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はとバス  08/12/2017  
幼稚園児の頃、オルガンを習っていた。
ピアノでなくオルガンである。
通っていた幼稚園でオルガン教室もやっていて、オルガンを弾いている他の園児を見て、
「私もやりたい。」
と、私がせがんだそうなのだが、勿論そんな事は覚えていない。

オルガン教室ではその季節に合わせた曲を弾くようにカリキュラムが組まれていた。
ところが私ときたら、自分で習いたいと言ったくせに、全然練習をしないものだから、他の子よりも進みが遅い。
12月、他の子達がジングルベルを弾いている時、私が何を弾いていたのかは覚えていないが、それから8カ月先の翌年の真夏に、汗をかきながらジングルベルを弾いていたのだった。


で、何が言いたいかというと、世の中では今、夏休みである。
本来ならば夏休みのことを書くべきなのだろうが、これから私が書くのは3ヵ月程前の、ゴールデンウィークのことである。

ゴールデンウィークに「はとバス」で東京観光をした。
「東京にいるのにどこにも行ったことがない。ワタシ、皇居を見てみたい。」
と夫(ネパール人)が言い、長年東京に住んでいるというのに、いざ皇居と言われても案内する自信がない。
私とて皇居なんて、小学校の遠足の時以来、行ったことがないのだ。
そこで「はとバス」に乗ることにした。
今でこそ私と夫の会話はオール日本語であるが、夫は日本語よりも英語の方が得意であり、また私も自分の英語力がどの位あるのか試してみたく、英語ガイド付き半日ツアーにした。
ツアー内容は、世界貿易センタービル、皇居、浅草、隅田川遊覧船である。

当日、はとバスは満席であった。
英語を話す日本人ガイドは私と同世代と思しき中年の女性で、乗客の大半は外国人。
若い人は少なく、大柄なアメリカ人の老夫婦がやけに目についた。
「みなさま、ご覧の通り今日は満席です。ひとりひとりに気を配ることはできないので、とにかく時間厳守でお願いします。」
というような案内がされ、まずは集合場所である世界貿易センタービルの展望台へ行く。

展望台から東京の景色を見、夫もご満悦であった。
そして、バスに乗り込み、次は夫待望の皇居である。

皇居では、「東京の中心地で、歴史的な建物と近代的な建物が立ち並ぶ、非常に珍しい風景・・・」といったような説明がされ、わずかな時間、撮影時間が設けられた。
各々写真を撮ったら、バスの中である。
「これで終わり?中には入らないのか?」
夫が私に小声で言う。
「バスに乗ったのだから中には入らないのよ。中が見れるのかどうか、知らないけどね。ところで、英語ガイドだと、やっぱり日本語よりよくわかる?私、英語は全然ダメかと思っていたけど、まあまあわかるよ。」
と言うと、
「この日本人の英語、ワタシ、全然わからない。この人とアナタ、同じレベル。」
「そんなことないよ。ガイドなんだからこの人はペラペラなはずだよ。」
「でも、さっき後ろのアメリカ人が何か聞いたら、あの人、『あなたの英語がわからない』って言ってたよ。」

ガイドさんの英語はよくわかるのだが、乗客の人が話している、所謂ネイティブ英語は私はさっぱりわからず、夫は乗客の人の英語がよくわかると言うのである。
不思議なものだ。

皇居の次は浅草である。
ゴールデンウィーク真っただ中だったからなのか、ここはいつもこうなのかはわからないが、物凄い人であった。
「ここからはフリータイプです。まっすぐ進むと浅草寺です。今から次の遊覧船乗り場の地図をお渡ししますので、○時○分には必ず遊覧船乗り場に来てください。」
と言われる。

小さな店が立ち並ぶ浅草は、ネパールの旅行客が集まるタメルという地区に似ていて、夫は小さな店をひとつづつじっくり見たかったようなのだがなにせ時間がない。
フリータイムといってもわずか20分。
しかも縫って歩くのも大変な人込みである。
浅草寺で手を合わせ、地図を見ながら遊覧船乗り場に行くだけでフリータイムは終わる。

そして最後の遊覧船乗り場が、これまた長蛇の列なのである。
各ツアー会社の外国人客とゴールデンウィークに浅草に遊びに来た日本人でごった返し、私も夫も完全に『人酔い』し、ボーっとしたまま船に揺られていた。

私にとっては英語に触れたいい機会ではあったが、
「どこも見れなかった。シンガポールの時と同じだ。(過去のブログに書きましたが、ツアーに参加し、せかされて移動しただけでした)だからワタシはツアーは嫌いです。今度はもっとゆっくり見たい。」
夫にとって『はとバス』は不服だったようだ。
確かに移動しただけ。
移動しただけだというのに、どーっと疲れるツアーなのであった。

で、夏休みはというと、今のところどこにも行く予定がない。
夫のことはそのうち書こうと思うが、夫の仕事は一昔前の言葉を借りれば3Kに近い。
3Kはきつい、汚い、危険らしいが、夫の職場はきつい、汚い、安い、暑い、そして人手不足で連休がなかなか取れないと5Kである。
夫に連休がないから私達はいつも家でダラダラと過ごし、行く場所といったら、徒歩2分の所にある大型量販店なのである。


先週の日曜は、いつものようにラニ君(セキセインコ)の通院日でした。
「お宅は大丈夫だと思いますが、今年の夏は熱中症になるヒトが多いです。昨日も熱中症で脱水症状になったヒトが来ましてね。来た時からぐったりしていて、ダメだろうなと思ったのですが、注射をしてもやっぱりダメで、今朝亡くなりました。32度の所にずっといたらしく、飼い主さんは毎年そうだったというのですが、やはり32度にもなるとダメですね。」
と、先生が仰いました。
「インコって、元々オーストラリアの暑い所にいるから、暑さには強いとよく本に書いてあるのですが・・・。」
私が言うと、
「そうなのですが、野生のヒト達は涼しい所に移動しているので、ずーっと暑い場所にいるわけじゃないんですよ。飼われているヒトは移動ができないので、ある程度飼い主さんが気をつけてあげないといけませんね。」
「うちはこの子の為に24時間冷房つけっぱなしです。」
と言うと
「その方がいいです。」
と先生。

今日、いつものように徒歩2分の所にある大型量販店へ行き、小鳥売り場を見ました。
セキセイが沢山いましたが、ラニ君より器量のいい子がいないと思ったのは、きっと親馬鹿だからでしょう。
そして、衝動買いをしてしまいました。
ラニ君のおもちゃです。
おもちゃは沢山あるというのに、つい買ってしまうのです。
しかもラニ君のための物は悩まずに買えます。
まるで孫を甘やかすおばあちゃんですね(笑)

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日曜の朝のラニ君はいつもこうです。
見ていないふりをしてパンに近づくのです。

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そして隙あらばガブッとパンを食べるのです。


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お腹が満たされるといつも夫の肩に止まります。
肩に止まるだけではなく、夫の肩でフンもします。(笑)


















インコだぁーい好き | 旅行回想記  | TB(0)  | Page Top↑
骨隆起切除術が終わるまで暫く安静、といってもお口の安静ではあるが、出勤日数を半分に減らした。
すると普段は絶対にみれないテレビ番組がみれ、『Youは何しに日本へ』なんて番組もみれるわけで、若かりし頃のリュック背負ってひとり旅をしたことを思い出す。

今からざっと20年位も前のことだが、昨日のことのように、とはいかないまでもよく覚えている。
場所はネパール。
「どうしてネパール?」
とよく聞かれるのだが、インドとチベットの間にある国だったからというのが理由である。
昔も今も、死ぬまでに行っておきたい国はインドであり、なぜにインドかといえば、私は旅行記や海外もののテレビ番組をみるのが好きで、とりわけ楽しませてくれるのがインドなのである。
それに当時は瞑想やらチャクラがどうのこうのといった精神世界や悟りといった本もよく読んでおり、ま、20代だったから色々なことに悩んだり迷いがあったのであろうが、そちらの世界に少しばかりハマルと『瞑想=インドでしょ』てなイメージを勝手に作ってしまったということもある。

当時はまだパソコンは普及していず、頼りはガイドブックであった。
『地球の歩き方』のインド編を買ったものの、精神世界に興味があったとはいえインドで瞑想するなんてところまではハマっていず、いざとなるとインドのどこへ行っていいのかわからない。
特に行きたい所などないのである。
それにインドは大国だからしてガイドブックは分厚いし読むのも面倒になってきた。
「こんな重いガイドブックを持ち歩くのは嫌だ!インドは次の機会にしよう」
インドはあっさり断念した。

インドの次に行きたい国はチベットであった。
なぜチベットかというと、さすがに20年も前のことだから覚えていない。
私のことだから大方テレビでみたとか、深い理由はなかったはずだ。
『地球の歩き方』チベット編は持ち歩くには丁度いい厚さではあったが、ガイドブックを斜め読みする限り、チベットに行くには中国経由で入るのが一般的なようで、ホテルやレストランの名前は中国語が多く、ガイドブックの中には漢字が多い。
大学生の頃、私は中国語を選択していたのだが、これが滅法苦手で、中国語を見るだけでゾゾっとしてしまい、チベットのガイドブックは読む気がおこらない。
それに旅費が高いということもわかり、
「いつか機会があったら」
とこれも断念。

「さてどこへ行こうか」
購入したインドとチベットのガイドブックについていた地図を眺めていたら、両国の間にネパールという国を見つける。
恥ずかしながら当時私はネパールがどこに位置するのか、エベレストがある国がネパールだということすら知らなかった。
早速『地球の歩き方』ネパール編を買うと、インドとチベットの両方の文化が入り混じっているように思え、なによりガイドブックが読みやすく、持ち運ぶのにも丁度いい厚さ。
「面倒だから、ここでいいや」
行先が決まった。
丁度ネパール旅行のベストシーズンである10月だった。

旅行期間は2ヶ月ちょっと。
仕事を辞め、失業保険の申請をし、実際失業保険がおりるまでには3ヶ月ある。
通常その間は就活をしなければならず、1ヶ月に1度ハローワークへ足を運ぶようなのだが、当時は、もう忘れてしまったが、失業保険を貰ったのだから毎月ハローワークに顔出しする必要はなく、3ヶ月後だけ顔出し必須だったのだろう。
この失業保険を貰うまでの期間を利用して旅行に行くことにしたのだ。
これが今だったらやっきとなって職探しをするのだろうが、実家暮らしの若者(私のこと)はお気楽だった。

ひとりで行くことにしたのは、彼氏もいなければこんなに長い期間を付きってくれる友人もいず、もっとも女同士の旅行は長くても1週間が限界だと思っていた。
生活環境の違う者同士が長い期間狭い空間に一緒にいるとろくなことがない。
初めはいいが徐々に不穏な空気が流れ、旅行に行って絶縁になったという話はよく聞く。
それに「ひとりでないと意味がない」と、それまで読んでいた『ひとり貧乏旅行記』に大いに感化されていた。

今は運行していないが当時は関空から上海経由でネパールへ行くロイヤルネパール航空というのがあった。
これを使えば9時間ですんなりネパールへ行けたのだが、貧乏旅行記を読み過ぎていたせいか、「直行便を使うなんて邪道!バッグパッカーはタイ経由で行くべし」と信じて疑わなかった私は、成田からバンコクまでは一番安いパキスタン航空、タイで1泊し、翌日タイからネパールまではロイヤルネパール航空を使うことにした。
ついでに、やはり初めてのひとり旅に不安があったので、タイでの1泊、ネパールの空港出迎えとホテル2泊も日本の旅行会社で手配した。

            
パキスタン航空に搭乗した瞬間から外国であった。
海外旅行は初めてではなかったが、引率の人について歩けばいい旅行しか経験がなく、機内の隣席には友人がいた。
ところがこのパキスタン航空にひとりで乗ったら、右も左も前も後ろも、どこの国の方々なのかはわからぬが、見渡す限り外国人しかいず、日本人が見当たらない。
おまけにどこの国だかわからぬ方々はみんな知り合いなのかと思うほどよく喋り、よく席を立つ。
後でわかったのだが、よく席を立つのは機内の後方にある飲み物を取に行っていたのだ。
最初の1杯はフライトアテンダント(当時はスチュワーデスと呼んでいた)が配ったが、その後は「喉が渇いたなら勝手に取って勝手に飲んでくれ」といったセルフサービスだったのである。
そんなこととは知らなかった私は、喉が渇いてもひたすら我慢。

離陸して3時間位たつと、周囲の方々がゴソゴソと立ち始め、降りる準備をしていると私にもわかった。
タイまでは7時間位かかるとガイドブックに書いてあったし、航空券を手配した旅行会社の人もそう言っていた。
それなのに何故みな降りる準備をしているのか。
思い切って隣の女性に聞いてみることにした。
とはいえ何語を使うべきなのか、英語だってろくすっぽできない。
しかし聞かないことには胸のうちにある不安が消えないので英単語のみで「どこ?」と聞くと
「マニラ」
「え-------------------!マニラ??? なんで、なんで、マニラなの!」
心臓が口から飛び出しそうになった。
飛行機を乗り間違えたと思った。
「待てよ、待てよ。乗った所は成田であり日本だ。間違っていたのなら止めてくれるはずだ。でもマニラにいるわけで、マニラで降りて日本に引き返すべきか。待てよ、待てよ。マニラのどこで、何語で航空券を買うんだ」
自問自答をしているうちにマニラに着き、皆、続々と降りていく。
私はというとオロオロしながら、とりあえすフライトアテンダントに聞くことにした。
とはいえフライトアテンダントは外国人である。
「飛行機を乗り間違えたかもしれません。どうしたらいいでしょうか?」
と聞きたいところだったがそんな英語は出てこず、
「バンコク」
と航空券を突き出すと、あちらも、こいつ英語ができんのだなと察したらしく
「ネクスト」
と言い、私を座席に誘導した。

マニラを発つと私の周囲は空席だらけとなり、遠くにひとり座っているだけとなった。
シートの前のポケットに入っていたパンフレットを初めて手に取り、穴が開きそうなくらい眺めてみたら、どうやらこの飛行機はマニラ、バンコクを経由してパキスタンへ行くということがわかった。
考えてみればパキスタン航空であるからして、最終の行先は当然パキスタンなのだが、こんなことすら知らなかった私であり、先が思いやられた。

バンコクに到着したのは現地時間の夕方。
湿気を帯びたムワーッとした暑さだった。
当時のタイの国際空港はドンムアン空港で、日本で手配したホテルは空港に隣接しているアマリエアポートホテルだった。
私が希望したというより、私のような初心者はここがよかろう、ここしか考えられないぞ、といった感じで半ば自動的に旅行会社に決められたのだ。

出口にたむろしている客引きを振り切り、空港内をウロウロと歩き回り、上方に『アマリエアポートホテル』の看板を見つけた。
「あった、あった。隣接だもんね」
と思い、看板の下い行ったものの、そこにホテルの入り口もなければ案内表記もない。
どこか他に入り口があるのかと思い空港内をうろついてみたが看板が出ているのはそこだけ。
空港で働いていると思しきタイ人を3人捕まえ、「アマリエアポートホテルはどこ?」と聞いてみたが、返ってきた答えがタイ語なのか英語なのか、さっぱりわからない。
3人共私が見つけた看板を指さすだけ。
「それはわかっているんだって。そこから先なんだよ、わからんのは」
と心の中で叫ぶ。
約10キロのリュックが肩に食い込み、痛いは重いは暑いはで、早く下ろしたい。

タイ人なのか他の国の方なのかはわからないが、スーツ姿の男性を捕まえまた聞いてみた。
「アマリエアポートホテルはどこですか?」
看板の真下で聞くのもおかしなものだが、聞くしか手立てがない。
男性は上にある看板にチロッと視線をやり、私の乏しい英語力で何を言いたいのか察してくれた。
ついてきてといった身振りをし、エレベターに乗り、ながーい渡り廊下を歩き、エスカレーターを下るとエアポートホテルの受付に到着。
空港隣接のホテルに着くのに1時間かかったのだった。

喉がカラカラだった。
部屋の備え付け冷蔵庫には冷たい飲み物が沢山入っていた。
が、これに手を出せない。
バーツに両替していなかったし、ドルは持っていたが、チェックアウトの時に英語を使わなければならない。
わずか数時間で私はすっかり英語恐怖症になっていた。

バスルームに『Free』と書いてある水があった。
「フリーって、ただだよね。本当にただだよね」
何度も確認し、辞書までひき、その水で喉を潤した。
ぬるくてまずかった。

お腹はすていなかったが何か食べておいた方がよかろうとロビーに降りた。
レストランはあるのだが、食事をしているのは外国人、といってもここでは私も外国人なのだが、英語に困らなさそうな肌の色が白い人ばかり。
入るのが躊躇われた。
親切なスーツの男性が案内してくれた渡り廊下を歩き、エレベーターに乗り空港に戻る。
空港にある指をさすだけでいいファストフードのような店でパンとコーヒーだけをお腹に入れまた来た道を戻る。

部屋に戻ると何もすることがなかった。
今更勉強したところで遅いのだが、1冊だけ持ってきた英会話の本を開く。
正直日本に帰りたいと思った。
帰って、英語を勉強してから出直したいと思ったが、航空券の日にち変更をする英語力もなく、そんな英語力があるのなら帰る必要もない。
気持ちが高ぶっていたのかその日は一睡もできなかった。

翌日、早めにチェックアウトし、余裕を持ってロイヤルネパール航空の搭乗手続きをした。
免税店も見ず、余裕を持ちすぎたくらい早く搭乗口に着き待機。
搭乗時間が迫ってくると、何度もアナウンスがあり、どうやら番号を呼んでいる。
何の気なしに搭乗券を見たら、「ゲッ!もしや、さっきから呼ばれているのは私ではないか!」
空港税を払っていなかったのである。
いや、空港税を払うことは知っていたのだが、どこで払うのだろうと思いながら歩いているうちに、搭乗口に着いてしまったのだ。
その場で空港税を請求されるがバーツを持っていなかったのでドルで払う。
お釣りを持ってくると言ったきり制服を着たお姉さんはなかなか戻って来ず、最後と思われる人も搭乗し、私だけが椅子に座らせられている。
「ドント・ウォリー、ノープロブレム」
と何度も言われるが、私だけ置き去りにされるのではないかと不安でいっぱいだった。
ドルはないからと、お釣りはバーツで返ってきた。
心に余裕がなく、釣り銭を数えることもせず、バーツを財布に突っ込んだ。
最後に搭乗し、飛行機は40分遅れでバンコクを発った。
遅れたのは私のせいだったのだろうか。

ロイヤルネパール航空で隣の席だったのはバンコク在住の日本人男性だった。
彼は新聞記者で、エベレストで雪崩が起こり、犠牲者の中には日本人もいて、その取材に行くとのことだった。
「あなたも気をつけて」
と言われるが、エベレストに行くつもりはなかったので、私が雪崩に巻き込まれることはないと思われた。
後に母から日本でもこのニュースは大きく報道され、心配していたと聞かされたが、私の心配は次なる関門、ネパールでのビザ取得という小さなことだった。
ビザは日本でも取得できるがネパールの空港でも取得でき、ネパールで取得した方が安いので多くの旅行者が空港で取得する。

ネパールのトリブバン国際空港は小さく、独特のにおいがした。
けれどもをそれが何のにおいかはわからず、何のにおいなのか考えている余裕は私にはない。
丸いテーブルがいくつかあり、その上に紙が散乱している。
「ビザ申請用紙って、これ?」
周りを見るとみなパスポートを手にしこの紙に記入をはじめているので、このゴミのような扱いをされている紙がビザ申請用紙とわかったが、こういった用紙は箱の中にきちんと納まっていると思い込んでいた私には驚きであった。

用紙を一瞥しギョッとなる。
当然のことながら用紙にびっしり並んでいる文字はアルファベットである。
何が書いてあるのか全然わからない。
だがこの用紙を埋めなくてはならず、辞書を取り出すがわからない単語を全部辞書で調べていたら日が暮れてしまう、いや日が暮れてもできなさそうなのである。
英語圏或は旅慣れていると思しき方々はさっさと書き終え、ビザ申請カウンターは長蛇の列ができている。
途方に暮れている時、私よりも若いと思われる白人の可愛い女性に声をかけられる。
両替をしたいからバックを見ていて欲しいと言うので、私は快く引き受けた。
両替を終えた彼女に「申請用紙が書けなのよ。助けて」と身振り手振りで伝えると、彼女はサラサラとビザ申請用紙を書き上げてくれた。
ビザ申請は最後尾であり、2時間かかった。

出口に着いたところで「Youは何しにネパールへ?」とインタビューを受けることなど勿論なく、私を待っていたのはあどけない顔をした十代と思しき青年だった。
「遅かったですね。もう来ないのかと思いましたよ」
青年は流暢な日本語を話し、この青年が空港出迎えであった。

タクシーに乗り、日本から手配したホテルに向かう。
行きかう車は砂埃をあげ、綺麗な色の服を纏った女性、ぼんやり座っている男性、鶏もいれば犬も歩いており、のっそのっそと牛まで歩いているのが車窓から見えた。
なんだかこの国、好きだなと思った。

と、ここまで書いたもののこの続きを書くことができるのだろうか。
思えば沖縄旅行も沖縄に着いたまでは書いたもののほったらかしである。
ま、いいとしよう。

一人旅 | 旅行回想記  | TB(0)  | Page Top↑
なんてこった!
飛行機に乗り遅れるなんて。
それも余裕を持って羽田に着いたというのにだ。

羽田に着くと
「おなかすいた。ラーメン食べたいです」
と夫。
羽田でラーメンを食べるのが夫の楽しみだったらしい。
ところが手続きを終え、搭乗口付近に入ってしまうと、ラーメンが見当たらない。
結局軽食を置いている店で、夫はミートソーススパゲティーを食べ、腹痛に怯える私は紅茶をすする。
腹が満たされると
「トイレ」
と夫。
なかなか出て来ない。
食べたらすぐに催し、便秘とは無縁の男である。

しかし飛行機に乗り遅れたのは夫のせいではない。
国際線の場合、搭乗口に行く時間がしっかり印字され、ご丁寧にグルッと丸をしてくれたりするものだが、国内線チケットには○時○分発と印字され、横に15分前までに来るようにと書いてある。
その15分前を見落とし、私は完全に勘違いしていた。
出発時間までに搭乗口に行けばいいと。
そう、悪いのは私なのだ。

夫がトイレから出てくると、さすがに時間が迫っている。
歩く歩道の上を走る。
目に見える限り、搭乗口はそう遠くないと踏んでいたのだが、我々の搭乗口のひとつ前の番号でプツッと終わり、更に先に進めと矢印がある。
我々の搭乗口は羽田の端であった。
息を切らせて着いたのが出発2分前。
「間に合った」
と思いきや
「お乗りできません」
「えっ!でも目の前に飛行機が・・・」
「搭乗は終わりましたので、次の便になります」
「つ、次って・・・、お金は・・・」
恥ずかしながら、つい金の心配をしてしまう私。
「幸い次の便に空席がございます。急いで来られたようですし、次の便にお乗り下さい。但し今回は特別でございます。次からは気をつけて下さい」
ほっと胸をなでおろすと
「次の便は30分後でして、搭乗口が変わります。今、来られた所を戻り、バスに乗って頂きます。少し距離がありますので今すぐ向かって下さい」
羽田の端から端へまた急ぐ。

「アナタ、お金って言うから、ワタシ恥ずかしいでしたよ」
小走りする私に夫が言う。
「そんなこと言ったって、しょうがないじゃない」
ムッとする私に
「出発の時間、飛行機、出発ですよ。階段ありませんよ。でもワタシタチ、ラッキーでした。それから何も問題ない」
いつもながら能天気なネパール夫である。

無事次の便に搭乗し、羽田を発って少しすると無料の飲み物が配られる。
体調の悪い私は当然ながらお茶、というより水、お茶、ポカリしか飲めない状態だ。
夫はというと
「ワタシ、ビール飲みたいです」
「ビールはただじゃいんだよ。お金がかかるの」
「わかっています。ワタシ、飛行機でビール飲むのが、大好きです。あと、ちょっとお腹もすいているから、スープ飲みます」
私がお茶をすする横でプシュッとビールをあけ、スープで腹を満たす夫。
胃が満たされると今度はANAのカタログを開き、男性用腕時計に釘付けになる。
一緒になって見ようものならえらいこっちゃ。
買う羽目になりそうなので、
「私、お金ありませんよ」
先手を打つ。


羽田から沖縄まで2時間半。
沖縄は曇り空だった。
ムワーっと湿度がやや高く、去年行ったシンガポールを思わせる。

ホテルまではリムジンバスで行く。
所要時間70分、1時間に1本だ。
70分もかかるのだから、行きたい行きたくないにかかわらず、私はトイレに行く。
「1時間かかるんだからね。トイレに行かなくていいの」
と念押しする私に
「大丈夫」
と言う夫。
飛行機に乗り遅れたからして、余裕を持って10分前にバス停に到着。
バスはまだ来ていない。
「まだ時間ありますね。ワタシ、トイレ行きます」
「えっ!さっき大丈夫って」
私が言い終わる前に、夫はスタスタと来た道を戻る。

沖縄には沖縄時間があると聞いたことがある。
バス停にいる案内の男性に
「バスは丁度の時間に出発するんですか?」
馬鹿みたいだが、一応聞いてみたら
「丁度の時間に出発しますよ」
「あの、今、ひとり、トイレに行ったんですけど」
「まだバス来てないし、時間あるからね」
沖縄独特のアクセントで返事が返ってきたが、夫がなかなか戻って来ない。
そうこうするうちにバスが来た。
バスに乗り遅れずにはすんだものの、自分の時間で動く夫。


那覇市内から市外へバスが進むと
「沖縄、ネパール、そっくりです」
夫が車窓からの景色をネパールに似ていると感嘆する。
コンクリートの四角い家が多く、確かに似てると言われれば似ている。
この理由は最終日にわかったのだった。

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楽しみにしていた沖縄旅行が終わってしまった。
「もう一度行きたい」
旅行から戻るといつもこう思うものだが、今回の沖縄はその思いが一段と強い。

旅行を計画したのは5月末頃。
私にしては随分早くに計画した。
場所を沖縄にしたのは
・我の死ぬまでに行っておきたい場所リスト国内第一位である。
・国内ならば、夫(ネパール人)のビザの為に奮闘する必要がない。
・夫の国に海はなく、日本で遠くから海を見たことはあるが入ったことはない。
 夫を海に入れて驚かせてやりたい。と同時に、私自身、かれこれ20年近く海に入っていない。

旅行会社でパンフレットを漁り、沖縄のガイドブックも買い、沖縄のことをすこーしばかり知ると、我々には致命的な問題があるとわかる。
沖縄はどこに行くにしても車で移動するらしく、我々二人は免許を持っていない。
従って、ホテルからビーチまで車で5分、なんて所ではダメなのである。
車で5分ということは、徒歩だと30分はかかるであろう。
ホテルの目の前がビーチでなくてはならない。

私なりにあれこれ調べ、予算も考慮した上で、宿泊先はリザンシーパークホテル茶谷ベイにした。
ここはホテルの目の前がビーチであり、ホテルからシュノーケリングやカヤックが予約できる。
4泊5日中、3泊はリザン、最終日は那覇市内に宿泊。
青の洞窟シュノーケリング、マングローブカヤック、玉泉洞と蛇のショー、そして沖縄に行くからには首里城は見ておきたい。
時間があったらこれにビオスの丘と第一牧志公設市場で食材漁りを加える、というのが我が旅行計画である。

旅行に行く2週間前のこと。
胃の調子がどうもよくない。
しかしこれはいつものことであり、胃薬ならばたんまり持っている。
4、5日程食事に気をつけ、よくなったと思ったら今度は下痢に襲われる。
下痢になるなんて久しぶりだ。
ちょっと緩いどころではなく、完全に水である。
一晩寝てもよくならなかった為、翌日近所のかかりつけの病院へ行き、下痢止めを貰う。
下痢がおさまったら、翌日から胃がムカムカし、またかかりつけ病院へ走る。

4日たち、なんとか回復したと思ったのもつかの間。
旅行の2日前の夜のこと。
旅行の準備をしていたら、突然お腹がチクチクと痛むではないか。
横になっていればそのうち治るだろうと思ったが、夜通し痛くて眠れない。
翌朝一番に、今度は近所の総合病院へ行く。
血液検査をしたが炎症反応は出ていず、医者も原因がわからないと言う。
「明日から旅行に行くのですが・・・」
私が持っている胃薬、下痢止めを医者に見せると
「ま、これだけ薬を持っているのなら、症状にあわせて薬を呑めばいいんじゃない」
と、いとも簡単に言われるが、目下抱えている悩みは腹痛だ。

腹痛を止めるには、一般的にはブスコバンという薬が処方されるらしいが、私は右目に緑内障がある。
厄介なもので、緑内障があると薬の制限がある。
後に眼科医に確認したところ、私の緑内障の場合ブスコバンを服用しても大丈夫だったのだが、この時処方されたのはボルタレン座薬。
お尻から薬を入れるなんて・・・、子供の時に経験があるようなないような。

一日安静にしていたら、腹痛はおさまった。
しかし不安である。
されとてキャンセルはしたくない。
思えばここ2週間、お粥とうどんしか食べてない。
食欲もなければ空っぽの胃のまま、リュックに大量の薬を詰め込んで、沖縄に向うことになったのだった。


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『はじめてのFC2ブログ』という本を傍らに置き、何を書くべきか考えている。
なにせブログ初心者だし、パソコン音痴ときている。
その上、凡人(私のこと)の日々なんて淡々としたものだ。
大きな変化もなければ、なまじ事が起こると、大抵ろくでもない事だ。

例えば数日前のこと。
仕事をしていたら突然妙な咳が出始めた。
「こりゃ、まずい。風邪か?」
季節の変わり目である。
電車の中もマスク人間が増えている。

帰宅し、夕食を食べたら即、風邪薬を呑んだ。
「明日、起きたら喉が痛くなっていたら、間違いなく風邪だ」
と思いながら床につく。

翌朝、喉は痛くない。
そのかわり、首が痛い。
痛くて回らない。
横を見るにもロボットの如く体ごと横を向かなくてならない。
出勤し、仕事をしているとますます痛くなってきた。

その翌日は貴重な休暇であった。
依然として首は痛い。
病院に行くべきか悩みどころだ。
数日もすればよくなるような気もするが、明日は仕事があるし、今週末は3連休ではないか。
それに、3年程前、やはり首が痛くなり、骨だか骨と骨の間だか、よくはわからないが変形している診断された。
所謂老化らしいのだが、それが進行しているとも考えられる。
更に、我が母もその昔、同じような症状で寝返りがうてなくなり、首に添え物をつけたことがある。
どうも親子揃って首が弱い。

考えた末、病院へ行った。
レントゲンを撮り、延々待つ。
「3年前とそう変わりませんね。ま、変形していますから、今後も痛くなったり手がしびれるようなことはあるかもしれませんね。今回のは・・・、寝違えか、長時間同じ姿勢でいて首に力が入ったのか・・・。心配するような病気ではありません」
寝違えに半日費やし、財布からは5千円近いお金が消えた。
とほほ・・・

と、ここまで書いたものの、首のことなどどうでもいい。
忘れないうちに書き残しておきたいことがある。
遡ること数ヶ月前。

「旅行に行きたい!国内じゃなくて、海外に行きたい!」
今にはじまったわけではないが、無性に旅行に行きたくなった。
思えば、もう何年も飛行機に乗っていない。
理由はいくつもあるような気もするが、今思いつくのは三つ。

1・金がかかる
あたりまえのことだがお金がかかる。
それに非正規雇用の日銭を稼ぐ身だからして、休みを取れば、当然ながら給料が減る。
有給休暇を取るという手もあるのだが、一、二日ならまだしも、それ以上となると・・・、取りづらい。
夫(ネパール人)はというと、これまた時給なんぼで働いている。

2・疲れそう
休みを取ったとしても、せいぜい一週間。
移動日を除くと、滞在期間は四、五日だ。
元を取らねばと、毎日駆け回ることは容易に想像がつき、帰って来て出勤する日のことまで容易に想像がついてしまう。

3.きっかけがない
元来腰が重いし、出不精だ。
長らく旅行に行っていないと、理由でもない限り、重い腰はなかなか上がらない。


以上のような理由で、いつもの如く日々は過ぎ、半年以上たったある日のこと。
「みなさん、来月は出勤日数を減らして下さい。ご協力下さい」
職場で、かような発表があった。
「ひぇ~、給料が減る!出勤日数を減らせって、何日減らせばいいんだ」
悲しきかな、凡人の脳裏をよぎったのは、金の心配である。
仕事をしながらも、どうしてもカレンダーを睨んでしまう。
金の計算をしながら、どの日を休むか考えているうちに、だんだん面倒になってきた。
「休めというのだから、ドバッと休んでしまえ」

仕事帰りの電車の中から
「会社が休んでくれって言うから、旅行にでも行こうかな?」
スープがぬるくなる程度の近場に住む母に、『?』マークをつけてメールを送ったら
「いいんじゃない。そんなことでもないとなかなか行けないのだから。私も連れてって
母は大いに乗り気になっている。

帰宅し、夫(ネパール人)に
「来月、会社が休んでと言うから、ママ(夫との間の我が母の呼び名)と旅行に行くかも」
と言ったら
「いいよ。時々、休むがいいダヨ。ワタシも行く。旅行に行けば電気代がかからないからいいダヨ」
(夫の日本語はちょっと変です)
電気代より旅行代の方がずっとかかるというのに。
この男はいつも能天気なことを言い、私を逆上させる。


旅行に行くと決ったものの、問題は行き先、いや、夫のビザだ。
来月といったって、もう一日、二日で来月に突入する。
しかも後半からは旅行代金が跳ね上がる時期である。
行くのであれば、旅行代金が少しでも安いうちだ。

夫がビザを取らずに行ける国を軽く調べたら、ネパール・インド・シンガポール。
そして、過去の経験上、タイはビザは必要だが、比較的簡単に取れる。
消去法で決めることにした。
夫の自国であり、私も母も行ったことのあるネパールがまず消え、次に母が行ったことのあるタイが消え、インドとシンガポールが残った。
私と母がそそられるのは断然インドなのだが、
「インド、ゼッタイ、イヤです
夫が猛反発した。

中国とインドの間にあるネパールは、中国よりもインド色の強い国だ。
夫曰く、インドなんて自分の国に行くようなもの。
そんなわけで、消去法で残った国に行くことになった。
これまで一度も行きたいと思ったことのない国に、私も母も、なんかピンとくるものがないのだが、能天気な夫だけがピンときているようなのだ。


行き先が決まったところで
「あんたが決めたプランに、ワタシタチ、ついていきます」
母も夫も私任せ。
格安航空券だけ買って安宿に泊まるか、旅行会社のツアーにするか、ネットと旅行会社のパンフレットで調べるが、これまた面倒くさいし、時間もない。
長期旅行ならまだしも短期旅行だ。
「終日自由行動のツアーでいいや」
早速、某大手旅行会社に電話をかけると
「スマップのCMで急に人気がでましてね。安全な国ですから家族旅行も多くて」
私の決めた出発日はどの便も満席だ。
そうとわかると、不思議なもので、なにがなんでも行きたくなる。


空席のある日を調べてもらったら、旅行料金は少しばかり上がるが、JALに空席があった。
「それでいいです」
即答した。
ホテルは私の独断で、リトルインディア地区にあるパーク・ロイヤル・オン・キッチナー・ロードにした。
「シンガポールに行くのに、なぜ、インドなんだ」
夫がブーブー文句をたれたが、
「イヤなら行かなくていいです。ひとりで家にいて下さい」
と反撃してやったら、夫は静かになった。


こうしてなかばヤケクソのきらいもあるが、バタバタと三人でシンガポールへ行くことになった。
父はというと、この人は海外旅行には興味がない。
第一パスポートを持っていない。
それに実家には三匹の猫がいて、そのうち一匹の長老猫はオムツをつけている。
誰かが犠牲にならねばならず、猫の世話は父に任せることになった。


職場には、旅行に行くなどとは言わない。
静かにこっそり行くのである。



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