大正時代「歴史と地理」の表紙は藤原太一の作品か

 以前に大正時代の学術誌の表紙デザインで、

東京の「歴史地理」と

京都の「歴史と地理」が

 際立って個性的であることを書いた。

 そして「歴史地理」は一時洋画家森田恒友がかかわっていたのではないかと推測し、「歴史と地理」の表紙(図上)を書いた人物は、京都の菓子、扇子などのデザインをした小西大東のような京都の伝統技術に関わる人物ではないかと推理したのだった。

 

 (表紙部分)

 「歴史と地理」のエジプト文明などをイラストにしたユーモアのある作品を描いた人物は、見当がついた。

 予想は外れ、有力候補は大正時代に関西で活動したグラフィックデザイナーの藤原太一氏(1900-1990)。長崎の福江島で生まれ、大阪の森下仁丹の前身森下博薬房の広告部、ベルベット石鹸広告部、カガジ化粧本舗などで広告制作の仕事をしながら、独学でタイポグラフィを学び、「図案化せる実用文字」(大正14年、大鐙閣)、「絵を配した図案文字」(昭和元年、大鐙閣)を刊行した人物だ。

 藤原氏のこれらの図案集は、当時広告業界で注目され、長年にわたり版を重ねたのだという。

 どうして彼が、「歴史と地理」の表紙の作者だと考えたか。

 一つは「図案化せる実用文字」の見返しに、エジプトの聖刻文字ヒエログリフのイラストが用いられていたからだ(下図)。「歴史と地理」の表紙と雰囲気が大変よく似ている。

 

 クレオパトラの絵のこんな広告図案もあった(「絵を配した図案文字」収録)。

 二つ目は、出版社大鐙閣とのつながりだ。藤原氏の著作は合資会社大鐙閣から2冊刊行されたが、「歴史と地理」も㈱大鐙閣から発行されていた。株式会社、合資会社と違い、住所も異にしているが、合資会社の方は、教育出版を手掛けた大鐙閣の一グループ企業だと推測された。

 

 京都の史学地理同攷会の機関誌として生まれた「歴史と地理」は、大正6年11月の創刊。藤原氏は同7年に18歳で森下仁丹広告部に採用されており、入社前の17歳の時に雑誌作りを手伝ったことになる。大正11年まで、5年間この表紙が使われた。

 おそらく、表紙だけでなく、数多いカットも藤原が書いたと思われる。 

 

 編集した粟野秀穂氏ら京都の学者グループと藤原氏とつながりがあったのか。あるいは、発刊にあたって大鐙閣から紹介されたのか。いきさつは分からないが、長年気になっていたことが解けた思いで、うれしいとともに、新たな疑問もわいてくる。

 大正、昭和の関西モダニズムアート、モダニズム広告を象徴する藤原氏の作品は、しばらく忘れられていたが、近来再発掘され1986年「昭和モダンアート3」で作品が復刻され、さらに2019年「大正タイポグラフィ」の刊行でさらに関心が高まっているようだ。

 1990年、90歳で天寿を全うされたが、幻のグラフィックデザイナーが若き頃、京都の学術誌でも闊達に活躍していたと想像すると、これもまた大変興味深いことだ。

 

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