今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

三方ヶ原の合戦で家康とともに大敗した織田客将のその後

 大河ドラマ『どうする家康』主演の松本潤さんなどが参加した「浜松まつり」の騎馬武者行列が5月5日、浜松市で行われた。松本さんは沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振りながら、市の中心部を練り歩いた。

 『どうする家康』第17話「三方ヶ原の合戦」も主な舞台は浜松だったが、当然ながら、劇中の松本さんが演じる徳川家康(1542~1616)に全く笑顔はなかった。元亀3年(1572年)、阿部寛さんが演じる武田信玄(1521~73)に戦いを挑んだ家康は 三方原みかたがはらで「家康の生涯最大の危機」として知られる大敗を喫した。

読売新聞オンラインのコラム本文

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主戦場すらいまだに不明

 合戦の経緯などを記した良質の史料は残っておらず、三方原天竜川の西に広がる台地だが、その三方原のどこが主戦場だったのかすら、実はわかっていない。大河ドラマ時代考証を担当する歴史学者の平山優さんの近著『新説 家康と三方原合戦』の中でこの合戦をめぐる謎を再検証している。

三方ヶ原徳川治績年間紀事・初代安国院殿家康公 (国立国会図書館蔵)

信玄はなぜ家康の領地に攻め込んだのか、信玄本隊の進軍ルートはどの道か、家康はなぜ浜松城を出たのかなどについて、平山さんの精緻な分析に従って紹介した。詳しくはコラム本文をお読みいただきたい。

織田軍の客翔は出撃に賛成?反対?

 ここでは、コラムで紹介しきれなかった織田勢の動向を紹介したい。家康は当初、浜松城で籠城戦を計画していたが、る信玄におびき出される形で浜松城を撃って出る。

浜松城

 ドラマでは、岡田准一さんが演じる織田信長(1534~82)が派遣した立川談春さんが演じる佐久間信盛(1528?〜82)、寺島進さんが演じる水野信元(?~1576)の戦意は低かった。撃って出ても戦国最強の信玄に勝つ見込みは薄かったからだが、家康が出撃したのは、信長の援軍が出撃を促したからだ、という見方もある。

戦意が低かったのは監視役だったから?

 ドラマの中で家康は、兵力差を理由に思いとどまるよう進言する家臣を振り切って、「領国を通過しようとする者がいたら、どうしてとがめないことがあろうか。合戦は多勢・無勢が決め手ではなく、天道次第なのだ」と出撃を決める。この場面や台詞は『三河物語』の記述にほぼ沿っている。

 信長は、家康が信玄を浜松で食い止めてくれることを期待して援軍を送ったのだから、浜松城を攻めずに西に向かう信玄を攻めてもらわなければ困る。しかし、本気で信玄を食い止めるつもりなら、いくら余裕がなかったといっても、援軍が3000というのは少なすぎる。

三方ヶ原合戦布陣図(『武田三代軍記』国立国会図書館蔵)

 筆頭家老格の信盛はもっと多くの兵を動員できたはずだが、それをしなかったのは、信盛は家康が信玄と戦うかどうかを監視するのが役割だったから、という見方もある。監視役として派遣されていたなら、信盛の戦意が低かったのは当然ということになる。

 しかし、ただの監視役なら、筆頭家老を浜松に差し向けなくてもいいはずだ。やはり信長は家康が信玄を食い止められない時は、信盛が中心になって、援軍が主導権を発揮して何とかしてほしいと期待していたのではないか。

戦死、切腹、追放…織田客将の悲惨な最期

 援軍として送られた3人の織田家の客将は、いずれも悲惨な最期を迎えている。まず、平手汎秀ひろひで(1553~73)は三方原で戦死。三方原から敗走した信元は浜松に戻らず岡崎まで逃げた。『松平記』によると、信元は信長が武田に寝返った美濃(現在の岐阜県)・岩村城天正3年(1575年)に囲んだ際、岩村城に兵糧を入れた疑いをかけられ、家康から切腹を命じられる。武田への内通は信盛が信長に訴え出て発覚したという。

 信元は当時、三河(現在の愛知県)に石高にして20万石にのぼる領地を有していたとされ、信長と家康にとっては邪魔な存在だった。

追放される佐久間信盛と嫡男の信栄(『絵本石山軍記』国立国会図書館蔵)

信元を切腹に追い込んだ信盛も…

 信元が排除されて所領は信盛のものとなるが、その信盛も天正8年(1580年)、信長から19か条にわたる折檻状を突きつけられて追放されてしまう。19か条の中には次の1条があった。

 信長一代のうち戦に敗れたことはないが、先年、遠江に軍勢を派遣した時は、敵味方互いに勝ったり負けたりするのが当然だから、負けたといえば確かにその通りだった。しかし、家康の応援要請があったのだから、不手際な合戦をしたとしても、兄弟が討たれ、またはしかるべき家臣が討たれるほどの活躍をしたのならば、信盛は運がよくて生還できたのかと他人も納得してくれただろうに、自分の軍勢からは一人も討ち死にを出さなかった。にもかかわらず、同僚の平手汎秀を見殺しにして、平気な顔をしている。心構えができていないことは紛れもない事実である。(『信長公記』)

 信長が信盛を追放した最大の理由は石山本願寺の攻略で成果を上げなかったことにあり、しかも背景には織田家重臣を方面軍に再編成する配置換えがあったとみられる。理由のひとつに三方原での失態があげられているのだ。

 折檻状を見る限り、三方原で信盛がもう少し活躍していれば、ひょっとすると追放を免れることができたかもしれない。戦国武将にとって、戦いの負け方というのは、やはり重要なのだ。

 

 

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