――孫基禎はどのような人物だったのでしょうか。
朝鮮戦争(1950~1953)の前後を通じ、陸上選手の育成に力を注いだ人でした。私が物心ついたころは、すでに育成の仕事から退き、「スポーツを通じた世界平和」を訴えていました。豪快ではっきりと物を言う人でしたが、様々な経験をしたため、場をわきまえて発言をしていました。
五輪など国際大会の経験が豊富で、グローバルな視点を持っていました。国際ニュースを見ていると、常に自分の視点で考えを語っていました。「スポーツをする人間は世界平和に貢献すべきだ。その結果、選手も幸せになれる」と常に口にしていました。
――ベルリン五輪の表彰式では、ユニホームの日章旗を隠して、日本から目をつけられる経験もしました。
私が昔、「ベルリン五輪のとき、ヒトラーと握手をしたの」と聞いたことがあります。祖父は「握手をした」というので、その手を握って「私は今、歴史と握手をしているんだね」という話もしました。
本人は複雑な思いがあったと思います。常に「1番以外は意味がない」とも語っていました。栄光を得たいと考えていましたから、ベルリン五輪マラソン競技で優勝したこと自体、とてもうれしかったと思います。
その後の経験が、様々なマイナスももたらしました。でも、90歳で亡くなった時、決して不満のある人生だったとは思わなかったと思います。100点満点でなくても、太く長い人生を生きた人でした。波瀾万丈だけれども、他の人にとても影響を与え、今でも与え続けている、すごく意味のある人生だったと思います。
――1947年のボストン・マラソンについては、何か語っていたのでしょうか。
1947年と同じく、祖父が監督を務めた1950年のボストン・マラソンの方が印象深かったようです。何しろ、1位から3位まで韓国選手が独占しましたから。ただ、1947年の大会では、父から「途中でコースに飛び出した犬のために、韓国選手が転倒した」という話を聞いたことをおぼろげながら覚えていました。映画を見て、思い出しました。
こうした、祖父が自宅で選手の面倒を見た時代も、(1950年6月に始まった)朝鮮戦争で終わりました。
――映画に出てくるソン・ギジョンは実際の孫基禎と同じでしょうか。
「自分にも他人にも厳しい人物」という点は同じです。ただ、映画ではセリフが韓国語ですが、私が日本語しかできなかったため、祖父は私には日本語で話をしていました。孫には難しいことは語らない人でもありました。
ただ、私の父は祖父からの影響で、あちこちで講演するときは、必ず、「ベルリン五輪のマラソンで優勝したのは日本だが、日本人ではない。その意味を考えてほしい」と話していました。「歴史と平和を考えてほしい」とも語っています。
――孫銀卿さんもマラソンをしているのですか。
私は子供心に、祖父の本心を聞きたいと考えていました。でも、祖父は幼い私に「お前にそんな難しいことは言わない」と語るばかりでした。言いたくなかったのかもしれません。その後、「日本語で尋ねたから答えてくれなかったのか」と思い、大学で韓国語を習いました。
韓国語で質問をしたとき、すでに祖父は高齢化が進み、質問の意味がよくのみ込めないようでした。そのまま亡くなり、私は(祖父が著した)書籍などで祖父の考えを想像しています。
ただ、同じことを経験すれば、少しは祖父の考えがわかるかもしれないと思い、マラソンを始めました。祖父が亡くなる前年、「マラソンを走りたい」と祖父に言ったところ、「そんな苦しいことを女性がしなくてもいい」と取り合ってくれませんでした。それでも、死去して3カ月後、韓国のマラソン大会に出て完走しました。
速度も疲労の程度も違いますが、走ることが追体験になると考えています。
――この映画を見ると、同じ追体験ができそうですね。
走るシーンの息遣いは、とても純粋なものだと感じました。そこで共感したものを、観客の皆さんがそれぞれの日常生活に置き換えて、何かを感じてくださったら、祖父も喜ぶと思います。