春節で賑わう街を歩く男がいた。F.A.N.G。
かつて裏社会で権勢を誇り、ベガの腹心として暗躍した男はシャドルーなき今、何を思うのか......
蠱毒(前)
日が落ちて、風の出始めた街を、男が歩いていた。
湿った風は整然と建ち並ぶビルの間を抜け、街路を渡って、路傍のごみを暗い空に巻き上げる。すっかりこの国の名物になったスモッグも、今夜はいくらかましだった。星の見えない空の下、ハイテク機器を誇らしげに宣伝する看板が、無機質な光を夜に投げかけている。街路を行く男の横顔で、不自然に色づいたLEDの光が深い陰を作った。
時々に男はそう名乗ったが、いずれも本当の名前ではなかった。自分が何と名付けられた何者だったのか、男自身もとっくに忘れてしまっていた。男は、時に
毒の手を持つ暗殺者。痩身のスーツの背を丸め、両手をズボンのポケットに突っ込んだ男の正体は、それだった。黒社会と呼ばれる、この国の裏の世界で、毒使いとして恐れられる男だった。
毒手。男が最初にそう呼ばれてから、もう随分たつ。毒使いとして果たした最初の仕事が、男から感情を奪っていた。サングラスの奥から、男の笑わない目が年明けの街を眺める。
出稼ぎの人々が里帰りする今の時期、改革開放を旗標に急激な発展を遂げた経済都市には、普段の半分の賑わいもない。それでも通りをそぞろ歩く人影は絶えず、人々は声高に挨拶を交わし、政府に禁じられた爆竹を鳴らし、それぞれに新年を祝っている。歓声と火薬の匂い。計画的な先進性と拭いきれない伝統との入り交じった町並み。雑多でしたたかで貪欲な、この国そのもののような風景がそこにあった。
「......おおっと」
前から歩いてきた酔っ払いが、男とぶつかりそうになってよろめく。男に食ってかかろうとして、思いとどまる。男の体からは、酔っ払いですらたじろぐほどに強烈な酒の匂いが漂っていた。
「は、ははは。めでたい酒はうまいよな」
赤ら顔に苦笑を浮かべて、気安く男の肩を叩く。千鳥足が遠ざかった。
男が何者であったのか、酔っ払いは知らなかった。知らずにいて、幸運だった。最強の兇手と呼ばれた男は、かつて界隈の黒社会で権勢を誇った組織の頭目だった。
裏の世界で、男は生きてきた。生き残るために力を求めた。殺して奪い取った。気がつくと多くの部下を従え、黒社会で顔役になっていた。その頃の男に気安い真似をしたら、次の日に鰻の餌になってもおかしくなかった。
組織を率いてた時期、男は己の力を誇った。何も恐れなかった。だが、満たされもしなかった。最初に殺人者になった時から、男は生きながらに死んでいた。ただ空隙を埋めるように、組織を、権力を拡大した。やがて男は、そこに行き着いた。
シャドルー。
黒社会に身を置いて、その名を知らぬ者はなかった。合法、非合法を問わず、世界にその根を張り巡らせる、超越的な闇の帝国。どの国にも裏社会はあるが、シャドルーは別格だった。総帥ベガは、世の全ての裏社会に君臨する王のごとき存在だった。
その王に、男は挑んだ。
そして、破れた。
完全な敗北だった。
数知れぬ死線で研ぎ澄ました暗殺者の技のことごとくが、及ばなかった。男の最大の武器である毒すらを、ベガは力でねじ伏せ、砕いた。表の力も、裏の手も。兇手として生き抜いてきた日々を、黒社会の有力者としての誇りを。男のすべてを、ベガは圧倒した。
超絶的な暴力を体現したベガという存在が、男を打ちのめした。
ただひとりの個人の、暴力による世界支配。ベガの掲げる野望が、男の空隙を埋めた。自らの組織をなげうって、男はシャドルーへと下る。ベガに圧倒された己のすべてをもって、ベガの野望に尽くすと、心に定めた。ベガの腹心、シャドルー四天王の
......だが、シャドルーは壊滅した。
ベガは討たれ、その野望は潰えた。
仕えるべき王を喪い、再び男は空虚だった。
ベガの死を、未だ信じ切れていなかった。シャドルー再興に一縷の望みをかけて、かつて男が身を置いた黒社会を奔走した。以前には男が顎で使っていたような相手にも挨拶に出向き、頭を下げた。杯を出されれば、干した。
そうして文字通り酒を浴びた帰りに、男は夜の街をあてどなく歩いていた。少しも酔ってはいなかった。千の毒をその身に取り込んだ毒手の男を、酔わせる酒はこの世にはなかった。