bandicam 2022-05-22 16-12-50-678


1:ななしさん 2024/04/23(火) 22:49:55.20
ソウル文化トゥデイ

「日本より500年先だつ我々の漆画、あまり知られてなく残念」

・黙々と漆画だけ見て歩んできた60年…大企業の協業で初代展だけで34回開催
・有名化粧品ブランドと合作、G20ファーストレディの公式膳物として贈呈されたことも
・「漆画には変化無双の絵画である…時間とともに変化する固有の色感が魅力」
・漆学科はすべて閉科、伝統工芸に関心薄れる傾向…「生かすシステムが必要」

今日まで残って伝承されている伝統工芸のさまざまな技術の中で、三国時代までさかのぼるほど淵源が古い種目は多くない。漆画は漆と天然顔料を混合して作られた伝統の色で絵画的表現をするもので、我々のチルファ(漆畵)の歴史は1600年をさかのぼる。 高句麗の「狩猟図」や古墳壁画、新羅の「天馬図障泥」、百済の武寧王陵発掘遺物などから我々の漆画の長久な歴史を確認することができる。

しかし、高麗時代に差し掛かり螺鈿漆器が盛んになると、漆画が少し勢いがなくなり、百済と新羅から伝わった漆画技術が日本で花を咲かせることになった。今日では、我々の漆画が日本より500年先にあるのに、漆画を日本文化と考える誤った認識が蔓延しているかたちだ。


ソウル市無形文化財第1号キム・ファンギョン漆画匠は60年間、漆画の人生を歩んできた匠人として、このような形勢にもどかしさを感じて、我々の漆画文化の底辺拡大と技術伝承に励んできている。現代絵画の表現様式を借りて漆画の大衆化と現代化に寄与したり、よく知られた企業との協業で伝統工芸を我々の近くに持ってきたりと、絶えず努力してきた人だ。

彼は、「我が民族が日本に伝承した漆画の伝統を取り戻そう」という気持ちで、使命を持って漆画の伝承と保存のためにチョンモク漆塗り研究所を設立して運営している。タンスの全盛期で成業を築いた80年代には清潭洞(チョンドムドン)でギャラリーも運営した。当時、漆画科出身や、美大を卒業したばかりの数多くの門下生たちが先生の工房に通っていた。

しかし、伝統工芸に対する関心が次第に減り、釜山女子大、韓南大、培材大、ソウル市立大など既存に開設されていた漆学科が全て閉科されて、彼の工房を訪ねる学生たちの足も目に見えて減ることになった。我々の伝統工芸に対する青年たちの関心が減っている近ごろ、キム漆画匠はひたすら「漆画」一つだけを見つめながら、苦しい環境でも黙々と一つの道だけを歩んできた。

このような彼の功労を称えようと本誌『ソウル文化トゥデイ』は1月、キム漆画匠に「第15回ソウル文化トゥデイ文化大賞工芸部門大賞」を授賞したところである。この日、キム漆画匠は、「これからも頑張ります」と短い受賞の所感を述べたが、彼の顔にあらわれた固い意志は残り少ない漆画伝承者としての大きな責任感が込められているようだった。

我が国の伝統工芸が日常の中から、ますます立場を失っている近ごろ、キム漆画匠が歩んできた道は確かに楽ではない道だったであろう。彼が歩んできた工芸人生と今日の漆画の現在の位置について聞こうと、平倉洞(ピョンチャンドン)にある彼の作業室を訪ねた。低い丘の上に位置する彼のアトリエには深い漆の香りがいっぱいに漂っていた。(省略…)

-「我が民族が日本に伝承した漆画の伝統を取り戻そう」という使命を持って漆画の復元に励んできた。また、ソウル市無形文化財として漆画の伝承と保存のためにチョンモク漆研究所を運営している。我が国の伝統工芸に対する青年たちの関心が減っており、責任感が大きいようだ。

「我々の漆の歴史は日本より500年早いのに、どうやら『漆といえば、日本』になるから、我々があまりにもうずくまって暮らしたのではないかと思い、匠人として惜しいという気持ちがある。漆画のようなケースは伝承がうまくいっていない。私の代を継ぐ弟子を育てるのは簡単ではない。どうも、この仕事だけでは生活がしづらいとみて、若者たちが忌避しているようだ(省略…)」

[ソウル文化トゥデイ文化大賞受賞者] キム・ファンギョン(号チョンモク)漆画匠


2:ななしさん
嘘つき朝鮮人

3:ななしさん
まーたはじまーた

4:ななしさん
嘘です

7:ななしさん
漆画ってなに?漆絵?

13:ななしさん
一切読んでないけど嘘