私、「熱狂を疑え!」るんです。
文庫本に収められた穂村弘さんの書評と町田康さんの解説文がとてもいいです。
物語に続けてお二人の文章を読んで、私はなんか救われた気がしました…。
(純文学だ、素晴らしい…)と感じながら読みましたが、一方で自分は「あみ子」みたいな人とは会話すらできない人間だということも思ったのです。
物語の中では彼女と交流する登場人物もいるのですが、私は徹底的に避けてしまうだろうなあとちょっと情けなかったです。
「島流し」の例えが出てくるほどに、あみ子は気の毒な人にしか見えません。
けれど、本人は至って普通に自分を生きているだけ。
他人と関われば必ず有り得ないほどの厄介を引き起こして嫌われるなんて、悲しすぎる人生じゃないか、と…勝手に見てしまう(多数派の)私たち。
ああ、いつも自分は少数派だと意識している私だって、多数派になることがいくらでもあったのだと気づかされました。
で、読み終えてしばらくしてから思い出したのがこれです。
何故かいきなりの『100分de名著』。
タイトルに付けた『熱狂を疑え』という言葉は、
政治学者の中島岳志さんの師・西部邁氏がよく言っていた言葉だそうです。
大衆の中に居て、その熱狂を疑う…というのはキツイことです。
大衆に(多数派に)「敵」にされてしまう危険がありますから。
人の脳のクセとして、「安易に物事を決め付けることで安定したと錯誤してしまう・・・」というのがあると、社会心理学で習いました。
もちろん、これは自分次第で気が付くことは可能なんですが、まあ…気づかないというか気づきたくもないというか。
「気づけよ!」
と、思うことの多いこと !!!
「熱狂」だけじゃない。
大衆(多数派)の一員として共有しているその「不安」も、その「無関心」にも・・・
その中に私は入り込むことができず、気まずい感覚を覚えることが多いです。
気まずい感覚はとても不快で、間違ってないのはわかっているのにストレスに負けてめげてばかり。
いい歳をして、最近とくに酷いです。
あみ子のマイペース?逞しさ?は、たぶん脳の気質が普通でない故のもの、と普通に人は思い、それは彼女の個性なのだ、否定されるものではない、と普通に考えたりもするのでしょう。
私もそう思います。
と、同時に、私は彼女と付き合える度量がないことも意識してしまいます。
・・・だから?
町田康さんが解説の中で、この物語を通して「一途な愛」について考察しています。
つまり、殆どの人間が一途に愛するということはないということで、一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならないのである。
・・・だから?
たぶん・・・
あみ子は自分を一途に愛している。
当たり前すぎて、全く意識することもなく。
私は「島流し」には耐えられないけれど、そこまでには至らない程度に…いえ、ほんの少しだけかな?あみ子に近づいてみたくなりました。