことは人間関係くらいだろうか。

 こうして自分についての情報を列挙してみると、自分が恵まれているということをよく理解できる。
 客観的に見て、悩みもなく、苦しみもなく、人に後ろ指を指されることもない。

 端的に言い表すと、「満たされている」ということになる。


46: 2012/04/25(水) 19:23:01.79 ID:JGE6sUjjo

 何かの本で読んだ。人間が人間らしく生きていくには、"欲望"が必要なのだ。
 欲しいものが何ひとつない人間は生きていけない。生きていく理由がないからだ。目的がないからだ。
 
「理由なんかなくても」「目標なんかなくても」と言う人もいるが、この言葉はあまり役に立たない。
 理由がないと人間は氏ぬ。目標がないと人間は沈む。
「理由なんかなくても」と言いたがる人間は、その言葉を放つことで"理由がない"自分自身を奮い立たせようとしているに過ぎないのだ。
 それはその人自身にとっては意味のある言葉だが、他人には何の効用ももたらさない。
 
 何も欲しくない。携帯もパソコンもゲームも本も。この世で手に入るものは何ひとつ欲しくない。

 欲望にはきりがない。決して完全に満たされることはない。それならば、最初から何も欲しがらなければいいのだ。
 どうせ欠乏感はついて回るのだから、金を掛けてまで何かを手に入れても仕方ない。

 俺は何も欲しがらない人間になった。部屋にはベッドと机と、夏から置きっぱなしの扇風機しか置いていない。
 クローゼットの中の服も、すべて必要だから買っただけで、欲しいと思ったことは一度もない。
 

47: 2012/04/25(水) 19:23:37.45 ID:JGE6sUjjo

 二年か三年、そうやって過ごした。すると不思議な顛倒が起こる。
「何も欲しがらない」という満たされているはずの状態に、奇妙な空虚感がつきまとうようになったのだ。
 まるで自分自身に「何もない」ような気がした。好きなものも嫌いなものも。

 いつのまにか、からっぽになった。俺という人間は本当に生きているのだろうか?
 現実と妄想の境目は曖昧になり、何も考えなくなった。いつ氏んでもいいような気持ちだった。
 
 そんな状態が何年も続いている。不健全だ、と思うが、不健全で何が悪い、と思う自分もいた。
 この状態は苦しい――だが、どう変わったところで苦しいのは変わらない――ならば変わらなくてもいいのではないか?
 何かを求めるべきではないか? ――そう思うということは、自分は健全に生きたいのだ――だが、いまさら何ができる?

 そもそも俺は本当に生きているのだろうか? しっかりと? 現実で?
 
 もう誰にも会いたくなかった。さまざまな情報にうんざりしていた。
 何も言いたくないし何も聞きたくない。新しいものは何も見たくない。何もない場所へ行きたい。
(――だったら氏ねよ)


48: 2012/04/25(水) 19:24:32.30 ID:JGE6sUjjo




 準備を終えて家を出る。通い慣れた道を通り、学校へと向かった。
 校門に着く頃には、同じ学校の生徒がぱらぱらと目についた。さして気にも留めずに歩く。
 自分に関係しない他者は、背景とほとんど同じものだ。

 教室についても、俺に話しかけるものはほとんどいない。
 クラスメイトも、この街の住民も、俺にとっては背景の中の存在だ。あるいは、俺自身が彼らにとっての背景に過ぎないのか。
 おそらく、そのどちらも正解なのだろう。

 嫌気がさして、鞄を置いてすぐに教室を出た。校舎を適当に歩き回るのは暇つぶしには最適だ。
 誰に会うわけでもなく、何か用があるわけでもない。

 しなければならないことはひとつもない。つまり俺は自由だった。
 だとすれば、この閉塞感はいったいどこから訪れたものなのだろう?

 屋上へと続く階段を昇る。鉄扉を押し開くと、少しあたたかな風が屋内に吹き込んだ。

 風が校舎に吹き込む。窓の冊子をカタカタと鳴らす。
 不意に、とても、自分の生活が、あるいは自分というものが、空疎に思えた。


49: 2012/04/25(水) 19:25:08.54 ID:JGE6sUjjo

 俺は屋上に寝転がった。鈍色のフェンスに区切られた空間。
 隔絶され、孤立した空間。そこには言いようのない安らぎがある。
 外に出て仰向けに寝転がってみると、太陽は意外なほど暖かかった。
 
 俺は瞼を閉じ、その裏で陽の光を感じた。こんなふうに照らされていれば――何かが変わることはあるのだろうか?
 そんな考えを、我ながら馬鹿らしいと鼻で笑う。

 なんだか、とても眠い。
 近頃は、どれだけ眠っても寝足りない。ずっと眠っていてもいいくらいだ。
 
 俺は起きていることにうんざりしていた。ずっと眠っていたかった。
 何が悲しいのではない。何が悔しいのでもない。
 
 疲れたのだ、目を覚まし続けていることに。
 必氏に目をこらしてみたところで、何かが変わるわけでもない。この手が何かをつかみとるわけでもない。
 
 俺は何かを一心に待ち続けていた。
 そうやって待っていれば、いつかなんらかの解決が訪れてくれると思っていたのかもしれない。
 偶然に期待することは、居もしない神に祈ることと、どう違うだろう?
 自ら積極的に行動する能力を失った魂は、生きながらにして氏んでいく。これは自明だ。


50: 2012/04/25(水) 19:25:41.99 ID:JGE6sUjjo




 目をさますと、俺は案の定、学校の屋上に寝転がっていた。どうやら眠っていたらしい。

 記憶ははっきりとしていた。朝、屋上に来て寝転がり、眠ってしまっていたのだ。

 タチの悪い夢をみた気がしたが、内容はどうしても思い出せそうにない。
 うんざりして、吐き気がこみあげてきそうだった。

 目を開けると、青紫の雲と、赤褐色の空が見えた。
 ほとんど半日眠っていたことになる。もう日没が近いらしい。少し風が冷たかった。

 眠る前に感じていた、この場所に対する安心感、親密さのようなものは、すっかりと失われてしまっていた。
 それがなぜなのかはわからない。
 

51: 2012/04/25(水) 19:26:17.86 ID:JGE6sUjjo

 気だるさに溜め息をつくと、すぐ傍から声が聞こえた。

「起きた?」

 ひときわ強い風が吹き抜けた。声のしたほうに顔を向けると、見慣れた顔と姿が見える。

 彼女は寝転がった俺の横に座って、ぼんやりとした表情をこちらに向けていた。
 笑うでもなく、さりとて不機嫌そうでもなく、無表情のままこちらをじっと見つめている。

 昔からの付き合いのはずなのに、こいつの考えていることは、俺にはちっともわからない。

 普段どんなことを考えて生きているのか、どんなふうに生活しているのか、何を考えているのか。 
 彼女のことはさっぱりわからない。

 一応、幼馴染と呼べなくもない間柄ではある。だが、単なる昔からの知り合いと言うほうが正しいだろう。
 そうだ。もう何年も話していないのだから、せいぜいが「知り合い」だ。
 
 こいつのことは昔から何ひとつ分からない。
 いったい何がしたいのか、俺をどう思っているのか――いや、そんなことはどうでもいいはずなのだけれど……。


52: 2012/04/25(水) 19:27:05.54 ID:JGE6sUjjo

 少し考えて、思う。"何年も話していない"? そうだっただろうか。
 俺が彼女と最後に話したのはいつのことだっけ? 何年も前だっただろうか?
 そうだという気もするし、つい昨日、話をしたようにも思える。

 俺は思い出すのを諦めた。……どうでもいい。そんなことは本当にどうでもいいことだ。
 彼女は力を入れ続けるのが億劫になったように首をかしげて頭をぐらぐらと揺すった。長い髪がくるりと揺れる。

 目を細めてその仕草を眺めながら考える。どうして彼女がこんなところにいるのだろう?
 理由がわからないという疑問以上に、戸惑いに似た抵抗を俺は感じていた。

"彼女はここにいるべきではない"と俺は強く思った。どうしてこんなところにいるのだ?
 こんな場所に――現実から切り離され、何もかもが立ち止まってしまったような場所に――彼女はいるべきではないのだ。
 ここには俺のような人間だけが訪れ、そして俺のような人間だけが長い時間を過ごしていけばいい。

 彼女はここに向いていない。彼女はこんなところに来るはずがない。
 ああ、だから、ひょっとしたら……ここにいる彼女は、俺が見ている夢のようなものなのかもしれない、と、そんなことを大真面目に思った。
 夢と現実の境もまた、俺にとっては曖昧だ。どこからが現実であり、どこからが夢なのか。そんなことはもう分からない。

 俺はいつもの通り、周囲の様子をうかがって、適当に状況に合わせることにした。どこにいたって変わりはない。
(どこにいてもやることが変わらないなら、、わざわざ自分の足でどこかを目指したりする必要があるのだろうか?)


53: 2012/04/25(水) 19:27:34.73 ID:JGE6sUjjo

 彼女は特に感情もこもっていないような溜め息をつき、それからくすりと笑って言った。

「こういうところ、好きなの?」

 その言葉に、俺はたまらなく恥ずかしい気分になった。なぜかは分からない。
 自分のなかの未熟さや不安を見透かされたような気がしたのだ。

 何も答えられずに黙り込むと、彼女はすっくと立ち上がり、制服のスカートを両手でたたいて、気持ちのいい音を鳴らした。

「さよなら」

 と彼女は言った。俺は何も答えられなかった。

 どう答えればいいと言うんだろう? 何度もこんなことを繰り返しているような気がする。
 俺じゃない誰かが、俺の立場とまるっきり同じ経験をし、まるっきり同じ気持ちだったなら、何か別の手段を択べただろうか?
 いや、そんな考えは空しい言葉遊びでしかない。分かっているのだ。

 俺は何かを選ぶしかない。だからといって……何を選べというんだ?


54: 2012/04/25(水) 19:28:06.88 ID:JGE6sUjjo

 おそらく俺にとって最大の問題はそこなのだ。俺には選びたいものがない。
 欲望するべき何かがない。欲しいものなんてなにひとつないし、行きたい場所なんてどこにもない。
 だったら、馬鹿げた努力を続けて"世間"にとどまり続ける理由はあるのだろうか。

 こんなむなしさを誰もが持ち合わせているのだとしたら、そんな"世界"はまったく正気じゃない。

 屋上には俺以外の人間が誰もいなくなってしまった。立ち上がり、フェンスに歩み寄る。
 こんなところにいたら、昔は無性に泣き出したい気持ちになったものだ。今はそれがない。それすらない。
 より致命的な状況はどちらかと聞かれれば、おそらく今の方が重篤だろう。

 開けたばかりの視界には、沈みかけの夕陽は眩しすぎて、刺さるように痛かった。
 だからといって、何がどうというのではない。そんな感覚は、俺になにひとつもたらさない。

 陽が昇り沈むということは、一日の生活の象徴だ。それはサイクルを意味する。
 生活というサイクル。無限のような有限の中、永劫のような一瞬をただ繰り返すだけのサイクル。
 書き割りの街の中の、焼き増しの日々。ゆっくりと毒に侵され、刻一刻と身体の自由を奪われていくような時間。生活。


55: 2012/04/25(水) 19:28:30.55 ID:JGE6sUjjo

 惰性に支配された人間にとって、未来は向かうものではなく問答無用に襲い掛かってくるものだ。
 そこに自分の意思は存在しない。前には進んでおらず、また立ち止まるわけでもない。
 ただ、今まで歩いてきたのだから、まぁ、歩き続けたところでかまわないだろう、というわけだ。
 ベルトコンベアーに載せられているのと変わらない。

 立ち止まることはいつでもできるという言葉は、使い古されてはいるが、間違ってはいない。
 
 何もかもが動き続ける世界で自分だけが立ち止まることは、何もかもが立ち止まった世界で自分だけが後退することと等しい。
 
 後退はやがて自分を病ませる。その毒は静かに身体中を巡り、体の自由を奪っていく。
 この何もかもが動き続ける世界で立ち止まるということは、とりもなおさず氏を選ぶ、ということだ。

 俺は立ち止まった。それは俺が氏にたがりだったからじゃない。
 ただ、気付いていなかったのだ。立ち止まることがそのまま奈落に落ちることを意味するということに。
 このベルトコンベアーは後ろ向きに進んでいて、俺たちは歩き続けることでなんとか現状を維持できていたのだということに。
 立ち止まれば、奈落に落ちていくだけだということに。

 一度そこに落ちてしまえば、誰も助けることはできない。落ちてしまったら、誰も助けることはできない。
 声を掛けたりすることはできるかもしれない。怒鳴りつけたり、励ましたり、罵倒したり、嘲笑ったり。
 でも、誰も手を差し伸べることはできない。


56: 2012/04/25(水) 19:28:57.44 ID:JGE6sUjjo

 惰性というものは唐突に効力を失う。そこにはなんの予兆もない。
 あたかも電池が切れるかのように、突然、ぷつんと途切れてしまうのだ。

 前もって回避することは困難だし、常にそれを警戒していては疲弊してしまう。
 誰にでも訪れうる。それもさまざまな形で。

 だからこんなふうに、ある日突然、身動きがとれなくなって、そのまま何もできなくなってしまう。
 そういう種類の人間がいる。そうなってしまいやすい人間がいるのだ。

 俺を取り巻く状況すべてが、俺自身が限界に近付いていることを示している。
 かつて俺は、眠ったまま生き続けることを誓った。目を逸らして、さまざまな物事から逃れようとした。
 でも結局は逃れられないのだ。それはどこまでも追いかけてくる。どうやったって無駄だ。逃げられない。

 何もかも投げ出して、逃げ出してしまっても、それはそれでかまわない。自分自身がしっかりと納得できるのなら。

 いっそ何もかも投げ出し、逃げ出した方が楽なのだ。遥かに。明らかに。
 そうまでして再び歩きはじめる理由を、俺は持ち合わせているのか?
 おそらくない。まったくない。これっぽっちもない。俺は何も必要としていないし、何も俺を必要としていない。
 
 俺はいったい何をどうしたいんだろう? 


58: 2012/04/26(木) 13:11:00.11 ID:Cz0n/SBjo

誤字脱字訂正

4-9 想想 → 妄想

20-6 本人してみれば → 本人にしてみれば

28-7 首を振っり →首を振り

52-15 変わらないなら、、 → 変わらないなら、

59: 2012/04/26(木) 13:11:32.44 ID:Cz0n/SBjo

 自然科学部の部室には誰もいなかった。
 四人分の鞄は置いてあるので、帰ってはいないだろう。例の噂について調べているのかもしれない。

 夕陽が窓から差し込み、赤と黒のコントラストを作り出している。

 俺はパイプ椅子に腰を下ろした。手持無沙汰をごまかすために鞄から小説を取り出したが、退屈でまったく読み進められない。
 
 しばらくぼんやりと考え事に浸っていた。さまざまなことを考えた。
 トンボのこと、ハカセのこと、シラノのこと、幼馴染の女の子のこと、距離ができた妹のこと。
 ちっとも帰ってこない両親のこと、スズメのこと、奇妙な手紙のこと、黒いスーツの大男のこと。
 
 どれもこれも、布の上にばらばらに散らばったガラスの粒のように些末なことに思えた。
 誰のことをどんなふうに考えても、俺の思考はいつも自分自身のことにたどり着く。
 
 結局のところ俺は他人のことなんて考えていない人間だ。自分のことしか考えていない人間なのだ。

 そんな人間が誰かに好かれたりするわけがない。誰かに必要とされたりしない。
(こんなことを考えるのは俺が誰かに好かれたいからだろうか?)


60: 2012/04/26(木) 13:12:03.54 ID:Cz0n/SBjo

 考えごとをやめてふと窓の外を見ると、世界は深い藍色に染まっていた。
 部員たちはまだ帰ってこないらしい。 時計を見ると、案外早い時間だ。
 そこで俺は雨音に気付いた。こんなに暗いのは、どうやら雨が天気が悪いかららしい。

 雨が降れば、屋上には出られない。別に行きたいわけでもないのだが、心細く感じるのはどうしてだろう。
 
 遠く向こうの雲は煙のように黒く膨らんでいる。
 耳鳴りが聞こえた。

 立ち上がり、自分の荷物を持って部室を出る
 俺は図書室に向かった。借りていた本を返さなくてはならない。


61: 2012/04/26(木) 13:13:16.39 ID:Cz0n/SBjo



 廊下を歩いても、人とはほとんどすれ違わなかった。時間が時間なので当然と言えば当然なのだが、天気も相まって不気味に思えた。
 
 校舎から人が消え失せてしまったような気がした。
 普段は気に留めない、壁や机や椅子が、俺には聞こえない囁きを交し合っているように思える。

 もちろん、そんなのは錯覚だ。現実に物は喋ったりしない。
 でも――そういえばここは、現実だっただろうか?
 
 俺は頭を振った。ここが現実であろうとなかろうと、俺がやることは変わらないはずなのだから。
 電灯に照らされていても、廊下はどことなく青白い闇をまとっている気がした。
 風が窓をかたかたと鳴らす。切れかかった廊下の電灯がカチカチと明滅する。


62: 2012/04/26(木) 13:14:11.00 ID:Cz0n/SBjo

 誰かいないのだろうか? まるで例の噂の神隠しにでもあった気分だが、俺は旧校舎に足を踏み入れたことはない。
 そんな否定は、噂なんてあてにならないという一言で済んでしまうのだが。

 俺は旧校舎に行ったことがない。あんな薄暗い場所に、俺が行くはずがない。
(――"あんな薄暗い"?)

 頭の奥がズキズキと痛む。
 図書室への道のりはこんなに長かっただろうか。

 誰でもいいから俺の前にあらわれてくれないだろうか。
 トンボでもハカセでもシラノでも誰でもいい。できれば後輩がいい。幼馴染とスズメには会いたくない。
 
 誰か通りがかったりしないのか?

63: 2012/04/26(木) 13:15:28.65 ID:Cz0n/SBjo

 やっとの思いで図書室にたどり着くが、様子はほとんど廊下と同じだった。
 本棚が林立する室内から、人の姿はほとんど消えていた。その光景は、なぜだか俺に世界の終わりを思わせた。
 ふと、あの手紙の内容を思い出す。

"理想と幻想の女神ガラテア様のお力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。"

 あの時代遅れにもほどがあるダイレクトメール。月刊ムーの全盛期でもあるまいし。 
 あんな内容の手紙を真に受けるバカがいるものだろうか?
 ましてや英雄だなんて。ばからしい。……本当に、ばからしい。
 
 カウンターの中では図書委員の子が本を読んでいた。
 この子はきっと、世界が明日終わるとしてもここで本を読み続けるに違いない。そう思わせる何かが彼女にはあった。
 
 俺はその姿に少しだけ安堵した。自分はひとりで取り残されてなんていないと分かったからだろうか。

 閑寂な図書室に、俺の足音は大きく響いたが、それでも彼女は顔をあげずにいページに視線を落としている。
 

64: 2012/04/26(木) 13:15:58.25 ID:Cz0n/SBjo

 その姿は図書委員というよりは、図書室の番人のように見えた。
 彼女はいつもここにいる。委員会の活動は曜日ごとの交代制なのに、毎日ここにいる。
 なぜなのかは分からない。聞いてみたこともない。話しかけたこともない。

 それでも彼女はここにいる。

 俺は鞄から本を取り出し、カウンターに差し出した。
 彼女は緩慢な手つきで本を受け取ると、時代遅れな貸出カードに返却日を記入するように無言でペンを示した。

 俺はペンを握り、カードに文字を走らせる。

 今日はいったい何日だっけ?

 一瞬、本気で今月が何月なのかもわからなくなった。 
 こんなことばかり起こる。……どうしてだろう。いつからこうなった?
 俺は何か大事な何かを見逃しているのかもしれない。……俺の生活から、何かが欠けてしまったのだろうか。


65: 2012/04/26(木) 13:17:15.86 ID:Cz0n/SBjo



 
 シラノのことを思い出す。
 
 俺と彼女が最初に出会ったのは肌寒い四月。入学したての仮入部期間の放課後だった。
 俺は体育館裏の切り株で読書をして退屈をごまかしていた。そこにシラノが現れたのだ。

 俺とシラノは入学当初、かなり仲が良かった。俺にもシラノにも、知り合いと呼べる人間がほとんどいなかったからだ。
 男と女ふたりで会うにも、からかわれることもなければ邪推されることもない。
 友人がいないというのは、そういう意味では快適だった。

 シラノと話をするのは、俺に少なからぬ安心をもたらした。
 問題なく他者とコミュニケーションをとれる自分自身を発見できたからだ。

 彼女は自分のことをほとんど話さなかったし、俺も自分のことを話さなかった。
 だから、俺たちは本当のところ会話らしい会話をしたことがなかった。

66: 2012/04/26(木) 13:17:47.14 ID:Cz0n/SBjo

 天気だとか、季節だとか、勉強だとか、食べ物だとか、せいぜいがそんなものだ。
 同じ部に入ったのも、部を選ぶ期間を共に過ごしていたからだという気分が強い。

 だからといって、俺はシラノに特別な感情を抱いたりしなかった。
 シラノの方もそうだろう。俺たちは結局、お互いに興味がなかった。

 俺は自分にしか興味がない人間だし、シラノは自分自身にすら興味がない人間だった。
 そんな者たちが一緒にいたところで、何かが起こるわけでもない。
 
 シラノに必要なのは、彼女に興味を持つ人間だった。彼女に対して積極的に影響を与えうる人物だった。
(そんな人間が本当に存在するのかどうかは別の話だ)

 彼女の方に友人ができると、俺たちは部活の時間以外はほとんど話さなくなった。
 だからといってどうというのではない。

 あるときシラノは、「君が何を考えているのかさっぱり分かりません」と言った。

 シラノ、俺も同じだよ。
 俺だって自分が何を考えているのか分からないんだ。
 きっと自分のことしか考えていないんだと思う。

 君のことなんてこれっぽっちも考えていないんだ。


67: 2012/04/26(木) 13:18:25.98 ID:Cz0n/SBjo




 昇降口で、運動部の連中に声を掛けられた。見覚えはなかったが、どうやらクラスメイトであるらしい。
 背の高いサッカー部の部員は、気安げに俺の肩を叩いた。 

「お前も聞き込みか?」

「何の話?」

「あれ、お前、自然科学部だったよな? シラノたちが噂について教えてほしいって、校舎中歩いてるみたいだったけど」

「ああ」

 例の噂について、ハカセたちはシンプルな手段を取ったらしい。 
"噂"について調べるには、その噂の源を探すのが手っ取り早い。
 これまでほとんど話題に上らなかった怪談が、突然妙な盛り上がりをみせたのだから、その方法は有効だろう。
 
 いったい何が原因で噂が広がったのか。


68: 2012/04/26(木) 13:19:03.92 ID:Cz0n/SBjo

「お前は何やってんの? サボり?」

「まあね」

 頷くと、彼は爽やかに笑って、「じゃあな」ともう一度俺の肩を叩いた。

「ああ」
 
 と俺は頷く。彼の名前は何と言っただろう。まあいいや。どうせ明日は話もしないだろうから。
(使いもしない情報を覚えて何になるというのだ?)

 俺は学校の敷地を出て、帰路を辿った。
 朝起きて、学校へ行き、家に帰り、眠る。生活というサイクル。

 何もかもが平坦で無意味だ。


73: 2012/04/27(金) 15:39:43.81 ID:EJ+zLRyao




 ふと気付くと、俺は自室の椅子に座って携帯電話のディスプレイを眺めていた。 
 いつからここにいたのかは思い出せない。日付はさっきまでと変わっていた。十月。

"ズレ"たのだ。

 外は暗く、部屋の電気は既についていた。立ち上がってカーテンを閉める。

 部屋を出てダイニングに向かう。冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、コップに注いだ。
 一息に飲み干すと、冷たい液体がじんわりと体に染み渡るのがわかった。

 キッチンのカウンターに置かれた写真立てが、不意に目に入った。
 家族で撮った写真だ。いつ頃撮ったものだったか。俺が小学生くらいの頃だろうか。

 今より少し若い両親と、今よりも幼い俺と妹。夏の広い向日葵畑をバックに、全員が笑っていた。
 青空と太陽、向日葵とそよ風。今も克明に思い出せる。
 何もかもがおぼろげで判然としない俺の生活の中で、過去の思い出だけが眩いほど鮮明だった。
 

74: 2012/04/27(金) 15:40:32.48 ID:EJ+zLRyao

 あの夏から、俺は背が伸び始めた。声が太く、低くなった。力の加減が少しずつ難しくなっていった。
 指の関節がごつごつと形を変え始めた。喉にふくらみができた。
 
 それなのに、俺はあの夏から少しだって成長できた気がしない。
 今だってそうだ。出来うるものなら子供に戻りたかった。

 子供の頃はどうしてあんなに大人になりたかったのだろう。
 成長すれば、何かを変えることができるかもしれないと思っていたのかもしれない。
 何かを手に入れることができると、無根拠に確信していたのかもしれない。

 あるいは、俺から失われてしまったのは"それ"だろうか?

 "無根拠"であるとしても、確信というものが必要なのかもしれない。
 大人になれば幸せになれる。そう思わないで、子供が大人になりたがることはありえない。
「大人になれば幸せになれる」と信じられない子供は、そういう意味では不幸だ。
(だが、現代において、心からそうだと信じられる子供が何人いるだろう?)


75: 2012/04/27(金) 15:41:13.91 ID:EJ+zLRyao

 子供のままで生きていくには、この世界はたぶん気難しすぎる。
 そして、そんな人間が、現代にはたくさんいるのだ。息苦しくてたまらない人間がごまんといるのだ。
 正気の沙汰ではない。

 子供に戻りたいと思うということは、俺は大人なのか? きっと違う。
 大人でない。でも子供でもない。俺はなんなんだ? みんなこうなのか? こんな不安を、誰もが感じているのか? 

 こんな気が狂いそうな不安と空虚を、誰もが? 
 
 すべてを忘れて、あの夏の向日葵畑にもう一度行きたい。
 何もかもが白く輝いて見えたあの夏に。

 一度でもそうすることができたなら、俺は氏んでもかまわない。
 そうすることができないなら、なおのこと氏んでもかまわない。
(戻らない過去を思うことは氏について考えることによく似ている)


76: 2012/04/27(金) 15:41:45.95 ID:EJ+zLRyao

 不意に、携帯電話のコール音が響いた。一瞬、どこから鳴っているのか分からなかったが、部屋に忘れてきたらしい。
 俺はコップをテーブルに置き、慌てて階段を昇って自室に戻った。

 無愛想な携帯のコール音は鳴り止まなかった。通話ボタンを押して耳に当てる。何も聞こえなかった。

 少しすると、声が聞こえた。小さな声だ。本当に小さな声だ。
 何と言っているか、まったくわからない。

「何?」

 と俺は訊ねた。電話の声は少し大きくなる。

「聞こえない」
 
 俺はスピーカーを耳に押し付けるようにして必氏に聞こうとしたが、言葉はまったく聞こえなかった。


77: 2012/04/27(金) 15:42:28.17 ID:EJ+zLRyao

「なんだ?」

 俺の声は自然と大きくなった。電話口から、相手が怒鳴る気配が伝わってくる。だが、なんと言っているのかは分からない。

「なんだって? 全然聞こえない!」

 全然聞こえない。嵐の中で聞く叫び声のようだ。どれだけ相手が声を張り上げても、その声が俺の耳に届く気はしなかった。
 かろうじて口が動いていることが分かるようなもので、何を言わんとしているのかはまったくわからない。

「聞こえない! 聞こえない!」

 俺は怒鳴るように繰り返した。何も聞こえない。部屋の中は耳鳴りがしそうなほど静かだった。
 俺の声だけがバカバカしいほどの大きさで響いている。聞こえるのは俺の声だけ。
 不意に通話が途切れ、携帯電話がつー、つー、と寂しげに鳴く。

 何も聞こえない。自分の声以外は、何ひとつ……。


78: 2012/04/27(金) 15:43:19.86 ID:EJ+zLRyao




 俺は夕方の昇降口で立ち尽くしていた。そのことに、ふと気が付く。
 時間の流れをおそろしく緩慢に感じた。今日はいったい何日で、自分は今まで何をしていたのか。

 今日は一日を屋上で眠って過ごし、放課後になってから部室に顔を出した。
 誰もいなかったので、図書室で本を返して、帰ることにした。

 不意に、雨に気付く。音がまったくしなかったので分からなかった。もうほとんど霧雨のようになっていた。
 湿った空気が辺りを覆っている。

 このまま帰る気にはなれず、俺は屋上に向かうことにした。
 天気は悪いが、だからといって何かが変わるわけでもない。

 気分次第だ、全部。思うがまま。自由気ままに過ごしている。
 誰も隣にはいない。ひとりぼっちだ。それが自由ということなのだ。

 階段を昇る。いままで何度この階段を昇っただろう?
 もう数えきれないほどの時間、こんな生活を繰り返している気がする。

 いつまでこんなことを続けたらいい?


79: 2012/04/27(金) 15:43:42.09 ID:EJ+zLRyao



 屋上にはスズメがいた。

 彼女は俺に気付くとこちらを振り向き、いつもの微笑を浮かべる。

「どんな具合?」と彼女は言った
「さあね」と俺は答える。

「これで満足?」

「何の話?」

「分からないならいい」

 彼女の話はいつも要領を得ない。
 意味深にも聞こえるし、意味なんて何もないようにも聞こえる。
 どちらにしても、意味が分からないのは同じだ。
 
 フェンス越しに見る街は、いつの間にか深い霧雨に覆われている。
 なにかが、この霧雨のように、俺の生活に忍び寄っている。


80: 2012/04/27(金) 15:44:08.26 ID:EJ+zLRyao

「私はどうでもいいんだけどね」

 とスズメは言った。

「いいかげん、帰った方がいいよ」

「俺の勝手だろう?」

「君の勝手だから言ってるんだよ」

「何の話?」

「分からないならいい」

 俺が溜め息をつくと、スズメはおかしそうに笑った。


81: 2012/04/27(金) 15:44:35.50 ID:EJ+zLRyao

「みんな帰っちゃったね」

 彼女の声は、霧の中で澄みわたるようにくっきりと聞こえた。

「そりゃ、時間が時間だし」

「そうじゃなくて」

「……さっきから、何の話?」

「分からないならいい」

「分からせる努力をしてないじゃないか」


82: 2012/04/27(金) 15:45:06.20 ID:EJ+zLRyao

「理解するつもりもないくせに」

「決めつけないでくれる?」

 心底おかしそうに、スズメは笑う。何度も笑う。まるで案山子と話をしているような気分だ。
 こっちが何を言っても取り合うつもりはないらしい。
 
 居心地の悪さに、俺は舌打ちした。

「ねえ、こんなふうに話をはぐらかすのは、君が普段していることと、どう違うのかな?」

 彼女はぽつりと言う。
 街は霧に、空は雲に覆われていく。何も見えない。何も聞こえない。

 さまざまな感触が失われていく。 


83: 2012/04/27(金) 15:45:32.25 ID:EJ+zLRyao




 家に帰ると、妹がリビングのソファで眠っていた。何も言わず部屋に戻る。 
 鞄を机の上に置き、制服を着替えた。
 
 キッチンに入って、炊飯器で白米を炊く。時間は十分にあった。
 冷蔵庫の中を確認し、あまっていた野菜とベーコンを使い、野菜炒めとスープを作ることにした。

 頭が熱に浮かされたようにぼんやりとしていたが、作業には支障がなかった。

 準備ができた頃には六時半が過ぎていた。中学のジャージを着たまま眠る妹を起こして夕飯にする。

 会話はほとんどなかった。いつからかは分からない。
 
 両親は帰ってこない。仕事だ。"仕事"? そう、仕事だ。
 彼らが仕事だと言っているのだから、仕事には違いないのだろう。それがどんな内容なのかは知らない。

 とにかく仕事だと言ったら仕事なのだ。疑う理由なんてない。俺は言われた通りに家の中の雑事をこなせばいい。
 何も考えるべきじゃない。……嫌なことなんて考えない方がいいのだ。


86: 2012/04/28(土) 21:29:53.16 ID:mxMnZGlwo




「部長」と、後輩は、いつも俺のことをそう呼んだ。





 放課後、ハカセに呼び出されて部室に顔を出すと、中には後輩しかいなかった。
 彼女はパイプ椅子に座って気持ちよさそうに眠っている。
 開け放した窓から吹き込んだ風が、部屋の中で静かに巻き上がり、開かれた本のページをめくった。

 棒立ちのまま、彼女の寝顔に見とれる。

 人はこんなふうに綺麗に眠れるものだろうか。

 彼女を前にすると、俺はいつもある種の後ろめたさに苦しめられる。

 俺はさまざまなことについて考えている。そのことに苦しんでもいる。

 けれど、どれほど自分にとって切実な考え事だとしても、それは所詮"考え事"だ。
 現実の諸問題とぶつかってみれば、そんな"考え事"は結局、空疎な言葉遊びに過ぎない。

 自分は思考の海に逃げ込み、そこに溺れることで、現実のさまざまな問題から目を逸らしている。
 子供が積み木遊びでもするように、俺はこの世界を軽んじている。

87: 2012/04/28(土) 21:30:51.45 ID:mxMnZGlwo

 そういったことを、彼女を前にすると強く自覚せざるを得ない。
 おそらくは彼女が、この現実に対して彼女なりに真摯に向き合おうとしているからだろう。

 いつまで逃げているつもりなのかと、そう問いかけられているような気分になるのだ。
(けれど実際、俺という人間は"現実に即した"何かをこなせるのだろうか)

 だから、俺は彼女と一緒にいるのがあまり好きじゃない。
 自分の幼稚さを、眼前に突き付けられるような気がするからだ。

 そのこととは無関係に、俺は彼女に好意を抱いてもいた。
 それは否定することもできないほど大きな感情だ。
 
 どうしてなのかは分からない。本当に分からない。
 俺は彼女を前にすると冷静ではいられなくなる。
 激情と呼んでもいいほどの感情の波が、俺の心を強く揺さぶる。抗えないほど強く。

 そのことに気付くたびに、自分自身を軽蔑せずにはいられない。

 彼女は、俺が失ってしまった何かを持っているのかもしれない。
 だからこそ、俺は彼女に強く惹かれてしまう。……たぶん、そういうことだ。


88: 2012/04/28(土) 21:31:25.40 ID:mxMnZGlwo



 後輩が目をさましたのは、それから十分ほど経った頃だった。
 彼女は俺の姿に気付くと、自分が眠っていたことに気付いて驚き、照れくさそうに苦笑した。

 ハカセたちはどうしたのかと俺が訊ねると、後輩は首をかしげた。

「寝ちゃう前までは部室にいたんですけど……」

 俺は溜め息をついた。鞄はあったし、帰ってはいないのだろう。
 
「悪いけど、俺はもう帰らなきゃ。ハカセに伝えてくれる?」

 俺が言うと、後輩は考え事をするように眉を顰め、

「わたしも帰ろうかな」

 と言った。

「例の調査はどうするの?」

「焦ったところで進展するわけじゃありませんから。一日くらいサボっても大丈夫です」

 いちばん乗り気だったように見えたのに、案外やる気がないのだろうか。


89: 2012/04/28(土) 21:31:46.79 ID:mxMnZGlwo

「一緒に帰ってもいいですか?」

「どうして?」

「別に意味はありませんけど。だめですか?」

「……いや、ダメとかじゃなくて。だって家の方向が違うだろう?」

「一緒ですよ」

「そうだっけ?」

「はい」

「――そうだったっけ?」

「そうですってば」

 彼女はおかしそうに笑った。


90: 2012/04/28(土) 21:33:13.82 ID:mxMnZGlwo




 違和感を抱きながらも、帰路につく。後輩の家は、たしかに俺の家とさほど遠くない地点にあった。
 以前からずっとそうだったような気もするが、このあたりに住んでいたなら、小学も同じだったはずだ。
 
 ……そうだっただろうか? こんなに近所だったっけ? よく思い出せない。
 
 児童公園に通りかかると、このあいだと同じように、黒いスーツの男がいるのが見えた。
 赤いランドセルを背負った少女と、何か話をしている。
 あまりにも怪しく見えたので、俺は声を掛けることにした。

「人頃しの次は人さらいに転職するのか?」

「おい、そりゃ誤解だよ、少年。人聞きの悪いことを言うなよ。どちらかというと話しかけられたのは俺だ」

 頃し屋は親指で少女を示した。
 女の子は、目が合うとにっこりと笑った。

91: 2012/04/28(土) 21:33:45.89 ID:mxMnZGlwo

「こんにちは」と彼女は言った。
「初めまして」と俺は答えた。

 彼女は自己紹介をはじめた。自分はどこどこの小学校に通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。
 そんなようなことを言ったが、彼女は名前だけは言わなかった。俺は何ひとつ覚えられる気がしなかった。

 俺のうしろについてきていた後輩も、咄嗟に混乱したのか、なぜだか自己紹介を始めた。

 自分はどこどこに通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。

「わたしはよく明るいねって言われます」

 と少女が言うと、

「わたしはよく、えっと、暗いねって言われます」

 と後輩が返事をする。これはいったい何なのだろう。
 後輩もまた、名前だけは名乗らなかった。


92: 2012/04/28(土) 21:34:36.73 ID:mxMnZGlwo

「いたいけな少女に何をするつもりだったの?」

 俺は溜め息をついて大男に話しかけた。

「誤解だって言ってるだろ。この子から話しかけてきたわけ」

 言葉の通りだとしたら、こんな強面の男に、よく話しかける気になったものだ。
 見た目は臆病そうだが、案外度胸があるのかもしれない。

「あのね、君、知らない人に声を掛けちゃいけないよ」

「……ダメなんですか?」

 と、なぜか後輩が後ろから言った。

93: 2012/04/28(土) 21:35:15.69 ID:mxMnZGlwo

「ダメだろ? 普通に考えて」

「でも、ダメなのは、知らない人に声を掛けられて着いていくことじゃないですか?」

「……そうだな。まあ、でも、知らない人には声を掛けちゃダメなんじゃないか」

「じゃあ、時計を忘れても時間を聞けないし、道がわからなくても誰にも頼れなくなっちゃいますよ」

「……そうなるね。でも、ダメだろ? 子供が知らない人に話しかけるのは。危ない相手かもしれない」

「そうですかね? なんだか世知辛い世の中ですね」

「……まぁ、同意するけどさ、たぶんいつの時代だって似たようなものだと思うよ」

 後輩は納得がいかないような表情をしていたが、結局頷いた。
 俺たちのやりとりを眺めながら、少女はクスクスと笑った。……変な子だ。


94: 2012/04/28(土) 21:35:48.44 ID:mxMnZGlwo

「で、何の話をしてたんだ?」

 俺が問うと、頃し屋は肩を竦めた。

「男の子の口説き方を教えてくれって言われたんだよ」

 見かけに似合わず積極的な女の子らしい。

「おじさん!」

 少女は咎めるように怒鳴った。頃し屋は慌てた様子だった。

「言ったらまずかったか?」

「まずいです。とても、まずいです」

 まずいらしい。俺は溜め息をついた。いい年をした大人が子供に怒られている。


95: 2012/04/28(土) 21:36:12.82 ID:mxMnZGlwo

「わたし、帰ります」

 女の子は頃し屋の方をキッと睨んで舌を出すと、背を向けて公園を出て行った。
 彼女の背中で、赤いランドセルが揺れる。
 既視感があったが、さして気にとめなかった。彼女とどこかで会ったことがあるだろうか?

「嫌われたかな」

 黒スーツは苦笑しながらも、真剣に嫌われることを怖がっているような態度だった。
 親熊が小熊の機嫌をうかがっているみたいだ。

「なんだってアンタみたいなのに話しかけようと思ったんだろうね」

「お前、このあいだとはずいぶん態度が違うじゃないか」

 そうだっただろうか? 俺は彼がしたのと同じように肩をすくめた。
 

96: 2012/04/28(土) 21:36:39.03 ID:mxMnZGlwo

「わたし、先に帰りますね」

 後輩はそういうと、こちらに背を向けてさっさと行ってしまった。
 なぜだか呼び止める気にはならない。

「いいのか?」

 大男は言った。

「いいよ、別に。ここまで一緒にきたことにだって、別に大した意味なんてないんだから」

「アホか。意味なんてなくても、一緒に帰ってる相手が先に行くって言ったら呼び止めるもんなんだよ」

「どうして? 一緒にいるのが嫌だったのかもしれないじゃないか」

「バカかお前は」

 と、大男はこのあいだと同じ言葉を吐いた。
 話が続くと思って黙っていたが、彼はそれ以上何も言わなかった。


97: 2012/04/28(土) 21:37:12.42 ID:mxMnZGlwo

「ねえ、アンタって頃し屋なんでしょう?」

「アンタはねえだろ、坊主。まあ、そうだよ。頃し屋だ」

「どうして頃し屋になったの?」

「別になりたくてなったわけじゃねえよ。ならざるを得なかったんだ。頃し屋なんてみんなそうだ」

「人を頃すのって、悲しい?」

「まあ、そうだな、悲しいよ。特に、悲しむことが身勝手だと思うときがいちばん悲しい」

 大男はさして気にしていないように笑った。真剣な表情を見せないことが、彼なりの礼儀か何かなのだろうか。


98: 2012/04/28(土) 21:38:46.27 ID:mxMnZGlwo

「どうして人を頃しても平気なの?」

「別に平気じゃねえよ。でも、別につらくもない。結局、俺は自分のことしか考えていないわけだ」

「ふうん」

「お前も歳を取ると分かるよ。覚えておけよ、今は子供だけど、お前もハタチを過ぎると気付くことになる。
 時間は取り戻せないし、人間は過去に戻れない。そういうことを強く実感することになる。今以上に切実にな。
 三十を過ぎるのなんてもっとあっという間だ。
 これは実体験からの教訓だが、地に足のついていない考えごとに夢中にならないことだ。
 考え事をしながら満喫できるほど人生は易しくない」

 別に俺は人生を満喫することに興味なんてなかったのだが、それも俺が若いからなのかもしれない。

 アンタの説教こそ、あんまり地に足がついてる感じがしないね。
 そう感じるのは、やはり俺が若いからなのだろう。
(彼と俺との会話の「人」という部分を、「生き物」と言い換えても成立することに気付いたのは翌日のことだ)


99: 2012/04/28(土) 21:39:29.98 ID:mxMnZGlwo




「人間なんて、結局ひとりぼっちだな」

 中学のとき、ハカセは俺に言った。
 俺が一年、彼が三年。対等な友人同士として生活するには、あまり釣合のとれていない関係だ。
 もっとも、俺たちは友人なんかじゃなかったし、もともと周囲とは距離を置きがちだったので、釣合はあまり関係がなかった。

 彼のそのときの言葉は、今となっては、鼻で笑いたくなるほど思春期らしい言葉だ。
 けれどそのときの俺には、その言葉はとても納得がいくものだった。
 
 合点がいく、とでも言うのだろうか。俺は大いに納得したのだ。

 そうだ、人間なんてひとりぼっちだ。結局、誰も彼も孤独なのだ。
 上手いこと誤魔化しているだけだ。孤独なのだ。孤独なのだ。みんなそれをごまかしているのだ。
 だましだましで生きているだけなのだ。

 俺はそうやって納得した。
 思春期にありがちな斜に構えたものの見方のひとつだ。

 もちろん、孤独という言葉の定義によって、「人間は孤独」と言えるかどうかも変わる。
 人間は完全に理解し合うことができない。だが、それも「理解」の定義によって結論が異なる。
 同時に「完全」という言葉も定義しなくてはならないだろう。
(まさしく児戯に等しい考えごとだ)


100: 2012/04/28(土) 21:41:05.29 ID:mxMnZGlwo

 人間は、たしかに孤独らしい。そこはハカセの言った通りだ。
 でも、それはあげつらう必要があるほどの問題だろうか?

 人間は芯のところでは分かり合えない。結局のところ孤独かもしれない。
 だからといって、もし孤独だったとしたら何の問題があるのだろう?

 仮に孤独でも、友人や恋人を作って寂しさを紛らわすことはできるはずだ。

 少なくとも世間一般で言われる“孤独”という状態が悪いものとは、俺にはまったく思えない。
 孤独であるということを悲しむのは、「孤独でない」ということにある種の優越感を抱いているからではないのだろうか。

(もちろん、この世には友人や恋人どころか家族すらいない本当の孤独というものもあるのだろうし、
 こんなことを考えても平気でいられる時点で、俺は本当の孤独とは無縁の、やはり恵まれた人間なのだろう)


104: 2012/04/29(日) 22:57:18.61 ID:EZndgAn8o




「関係ないわよ」

 女は溜め息をついて言った。
 喫茶店のカウンター席に、俺と彼女は並んで腰を下ろしている。

「いい? 一度しか言わないからよく聞いて。そんなことはね、関係ないの。あなたがどんな人間でもね」

 彼女ははっきりと言い切ると、煙を吐き、灰皿を煙草で叩いた。彼女の指に挟まれたパーラメントの先が静かに崩れ落ちる。
 灰を落とした吸いさしは、ぼんやりと笑うような赤色に、鈍く輝いた。その色は溶岩に似ている。

 何もかもを溶かそうと言うのだ。どんなものも無関係に溶かし尽くしてしまおうと言うのだ。
 その光は、かすかに俺の心をとらえた。それは些細な変化だったが、それでも無遠慮に俺の頭の中を荒らして回った。

 焼き尽くしてしまいたいのだ。

 俺は溜め息をついて、コーヒーに口をつけた。カウンター越しの店主が、うらぶれた風采をなんとか整えたような薄幸そうな表情で笑う。

「ところで、俺たちは何の話をしていたんでしたっけ?」

「何だったかしら?」

 女は笑わなかったが、俺は笑った。


105: 2012/04/29(日) 22:57:44.38 ID:EZndgAn8o

「私、あなたと話していると、とても疲れる」

「どうして?」

「分からないけど、腹が立つの。無性に。たぶん嫌いなの。あなたみたいな人が」

「きっぱり言いますね」

「そういうところよ。どうしてそんなに平気そうなの?」

 俺は少し考えて、答えた。

「別に平気じゃありませんよ。人並みに傷ついたりもします。でも、誰かに嫌われたところで問題はないじゃないですか。
 嫌な気持ちになったりもしますけど、だからどうなるというわけじゃない。
 結局のところ、他人が自分にどういう感情を抱いているかなんて、気にしなければ存在しないのと同じですよ」

 彼女は「そうかしら」とでも言うように眉をひそめた。

「他人の感情が、自分の居場所を失わせることもあるわよ。嫌われ者は職場に居場所がないの」

「居場所がないからどうなるってわけでもないでしょう」

 彼女は鼻で笑った。きっとこの人は俺のことなんてすべてお見通しなのだろう。


106: 2012/04/29(日) 22:58:11.15 ID:EZndgAn8o

 俺はいつも、人と出会うたびにこう問いかけたいのを我慢している。

「貴方はなぜ働くのか?」

 こう聞くと「趣味に使う金が欲しい」だとか言う人もいるが、大抵は「生活のため」だと答える。
 食っていくためには金がいるというのだ。

「ではなぜ食べるのか?」

 更にこう問いかけると、大半の人間はバカバカしいとでも言いたげに、もう半分はそんな問いにはもう飽きたとでも言いたげに、

「そうしないと生きていけないからだ」と答える。

「ではなぜ生きるのか?」

「なぜそうまでして生きるのか?」

「何のために?」

107: 2012/04/29(日) 22:58:37.16 ID:EZndgAn8o

 ――惰性である。
 別に積極的に氏にたくもない。だから生きる。そう言うのだ。

 生きるに足る理由を持つ人間は少数派だ。
 そして彼らは、理由について考えることは不幸の種であると考える。

「そんなことを考えたところで、分かったもんじゃないさ。いいから少しでも人生を楽しむのがいい。
 好きなことをやって、好きなように生きて、美味いものを食って……そういう生活を一秒でも多く送れればいいさ」

 その考えはきっと正しい。
 正しいのだ。おそらく、正しい。 
 ……きっと正しい。間違っていない。まったく間違っていない。完膚なきまでに正しい。
 そのはずだ。そうでなくては困る。そうであってほしい。

 だが、そうやって生きた人は、もし、いま氏ぬというまさにその瞬間、最期のときに、

「俺は何のために生き、何のために氏ぬのか?」

 という疑問が頭に沸いてきたらどうすればよいのだろう。
 俺はそのことがとてもおそろしい。
 自分というものが途方もなく無意味な存在だと、そう気付かされることが、とても怖い……。


108: 2012/04/29(日) 22:59:08.61 ID:EZndgAn8o



 女神ガラテアの使者を名乗る「ティア」という名の妖精は、手紙が来た三日後には現れた。

「本当はもっと早くこちらに来る予定だったのですが、カリオストロの妨害が激しくなってきたのです」

 十五センチ定規と並べて少し大きいくらいの身体から、蝶のような羽を生やした、綺麗な女の子の姿をしていた。
 
「お話はご理解いただけていますね? 事態は火急です。速やかに対処しなければ!」
 
「対処って、具体的に何をするわけ?」

「は?」

「その"ズレ"ってさ、どうしても止めなきゃならないの?」

「何ですって?」


109: 2012/04/29(日) 22:59:45.82 ID:EZndgAn8o

「別に良いじゃん。世界なんてズレようがズレまいが。カリオストロが復活して、それでどんな問題があるの?」

「世界が滅んでしまうかもしれないのですよ!」

「だから何なんだって聞いてるの。世界が滅んで、それで何の問題があるわけ? 人類なんて滅亡すりゃいいよ」

「罰当たりな!」

「神様がたかだか一生物の存亡に介入したがる方がよっぽど変だよ」

「罰当たりな!」

 ティアはそれだけを繰り返した。
 俺は溜め息をつく。

 カリオストロ、この世界を早々に焼き尽くしてしまってくれ。
 二度と陽の光に照らされるものがないように。
 二度と誰かと出会うことのないように。
 
 そうして焼き尽くした果ての孤独は、俺がすべて引き受けてもいい。
 このろくでもない世界をどうにかしてしまってくれ。 
 お願いだから。


110: 2012/04/29(日) 23:00:42.39 ID:EZndgAn8o



"ズレ"た。
 授業中の教室で、ティアの説得を聞き流していたときだった。

 俺はコンビニに居た。なぜか制服を着ていた。レジに立っていた。こんなことは初めてだった。
 女性店員に指示されながら、俺はバーコードを読み取る。揚げ物をする。掃除をする。商品を陳列し直す。
(サッカ、アゲモノ、ゼンチン、エフエフなどの言葉が飛び交っていたが、俺には何の事だかわからなかった)

 俺はバーコードを読む。商品を袋に入れる。時計の針はちっとも動かない。
 煙草の銘柄も何が何だかわからなかった。マイセンって何の略だよと思った。
 でもやるしかない。
 ボックスとソフトは何が違うのだ? ショートとロングは見たまんまの違いでいいのか?
 6ミリとか1ミリとか何の話だ? ラッキーストライクだのフィリップモリスだのいったいなんなんだ?
 頼むから番号で言ってもらえないか?

「それじゃない!」と柄の悪い客が怒鳴った。

「申し訳ありません。こちらでお間違いありませんか?」

 変な日本語だと俺は思った。「お間違いありませんか?」って何だ?
 間違っているとしたら俺だ。だったら「お」をつけるのはおかしい。「間違いありませんか?」じゃないのか?
 違うのか? 俺の認識が間違っているのか? 

 でもやるしかなかった。
 やり過ごすしかなかった。そうしないと――取り残されてしまう。
 
 どうしてこんなに哀しいのだろう。


111: 2012/04/29(日) 23:01:15.21 ID:EZndgAn8o



 
 放課後、誰かに会いたい気分になって、ティアの声を無視しながら自然科学部の部室に向かった。
 けれど、誰も部室にはいなかった。

 今ならあの調査を手伝ってもいい気分だったのに。俺はひとりぼっちになってしまった。
(違う。俺は最初からひとりぼっちだ)

 ああ、うるさい。何かが耳元でわめいている。ティアだ。こいつはいつまでここに居る気だ?
 
 どうでもいいんだ、そんなものは。勘弁してほしい。俺はカリオストロにも世界にも興味がないのだ。
 そんなもの復活すればいいし、滅んでしまえばいい。
 俺にはまったく関係ない。

 いやむしろ、世界が滅ぶのは望むところだ。
 亡びればいい。滅びてしまえ。

 そんなものは全部滅んでしまえ。


112: 2012/04/29(日) 23:01:52.94 ID:EZndgAn8o

 不意に背中に声を掛けられた。振り返ると、見知らぬ上級生がこちらを見ている。
 
"上級生?"と俺は思った。なぜ俺は彼女を上級生だと思ったのだろう。背は年下に見えるほど低い。顔も幼い。
 見た目も声も、ぜんぜん年上には見えない。それなのにどうして、俺は彼女が上級生だと分かったのだ?

「今日は顔を出さないんですか?」

 彼女は言った。

「……何の話ですか?」

「ですから、×××の方には」

「は?」

「×××です」

「……え?」

「×××……ですけど、大丈夫ですか?」

 俺は混乱していると、ティアが叫んだ。

「カリオストロ!」

113: 2012/04/29(日) 23:02:25.18 ID:EZndgAn8o




 ――追われていた。
 
 気分は狩人に追われる兎か、獅子に狩られるシマウマか。
 景色は真っ赤に染めあがっていた。とうに冷静さは失っている。

 ここはいったいどこなのだ?

 どこをどう逃げてきたのかも思い出せない。
 泣きたくなる。

 息が切れ、足がふらつく。熱が逃げ場所を失ったように全身に滲んでいた。

 逃げなくてはいけない。何から? ……カリオストロ、そう、カリオストロだ。

 あの魔神から……俺は逃げなければいけない。
(どうして? 氏も亡びも、すべて俺が待っていたものなのに?)

 分からない。でも逃げなければならない。逃げなければ――そうしなければ、"つかまってしまう"。


114: 2012/04/29(日) 23:02:51.22 ID:EZndgAn8o

 児童公園に逃げ込むのと同時、俺は四方を囲まれた。
 八つの赤い瞳が、俺を睨む。

 それは黒い犬――そう言うにはあまりに野生を滲ませた、犬だ。
 まるで影から這い出て、闇に溶けるような姿の、黒犬。

 獲物を睨んで流涎を止めず、隙をうかがい牙を剥く。
 まるで屍肉を漁る鴉のようだ。

"つかまってしまう"。

 やめてくれ。もう俺を襲うのはやめてくれ。俺はもうやめたんだ。諦めたんだ。 
 だから見逃してくれ。俺はこんなことちっとも望んじゃいない。君に危害を加えるつもりはなかったんだ。
 

115: 2012/04/29(日) 23:03:21.65 ID:EZndgAn8o

「目を覚まして!」

 声が聞こえたが、それに応える余裕はなかった。
 
 もう忘れたいんだ。すべてを忘れてしまいたいんだ。もう嫌なんだ。こんなことを繰り返すのは。
 だからもう見逃してくれ。頼むから、忘れさせてくれ。

「思い出して! あなたは英雄の魂を持っているのよ! あなたはこの世界を守ることができるの!」

(守る? 俺に?)

「そう、あなたにはできるの! あなたにしかできないの!」

(……そんなこと、俺にできるわけがない。現実を見ろよ)

「現実なんて見なくていいわ!」

 ティアは言った。

「"現実なんて見なくていいの"!」

 俺の脳裏に、強い光が差し込んだ。一瞬後、それは掻き消える。夕闇の児童公園に、俺と四匹の黒犬がいた。

 黒犬は、不意に視線を動かし、鼻を鳴らす。
 ベンチには黒スーツの男が血まみれで倒れていた。

 ――頭が急激に冴えていく。


116: 2012/04/29(日) 23:04:23.12 ID:EZndgAn8o

 彼の腕の中から、嗚咽の声が聞こえた。
 あの少女――あの赤いランドセルの少女が、男に庇われ、泣いている。
 彼の背中には無数の傷があった。爪牙の跡があった。

 ――どうしてこんなことをしてもいいと思えるのだ?

 俺は立ち上がった(そうしてから、自分がそれまでうずくまっていたことに気付いた)。
 頭を掻いて黒い犬を観察した。かなり大型だ。溜め息をつく。なんなのだ、こいつらは。

 俺の胸には沸々と怒りが込み上げていた。

 黒い犬を蹴り飛ばした。犬はみっともない鳴き声をあげて弾け飛んだ。
 どうしてこんなものから逃げていたんだろう。
 
「忘れないで、カリオストロはあなたを苦しめる魔物なの。赦しちゃいけないのよ」

 ティアの声が聞こえた。
 言われなくても、赦す気にはなれない。


117: 2012/04/29(日) 23:04:48.37 ID:EZndgAn8o




 どこからが夢でどこからが現実なのか。
 どこからが妄想でどこからが現実なのか。
 どこからがまともでどこまでがまともじゃないのか。



 

121: 2012/04/30(月) 16:05:36.05 ID:93z+RV5To




 
 不意に、声が消えた。
 公園には血まみれの大男と、少女だけが倒れ伏している。
 
 ティアはどこかに消えてしまった。

 何がどうなっているのだろう。あの黒犬はどこに行ったのだろう。
 この"世界"に何が起こっているのだろう。

 俺は頃し屋の身体に歩み寄った。血だまりが出来ている。
 嗚咽はやまない。少女は泣いていた。

 俺は骸になったように動かない大男の身体をずらし、少女を助け起こした。彼女は泣き止まなかった。

 ここにはカリオストロの気配だけが残っている。

 少女は動かない大男の身体にすがりついた。
 俺は彼に話しかけてみた。かすかな反応がある。氏んではいないのだ。


122: 2012/04/30(月) 16:06:04.31 ID:93z+RV5To




 ふと気付くと、俺は見知らぬ建物の中にいた。ソファに体を預けて眠っていたらしい。
 体を起こすと、全身が軋むように痛んだ。
 
 どこかの応接室のようだ。不意に、頭痛が襲う。

 周囲には誰もいない。耳を澄ますと、人の話し声が聞こえた。
 
 部屋を出る扉を押すと、声はよりはっきりと伝わってきた。

「ああ、起きた?」

 その部屋に入った瞬間、俺に気付いて、女は口を開いた。
 知らない女だ。近頃、こんな女にばかり会う気がする。

 わけのわからない女。どこから来たかもわからないような女。見覚えがあるような女。でも、会ったことはない女。
 女は気安げな笑みを浮かべた。俺にはそれが胡散臭げに見える。

 俺が怪訝に思っているのを分かっているのかいないのか、女は笑みを浮かべたまま続けた。

「英雄の生まれ変わりって言ってもさ、さすがにアレを一気に四匹はやりすぎだよ」

「は?」


123: 2012/04/30(月) 16:06:50.65 ID:93z+RV5To

「だから、あの犬。頃しちゃったんでしょ?」

 ――こいつは何の話をしているんだろう。

「しかも素手って。……つーか、素足? いや、靴は履いてたか。いくらなんでも無茶だって」

 女はからからと笑った。なぜだか知らないが、俺はこの女が好きじゃない。不意に、そう感じる。

「で、あそこで倒れてた男の人のことなんだけどさ」

 女はそう言って、部屋の隅のソファを指差した。さっきまで俺が寝ていたものと似ている。
 そこにはあの大男の姿があった。あらわになった上半身に包帯が巻かれている。すぐそばで、少女が泣き腫らしたような目で黙っていた。

「治しといた。かまわないでしょ?」

 唐突に変化した状況が理解できず、俺は安堵することも警戒することもできなかった。
 
「……アンタ、誰?」

「さあ?」

 ごまかすというよりも、本当に正しい答えを知らないような言い方だった。

「しいていうなら、魔法使いとか」

 俺は溜め息をついた。
(ところで、俺が起きる直前まで、彼女は誰と話をしていたのだろう?)

124: 2012/04/30(月) 16:07:32.36 ID:93z+RV5To




 どうでもいいのだ。
 魔法も頃し屋も魔神も女神も妖精も英雄もどうでもいい。
 そんなのはどうでもいい。本当のところなんだっていい。

 どうして俺を巻き込むのだ?
 俺にはそんなことよりずっと真面目に考えなければならないことがあるのだ。
 俺はさまざまなものから目を逸らしすぎていたのだ。だから今から可能な限り物事に真摯に立ち向かわねばならない。
 どうして俺を巻き込む? 放っておいてくれない?

 みんな俺のところを訪れたり、勝手にいなくなったり、うんざりだ。
 俺は他人のことなんてどうだっていい人間なのだ。
 自分のことしか考えていない人間なのだ。 

 それならばどうして俺は、あんなにも鮮烈な怒りを抱いたのだろう。 


125: 2012/04/30(月) 16:08:23.54 ID:93z+RV5To



 
 朝、いつもの通り学校に行くと、登校している生徒がおそろしく少ないことに気付いた。
 いや、生徒だけではない。教師もまた、来ていないものが多かった。

 ……いや、学校どころか、街中から人が減っているように思えた。
 
 ティアはカリオストロの流出が生んだ"ズレ"の影響だと言う。

「ガラテア様の結界が破かれつつあるのよ。今にこの世界は、絶望と破綻に飲み込まれてしまう」

 それを阻止するためにも、あなたの力が必要なのよ。ティアの言葉はさっぱり要領を得ない。
 何がどんなふうに影響すれば、人が減ったりするんだろう。

 放課後、自然科学部の部室に顔を出した。ここ数日、まったく顔を合わせていなかった部員たちと出会う。
 
 ハカセは俺を見るなり、真剣な表情をして言った。

「お前、俺に何か言うことはないか?」

 何の話だろう、と俺は思った。
 見れば、シラノもトンボも後輩も、真面目な顔をしてこちらを見ている。
 どこか恐れるような表情だ。


126: 2012/04/30(月) 16:08:54.78 ID:93z+RV5To

「どうかした?」

「本当に、心当たりはないか?」

 ハカセの言葉に、俺は失望したような気持ちになった。

「あのね、ハカセ。俺は隠し事ができるほど器用じゃないし、そもそも隠し事をするほどの人間性なんて持ち合わせちゃいないんだ」

 彼は溜め息をつくと、頭を掻いて、「そうか」と呟いた。

「何かあったのか?」

 俺が訊ねると、彼らの顔は気まずげにこわばった。

「例の噂を調べてたら、変なことがわかったんだよ」

「変なこと?」

「噂を広めた奴の正体」

「……へえ」

 あまり興味は沸かなかった。もともとあの噂にだって、たいして思うところがあったわけでもない。

 ハカセは頭を振って続けた。

「お前だって言うんだよ、みんな」


127: 2012/04/30(月) 16:09:44.50 ID:93z+RV5To



 自分でも分かっている。
 今の俺は、たしかにマトモじゃない。
 何が現実で何が妄想か、その区別がついていない。
 けれど、だからといってハカセの言葉はあまりにバカバカしい。
 
 だが、どうしてか納得のいく気持ちもあった。

 噂を広めたのは俺じゃないが、噂の原因を生んだのは俺だ、と、言いようのない確信があった。

 そんなことがあり得るものだろうか。
 俺は噂を広めたっけか? よく思い出せない。
 そもそもどうやって噂を広めたというんだろう。友達もいないのに。

 ジリジリと、頭の奥が痛む。

 いつからだ? いつからこんな生活になってしまった?

 あるいは、いや、それこそ、最初からこうだったのだろうか。


128: 2012/04/30(月) 16:11:21.65 ID:93z+RV5To




 夕方の部室に、俺は一人きりで立ち尽くしていた。
 何をやっていたのかが思い出せない。何が起こったのかも思い出せない。
 耳元でティアが騒いでいる。

「カリオストロの流出よ。このままじゃ、この世界は終わってしまう」

 そんなに大仰なものじゃない、と俺は思った。
 これはもっと単純なものだ。もっと密接に俺と関連している事柄だ。

 ハカセの言葉を聞いて、俺は取り残されたような気持ちになった。
 俺は何かを忘れているのだ。
 
 おそらくは大事なことを。それはひょっとしたら、ハカセやシラノたちも同じなのかもしれない。


129: 2012/04/30(月) 16:11:48.08 ID:93z+RV5To

 俺はポケットから携帯を取り出した。電池は充電されている。いつ充電したのかは覚えていない。
 
 ハカセの携帯に電話を掛ける。3コールほどで彼は電話に出た。

「どうした?」

 彼の声に、俺は少し緊張した。

「調査、手伝うよ」

 ハカセは息をのんだようだった。
 俺はこの事態をしっかりと見極めなくてはならない。
 
 さまざまなことが、俺にのしかかっている。訳の分からない混沌が、俺の世界で這いうねっている。
 断線した記憶と同じように、俺の周囲の事態は混迷を深めていく。
 
 なにかが変わろうとしているのかもしれない。
 俺はそれを確かめなければならないのだ。ひとつずつ。

 不意に、スズメの笑い声が聞こえた気がした。屋上に行く気にはなれない。なぜだろう?
 なにかが狂いはじめている。

133: 2012/05/01(火) 20:50:59.96 ID:8IGpIStuo




「部長」

「毎回、同じことを言うようだけどさ、俺は部長じゃない。ただの部員」

「そうでしたっけ?」

「そうなの。第一、俺は――」

「……第一、なんです?」

「……いや、なんだっけ?」

「知りませんよ」

 後輩はクスクス笑った。
 俺は何を言おうとしたのだ?


134: 2012/05/01(火) 20:51:35.36 ID:8IGpIStuo




 旧校舎の入口は封鎖されている。ハカセたちが実地に調査に向かわず、聞き込みに終始したのはそのせいだろう。
 俺が旧校舎への入り方を(なぜか)知っていると言うと、彼らはそろって疑念を込めた目でこちらを見た。

 旧校舎の西側の窓は、一か所だけクレセント錠の取り付けが甘く、少し前後に揺すると鍵が空いてしまうのだ。
 幸い旧校舎の辺りは人通りも少なく、放課後でも誰かに見咎められることはない。

 旧校舎は黴の臭いがした。床に広がった埃は、ぱっと見ただけでは分からないが、振り向けば足跡が残るほどに積もっている。
 
 トンボが懐中電灯を取り出した(どういう事態になるかわからないからと、普段から持ち歩いているらしい)。
 何も点けずとも夕陽が差し込んでいて多少は明るく見えたが、灯りをつけると暗さがはっきりと分かった。

 俺たちは一階から順に校舎中の教室を覗いて回った。当然だが人の気配はしない。

 ――そもそも、どうしてこんなところに人が迷い込んだりするのだろう。
 何かの用事があるような場所ではない。誰もこんなところに来る理由はないはずだ。
 それならばなぜ、ここに"人が来て"、かつ"人が消える"ような噂が立つのだ?

 もちろん、窓から入ることはできる。でも、誰が何のために入るのだ?
 せいぜい肝試しくらいしかできない。その肝試しだって、怪談がなければ誰がするだろう。


135: 2012/05/01(火) 20:52:23.39 ID:8IGpIStuo

「なんだかワクワクしますね」

 後輩が楽しそうに言った。

「そう? げんなりしない?」

「げんなりするんですか?」

 彼女は心底意外だという顔をした。

「こういうの、楽しいじゃないですか。なんだか子供の頃を思い出して」

「まあ、そうだな。子供の頃も、こんなことをしたっけ」

「はい」

 嬉しそうに頷いてから、彼女は喉に刺さった魚の小骨が痛んだような顔をした。

「……いま、わたし、何か変なこと言いませんでした?」

「さあね」

「じゃあ、部長、なにか変なこと言いました?」

「……さあ? あと、俺は部長じゃないから」


136: 2012/05/01(火) 20:53:23.36 ID:8IGpIStuo




 現代社会にはびこる諸問題を俎上にのせようとすると、必ずと言っていいほどこのような言葉を使うものが現れる。

「いつの時代にだって問題はあった。社会に不平を言うのは子供がやることだ。
 自分でどうにかできないからといって社会にケチをつけても始まらない。
 まずはしっかりと大人になって、義務を果たすことだ」

 そうだろうか。

 いつの時代にだって問題はあった。それは正しい。
 だが、"だから問題を考えるのは後回しだ"という考えは正しいだろうか。

 もちろん身の回りのことをしっかりとこなした上でしか、社会を語ることはできない。
 だが、問題がいつの時代も変わらず存在していたように、それを解決しようとする人間もまた、常に存在していたのだ。

 そうすることで社会は発展してきたのだし、さまざまな問題は俺たちの身の回りから離れていった。

「社会にケチをつけることは子供のやること」だろうか?


137: 2012/05/01(火) 20:53:52.98 ID:8IGpIStuo

 よりよい社会や世界について考えることは、現実から夢想へ遊離することに直結しやすい。
 心の弱いものはとくに、社会について考えることでミクロな問題から目をそらしてしまおうとする。

 だが、"だから後回しだ"は正しいのだろうか。
 少なくとも俺は、俺に対してなにひとつ保障しようとしない社会に安易に参加する気にはなれない。
 
 それならばいっそ社会に反して生きた方がマシだという気もする。
 秘境を求めて旅をするのでもいいし、法と道徳を無視して夜を駆けてもいい。
 山に逃げ込み熊に食われるのも一興だろう。もちろんこれは俺個人の認識だ。

 他人はみんな、"そんな時期はとうに通り過ぎたよ"と言いたげにするりと前に進んでいく。
"この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ"と記された門を前に躊躇しない。
(いま、生きることに何かの"望み"を持つことのできる人間がどれほどいる?)


138: 2012/05/01(火) 20:54:34.25 ID:8IGpIStuo

 なぜみんな、そんなに迷わずに"社会"を選べるのだろう。
 少なくとも俺には、"社会"に参加している人間はひとりだって幸福そうに見えない。
"幸福なはずだ"と信じようとしているように見える。そんな場所に誰が参加したいと思うのだ?
"~せねばならない" と "~したい" はまったく異なる。

 時間の経過とともに選択の余地はなくなっていくし、やがて俺も社会に迎合することになる。
 だが俺は、"社会"とか"世間"とか言うものに素直に従う気にはなれない。まったくなれない。みんなそうじゃないのか?
 あるいはこれは俺の幼稚さを象徴しているのか? 安直なユートピア願望に過ぎないのか?
 きっと違う。"完全に良い世界"を求めることと、"今より少しでもいい世界"を求めるのはまったく違う。

 誰も彼もが不幸そうな顔をした世界に生まれた赤ん坊は、生まれてよかったと思えるのか?
 そんな考えこそが"現実から遊離した思考"でしかないと言われてしまえばそれまでだ。
 だが、現に俺は幸福そうな人間というものを目の当たりにしたことがない。誰も彼もつまらない顔をしている。

 こんな世界に誰が生きていたいと思うのだ?
(もちろんこれは"俺にとってはそうだ"という程度の意味しか持たない話なのだが)


139: 2012/05/01(火) 20:55:14.06 ID:8IGpIStuo





 スズメはいつも、そんな俺のことを笑った。

「ばかみたい」

 彼女の表情は夏の空の下で見るにはあまりに白すぎた。

「上手に社会に適応して生きていく自信がないから、"この世界には適応してまで生きていく価値がない"って思いたいだけでしょ?」

「そういう見方もできるかもしれない。でも、本当のところどうなんだ?」

「なにが?」

「こう言ったらなんだけど、俺はクズだよ。無能だ。普通のことすらまともにこなせない。際立った才覚もない。
 そんな奴はさ、この社会にはいらない奴だ。いらない奴には、誰も優しくしない。
 だったら、なあ、氏んだ方がマシなんじゃないか? 俺みたいな奴は。氏んじまったほうが幸せなんじゃないか」

「知らないよ、そんなこと」

 彼女が笑うたびに風が吹く。入道雲が一秒ごとに形を変えていた。

「自分で決めなよ、どうするかくらい」


140: 2012/05/01(火) 20:56:01.29 ID:8IGpIStuo




 二階から三階への階段をのぼるとき、嫌な予感があった。
 何か、ぶよぶよとした皮膜をくぐり抜ける感触が、俺の全身をつつみ、駆け抜けた。
 それは"予感"というには生々しい、怖気がするような感覚だった。

「ジョー、平気か」

 自分がどんな表情をしているのかは分からないが、どうも普通ではないらしい。

 踊り場には、たしかに鏡があった。細長くそっけない鏡。

「見た目、変わっているようには見えないけどね」

 トンボはそう言って鏡面をコンコンと叩いた。シラノも恐る恐る触れる。何も起こらない。

<逢魔が時の旧校舎は冥界に繋がっている。そういう噂がある。>

 とはいえ、噂なんて、所詮は噂だ。


141: 2012/05/01(火) 20:56:40.98 ID:8IGpIStuo

「普通に考えて、何かある方がおかしいんですけど――」

 シラノは言った。

「――本当に何も起こりませんね」

 彼女は拍子抜けしたような顔で肩をすくめた。
 俺は周囲を見回した。特に変わった様子はない。
 
 妙な噂に振り回されて、こんなところまで来てしまった。
 だが、最初から何かが起こるわけがなかったのだ。俺にはやはり、無関係だったのかもしれない。

 当たり前のことだ。

「……ねえ」

 耳元で声がした。ティアだ。俺は声に出さずに彼女の方を向く。いつからそこにいたのだろう。
 彼女はずっと一緒に来ていただろうか。よく思い出せない。

 彼女の声は(今まで気にしたことはなかったが)俺以外の人間には聞こえないらしい。


142: 2012/05/01(火) 20:57:31.94 ID:8IGpIStuo

「ここにはあまりいない方がいいわ。引きずり込まれてしまいそう」

 俺は小声で訊ね返す。

「引きずり込まれるって、どこに?」

「冥界」

 その言葉が彼女の口から出るのは意外だった。思ったことをそのまま告げようとしたとき、彼女の手紙にあった記述を思い出した。

 ――あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王――

 <冥王>?
 
 不意に、何かが落ちる音がした。静まり返った校舎に、その音は大きく響き渡る。
 シラノの身体がすくみあがるのが、俺の視界からはよく見えた。ハカセは音のした方を振り向く。
 
 どうやら、懐中電灯が落ちたらしい。皆が安堵の溜め息をついたのが分かる。
 後輩は懐中電灯を拾ってから、不思議そうに辺りを見回して、言った。

「……トンボ先輩は?」


143: 2012/05/01(火) 20:59:08.60 ID:8IGpIStuo

 その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。

 自然科学部は、俺、ハカセ、シラノ、後輩、トンボの四人だ。
 俺たちは今日、ついさっき、一緒にここに来た。

 俺はもう一度、彼らの顔を確認した。

 シラノ、ハカセ、後輩、そして俺。
 この場には四人の人間しかいない。

 トンボはどこに行ったのだ?

 後輩は何かに気付いたように懐中電灯を放り投げた。彼女の顔は何か恐ろしいものを目の当たりにしたように歪んでいる。
 シラノは鏡から後ずさった。ハカセが、後輩が振り落した懐中電灯をもう一度拾う。

 鏡が照らされる。四人の男女の、こわばった表情が映っていた。
 あるいはそれは、鏡の向こうに囚われた、もうひとりの自分たちの姿なのかもしれない。


146: 2012/05/02(水) 00:41:46.61 ID:l/93gnlro
134-3 鍵が空いて → 鍵が開いて

143-2 自然科学部は → 自然科学部員は
      四人だ → 五人だ

次回投下時でもよかったのですがあまりにアホみたいなミスがあったので修正します
話の内容が内容なので演出との区別がつきにくいかもしれませんが、今回のは完全にミスです

147: 2012/05/02(水) 19:19:06.14 ID:l/93gnlro





 スズメはあの時、「優しくされたいの?」と俺に反問すべきだった。
 そうすれば俺は自分が持つ欲求に気付くことができたし、そのことを希望として何かに立ち向かうことができたかもしれない。
 
 だがスズメは反問しなかった。結局、そこで他人を頼ることはできない。
 自分の力で気付き、自分で判断しなければならない問題なのだ。

 スズメにしたのとまったく同じ話をハカセにしていたなら、彼は「甘ったれるな」と言うだろう。

「社会がこうしてくれないだの、身の回りがどうだの、そんな風に期待するのはやめろ」

 だが、自分に対して利をなさない集団に所属することは愚かしいことではないのか?
 もちろん、所属せざるを得ない状況ならば、やむをえまい。

 だからといってそこに胡坐を掻き、足元を見るように人を侮りだした社会とはなんだ?
 いったい何様のつもりで人間を軽んじている?
 それは何処にあるのだろう? いったい何処に行けば見える?

 そんなものの中に、俺はとどまったままでいいのか?



148: 2012/05/02(水) 19:19:32.32 ID:l/93gnlro

 「甘ったれるな」という言葉は正しい。
 結局のところ、他人からの優しさなどというものは期待するべきではないのだ。
(他人の優しさが期待できない社会というものに、いかに不満があろうとも)

 こういうことを考えるとき、俺はいつも氏ぬことを思う。
 手っ取り早いのだ。氏んだ方が。

 何も欲しいものがなければ、行きたい場所がなければ、生きている意味はない。
 どうせこれからさき、たいしたことなど起こらない。何もかもが無感動だ。娯楽も芸術も何もかも。
 
 期待するだけ無駄だ。期待は甘えだ。何かを期待するべきじゃない。
 俺の感受性は、俺自身を原因に氏んでしまったのだろう。
 誰のせいでもなく、自分のせいで、俺はこんなふうになった。
 どうせ氏ぬのを待つだけなら、いつ氏んでも同じだ。

 ならばなおさら氏ぬべきだ。
 
 なぜ生きる?

 何のために?


149: 2012/05/02(水) 19:20:07.40 ID:l/93gnlro


 氏ぬことを思う、と言うと、いつも似たような返事が返ってくる。

「生きたくても生きられない人がいるのに、罰が当たる」

 罰とはなんだ? あたると困るのか?
 あたったところでどうなる? それとも氏後の世界というところがあり、そこで罰を受けるとでも?
 氏んだ人間にくわえられる罰とはなんだ?
 
 あえて付け加えるなら、どのような罰もおそろしくはない。
 仮に永遠の苦しみだったなら、それを嘆くだけ無駄だし、仮に有限の時間の苦しみだったなら、過ぎ去るのを待てばいい。

 結局、氏の前にはどのような罰でさえも無意味だ。
 来世でミミズや蛙になったところでそれがどうした? 人間でいるよりはましだ。 

 更に重ねるなら、今まさに氏にかけている人間に対して命を分け与えることができたとして、それでどうなる?
 俺の寿命があとどのくらいか知らないが、そのすべてを分け与えたところで、せいぜい数十年がいいところだろう。

 数十年後、生き延びた彼はなんと言うのだ?
 まだ"氏にたくない"というだろうか、それとも"もう氏んでもかまわない"というのだろうか。


150: 2012/05/02(水) 19:20:45.45 ID:l/93gnlro

 きりがないのだ。
 生きたくても生きられないからどうした。じゃあ、あとどれくらいの時間があれば満足なんだ?
 一日か? 十日か? 一年か? 十年か? 百年か? どれくらいあれば満足するんだ?

 もちろん志半ばで倒れる人は山ほどいる。したいことが明確にあり、それを達成できない人は山ほどいる。

 それで?

 どうしてそんな人々に同情しなくてはならない?
 満足できなくても氏ぬ。
 満足したところで氏ぬ。
 同じことだ。
 
 それを思えば、俺たちは「なぜ生きるのか?」ではなく自らにこう問うべきなのかもしれない。

「何故まだ氏なないのか?」

「氏ねない理由があるのか?」

「俺は何故氏なないのだろう?」

 いつかは氏ぬのだから、その方がよっぽど健全だ。そこを曖昧にごまかすから、話がややこしくなる。




 
 旧校舎中を探し回ったが、トンボの姿は見つけられなかった。



151: 2012/05/02(水) 19:21:11.63 ID:l/93gnlro


 

 駅前近くの雑居ビルの二階に、あの魔法使いの事務所はあった。
 ドアをノックすると気だるげな返事があり、扉を開けると彼女は「おー」と挨拶ともつかない声をあげた。

 応接間に足を踏み入れると、あの大男がソファに座って新聞を読んでいた。傍で例の少女がリンゴを剥いている。
(この少女は、どうしてこんなにこの男になついたのだろう)

「どんな具合?」

 俺が訊ねると、大男は笑った。

「至って健康そのものだよ。明日には包帯もとれるさ」

「へえ。良かったね」

「ああ。まぁ、慣れっこだよ」

 それはそうだろう。

「近頃は変なことばかり起こる」

 大男は言った。サングラスを外した彼の表情は、なんだか優しげな野生の熊みたいに見えた。


152: 2012/05/02(水) 19:21:42.40 ID:l/93gnlro

 話を続けようとしたところで、魔法使いの女が俺の肩を叩いた。立ち上がり、彼女の後をついて別室へと向かう。
 おそらくは女の事務室だろう。大きなデスクの上に、大量の書類が散らばっている。

「で、どうするつもり?」

「カリオストロの話?」

「カリオストロ!」と女は笑った。

「まぁ、そうだね。それも含めて。カリオストロ。カリオストロか」

 意地の悪い含み笑いで、女の表情は歪んだ。やはり俺はこの女を好きではない。

「あの黒犬……たしかにね、アンタが言うところの"カリオストロ"の影響だよ」

「"俺が言うところの"って、どういう意味?」

「いろんな言い方があるってこと。"ガラテア"とか、"英雄の魂"とか、そういうのにもね」

 俺は舌打ちしたい気分を押さえこむのに必氏だった。


153: 2012/05/02(水) 19:22:22.86 ID:l/93gnlro

「でもガラテアが変化をくわえてるから、ちょっとややこしくなってる」

「どういう意味?」

「そのまんま。こっちはガラテアの庇護下だから、カリオストロの攻撃もガラテア的なの」

 女の口調に不自然なものを感じ取って、俺は疑問を口にした。

「アンタは何がしたいの?」

「別に。何が目的とかないよ。しいていうなら、趣味だけど?」

 魔法使いは苦笑する。悪趣味な女だ。

「つうてもね、別にわたしはさ、アンタにあれしろこれしろとか言わないよ」


154: 2012/05/02(水) 19:23:02.44 ID:l/93gnlro

「……どうして? カリオストロの流出を止めないと、世界は滅ぶんだろ?」

「滅ぶよ。でもまあ、わたしはいいんだ。こんな世界がどうなろうと」

「アンタ、氏にたがりなの?」

 彼女は楽しそうに笑った。

「まあ、そうね。八十パーセントくらいは氏にたがりかも。
 でも、世界がどうなろうといいっていうのは違う話。
 それはどっちかっていうと、わたしの問題じゃなくてアンタの問題なんだよ」

「俺の問題?」

「そ。他の誰でもなくてね」

「俺の……」

 俺の問題?
 そうだ。
 最初から最後まで、完膚なきまでに……これは俺の問題だ。
 いま、この女の言葉を聞くまで忘れていた。

 これは俺の問題だ。
 解決すべき問題なのだ。


155: 2012/05/02(水) 19:24:06.65 ID:l/93gnlro



 
「つまり、こういうことかな」

 喫茶店のマスターは、俺の顔を見て不器用そうな微笑を浮かべた。

「君は、自分の問題意識を他人に共有してもらえないのがいやなんだね。
 自分が不満に思うことを、自己責任だの独りよがりだの言われるのが嫌なんだ」

「そうなのかな?」

「たぶんね。でも君はこうも言ったよ。"時間は何もしなくても過ぎる。どんな問題も過ぎ去るものだ"って。
 もし本当に君がその言葉を信じられるなら、そんな不満を持つ理由はないんじゃないのかな。
 だってそうだろ? そんなものはそれこそ、通り過ぎていくだけのものなんだから」

「……ねえ、マスター。アンタは俺を励ましたいの? それともバカにしてるの?」

「僕は人を励ましたりしない。馬鹿にしたりもしない。君みたいな人には特にね」

 注文したブレンドコーヒーのカップを俺の前に置いて、彼は笑う。


156: 2012/05/02(水) 19:24:44.58 ID:l/93gnlro

「そうなのかもしれない。マスター、俺はたぶん寂しいんだと思う。
 誰も俺のことなんて気に掛けなくて、誰も俺に優しくなんてしなくて、誰も俺を必要としてない。
 それが心細くてたまらないんだ。そんなふうに出来た世界が怖くてたまらないんだ。
 必要とされたいのかもしれない。……でも、そんなのよりずっと、もう諦めた方が楽なんだ。
 積極的に行動するほどの気力なんて、残ってない。
 俺の魂はさ、生きながらにして氏んでるんだ。とっくに。去年の夏あたりに」

 マスターは微笑を崩さずに、俺の表情を観察するように見つめたあと、視線をカウンターに落とした。

「君のような人間には、ときどき、分からなくなってしまうかもしれないけど……。
 世の中にはいろんな人がいるよ。誰も彼もがみんな君に似ているわけじゃない。
 でもね、それでも君と似ている人はやっぱりいるものなんだな。
 きっと君のような不安を抱えている人はたくさんいる。それも君よりもずっと大きな問題かもしれない」

 でもね、と彼は続けた。

「だからといって、君の悲しみが誰かのものになるわけじゃない。
 誰かと比較して自分の苦しみが小さいからって、別に後ろめたく思わなくてもいいよ」

「そういう風に見える?」

「僕の思い違いかもしれないけど」

 いつからこんなふうになったんだろう。
 あの夏の日を、もう二度と取り返せないのか?
 

157: 2012/05/02(水) 19:25:11.44 ID:l/93gnlro





 学校にトンボが現れなくなってからも、俺たちは調査を続けた。
 なぜそうしようと思ったのかは分からない。
 
 だが、そうしなければならないという確信だけはあった。

 二度目の調査の日、後輩が旧校舎から姿を消した。


160: 2012/05/04(金) 13:53:40.63 ID:t9IXALoJo




 シラノの話をする。俺が知らないはずの話だ。

 中学三年の修学旅行の日、彼女はひどく憂鬱だった。
 前日から胃にのしかかるような鈍痛が消えず、気分はまったくすぐれない。顔面は蒼白と言ってよかった。

 彼女の中学時代の人間関係は惨憺としたものだった。まともな友人がひとりもいない。 
 彼女の立ち位置(この概念は俺がもっとも憎悪するものだ)が、そのまともじゃない環境に拍車をかけた。

「アンタって、ホントうざいよね」

 大した理由もなく、最初にそう言われたのはいつだったか。言った当人も、さしたる意図があったわけでもないだろう。
 だが種はまかれた。やがてそれは芽吹き、根を張る。

「うざい」

 という言葉は、言語であるにも関わらずコミュニケーションを拒絶する力を持つと、何かで読んだ。
 たぶん、マズローの段階欲求説だの承認欲求だのを表面だけなぞったような、くだらない新書だったはずだ。
(そういうタイプの本はありふれている。大抵は「考え方を変えれば楽になれるかもよ」と言っているだけのスピリチュアルな本に過ぎない)


161: 2012/05/04(金) 13:54:04.75 ID:t9IXALoJo

「うざい」

 世の中にはうっとうしいことが溢れている。
 一言で言えば、世の中は「うざい」。
 「うざい」奴ばかり。「うざい」ことばかり。勉強も仕事も恋愛も「うざい」。「うざい」。
 
 思春期の少女たちにはなおさら、ちょっとしたことですら「うざい」ものばかりだったのだろう。
 それを一言で綺麗に失わせる、「うざい」という言葉の切れ味は、ナイフのように鋭い。

 シラノが本当にうざかったのかどうかは分からない。憂さ晴らしのつもりだったのかもしれない。
 誰も彼もが胸の内側に、発散しきれないわだかまりを抱え込むような時期なのだ。

 たかだか数人のクズの心の安寧の為に、彼女の安らぎが犠牲にされたのは、赦しがたいことではあるが。

 何をするにもそんな調子で、仲の良い友人(と、担任たちは思っていただろう)に責めたてられるものだから、彼女はすっかり弱ってしまった。
 まずは食欲がなくなって、夜眠れなくなった。何かをしていて急に不安になることが多くなった。
 そんな調子でいると、「被害者ぶってる」と言われて、また責められる。

 それでも他に友人はなく、彼女はその人間たちと行動をともにするしかなかった。
 修学旅行の班もホテルも移動時間も、すべて友人たちの近くにいることになった。


162: 2012/05/04(金) 13:54:35.90 ID:t9IXALoJo

 彼女は、本当は修学旅行になんて行きたくなかった。
 楽しい思い出になんてなるわけがないと、誰でも分かる。
 誰も自分を助けてくれないと気付いて、絶望的な気分になっていたせいもある。
(彼女が助けを求めなかったせいでもあるが、仮に他の人間が彼女と同じ立場になったとき、助けを求められるだろうか?)
 
 案の定、一日目、宿泊先のホテルの部屋では、ひどい目に遭った。

 彼女は友人たちにいないものとして扱われ、あげくの果てに彼女を除いた人間が、みんなで話を始めたのだ。

「あいつうざいよね」「あいつって誰?」「さあ? 誰だっけ。でも、うざいよね」
「じゃあ、あいつのうざいとこ、みんなで一個ずつ順番に言ってみない?」

 よくもまぁ、楽しいはずの修学旅行で、そんな気分が悪くなるようなことができたものだと、他人事だから思う。
 彼女は最初、笑うしかなかった。なんとか友人たち(と信じていたひとびと)の名前を呼んで、とめようとした。
 女らはそれを見てケタケタと笑う。その焦点は、みんな彼女に合っていた。見えているのだ。
 見えているのに、誰も返事をくれなかった。


163: 2012/05/04(金) 13:55:12.28 ID:t9IXALoJo

 彼女は考えた。どうしてわたしがこんな目に遭うのだろう? わたしはそんなにひどいことをしただろうか?
 いや、ひどいことはしたかもしれないが……それは"ここまで"だろうか。こんな罰を受けなければならないほど、悪いことだっただろうか。 

 彼女は部屋では泣かなかった。けれど、そこに居続けることは耐えられない。
 誰もいない廊下で、黙って窓の外をじっと睨んでいた。
 自分はどうしてこんなところに来てしまったのだろうと彼女は思う。


 やがて消灯時刻が近付き、教師が見回りにやってくる。
 彼女を見つけた学年主任は、どやしつけるような調子で言った。

「何をやってる。部屋に戻れ」

「部屋に戻れ」
「部屋に戻れ」
「部屋に戻れ」

 その言葉は、言われるであろうことを覚悟していた彼女の耳にも、おどろおどろしいものに聞こえた。

 部屋に戻れ。そしてお前を傷つける暗闇に帰れ。
 お前はそこで耐えればいい。大丈夫。"どんな苦しみだって問題だって、いつかは過ぎ去るものだ"。
 さあ、行け。存分に苦しめ。若いころの苦労は買ってでもしろと言う。つらい思いをすればするほど人には優しくできるのだ。
 大丈夫。涙の数だけ強くなれるさ。アスファルトに咲く花のように。
 全部、うそじゃない。本当のことさ。

 だから、戻れ。
 お前を損なわせる場所に戻れ。――お前を苛み傷つける、現実<カリオストロ>に帰れ。


164: 2012/05/04(金) 13:55:53.99 ID:t9IXALoJo



 
 おそらく俺たちは、無意識下に、彼女がされたようなことを誰かにしているに違いない。
 どんなに自分を無害と思っていてもそうだ。絶対にそうだ。

 そうでなければ、どうしてあんなふうに彼女を傷つける者が現れるだろう。
 彼女の友人が特別にひどいわけじゃない。
 みんなそうなのだ。

 条件があってしまえば、誰だってしてしまうだろうことなのだ。
 俺たちはそのことを忘れるべきじゃない。

 いつだって誰かを傷つけかねないということを忘れるべきじゃない。

 だが、それを忘れている人間があまりに多い。
 
 誰かを傷つけたその唇で、弱者を憐れむようなことを言って見せる。
 あるいは傷つけずにはいられないからこその罪滅ぼしだと、都合のよい言い訳を重ねて。
 赦しがたいことだ。
 度し難いことだ。
 
 けれど、蔓延っている。


165: 2012/05/04(金) 13:56:19.99 ID:t9IXALoJo

 おそらく俺も、こんな言葉を並べることで、誰かを傷つけたりしている。
 そして誰かを傷つけていることに気付けない人間ほど、こんな言葉に頷くのだ。

「人間は誰かを傷つけずには生きられない」

 ――でも、それを少しでも減らす努力くらい、みんなしてもいいのだ。
 その努力はするべきなのだ。

 そんなあれこれが積み重なって、「今」が出来上がっている。
 いつのまにかみんな、当たり前のことを忘れてしまったみたいだ。

 人は傷つけあうことによって加減を覚えていく。傷つけあうことで成長していく。
 ――という、自らの怠慢の言い訳に、ごまかされるべきではない。
「傷つけあう」にも種類があるのだ。


166: 2012/05/04(金) 13:56:46.04 ID:t9IXALoJo


 

 後輩がいなくなった日から、ティアが姿を消した。
 それは本当に、綺麗さっぱり姿を消した。まるで最初からいなかったんじゃないかと思えるくらいに。
 
 変化はそれ以外にもたくさんあった。

 児童公園に行くと、あの赤いランドセルの少女が、ベンチに座って憂鬱そうにしていた。

 俺は咄嗟に何と言うべきか迷いながら、「よう」と声を掛ける。すると彼女は怪訝そうに顔をあげて、

「……あなた、誰ですか?」
 
 と、そう言った。

 俺はたまらなく悲しい気持ちでその場を去り、自宅に戻った。
 ひとつひとつの変化はそんな調子だ。だが、そんなことがたくさんあった。

 まるで世界そのものが変化してしまったようだ。


167: 2012/05/04(金) 13:57:23.72 ID:t9IXALoJo

 玄関の扉を開ける前から、家の中からは怒鳴り声が聞こえた。
 殴りつけるような大声と、切り裂くような金切声が対照に。

 両親が帰っているのだ。

 俺はリビングに入らず、階段を昇って直接自室に戻った。鞄を放り投げてベッドに体を預ける。

 階下から聞こえる声と声との隙間に、かすかな音が聞こえた。

 ずっと遠く、遥か彼方から聞こえてくるような啜り泣き。
 ――また、妹が泣いているのだ。

 俺は彼女のために何かをしてあげられるだろうか。
 そんなことを大真面目に考える。

 いつも考えるだけで行動はしない。


168: 2012/05/04(金) 13:57:55.67 ID:t9IXALoJo

 俺は可能な限り上手に立ち振る舞う自分の姿を想像する。
 この家と世の中にはびこる問題に立ち向かい、上手に解決する自分を想像する。

 何の慰めにもならない。笑い話にもならない。
 俺は何をしているのだろう?
(言うまでもなく何もしていない)

 ……俺にはもっと別に考えるべきことがあるのだ。

「俺は何を忘れているのだろう?」とか、そんなことが、たくさんあるのだ。


169: 2012/05/04(金) 13:58:27.34 ID:t9IXALoJo



 屋上にはスズメがいる。彼女とこの場所だけはなにひとつ変わらない。
 俺はあくびをひとつして、フェンスに向かい合って街を眺める彼女の隣に立つ。

 スズメは何も言おうとしなかった。当たり前といえば当たり前のことだ。
 俺たちには本当なら話すことなんて何ひとつない。
 今まではだましだまし、どうでもいいことで間を繋いでいたにすぎない。

 じゃあ、俺はどうして屋上にくるのだ? 外でもなく内でもない場所。
 こんな曖昧な場所に、どうして近付くのだ?

「ねえ」

 スズメは呆れかえったような調子で口を開いた。


170: 2012/05/04(金) 13:59:24.31 ID:t9IXALoJo

「まだこんな茶番を続けるの?」

「何の話?」

「分からないならいい」

 彼女はいつもそれだ。
 分からないならいい。――俺には分からないことだらけだ。

 何が起こっていて、何がなくなっていて、何が見失われているのか。
 なにひとつ分からない。どこまで分かっていないのかすら、分からない。

 それともこれは、俺の意思でどうにかなるような問題だとでもいうのだろうか?


171: 2012/05/04(金) 13:59:52.20 ID:t9IXALoJo




 放課後、ひとりの上級生が教室にやってきて、俺の名前を呼んだ。
 見覚えのある女だった。背が低く、体格は子供のように見える。
 ともすれば年下のようにも見える「上級生」。 
 
 カリオストロの黒犬に追われたあの日、会った女だ。

「今日は顔を出さないんですか?」

 彼女はあの日と似たようなことを言う。俺も似たように問い返すしかなかった。

「何の話です?」

 女はきょとんとして、それから溜め息をついた。困ったようにこめかみを掻き、言う。

「文芸部ですよ」

「ああ、文芸部」

 ――文芸部?

172: 2012/05/04(金) 14:00:24.69 ID:t9IXALoJo



 教室を出るとき、クラスメイトたちがベランダで騒いでいるのが見えた。
 彼らのうちの一人が、手すりに止まっていたトンボを捉まえ、指先をはじき、その頭を吹き飛ばした。

 頭を失ったトンボの身体が少し動く。
 友人たちはその悪趣味な遊戯に呆れながらも、どうでもよさそうに文句をつけるだけだった。

 あの、首を刎ねられたトンボの氏骸……。


173: 2012/05/04(金) 14:01:23.41 ID:t9IXALoJo




 俺は文芸部の部室に連行された。
 彼女いわく、俺は文芸部の部員だったらしい。
 まったく記憶になかった。そもそも文芸部なんてものが存在していただろうか。

「十月には文化祭ですよ」

 と、どうやら部長であるらしい、背の低い先輩は言った。

「文集を展示するので、作品を書いてきてください、と、ちゃんと言いましたよね。書けましたか?」

 何の話をしているのだろう。
 そもそも俺には文章なんて書けない。なにひとつ。

 そうだ。俺は文章なんて書けない。ぜんぜん書けない。思った通りのものなんて一行だって書けないのだ。
 どうしてそんなことを忘れていたのだろう? 俺は文章を書けない。

 俺は不意に、目の前の彼女とどこかで会ったことがあるような気がした。

 いつか、彼女は俺にこう言ったのだ。

「自らを慰撫するためだけに書かれたものは、見ていて気分が良くなるようなものじゃないですから」

 そういうことだ。そういうことなのだ。俺はやはり、自分のことしか考えていない人間なのだ。
 俺は自らを慰撫するものしか書けない。人に見せられるようなものなんて、なにひとつ書けない……。


174: 2012/05/04(金) 14:01:51.82 ID:t9IXALoJo



 
 文芸部の部長の話を聞き流して、自然科学部の部室に向かった時には四時を回っていた。
 窓から差し込む夕日が、街を赤く敷き詰めていく。

 部室には、既にシラノとハカセの姿があった。彼らは疲れ切ったような表情をしている。
 ひょっとしたら彼らも、俺と同じような変化を目の当たりにしてきたのかもしれない。

 思い出したように唐突な変化。日常の微細のすげ代わり。そういうものを。

「やめにしよう」

 ハカセは言った。

「これ以上は全部無駄だ。やめにしてしまおう」

 その言葉が、例の旧校舎の話に繋がっていることに、少し遅れて気付いた。
 俺たちはまだ何ひとつしていない。何も分かっていない。何も突き止めていない。


175: 2012/05/04(金) 14:02:18.10 ID:t9IXALoJo

 でも、たしかにこれ以上は続けられない。

 人が消えたのだ。
 ふたり。

 そんなことを、繰り返していられない。

 シラノも俺も答えなかった。ハカセは自分の鞄をもつと、苦しそうな表情で部室を出ていく。

 俺は窓の外を見た。

 ハカセは、後輩は、いったいどこに行ってしまったんだろう。


176: 2012/05/04(金) 14:02:44.03 ID:t9IXALoJo



 
 帰り際、児童公園に寄ったが、誰もいなかった。
 子供たちは公園では遊ばない。あの少女も、あの大男もいなくなってしまった。

 俺がベンチに腰を下ろすと、その下からかすかな声が聞こえた。

 遠くから聞こえる啜り泣きのような声。
 覗き込むと、そこには段ボールがあった。俺はそれを引き出し、中身をたしかめる。

 子犬だった。

 不意に、心細くてたまらなくなった。
 俺もお前も同じだよ。なにひとつ変わらない。誰にも助けてもらえない。誰も助けてくれないんだ。
 
 お前がこんなところで泣いているのだって、誰かが悪いわけじゃないんだ。
 そういう風にできてしまっているだけなんだ。


177: 2012/05/04(金) 14:03:45.12 ID:t9IXALoJo

「捨て犬」という境遇は、人間が愛玩動物として犬を扱わないかぎり、絶対にあらわれないはずのものだったのだ。
 
「捨てた」人間だけが悪いのではない。
「飼う」人間もまた同じように非道なのだ。
 俺たちにできるのはエゴを押し付けだと自覚した上で、彼らに対して可能な限り真摯に向き合うことだけだ。
 
 人間に飼われた犬の末路はふたつにひとつだ。
 飼殺されるか、捨てられ、野犬となって殺されるか。
 ふたつにひとつだ。

(犬猫も幸福に過ごしていると、人間の考えを押し付けるのはあまり好きではないが、仮に彼らが人とともに生きて幸福だったとしても同じことだ)

 飼い頃したことに変わりはない。
 やっていることに変わりはないのだ。


178: 2012/05/04(金) 14:04:11.14 ID:t9IXALoJo

「責任を持つ」という言葉に、俺たちはある種のまやかしを抱いている。
 人間は何もかもに責任をとれるほど万能じゃない。
 分を知るべきなのだ。

 俺たちにはどうしようもない境遇というものがあるのだ。
 それをどうして忘れてしまえるのだ? あたかも何もかもが掴みだせるような顔で、何もかもに手を伸ばして見せる?
 そんな世界は、まるで正気じゃない。



 従妹の家では三匹の犬を飼っている。室内犬だ。餌も躾も散歩もしっかりとやっている。
 鳴き声がうるさく、近所に迷惑をかけることもあるが、それでも仲良く暮らしている(少なくともそう見える)。


179: 2012/05/04(金) 14:05:15.97 ID:t9IXALoJo



 トンボは猫を捨てたことがある。俺が知らないはずの話だ。
 
 子供の頃、彼の家の周りには捨て猫が多かった。
 ある日、憐れんだわけでもなく、ただかわいいから、という理由で、彼とその姉は自宅に一匹の捨て猫を連れ帰る。
 (タダで手に入るのだからいいじゃないかと親を説得するつもりでもいた。よくよく考えればひどく歪んだ、当たり前の価値観だ)

 自分たちで世話をするという約束で、彼は母親に飼うことを許可させた。
 もちろん飼うためにかかる金は全て親が出した。

 数年一緒に暮らすと、猫はあっというまに大きくなった。やがて、どこの野良との子供か、彼女は身ごもる。

 生まれた五匹のこどものうち、一匹は飼うことになった。
 残りの四匹は新聞紙を敷き詰めた段ボールに入れ、遠くの児童公園のベンチの下に捨てた。

 その日は強い雨が降っていて、誰も外になんて出なかっただろう。


180: 2012/05/04(金) 14:05:44.51 ID:t9IXALoJo

 あまりに強い雨だったから、彼は母にお願いした。

「晴れた日にしようよ」

 だが母は受け入れなかった。当然だ。明日には瞼を開けるかもしれない。早ければ早い方がいい。
 それに――と彼女は思っただろう。雨だろうと晴れだろうと、我々は所詮、猫を殺そうとしているのと変わらない。
 中途半端な優しさなど無意味だ。何よりも、捨てる猫の姿なんて、いつまでも見ていたくない。

 捨てる神も拾う神も同じものだ。頃す神も生かす神も同じものだ。
 気付いていないだけなのだ。

"たかだか"、"愛玩動物"でしかない犬猫に、本当の意味で責任を持てる人間は少ない。
 いままでは、たまたま、偶然、なんとかなってきていたに過ぎない。

 そういう例はきっとごまんとある。
 おそらく、その記憶がトンボを苛んでいた。

 お前は所詮、猫を頃したじゃないか。
 どれだけ善人を気取っても、猫を頃したじゃないか。


181: 2012/05/04(金) 14:06:08.77 ID:t9IXALoJo

 彼はそのたびに、自分の心を守るために、声に出さず反論しただろう。

 仕方なかった。たしかに俺や、俺の家族の怠慢が生んだことだ。
 その点は自分の間違いを認める。いや、認めなくてはならない。
 でもそもそも、ペットを飼うということが身勝手なのではないか?
 そんな人間がいまさら動物に気遣ってどうする? ――いや、それはごまかしだ。それとこれとは話が別だ。
 
 だが、それを考えれば、あの仔猫は頃してまずく、アリや蛙やトンボを頃してもよいのはなぜだ?
 トンボの頭を弾き飛ばし、アリを踏み潰し、蛙の腹を引き裂くのが許されるのはなぜだ?

 トンボの頭を弾き飛ばした男、あいつが、家に帰れば愛猫とじゃれているのはなぜだ?
 それとこれとは話が違う。ちがうけれど、じゃあ……何がどういう基準で、そんな話になっている?

 いや――それもごまかしだ。歪んだ自己防衛にすぎない。欺瞞だ。
 俺が悪かったのだ。言い訳のしようもなく。もっとやりようがあった。もっとずっと良い方法があった。
 そもそも最初から、猫に避妊手術を受けさせておけばよかった。そうすれば捨て猫は生まれなかった。

 ――生まれなかった。そう、生まれない方がよかったのだ。
 捨て猫は生まれない方がマシなのだ。少なくとも現代は、社会はそう言っている。
 人間が責任を持てる範囲なんて、限られているのだから……。
 無責任に生み出すくらいなら、あらかじめ刈り取る方がマシだ。
(なんて残酷でまっとうな価値観だろう)


 いったいどうなっているんだ?

 トンボは常にそんなことばかりを考えていた。


182: 2012/05/04(金) 14:07:34.09 ID:t9IXALoJo




 俺は屋上に寝そべって眠っている。妙な夢を見ていた。

 ひどく薄暗い夢だ。病院、寝静まった夜の病院だ。
 病室の入口の引き戸の擦りガラスから、非常口を示す緑色のライトがぼんやりと幽霊みたいに見えた。
 俺はベッドで体を休めている。

「目をさましなよ」

 男の声がした。
 俺は言葉の通り、瞼を開く。上半身を起こすと、瞼を擦った。左手から点滴のチューブが伸びている。

 ベッドの脇に立つ男は、ひどく歪んだ笑みを浮かべていた。

「いいかげん、目を覚ますといい」

 彼は大仰な口調で言った。
 
「いつまでガラテアに頼っているつもりだ? あんなものは所詮、幻に過ぎない。現実はいつでも俺と共にある」

 黒い前髪をたらし、顔を隠した青年。ひどく薄暗く、青白い男。
 彼は静かに、名乗りをあげる。

「このカリオストロが、君に"現実"を見せてあげよう」


186: 2012/05/05(土) 16:17:47.84 ID:L/5QaS6oo




「私もね、一生懸命やってきたつもりよ」

 喫茶店のカウンター席に、俺と女は隣り合って座っていた。

「昔からろくでもない人間だったけど、それでもね、がんばってきたつもり。
 きっと何かをつかめるって信じてた。……信じてたわけじゃないかもしれないけど、信じたかった。
 だから、嫌で嫌で仕方なかったけど高校も出たし、大学にも行った。就職もした。
 恋人だってできたし、服や家の中のことや趣味にお金を掛けるのも楽しかったわ」

 でも、と彼女は言う。

「結局、なんにも残らなかったじゃない。なんにもなかったじゃない」

 俺は彼女の言葉を実感として理解することができない。
 そんなふうに、失ってしまうのだろうか。

 俺は自分が今までしてきたことを思い出そうとした。
 これまでしてきた成功、失敗、好きなもの、嫌いなもの、そのすべてを。

 そのなかのどれくらいのものが、今の自分に残っているだろう。

 ――何もなかった。何も残ってなんていなかった。なにひとつ……。


187: 2012/05/05(土) 16:18:14.15 ID:L/5QaS6oo




 放課後、駅前の商店街で、黒スーツの大男を見かけた。
 大きな図体を激しく揺らし、走っている。どうやら怪我は治ったらしい。

 俺が呼び止めると、彼は訝るように眉をひそめた。

「悪いな、誰だか知らないが、急いでるんだ」

 彼もまた、俺のことを忘れているらしい。

「何があったの?」

「探しものがね、見つかったんだ」

 彼はティアドロップのサングラスの位置を指先で正すと、また駆け出した。


188: 2012/05/05(土) 16:18:46.52 ID:L/5QaS6oo



 ふと立ち寄ったコンビニで、店員と警官が話をしていた。
 今日の午前中、どこどこのコンビニに強盗が侵入して云々。
 犯人はレジの中の金を奪って逃走云々。
 こちらでもみなさんに警戒を云々。

 急いで作られたであろう配布用のプリントには、「市民の敵、強盗、窃盗から身を守ろう!」とポップ体の文字が躍っている。
  
 窃盗はともかく、強盗なんてことをするのはよっぽど切羽詰まった状況なのではないだろうか。
 
 市民の敵、と俺は思った。

 なぜ強盗なんてしなければなかったのだろう。
 強盗は「金に困っている。申し訳ない」と言って金を奪っていったという。

 俺はそれを読んでとても悲しい気持ちになった。
 俺には強盗の言葉が他人事には聞こえなかった。いつか何かの拍子で自分も、そんなふうになってしまう気がした。
 それは俺だけではなく、どんな人間でも、何かの拍子で越えてしまうかもしれない一線なのだ。
(こんな考えも突飛だろうか)


189: 2012/05/05(土) 16:19:13.29 ID:L/5QaS6oo




 ハカセは悲しかった。俺が知らないはずの話だ。

 優秀な兄と、愚劣な弟との比較はありふれている。
 父母が揃って権威主義者なら、安いドラマが出来上がるだろう。
 それを思うと、彼は苦笑せざるを得ない。考えれば考えるほど、自分の境遇があまりに月並みだと思えるからだ。
 もはや慣れっこだ。家に安らげる場所はなく、彼はいつも外に出て遊んでいた。
 
 家にいれば勉強をしろとどやされる。
 勉強することは嫌いではなかったが、兄ばかりをもてはやす両親に対する反発心が、素直に従うことをさせてくれなかった。

 居心地の悪さを感じるたびに、彼が家にいる時間は徐々に減っていった。
 そうすると、なおさら両親の彼に対する風当たりは強くなる。居心地は余計悪くなる。
 悪循環。サイクル。

 両親や兄に対する愛着はないでもなかったが、あるいはだからこそ、彼は自らの家族に軽蔑を抱かずにはいられなかった。
 もともとの性格のせいか、ハカセは学校で浮いていて、友人が少なかった。


190: 2012/05/05(土) 16:19:56.34 ID:L/5QaS6oo

 別にまったくいないというわけではないし、話す相手もいる。避けられても嫌われてもいない。

 だが、結局ひとりなのだ。休日に遊びに行く話になっても誘われない。
 班決めになっても、一人で余る。もちろん余ったあとで誘われたりするが、それは所詮「後付」なのだ。
 俺は誰にとっても二番目以下の存在なのだ、と彼は思う。両親にとっても、友人たちにとっても。

 そう気付いたとき、彼はくだらないことを気にすることをやめた。
 眠ってしまえばいいのだ。すべてを忘れて。気にすることはない。所詮はそれだけのことだ。 

 孤独は気が楽だ。後ろ向きな考え事も楽しくてしかたない。好きでひとりになったわけではないが、これはこれで悪くない。

 そう思う。本当に、本心から、そう思った。ときどきそのことを思い出すと、なんだか自分が哀れに思えて、とても悲しい。

 ひとりでいると氏ぬことばかり考える。
 どれだけ両親に反発しようと、今年、ハカセは受験生だ(……何かおかしいだろうか?)。
 結局勉強はしなければならない。反発していた時間分のロスを抱えて。
 選択の余地なんて、最初から最後までひとつだってなかった。


191: 2012/05/05(土) 16:21:01.47 ID:L/5QaS6oo

 ひどく疲れていた。もういいじゃないか、と思う。
 これまでに楽しいことはそこそこあった。そうだ。俺は十分に楽しんだ。
 これまで以上に楽しいことなんて、どうやらこれから先、ありそうにない。

 じゃあ、もう終わりでいいじゃないか。
 人間は、未来に何の楽しみも見いだせなくても生きていけるものだろうか。

 これは一種の自己憐憫にすぎないのだろうと彼は思う。
 どれだけ孤独でも、どれだけの苦痛でも、雄々しく現実に立ち向かうことが、人間としての正しいありようなのかもしれない。
 
 でも、彼は別に、人間としての正しいありようになんて興味はなかった。正しい人間に興味なんてなかった。
 それに――と彼は思う。この世の中の誰も、俺のことを憐れんではくれないのだ。
 もちろん憐れんでほしいわけではないけれど、せめて自分で自分のことを憐れむくらい、何が悪い?
    

192: 2012/05/05(土) 16:21:35.91 ID:L/5QaS6oo

 ハカセは悲しかった。なぜかは分からないが、とても悲しかった。
 この先もこんなことが続くのかと思う。あと何度繰り返されるのかと。
 それでも脱落することはできない。膝をつくことはできないようになっている。
 もう永遠に等しいほどの時間、こんなことを繰り返しているような気がした。

 ――憂鬱を振り払い、新しい何かを探す気になったのはごく最近のことだ。

 何も感じなくなって、何も好きじゃなくなった。それでも、"それでも"という何かが彼の中に残っている。
 捨てきれない期待のようなものが彼を動かす。
 とうに凍てついてしまった自分の魂を、あたため溶かす何かがあるに違いないと信じたかった。
 いや、むしろ――それを信じずにどうして生きていくことができるのか。

 だから、もう一度、何かを探そうと思った。それは自分にとっては"必要なこと"なのだ。
 誰も自分のことなんて求めていないし、自分に興味なんてもっていないけれど、そういえば俺自身だって、他人に興味なんてないのだ。

 探して、それでも自分を突き動かす何かを見つけられなかったなら、そのときは素直に、頭を垂れて現実に平伏しよう。

 そうして彼は、逃げ込んだ空想<ガラテア>の楽園を離れようと決めた。
 

193: 2012/05/05(土) 16:22:01.92 ID:L/5QaS6oo




"ズレ"る。
 ついさっきまで自分だったのに、今は他人になっている。
 それが現実にあったことなのかどうかは分からない。

 さまざまな人間の記憶が、思考が、俺の頭に入り込んでいる。
 
 混線しているのだ。あたかも、あの"ズレ"のように。
 途切れ途切れの記憶をむりやり修復しようとした結果、まったく無関係の場所と接続されてしまったのかもしれない。

 自分というものが見失われていく。

 俺は一ヵ月後に行き、二ヵ月前に行き、シラノになり、トンボになり、ハカセになる。
 あるいはそれらの何にもならず、自分は自分のまま、まったく不自然な状況を経験する。

 どんな境遇でも、俺のやることは変わらない。
 自分というものの中の何かを台無しにしないように行動を選び、言葉を選ぶ。


194: 2012/05/05(土) 16:22:42.40 ID:L/5QaS6oo

 だが、そうまでして俺はいったい何を守りたいのだろう? 社会的な立場? 周囲からの信頼? 高慢な自己像?
 どれも最初から有って無いに等しい。何を守りたいのかもわからないのに、俺はとりあえず自分が周囲から外れないように行動する。

 どうしてだろう。

 でも、じゃあ他に、どうすることができるっていうんだ? 俺はあまりに無力で、"しくみ"に対抗する手段を持っていない。
 こうなったのは俺のせいじゃない。誰かのせいでもない。じゃあそれは"しくみ"のせいだ。もっといえば"世界"のせいだ。
 世界が持つ"しくみ"の、"構造"の欠陥なのだ。"設計図"のミスなのだ。
 俺のせいじゃない。俺はこういうふうに出来上がってしまったのだから――。

 カリオストロ、あの男の声が聞こえる。
 今も耳元でささやいている。俺の逃げ場所を失わせようと、舌なめずりをして待ち構えている……。


195: 2012/05/05(土) 16:23:27.23 ID:L/5QaS6oo


 

 後輩が俺の前に姿を現したのは、俺たちが例の怪談について調査することをやめた二日後の、夕方五時を過ぎた頃だった。
 その二日間はとても長く感じた。一日が一年のように長かった。それだけ遅れて彼女は現れたのだ。

 俺たちは例の児童公園で出会った。誰かと会うのは、そういえばいつもこの場所だ。
 彼女は俺の姿を見つけると、迷子の子供が母親を見つけたような表情で駆け寄ってきた。
 実在をたしかめようとするみたいに、何も言わずに俺の手を取り、指先で触っている。
(そんな行為で人の実在性が確認できるものだろうか)

 いなくなってびっくりした。今まで何をどこにいたのか。そんなことを訊ねると、後輩はうろたえた。

「いなくなったのは、部長たちでしょう?」

「はあ?」

 と思わず声が出た。彼女は訝しげに眉をひそめる。


196: 2012/05/05(土) 16:24:00.27 ID:L/5QaS6oo

「旧校舎で部長たちが突然いなくなっちゃうから、わたしずっと探してたんですよ。
 シラノ先輩もハカセ先輩も消えちゃうし、どこ行ったのかと思って、本当に怖かったんですよ」

「……待って。違う。いなくなったのはお前の方だろう? 俺たち三人はずっと同じ場所にいた。あの鏡の前に」

「違いますよ! わたしは普通に生活してました。部長たちがいなくなって一週間くらい。
 部長たちはいなくなったまま学校に来ないし、家を訪ねてもいないし、それでわたし……」

「……それで、どうしたの?」

「例の鏡を、もう一度調べてみたんです。ついさっき。何も見つからなかったけど……。
 でも、部長、いったい今までどこに行ってたんですか?」

 どこに行っていたも何も、俺もハカセもシラノも普通に生活していた。
 いなくなった後輩やトンボを追おうともせず、普通に。


197: 2012/05/05(土) 16:24:27.31 ID:L/5QaS6oo

「……トンボは?」

 と俺は訊ねる。

「一緒にいないんですか?」

「……あいつはいないのか」

「シラノ先輩とハカセ先輩は?」

「いるよ。明日も学校で会えるはずだ。あいつらはいる。でも……」

 どうしてトンボだけいないんだ?


198: 2012/05/05(土) 16:24:55.55 ID:L/5QaS6oo





「なんつーかさ」

 魔法使いの女は、ソファに背をもたれてコーヒーを啜ってから口を開いた。

「カリオストロっていうのも、なんだかガラテア的だよねえ」

「その"カリオストロ的"とか"ガラテア的"っていう言い方、よく分からないんだけど」

 俺が問うと、彼女は気だるげに溜め息をついた。

「そのうち分かるんじゃない? 確かめる気があればね、どんなことだって分かるものなんだよ。だいたいね」

「生きていく意味とか?」

「そんなもんない。自分で決めろ。しいていうなら、それはカリオストロ的ガラテアだね」

 ばっさり切り捨てると、コーヒーを一気に飲み干し、彼女は立ち上がった。


199: 2012/05/05(土) 16:25:28.90 ID:L/5QaS6oo

 いろいろなものが変化したはずなのに、彼女の様子は一切変わらない。

 なぜなのかと問うと、彼女はこう答えた。

「わたしはさ、そういう次元の存在じゃないからね。なんつーの、神の境地? 簡単に巻き込まれたりせんのですよ」

 バカバカしい話だ。

 魔法使いの女はこうも言った。

「アンタって絶対口リコンだよねえ」

「はあ?」

「もし記憶を保持したまま小学生に戻れたら、クラスメイトに性的な悪戯をするのに……とか考えてそう」

「なんですか、それ」

 俺は呆れた。


200: 2012/05/05(土) 16:26:05.95 ID:L/5QaS6oo



 俺と後輩は児童公園からの帰路を歩く。こうして会っても、話すことは何もない。
 お互い、自分の身に何が起こったのかを理解できていないからだ。

 俺たちの認識は完全に異なっている。
 彼女は消えたのは俺たちだと思い、俺たちは彼女が消えたと思っている。

 どちらが正しいのか分からないが、どちらもごく普通の生活を送っていたことは変わらないらしい。
 何が起こったのかはまったくわからない。わからないこと、説明できないことは、話にはならない。

 俺と後輩はほとんど言葉を交わさないまま別れた。俺にはそのことがひどく示唆的なことに思える。
 まるで何も起こっていないようだ。

 家の扉を開けると、両親は既に帰ってきていたが、喧嘩はしていないようだった。
 和やかだと言うわけじゃない。お互い大声で騒ぎ合うのに疲れたのだろう。
 決して居心地のいい空気じゃない。

 妹はまだ帰ってきていないようすだった。部活か、友達と遊んでいるのか。
 いずれにせよ、この家にいるよりはずっとましだろう。
 解決しきれない問題というものもある。
 いまさらどう取り繕ったところで、この船はもはや沈む寸前なのだ。


201: 2012/05/05(土) 16:27:03.33 ID:L/5QaS6oo




 かしましいコール音が部屋の静寂を切り裂いた。電話を受け取っても、すぐには声が聞こえなかった。

「……部長?」

 少しして、後輩の声がする。怯えたように震えた声音だ。
 
「どうした?」

 俺は少し緊張しながら訊ねた。
 何かがあったのだろうか。

「……あの、変なこと言っていいですか?」

「なに?」

「……ないんです」

「ない? 何が?」

「家が――」

 後輩の声は泣き出しそうに聞こえた。

「――わたしの家が、ないんです」


207: 2012/05/06(日) 18:13:09.41 ID:PB+9q1/Uo



 
 後輩に居場所を聞くと、彼女は「自分でも分からない」と答えた。
 ひどく錯綜している様子だった。俺は移動しないようにと伝えて電話を切った。

 俺の家から二十分ほど歩いた場所に、後輩はいた。
 彼女は顔面を蒼白にして膝をついている。寒そうに自分の肩を抱いて震えていた。
 その表情は、今に凍え氏んでしまいそうに見える。

 声を掛けると、彼女はひどくうつろな瞳で俺を見返した。

 まるで存在そのものが希薄になったように、彼女の姿は頼りなく見える。
 体が透けているようにすら見えた。

 彼女は不意に気付いたように目の光を取り戻すと、泣き出しそうに表情を歪めた。


208: 2012/05/06(日) 18:14:08.41 ID:PB+9q1/Uo

 どう説明するべきかを迷っているように、彼の視線は俺の顔と目の前の景色とを行き来した。
 そこには家があった。表札がある。郵便ポストがある。庭先に子供用の小さなブランコが置いてあった。
 二階の部屋のクリーム色のカーテンが視界に入った。

「ここに、あったはずなんです!」

 後輩は叫ぶ。

「わたしの家が! でも、違う。この家は違う。ぜんぜん違うんです!」

 俺は後輩の家の様子を知らなかったが、たしかに表札の苗字は違う。
 主観的なことを言えば、彼女の家にはとても見えない。
 それとは別に、この家はたしかに彼女の家ではない、というある種の確信が胸の内にあった。
 こういうことが多すぎる。


209: 2012/05/06(日) 18:14:58.93 ID:PB+9q1/Uo

 俺の身の回りに変化が起こったのと同様に、彼女の身にもまた変化が起こった。
 それも、俺のものとは比べ物にならないほどに巨大な変化が。

 俺は夢で見たカリオストロの声を思い出した。
 彼が言う"現実"とは、まさかこれのことか?

 俺の頭の中では、既にさまざまな不自然に対する疑問が芽生えはじめていた。

 たとえば、それは後輩の存在。
 たとえば、それはシラノの口調。
 たとえば、それはトンボとの記憶。

 いくつかのものが混線し、理解が難しくなっているが、それでも不自然を掴み取るのは難しくない。

 何が原因でこんなことになっているのかは分からないけれど、この状況が明らかに異常だということははっきりしていた。


210: 2012/05/06(日) 18:17:10.10 ID:PB+9q1/Uo




 雨が降り出したので、後輩を連れて喫茶店に向かった。彼女の家があった場所からは、そちらの方が近かったのだ。
 家から三十分ほどで到着する、街角の喫茶店。いつも通り隠れ家めいた雰囲気で、客の数は少ない。

 まだ肌寒そうにしている後輩のためにホットミルクを注文し、俺は自分の分のコーヒーを頼んだ。
 席についてすぐ、口から溜め息をこぼしそうになったが、後輩の手前、飲み込む。

 こんなことばかりが起こっている。いったい何がどうなってこんなことになったのだ?

 訳の分からない混乱に巻き込まれている。いったいいつから、こんなことになったのだ?
 ティアの手紙を受け取ってから? 公園で大男と出会ってから? それともハカセが怪談について調べようと言ったときから?
 あるいは、あの黒犬に襲われてからか? それとも、何ヵ月か前からあらわれはじめた"ズレ"のせいか?
 旧校舎でトンボが消えてから? 後輩がいなくなってから? 
 
 そういえば――ティアが来てから、街中で見かける人間は少なくなったはずだ。
 そんなことを、たしかに思った。でも……ここ二、三日出歩いていても、学校にいっても、人は別に少なくなかった。

 俺の身の回りに何が起こっているのだろう? それともあの悪趣味な魔法使いなら、こんなことにさえ説明をつけてくれるのだろうか。
 スズメなら俺になんというだろう。また、あたかも俺が、気付くはずのことに気付けていないような言い方で嘲るだろうか。
  
 マスターは俺と後輩の雰囲気に異様なものを感じ取ったのか、注文した品を届けると何も言わずにカウンターの内側に戻った。


211: 2012/05/06(日) 18:17:32.12 ID:PB+9q1/Uo

 俺は後輩に話を聞くことができなかった。
 彼女に何を聞くことができる?
 見間違いじゃないのか、道を間違えたんじゃないのか、気のせいだったんじゃないか。まさかそんな馬鹿げたことは言えない。

 あきらかに異常は起こっている。俺はそれに対して解決を提示できない。
 何も言うことなんてできない。結局のところそれは、俺の問題ではなく彼女の問題なのだ。

 彼女はしばらく泣きじゃくっていたが、やがて気分が落ち着いていたのか、心ここにあらずという様子ではあったが、涙をとめた。

 ふと気づいたように顔をあげ、今にも消え失せてしまいそうな弱々しい微笑を浮かべ、俺に謝った。

「すみませんでした、部長。いきなり呼び出して……」

「いや」

 俺は苦笑しそうになったが、押し頃した。非常識な状況で常識的な対応をされても笑うしかない。
「呼び出してごめんなさい」なんて言っていられる状況じゃないのだ。


212: 2012/05/06(日) 18:18:09.12 ID:PB+9q1/Uo

 彼女の目は少し赤くなっていたし、決して平気そうではない(当たり前のことだ)。

 それでも後輩は、あたかも自分は平気だとでも言いたげにホットミルクをすすりはじめる。
 触れれば砕けてしまいそうな、ガラス細工のような作り物の微笑を浮かべていた。

 彼女はホットミルクを飲み、俺はコーヒーを飲んだ。
 そのことを考え、俺は自分が失敗を犯したことに気付いた。

 ホットミルクは別に体を温めないと聞いたことがある。コーヒーも同様に。

 当然のように注文してしまったが、余計体調が悪くなったりはしないだろうか。


213: 2012/05/06(日) 18:18:35.51 ID:PB+9q1/Uo

 俺の懸念とは反対に、彼女の顔色はよくなってきた。血色が戻り、強がりではなく落着きはじめているらしい。

「どうする?」

 と俺は訊ねた。急ぎすぎたかとも思ったが、ずっとここにいても始まらない。

 彼女は弱々しく苦笑して、「どうしましょう」と言った。

「うちに来るか」

 そう誘うと、彼女はにわかに慌てはじめた。

「いえ、そんな、あの、あれだ、ご迷惑に――」

「そういう状況じゃない。他に心当たりがあるならいいけど。なんならシラノを頼ってもいい」


214: 2012/05/06(日) 18:19:52.96 ID:PB+9q1/Uo

「心当たり?」

「友達とか」

「……友達?」

「いないの?」

「いえ。えっと、あれ?」

 彼女は混乱したように額を押さえた。

「……思い出せません」

「は?」

「思い出せない。部長、わたしって、ふだん学校で何してました?」

「何って……」

 そんなの、俺が知るわけがない。
 だが、そういえば、俺は学校では彼女をめったに見かけたことがない。
 会うのはいつも部室とか、そういう場所ばかり。他の誰かと話しているところも、見たことがない。
 
 ――いったい、彼女の身に何が起こっているのだ?


215: 2012/05/06(日) 18:20:29.98 ID:PB+9q1/Uo



 俺が中学にあがったときのこと。ついさっきまで忘れていた話だ。

「本当は子供なんて欲しくなかったのよ」と母は言った。

「アンタなんて生まなきゃよかったわ」

 遠くを見るような、真剣で、どこか儚げな表情で、彼女は言ったのだ。
 美しい過去を思うような、望郷のような――俺は、こんな綺麗な表情をした人間が、さっきのような言葉を吐けるのかと感心した。

 そうか、と俺は思った。

 俺は生まれなければよかったのだ。


216: 2012/05/06(日) 18:20:58.10 ID:PB+9q1/Uo

◇ 

 
「生まれた」ということは、そのまま、未来の氏が確定されたということを意味する。
 すべての命は生まれたその瞬間に氏ぬことが確定している。
 
 子猫だろうが人間だろうが変わらない。
「いきものを生む」ということは、そのまま「いきものを頃す」のと変わりない。

 すべての親はあらかじめ子供を頃している。
 もちろんそんなのは、言い回しを変えてみただけの一般常識に過ぎない。
 だが、こう考えたとき、俺はいつも不安になる。

 子供が生まれるというとき、その決定権は常に親の側にある。
 子供は望んで親のもとに生まれたわけではない。
 それどころか、そもそも「生まれてくる」ということを意志的に決定してきたわけでもない。
 それは誰でも同じだ。俺も妹も母も父も、誰だって同じなのだ。


217: 2012/05/06(日) 18:22:01.64 ID:PB+9q1/Uo

 だから俺は母の言葉に対して上手に反論することができない。

「俺だってアンタを選んで生まれてきたわけじゃない。生んでくれと頼んだわけじゃない」

 そう言えたとしても、

「わたしだって、アンタを選んで生んだわけじゃないわ。生もうとしたわけでもない。
 生まれてくれって頼んだわけでもない。あんたが勝手に生まれてきたんじゃない」

 そう言われてしまえばそれで終わってしまう話なのだ。
 
 俺は望んで生まれてきたわけじゃない(発生する前の命は、そのように思考し選択することができない)。
 だが、母だって別に、俺を生むような女になりたかったわけではないのだ。

 それは、たまたまそうなってしまっただけのことにすぎない。


218: 2012/05/06(日) 18:23:06.02 ID:PB+9q1/Uo

 もちろん、親である以上、子供に対しては真剣に向き合うべきだとか、責任はとれとか、そういうお題目を唱えることはできる。
 責任をとれないのなら子供ができないように注意すればよいとか、そんなことだって言える。
(つまり"親に責任を取ってもらえない子供"は、生まれてこなかった方がマシだということだ)

 だが、幸いというべきか、母は最低限の親としての義務を果たしていたので、俺はそんな言葉を振り回さずに済んだ。

 そもそも俺は責任という言葉が嫌いだったし、本当に一人ひとりの人間の下に帰結する責任なんて存在しないと信じている。
 そうでなければ、俺はトンボが猫を捨てたことを糾弾しなければならないし、シラノに対して「もっと上手にやれたはずだ」と怒鳴らなければならなくなる。
 
 俺を一個の人間として扱い、同時に母を一個の人間として扱ってみる。
 すると、俺はたしかに「望んで生まれたわけではない」し、
 母も「望んで生んだわけではない」ことになる。結果として「生まれるような行為を軽々しくしてしまった」だけだ。

 要するにそれは、誰にとっても悲劇でしかなかったということだ。
 

219: 2012/05/06(日) 18:23:50.18 ID:PB+9q1/Uo

「わたしのせいじゃないわ」と母は言うだろう。
「アンタが勝手に生まれてきたのよ。わたしは別に、アンタなんていらなかった」
 
 俺はそのことを想像するととても悲しい。どうして悲しいのかは分からない。
 母のことは好きじゃない。氏んでしまえばいいとすら思う。
 こんな無責任な人間がはびこっているのかと思うと、社会とか世の中というものが心底いやになる。

 けれど、悲しいのはなぜなのだろう。
 それは、俺が母を好きだからではない。
 
 たしかに俺は母に執着している。
 だがそれは、手に入らなかったものこそ欲しくなるというだけで、別に彼女という人間が特別に優れているというわけではないのだ。


220: 2012/05/06(日) 18:24:16.45 ID:PB+9q1/Uo

 両親に愛されないということは、そのままこの世の誰にも愛されないということだ。
 両親というもっとも色眼鏡のかかった人間から見ても、俺はまったく必要のない、愛す価値のない人間なのだ。
 
 そんな人間が誰かに愛してもらえるわけがないし、必要とされるわけがない。
 分かりきったことだ。

 そんな奴は生まれてこなければよかったのだ。
 こんなに苦しみも生まれたからこそ抱かねばならないものなのだから。

 捨てられるくらいなら、生まれてこない方がよかった仔猫と同じように。


221: 2012/05/06(日) 18:25:15.57 ID:PB+9q1/Uo




 かつて、中学のときの同級生の女子だっただろうか、名前は覚えていないが、大真面目に話をしたことがある。今はもう顔も覚えていない。
 俺はこう言った。どういう話の流れだったのかは覚えていない。

「俺は自分なんて氏んでしまってもいいと思っているし、両親に対して特別な愛情なんて抱いていない。
 なんなら、明日家族みんなで車でドライブした帰りに、大事故が起きて氏んでしまってもかまわない。それまでだ。
 別にこの世に未練はないし、後悔なんて何もない。今日隕石が降ってきて世界が滅んでも、ああ、そうかと思うだけだ」

 彼女は不快そうに眉を吊り上げた。

「そんなこと言うものじゃないわよ。両親がいない子供だっているし、明日には飢えて氏んでしまう人もいるのよ。
 あなたは五体満足だし、食べ物にも飲み水にも暮らす家にも困っていない」

 そこで彼女は溜め息をついて、「あなたは恵まれているのよ」と言った。

「だからそんなことを言ってしまえるの」


222: 2012/05/06(日) 18:25:41.61 ID:PB+9q1/Uo

「恵まれている」という言い方をするなら、俺はたしかに恵まれている。

 俺は、彼女と自分の人生はきっとねじれの位置にあるのだと考えながら、頭の中で反論した。

 両親がいない子供の悲しみは、その子供の悲しみでしかない。
 俺が何かを言ったとしても言わなかったとしても、それは"彼"の問題でしかない。

 どうして"彼"の問題に対して俺が配慮しなければならないのだろう?
 仮に俺が「両親は必要だ」と口に出したなら、彼のもとに両親が帰ってきたりするだろうか。
 
 更に、俺はたしかに五体満足の身体を持っているが、だからといってこの手や足で成し遂げたいことなどない。
 もし腕がなかったり足がなかったりしたら欲しがるかもしれないが、だからどうしたというのだろう。
 現に俺は五体満足の身体であり、そのことにさしたる喜びを抱いてはいないのだ。

 鼻から空気を吸い込むたびに、この世のすべてに感謝しろとでも言うのだろうか?
 見ず知らずの他人について考え、その人のために言葉を選ぶべきだとでも?


223: 2012/05/06(日) 18:27:02.07 ID:PB+9q1/Uo

 「明日には飢えて氏ぬ人間もいる」という言葉は、彼女の発言の中でもっとも配慮に欠けたものだ。
 今この瞬間だって、人は氏んでいるし生まれている。誰かが泣いているし誰かが笑っている。
 誰かが心の底から幸せだと感じ、誰かが強い絶望に打ちひしがれている。

 この世のすべての人々に思いを巡らせることは不可能だ。

 俺が考えるのはいつだって自分のことだけ。
 俺は自分のことだけで精一杯の人間なのだ。

 今、現実に苛まれ、傷ついているたったひとりの妹にさえ、何ひとつも差し出してやれない人間なのだ。

 俺は頭の中で自分なりの論理を打ち立てると、もう二度と誰かに本音を話したりするものかと思った。
 こんなふうに言いようのない怒りを覚えなければならないくらいなら、最初から何も言わなければいい。

 以来俺は、自分の考えを口に出さなくなったし、周囲が望むように行動するようになった。
 彼女はそれを自分の説教が効果的に響いたからだと思ったらしいが、あえて否定する気にはなれなかった。


224: 2012/05/06(日) 18:27:23.46 ID:PB+9q1/Uo

 俺は満たされた人間だ。恵まれた人間だ。
 だが、こんな人間は生まれてくるべきではなかった。俺はいつもそう考えている。

 俺は今日まで生き延びてきた。それは、俺がまだ現実に期待しているからとか、そういうわけじゃない。
 氏にたいと思いながらも、積極的に氏ぬ手段を取るのが面倒だっただけだ。
 労力をかけたりするよりは、ベッドに埋まって眠っていたい。

 俺が今日まで生きてきたのは、単純に、机の引き出しにピストルが入っていなかったからという、ただそれだけが理由に過ぎない。


225: 2012/05/06(日) 18:30:09.34 ID:PB+9q1/Uo

228: 2012/05/06(日) 20:09:11.47 ID:Twd4hx9vo
1乙

229: 2012/05/06(日) 23:06:55.44 ID:n8F5cdvIO
乙ッス

引用: 後輩「それじゃ、本当にこれでお別れです」