田中仁朗(たなか・よしろう)は昭和45年5月25日生まれ、大阪府出身の陸上自衛官。
防衛大学校第38期の卒業で幹候75期、出身職種は普通科だ。
令和2年3月(2020年3月) 第3師団副師団長兼ねて千僧駐屯地司令・陸将補
前職は統合幕僚監部防衛計画部計画課長であった。
(画像提供:国連南スーダン共和国ミッション日本派遣施設隊公式Webサイト)
(画像提供:陸上自衛隊第3師団公式Webサイト)
2020年11月現在、第3師団副師団長兼ねて千僧駐屯地司令を務める田中だ。
ご存知のように第3師団は兵庫県の千僧駐屯地にその司令部を置き、第1師団とともに「政経中枢師団」と呼ばれ、我が国の政治と経済の中心地を防衛する組織である。
管理人(桃野)にとっては、防衛省の防衛モニターを拝命した際、2年にわたりお世話になった師団であり、またその時の副師団長こそ管理人にとっての永遠のアイドルである山之上哲郎(第27期)・元東北方面総監であった。
あれから10年以上もの歳月が経ったとはにわかに信じがたいが・・・
今となっては退役されてしまった当時の山之上ちゃんも、今の田中のようにこんなにお若かったのだろうかと、どこか感傷的な想いになってしまうのである。。
それはともかくとして、田中のことだ。
2020年3月に将官に昇ったばかりのこの田中については、読者の皆さんにとっても、
「・・・誰だっけ?」
と、まだ影の薄い存在ではないだろうか。
しかし実はこの田中という幹部。
いろいろな意味で、ぜひ今、管理人が一人でも多くの読者に注目して欲しいと願っている将官の一人である。
以下、詳しくお話していきたい。
田中のキャリアを概観すると、田中には、特に目を引く2つの任務がある。
平成17年7月、3等陸佐の頃に経験した第7次イラク復興支援群。
そして28年12月、1等陸佐の頃に担った第11次南スーダン国際平和協力隊南スーダン派遣施設隊長の任務だ。
ご存知のように、自衛隊イラク派遣は戦後イラクの復興のために、事実上、準戦闘地ともいえる戦地に自衛隊が初めて派遣された任務である。
また南スーダン派遣も同様に、内戦で荒れ果て、また独立を果たしたばかりの南スーダンにおける紛争の抑止と平和維持のために、自衛隊が派遣されたものであった。
なお南スーダン派遣については、すでに記憶が薄い人も多いかも知れない。
そんな人には、某国軍からの要請に基づき、当時の井川賢一(第35期)・派遣施設隊長が国連を通してNATO弾を提供し騒動があった派遣任務と言えば、思い出す人も多いのではないだろうか。
あるいは、岡部俊哉(第25期)・元陸幕長が理不尽な詰腹を切らされることになった日報問題の舞台といえばさらに思い出す人も多いかも知れないが、いずれも詳細を述べると腹が立つのでここでは割愛する。
いずれにせよ田中は、非常にタフな、また危険な任務を次々に任され、そして完遂してきた足跡がそのキャリアから嫌というほど窺える幹部であるということだ。
そして今回注目してほしいのは、その南スーダン派遣において田中は、最後の派遣部隊となる第11次隊を率いて現地で活動し、また撤収に成功しているという功績についてである。
いうまでもなく、準戦闘地から部隊を無事に撤収させるという大仕事だけでも特筆すべきことだが、私が今回、ここでお伝えしたいのは実はそこではない。
実は田中が現地で指揮を執っている時、自衛隊は、我が国の歴史に残るであろう非常に大きな防衛政策上の転換点を迎えていた事実についてである。
いわゆる「駆けつけ警護」と、「宿営地の共同防衛」だ。
詳細は省略するが、これは現地で活躍するNGOや市民団体が武装勢力に襲われた時。
あるいは他国の部隊が攻撃を受けた際に、自衛隊が駆けつけ、その安全を守るために実力を行使せよ、という命令である。
今となっては当たり前の行動規範だが、しかし心ある人であれば、当時のこの「大きな転換点」を心から歓迎したはずだ。
かくいう管理人も、本当に心から嬉しく思い、そして安堵した。
なぜか。
実はこの運用方針の転換以前、自衛隊はたとえ目の前で民間人が武装勢力に襲われ犠牲者が出ていても、その防護を一切してはならないとされていた。
また、友軍が目の前で攻撃を受け、次々と犠牲者が出ている状況でも、コンテナに避難し一切手を出してはならないとされていた。
何もせずに、ただ逃げ、目の前で命が失われていくのを黙ってみていろと。
抑止をする能力も装備も、意志も覚悟も備えているにも関わらずである。
果たしてこれが、誇りある国の、誇りある武人がすべきことであろうか。
そして私たち日本国民は、こんな国や方針に、本当に誇りを持てるだろうか。
目の前で、女性や子供が次々に武装勢力から襲われ命を落としていくさまを、「何もしないでただ見ていること」が誇りある人間のやるべきこととは、絶対に思えない。
そんなことを誇りに思う人間は、間違いなく感性が壊れている。
そしておそらく、万が一このような状況に自衛隊が遭遇したら、私はきっと指揮官が独断で部隊を動かすのではないだろうか、と思っている。
そして人として正しい、明らかに人道的な措置を執った後に、”法に背いた”責任をとって辞職を選ぶ覚悟で事態に臨むと思っている。
しかしそれは、言い換えれば、そんな究極のギリギリの選択を、極限の緊張状態にある現地指揮官に、我が国は委ねているということだ。
こんな部隊の運用は、絶対にしてはならない。
そんな政治の怠慢を、私たち国民は絶対に許してはならない。
そして、そんな間違った部隊運用がようやく正されたのが、この「駆けつけ警護」の実施と、「宿営地の共同防衛」の任務付与であった。
これによりようやく、自衛隊は最低限、人として正しいことをする選択肢が指揮官に委ねられることになったのである。
しかしながら、率直に言ってこの運用転換に伴う政治的負担は決して軽くはなかった。
実際に、この運用転換にあたっては国会でも相当な紛糾があり、安定政権である安倍内閣でも相当に揉めにもめた。
そしてここからがある意味で本題だが、そのような難しい任務の最初の執行を委ねられたのが、今回ご紹介しているこの田中という男ということである。
「駆けつけ警護」や「宿営地の共同防衛」の任務は、人として当然のあり方であることは疑いようがない。
しかし繰り返しになるが、敗戦国として戦後を歩んできた我が国にとって、この決定に伴う政治的負担は相当重いものであった。
逆に言えば、田中がほんの僅かでも「やらかして」しまえば、安定政権の安倍内閣ですら容易に吹っ飛ぶほどの重大な政治決断であったということだ。
そんなことになれば、我が国の安全保障政策は再び大きく遅滞し、国際貢献活動への参加にも取り返しのつかない悪影響を与え、日本の国益は大きく損なわれたであろう。
つまり、これだけの大きな任務を最初に与えられる指揮官には、内閣総理大臣からの絶対的な信頼がなくてはならなかったということである。
冷静沈着で、判断力に優れ、状況を俯瞰する能力に長け、それでいて有事には決断を迷うことなく、強い意志で果断に断行することができる指揮官。
そんな幹部でなければ、こんな政治負担を決断することなどできないし、付与することなどできるわけがない。
裏を返せば、現地指揮官が田中であったからこそ、あるいは安倍内閣は、現地部隊に「駆けつけ警護」「宿営地の共同防衛」の任務を付与できたのではないだろうか。
田中とは、実はそれほどまでに、我が国の歴史に残る当事者となった幹部自衛官である。
ぜひ、そんな観点からもこの、田中という幹部の今後の活躍に注目して欲しいと願っている。
では、そんな田中とはこれまで、どんな自衛官人生を送ってきたのだろうか。
以下、詳細にご紹介していきたい。
(画像提供:国連南スーダン共和国ミッション日本派遣施設隊公式Webサイト)
その田中が陸上自衛隊に入隊したのは平成6年3月。
1等陸佐に昇ったのが平成25年1月、陸将補に昇ったのは令和2年3月であったので、それぞれ38期組1選抜(1番乗り)、1選抜後期(1番乗りグループ)ということになる。
そのキャリアから想像できるままに、文字通りのエリート街道を歩み、そして全ての任務で結果を残し続けてきた幹部である。
(画像提供:陸上自衛隊中央即応集団公式Webサイト)
原隊(初任地)は、山口県に所在する第17普通科連隊。
以降職種部隊においては、中隊長ポストを別府に所在する第41普通科連隊で、連隊長ポストは青森に所在する第5普通科連隊で上番している。
そしてイラク復興支援群への派遣はこの中隊長ポスト時に、第11次南スーダン国際平和協力隊南スーダン派遣施設隊長の任務は第5普通科連隊長時に担っていることも印象的だ。
ちなみに、田中が第5普連長に昇ったのは平成28年3月で、南スーダンに赴いたのは同年12月。
さらに帰国をしたのは翌年29年6月で、第5普連長を下番したのは同年8月である。
つまり田中は・・・
第5普連長に上番しながら、ウインターシーズンを一度も青森で経験していないのではないだろうか・・・。
(要するに、もしかして田中は連隊長でありながら、青森第5普連伝統の雪中行軍をしていないのでは・・・という疑惑が(笑))
とはいえその期間、ハチャメチャに厳しい南スーダンで、誰もまだ経験したことのない非常に厳しい任務を遂行していたのは先述のとおりだ。
もし本当に雪中行軍を経験していないのであれば、おそらく史上唯一の連隊長と言うことになりそうだが、その分、南スーダンで自衛官史上初の厳しい任務を完遂しているので、何がいいたいというわけではない。
ちょっとだけ気がついた、という余談である。
次にスタッフや幕僚のポストだが、この間に田中は陸幕の運用支援・情報部運用支援課、人事部人事計画課、防衛部付、統幕の防衛部付などを経験。
平成29年8月からは、「将官昇任の1つ前」のポストの一つである、統幕の防衛計画部計画課長などの要職を歴任しており、多くのキャリアを中央で務めていることが印象的だ。
そして平和2年3月に陸将補に昇任すると、その最初のポストとして政経中枢師団たる第3師団副師団長に着任。
以降、その豊富な経験を活かし、我が国第2の大都市圏の防衛に重い責任を担っている。
まさに、第38期組だけでなく、陸上自衛隊を代表する最高幹部の一人と言ってよいだろう。
なお余談だが、上記の写真は田中が南スーダンに赴く前に、空港で撮影された一コマである。
とはいえ田中は、後ろ姿で顔もハッキリと確認できないのに、なぜここに貼ったのか。
それは、中央に立っているのが、当時東北方面総監であった山之上ちゃんだからである。
ちなみに田中と握手をしているのは、初代陸上総隊司令官の小林茂(第27期)だ。
第5普連の上級師団である第9師団の、さらに上級組織である東北方面隊の責任者である山之上ちゃんに加え、国際貢献活動に広く責任を持つ陸上総隊の責任者である小林の2名が、見送りに来ているという構図である。
現・統合幕僚長である山崎幸二(第27期)と最後まで陸上幕僚長のイスを争った2名の陸将に見送らせての出国とは、田中も随分と緊張したのではないだろうか。
では最後に、その田中と同期である38期組の人事の動向についてみてみたい。
第38期組は、2019年8月に1選抜の陸将補が選抜されたばかりの年次だ。
そして2020年11月現在、その陸将補のポストにある幹部は、以下の通りである。
岸良知樹(第38期)・中部方面総監部幕僚副長(2019年8月)
池田孝一(第38期)・北部方面総監部幕僚副長(2019年8月)
栁裕樹(第38期)・第7師団副師団長兼ねて東千歳駐屯地司令(2019年8月)
浅賀政宏(第38期)・第3施設団長兼ねて南恵庭駐屯地司令(2019年8月)
泉英夫(第38期)・東部方面総監部幕僚副長(2020年3月)
田中仁朗(第38期)・第3師団副師団長兼ねて千僧駐屯地司令(2020年3月)
※肩書はいずれも2020年11月現在。( )は陸将補昇任時期。
※2020年夏の将官人事の期別は未確認のため、更新する可能性あり。
以上のようになっており、まずはこの6名が第38期組の1選抜前期・後期として将官に昇った形だ。
2025年にもあるであろう38期組1選抜陸将人事でも、おそらくこの6名を中心に選抜が進められるのではないだろうか。
田中についてはこれほどまでに卓越したキャリアに加え、政治サイドからの信頼も厚い、文字通り我が国が誇る幹部自衛官の一人である。
南スーダンにおける様々な困難を乗り越えた実績まで考えると、陸将にまで昇ることはまず疑いがない最高幹部の一人と言えるだろう。
いずれにせよ、38期組は今後、2020年代後半にかけて我が国と世界の平和を担っていく、中核となる世代である。
その活躍には今後も注目し、そして応援していきたい。
※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。
(画像提供:国連南スーダン共和国ミッション日本派遣施設隊公式Webサイト)
◆田中仁朗(陸上自衛隊) 主要経歴
平成
6年3月 陸上自衛隊入隊(第38期)
6年10月 第17普通科連隊(山口)
13年8月 幹部学校第47期指揮幕僚課程(目黒)
15年8月 第41普通科連隊第4中隊長(別府)
17年7月 第7次イラク復興支援群
17年11月 第41普通科連隊第4中隊長(別府)
18年3月 陸上幕僚監部運用支援・情報部運用支援課(市ヶ谷)
21年8月 陸上幕僚監部人事部人事計画課(市ヶ谷)
24年8月 幹部学校付(目黒)
25年1月 1等陸佐
25年8月 陸上自衛隊研究本部(朝霞)
25年11月 陸上幕僚監部防衛部付(市ヶ谷)
25年12月 統合幕僚監部防衛計画部防衛課付(市ヶ谷)
28年3月 第5普通科連隊長(青森)
28年12月 第11次南スーダン国際平和協力隊南スーダン派遣施設隊長
29年6月 第5普通科連隊長(青森)
29年8月 統合幕僚監部防衛計画部計画課長(市ヶ谷)
令和
2年3月 第3師団副師団長兼ねて千僧駐屯地司令(千僧) 陸将補
駆けつけ警護、宿営地の共同防衛の指揮官は田中さんで超適任だったと思う。
人って、適材適所があるんだと実感した。
すごく真面目で几帳面そうな幹部に見えます。
「あいつに任せておけば安心」
という空気感があるんでしょうね。
最後の1枚✨最高です(o^-‘)b !
そういえば、岸良氏の補職。夏に下番して現在中方の幕僚副長ではなかろうかと。
グーフィーさん、いつもありがとうございます!
あああああああ
しまった・・・
修正しておきました!