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抱きしめようとするなんて片腹痛いわ……相手が

 顔立ちの整ったドSな王子から「早く来い」と強引に手を引かれ、下校途中に人気のない場所へ。

 舞台は乙女ゲームの中で、私の手を引っぱるのはメインの攻略対象者。


 女の子なら夢見るシチュエーションの一つかもしれないが、これはそんな色っぽい話ではない。

 私の二の腕をひっ掴んで「いいからくるんだ」と足早に歩を進めているのは、学園内では王子で通っている私の元婚約者殿だ。さらに彼へ寄り添ってこっちを絶対零度の視線で睨んでいるのはヒロイン。いつも揃っていれば幸せそうな雰囲気の二人からは甘さが抜け落ち、引きつった表情を取り繕えていない。

 しかし美男美女のカップルだが、二人とも純粋な日本人のはずなのに王子が金髪でヒロインがピンクの長髪というのはどこかおかしい。

 しかし、「染めてるんじゃない?」という疑問の声を押しつぶせるだけの校内権力があったのだ。


 だが婚約を破棄された私の実家からの抗議――別れるのに異存があるのではなく、その破棄の仕方が衆人環視の中で王子が一方的に私を非難し、婚約解消と同時にヒロインと新たな婚約を宣言するという子供っぽいやり方についてのものだ――が彼の父上が会長を務めている企業の信頼度と株価をおおいに下げていた。

 また後継者と目され学園内でも王子ともてはやされている少年が、空気を読めずに社会では全く頼りにならなさそうだという噂が広まってしまったせいだろう。いつもは余裕たっぷりな彼の態度が荒々しい。 


 今だって一緒に下校しようとしていた仲の良い友達から私一人を無理矢理引きはがしての連行だ。心配そうに私を見送る彼女たちからの評価を想像する能力がないのだろうか? それとも自分の関心がある人間以外は虫か何かと思っているのだろうか?

 周りを一切無視して細い――鍛えても無茶な食べ方をしても太くならない体質らしい――私の手を鷲掴みにし、王子と新しい婚約者のヒロイン以外には私とその腹心の護衛しかいない裏庭へと強引に場を移す。

 これまで彼は大物ぶっていた上に猫を被っていたのかあからさまには乱暴なまねはしなかったが、だいぶ追い込まれている。

 制服のスカートを短くしてすらりとした足を惜しげもなく披露しているヒロインはどうやら私のボディガードに阻まれてこっちを様子見しているようだ。

 ここはかつて婚約者という間柄だった私たち二人の舞台らしい。


「で、こんな人気のないところまで私を連れてきて王子様……ぷっ、失礼。一体どうするおつもりですか?」

「ふざけるな!」

「私はふざけてなどおりませんが?」


 冷たいと言われる顔に最大限優雅に見えるよう意識した角度で微笑みを浮かべ、わざとらしいぐらいに嘲りを込めて問いただす。しかも相手が好んでいないこの学園で付けられた王子様という恥ずかしい彼のあだ名の後に含み笑いを乗せて、だ。

 彼にだけは「王子様(笑)」とカッコの中にある嘲笑がはっきり分かるように、しかも客観的には気のせいだと言い逃れられる挑発である。

 ちょうどいい機会だ、ここでこのへなちょこ王子様を潰しておいた方がいい。そう私は決断した。


 もともとこの王子との縁はそう深いものではない。

 私が転生したこの世界が現代学園を舞台とした乙女ゲームではないかと感じたのは、大学まで一貫教育の小学校の入学式でのことだった。ただまだその確証はどこにもなく、微かに学校名からこの世界を元にした乙女ゲームについて知っているような気がする程度だった。

 元々前世でもその手のゲームにはうとかったため、原作も話に聞いたぐらいの知識しかない。それで自分と周囲を観察して様々なシュチエーションからおそらくは間違いないだろうとは推察できたのだから上出来だろう。

 僅かながらに残る前世の記憶。王子様を始めとする断片的なキャラ設定。前世ではなかったはずの巨大な私立一貫教育学園、才能があるというだけではすまされない自分の家柄と能力の高さ。

 これだけ揃えば「主人公は私ね!」と錯覚しそうなものだが、なぜかヒロインでないことだけははっきり確信していた。ヒロインどころかむしろ敵役――ライバルの悪役令嬢ポジションであると。

 そのこと自体にはさして不満はない。なにしろ世界に愛されているはずのヒロインと互角に競えるだけのスペックを持っているということなのだから。 


 ちなみに王子との仲は物心がつく前に互いの親から勝手に婚約者と決められていただけだ。もちろん当時5歳だった私の意志確認などされていないため、その時から現在に至るまで彼個人に対しては一度たりとも好意を抱いた事はない。

 むしろ彼のことを「取り柄は顔だけの少年」と断じていたぐらいだ。

 元々気に入らない相手だったがわざわざこちらから手を出す理由はなかった。しかし今回ばかりは反抗してもいくらでも言い訳が効く。

 いくら王子と称されるほど影響力の強い巨大コンツェルンの御曹司とはいえ、うちの実家だってそう見劣りはしない。

 家柄ならばまだ三代目の彼の実家より遙かに古く、社交的な人脈ならこちらが上である。その令嬢である私の手を強引に引きずって人気のない場所へ連れてくるなどどいう無礼は許されない。

 たとえそれがついこの前まで婚約をしていた間柄であってもだ。

 なにしろ彼が強引かつ一方的に捨てたのはすでに有名な話で、その捨てた相手である私についてくるよう無理強いしたのだから非難する材料としては十分だろう。


 私が唇を綻ばせるとかつては――ヒロインと結ばれる一週間前までは――婚約者だったはずの私に対し彼は怒鳴り声と共に強引に私の襟首を掴む。むう、今朝うちのメイドさんが形良く整えてくれた制服のリボンがくしゃくしゃになってしまうじゃない。

 周りの令嬢たちから王子は美男子だと騒がれるが、彼の行動はその端々からどうみても叱られたことのない子供が大きくなっただけのわがままさが覗いている。


「なんだその人を馬鹿にした態度は! お前のその胡散臭い笑顔が前から気に入らなかったんだよ!」


 かんしゃくを起こした王子のどうしようもない意見に思わず嘆息する。私がこれまで磨いてきたものに対して結局彼は何一つ理解していなかったようだ。まあ外見だけでしか判断できないレベルの男だからしかたないか。

 ため息をつくと意識を深窓の令嬢モードから身を守るため武術家としてのものへと切り替える。

 あらあら王子様、襟首をさらに引っ張って吊り上げようとするなんて乱暴をしては駄目じゃないですか。レディに対して無礼極まりないし――何より相手と至近距離まで接近しているにしては無警戒すぎます。

 私は「きゃっ」と小さく悲鳴を上げると、襟を引っ張る彼の力に従うようにして懐に入った。

 次の瞬間にはすでに、私の体は彼を倒す為の準備を終えていた。 


「フンハッ!」


 中国拳法で使われる裂帛の気合いと同時に、肘と手首を固めたボディフックをレバーの真上に叩き込む。王子の制服は有名デザイナーによる特注品だがさすがに防弾チョッキのような防御力はない。拳が彼の肋骨を軋ませ、肉体にめり込む感触が伝わった。

 寸勁やワンインチパンチと呼ばれる至近距離での拳打である。腕力を使うのではなく肘の角度を固定した拳を腰の回転と体重移動で相手の胴へと突き刺すイメージの一撃だ。


「パピーッ!」


 頼りになる父上に助けを求めたのか、愉快な叫びを上げて垂直に体が跳ねる元婚約者。そこをすかさず無防備になった彼の艶のある長髪を両手で抱えてロックし、完全に首をコントロールしてかの膝蹴りを鳩尾に突き上げて追い打ちしておく。

 鍛えられていない柔らかな腹筋を貫かれた彼は崩れ落ち、地面の上で痙攣するように手足をひくつかせている。

 完全に無力化するならここでさらに股間か顔面に一撃を加えるべきだが、そのどちらを潰してしまってもさすがに大問題になる。悔しいがセクハラと暴行の制裁としてはこのへんが限度だろう。


 それに私がダメージを与えたのはボディだけである。頭部に打撃を受けるのと違って打たれた痛みで失神はできない。彼は打たれたボディから伝わる激痛に加えてぱくぱく開閉している口での呼吸も困難という地獄の苦しみを現在進行形で受けているはずだ。おそらく王子は失神した方がマシだと思っているに違いない。

 よし、とりあえずこれで面倒な彼の戦闘能力はゼロになった。

 長年ストレスの元となっていた元婚約者を倒すことができてふいに肩の荷が下りたように軽くなった。どうやら思っていた以上に気になっていたらしいが、直接制裁を下せたのだからこれでもう遺恨はない。

 後は私のボディガードがこの短い乱闘の間巻き込まないよう抑えてくれているヒロインに、これ以上私に迷惑をかけないように因果を含めればそれでいいだろう。

 手出ししてこなければこっちからちょっかいをかける理由もないのだから。


 犠牲は王子一人だけで平和的な解決ができたと楽観して私が振り向く。しかしそこには予想外の光景が現れていた。

 いつも付き従っているボディガードが顔を地につけた土下座をするような格好で意識を失って倒れているのだ。幼児の短い期間とはいえ仮にも私が武術を師事した事のある側近が、である。

 もうとっくに私の方が彼より強くなっているがそれでも軽い驚きがある。

 ああ、なんで自分より弱い奴をボディガードしているのかって? ボクシングのチャンプだって護衛がいるだろう。単純な戦力としての警護だけではなく敵対者へ「警戒は怠っていないぞ」という警告と抑止力の意味合いもあるのだ。

 だからこそ、ボディガードにはそこそこの腕利きを連れてたんだけど――


「へえ、やるじゃないの」

「今時のヒロインは戦闘ぐらいOKじゃなきゃ主役になれないのよ」


 お世辞抜きの私からの賛辞に素っ気なく答えてピンクの長い髪なびかせるを自称ヒロイン、その容姿と上流階級には反抗的な態度から人呼んで我が校の「ピンクのジャンヌ・ダルク」だ。

 軽やかな足取りとしなやかな身のこなしからなかなかの運動神経をしているだろうと推測していたが、ふわふわしたいかにも女の子らしい印象の彼女がまさかこれほどの功夫(クンフー)を積んでいるとは想像もしていなかった。

 どうやら私の目も元婚約者に劣らず節穴だったらしい。

 私のボディガードをダメージを負うどころか呼吸も乱さずに倒すなどただ者ではない。

 

「あなたみたいな性悪の悪役女が、この学園で私のライバルになるのはそれこそ生まれる前から知っていたわ。だったら暴力に対抗するための備えは必要じゃない」

「いい覚悟ね。それこそこの見かけ倒し王子とは格が違うわ」


 ヒロインのきっぱりとした口調に素直に賛辞が漏れる。暴力に対する備えがいるという意見にはまったく同感だ。

 だからこそ私もこんなに強くなったのだから。

 そして戦いでこんな風に先手を取る技術を磨いてきたのだ。

 会話の流れで自然な態度で地面に伏せている王子を足先でつつくと、そのまま水揚げされた冷凍マグロのようにぐったりしてていた彼の腹を足の甲に乗せて飛ばす。私が本気で蹴り飛ばすと内臓が破裂して命に関わりかねないので足で押して飛ばす感覚だ。

 同時に王子の体を盾として自らもダッシュしてヒロインとの距離を詰める。

 相手も驚いただろう、ほとんどノーモーションで体重六十キロを超える人間を蹴り飛ばせる私の脚力は明らかに人間離れしているからだ。

 だが彼女の反応も同様に超人的だった。

 私が蹴り飛ばした彼女にとっての白馬の王子様を避けるのではなく躊躇なく前へ出て迎撃し、真正面から完全に弾き返したのだ。


「こんなもので倒せるとでも!」

「プペ!」


 六十キロオーバーで加速付きの物体を真っ直ぐ跳ね返すのにどれだけパワーが必要とされるか。常人ならば鍛えた大人でもその衝撃を受け止めるので精一杯のはずだ。

 それを軽々と吹き飛ばす彼女もまた怪物である。

 王子の弾によって上半身は見えなかったが、両足の位置から判断するとおそらく彼女の掌底によってか。奇態な叫びと共に王子が私の顔面にトランポリンの壁にぶつかったように跳ね返ってくる。

 容赦なくその目障りでしかない障害物をアッパーで天へ跳ね上げ、「ポー!」と絶叫して空へ消えていく王子を盾にしてその後ろに隠れて接近しているはずのヒロインへ右ストレートを放つ。

 それが空を切った。


 かわされたのではない。王子の後ろの空間には何もなかったのだ。

 ぞくりとした戦慄が背を走り、敵の位置を確認する前にその寒気が身を反らせと警告する。

 その鼻先を相手の足がかすめるように上っていく。

 空気を切り裂く音が爪先の通り過ぎた後から聞こえてきそうな蹴りだ。

 勘任せで避けたために、バランスを崩して一歩下がると始めて相手が逆立ちの格好になっているのが見えた。

 てっきり彼女の足を美しく見せるために短く改造したとばかり思っていた制服のスカートは、どうやらキックを放ちやすくするための工夫だったようだ。その裾を乱しながら地面すれすれから突き上げる蹴りを放ってきたのだと判明する。

 

「この変速的な蹴り技――カポエイラ使いね!」

「へぇ、原作では何も自分ではできないお嬢様のはずがカポエイラなんてかなりマイナーな武術を知ってたんだ。あなたってやっぱり私と一緒の……」


 お互いに体勢を立て直すと、私の指摘に彼女は何か納得したように頷いた。「だからずいぶんストーリーが違ったのね」と小さく口から漏れる。

 彼女が何を言いかけたのか、何を知っているのか興味はない。今の私にとって興味があるのは彼女の強さにだけだ。

 カポエイラは格闘技としては日本ではあまり知られていないマイナーなものだ。確か南米で手錠をした奴隷が生み出さざるえなかったと言われる独特な足技が特徴だとしか私の知識の内にはない。

 だが彼女はその珍しい武術を完全にマスターしているようだった。だからこそ今みたいに当たれば顎の骨を砕きそうな威力を持った逆立ち蹴りができたのだろう。付け焼き刃で不安定な体勢からあれだけの蹴りを打つことなど不可能だ。


 名前と逆立ちしてからの蹴りが多いらしいぐらいしかカポエイラの技を知らない私としては打撃戦はやや不利である。変則的な蹴り技に対応ができない可能性があるからだ。

 ましてやパンチより威力が大きい蹴りならたった一発くらっただけでKOされる危険さえある。なるほどボディガードを瞬殺できるはずである。

 カポエイラが蹴り主体の間合いが広めの格闘技ならばガードを固めて一気に懐に踏み込むべきだ。

 ――打撃が駄目なら寝技で勝負!

 立ち技でも寝技でも隙がなくオールラウンドに戦えるのが私の強みだ。

 パンチを撃つフェイントからボクサーのストレートに劣らぬスピードで身体ごと潜り込む。練習通りに相手の豊かな胸に額をぶつけるようにして胴タックルが入った。


 よし、倒した!

 その確信が錯覚だと気が付くのに一秒もかからない。

 いつの間にか相手のふくよかな胸に当てていたはずの自分の頭の位置をずらされて、首に相手の腕が巻かれ脇の間にロックされていたからである。

 これはフロントチョーク、頸動脈を絞めて私を失神させるつもりだ。

 慌てて身をよじって体を離そうとしても、彼女の足はすでに私の胴に絡みついている。

 まさかここまで素早く技をかけられるとは。

 タックルに入ってから地面に倒れる一秒に満たない間に完全に首を極められかけている。

 このままではマズい――閃いた勝負勘に身をゆだね、狙われている首を守るのではなく相手の腹を攻撃する。

 次の刹那、いくつかの音が重なって響く。

 二人が絡まったまま地面に倒れた鈍い音。

 私の拳が奏でる彼女のボディへの打撃音。

 レバーを抉られた彼女の口からもれる苦鳴。

 首を絞められるだけではなく頸骨にまで捻りをいれられた私の悲鳴を噛み殺した声。

 一瞬の間に戦いのオーケストラが演奏されている。


 まず首の拘束を外すのが先決だ。このまま数秒もすれば失神してしまう。

 レバーブローと地面に落ちた衝撃にわずかに緩む彼女の腕に対し、激しく身をよじってフロントチョークからの脱出に成功する。

 意外と簡単に外せたと思った瞬間、天地がぐるりと逆転していつの間にか地面に仰向けになり相手に馬乗りされていた。

 この時点で確信した。今までのフロントチョークはマウントポジションを取るための罠であったと。


「あなた――カポエイラ使いじゃなくて、ブラジリアン柔術家ね!」

「ようやくあたしのことをわかってくれたみたいで嬉しいわ」


 勝利を確信したのか優雅に彼女は微笑む。

 見事に騙されてしまった。

 一度カポエイラ独特の蹴りを見ただけで、完全に彼女を打撃が得意なのだと思い込んでしまったのだ。――いや、思い込んだのではない。そう考えてタックルに行くように彼女に誘導されたのだ。

 間抜けにも相手の作戦にまんまとはまったおかげで、自分の腹の上に乗られるという総合格闘技では完全に不利な体勢になってしまった。

 唇を笑みの形に固定したまま彼女はゆっくり見せつけるように掲げたその繊手を振り下ろす。

 拳の正面で打つパンチのやり方ではなく鉄槌である。肩叩きする時に使われる小指の下側から手首までをハンマーを振り下ろすような殴り方だ。

 痛くなさそうだが、子供の軽い力でも大人の頑丈な肩に衝撃を与えられるぐらいダメージを与えるには適している叩き方である。

 おまけに殴る方としては意外に繊細な拳を怪我する心配もないために、何度でも気兼ねなく振りおろせるという無慈悲な攻撃だ。


 しかも今の私は地面に横になったままだ。殴られれば打撃を受けた顔面のみならず地面にぶつかる後頭部にまでダメージを負ってしまう。

 ボディであればまだ我慢ができるが、頭部は駄目だ。脳が揺れると戦闘不能になり後は一方的に殴られ続けるだけになってしまう。

 それが分かっていてなお一片の容赦も躊躇もなく笑顔で女性の顔面に振り下ろすヒロインは素敵である。相手へのダメージや後遺症など一切考慮しないその冷酷な性格が却ってこっちも反撃をやりやすくしてくれた。


 ここで守りに入っては全てが終わってしまう。

 私は自分の上に跨っている彼女の太腿をスカートの上から手打ちで殴り――それだけで馬乗りになった彼女の体ごと宙へ浮かせた。


「フンハッ!」

「なによこれ!?」

 

 空中を舞うヒロインも驚愕を隠せない。何しろワンパンチで細身とは言え人間を一人空中へ撃ち上げたのだから。それも自分は地面に横たわったままの手だけで殴るしかないという不自然な体勢からだ。

 こんな事はたとえベンチプレスで二百キロを上げる重量挙げの選手でも不可能だ。もし被我の体重差が百キロあっても無理である。

 常人ならばこれだけのパワーを生み出すとその負荷に耐えきれず、パンチが当たった瞬間に自らの腕の骨が砕けてしまうだろう。

 だが主人公補正、またはそれに準ずる補正をこの世界から受けた者ならば可能である。例えばそう―――ゲームや物語のヒロイン、またはそのライバルとかならば。

 いわゆる主人公補正を受けたその世界の中心人物だけに許された技だ。


 私は体を鍛え始めてから1年も経たない10歳の誕生日には握力計を握り潰し、当時のベンチプレスの日本記録を更新した。その時に周りが私に送っていた恐怖の視線を覚えている。

 そしてうすうすと察してはいたが厳密な意味で私は人間ではないと理解せざる得なかった。この世界は転生する以前に妹がやっていたゲームであり、私はヒロイン役と同じぐらいの才能と成長力を持ったライバル役のキャラクターなのだと。

 自分が人間ではないという自覚と頼るものは己の力のみという覚悟はより一層鍛錬に熱を入れることとなった。

 その結果私が手に入れたのはパワーだ。

 力だけならばおそらく世界一だ。それもぶっちぎりの。

 現在行っているウエイトトレーニングでは軽くトンを越えるバーベルを上げている。もちろん器具は特注で訓練は人目に付かないように用心しているが。


 その私の人間離れした力で殴っても壊れない彼女も頑丈だ。しかしそれだけのパワーをもってしても、あまりに体勢が悪いせいでさすがに空の彼方へ吹っ飛ぶまでにはいかない。ふわりと宙へ浮いただけだ。

 だがそれがかえってチャンスとなりヒロインに追撃をかけられる。相手は何しろ身動きがとれない空中にいるのだ、好きなだけ撃ち込める。


「ふひゅーうううう!」


 ほとんど笛のような呼気を漏らしつつ、以前の世界では夢物語だった空中コンボを叩き込む。

 仰向けになった体勢からパンチを打ちながら自分の身体を起こすが、その間もラッシュは一瞬たりとも休まない。

 彼女も危険を感じたのだろう、こちらが攻撃態勢をとる寸前に不自由な空中にいながら頭を両腕で防御して必死に丸くなる。


 四十二発。

 それが彼女が地面に落ちるまでに叩き込んだ私の攻撃の数だった。

 無呼吸どころか、息吹を吐きながらの連打をここまで撃てる肺活量を持った人間はそうはいない。

 この世界の主役級のみに許された人間を越えた技だ。

 丸くなった彼女のガードしている腕だとか急所だとか的は関係なく、自分の持ちうる最速の拳と蹴りをその体めがけて命中させた。

 

 連打を終えて一歩下がると、その眼前に黒く焦げた物体が鈍い音を立てて落下した。ヒロインが身にまとっていた制服が私の打撃によるダメージと空気摩擦でほぼ炭に変わっていたのだ。

 身じろぎをせず、ファイティングポーズを崩さない私の前で丸くなった炭はピクリともしない。

 そのまま数秒が過ぎ、ようやく構えを解こうとする。

 同時に炭の塊から弾丸のように襲いかかる肌色の身体が。

 

「かかったわね!」

「あなたがね」

 

 喜んでいる所に水を注して悪いが、性格の悪い私が相手の無力化を確認もしてないのに戦闘中に油断するはずもない。最後に残していたひと呼吸分で拳を突き出す。 


「フン!」


 王子を倒した時と同じ、しかし十倍以上の力を込めた一撃だ。その鋭い拳はカウンターとなり炭の固まりの突進した先――おそらくは頭部にヒットした。

 ごろりと力なく崩れ落ちる黒い炭の人影。私はその頭部(らしき部分、だって炭になっててよく分かんないし)に特注で動きやすいのにヒールが高く見える学校指定風の靴を乗せてぐりぐり踏みにじりながら高笑いする。


「おーほほほ!」


 敵をねじ伏せて声高に笑う。これが戦いに勝利したレディの義務であり権利だ。

 その声で気がついたのか放置されていた王子がやや離れた地面から身を起こす。

 私と彼女の間で激しく揺れ動いていた王子は状況が理解できないのかしばらくきょろきょろしていたが、ふいに弾かれたように私が足蹴にしている炭の塊に駆け寄ってきた。


「ジャンヌ・ダルクー!」


 悲劇的に呼びかけるけれど、もしかして王子は彼女のことをジャンヌ・ダルクって呼んでいるのかしら? 王子も彼女の本名を覚えてないとか?

 恋人に呼びかけるその叫びに応えたのは私の靴の下にある炭の中から覗く白い腕だった。黒こげから矢のように飛び出したかと思うと、そのまま口を開けている王子の横っ面に拳がめり込んだのだ。


「手応えあり!」

「パピプペポーー!」


 これまでの悲鳴をまとめたような叫びを上げて吹き飛んでいく王子。しかし、よく殴り飛ばされる人物である。

 殴った炭の塊――ヒロインもどうやら今の一撃が最後の力だったのか、それ以上動くことはない。だがその黒くなり繭のようになった塊から眼光だけが鋭く私を睨んでいた。まさかあれだけの攻撃を受けて意識を失っていないとは。


「い、今の手応えはバカ王子だったの? くっ流石はライバルね。ここまでやるなんて一筋縄ではいかないわ」

「あら、私こそヒロインの打たれ強さに驚いているところよ」


 ほほほと炭の塊から抜け出した半裸のヒロインと淑女らしく笑い合う。相当なダメージを与えたはずなのに、生まれたての小鹿並みの足取りとはいえもう立ち上がるのだから凄まじいタフネスだ。

 ――うん、どうやら普通の乙女ゲームとはだいぶ違うがヒロインから強敵として認定されたのは間違いないようだ。 

 拳を交えて生まれるライバル物語ってのは王道だ。

 なかなかやるようね。

 お互いの力量を認め合った私たちは、どちらからともなく手を差し出して固く手を握りしめた。

 リンゴどころか岩を砕く握力を誇る私が全力を出して彼女の手を握り締めている。その私と同等のパワーを込めているヒロインと握手していると、握り合う掌に力が集中しすぎて重力場でも発生したのか周りの景色が歪んでいくようだ。


「本当にやるわね」

「あなたこそ……」 



 ここから私とヒロインの彼女とは長い戦いが始まり、また王子が次第に殴られて恍惚とする性癖を自ら発見して苦悩することになるのだが――それはまた別の話である。

 



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