枯木の想い出(4)

宅地地図⓵



大正三年に大洪水のあったことは有名ですが、当時、私の家は現在の場所で、大堤防と大土手の間に建っていました。

       
       
 


この土手に挾まれたところは、大手外とも呼ばれていました。

さて、そのとき、増水した水は大堤防を越える程でしたが、左近の方で堤防が破れ、その水は、山田、文治、山本町等の低い地区に集まりました。私達のところは草生津用水(草生津江ともいい、左近から、蔵王の、当時、、伝染病院のあったところ迄続いている)から水が溢れ、一時は床上七尺程になったと思います。ちょうど、貯水池のようでした。それでも用水は支流が各所にあり、他の町より水ひきが早いとのことでしたが、 一週間程は二階生活をしたと思います。文治や山本町の低い土地の浸水の状況は、後に祖父の家、上桝楼でみたのですが、壁の、床上九尺位のところに浸水の跡が残っていた程でした。

その後五年頃の洪水の時だったと思いますが、増水で、長生橋の中間の部分が崩れ、橋上に通行人が三、四人残ったまま流されていく、気の毒な場面を二階から見ていたことがありました。・信農川が増水すると、、各家の親父どもは川端に出て、 「かき網」という道具で魚をとったものでした。

私の母の実家は上桝屋という遊郭で、私はそこで明治四十二年に生れました。また母方の親戚も郭内に数軒ありましたので、子供のときは専ら文治で生活し、遊郭内の出来事を子供ながらこの目で見て生長しました。その頃が文治の一番にぎやかな時代でした。

大門から一等地を進んだ突き当りに水子供養地蔵尊があり、その向いは公園で茶屋もありました。この地蔵尊は、かっては草生津、唯敬寺の屋敷にあり、供養に花火を打ち上げたのが長岡花火の始まりと伝えられています。夏が来ると、公園では、毎夜、素人相撲が行なわれ、ときには五色軍談(男の盲人の歌うチョンガレ)や、ごぜ歌の催しがあり、それがすむと池のまわりを甚句を歌って踊り歩いたものです。大正の中頃迄は、遊郭は昼間から大鼓、三味線の音で賑わい、夜は夜で大勢の遊野郎や川船衆がねり歩き、 一日中ざわめきが続きました。お盆になると、中央の十字路を中心いに、町内は勿論、近郷の盆踊りの流れも加わり、女郎衆や芸者衆がはなやかな色どりを添え、毎夜、朝まで踊りつづけました。芥箱を太鼓代りにたたく人もいて、朝は掃除に大変でした。

一等地の客筋は、船主、筏主、卸問屋の主人、近在の大地主達で、それ以下の商人、職人衆は二等地を馴染みにしていたようでした。しかし、大正の終り頃には、日中の騒ぎはなくなっていったようです。

文治遊郭は新保石五郎が責任者となって、明治三十九年に埋め立てを行ない、四十年から二年位の間に地図に書いたような家並みが整ったものです。地割り等は吉原を手本にしたといわれ、建物の立派さは、関東、東北 北陸のうちで、仙台に次ぐものであると、楼主達は自慢していたものでした。

その当時の貸座業約五十軒程ありましたが、その内十数軒は副業的な経営でした。郭をとりしきるのは女房達の仕事で、男達はむしろ邪魔な存在でしたから、本業の仕事は本宅で別に持っていました。商店経営、土建業、材木屋等でした。

従って子供達は、進学する少数の者を除き両親の意志により奉公に出ていました。

郭の子供達は放漫に育てられたと思っているでしようが、しつけは厳格でした。それでも矢張り悪童で、さんざん人を困らす様な事をしました。

信濃川の堤防は、暖くなると、若い男女の密会の場所となるのは今と同じですが、。昔は陸揚げした丸太に腰かける者が多かったので、そこにコールタルやペンキをぬり、尻を真黒にさせて面白がりました。

朝起会が始まり、朝六時に平潟神社に集合して体操をしました。朝食前で腹がすいているので、各家に配達されている牛乳を失敬しては呑み、見つけられて逃げまわったこともたびたびでした。抱えの女郎衆の履物をかくして、遣いをせびったりもしました。雨や雪で外に出られぬときは、家の中であばれると叱られますが、大門の近くの、溝ロお湯屋に集合し、浴場を遊び場にしました。

 

私の見た郭内の女性

 

女郎衆は下品な人間と白眼視されましたが、彼女達は貧苦の生活を味った苦労人で、山深いところから出て来た純朴な

       
   
     
 


人達でしたから、 一般の家庭の子女より優れたところがいつばいあったと思います。芸者衆は芸ごとや作法を仕込まれていましたが、家事の点では女郎衆の方が上だったと思います。年期があけて、家庭の主婦となったり、良家の後妻となって、うまくいった人達をいつばい知っています。

当時、郭は、日中は芸者衆の芸ごと、作法の教室となり、夕方からいわゆる見番の仕事をしたのですが、大正八、九年頃からその仕事は中止したようでした。登楼する客達は、楼主によって秘かに姿、形が書きとめられ、また、相方から特長が聞き出され、見番に届けられていました。これは警察の捜査に利用されたのです。検査院は女郎衆の性病検査をしたところです。女郎衆は公娼としての自分自身の体を考え月二回検査しました。又、見番提出台帳は各置屋に有り、翌朝午前中に持参致しました。

当時芸子とし各家には十才位より住み込みました。午前中は芸妓見習や子守として、午後は千手校の子守学校に通学し、小学校生と同様に終学証を下附されていました。数年後、現在の明石医院の場所に創設され独立しました。当時芸子見習いは大変厳格な教育を受けました。日中は前記の如くで、夕刻には年中休みなく、風雪中でも二階の雨戸

をあけて大きな声を張り上げ歌と三味線の古を約二時間位します。家を出る時はともかく、主家に動める時はテレビの「おしん」以上の苦難の道で、時に出来が悪い時には罰として便所前に両手で水を満した洗面器を持ち、直立の格好を一時間以上もさせられました。一人前になるには大変な時代でした。

文治遊郭内の事件

少年の頃の忘れられない事件があります。その一つは 「鈴弁殺し」で、東京で弁護士をしていた山田憲が、金貸業、鈴木弁造を殺し、大型トランクに詰めて長岡に運び、一夜、文治の緑楼で散財の上、翌日大工町の川船にのって新川から信濃川に出、トランクを投棄したのです。しかし後日、トランクは百本杭のところで浮上、事件は発覚、流行歌が出来るほど全国的に有名になったのです。

もう一つは「シンンン」 の事件です。 「シンシン」火葬中の屍体を夜中に引きずり出し、長生橋を渡り、とは大工町にいた精薄の男の呼び名で、或日、彼は大島の火葬場で

土手通りを通り、地蔵尊のみ堂の前に棄てて行った事件です。翌朝、大騒きとなり、悪臭に閉ロしながら仕末したのでした。その頃、大島の火葬場は長生橋のやや上手の河原にあり、今も雑木林が残っています。            

 

 

 

           
       
       
 
 

宅地地図②



 

 

終戦より町名改正まで

 

復興事業に協力

八月一日の空襲で焼け出され、おまけに顔に火傷を負いましたが、焼け跡に仮りの小屋を建て、八月十日に分散した家族を呼びました。トタン葺きで、夜は釘穴から月光が差込みました。店員や弟と焼け跡の整理をしていて、終戦になったという噂を聞き、半信半疑でしたが、米軍機がビラを撒き、終戦を知りました。

九月中旬、不注意で足首を火傷し、歩行出来ず、小屋で療養していると、山田町の中川老人がいらっしゃって、市の土木課長の小幡氏が復興材を市民に配給したいから、是非、製材工場を作てほしいとっ言っていると伝えました。県木材会 社の役員は誰も引き受けてくれず、山弥以外に適任者はいないので、是非引き受けてくれという。私は金がなく、家族十 二人を食べさせるのにも困てっいる状態だから、到底引き受けられないとお断りしましたが、小幡課長、中川老人の再三の依頼があり、中川老人が一万円を出資し、市が機械を取り揃えるというのでお引き受けして、十月上旬「準備を始めました。

草生津まで電気を引くにも電柱がなく、工場を現在の中央病院の並びにあった空き地に建てました。工場建築の用材に阪之上小学校体育館の建築用の材木を流用しました。この体育館は上棟式をすませた後空襲に遭ったのですが、生徒は疎開していないし、取りあえず学校は不用でしたから、体育館を移築して製材工場にした次第でした。工員は戦前からの米山秀八他六名、事務は叔父の押之見で、雪を目前にした十一月二十五日、家族五人と新しい土地に移住しました。知人に頼って越冬用の食料を確保し、工員たちに分配して安心して仕事に励んでもらいました。原木もエ場の電力も確保され、十二月中旬には作業が開始されました。小幡課長と相談の上、市民一軒当たり十三石と計算して配給することにしました。その後、隣地に市会議員の山崎氏が製材に参加、学校町の浪花屋こと今井市会議員も工場を作りました。阪之上小学校の教室には長岡市及び復興部が入り、市役所の業務や配給が安定してきました。その頃、奥山主任、町内の横田、横山君、他町の丸山、駒形、佐々木、長谷川、山崎君等が製品を取りに来て市民に配給していました。四十年も昔のことになってしまいましたから、皆、退職されたことでしよう。その頃は食料不足で、工員及び若手職員達作業参加者には三時の間食に薯を食べて空腹を凌ぎさせました。薯は片貝の知人の世話で入手していました。焼け出されて、

どの家にも風呂はありませんでしたから、私は工場に風呂を作り、三時には入浴できるようにしておき、来客に入浴して頂ぎ喜ばれました。千手一丁目に本多さんという医師が居られ、焼け出されて大島の商店の二階に仮り住まいして居られました。自転車で往診して回り、最後は私の家で入浴して帰られました。時には酒を持参され、湯上がりに一杯上がって御機嫌でした。お陰で、子供が熱を出したり、工員が病気になったときは、すぐ診て頂けました。又、野本文吉町内会長、その他の町内役員の方々が市配給受領のため相談に来宅され、金額不足分を立替致して現地の皆さんは大変でした。又、

坂口床屋さんは見附より通勤されておりました。帰路には立ち寄り町内の状態を聞き、入浴をして見附へ帰られた事もあ りました。

昭和ニ十三年、隣の山崎さんは製材を止められ、私も仕事が減りましたので、以前の鉄道関係の仕事が、売上げの半分を占めるようになってゆきました。

 

 

市の約朿違反

 

市と私の間には中川老を立合人とし、小幡課長を窓口にして次の五項目の口約がされていました。

  • 工場の建設には阪之上小学校の建築のための用材を無償で提供する。ただし、建築費は山弥が負担する。
  • 機械は市が購入するが、山弥は作業代金の中から月賦で返済する。一
  • 敷地の地代を市に納入する。
  • 事業 「後も引き続き営業して差し支えない。
  • 建造物は協力費として無償で払い下げる。

以上の契約で工場で生活をしていましたが、学徒動員で戦死した弟の康司の遺骨を迎える家が無く、昭和二十二年。急きょ現在地に住宅を建設し、母方の親戚の厄介になっていた両親や弟妹も迎えました。それと同時に、戦死した舎弟の法要を致しました。

ところが二十三年六月、市会議員の大隅吉松氏が来訪され、復興事業は明年四月に廃止することが決まったから工場を移転してくれと言われ吃驚しました。そこで中川老を仲介に再三交渉しましたが、かっての口約束があったことは与り知らぬことといわれ、結局、五十万円の移転料を支払うことで妥協の形になり、二十四年五月に引っ越しを始めたのですが、結局この五十万円も貰えませんでした。こうした苦境にあったときも、父の事業欲は衰えず、訳の分らぬ事業に資金を注ぎ込む始末で苦労しました。

六月に移転は終了しましたが、配電工事が出来ず、三か月間仕事が出来ず、工員の賃金の支払い、移転の費用、計八十 一万円を市に補償してくれと交渉しましたが駄目で、結局、中川老の仲介で初めて銀行から借金をしました。草生津に移動後は、国鉄、私鉄、東北電力内務省等をお得意にし、借入金も少しずつ返し、無事に二十四年が暮れました。

堤防の決壊

 

昭和二十五年、売上も増え、八月の花火の収入もありホッとしていた矢先、八月四日の朝四時半頃、向島砂利の関君に起こされました。信濃川の堤防に穴があいて水漏れていると言われ、行って見ますと、今の吉原建設の裏の堤防下部分付近に直径五糎程の穴があいて水が吹き出していました。取りあえず細い丸太を突っ込んで塞ぎ、慌てて内務省の役人を起こしました。信濃川が増水していることは知っていましたが、まさか、うちの町内に水害が及ぶとは思ってもみませんでした。その頃、ラジオや新聞で利根川の堤防破壊が報じられていました。

その時には内々米軍の戦災の見返り資金とし内務省長岡出張所割当額一億円がありました。その金で六月頃から堤防の改修工事を行うことになっていて、七月頃から住民が移転しなければならなくなるのは、市当局や市会議員や内務省木暮事務官から知らされていました。しかし、製材工場移転の件で市に苦汁を呑まされたので知らんふりをしていました。中島、草生津地区の地主、農地関係の意見の取りまとめには大谷内権四郎氏が選ばれていました。左近から内務省事務所までの家屋の移転を松田市長、笠輪課長、木暮氏、市会議員井上、吉原氏が説得に来られましたが応じませんでした。しかし、堤防に穴があくという事態になったため応ぜざるを得なくなり、寺井所長、木暮課長来宅、関君と私が十ニ日に話し合い、私が草生津地内住民関係代表者となり協力を承諾しました。

堤防改修工事

 

堤防工事と同時に市の復興事業として大土手通りの拡張事業を同時に行うことになり、堤防に添って並んでいた家は後ろと前から攻められる形となりました。市が作った図面を一枚入手し熟覧の上、大谷内権四郎氏と市復興事務所長の原沢 文夫氏を訪ねました。原沢氏は同級生で、氏は私の来訪を驚いていました。そこで原案を修正してもらい、屋敷の狭くなるのを最小限に食い止め、また、草生津江の上に家屋を建築することを承認してもらいました。突然私が各家を廻り、説明し了承を得ました。 (草生津江は内務省エ事事務所と用水組合が管理することになっていました。用水組合は昭和三十七年に解散しました)

当時は物資不足の時代でしたから、住民が移転するにはトタンとか釘とかの建築資材の配給をうけなければ動けず、配給は市の仕事でしたが、移転工事は別途だとして、市会議員や市当局は威張ってばかりいるだけで仕事をせず、移転は捗りませんでした。仕方なく私は日夜各家を訪問して意見を聞き、代替地や移転先地主達と交渉し、承諾を得たわけです。新築資金のない者に古屋を探してやったり、屋敷の無くなる者には隣りから分けてもらったりして、九月中旬には工事が始められるようにし、寺井所長や関係者に喜んで頂きました。当時はセメントが購人不可能の時代でしたので、

           
       
     
 
 


役所から二十トン供 い、各戸に配りました。-

工事の下請けは田中角栄社長の田中組で、工事担当の風祭氏以下六人の若い衆は、林建具店に事務所を構えていましたが、移転が進まず困っていました。若い衆は後日、越後交通の役員になって、材木の買い付けで顔を合せることがあり、昔のことを懐かしく話し合いました。また、その後の取り引きにも力になって頂ぎ感謝しています。堤防工事は十一月の期限までに完了しました。

怪我

ところで十二月三日、請け負った商店の上棟式に出席した折、五メートル上から落下して人事不省に陥ってしまいました。その後約一年は病床に横たわっていました。そのため、移転費用の分配にも立合えず、、十日の妺の結婚式にも出席できす、年末の商品の納入も滞りました。

内務省木暮課長が見舞いに来て下され、その時、我が家の移転資金七十四万円の内訳を持参されました。ところが、この中から四十三万円が立て替え金として差し引かれているのです。これは何ですかと聞くと、セメント二十トンの代金が貴方の名義で出庫されているので、貴方から代金をもらうことになるというのです。なんたることかと声も出ませんでした。その後、セメントの配給を受けたものから代金を徴収しようとしましたが、無償の配給だと思っていたといわれ払ってくれません。市で補助する話もありましたが、工事事務所の米山職員の公金隠匿事件が発生し、私も二回裁判所で証言をさせられるごたごたが重なり、補助金の話も立ち消えて大変な迷惑を蒙りました。全額の約三分の一の十数万円を取り返しただけでした。

昭和二十五年は怪我で働けず、借入金の返済に困りましたが、銀行の好意で健康になるまで猶予するということで神様のお陰と感謝しました。しかし、昭和二十六年の新年を迎えたものの、売上げは低下し、細々と過ごし、家内ともども初めての苦境を味わいました。市内や新潟の友人から月々生活費を借り入れ療養生活をしていた状態でした。この間、下請け作業人の裏切行為がありましたが、国鉄の係官が見抜き、大事に至らずに済んだことは幸いでした。しかし、十月頃から健康を回復し始め、営業も上向きになって来ました。

 

              工員の事故死                           

昭和ニ十七年のお正月には思い掛けないことが起きました。一月ニ十四日、午後一時、銀行に、見舞いを頂いたお礼方方、月末の支払いにと資金借入れに行ったところ、工員に事故があったから至急帰れという電話連絡だという。急ぎ帰ると、工員の村山修君が丸鋸で西瓜を割ったように頭を割られ即死していました。店員も検死の医者も気味悪がって近づかす、折よく友人の高橋繁次君が来店していたので手伝って貰い、二人で頭を合せ白布を巻き納棺しました。自分乍らよくやったと思いました。三時頃には父親や親戚が到着、遺体を刈羽郡大広田まで運びたいと言います。雪中で、しかも遠路です。私は返答に困りましたが、運ぶなら汽車しかないと思いまして、長岡駅長に電話して頼み、また、新津の管理局にも事情を話してお願いし、郵便用列車を柏崎駅まで回送してもらい、午後六時頃、遺体を荷物として駅長室を通ってホームに運びました。広田の駅長もビックリしていまして、この様な車両は初めてだと言っておられました。

私はまだ病み上がりで、気力でお願いしたことが聞いて頂けたのでした「捨てる神あれば、拾う神あり」とはよく言ったものだと思いました。葬儀を含めて費用はおよそ三十万円で、八月末までに返済するという約東で借入し、花火のさじきの売上げで払いました。

十一月上京し、米国材を契約して帰ったところ、病臥中だった父は帰宅後一時間で死亡し、この年には二回葬式を出しました。何となく不安でした。資金も、不幸や仕入れで使い果たし、土地を売却せねばならなくなるというピンチでした。。

 

 神明さまの建設

話は前後しますが、昭和二十年一月に町内会長の野本氏や役員の池田、田中、江口の諸氏と会談したとき、町の復興のために青年団を作ろうと意見が一致し、昭和ニ十一年「三丁目青年団」を会長・島峯三郎、副会長・自山登で発足させました。その後(青年会に一任し、私は一時不参加です)、中通りの青年も参加し、全町の青年団となり神明神社の拝殿の新築に大変な力を発揮しました。私も金垣君と参加したのですが、私は不幸や仕事の関係で活躍出来ませんでした。

昭和三十年十月二十九日、草生津青年団は再出発の式を行い、神殿の建設をしようと話し合いました。私は銀行で山田さまとお会いし、本殿の建設に尽力して欲しいと要請されました。そこで同業の丸石材木店・長谷川久吉と相談し、草生津三つの町内会から月々百円を寄付してもらうことにし、ニ年間で七十万円とする案を作りました。

昭和三十一年の暮れ、建築について隣町の吉原氏と相談しましたが、役員の反対にあって中止、吉原氏を除く事にしました。最終的には私が独断で自分で設計図をはじめいろいろの書類を作り、桃生宮司を通じて神社庁の許可を得ました。三つの町内会長を設立の委員とし、委員長は長谷川久吉氏、七十万円の予算で発足しました。内陣の用材は私が寄付し、拝殿関係は久吉君が寄付し、石垣は山田さんや町内有力者の寄付を受け、予算以内で済ますことが出来ました。

現存の神殿は昭和三十二年七月七日に埈工式と同時に遷宮式を催しました。その頃、私は江口さんが退かれて町内会長をしていました。青年団が中心となって盛大なお祭りをし、市長の内山さんを招待しました。下土手地区では十数人の若衆が珍流会を作り、町内を練り歩きました。

 
   

 

町内会長

 

町内の団結を計るため、第一回目の役員会で私はつぎの提案をしました。、

一 毎月二十日八時(冬期は七時)に集合し町内費を同日会計係に提出すること。

二 班長目身が出席し代理は止めること。止むを得ない場合は、隣班に依頼すること。

三 ニ十分間経ったら会議を始める。会議中は私語を禁止する。

四 議決は出席者の半数以上の賛成で決する。

  町内の事業は内容によって若い衆か老人の担当かを決める。

五、町内の団結を計る。

 

半年位経って、効果が現れて来たと思います。

その後、三丁目通りは螢光灯に切り替って町内の歩行に大変寄与致しました。昭和三十年初期の頃、私の家の前の下土手道路の舗装工事が施行されることとなり、負担金の問題が出てきました。」西文治、大川前通り、大工町、山田、草生津三丁目の道路が対象でした。建設省前から長生橋東詰めまでの負担金額は約四十七万円で各家の分担の仕方について意見が纒まらず私に協力が求められました。私は黙って工事の進捗を見ながら日を延ばし、修了してから関係の課長にお出で願って金の支払いは出来ぬ旨伝えました。その理由として、復興事業と堤防改良事業の際、私と当時の市長や助役の間の約東不履行のためと言い聞かせまして、結局一文も払わす仕舞いでした。但し融雪工事の費用は多少支払いました。

当時、平島で女子学生の殺人事件があったのを理由に、市内の五箇所に大型の投光器を付けることが決まりました。その内のニつを工業高校の定時制の生徒がいるからという理由で、ライオンズクラブの寄付により土手につけてもらいました。長生橋東詰めは山田町地区会長で、従弟-弥太郎の名で設立しました。また、舗装されて道路がよくなったので、美観の為に街路燈を螢光燈に取り換えてもらい、明るくなって喜ばれました

昭和三十九年頃、小学・中学生の父兄会を開催したいという提案が、千手小学校と南中からあり、父兄に集まって貰いたいということでした。丁度、夕食前の時間で、母親達は支度に多忙な時間でしたが、学校側にも止むを得ない事情があるのだろうと思い承諾しました。私は指定された時間の十分前に拝殿に行き、お茶を用意しましたが、ニ十分過ぎても先生は現れず、父兄に解散を言いましたところ、漸く二人が到着しました。そこで、自分たちが決めた時間をなぜ守らないのか、町内会長自ら準備したのに失敬だと神社の境内で叱ったことがあります。忘れられないことです。その後は全町内の父兄会は集合力が付きました。当時父兄会では無く、全家庭主婦の母親の出席が大部分でした。

               
             
   
 
 


その後、班長や青年会が協力し、全町内の少年団が結成されました 昭和三十八年には電力会社の連動場を借りて運動会が催されました

公民館設立の件

草生津全体に三百四十世帯あり、集会場の建設が望まれていましたので公民館を設立することにしました。

最初の案は、冬季間も利用出来ることを前提として立案しました。祭礼の参会所、舞台及び子供の相撲場、全町集合はパネル敷き。二階は青年-婦人会の集合、各種の修養教室等として、一部に管理人部屋を設ける。基礎工事・材料は町内有志より、又、木材・建設用品も専門店よりの寄付とし、本殿建設と同じ建設予定で立案しました。

私は大谷内三衛、大谷内権四郎氏と相談し、昭和四十年には町内費の額を増やして預金するように、立案内容を説明して役員にお願いしました。その後、町内会長退任後、公民館ができてよかったと思っております。私の最初の案とは違うところもありますが、これも時代の流れかと思っております。

草生津江は中島の農民が管理権を持っていましたが、草生津三丁目の管理は私に任されておりましたので、電気会社社宅から上流の幅を順次一メートルの半分に狭ばめ、通路として利用するように致しました。昭和三十七年には管理権は組合から市に移されました。

町名変更の件

昭和四十一年春、市総務課長と山凵次席がおいでになりました。全市町内区域変更の件に関しての申し入れでした。草生津は、横筋の道路面を縦線の区割(現存線)に変更し、山田・文治,西文治,山本町山田一・二・三町と分割する案を提示しました。私の案として、草生津は旧来通り一・二・三か町とする事と、他町四か町は町名を西町とする事を申し立てました。山田を除き一応三か町会長は私の案に委任する事になりました。四十二年十一月頃、山田公民館で町内会長が集合し、決定をする事になりましたが、各町内代表からは意見発言が何にも無いので、市当局の係員も私の意見に添うことになりました。外文治・山本町春日町とし、内文治・西文治・草生津三丁目の一部で山田町とすることとし、市案も無視できないので以上のように述べました。その前の条件として、草生津町は旧来どおりとして町内会運営をするよう申し立てたのですが、草生聿町の出席役員は無言で、私もこれ以上は一言うべき言葉もなく、市に委託しました。現在振り返ってみると、全町内の隣組としての円満に物事を解決する行為が欠けていたような気がします。

私は長期間、町内会長や神社の総代を勤めましたが、昭和四十三年三月三日町内会が分離しましたので退任しました。

氏子総代はその後二期六年間やりましたが、退任しました。

終戦直後、神前で誓った一生一升の酒をお供えするというのは守ってお供えさせて頂いております。  昭和六十一年五月三十日

注 書中年月日と聞き違い等多少あると思いますが御容赦下さい校正は市川豊樹先生です。転載禁止願います。

  翻译: