2010年 12月 28日
大己貴神社(1)(旧三輪町)
おおなむちじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷(旧三輪町)
旧三輪町の中心の宮
平成の大合併で、「三輪町」の名前が消えてる?
筑前町という名前に変わっているみたい…。
その旧三輪町に「大己貴神社」という、まるでイヅモかヤマトのような
名前の神社を見つけて、出掛けたのはずいぶん昔の事です。
冬になると何故か出雲に行きたくなる。
だから、今日はその名もゆかしい大己貴神社へ行こう。
さて、地図を広げていると、あれっ、この前行った小郡市の飛鳥と、
この旧三輪町はお隣さんなんだ。直線距離で8キロ。歩いて二時間か…。
この三輪町あたりの地名と畿内の地名に関係があるのは、ずっと前から
言われていたけど、いつのまにか大学の先生によって証明されていた。
これは心強い。そういう点ではここはプロト大和。この神社はその惣社です。
福岡と日田をつなぐ県道386号線の、「久光橋」から小京都の秋月めざせば、
「大己貴神社」の大きな看板があるから、すぐに分かります。
道路を隔てた所に「歴史の里公園」が出来ていて、ゆっくりと車が止められます。
一の鳥居の左に大きな岩が。「幸神」と彫ってあります。
参道には古い石碑がいくつも並んで、歴史をしのばせます。
石の太鼓橋が。結構これって急斜面なんですよね。
石段を登ると、拝殿に出ました。
朱塗りの華やかな拝殿です。
幕末から明治にかけての建造だそうです。
扁額は「大神宮」となっています。大和の「大神神社―おおみわじんじゃ」と同じ字ですね!
そして、ここは大己貴神社。(おおなむち)やはり出雲と大和と合わせもつような名前です。
地元では「おおがさま」「おんがさま」と言うそうです。
奥に見える神殿には三面の鏡があります。これも珍しい。
今日、再びここに来れたことを感謝して、参拝。
拝殿脇の由緒書きを読みましょう。(現代語に変えました。)
大神大明神(弥永村にあり)
延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。
日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。
9月23日は旧暦のため、現在の( )に祭礼があります。この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。 略 三輪町教育委員会
この文章は貝原益軒の「筑前国続風土記」から書き抜いてありました。
益軒の本にはさらに、異伝が書いてあったので紹介します。
『釋日本紀』に「筑前国風土記」からの引用文があって、
神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。
貝原益軒は、軍が集まらなかったという説(日本書紀)と、
集まったけど逃げ出した(筑前国風土記)という二つの説を並行して書いています。
地元の三輪町教育委員会では、日本書紀説を採用していたのが分かりました。
この大神、大己貴を祀る神社は他にもあって、福岡市の東区にも「大神神社」があり、
隣は美和台(ミワダイ)で、同じような伝承を伝えています。
この先 、二つの神社を視野に入れながら、
それぞれの郷土史にアプローチ出来たらいいなと思っています。
この神社の何よりの特徴は遥拝所があって、御神体山がある事です。
では、境内の左奥にある遥拝所への道に行きましょう。
参道は50メートルほどの長さです。最終地点には、お神酒を供えるための台があります。
遥拝所から見える神奈備山です。
神社で名前を伺うと、「神体山」という名で、三輪山とは言わないそうです。
この山にかつて登った事があります。
大和の三輪山のように盤座がないかなと探しに行きました。
山腹は苗木が植林されていて、その間を抜けて、森の中に入って行きました。
頂上付近に盤座らしきものが一つありました。(1996年撮影)
頂上全体は森になっていたと記憶しています。
ここは「御神体山と遥拝所と神社」という基本パターンが見られる点で、
また、畿内に移動していった地名の元の地であり、その中心の宮という点で、
大変興味深い神社です。
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ヤマトでも多分三輪神をなだめる為にだんだん大きな規模になったと思います。原初の時代は地の神で小さな祠があっただけだと思うんですが、、、・
この大己貴神社のすぐ近くにまで神功皇后が来た話が日本書紀にあるので、彼女の移動ルート全体を把握すると、もう少しはっきりしてくるのではないかと思います。もちろん、地理に詳しくない彼女を案内した地元の武人がいるのですから、その動きも要チェックです。
今、レッドクリフの番組があってました。魏の曹操が亡くなったのが220年で、すごい船に乗ってました。この神社と同時代なんですね!