家康を辿る城旅「岩崎城」!池田軍の奇襲"三河中入り"、戦いの帰趨を握った岩崎城の動きとは?

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「岩崎城」!池田軍の奇襲"三河中入り"、戦いの帰趨を握った岩崎城の動きとは?です。

■家康を辿る物語

羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍が激突した小牧・長久手の戦い
家康は小牧山城に、秀吉は楽田城に本陣を置き、両者は睨み合いを続けたまま動かず動けず、戦況は膠着状態に陥ります。

こうした膠着状態を打開すべく、池田恒興は森長可とともに、家康が留守にする三河に奇襲をかけることを秀吉に献策。秀吉の許可を得て進軍を開始しました(三河中入り)。
池田軍は、三河に向かう途上で徳川方の岩崎城を攻撃。これを攻め落とすと、この地で休息をとります。

しかし、その頃すでに徳川軍は、池田軍のすぐ近くまで軍を進めていました。
実はこのとき家康は、池田軍の動きを忍びの情報で察知。秀吉本陣に気取られないよう出陣すると、池田軍撃破のために軍備を整えていたのです。

■岩崎城

家康を辿る城旅。今回は、小牧・長久手の戦いの帰趨を握った「岩崎城」を訪れます。

岩崎城は、尾張と三河を結ぶ街道の要衝地に建つ平山城です。
築城は室町時代末期とされ、織田氏と松平氏(徳川氏の祖)の争奪戦が繰り広げられますが、小牧・長久手の戦いの頃は、家康方に附いた丹羽氏が守っていました。

この丹羽氏の動きが戦いの鍵を握りました。三河に向かう池田恒興軍に果敢に攻撃を仕掛けると、構わず進軍する予定だった池田軍はやむなく応戦。
城は落城しますが、結果として池田軍をここで足止めしたことが、家康優位に戦況を運ぶことになりました。

そんな岩崎城を訪れると、城ファンにはたまらない土塁や空堀跡が残っていました。
馬出と考えられる二の丸跡もありました。合戦当時、城方はわずか200余名…。それでも池田軍の攻撃を幾度も撃退できたのは、こうした防備があったからと考えられます。

二の丸と本丸を結ぶ土橋を進むと、本丸を守るように小高い櫓台がありました。ここも池田軍の迎撃拠点として使われたことでしょう。
櫓台の頂には、1万近い池田・森軍に寡兵で攻撃を仕掛け、全員討死した丹羽氏重以下城兵を讃える「表忠義」碑が建っていました。

さらに歩みを進めて本丸跡へ。そこには五重構造の天守が建っていました。
残念ながらこちらは史実にはない模擬天守。展望塔になっていて、最上階からは城下を一望できます。

本丸跡には、礎石の残る隅櫓跡や井戸跡があります。これらは発掘調査により確認された当時の遺構です。
また、同じく本丸内にある岩崎城歴史記念館には、岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されています。丹羽氏の活躍もたっぷり紹介されていました。

岩崎城の思わぬ抵抗により足止めされた池田恒興軍。その間に家康軍は、三河中入り勢の最後尾を行く羽柴秀次軍に追いつきこれを攻撃、敗走させました。
そして戦場は、運命の長久手へ…。家康本隊と池田・森軍の直接対決を迎えることになるのです。

佳境をむかえる小牧・長久手の戦い。戦いの行方はいかに…?
続きはまた、次回の当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」で綴っていきたいと思います。

■基本情報

名称:岩崎城跡
住所:愛知県日進市米野木町 北畑8 日進市立東小学校
アクセス:名古屋市営地下鉄「星ケ丘」駅からバスまたは車

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事