こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、石川数正出奔!ゆかりの「松本城」へ…戦うための黒い天守にこめた思いは?です。
■家康を辿る物語
小牧・長久手での局地戦では勝利を収めた家康でしたが、天下の趨勢は秀吉側に大きく傾いていきました。
秀吉は、主君であった織田信雄を実質的に服従させると、自らを長とする政権を樹立。これにより信長から続く織田の天下は終焉、新たに秀吉が天下人となったのです。
勢いを増す秀吉は、紀州・四国・越中を攻略。天正13年(1585年)には、朝廷から関白の宣下を受けました。
天下の版図が秀吉色に塗り替えられていくなか、家康は、秀吉に対抗するのか臣従するのか、難しい判断を迫られます。
三河家臣団は紛糾します。一本気な家臣たちの多くは、天下の形勢を見ることなく「秀吉何するものぞ」と主戦論を唱えました。
一方、天下人となった秀吉と戦うことの愚を訴え、主戦論に強く反対したのが、家康の側近・石川数正でした。
やがて家中で孤立した数正は、家康のもとを出奔。秀吉のもとに帰順します。
三河家臣団の要にして軍事的機密を知り尽くした数正の出奔は、家康にとって大きな衝撃でした。
この石川数正出奔を機に、秀吉との和平交渉が大きく動き出します。
秀吉から数々の融和策を受けて、家康は秀吉への臣従を決意。反対する家臣団を説き諭し、ついに上洛の途に就いたのでした。
■松本城
家康上洛の判断に大きな影響を与えた武将、石川数正(いしかわかずまさ)。
家康の人質時代から近侍として仕え、家康と数々の合戦に出陣、家康の片腕とまでうたわれた重臣です。
そんな彼が家康のもとを出奔…。その理由は明らかにされていませんが、数正出奔がいきり立つ三河家臣団を鎮めたのは間違いないでしょう。
数正ははじめ河内国を与えられましたが、後に信濃国松本に移封。そこで松本城の築城や城下町の整備を進めました。
今日は、その数正ゆかりの松本城を訪れましょう。
現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城。日本100名城の一つです。
城の東にある「太鼓門」から入城します。その名の由来は、かつてここに時の合図等を鳴らす太鼓楼が置かれていたことから。
重量22.5トンの巨石「玄蕃石」を据え、桝形の構造をなす太鼓門は、いまに戦国の威風を伝えています。
太鼓門を通って「二の丸御殿跡」へ。本丸御殿が江戸中期に焼失した後、藩の政庁が置かれた場所です。
幕末まで藩の中枢機関であったところ。史料に基づいて当時の政庁の様子が平面復元されています。
続いて本丸へ。本に入る正門が「黒門」です。櫓門と桝形からなる本丸防衛の要。
この日は、松本市のマスコットキャラ「アルプちゃん」が可愛らしく門を守っていました。
黒門をくぐって本丸に入ると、目の前に黒を基調とした天守が現れました。
現存する五重六階の天守の中では日本最古。その姿は勇壮かつ壮麗…。その威容に思わず息を呑みます。
門で見られた桝形もそうですが、天守も石落や狭間、付櫓など防御の仕組みが施されています。戦うための黒い堅固な天守と言えます。
これら天守や御殿・太鼓門・黒門などを造ったのが、石川数正・康長父子です。数正らは、城下町の整備も進め近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
そんな石川数正ですが、松本城主となって間もなくこの世を去りました。
その石川数正夫妻の墓(供養塔)が、松本市の兎川寺(とせんじ)にあります。建てられた時期など詳しい記録は残っていないそうですが、地元のひとからも崇敬されていた証ではないかと思いました。
なお、石川数正出奔の理由については謎のままですが、結果としてその判断が秀吉と家康の武力衝突を未然にくい止め、戦乱により失われる多くの命を救ったのは間違いありません。
戦うための黒い天守とされる松本城ですが、もしかしたらそれを築いた数正は、戦わないために堅固な天守を造ったのかもしれませんね…。家康を辿る城旅、今日は石川数正ゆかりの松本城を訪れました。
■基本情報
名称:松本城
住所:長野県松本市丸の内4−1
アクセス:JR松本駅から徒歩20分
営業時間:8:30~16:30