孫権に説教しつづけた頑固おやじ、張昭は「嫌われ役」に徹したのか?
三国志ファンの間で、張昭(ちょうしょう/156~236)の人気は決して高くない。その理由のひとつに、彼が小説『三国志演義』で「戦争ぎらいの保守派」として描かれているからだろう。よく知られるのが「赤壁の戦い」で主君の孫権に降伏をすすめ、主戦派の魯粛や周瑜と対立する役回りである。 戦場での大きな活躍もなく、クチうるさいだけの文官。人気が出ないのも仕方ない。しかし歴史書『三国志』から読み取る限り、張昭の存在は呉にとって非常に大きかった。 張昭は、呉が本拠を置いた揚州(中国東南部)の生まれではなく、その北側、徐州の生まれ。西暦190年代の初め、張昭は徐州の統治者・陶謙(とうけん)にスカウトされた。「あなたほどの人物を埋もれさせておくには惜しい」とまでいわれた張昭、なんとこれを断わった。 メンツをつぶされた陶謙は怒り、張昭を捕らえて牢獄へ。それでも張昭は意思を曲げない。同郷の趙昱(ちょういく)のとりなしで、張昭は獄を出られた。その後、徐州に曹操が侵攻して多くの人々が殺された。混乱のなか、恩人の趙昱も命を落とし、張昭は南へ逃れる。 そこへスカウトにやってきたのが、揚州の新興勢力・孫策(そんさく)だった。40歳を目前に控えた名士・張昭に対し、20歳そこそこの孫策が礼を尽くした。「三顧の礼」とは逆パターンである。張昭は面白いと思ったのか、これに応じた。 重大な決意をさせた、孫策の遺言とは? 孫策はわずか数年で、揚州を中心とした江東(こうとう)一帯を平定する。その政権の中心にいたのが、誰あろう張昭だった。とくに孫策の遠征中、常に彼が留守をあずかったというから、曹操と荀彧(じゅんいく)、劉備と諸葛亮の関係にも似ている。 各地の有力者からは、張昭が揚州に移ったあとも手紙がきたといい、名声の高さをうかがわせる。だが孫策は「あなたの私の関係は、桓公(かんこう)と管仲(かんちゅう)の間柄と同じです」と春秋時代の名宰相にもたとえて喜んでいた。このあたり、孫策が怪しんで処刑した于吉(うきつ)とはまったく違った。 急激に勢力を拡大する孫策には敵対するものも多かった。そのために張紘(ちょうこう)、陸績(りくせき)、秦松(しんしょう)といった名族出身者を重用。孫策は地方における孫家の正統性を少しでも高めようとしていた。その中心にいたのが親友の周瑜であり、ご意見番の張昭だったのだろう。 しかし、これほど良好な関係にあった君臣は突然の別れを迎える。西暦200年、孫策の死。臨終の場で孫策は「わが弟(孫権)をよろしく頼む」と張昭にいう。『呉歴』という書に「もし孫権に才能がない場合、あなた自身が政権をとってほしい」という孫策の言葉がある。孫策をみとった張昭は、世継ぎの孫権の手をとって諸人の前に立たせた。むろん、自分はサポート役に徹するという意思表示である。 このくだり、やはり劉備と諸葛亮の君臣像と非常に似ている。当時、こうした姿が君臣の模範とされたのだろう。ともかくも張昭は息子(張承)より4つも若い、19歳の孫権に厳しく接した。孫権の父・孫堅とほぼ同世代の張昭は、いつも口を酸っぱくして色々と諫めた。 孫権は狩りに出ると、みずから野原を駆け回って虎を射るなどの行為を好むなど、父や兄と同様に無鉄砲なところがあった。さらには極度の酒好きで、宴ではアルハラ・パワハラで家臣をよく酔いつぶした。張昭は「酒池肉林」の享楽にふけった殷の紂王(いんのちゅうおう)の故事を持ち出して諫めた。 気ままな孫権は張昭の小言にうんざり。人々がすすめても、張昭を丞相(じょうしょう)には就かせず冷遇した。 「赤壁の戦い」で降伏を勧め・・・ 君臣の対立は冒頭に記した「赤壁の戦い」でも露呈する。西暦208年、80万と号される曹操の大軍が江東へ迫ると、魯粛や周瑜は主戦論を唱え、張昭は降伏論を展開して真っ向から対立した。 張昭の降伏論にも多くの群臣が賛意を述べる。もし孫権がこれに従っていれば、中国大陸は曹操が擁する「漢」の旗のもとに統一された可能性もあったかもしれない。だが、孫権は「開戦」の決断を下した。 それから20年ほどのち、孫権は呉の皇帝を称してこう言った。「わしが今あるのは、周瑜のおかげだ。もし張昭の言葉に従っていたら、今ごろは人々から食べ物を恵んでもらっていただろう」と公言したという。張昭は言い返せず恥じ入ったと『江表伝』にあるが、彼の信念はそんなことでは揺るがなかった。 主君とのケンカは火事未遂に発展 孫権は遼東半島の公孫淵(こうそんえん)から投降の申し出を受けた。反対する張昭を突っぱね、返礼の使者を送った。だが張昭の見立てどおり、公孫淵は約束を反故にして孫権の使者を殺してしまう。 孫権は謝罪しようと張昭の屋敷を訪ねたが、機嫌を損ねて出てこない。孫権は怒って屋敷の門を土で固め、外へ出られなくした。張昭も意地になって内側から土を盛って門を封印する。我慢ならず家に火を放った孫権。「さすがに出てくるだろう」と待つが、このままでは家が燃えてしまう。根負けした孫権は兵に消火させた。 やっと門が開き、息子たちが張昭を抱えて出てきた。孫権は50歳過ぎ、張昭は80歳近かったが、まるで子供のケンカである。孫権が非を認めて謝罪し、ようやく張昭は機嫌を直したという。それから2~3年経った236年、張昭は81歳で天寿を全うした。当時としては長寿といえよう。 張昭がいなくなった呉の宮中は、それから衰退の道をたどる。孫権が重く用いた呂壱(りょいつ)は奸臣で、権力を盾に私腹を肥やし、また私怨から多くの重臣を罪に陥れた。 そして、孫権の世継ぎであった孫登(そんとう)が急死すると、それをきっかけに国内を二分するお家騒動「二宮(にきゅう)事件」が起きる。陸遜や張休(張昭の子)など多くの人材が内紛で失われた。それでも呉は280年に滅びるまで4代、二宮事件から30年ほども続いたのだからよく保ったほうだろう。 張昭がもう少し健在であれば、呉の内紛でどうふるまったのか。つい考えてみたくなる。彼のような「嫌われ役」を買って出る直言居士の存在は、組織をある程度は安定させるのかもしれない。ただ、「ご意見番」で終わった印象もぬぐえないのが、彼の評価を難しくしている。
上永哲矢