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「凡事徹底がされて楽な国と、されなくて楽な国」~二つの五輪と凡事徹底②

 続けてオリンピックの開かれた二つの国、日本とフランス。
 古くから互いに憧れ、互いを尊重し合った両国だが、
 内実はあまりにも違う。ひとことで言えば、
 凡事が徹底されて楽な国とされなくて楽な国。
という話。
(画像:フォトAC)

【対極にありながら惹かれ合う不思議な二カ国】

 荻原朔太郎が「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と書いたように日本には古くからフランスの憧れる風があり、今も歴史のある高校には「フランス研究会」が残っていたりします*1
 それと同時に、フランスにも日本に対する憧れがあり、古くはジャポニズム*2、最近では「ジャパン・エキスポ」*3という日本のサブカルチャーを中心とした大きなイベントが毎年開かれています。
 しかし両国はあまりにも違います。

【ガバナビリティの高い国】

 2024パリ・オリンピックは見かけの華やかさとその高い理念にもかかわらず、運営面、実質面で不満の残る大会だったようです。一方2020東京オリンピックは、コロナ禍で行われたという特殊事情はあったにしても、あまりにも地味で、しかし運営面では優れた大会となりました。
 けれどだからと言って日本の方が、あるいは日本人の方が、フランスやフランス人と比べて優秀だということにはなりません。それぞれの国にはそれらなりの存在理由とこだわりがあるからです。

 20世紀の終わりごろ、メディアが日本の政治家の統治能力を“ガバナビリティ”という用語を使って説明することが流行り、「首相のガバナビリティに疑問符がついた」とか「この国の政治家のガバナビリティはどうなっているのか」いった文脈で語られたことがありました。ところが当時のアメリカ大統領ビル・クリントンがある日、話の中で「日本人の優れたガバナビリティが羨ましい」といった言い方をしたので、日本中がびっくりしてしまったのです。
 そこで改めて調べると「ガバナビリティ(governability)」は「国民が自主的に統治されうる能力」いわば「被統治能力」であると分かり、言葉はあっという間にメディアから消えてしまいました。優れているのは政治家ではなく、国民の方だということです。
 
 もちろん「被統治能力」は奴隷のように唯々諾々と何でも言うことを聞くということを意味しません。政府の言うことを基本的に信じて、その意向に寄せてものごとを考え、できるだけ積極的に協力していこうとする主体的な態度・能力のことを言います。
「とりあえず我々が選んだ政府を信頼してみよう、それでだめなら考え直そう」
 そういったことのできる能力が高いことを、ガバナビリティが高いというのです。そう言われると日本人は確かに高いガバナビリティを持っているという気がしてきます。

【政府のいうことを簡単にきかないことが正義】

 一方フランス人はガバナビリティの高いこと自体を「良くない傾向」と捉える風が伝統的にあるように思われます。とりあえず民衆の力によって絶対王政を倒した初めての国ですし、ロベスピエールたちによる「恐怖政治」を経てもなおまとまらず、結局ナポレオンというフランスにとっては外国人にあたる人物によってまとめてもらわざるを得ないほど、政府のいう通りにはなりません。
 第5共和政の最初の大統領シャルル・ド・ゴール(1890年~1970年)をして、
「私は、人間を知れば知るほど、犬が好きになる」
と言わしめたほど、政治家のいうことをききません。
 最近では2020年の5月、新型コロナによるパリ・ロックダウンの際中にエッフェル塔の下に若者が集まってバカ騒ぎをし、マクロン大統領を激怒させたことも記憶に新しいところです。
 そもそも理屈上ロックダウンは2週間続ければ、その都市は一時的にしろ感染者ゼロになるはずですがパリはそうならなかった――陰で毎日のようにホームパーティを開き、飲食店も隠れて営業しているようでは、封鎖の意味も半減以下です。
 
 結局日本で本格的なロックダウンを行った都市はありませんでしたが、やれば中国の武漢よりもうまく、武漢(76日間)の半分以下の日数で同じ効果を上げたことでしょう。ロックダウンしなかったのは、したと同じくらいの効果が「呼びかけ」だけで達成されると政府が信じたからです。国民が政府を信頼するように、政府も国民を信頼したのです。

【冒険も危険もない退屈な国】

 新型コロナについていえば、日本はいつまでも終息宣言が出せませんでした、これについては政府の甘さ、政治力の弱さを言い立てる人がいますが、私はあれで良かったと思っています。
 日本がいつまでも新型コロナと付き合わなくてはならなかったのは、ワクチンと感染によって国民が集団免疫を獲得するのに時間がかかったためで、フランスのような急激な感染拡大と大量の犠牲者を出していいなら、同じように早めの終息宣言となったはずです。
 ちなみに2022年7月15日、WHOが統計を取らなくなった時点での新型コロナ感染による死者数は、フランス15万人(人口の約0.22%)に対して日本はわずか3万1500人(人口の0.025%)でした。割合で見ればフランスは日本の8.7倍もの死者を出したことになります。
 その後2023年度末までに日本国内の死者は10万人を越えましたが、それでも22年7月のフランスの三分の二です。人口は日本の方が2倍もありますから驚くべき数字と言えます。
 比較の必要から日本と同じ2023年度末のフランスの死者数を探しましたが見つかりません。おそらく他の多くの国々同様、統計を取ること自体をやめてしまったのでしょう。そのあたりも彼我の違いです。

【凡事徹底がされて楽な国と、されなくて楽な国】

「自由・平等・博愛」と言いますがフランスおよびフランス人は、平等も博愛もさほど大切にしているとは思えません。しかし自由にはこだわります。それはそれでいいのだと私は思います。
 新型コロナ感染による死者が日本の8.7倍であったにしても、自由の代償と考えれば安いものだと考える立場は当然あります。オリンピックで数々の不手際があり、会場の入り口が毎日違っていたり、会見の場所が度々変わったり、連絡が周知徹底しなかったとしてもそれが何ほどのことか、という人もいます。係員や担当者が神経をすり減らし、根を詰めて完璧な運営を行うよりも、ほどほど緩く、不備は皆で補い合えばいい――それもひとつの立場です。日本国内にだって、コロナ禍の真っ最中にマスクを拒否し、自粛に抵抗した自由人はいたのです。
 ただ私個人についていえば、多少の不自由はあっても危険のない世界が好きですし、当たり前のことがきちんとできて(凡事徹底*4)予定したことがほぼ実現される世界が好きなだけです。
(この稿、終了)

*1:

*2:

*3:

*4:

  翻译: