京都を代表する禅寺として京都五山にも数えられる京都市東山区の東福寺を訪れた人は多いだろう。京都駅からも近い大きな寺だ。この寺に伝わる国宝や重要文化財など、約200件を展示する特別展「東福寺」(読売新聞社など主催)が、東京・上野の東京国立博物館平成館で始まった。東福寺の収蔵品を」まとめて展示する特別展は初めてという。
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最大の見どころは「五百羅漢図」
注目は14年かけた修理を経て初めて公開される室町時代の絵仏師で「画聖」と称された吉山明兆(1352~1431)が描いた全50幅の大作「五百羅漢図 」だろう(期間中に展示替えあり)。特別展に向けた事前調査で、50幅のうち所在不明となっていた“幻の一幅”が、ロシア・サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に保管されていることもわかった。20世紀初めに日本の収集家を経てドイツ・ベルリンの美術館に渡り、第2次世界大戦中に旧ソ連軍に接収されていたという。
第1号幅の高精細画像は↡こちら
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すべてが規格外の大きさ
ほかにも2メートルを超える旧本尊の「仏手」をはじめ、特大サイズの仏像、書画などが出展されている。「圧倒的スケール、すべてが規格外」というキャッチコピー通り、「大」の文字がこれほど並ぶ展覧会も珍しい。
京都の禅寺には寺の特徴を示す「〇〇面」という愛称がある。相国寺は「 声明面 」、建仁寺は「学問面」、大徳寺は「茶面」。東福寺は「伽藍面」と呼ばれ、日本最古、かつ最大級の伽藍が立ち並ぶ。
なぜ九条道家は巨大な寺を建てようとしたのか
東福寺は摂政、関白を務めた 九条道家(1193~1252)が嘉禎2年(1236年)に創建を思い立った時、「洪基(大きな事業の基礎)を東大に亜ぎ、盛業(事業が栄えること)を興福に取る」を寺の理念とし、東大寺の「東」と興福寺の「福」の1字ずつを取って寺の名とした。奈良で最も大きい東大寺と、最も隆盛した興福寺をあわせた寺をつくろうとしたわけだ。
東福寺資料研究所の石川登志雄所長(京都産業大教授)は、鎌倉時代に藤原摂関家が九条家と近衛家に分かれたことを背景にあげる。「道家は、藤原氏全体の 檀那寺である興福寺や東大寺をしのぐ『九条家の氏寺』の建立を目指した。新興の仏教だった禅宗と、既存の仏教である天台・真言を統合した大寺院としたのも、自分こそが鎌倉時代の京都の宗教界における最大の実力者であることを誇示する意味があった」という。
東福寺にはなぜ桜がないのか
東福寺といえば通天橋から見える見事な紅葉が有名だ。特別展では、ほぼ実物と同じ寸法で再現された通天橋から見える紅葉の風景が巨大グラフィックで再現されている。
会場の東京国立博物館がある上野公園はまさに桜の季節。季節外れの紅葉ではなく、桜を再現すればいいのに、と思った方もいたかも知れないが、東福寺に桜はほとんどない。
明兆の描いた「大涅槃図」を気に入った室町幕府4代将軍の 足利義持 (1386~1428)が褒美を与えようとしたところ、明兆は「東福寺に桜があると、桜の名所として遊興の場になり、僧侶の修行の妨げとなる。桜を伐採してほしい」と願い出たためだという。
桜の代わりに植えられたもみじが名所となったが、普通はもみじの下で宴会はしない。「寺を遊興の場にしない」という明兆の願いは今も守られている。
そもそも通天橋も天授6年(1380年)に渓谷を渡る僧の労苦をねぎらって架けられた修行僧のための橋だ。幾たびもの火災や戦乱を経て、最盛期に100を超えていた子院・塔頭は25に減ったが、東福寺の巨大伽藍はなお、修行のためにある。
東京国立博物館での特別展は5月7日まで。東京展の後、京都国立博物館(10月7日~12月3日)に巡回する。くわしくは↡こちら 。
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