F坊やのひらがな事始め
- 2024/03/18
- 18:59
前置き
杉田玄白の有名な『蘭学事始』(らんがくことはじめ)に倣って、新設の書庫の名前を『「F坊やの文字論」事始め』としました。
「F坊やの」と明示してあることで分かるように、学問としての「文字論」ではありません。F坊やがひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字、ロシア文字などを習得し始めた頃の「周囲の大人を大笑いさせた逸話」の紹介です。皆様も、笑いながら読んでください。
本文
教育玩具(きょういくおもちゃ)「積み木」
就学前のF坊やの環境にあった積み木には、表に鳥獣虫魚や花の絵が描いてあり、裏面にその頭文字に相当する平仮名かカタカナが彫ってありました。幼児に仮名を憶えさせるための教育玩具(おもちゃ)でした。
F坊やは、積み木を積み重ねて遊びながら、知らず知らずのうちに平仮名とカタカナを習得したようです。
ただ、積み木に彫ってあるのが標準語の語彙だったため、F坊やの母言語である秋田県南西部の矮小言語とは噛み合わないことがありました。また、幼児の獲得語彙に入るはずの無い言葉も一つならずありました。
F青年が大学生になっても、そのうちに四十男になっても、父が時々思い出しては大笑いしていた「誤認」の例を二つ、紹介します。
「貝のカ」が読めない
F坊やには、「貝の頭文字のカ」が読めませんでした。原因は、単純なことです。F坊やの母言語では、蜆(しじみ)や鮑(あわび)や栄螺(さざえ)の総称は、「かい」ではなく、「けんこ」なのです。
ですから、「か」という字の読み方を訊かれて、大威張りで
「『けんこ』のケ」
と答えたのです。
父は、大笑いした後、優しく、こう教えてくれました。
「『けんこ』は、標準語では『かい』って言うんだよ。この積み木は、標準語を話す人が作ったんだ」
「重箱のジュ」
その積み木には、単一の仮名だけが書いてありました。「きゃ」だの「じょ」だのという彫り方をしたものは、ありませんでした。
それなのにF坊やは、「じゅ」と読む仮名を知っているつもりでした。
不思議に思った父が、どの文字なのかと訊きました。
F坊やが探し出してお父さんに見せた積み木には、「ぬ」と彫ってありました。
「どうしてこれが『じゅ』と読めるんだろう」
「『重箱』の『じゅ』じゃないの?」
「えっ・・・あっ。ああ、そうか。分かった。これはね、『塗り物』の『ぬ』なんだ。標準語でも大人の言葉では、重箱や塗り箸のように漆を塗った物を纏めて『塗り物』と言うんだ。いや、待てよ。今は『漆器』って言うことのほうが多いかな。どっちにしても、子供が毎日聞くような言葉じゃないねえ。この積み木は、教育玩具(おもちゃ)として失格だ」
そこへやって来た母が、こう言いました。
「『ぬ』で始まる言葉で子供でも知っているものはあるけど、『縫い針』にしても『糠味噌』にしても、一目でそれと判る絵にするのは難しいわね」
単なる玩具(おもちゃ)だとばかり思っていた積み木に書いてあったのは「標準語」という未習得の言語だったと知って、F坊やは、これまでに移り住んできた村々の言葉に加えて、その言葉も習おうと決めました。
「標準語って、どんな言葉?」
「ラジオから聞こえて来る言葉だ」
「この辺りの村じゃ誰もあんな言葉、喋(しゃべ)らないよ」
「お父さんが教えてあげる。お母さんも話せるよ。でも、一番いいのは、東京で何年も暮らしたことのあるK伯父さんが標準語を喋る時の発音を真似ることだ」
数ヶ月後、F坊やの一家は、しばらくの間、当時は秋田市の中心部に住んでいたK伯父さんの家で寝泊まりすることになりました。
杉田玄白の有名な『蘭学事始』(らんがくことはじめ)に倣って、新設の書庫の名前を『「F坊やの文字論」事始め』としました。
「F坊やの」と明示してあることで分かるように、学問としての「文字論」ではありません。F坊やがひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字、ロシア文字などを習得し始めた頃の「周囲の大人を大笑いさせた逸話」の紹介です。皆様も、笑いながら読んでください。
本文
教育玩具(きょういくおもちゃ)「積み木」
就学前のF坊やの環境にあった積み木には、表に鳥獣虫魚や花の絵が描いてあり、裏面にその頭文字に相当する平仮名かカタカナが彫ってありました。幼児に仮名を憶えさせるための教育玩具(おもちゃ)でした。
F坊やは、積み木を積み重ねて遊びながら、知らず知らずのうちに平仮名とカタカナを習得したようです。
ただ、積み木に彫ってあるのが標準語の語彙だったため、F坊やの母言語である秋田県南西部の矮小言語とは噛み合わないことがありました。また、幼児の獲得語彙に入るはずの無い言葉も一つならずありました。
F青年が大学生になっても、そのうちに四十男になっても、父が時々思い出しては大笑いしていた「誤認」の例を二つ、紹介します。
「貝のカ」が読めない
F坊やには、「貝の頭文字のカ」が読めませんでした。原因は、単純なことです。F坊やの母言語では、蜆(しじみ)や鮑(あわび)や栄螺(さざえ)の総称は、「かい」ではなく、「けんこ」なのです。
ですから、「か」という字の読み方を訊かれて、大威張りで
「『けんこ』のケ」
と答えたのです。
父は、大笑いした後、優しく、こう教えてくれました。
「『けんこ』は、標準語では『かい』って言うんだよ。この積み木は、標準語を話す人が作ったんだ」
「重箱のジュ」
その積み木には、単一の仮名だけが書いてありました。「きゃ」だの「じょ」だのという彫り方をしたものは、ありませんでした。
それなのにF坊やは、「じゅ」と読む仮名を知っているつもりでした。
不思議に思った父が、どの文字なのかと訊きました。
F坊やが探し出してお父さんに見せた積み木には、「ぬ」と彫ってありました。
「どうしてこれが『じゅ』と読めるんだろう」
「『重箱』の『じゅ』じゃないの?」
「えっ・・・あっ。ああ、そうか。分かった。これはね、『塗り物』の『ぬ』なんだ。標準語でも大人の言葉では、重箱や塗り箸のように漆を塗った物を纏めて『塗り物』と言うんだ。いや、待てよ。今は『漆器』って言うことのほうが多いかな。どっちにしても、子供が毎日聞くような言葉じゃないねえ。この積み木は、教育玩具(おもちゃ)として失格だ」
そこへやって来た母が、こう言いました。
「『ぬ』で始まる言葉で子供でも知っているものはあるけど、『縫い針』にしても『糠味噌』にしても、一目でそれと判る絵にするのは難しいわね」
単なる玩具(おもちゃ)だとばかり思っていた積み木に書いてあったのは「標準語」という未習得の言語だったと知って、F坊やは、これまでに移り住んできた村々の言葉に加えて、その言葉も習おうと決めました。
「標準語って、どんな言葉?」
「ラジオから聞こえて来る言葉だ」
「この辺りの村じゃ誰もあんな言葉、喋(しゃべ)らないよ」
「お父さんが教えてあげる。お母さんも話せるよ。でも、一番いいのは、東京で何年も暮らしたことのあるK伯父さんが標準語を喋る時の発音を真似ることだ」
数ヶ月後、F坊やの一家は、しばらくの間、当時は秋田市の中心部に住んでいたK伯父さんの家で寝泊まりすることになりました。