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もしかしたらキャッチャーだった? 豪腕・五十嵐亮太が引退

楊順行スポーツライター
2010年から3シーズンは、メジャーに在籍した(写真:ロイター/アフロ)

 もう20年近く前、ヤクルトでプレーしていた五十嵐亮太に、プロ入りまでの話を聞いたことがある。前年、150キロ超のストレートとフォークを武器に、中継ぎだけで11勝を挙げ、ファンから「亮太が投げれば勝つ」といわれたころ。話を聞くと、ちょっとした運命のひとひねりがなければ、のちに当時日本最速の158キロを投げる豪腕は誕生していなかったのかもしれない。

「生まれは札幌。野球もやったけど、もちろんスキーもやっていました。4年生のときに千葉に引っ越して、そこからはずっと野球。ラッキーなことに町内に少年野球チームがあったんで、そこに入れてもらって。転校生がとけ込むには、手っ取り早い方法ですよね。

 中学では、千葉北シニアでプレーしました。県大会に出るくらいの、そこそこ強いチームだったんですが、ポジションはファースト。打てない、走れない、守れない……まるでヘボだったんです。この間シニアの仲間とメシを食う機会があって、そいつらがいうには"亮太、全然ダメだったよな。それがなんでプロに……"って話になったくらいですから。小学校時代はピッチャーだったけど、中学の3年間は、まともにピッチングはしていません。(千葉敬愛)高校に進んだときも、シニア時代の監督は“五十嵐はキャッチャーに”というつもりだったようです。確かに肩は強かったけど、それを聞いて“よけいなこといわないで”と思ったのを覚えています」

亮太がなんでプロに……?

 つまりまかり間違えば五十嵐は、高校以降はマスクをかぶっていたかもしれないのだ。ただ運がよかったのは、高校の古橋富洋監督が、現役時代にピッチャーだったこと。五十嵐の肩の強さと体のバネを見抜いた古橋監督は、高校進学後の五十嵐をピッチャーに抜擢するのである。これが運命のひとひねり。

「古橋監督には感謝しています。もちろん、ピッチャーになっても最初からうまくいくわけはなくて、まるでストライクが入りませんでした。いまでも、初めて投げた試合をよく覚えているんです。入学早々、1年の4月、負けている試合のツーアウト二、三塁だったかな、ピンチにリリーフで使ってくれたんですが、投球練習が全部ボール(笑)。そりゃそうです、ピッチャーとしての練習はほとんどしていないんですから、ただでさえストライクが入らない。だけど、実際にプレーがかかると、不思議に1球目がストライク。2球目でサードゴロを打たせて、なんとか試合を壊さずにすみました。あれがピッチャーとしてのスタートでしたね。

 そんなんでしたから、高校時代はとにかくピッチャーとしての体づくりばっかりです。ウェイトの器具がなかったので、とにかくよく走りました。走れば下半身が安定し、フォームが固まり、制球がよくなり、タマが速くなり、スタミナもつくはず……ひたすら、走りました。もちろん単調で、つらいんですけど、こんなにつらいことをやっているんだから、絶対にいいことがあるはずと思ってました。なにより、ピッチャーというポジションが楽しかったんです」

 本格的な投手転向から間がないため、ストレートとカーブしか投げられなかったが、高校2年の夏にはすでに球速が140キロ近くまで伸びた。千葉に五十嵐あり。甲子園出場こそなかったが、早くも各球団のスカウトの目に止まるようになる。そして1997年のドラフトでヤクルトに2位指名され、入団。1年目には先発として19年ぶりのイースタンリーグ優勝に貢献すると、2年目には早くも頭角を現して6勝4敗1セーブ。そして3年目の2000年シーズンは、中継ぎの切り札に。それが、本格的にピッチャーを始めてからわずか6年目というからオドロキだ。以来、現役生活は通算で20年を超えた。お疲れさまでした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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