リチャードソン選手はスプリンターとしての飛び抜けた才能に加え、原色の髪、長く派手なネイル、インタビュー時の明るく、物おじしない態度でアメリカ陸上界のスーパースターとなった。競技会で優勝すると観客席にいる、実母に代わって育てた祖母に走り寄ってハグをする姿も陸上ファンの心を溶かした。
東京オリンピック出場を決めた選考会レース後のインタビューは、特に多くのファンを引き付けた。リチャードソン選手は「前週に実母が亡くなったが頑張った」と言い、インタビュアーをも驚かせた。このエピソードにミシェル・オバマ元米大統領夫人も感銘を受け、ツイートしている。
「もしまだ見ていないなら、シャカリのオリンピック選考会でのレースを見て。でも、このインタビューでの彼女の気品とガッツは、競技よりももっと特別なものかもしれない。私たちは皆、あなたをとても誇りに思っている、シャカリ!東京での活躍が待ち遠しい!👏🏾」ミシェル・オバマ元米大統領夫人のXアカウントより
オリンピックの女子100メートル走に出場したアメリカ選手をめぐっては、1988年ソウル・オリンピックで故フローレンス・ジョイナー選手が金メダルを取り、大きな話題となった。続くバルセロナとアトランタもゲイル・ディヴァース選手が金を獲得するも、それを最後にアメリカは金メダルから遠のいている。特に東京を含む過去4大会は全てジャマイカ勢が金メダルを取っている。アメリカがリチャードソン選手に大きな期待を寄せる理由だ。
しかし、事態はレース翌月の世界アンチ・ドーピング機構(WADA)による薬物検査で暗転する。リチャードソン選手はマリフアナ陽性であったことから東京オリンピック出場を禁じられてしまったのだった。
世論は紛糾した。
まず、リチャードソン選手がマリフアナを吸ったのはオリンピック選考会が開催されたオレゴン州であり、同州ではマリフアナは合法化されていた。だが、WADAはオリンピック選手のマリフアナ使用を認めていない。このため、かねてあったマリフアナを禁止薬物リストから除外すべきだという議論が再燃した。
加えてリチャードソン選手がマリフアナを吸った理由に大きな同情が集まった。リチャードソン選手は実母の死を、選考会のために訪れていた同州でジャーナリストから聞かされたと言い、そのショックからマリフアナを吸ったと語った。実母に代わってリチャードソン選手を育てた祖母が孫娘のオリンピック参加決定に涙する姿もファンの強い同情を誘った。なお、リチャードソン選手も祖母も、実母についての詳細は一切公表していない。
黒人女性選手の髪形に合う水泳帽が使用禁止に
東京オリンピックではアメリカ代表チームの女性選手、特に黒人女性選手に関する出来事が他にも相次いだ。
水泳選手が被る一般的なサイズやデザインの水泳帽は、髪にボリュームのある黒人スイマーには非常に被りにくい。競泳中に水泳帽がずれたり外れたりするのを防ぐには、ストレートパーマをかけたりショートヘアにしたりするなど髪形に相当な工夫が必要だった。
地毛のままの黒人の髪は「ナチュラルヘア」と呼ばれ、イギリスの黒人男性2人が立ち上げたナチュラルヘア用のサイズの大きな水泳帽「Soul Cap」は当時、アメリカでもすでに販売されていた。
Soul Cap社は東京オリンピックでのSoul Cap公式使用を申請したが、世界水泳連盟(World Aquatics、FINA)は「国際大会に出場する選手たちは、このような大きさや形状のキャップを使用したことはなく、また使用する必要もない」、帽子の形が「頭の自然な形に沿わない」として却下した。
これが批判されたためか、翌2022年、FINAは態度を一変させ、「多様性と包括性の促進はFINAの活動の中心であり、すべての水泳競技者が適切な水着を利用できるようにすることが非常に重要である」と、Soul Capの使用を認めたのだった。
選手が負う責任と重圧、メンタルヘルスへの無理解
東京オリンピックでは選手の「メンタルヘルス」も話題となった。
大坂なおみ選手は祖国である日本チームの一員として東京オリンピックに参加し、聖火台点灯の大役を務めた。しかし女子シングルスでは3回戦で敗退し、メダル獲得に至らなかった。
大坂選手はオリンピックに2カ月先立つ2021年5月の全仏オープンを、メンタルヘルスの不調を理由に途中棄権していた。その際、試合後の記者会見が非常なプレッシャーになっているとして記者会見を欠席したため、主催者側から1万5000ドル(当時の為替レートで約165万円)の罰金を申し付けられている。テニス・ファンだけでなく、大会主催者側からのプレッシャーや批判も大きく受けていたことになる。
大坂選手はその前年2020年8月の全米オープンは優勝しているが、その際も議論を巻き起こしている。
同年5月に黒人男性ジョージ・フロイド氏が警官に殺害されたことから全米はおろか世界各国でBLM運動が巻き起こっており、大坂選手は警察暴力の犠牲となった黒人の名前をプリントしたマスクを着けて大会中の7日間、試合会場に登場したのだった。
日本では大坂選手の複合アイデンティティーが理解されず、「日本人なのになぜBLM?」という批判が始まった。翌年になると上記の全仏オープン途中棄権、ウィンブルドン欠場、そして東京オリンピックでの敗退が続き、日本ではメンタルヘルスへの理解が浸透していないこともあり、さらなる批判が起こった。
今回のパリオリンピックでの1回戦敗退については以前ほどの批判は見当たらないものの、SNS上には大坂選手の出自やアイデンティティー、およびメンタルヘルス問題への無理解が詰め込まれた心ない発信もあった。
アメリカ体操界のスーパースター、シモーン・バイルス選手も2016年のリオオリンピックでは個人総合、跳馬、床で金メダル、平均台で銅メダル、加えてアメリカ体操女子代表チームとして金メダルを獲得したが、東京オリンピックではメンタルヘルス問題から途中棄権を行った。
「ツイスティーズ(the Twisties)」と呼ばれる、空中にいる時に身体の感覚を失い、そこから大ケガにつながる可能性もある症状に見舞われたことが理由だった。バイルス選手も「チームの他の選手を顧みない身勝手さ」などと批判された。
後日、バイルス選手は大坂選手が心温まるテキストメッセージを送ってくれたこと、大坂選手が自分の気持ちを理解してくれていることをインタビューで語っている。
そのバイルス選手は今回のパリオリンピックで見事に復活した。体操女子団体で米国が金を獲得。バイルス選手にとっては米国の体操選手として史上最多の8個目の金メダルとなった。
複数の性加害の告発受けた男子選手は五輪代表チームに
東京オリンピックではフェンシングのアメリカ代表チームにも、女性選手にとって深刻な問題があった。男性選手の一人が、女性への性的暴行やハラスメントを繰り返した疑いを持たれた人物だった。
フェンシングの補欠選手に選ばれたアレン・ハジッチ選手について、6人の女性選手が「(ハジッチ選手が)少なくとも3件の性加害の告発を受けている」ことを理由に、東京オリンピックに参加させるべきではないとアメリカのオリンピック委員会宛てに手紙を書いている。
ハジッチ選手はフェンシング部に属していたコロンビア大学時代にも部員の女性などへの性的同意をめぐる事案で調査対象となったが、1年間の停学処分のみで復学。卒業後もフェンシングを続けていた。
オリンピック関連団体によるハジッチ選手への捜査は紆余曲折を経て、最終的に「チームメイトとは別の飛行機で日本に行き、他の選手とは離れた選手村外のホテルに滞在し、女性のチームメイトと一緒に練習することは許されない」という条件付きのオリンピック参加となった。(ハジッチ選手は告発内容を否定し、女性たちの告発をもとに刑事訴追されることもなかったが、アスリートを虐待などから守る独立専門機関の判断により2023年にアメリカでのフェンシング競技から永久追放された)
この件が大きく報道がなされなかったのは、ハジッチ選手が補欠であったことも理由として考えられるが、ある記事には「シャカリ・リチャードソンなど他のオリンピック選手が大麻検査で陽性反応を示したためにオリンピックへの出場を禁じられたのと同時期の出来事である」と書かれていた。
女性選手のマリフアナ陽性によるオリンピック出場停止と、男性選手が性的暴行疑惑を繰り返しても出場可となった件を公平と受け取るスポーツ・ファンは果たしているのだろうか。
黒人女性アスリートは「二重のマイノリティー」
水泳帽に関しては黒人の女性選手にまつわる問題ながら、リチャードソン選手のマリフアナ問題、大坂なおみ選手とシモーン・バイルス選手のメンタルヘルス問題は直接的には黒人選手のみに関する問題でも、女性選手のみにまつわる問題でもない。
しかし、黒人女性アスリートは黒人かつ女性という二重のマイノリティーゆえに厳しい扱いを受けるとする指摘があった。
アメリカ自由人権協会(American Civil Liberties Union、ACLU)は、生まれつきのテストステロン値を理由に東京オリンピック女子400メートル競歩への出場を禁じられたナミビアの選手の件も含めた記事「シモーン・バイルスとシャカリ・リチャードソン。そしてオリンピックがどのように黒人女性を失望させたか」を発表している。
他にもリチャードソン選手の件を同情的に報じる記事の書き手、ニュース番組でインタビューするキャスターには、人種を問わず女性が多かった。当時のホワイトハウスのジェン・サキ大統領報道官も定例記者会見でこの件を質問され、「WADAの決定であり、政府は関与しない」とした上で、「シャカリ・リチャードソンは多くの個人的な出来事をくぐり抜けてきた、若く、他者をインスパイアする女性であり、世界で最も速い女性。彼女とその歴史を知ることは重要」と答えた。
ウィンブルドンを欠場し、東京オリンピックを間近に控えていた時期、大坂選手はタイム誌に手記を発表しており、その中で苦しい立場にあった大坂選手を励ました人々への謝意を述べている。
世界に名だたるアスリートたちに混じり、ミシェル・オバマ元米大統領夫人、メーガン・マークル・サセックス公爵夫人の名が挙げられている。世界で最も名の知られたアメリカ黒人女性と言える2人は、同じく世界中の注目を浴び、大きなプレッシャーを背負う黒人女性としての大坂選手の心情を理解していたのではないだろうか。
シャカリ選手、パリ五輪で復活へ
リチャードソン選手は2015年という早い時期に「私の家族は私がバイセクシャルって知ってるよ」とツイートし、東京オリンピック選考会では着けていたオレンジ色のウィッグは「ガールフレンドが選んだ」と言っている。マリフアナ陽性によって東京オリンピック出場資格を剥奪された時には、ただ一言、「私は人間」とツイートしている。
この率直さ、普段の大胆で明るいキャラクター、ビビッドなファッションによってリチャードソン選手は愛され、スポンサーであるナイキ以外に、スプライト、大坂なおみ選手も契約するアメリカのオーディオ機器ブランド「ビーツ・バイ・ドレー」など多くのCMに出演している。
ファッション雑誌ヴォーグの表紙も飾り、パリオリンピック公式CMではラッパーのカーディ・Bとネイルやショッピングの話で盛り上がっている。
だが、リチャードソン選手は、やはり生まれながらのスプリンターだ。2023年にブダペストで開催された世界陸上競技選手権大会にて見事に復活した。100メートル走と4×100メートル・リレーで金メダル、200メートル走で銅メダルを獲得している。
この時のセリフが「私は戻ってきたんじゃない、さらに良くなったんだ」"I'm not back, I'm better."
シャカリ・リチャードソンは2024パリオリンピックで、28年ぶりの金メダルをアメリカにもたらせるのだろうか。