小原庄助さんの墓
2007年 05月 26日
小原庄助さん、なんで身上つぶした?
朝寝朝酒朝湯が大好きで、それで身上つぶした、
あ~もっともだぁ、もっともだぁ
と羨ましいくもあり、羨ましくもない人生を送られたことで有名な方です。実在したのこの方は諸説あるようですが、今回は白河の地にあるお墓を訪ねました。
で、実際の小原庄助さんのお墓ですが、こんな感じです。場所は白河駅の直ぐ近くにある皇徳寺にこのお墓があります。
さらに、そのお隣には羅漢山人のお墓です。
何の関係?って思ったら直ぐ脇の看板に
羅漢山人及び小原庄助
山人は谷文晁の高弟、酒を好み羅漢山の下に住して絵を画く 慶応2年没す享年83才、傍らの台石が銚子の袴、竿が徳利、笠が盃で会津塗師久五郎の墓 小原庄助とはこの人である。山人に絵付を習いにきてこの地で安政5年没す。戒名米汁呑了信士 辞世、朝によし昼なほよし晩によし、飯前飯後その間もよし
白河商工会議所青年部
白河観光協会
と分かったような分からないような中途半端な説明が書いてありましたが、要するに
・墓石の形 銚子、徳利、盃をモチーフにしている
・戒名 米汁=酒
・辞世の句 いつ飲んでも酒は美味い
小原庄助さんは民謡『会津磐梯山』のとおりだったという事のようです。
また、同じ皇徳寺には「新選組隊士 菊地 央」の墓のお墓があります。
新選組隊士 菊地 央(たのむ)の墓
元津軽藩士て生まれは弘化4年(1847)俗名は央(英)五郎といい、慶応3年(1867)6月以降に新選組隊士となる。慶応4年(1868)閏4月25日に白河口の戦いにおいて22歳の若さで戦死。墓碑の正面に「誠忠院義勇英劒居士」左側面に「弘前 菊地央五郎」、右側面に「慶応四年戊辰閏四年廿五日戦死」と刻まれている。
平成16年3月 白河観光協会
最後の最後に、この皇徳寺の直ぐ近くにはこんなお店もあります。
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貧乏人には買えない物ばかりかと思い、お店の中にすら入りませんでした。
まぁ、好きなことを好きなだけやれる時代に生まれたのか生まれなかったかの違いですから、これも運命と諦めているのではないでしょうか?
色んなところに転戦して行った跡って感じがしますね・・
慶応4年の4月25日は近藤勇が斬首された日でもあるので、
同じ日だったんだなーなんて思ってしまいましたが・・
小原庄助さんと同じお寺なんですね!
あは!最後の写真のお店、いいですねー(^0^;;
菊地央の件はラムさんならご存知かなぁ?と思ってアップしたんですよ。
> あは!最後の写真のお店、いいですねー(^0^;;
まあ、今回は男の生き様特集ということでまとめてみた結果です。