まだ死別の苦しみを知らなかった頃、「千の風になって」が流行って、CDを買って泣きながら聴いていました。当時、東京に住んでいて、感動してわざわざ中国に赴任していた友人に海外小包でCDを送ったほどです。


ところが、実際に死別をするとこの曲が聴けなくて、聴いても感動もできなくて、自分でもどうしたんだろうと不思議になるくらいでした。


今はその理由がなんとなくわかります。


最愛のひととの死別前は、死別を無意識に「美しいもの」と私は考えていたのだと思います。ところが、実際に最愛のひととの死別を経験するとその極限的な苦痛で、千の風になったとも、光になったとも、雪になったとも思えなかったからですね。



「最愛のひとを喪ったら」と誰でも一度は想像すると思います。想像してその気持ちがわかったような気にもなり、この曲を初めて聴いたときの私のように涙がでるひともいると思います。


でも実際に経験すると、そのショックやつらさ、悲しみは言葉では言い表せません。


肉体を失った意識はどこに在るのだろうと考えることはあります。ただ、千の風になったり、光になったり、雪になったりはしていない、と感覚的に思います。


ただ、千の風にはならなくても、さりげなく頬を撫でる風に大切なひとの意識は宿っているかもしれませんし、みなさんの手のひらに偶然落ちた雪の結晶には大切なひとの意識が宿っているかもしれません。


死後の意識は、感覚的に「今そばにいる」とふと思ったときに本当にそばにいるのではないかと、今は思っています。





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