Call my name 42
総二郎先生は私を見なくなった。
ちらりとこちらの方に視線を投げる事すら無くなった。
以前のように話し掛けられる事も一切ない。
お茶のお稽古に呼ばれる事もない。
まるで私なんてここにいないかのように、私は空気になってしまったかのように、先生は振る舞われている。
それは身を切られるように辛い事だった。
実際に切れた掌の傷なんかより、よっぽど激しい痛みを感じる。
いつかそんな日が来るのだろうと、ぼんやりと想像はしていた。
いつの日か総二郎先生に添う人がここに迎え入れられ、若奥様と呼ばれ、一番近くで先生を支えるようになる。
先生はその人を、そしてその人との間に生まれてくる子供達を優しく見詰めるようになり、私の事など気に掛けなくなるのだろう・・・と思っていたけれど。
そんな時が来る前にこうなるとは考えた事がなかった。
そして、私は随分と自惚れていたんだと気が付いた。
総二郎先生は、いつも自分の事を気にかけて下さるのだと、壊れかけの身体と空っぽな記憶しか持たない可哀想な弟子に、優しく手を差し伸べて下さるのだと、勝手に信じて、いつの間にかそれに甘え、縋って生きていた。
お姿を垣間見れるだけでいい。
お声が仄聞こえるだけでいい。
同じ場で生きていられるだけでいい。
そう思っていた筈が、それだけでは全く足りなくなっていた。
総二郎先生という、手が届かないほど天高く耀く綺羅星のような存在に、ほんのひと時でも触れてしまったから。
一度触れたら、もう一度触れたいと望んでしまう。
もっともっと、1秒でも長くその煌めきをこの手の中に捕まえておきたい。
そんな過ぎた願いを持つようになっていた。
先生が私に構わなくなると、段々と身の回りがしん・・・と静かになった。
バケツにガラスが入れられるような事はもう起こらない。
掃除道具が隠されてしまって独り右往左往する事もない。
さっき磨いた筈の廊下が何故か水浸しになる事も無くなったし、纏めたはずの庭の塵がそこらじゅうに撒き散らされたりもしない。
まるで悪い夢から覚めたかのように、私には何も起こらなくなった。
毎日決められた仕事をするだけ。
そして一日が終わって、疲れ果てて眠り、また朝が来る。
そんな日々の繰り返しになった。
空な心を慰めてくれたのは、広い庭に植っている草木だ。
しとしと降る雨で庭の木々は洗われて、緑の色を一層鮮やかにし、晴れ間には空に向かって枝葉をぐんぐんと伸ばしていく。
柏葉紫陽花が若緑の蕾から段々と淡い色へと変わっていくのを、時折眺めた。
庭の睡蓮が華やかに花開いたのを、晴れた日に池の淵からぼうっと見詰めていると、束の間時間が経つのを忘れられた。
そうやって目の前にあるものに目を向けて、感情に蓋をしていないと、胸の中から激しい痛みが湧いてきて身体中を駆け巡り、立っている事すら辛くなるから厄介だ。
でも本当は、こうやって独り庭に立っていたら、また先生が話し掛けて下さるのではないか・・・と心のどこかで期待していたんだと思う。
私の切なる願いに反して、そういう事は一度も起こらなかった。
誰かにつん・・・と突かれたら、それだけで涙が溢れてきそうな程、目の淵がじんじんとしていたけれど、誰も私に構わなかったから泣く事もなかった。
総二郎先生に倣ったかのように、周りの人達は私とは距離を置き始め、広い邸の中でぽつんと独りきりのような気持ちになる。
自分の唯一の居場所だと思っていたお邸の中は、季節が夏へ近づいていくのとは逆行して、日一日と冷え冷えとしていくようだった。
それでも私は他に暮らす場所なんてない。
梅雨の空は、私の代わりに泣いているのかな・・・?
窓越しに雨が落ちてくる庭を見詰めながらそんな事を思う。
ただただ重苦しい時間を積み重ねる事以外、私に出来る事はなかった。
月に一度の通院の日。
幸いな事に少し太陽が雲の合間から見え隠れするような天気だった。
雨が降ると身体のあちこちが軋むように痛むから、そんな日に出掛けるのはとても大変なのだ。
雨ではない事にほっとしつつ、一日休みを貰って病院に行った。
特に良い話も悪い話もない、いつも通りの診察を受けた後、病院の中をゆっくりと歩いていたら、不意に常とは違う事が起こった。
エントランスを入った所にあるオープンカフェに座っているのは、花沢さんだ。
いつもの病院が、花沢さんとその周りだけ違う色で塗られているかのように、くっきりと浮かび上がって見える。
「牧野。」
花沢さんが私の名前を口にした。
声は聞こえなかったけれど、呼ばれたのが分かる。
驚いている私が何か口にする前に優しくにこりと微笑みつつ、花沢さんがこちらに向かって歩いてきた。
「どうしてこんな所に?とか思ってんでしょ。
あんた、顔に出すぎ。
西門に会いに行ったら今日は病院だって聞いたからこっちに来てみたんだ。」
「いつから待っていて下さったんですか・・・?」
それには答えず、花沢さんは笑いを深めた。
「ねえ、牧野。
今日は仕事休みなんでしょ。
疲れてないなら今から俺とデートしようよ。」
「そんな・・・、花沢さんはご予定がおありでしょうから・・・。」
「今日の仕事はもう終わりにした。さ、行こう。」
そう言われてもまだ戸惑っていた私の手をふんわりと捕まえて、花沢さんは歩き出し、どうしていいか分からないままついて行く格好になる。
「牧野、もうお昼ご飯食べちゃった?」
「あ、あの、まだ何も・・・。
いつもはお会計待ちの間に何か食べるんですけど、今日はすぐに順番が来たので・・・。」
「ん、丁度いいね。
何か美味しいもの食べに行こ。」
そのまま駐車場に待たせてあった車に乗せられてしまった。
隣の座席に収まった花沢さんはふふふと声に出して笑っているから、何か変な振る舞いをしてしまったのかと不安になる。
「牧野、緊張しすぎ。
俺ってそんな信用ない?」
「いえ、あの・・・、私、乗り物に乗ると緊張してしまうんです。」
「ああ、そっか。そうだったね、ごめん。
歩いて行く方がいい?」
「・・・大丈夫です。」
「んー、牧野はいつだって大丈夫って言うんだよね。
じゃあ辛くなったら正直に言って。我慢せずに。」
「はい、ありがとうございます。」
花沢さんは少しだけ手元の携帯の画面を見つつ何かを考えてから、運転手さんに行き先を告げる。
走り始めて10分もしないうちに車は停まり、降りた所はお洒落なレストランの前だった。
花沢さんはよく知っている所のようで、気後れしている私をエスコートしてくれる。
案内された席は紫陽花が色とりどりに咲いている中庭がガラス越しによく見える個室のテーブル。
他の人の目がない事に少しほっとして、いつものお茶室以外の場所で花沢さんと2人きりなのに少なからず緊張している。
どこを見ていいのか分からず、窓の外の紫陽花に目をやると、向かい側から柔らかな声が投げ掛けられた。
「牧野、紫陽花好き?」
「あ、そうですね。
お花を見るのは何でも好きですが・・・。
紫陽花はピンクのより青い花のものが好きです。」
「ふうん・・・、そっか。」
また花沢さんがくすりと笑い声をたてる。
「辛抱強い愛情。」
「・・・え?」
耳に飛び込んで来る言葉が唐突過ぎて、どういう意図なのか・・・と花沢さんの横顔をそっと見遣った。
「青い紫陽花の花言葉。
まるで牧野みたいだね。」
そう言われても何と答えたらいいのか分からず、ただ目を瞬いていると、紫陽花から私へと視線を移した花沢さんがふわりと綺麗に微笑んだ。
何故かその笑顔が目に沁みた。
_________
総二郎先生とつくしのお話、再開です。
でも先生出て来なかった笑
更に、何その行動、サイテー!って感じ?
ここのところ色々あって…
ホントに色々あって大変だったんですけど。
またちょっとずつ書いていけたらと思ってます。
応援して頂けたら幸いです。
《追記》
スミマセン、タイトルの話数を間違えてたようです。
全ては暑さのせいよ…
この気温の高さは人をアホにするよね。
ぽちっと押して頂けたら嬉しいです!
ちらりとこちらの方に視線を投げる事すら無くなった。
以前のように話し掛けられる事も一切ない。
お茶のお稽古に呼ばれる事もない。
まるで私なんてここにいないかのように、私は空気になってしまったかのように、先生は振る舞われている。
それは身を切られるように辛い事だった。
実際に切れた掌の傷なんかより、よっぽど激しい痛みを感じる。
いつかそんな日が来るのだろうと、ぼんやりと想像はしていた。
いつの日か総二郎先生に添う人がここに迎え入れられ、若奥様と呼ばれ、一番近くで先生を支えるようになる。
先生はその人を、そしてその人との間に生まれてくる子供達を優しく見詰めるようになり、私の事など気に掛けなくなるのだろう・・・と思っていたけれど。
そんな時が来る前にこうなるとは考えた事がなかった。
そして、私は随分と自惚れていたんだと気が付いた。
総二郎先生は、いつも自分の事を気にかけて下さるのだと、壊れかけの身体と空っぽな記憶しか持たない可哀想な弟子に、優しく手を差し伸べて下さるのだと、勝手に信じて、いつの間にかそれに甘え、縋って生きていた。
お姿を垣間見れるだけでいい。
お声が仄聞こえるだけでいい。
同じ場で生きていられるだけでいい。
そう思っていた筈が、それだけでは全く足りなくなっていた。
総二郎先生という、手が届かないほど天高く耀く綺羅星のような存在に、ほんのひと時でも触れてしまったから。
一度触れたら、もう一度触れたいと望んでしまう。
もっともっと、1秒でも長くその煌めきをこの手の中に捕まえておきたい。
そんな過ぎた願いを持つようになっていた。
先生が私に構わなくなると、段々と身の回りがしん・・・と静かになった。
バケツにガラスが入れられるような事はもう起こらない。
掃除道具が隠されてしまって独り右往左往する事もない。
さっき磨いた筈の廊下が何故か水浸しになる事も無くなったし、纏めたはずの庭の塵がそこらじゅうに撒き散らされたりもしない。
まるで悪い夢から覚めたかのように、私には何も起こらなくなった。
毎日決められた仕事をするだけ。
そして一日が終わって、疲れ果てて眠り、また朝が来る。
そんな日々の繰り返しになった。
空な心を慰めてくれたのは、広い庭に植っている草木だ。
しとしと降る雨で庭の木々は洗われて、緑の色を一層鮮やかにし、晴れ間には空に向かって枝葉をぐんぐんと伸ばしていく。
柏葉紫陽花が若緑の蕾から段々と淡い色へと変わっていくのを、時折眺めた。
庭の睡蓮が華やかに花開いたのを、晴れた日に池の淵からぼうっと見詰めていると、束の間時間が経つのを忘れられた。
そうやって目の前にあるものに目を向けて、感情に蓋をしていないと、胸の中から激しい痛みが湧いてきて身体中を駆け巡り、立っている事すら辛くなるから厄介だ。
でも本当は、こうやって独り庭に立っていたら、また先生が話し掛けて下さるのではないか・・・と心のどこかで期待していたんだと思う。
私の切なる願いに反して、そういう事は一度も起こらなかった。
誰かにつん・・・と突かれたら、それだけで涙が溢れてきそうな程、目の淵がじんじんとしていたけれど、誰も私に構わなかったから泣く事もなかった。
総二郎先生に倣ったかのように、周りの人達は私とは距離を置き始め、広い邸の中でぽつんと独りきりのような気持ちになる。
自分の唯一の居場所だと思っていたお邸の中は、季節が夏へ近づいていくのとは逆行して、日一日と冷え冷えとしていくようだった。
それでも私は他に暮らす場所なんてない。
梅雨の空は、私の代わりに泣いているのかな・・・?
窓越しに雨が落ちてくる庭を見詰めながらそんな事を思う。
ただただ重苦しい時間を積み重ねる事以外、私に出来る事はなかった。
月に一度の通院の日。
幸いな事に少し太陽が雲の合間から見え隠れするような天気だった。
雨が降ると身体のあちこちが軋むように痛むから、そんな日に出掛けるのはとても大変なのだ。
雨ではない事にほっとしつつ、一日休みを貰って病院に行った。
特に良い話も悪い話もない、いつも通りの診察を受けた後、病院の中をゆっくりと歩いていたら、不意に常とは違う事が起こった。
エントランスを入った所にあるオープンカフェに座っているのは、花沢さんだ。
いつもの病院が、花沢さんとその周りだけ違う色で塗られているかのように、くっきりと浮かび上がって見える。
「牧野。」
花沢さんが私の名前を口にした。
声は聞こえなかったけれど、呼ばれたのが分かる。
驚いている私が何か口にする前に優しくにこりと微笑みつつ、花沢さんがこちらに向かって歩いてきた。
「どうしてこんな所に?とか思ってんでしょ。
あんた、顔に出すぎ。
西門に会いに行ったら今日は病院だって聞いたからこっちに来てみたんだ。」
「いつから待っていて下さったんですか・・・?」
それには答えず、花沢さんは笑いを深めた。
「ねえ、牧野。
今日は仕事休みなんでしょ。
疲れてないなら今から俺とデートしようよ。」
「そんな・・・、花沢さんはご予定がおありでしょうから・・・。」
「今日の仕事はもう終わりにした。さ、行こう。」
そう言われてもまだ戸惑っていた私の手をふんわりと捕まえて、花沢さんは歩き出し、どうしていいか分からないままついて行く格好になる。
「牧野、もうお昼ご飯食べちゃった?」
「あ、あの、まだ何も・・・。
いつもはお会計待ちの間に何か食べるんですけど、今日はすぐに順番が来たので・・・。」
「ん、丁度いいね。
何か美味しいもの食べに行こ。」
そのまま駐車場に待たせてあった車に乗せられてしまった。
隣の座席に収まった花沢さんはふふふと声に出して笑っているから、何か変な振る舞いをしてしまったのかと不安になる。
「牧野、緊張しすぎ。
俺ってそんな信用ない?」
「いえ、あの・・・、私、乗り物に乗ると緊張してしまうんです。」
「ああ、そっか。そうだったね、ごめん。
歩いて行く方がいい?」
「・・・大丈夫です。」
「んー、牧野はいつだって大丈夫って言うんだよね。
じゃあ辛くなったら正直に言って。我慢せずに。」
「はい、ありがとうございます。」
花沢さんは少しだけ手元の携帯の画面を見つつ何かを考えてから、運転手さんに行き先を告げる。
走り始めて10分もしないうちに車は停まり、降りた所はお洒落なレストランの前だった。
花沢さんはよく知っている所のようで、気後れしている私をエスコートしてくれる。
案内された席は紫陽花が色とりどりに咲いている中庭がガラス越しによく見える個室のテーブル。
他の人の目がない事に少しほっとして、いつものお茶室以外の場所で花沢さんと2人きりなのに少なからず緊張している。
どこを見ていいのか分からず、窓の外の紫陽花に目をやると、向かい側から柔らかな声が投げ掛けられた。
「牧野、紫陽花好き?」
「あ、そうですね。
お花を見るのは何でも好きですが・・・。
紫陽花はピンクのより青い花のものが好きです。」
「ふうん・・・、そっか。」
また花沢さんがくすりと笑い声をたてる。
「辛抱強い愛情。」
「・・・え?」
耳に飛び込んで来る言葉が唐突過ぎて、どういう意図なのか・・・と花沢さんの横顔をそっと見遣った。
「青い紫陽花の花言葉。
まるで牧野みたいだね。」
そう言われても何と答えたらいいのか分からず、ただ目を瞬いていると、紫陽花から私へと視線を移した花沢さんがふわりと綺麗に微笑んだ。
何故かその笑顔が目に沁みた。
_________
総二郎先生とつくしのお話、再開です。
でも先生出て来なかった笑
更に、何その行動、サイテー!って感じ?
ここのところ色々あって…
ホントに色々あって大変だったんですけど。
またちょっとずつ書いていけたらと思ってます。
応援して頂けたら幸いです。
《追記》
スミマセン、タイトルの話数を間違えてたようです。
全ては暑さのせいよ…
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