貧乏

519: キチガイの息子 01/08/28 23:27
皆さん、精神病院知ってますか? 

そう、窓に鉄格子のついているあの病院ですよ。

子供の頃友達に、「おまえなんか精神病院に入って死んでしまえ」とか言って、からかったりしませんでしたか? でもね、本当の精神病院を知っている人にとって見れば、それはとっても残酷な言葉なんですよ。 

ええ、実は私の父親はそこの入院患者だったんですよ。 

私が小学校2年生の頃から父はおかしくなり始めました。それまでは(私の記憶にはないのですが)よい父親で、人並みの職について、きちんとした生活を送っていたそうです。
 
それがいつからか、何がいけなかったのか、家の雰囲気がなにか殺伐としたものに変わってしまいました(私が父について覚えているのはこれから以降だけなんです)。 

母に暴力を振るう。何かの宗教にはまって訳のわかんない集会に行って、ご近所さんにまで信仰を強要する。何が気持ちいいのか落ち着くのか知らないけど、首筋の血管にアルコールを注射していたりもしました(今から思えばなんかの麻薬かも?)。 

職も転々とし、どこへ行っても長続きしなかったようです。そしてだんだんエスカレートしてゆき、近所のおばさん連中に、白昼から卑猥な言葉を投げかけたりもしていたそうです。 

母が役所に相談したのでしょうか?頻繁に市の職員も家に来るようになりました。 

つづく。

521: キチガイの息子 01/08/28 23:42
見るに見かねた親戚が、父を強制的に病院に入院させたのは私が小学3年生の時。それから父が退院するまでに(退院しても気がおかしいままでしたけどね)16年もの歳月を要したのです。 

それからの生活は、そりゃぁもう大変でした。まず先立つものが一銭もない。母は慌てて職探しをしたと思いますよ。

でも今まで専業主婦だった母に、私達を育てる(あ、家は2人兄妹で妹がいるんですよ)だけの充分な金を稼げるだけの職なんてあるわけないので、何か小さな部品を作ったり、はがきの宛名書きや切手貼りの内職でちょこっと稼ぐだけがやっとでした。 

唯一の救いは、家が持ち家だったということですね。25坪ほどの土地に平屋建てでしたが、なにしろ当時は土地も家も安かった。父が入院する頃には住宅ローンも払い終わっていました。

風呂はないし、当然ボットン便所でしたが、住む所がちゃんとあるというだけで、今思えば幸運だったと思います。 

よく、女手一つで子供を育てたという話をよく聞きますが、私には今一つ理解できません。当時の(30年ほど前)女性の収入で子供にちゃんとした服を着せ、充分に食べさせ、学校に行かせるなんていうことができたのか、私には疑問です。 

というわけで(他の同様な家庭はどうか知りませんが)、家はお役所のお世話になりました。そうです、生活保護受給世帯となったわけです。これがまた惨めなんです。 

お役所の貴重な税金から何がしかのお裾分けを頂く訳ですから、生活のレベルを役所のほうが決めてしまうわけです。要するに家の中にあるもの(特に耐久消費財)の所有が制限されるわけです。
 
制限される内容は自治体によって差があるらしいのですが、私が住んでいた市では、クーラー・テレビ・電話・ステレオ・自動車・単車(原付)がだめでした。家にあるものといったらラジオと冷蔵庫と洗濯機だけ、ということですね。 

あ、あと扇風機とストーブぐらいはあったっけ・・・(30年前の話ですからね。それに途中でだんだん緩和されていって私が中学生になった年には白黒テレビと電話が家にきましたよ。高校生の時には念願のクーラーも買えたっけ・・・)。 

つづく。

524: キチガイの息子 01/08/29 00:00
こんな状態ですから、家に友達なんか呼べるわけありません。 

それに家は手入れをしないと痛んでいきます。小学生の私にDIYの知識など有るはずもなく、プロに頼もうにもお金はなく、家はどんどん汚くなって行き、ますます家には誰も呼べません。 

何も知らない友達が無理やり大挙して家に押しかけて来た時は、私は半べそ状態で、友達のほうが気を利かせて何も言わずに帰ってくれましたね。 

今の時代なら格好のいじめの的になるのでしょう。でもあの頃はよかった。ほとんどの友達が家が貧乏だと知って、いろいろおもちゃとか分けてくれたりしましたよ。感謝・・・。 

こんな私でしたが、なぜか頭だけは良かった(というよりも、記憶力が良かったため、成績だけは良かった)。小学生の時のは覚えていませんが、中学生の時は学年で5番以下の成績になったことはありませんでした。 

家に帰って勉強なんかした事なかったけど、授業を受けるだけですべてが記憶できた(大体就眠時間が10時頃だったんですから、勉強なんてしてる暇ありません)。 

あと運動神経もなぜか良くて、府下の陸上競技大会で優勝し、全国大会で決勝に残ったこともありました(東京の国立競技場まで行く金がないから、全国大会なんか行けない、っていったら公立校なのに旅費全額出してくれましたよ。感謝・・・)。 

先生方も私のことを色々気に掛けてくれたのでしょう。買わなければいけない教科書をこっそり分けてくれたり、体操着が知らないうちに新品になっていたり、全国模試みたいなのに申し込んでくれたり、色々お世話になったんです。

つづく。

525: キチガイの息子 01/08/29 00:03
なんとその模試で全国で、たしか30番くらいになりました。その噂は(大袈裟ですが)校内中に広がり、同級生が私のことを羨望の眼差しで見ていた事を覚えています。 

近所のおばさん方、同級生の御父兄も私のことを俗に言う「末は博士か、大臣か」というような目で見ていたらしいです。 

絶頂期(かな?)を迎えていた私でしたが、やはり貧乏人の息子にとんとん拍子は似合わない。ある日、学校で一人の女の子が私にこう言いました(今でもはっきりと覚えていますよ)。 

「あんた、成績よくって運動もできて、いちびってるかも知れへんけど、しょせんキチガイの息子やろ!みんな知ってるけど言わへんだけやで!誰も知らんやろと思てるのあんただけやで!ちょっとはおとなしぃしとき!」 

・・・

その日から10日くらい学校を休みました。親父を呪い殺してやろうと思いました。 

つづく。

527: キチガイの息子 01/08/29 00:18
それからの私は級友としゃべることが出来なくなってしまいました。 

級友の顔を見ると(こいつはすべて知っている・・・)、こちらのほうを見ている級友と目が合うと(俺がキチガイの息子だと思って笑っていやがる・・・)、などと悪いことばかり考えてしまいました。 

登校拒否にならなかったのが不思議なくらいですが、当時は学校に行かないなんていうのは選択肢にはなかったですからねぇ・・・絶頂から奈落の底に突き落とされた私がグレてしまうのに、そう時間はかかりませんでした。

誰も私が何故豹変してしまったか、判らなかったでしょう(判る訳ないか・・・)。
 
盗んだ単車で校庭を爆音立てて駆け回り、廊下でシンナーを吸いながら座り込む。朝鮮人系の暴走族にも入って、夜な夜な走り廻ったりもしました。女を知ったのもこの族の集会で(当然無理やりの輪姦でしたけど・・・)。 

先生方が何度も私に色々お話をしてくれましたが、私がこうなった理由がわからないのでオロオロしている先生を見るのが可笑しかったし、腹が立った(こいつらも優しい振りして影では、キチガイの息子が本性を表したとか思ってやがる・・・)。 

私がこうなった原因を作ってくれた女の子もちょっとグレた娘だったので、私が不良の仲間入りをしたおかげで、お近づきになれました。ある日の放課後、学校の裏の原っぱに呼び出して、思いっきり強姦してやりましたよ。 

顔を滅茶苦茶にひっぱたいて傷だらけにしてやりました。あそこから血が出ていたので多分初めてだったのでしょう。何故か復讐を遂げた気分になって清々としました。 

(色々悪いことをしたのは反省しておりますが、このことだけは、今でも正しいことをしたのだと思っております。世間の常識から外れているのは重々承知しておりますが・・・) 

ひどい話ですがつづく。

530: 名無しさん 01/08/29 00:27
こわい・・・。

531: キチガイの息子 01/08/29 00:33 
そんなことをしていたにも拘らず、公立高校へ入学することができました。何故か相変わらず成績は良かったので、地区で1番の高校でした(シンナーの影響は無かったようです)。
 
先生方が内申書を書く時に、突然の私の豹変を、更正を信じて不問にしてくれたのでしょう。これがなければ今の私はなかったのですから・・・感謝し尽くしてもしきれないのであります。深謝・・・。 

生活保護世帯でありながら、なぜ高校に進学できたかというと、生活保護を受けると、公の料金はすべて無料になるからなんです(電気代とか水道代とかは別です)。
 
中学・高校は、教科書代以外はほとんどすべて無料で行かせて頂きました。教科書代は「カツアゲ」で手に入れました(ごめんなさい)。「カツアゲ」したお金で教科書を買うというのも今から思えば変な話です。 

高校の先生方はびっくりなされたことでしょう。毎年、京大・東大に多数の卒業生を送り込む名門校に、突如として、金髪・長ラン・ボンタン履きの目つきの悪い男が入学してきたのですから・・・。
 
相変わらず外では無茶苦茶やってましたが(要領がよかったので、補導歴なし)、学校内では大人しくしていました。だって真面目少年相手にイキがっても面白くも何ともないですから・・・。 

つづく。

533: キチガイの息子 01/08/29 00:42 
進学校では不良っぽいのって、結構モテるんですよ。 

私みたいなのって他にいなかったですから、特に上級生のお姉さんにはよくモテました。2学期の終わり頃には20人くらい手篭めにしてたっけ・・・ (高校の時の自慢はこれだけ←アホや)。 

相変わらず夜な夜な悪さばかりしていた私でしたが、母親だけは大事にしていました。 

生活保護の支給額だけでは生活できないので、夜遅くまで働く母を小学生の時からずっと見ていたので、私がこのまま地獄に落ちようと、母だけは幸せにしてみせる、そう思っていました。 

「カツアゲ」したお金も自分では使わず、母に「バイトした」って言って渡していました(無茶苦茶な親孝行でした)。 

私はいつも文無しでしたから、必要なものはすべて万引きで手に入れていました。一度だけ万引きしたのが店員にバレたことがありましたが、私の制服の襟についている校章をみて、秀才さんのおたわむれだから、といって無罪放免してくれました(進学校万歳!!←ちょっと違うんちゃうか?)。 

こんな私に立ち直るきっかけを与えてくれたのは、やはり母でした。いつもの様に、バイトしたお金だと言って母にカツアゲしたお金を渡した時、母はこう言いました。

「みんな知ってんねんで。このお金もどっかで人様のもん盗ってきたんやろ。お前が私のこと思うてくれてるのは嬉しいけど、人様のもんに手ぇつけてまで生きようとは思わへん。そこまでせな生きられへんのやったら一緒に死んでくれ」 

「おまえはお父さんのこと恨んでるかも知れへんけど、なんやかんや言うてもおまえの父親には違いないんやから、死ぬ前に一度、顔を拝んどき」 

つづく。

535: 名無しさん 01/08/29 00:48 
関西弁だ・・・こわい・・・。

536: キチガイの息子 01/08/29 00:51
父が入院してから約9年、私は精神病院に足を踏み入れたことは一度もありませんでした。 

母に父親に会いに行けと言われても、会いたいとも思わなかったけど、まあこれでこの世ともおさらばだし、一度くらい顔を拝んで文句の一つも言ってやるか、場合によっちゃ刺し殺してやってもいいや、くらいの気持ちで病院に出かけて行きました。 

初めて見る精神病院は、窓に鉄格子がはまっている事以外は、他の病院となにも変わりませんでした。壁も明るいクリーム色で、何も知らなければただの市立病院くらいにしか見えません。「なんや、たいした事無いな」くらいの気持ちで入って行きました。 

中に入ると大きな鉄格子の門と守衛所。何某の息子だと言って門を開けてもらい中へ。そこから看護婦の詰め所で再び名を名乗ると、ごっつい看護士が鍵の束を持って案内してくれます。

奥の扉の鍵を開け、エレベーターに乗り込み3階へ。さらに扉の鍵を開け、中に入るとそこが病棟でした(脱走防止の為、鍵付き扉を何回も通らないといけないんだそうです)。 

中は思いの他明るかった(暗かったら気が滅入って病状が悪化してしまいます)。でも、病院の臭いとは思えない異様な臭いには参りました。 

「何だこの臭いは!」と顔をしかめると、何も聞いていないのに看護士が「嘔吐物・ 大小便・血液の入り混じった臭いです」と説明してくれました(血液ってどういうことだよ?)。 

つづく。

537: キチガイの息子 01/08/29 01:13
中には患者が30名くらいいました。

ベッドで背中をまるめて寝ている人、痙攣を起こし悲鳴をあげながら寝ている(?)人、そこらじゅう落ち着き無くうろちょろしている人、どんよりとした目つきで窓の外を眺めている人、口をあんぐりと開けてボーっとしている人、おまけに全員お揃いのパジャマ姿で、こりゃ9年も会ってないので見分けがつかんわいと思いました。 

親父がどれだか見分けがつかないので、看護士さんに頼んで連れて来てもらいました。9年ぶりに親父を見て愕然としました。あんなに大きく見えた親父が今は目の前で小さく丸まっています。

目はどんよりとし、白目が汚い黄色に変わっています。肌の色は真っ白で、無精髭とふけだらけの髪の毛も白さが目立ちます。口をあんぐりと開け、口端からはよだれが垂れていました。 

あとで話を聞くと、病院内での態度が非常に悪かった為、非常に強い薬を投与していたということ。そのため、治療のはずが逆に神経を冒され、回復の見込みは薄いとかなんとかの説明を受けました(今の時代なら裁判沙汰ですが、その時はもうどうでも良かった)。

538: キチガイの息子 01/08/29 01:14 
「あぁ、これはもう人間ではないな・・・」

そう思ったとたん、私の目から何故か涙がこぼれてきました。 

「これが俺の親父、俺はこいつの息子・・・」情けなかった・・・これを見た後では、もう死をもって全てを清算するしか救われる術は無いと思いました。母がなぜ私に一緒に死んでくれと言ったかなど、どうでもいいことでした。 

私の中にこの物体の血が半分流れているということを考えただけで、私にはこの世で生を全うする資格など無いと思えたのです。

539: 名無しさん 01/08/29 01:16
こわい・・・。

541: 名無しさん 01/08/29 02:40
こわいでしょ。

544: 名無しさん 01/08/29 03:34
生々しすぎる…。 

545:  名無しさん 01/08/29 03:40
>>544
だからいい。
 
彼の苦しさ悲しさ本音が伝わってくる。痛いほど伝わってくる。

551: 名無しさん 01/08/29 23:57
子供の頃、裕福だなんて思ったことない。うちは貧乏、ビンボーなのだと思ってました。 

ほんのついさっきまで。 

勉強し直して参ります。

553: 名無しさん 01/08/30 00:14
バナナが町中にあふれてんだよ、今は。 

ガキの頃、あの黄金色がまぶしくてたまらんかったよ。当時、俺の持ってた「小学生なぜなぜ辞典」て本にもさ、「バナナはどうして高いんですか?」って質問が載ってたよ。
 
そのバナナを庶民が気軽に食えるようになったんだ。いろいろあるだろうけど、俺は確信してる。世の中は確実に良くなってきている。そして、これからの未来も。

556: 名無しさん 01/08/30 00:47
よくよその家のコーラの瓶を盗み、現金30円に換金した。
 
おやつを母にねだると1円、5円、10円玉をかきあつめ、パンを買ってくる様にいわれた。恥ずかしくて、行くのがいやだった。友達の消しゴムも盗んだ。ばれたが、しらを切った。 

母は私の給食の食パンを食べて、夜の仕事をしてた。中学の頃の弁当はクリームパンと牛乳。高校生になった頃から父の会社も軌道に乗り、少し余裕がでてきた。
 
その頃の苦労があったおかげで、今でも家族5人とても絆が深い。主人からも「異常やなあ」と言われるくらい。
 
そして今、子供になんでも買ってやる馬鹿母になってしまいました・・・。

562: 名無しさん 01/08/30 22:15
「お母さんといっしょ」だっけ? 番組の途中でみんながミルクをコップ1杯飲むの。 

あれが美味しそうでたまらんかった。白い宝石のように見えたね。指をくわえて眺めてたよ。 

568: 名無しさん 01/08/31 16:37
福島県にあるリカちゃんキャッスルに行った。歴代のリカちゃんやらリカちゃんハウスやら、いろいろ展示してあったのだけど、それ見てたらなんだか哀しくなった。 

子供の頃、友達はみんな持ってるのに私だけ持ってなかったリカちゃんハウス。私が欲しくて欲しくてたまらなかった「リカちゃんニューマンション」とかあって、何故だか切なくなった。 

当時の値段で3千いくらだったと思う。貧乏だから買ってくれなかったし、5歳の誕生日にようやくリカちゃんの人形一個だけやっと買ってもらったけど、人形一個じゃ遊べなくて、画用紙に自分で部屋の絵とかを書いて遊んだことを思い出したよ。はぁ…。

573: 名無しさん 01/08/31 23:12
家は貧乏だ。親戚も貧乏が多い。

貧乏は遺伝するってのは本当らしい。

574: 名無しさん 01/08/31 23:22
松ちゃん曰く、「貧乏人は金持ちの生活が想像できるけど、金持ちは貧乏人の生活が想像できない」ってなるほど納得。

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569: 名無しさん 01/08/31 17:10 
父が不治の病に倒れ、一生定期的な治療を余儀なくされた。莫大な費用。退職金はすぐ治療費へ。半年あまりの入院、直るわけではない。

退院してしばらくして、父母がそば、うどん屋を始める。治療を続けながらの為体が持たず、半年たたず閉店。今にして思えば借金を作ったのではないかと…その頃から家庭も暗くなってきた。 

人の良すぎる母は他人につけ込まれ、連帯保証人になってしまう。あとはよくある話。

575: 569 01/09/01 00:57
借金した当人が返済しなかった為、保証人になった母が肩代わりして返済する羽目に。

1年かけて、とりあえずあとは地道に返して行けそうな目処も立ち、子供心にも「もう母もだまされたりせず上手くやっていけるだろう」と安心した頃。2度目、3度目…イヤだ… 借金が借金を呼ぶ生活となり大変なことに。 

その頃はサラ金地獄という言葉が生まれた頃で、取り立てが家にまでやって来た。玄関に入ってきて帰らない。病院に通いながらも仕事を見つけて働いていた父の職場にまでしつこく来ていたようだ。子供だった姉と私の前では詳しくは語らなかったが…。 

だいぶ前から公共料金も滞納しがちで、しょっちゅう督促状が来ていた。

576: 569 01/09/01 01:06 
給食費も払えなかったし、お小遣いなんてあるわけなかった。
 
でも病身の父が生活の為働いてるし、子供なりに母には頭にきていたのだが、それでも憎みきれなかったし、母は母で身を粉にして働いていた。そして人につけ込まれる生活。 

そういう生活が10年以上続き、姉も社会人になり結婚。安心した父は、雪道ですべって腰を打ったのをきっかけに寝込みがちになる。

577: 569 01/09/01 01:27 I
その頃になると、もうどうしようもない家計の実体が明らかになる。元々判ってはいたのだが。もう長いこと我が家は、借金の自転車操業で暮らしていたのだ。 

容態が悪くなる一方の父は個室に入ることを医師に薦められるが、入院費の高さを気にして、断固として大部屋から出ようとしなかった。3ヶ月ほど入院して父は逝った。母と私が残された。

姉は幸せに暮らしており看病も一緒にしていた。姉が結婚する前からも、私と父しか知らないうんざりするほどイヤなことがたくさんあった。母とは昔からんざん喧嘩していた。

父が死んでから、逃げるようにつき合っていた彼と結婚した。 

私が1人目の子供を産んだ頃、母の借金の片がついた。姉がつけてくれた。大変だったと思う。しかし、それに勝るとも劣らない思いを、姉の知らないところで私もしていたからおあいこだ。姉もそう思っているだろう。 

母も死んだ。今は両親ともお墓に眠っている。
 
一度坂から落ちると、はい上がるのは相当な苦労をする。自分の子供にはこういう思いをさせたくない。誰かも書いていたけど、するべき苦労としなくてもいい苦労がある。

わたし達の場合は後者だったともちろん思う。 

今どんなに悔しがっても、思い出して胸を痛めても泣いても、過ぎた時は戻ってこない。だから、せめて我が子には辛い思いをさせたくはないのだが…さじ加減が、難しい。私の時はこんな事して貰えなかったなぁ、と思ってみたり。

いろんな世界があることも教えなきゃならないし。