誹謗中傷や差別的発言は当事者を深く傷つけるので、誰からみても受け容れられるものではないのですが.....。


実は感動的な話も知らないうちに誰かを傷つけていることがあります。


例えば「子どもは肉体をもつ魂の段階で親を選んで生まれてくる」というスピリチュアル的で感動的な話があります。私も嫌いではありませんし、感動もします。


ただ、私は子どもを産めなかったので、そういう話を聞くと「虐待するようなひとでも選んでもらえるのに、自分は誰にも選んでもらえなかったのか」という妬みの感情も少し出て来ます。


同じように、虐待されて育ったひとも「選んだ覚えはない」と反論したくなるのではないかと思います。


昔の政治家の「子どもを産めない女性は何の価値もない」などという発言は無教養で馬鹿なひとの戯言として無視できます。反論もできますし、その発言自体を不適切な発言として撤回させることも可能です。


ただ、「感動」というオブラートに包まれたストーリーには反論も出来ませんし、反論していたら誰も何も話せなくなってしまいます。「感動」 に水を差すのもひととしてどうかな、という気もします。


私たちは、気づかないうち誰でも他者を傷つけている可能性があります。気にしすぎていたら何も発言できなくなってしまいますが、それでも、自分の発言が気づかないうちに誰かを傷つけているかもしれない、という自覚を常に持つのは大事な事とかもしれないと思います。


時折、救急車が違法 駐車の車のために迂回しているのを見ることがあります。もし心臓発作などで1分1秒を争う状態なら命に関わります。


違法駐車をしたひとは、他人の命に関わるようなことはしていないという意識でしょうけれど、もしかしたら気づかないうちに誰かの命を奪い、その家族や周囲のひとを深く傷つけているかもしれません。


私たちの言動や行動は、多かれ少なかれ必ず誰かの人生に影響を与えています。気にしすぎていたら、何も発言できないし何も行動できなくなってしまいます。ブログなどはそれこそ一行も書けなくなくなってしまいます。


ただ、自分の人生は自分の意思とは関係なく確実に誰かの人生に影響を与えていると時々思い出すことは自分にとっても他者にとっても決して無駄な事では無いと思います。

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