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織田信長は無言で足軽の首を刎ねた。あまりに恐ろしかった信長の残酷な逸話3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 権力者というのは、ときに残虐な所業を平気で行うものである。織田信長にはそうした逸話が数多く残っているが、その中から3つを選んで紹介することにしよう。

◎足軽の首を無言で刎ねる

 永禄12年(1569)2月、信長は将軍足利義昭の邸宅を造営した。その際、信長は自ら陣頭指揮を執り、現場に赴いて作業員を叱咤したという。信長の姿を見た作業員は、皆恐れおののいたといわれている。

 ある日、1人の足軽が現場を通りかかった女性の顔を覗き込んだ。すると、信長はその足軽のもとへ歩み寄ると、無言のまま太刀を引き抜いて、その足軽の首をいきなり刎ねたという。

 信長が足軽を殺した理由については、判然としないところがある。単なる注意ではなく、足軽の首を斬ったのだから、ほかの作業員に対する見せしめということもあろう。

◎茶坊主と侍女を処刑する

 天正6年(1578)9月、信長は堺(大阪府堺市)で船を見学すると、翌月に京都の屋敷に帰った。帰洛した信長は、家臣から留守中の報告を聞いた。留守中の報告を聞くのは、いつものことだった。

 家臣の報告によると、茶坊主の住阿弥がと侍女の「さい」との間で、良くないことがあったらしい。その具体的な行為は、わかっていない。翌日、信長は配下の者に命じて、2人を斬ったというのである。

 信長は無断で遊びに出掛けた女房を成敗したこともあったが、自分の留守の間に配下の者が勝手な振る舞いをすることが許せなかったらしい。茶坊主と侍女の件も、許し難い行為があったのだろう。

◎不正を行った町人を成敗する

 あるとき、摂津山崎の町人が訴訟に不満を抱き、自分の都合のいいように文書を改竄し、信長に直訴することがあった。この訴訟は、すでに村井貞勝と明智光秀が裁決を下したものだった。

 信長が貞勝に事情を尋ねると、詳しい説明があった。貞勝の説明を聞いた信長は、町人が文書を改竄したことを知って激怒し、この町人をただちに成敗した。信長は不正を許せない性格だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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